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あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ のし

野口英世の母シカの手紙を読んでみたら・・・【感動した話】

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磐梯山猪苗代湖の秋


千円札になった偉人「野口英世」は、勿論知っていた。でも、その母親「野口シカ」は、まったく知らなかった。その手紙には感動で、涙が止まらなかった。

野口シカ(1853~1918年)の人生とは…まさに会津の女。

 

野口英世(清作)が一歳半の時、囲炉裏に落ちて大火傷を負ったことを、シカは生涯に渡って悔い続けていた。

 

故に英世の出世を、誰よりも喜んだらしい。

 

シカは云う「息子がどんな勲章を貰ったとしても、自分にはそれがどのような立派なものかはわからないが、息子が向こうで元気でやっているのなら、それで良い」と、息子の出世自慢はしなかったらしい。

 

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猪苗代湖の白鳥


シカさん、四十五歳の頃。

農作業の傍ら副業として、産婆を営むようになった。だが産婆の開業について政府による、新免許制度が創設された。これにより全ての産婆に、免許取得が必要となってしまった。

 

然しながら、シカは満足に文字の読み書きができなかったのだ…。

 

話は子供時代に遡る。

 

江戸幕末期(シカの幼少期)では、学校制度がまだ確立していなかった。また、祖父と両親が相次いで家を出ている。そして身体を壊した祖母がいた。そこで必死に実家を支えんとし、シカは子守などの丁稚奉公に従事をしていたのだ。


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[野口シカ(母)より野口英世(子)宛の手紙、1912年1月23日付]

 

よって教育を受けるチャンス(機会)が、シカには全く無かったのだ。

その後、近所の寺の住職に頼み込んで、いちから読み書きを教えてもらった。あの囲炉裏の炭を指先につけ、必死に文字を練習したともいう。

やがて苦労の末に国家試験に合格。正式な産婆の免許を取得し、生涯にわたって合計二千人近くの子供を、とりあげたらしい。

そのためシカは、近隣の人々から非常に感謝され慕われた。

ようやく息子清作と再会を果たした三年後、スペイン風邪のためシカが死去(1918年)した際には、村始まって以来の盛大な葬儀がとり行われた、と伝わっている。

 
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[前半部分拡大]○は句読点、ひらがなカタカナ、漢字もある。はやくきてくたされと連続するところ、文字が乱れ感情が爆発している。

 

この手紙に感動する。文字に、文章に、朴訥な人柄に、子を想う母の心に、涙。


以下抜き書きを併せて、読んで頂きたい。



手紙原文/

おまイの ○ しせにわ ○ みなたまけました ○ わたく

しもよろこんでをりまする ○ なかた

のかんのんさまに ○ さまにねん ○ よこもりを ○ い

たしました ○ べん京なぼでも ○ きりかない

○ いぼし ○ ほわこまりをりますか ○ おまい

か ○ きたならば ○ もしわけかてきま

しよ ○ はるになるト ○ みなほかいドに

○ いてしまいます ○ わたしも ○ こころ

ぼそくありまする ○ ドかはやく

きてくだされ ○ かねを ○ もろた ○ こトた

れにもきかせません ○ それをきかせるト

みなのまれて ○ しまいます ○ はやくき

てくたされ ○ はやくきてくたされ

はやくきくたされ ○ はやくきて

くたされ ○

いしよのたのみて ○ ありまする

にしさむいてわ ○ おかみひかしさむ

いてわおかみ ○ しております ○ き

たさむいてわおかみおります ○

みなみたむいてわおかんておりま

する ○ ついたちにわしをたちをし

ております ○ ゐ少さまに ○ついた

ちにわおかんてもろております

る○なにおわすれても ○ これわす

れません ○ さしんおみるト ○ いただいております

る ○ はやくきてくたされ ○ いつくるトおせて

くたされ ○ これのへんちちまちてをり

まする ○ ねてもねむられません


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母シカと野口英世


現代文訳/お前の出世には、皆たまげました。わたくしも喜んでをりまする。中田の観音様に、毎年、夜籠りをいたしました。勉強なんぼでも切りがない。烏帽子(烏帽子村から金の催促)には困りをりますが、お前が来たならば、申し訳ができましょう。春になると、みな北海道に行つてしまひます。わたしも、心細くありまする。どうか早く来てくだされ。金を貰うたこと、誰にも聞かせません。それを聞かせると、みな飲まれてしまひます。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。一生の頼みでありまする。西さ向いては拝み、東さ向いては拝みしてをります。北さ向いては拝みをります。南さ向いては拝んでをりまする。一日には、 塩断ちをしてをります。栄昌様(天台宗の修験者)に一日には拝んでもろてをりまする。なにを忘れても、これ忘れません。写真を見ると、戴いてをりまする。早く来てくだされ。いつ来ると教へてくだされ。これの返事待ちてをりまする。寝ても眠られません。

引用元/野口英世資料館 参考/ウキペディア

さあ、田舎に帰ろう。


参考資料/「この愛届きますか」歌 和田アキ子

YouTube

つボイノリオ曲は聞けば聞くほど艶が出る?!空前絶後の→【閲覧注目】

四月一日である。エイプリルフールでもある。

ほんじゃらココらでホラ話でも一発カマすかな?!
う~ん、洞(洞窟)ばなし、ホラー(心霊)話とか…気乗りしないなぁ。
まぁ、春の夜話を書くことにする。

 

すこし前、古くからの知人Kと、車の中でゴニョニョ話をしていた。

最初は会社運営とか登記の話とか、オッサンならではの眠ィことtalking Aboutしていたのだったが。

そんなカタい話はすぐ終わる。終わらせる。その後は会社関係の女の話、からの~エロばなへ。何故かコレが鉄板。でも、ここでは書けないような話が続き、突然「金太の大冒険」の歌詞はイケてるかぁ?となったのだった。何故そうなる?「知らんがな」不思議だよな、昭和生まれてね。ホント。

…てな訳で、昭和元禄を代表する“つボイノリオ曲”を再評価し、皆さんにサクッとご紹介するコトにします。

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昭和元禄バブリーイメージ

今から三、四十年以上前。昭和時代にはTV放送局が、ユルユルだった時もあったのである。バラエティ番組でこの曲が流され、女子大生がゲラゲラ笑っていたのである。ホントだよ。

だがしかし、金太が“何故かマカオに行く”だけの歌詞である。NGワードをいかに上手くブッコムか…あ、いまの若者は知らないか。例えば嘉門達夫みたいな…カモーン達夫を知らないか?じゃ、初期の所ジョージみたいな…ヤッパ知らない?!

いまでも中部地方では有名人であり、知っているヒトにはウケるが、知らないヒトは眉をひそめると言う存在のつボイ先生。まぁそれなりに実力派のフォークシンガーだったのです。

それぞれの曲には時代背景が存在する、らしい

じゃ、論より映像、YouTubeで見つけたので見てください。業界人(主に芸能界)にファンが多いという名曲です。何と、発表わずか二十日で放禁!二十世紀を代表する問題作! 「金太の大冒険(1975)」です。

YouTube

ネタ的には“金太○”の連呼でしかない。この味わい深いシュールさが果たしてイマドキの若者達のハートを、ジャストミートするのでアルカぽね?!

いやいや、それは無理で御座ろうよ。いまやDKがスマフォでエロサイトBANBAN!する時代だしね。正統派下ネタソングの深さが、ヒダが、カンタン理解出来るとは思えないな。

そうだっ、つボイ先生は歴史ネタが得意だった。次は「極付け!お万の方(1976)」です。コチラは何と、六日で放禁!

注/亀頭古墳はどうやらキトラ古墳の間違いのようです-w

YouTube 

最後の「おま~ん」の絶叫が心に染みる。ウエッティな名曲である。

リアル“お萬の方”情報をお届けします 

なんだ「春になって頭湧いてんのか?」思われるのも癪なので、すこし歴史ネタをはさみます。歴史上本当にいたおマンの方とは…

 

お萬の方とは…

父は勝浦城正木氏。当初は北条氏の人質であったが、御家の事情で上総に戻ることになる。成長した萬は慶長元年頃、徳川家康に見初められ側室となる。大柄で芯が強い田舎娘?が家康のタイプだったらしい。お萬は慶長七年、徳川頼宣、さらに翌年徳川頼房を生んだ。歴史的重要人物の産みの母である。

 

お萬の方、武勇伝!

お萬は日蓮宗を信仰しており、一方家康は浄土宗であった。

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鳴かぬなら泣くまで待てない徳川家康

宗論(難癖?)対決があった。家康は日蓮宗の日遠を家臣に襲わせ浄土宗を勝利させる。この家康のチートに怒った日遠は、家康が禁止した宗論を上申。コレに激オコの家康、日遠を磔獄門にしかけた。お萬は家康に猛然と「師の日遠様が死ぬ時は萬も死ぬ!」と言い放つ。これには家康もビックリ驚いて、日遠をすぐ放免した。無敵モードの家康を凹ましたのである。

 

お萬の方の墓所など

このお萬の武勇伝は当時の大ゴシップだった。

時の天皇も話に感激し自筆「南無妙法蓮華経」の七文字を下賜された。その墓所は承応三年に徳川頼宣が建立、戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。なので歴史上は、養珠院(ようじゅいん)と呼ばれる場合が多い。

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海禅院多宝塔

平成十六年(2004年)和歌山の和歌浦にある、海禅院の多宝塔(供養塔)の石室から十五まんこの経石とお萬の遺髪が発見されました。

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海禅院の案内板

では最後に、大感動必至「吉田松陰物語(1976)」あの松蔭先生をリスペクト!した楽曲です。つボイ先生も艶のいい声ですね。この作品は幕末の歴史も学習できるスグレモノ。高校生の歴史教材に活用して頂きたいものですね。

YouTube

2016年につボイノリオ先生は「平成28年度愛知県芸術文化選奨」を受賞。愛知県が芸術文化の各分野において、その向上発展に貢献し業績が顕著な個人・団体に贈られている。マジか…4月18日に69歳の誕生日でした。オメデトウゴザリマスル!!

参考/ラジオ番組『つボイノリオの聞けば聞くほど』

和歌山城の見どころと、楽しみ方をジモティがご紹介します。【お花見名所】

白亜三層の大天守がそびえる。連立式天守閣という珍しいナワバリ。

徳川御三家のひとつとして、紀州徳川家は55万5千石を領した。
和歌山城は市街中心部に位置する、標高約50mの虎伏山に建造された。
その天守閣からは展望よく、和歌山市街を360度ぐるりと見渡すことができます。

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堀端から天守閣を望む

お城見学のその前に知っておきたいこと。

交通機関と駐車場について

和歌山城の最寄り駅はJR和歌山駅か、南海和歌山市駅になります。南海市駅からは歩いて10分ほど、JR和歌山駅からはもう少し離れているので駅前のバス利用をオススメします。車利用の場合、お城の南側三年坂から入れる城内駐車場があります。ココが便利ですよ。

 

事前見学の場所として

大型バス駐車場(市役所前)となりに2015年9月オープンした「わかやま歴史館」があります。ココは和歌山城見学のプレ学習に最適。二階に上がると和歌山城の歴史と和歌山出身の著名人についての展示があります。“VRシアタールーム”と“紀州徳川家の金印”がみどころです。

料金 大人100円、小中学生は無料。

時間:9時から17時半まで

📞073-435-1044

また同じ館内で観光案内所と観光土産品センターが一階にあり、お土産ものや軽食などを販売しています。

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わかやま歴史館
おもてなし忍者が(どっかに)いる!

忍者コスプレのボランティアが、登城の手助けをしてくれます。これは「障害者の方にも天守閣に登ってもらいたい!」てことで始まったらしいですね。忍者を見かけたのは「わかやま歴史館」の芝生の所、天守閣下の広場にもいました。とても良い取り組みだと、思いました。

お申し込み・お問合せ…城プロジェクト(月火休み) 📞073-435-1044

和歌山城、見どころ案内はじめます。

お城を時計周りにぐるりとお城の見どころを巡り、最後に天守閣へ登楼するコースです。

まずは和歌山城の表玄関から入りましょう。

けやき大通り、公園前交差点に大手門があります。

 

まずはココから、いちの橋です

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大手門、いちの橋

浅野時代に岡口門からこの橋に大手門が変わった。

この門をくぐった右手には、素晴らしい早咲きの枝垂れ櫻がある。肌寒い春先に一気に咲き誇る姿は、大手門の形と相まって随分景色がいいですよ。

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さらにすこし先、石垣のうえからは大楠が枝を拡げている。和歌山城の歴史を見つめて来た御神木、天然記念物だそうです。

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夜も開門しているので、ブラリ散歩するのもいい感じかな。

 

少しへんかな、虎伏像は…

和歌山城を別名「虎伏竹垣城」と言う。天守ある山容一帯を「まるで虎が伏しているようだ」と、見立てて名ずけたらしい。それで「虎伏像」がここにある。

まさに「南龍公に虎伏城」龍虎並び立つ!て訳で。これは勇ましいなぁ。

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和歌山城桜祭り

この辺りお城の東側エリアが、櫻木多く屋台も出ます。桜花見のおすすめ場所です。お城の石垣の上に登って花を見下ろすと、視界が拡がり高揚感も楽しめます。

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ところで、いまやこの山どこから観ても、虎には見えないよな…あれっ?

 

武骨な顔、岡口門(重文指定) 

浅野時代までは、この岡口門が大手門だった。戦国時代の気風がある、戦闘的で重々しい構え。いまも往時と変わらぬ姿でたっている。

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元々はこの門の両脇に櫓が並びたち、後背に桝形に武者だまりが控える。さらに奥、松の丸の高石垣大櫓が遥か上から睨みをきかしていた。

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まるで野武士の面構え岡口門

そして水堀と空堀で挟むカナメの位置にこの岡口門がある…と、考えてみるとこの場所、如何に重要視されていたのかが良く分かる話だ。

大名行列ルート変更に伴い、北の一の橋が大手門となった。戦の門から儀礼の門に移り変った訳で時代性を城門が表していると想う。

一度、岡口門を出て振り返って観てください。きっといい写真が撮れますよ。

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花見の桜その殆どが染井吉野
楽しい童話園・水禽園

南の丸には動物園がある。お城のなかに動物園があるのは、かなり珍しいものです。イイですねぇ。お城と動物園とのコラボ、しかも入場無料!です。ファミリー層にはオススメのエリアですね。

さらに西側には一般駐車場がある。公衆トイレもあります。城内に駐車場とは何とも無粋で頂けない話だが、利用者には便利でありがたいですね。

天守閣への上り口は三つあって「表坂」「裏坂」「新裏坂」がある。それぞれ表情が違い面白いのだが、最短で登れるのがここにある新裏坂。延々と石の階段が続いている…いっきに登るのは、すこしつらい。で、風景がつまらない。

やはり表坂か裏坂から、ゆるゆる登るのがオススメ。

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和歌山城MAP
お城好きにはたまらない南の丸、高石垣

和歌山城がある場所は、基本地盤が岩山であり南西が砂地というあまり築城には向かない場所。この南の丸あたりは小高い砂丘だったようで、それで城の南側の堀切は断念したようです。

空(水?)堀を巡らしこの微高地にこの高石垣を築いた。

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南の丸高石垣

和歌山城での一番の高石垣と謂われ、さらに高層矢倉(二層)がうえに載っていた。

とにかく不明門(あかずもん、と読む。普段は開けることがなかった、今は門は無い)を護るために厳重に守りを固めたらしい。その訳は万がいちの落城時には、ここ不明門が退き口であったらしいのです。

いよいよ事態切迫…不明門より間道つたい南方面(寺町筋)へ逃げのび、海路徳川菩提寺の長保寺(別名徳川腹切り寺)まで、走る殿様!何ともタイヘンですねぇ…でも、そんな事態におちいることは一度もなかった訳で。多分この門も長い間、開くことは無かったのでしょう。

また、この前の道路は”三年坂”と呼ばれる。今はかなり切り通され広くもなったが、往時かなりキツい難所だったらしい。もしこの坂で転んだら何と「三年以内に死ぬ!」そんな謂われもあった場所。

この場所、城マニアの方必見ですよっ!

 

少し静かな護國神社と石垣

このあたりにも櫻木多く、シートを拡げて花見を楽しめる場所。ひと気も少なく案外、穴場かもしれない。小さな子供が散る花弁を、追いかける姿は微笑ましい。

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ファミリーで花見が今風かな

気になるのはこのあたりによく見かける、刻印のある謎の石である。時代によって石垣の積み方も変化するのだが、この辺りの石は豊臣・浅野時代に刻印されたものらしい。

その紋様は約170種類、2,100個以上の石に確認されている。これの意味することとは、いったい何だろうか。定紋のある石垣は多くの場合、天下普請(担当部署)を表しているらしいが。やはり謎ですね。

 

お城の西側、砂の丸・追廻門

砂の丸とは文字どうり砂丘部を取り込み、高石垣を築いたらしい。

この場所で乗馬の追いきりをやっていたという。それで西側の赤門の名前が追廻門(おいまわしもん)という。

藩士の武術鍛錬の場所だったのですね。 

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赤門、追廻門

城郭の防備のためにきつい勾配の高石垣を、巡らしたのと対照的な雅な門構え。優雅な赤い高麗門は何か違和感を覚えますが、それはこの場所お城の裏鬼門にあたり、風水的な意味(鬼門封じ?)でのことらしいです。朱塗りなので婚礼門かもしれませんね。

 

紅葉溪庭園・紅松庵で休憩

紅葉溪庭園は名前どうりモミジの名所です。晩秋にはとても美しい風景が楽しめます。お濠を取り込んだ大名庭園は、かなり珍しいものですよ。こちらは是非、秋に訪れてみて下さい。

時には蒼く、刻には紅く、静謐(せいひつ)な時間が流れる庭園。

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秋の紅葉溪庭園

紅松庵は数寄屋造りの武家風茶室。

昭和48年、和歌山市出身の故松下幸之助さんが寄贈してくれたそうです。紅葉渓(もみじだに)の「紅」と松下氏の「松」から命名されました。

茶室からの庭園の眺めはとても素晴らしく、ゆったりと茶事を楽しむことができます。

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紅松庵茶室

和服姿の女性が、抹茶を点ててくれます。立礼水屋点てなので、お気軽にどうぞ。

抹茶、菓子付き…460円です。

時間:9:00〜16:30

年中無休(12/29~1/3は休み)

 

殿様気分の御橋廊下を渡る 

二の丸と西の丸を繋ぐこの「おはしろうか」は、藩主とその側近だけが渡れる“秘密の廊下”として使われました。ですので殿様の姿が見えないように厳重に囲いがされています。この約11度の角度がついている傾斜橋はかなり珍しいものです。

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入口(東口と西口があり)で、履物を脱ぎます。すこしワクワク。

備え付けのビニ袋に履物を入れ「さぁ、参ろうぞっ!」廊下は傾斜して滑りますよ。でも大丈夫、廊下には突起細工があります。すると若竹踏み運動の感覚になり「あぁ、足が痛いです!」日頃の不摂生が、思い知らされた訳なのですね。案外健康に良いカモ?

このアクティビティは無料なので、何度も往復してみましょう。-w

 

二の丸庭園

初期紀州藩の政庁と、住居のあった場所。

二の丸には東側から、表御殿、中奥、大奥と絢爛豪華な建物群がこの場所にみっちみちに建っていたらしい。いまは想像するしかないのだが、探ってみるとわずかながら建物跡の痕跡がある。

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この道の左側に二の丸庭園が拡がる

明治初期(廃藩置県)と続く大戦末期(B29無差別爆撃)に、殆ど全ての建築物が喪失してしまう。

いま残っていれば間違いなく国宝級なだけに、次々と喪われていったことはホント残念ですね。(※天守が昭和十年(1935)国宝に指定されている)

いまは植樹と庭石が置かれ、公園化されています。花見客がお弁当食べたり散策するのに良い、市民憩いの広場です。

 

これでぐるっと一周お城を廻ってきました。次はドローン映像で天守を観てみましょう。

Youtube

おまけネタ

ところで「コビトに見える木の根っこ」テレビで何度も取り上げられたので、ご存知の方も多いみたいだが、場所が判らずスルーしてしまうとか。

二の丸庭園から天守閣へむかう裏坂すぐに、管理事務所がある。その右手側、石垣階段途中にあります。階段下でしゃがみ見上げるように観ると「コビトだっ!」発見!-w

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コビトが石垣を登っている?!

さあ、この裏坂から本丸天守へむかいましょう。

お城にまつわる歴史寄りの話

歴史好き、お城好きな方のために。

まずは和歌山城の最大特長。三種の石垣積みについて。石垣を見ればそのお城の性質まで見えてくる。

 

「野面積み」 

和歌山城初期。豊臣秀長の時代は、綺麗な緑色片岩(紀州青石)を巧みに積んだ「野面積み」の石垣。一見荒々しく雑に見えるが、築き方を間違えれば崩落する訳で高度な技術が必要ですね。城の南側の岡公園にある、天妃山から切り出した石を使用。この岡公園の裏側に池があるが、石切場の跡に自然水が溜まり池となったと云う。岩山を切り崩す勢いで、大急ぎで作事が進んだことがうかがえます。城内、山吹溪の野面積みが見事です。特に雨上がり後には、石が綺麗な発色をして美しい。

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野面積み、桜と山吹が良く似合う

「打込みハギ」 

和歌山城中期。浅野幸長の時代には加太城ヶ崎、友ヶ島などから和泉砂岩を打ち欠いて加工し、はぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られた。大石の隙間に小さな石を挟みこみ荷重を分散させる技法。これによりさらに高く積上げることが可能になった。大手門入ってすぐ右側にある石垣が打込みハギです。しかし、元々地盤の弱い場所に高石垣を築くのは相当苦労したと想われますね。

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右手側が打込みハギ、奥あるのが切込みハギ

「切込みハギ」 

和歌山城後期。徳川時代には熊野地方の花崗斑岩を用いて、切石で精密に擦り合わし積んだ「切込みハギ」の石垣が作られた。主に来城者の目につきやすい箇所などを、最新式の石垣に築き直した。このことは高さより美しさ、より手間暇(=コスト)かけることを意味し、単純にお金持ちアピールだったと思えますね。戦乱が治まった後も石垣に手をいれ続ける、紀州藩ならではの考え方が解ります。

 

城郭規模について。戦国→江戸→明治へと数々の遍歴がある。

城郭は戦闘施設から、都市のシンボルへと、変化していく。

和歌山城の城郭規模は、北部を流れる紀の川と東側の和歌川を天然の堀とし、本丸の北側に二の丸(政庁御殿)を配し、その外に大きく三の丸(上級武家屋敷など)がある。螺旋に渦を巻くように計画された、梯郭式平山城です。

また、和歌山市内の城下町特有の微妙に曲がり入り組んだ道路は、昔の名残を感じることが出来ますね。いま城跡として現存しているのは徳川時代の最盛期の4分の1ほどの面積でしかなく、お城の南側に拡がっていた下級藩士の屋敷、三の丸にあった壮麗な武家屋敷が明治以降に一気に喪われてしまう。

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江戸時代の雰囲気遺す白壁
何度も改修を繰り返した城郭は、各時代の様式を留める。その始まり。

1585年(天正13年)羽柴秀長紀州攻めの将として参陣。紀州平定後に紀伊・和泉の二ヶ国を加増された。そしてこの地、岡山に目を付けた羽柴秀吉が弟、秀長に築城を命じたのです。秀吉自ら城域を選定し、縄張りを行ったと云う。普請奉行に藤堂高虎を任じ、約一年で縄張りを完成させた。これが和歌山城の始まりとなります。

 

秀吉さんが「和歌山」の名ずけ親?!なんかすごい話だ。

また、この時期に「和歌山」と地名が改められたらしい。一説によると秀吉が和歌浦の「和歌」と、岡山の「山」を合わせて和歌山と名ずけたらしいのだが。

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和歌山城いまは何の違和感ないけれど

地名は古代に紀(キ)国、そして紀伊国紀州。戦国時代よりいまの県名である「和歌山」の名前は始まったというのだが。果たして定着していたのか疑問は残りますね。和歌山人は「紀州人」であることに誇りを持っていたから。

 

豊臣から徳川へと時代は急激に推移してゆく。

1586年(天正14年)秀長は桑山重晴に、三万石を与え城代とした。重晴は本丸を中心に城の拡張を行う。

1596年(慶長元年)桑山重晴の隠居により、孫の一晴が城代を継いだ。

1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で東軍に属した桑山一晴は大和新庄藩に転封となった。そして同じく東軍に属した浅野幸長が37万6千石で藩主として入城した。幸長もさらに城と町の拡張を行っている。

1605年(慶長10年)頃、黒下見板張りの三層天守が建てられた。(異説もあり) 

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複雑な構成美を魅せる回廊部
紀州南龍公、徳川頼宣さんの登場です!

1619年(元和5年)浅野氏は広島藩(福島氏改易)に加増転封となった。トコロテン人事-wのように、家康の十男徳川頼宣が55万5千石にて紀州入りし、紀州徳川家が誕生しました。頼宣は二代将軍秀忠より銀5千貫を貰い受け、城の改修と城下町の大拡張を計画したという。

1621年(元和7年)から頼宣は城の大改修と城下町拡張を始めた。その計画では城下町を取り込んだ巨大な城構えになる予定であったが、余りにも大規模な作事であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられた。しかし、家老安藤直次の弁明で取り敢えず事なきを得る。

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和歌山城下町絵図(安政二年)出典:和歌山市立博物館

この時、唯一の弱点であった南への備えを始めた。堀川を拡張して総構えにしようとしたが、幕府嫌疑により中止させられてしまったため、中途半端に終わっている。

和歌山市南部に「堀止」の地名がいまに残る。ここが城郭総構の南限(計画上)となります。(※天守閣ある虎伏山から南に1.5kmの地点、なるほど幕府がザワつくのも分る)

 

江戸時代後半は紀州徳川家の天下だった?!

野心家で武張った徳川頼宣が将軍の座を虎視眈々と狙っていた、という逸話がある。

その真偽は不明なれど、上記の戦術的な城下町造りや、地元の雑賀衆関ヶ原浪人を好んで雇ったり、伊達政宗真田信之との交流など、幕僚が疑義を抱く動きを頼宣はやり続けた。そして由比正雪の事件が起こる。またも幕府に対し人を喰ったような申し開きで切り抜ける。

 

1716年(享保元年)徳川将軍家が断絶した。そして徳川頼宣の孫が八代将軍となる「暴れん坊将軍吉宗」の誕生!である。以降、幕末迄紀州系の将軍が続くことになる。(※15代慶喜だけは水戸徳川から養子入りした)通常、将軍家にランクアップしたなら紀州藩は(廃藩→直轄領)となるハズだが、吉宗はそのママ存続させた。頼宣公リスペクトかもしれない。ここに始祖南龍公の願いが実現したのでした。

 

参考/将軍家の流れ 1家康-頼宣-光貞-8吉宗-9家重-10家治-11家斉-12家慶-13家定-14家茂-15慶喜

 

そして現代の和歌山城天守閣には…

和歌山城天守は三度の火災に遭ったが、その都度再建された。

天守から時計回りに多門、天守二之楠門、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと繋がる連立式天守。昭和十年に国宝に指定される。

現在ある天守閣は戦災後の昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート再建されたもので、建造物内部には紀州徳川家ゆかりの品が博物館のように、多数展示されています。

紀州人の大きな誇りでもあり、時には嫌悪すべき対象でもあった和歌山城は、いまは静かに佇み時を刻んでいます。

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和歌山城天守

料金:大人410円 小人200円
9:00〜17:30(入館は17:00まで)
年中無休(12/29 - 12/31 は休み)
📞073-422-8979 

 
和歌山城関連のお勧め観光名所として

和歌山市南部地域に、紀州東照宮、不老橋、養翠園、番所庭園などがあります。

付記/三の丸跡等には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。

参考/和歌山市観光協会HP、和歌山市立博物館、ウキペディア

 

今週のお題「お花見」

和歌山・加太の淡嶋神社の雛流し。三月三日【風物詩】

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三月三日は日本全国、雛祭り。

毎年恒例、和歌山は淡嶋神社の「雛流し」に行ってきましたよ。

流し雛の神事は三日の正午から始まるという。

少し慌てながら何とか淡嶋神社に到着。

神社前では警察官による交通規制が入り、駐車場はどこも満車のようだ。それでもかまわず、やって来るクルマで大混乱。加太は今日が一年のうちで、最大人口密度を記録したはずだね。

こんな感じ→[ꐕ ꐕ ꐕ ꐕ ꐕ 友ヶ島客+雛流し客>>>>>加太住民ꐕヒエ-]

では現地より雛流しのリポートを始めます。

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社殿内にはお雛様が

どど~~ん!!

てんこ盛り、凄いことになっていますね。 

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庭のたぬき軍団が見つめるその先には…

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どん、どど~ん!!

本日の主役は…ヒロインは、この社殿の雛達ではありません。

この方達は惜しくも予選落ちされた云わばオーディエンス、ベンチ組なのですね。

ハイ、本日の主役登場!三隻の舟に詰めこまれ、しずしずとやって来ました。

しかしまぁなんですねぇ~コッチもエラいことになっていますな。

雛流しの神事が始まった。

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舳先には菜の花と桃の花があしらわれています。

ハルです、紀州は春なんだなぁ。

舟上では…「あれ、わらわの檜扇が…たれぞっ、疾くたもれ~」

雛の声が聞こえてきそうですね。

いや、じっと耐えているのか。

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神輿舟をかついでいるのは、昭和の娘さん達ですね。

皆さん、足元は大丈夫でしょうか?

この先、下り階段もありますよ。

舟、その重量は約100キロ。

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この後、参道を通りぬけて海沿いの道行となります。

だいたい桟橋まで約二キロあるそうですが。

観た感じ女雛限定で、色目が華やかですね。

ん?男雛はまさか…尻に敷かれてる?!

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小さな子供が肩車されて、楽しそうです。 

子供心にもいま記憶が刻まれていくんだ。

自分の子供時代の雛祭りをしばし考えてみる。

すぐ思い出したのは「うれしいひな祭り」の曲だな。

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しかし“たのしい雛祭り♪”のはずなのに、この曲何故か短調で暗い。

子供は祭りの雰囲気を、敏感に感じとるものです。

あっ、そうそう思い出したよ。

この曲には、ごていねいにも替え歌まであったねぇ。


YouTube 

私が小さな頃は、たしかこんな替え歌だった。

♪明かりをつけましょロウソクに~お花をあげましょ菊の花。五人囃子が死んじゃったぁ~きょうはたのしいお葬式♪(←ハイ、コレ唄うと大人に怒られるょ~!

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各地方により別バージョンの歌詞も色々あるらしいのですが。

でも共通するのは「死」にまつわる歌詞となる。

これは、いったい何故なんだろう…?

なにやら不吉な符合だね。

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この「雛流し」にはたしかに、不吉な影もつきまとうようだ。

無邪気に“楽しいひな祭り”とは言えない雰囲気。

淡嶋神社の歴史は往古より続く

淡嶋神社系は日本国内に千社あまり。

その総本社であり和歌山でも屈指の歴史を誇っている。

その祭神は「少彦名命大己貴命息長足姫命」の三柱を祀る。

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社伝によれば加太の沖合いにある友ヶ島

そのうちのひとつ、神島に祀られたのが始まりとされる。

f:id:minminzemi81:20180303001251j:plain神功皇后三韓より帰る途上、瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した。

船中で無事の祈りを捧げ「船の苫(とま)を海に投げ入れ、その流れのままに船を進めるように」と、お告げをうけた。やがて友ヶ島(神島)に無事避難できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を「少彦名命大己貴命」の二神に奉納したと謂われる。

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その後、神功皇后の孫である仁徳天皇友ヶ島に狩りに来た際、その故事を聞くにおよび「此処では何かと不自由であろう」と対岸の加太に社殿を移築したことが、いまの淡嶋神社の始まりとされている。(淡嶋神社 由緒)

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しかし、淡嶋神社主祭神については別伝がある。

淡島大神は住吉神の妃で婦人病にかかったため淡島(友ヶ島)に流され、そこで婦人病を治す誓いを立てたとする伝承がある。このことにより淡嶋神社は、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となったと謂う。

また、女性の罪穢れを祓う「人形流し」の神事との整合性から、あながち附会説とは言えないのではないだろうか。

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保育園児も雛流しに参加している。

きょうは社殿の前で、お歌の合唱をしたという。子供たちも楽しそうだね。

いよいよクライマックス、祝詞がはじまった。

「畏み 畏み~祓いたまへ~清め給へ~と申す事を 聞こしめせと~」←タブンこんなカンジだろ?!風上にいるのでまったく聞こえなかった。

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そして散華(鶴?)が風に舞った。.*・゚ .゚・*.

いよいよ雛流しだ。

女雛が水底へ旅立つのだ。 

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う~ん、やはり哀しさがあるよなぁ。

咎無く理不尽に海に流される訳で…。

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実はコレ漁船がロープを引っ張っていたのでした。

これはこれで、何か悲しいなあ。

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「明るさに  顔  耐えている  流し雛」 榎木冬一郎

 

付記/当日の状況が共同通信で配信されていたので貼っておきます。

YouTube

淡嶋神社へは…🚃南海電鉄和歌山市駅より南海加太線約25分で加太駅着。加太駅からは、西へ(海方向)15分ほどで淡嶋神社に着きます。(※JR和歌山駅と南海和歌山市駅は違う駅ですのでご注意)

さらに友ヶ島もどうでしょう。オススメです!

minminzemi81.hatenablog.com

磯ノ浦(南海沿線)夕焼けがやたら美しすぎる件【和歌山夕景】

人に逢うたびに「磯ノ浦の夕日の美しさ!」を紹介するのだが、相手の反応は「へ~?・・暇なの?!」てな、感じになる。ホント残念だけどそうなのだね。

スマフォいじりする手を止め、自然を眺めてみよう

意識して観ないと見えないものだってある。

我々は自然に対して普段見ているようで、みえてはいないのだ。

だから“意識して”眺めてみるようにする。

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糸を引くような雲が流れる

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磯ノ浦の夕景

まぁ、現代人は何かとガチャガチャ忙しいからね。海辺りにてぼんやりとする小一時間がとれないらしい。潮騒を聴き浜辺を散歩するだけで少しばかりのストレスは解消できるよ。大切なのは意識して「積極的にぼんやり」すること。

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照りばえて沈む夕日

けれども「そんな暇はない!」言うよねぇ。まったく持って現代人は「心を亡くす」ほど忙しい訳なのか。非常に残念なことですね。なんてことだ。

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淡路島、その背後の四国の背後に入日する

むかしのワタシは、都会のド真ん中で長い間住んでいた。近くには新幹線が走り頭上には航空機が過ぎてゆくようなトホホな場所だった。そんな大都会の片隅には夕方はあっても、“燃えるような夕景”は、とんとお目にかかれなかったね。

毎日がドタバタで心が消耗して、便利だけれども心に負債がたまっていく日々。箱の中にこもっていては気持ちが晴れない。だから意識して休日にはアウトドアを好んだ。

必ず田舎に向かって車を走らせていたな。それはゴルフや釣りや、ダイビングなどであったけれども。本当の目的は自然に心と体を癒されたいと願っていたのだ。

自然を“感じる心”がなければ、大切なモノは見えなくなる。そう想う。

「私の耳は 貝の殻 海の響を懐かしむ」Byジャン・コクトー

 

理屈ではない感性を見失わないように。

 

その他の「朝夕の写真ネタ」です。

minminzemi81.hatenablog.com

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「枕草子」 紀州人の「枕ノート」By清少納言【和歌山弁】

藪からStick!「枕草子」を紀州弁に翻訳してみる。

國文學wは、マジで苦手なんだけれども。つい出来心でやっちゃいました。ハハハ…

 

 

春は  夜あける 前やいて

ちょっとかいずつ  白なっちゃぁら

山の  はしこい  とこやで

まちっと  明なったら  むらさきのすじ雲

びろ~ん  びろ~ん  やでな

 

 

夏は  夜じょな

お月さんも  出ちゃぁら

暗いとこ  蛍もようさん  翔んじゃぁらょ

ほいて  ひとつ  ふたつ  ぼさ~と

光っちゃぁうの  おもしゃいで

雨ふっちゃうも  おもしゃいよぅ

 

 

秋は  夕方やして

夕日も  山のはじで

烏が吾がとこ  いぬよって

みっつ  よっつ  ふたつ  みっつ  飛んじゃぁらょ

ほいてよ  雁ら  連て

ちっこなっちゃぁらよ

おひさん  沈んだらよ

風の音や  虫の音やら

がいな  ことやいて

 

 

冬は  はよ起きなぁよ

雪 ちょろ  ちょ  降っちゃぁたら

ええ塩梅じょな

霜の白いんよ  ほいて  寒いんしょ

火起こし  あわてらよぉ

ほいて  炭の火もって  歩いてら

てきゃら  ええはなぁ

昼に温なったら  火鉢かて

白い灰だらけやして

おもしゃいことに  なっちゃぁらよ

 

 

紀州弁は不思議な言葉。千年前の雅な古代語が“ママ保存”されているのだ。 

 

少し前から“方言がプチブーム”らしいのだ。土地々々で聴く方言は、日本語の魅力のひとつでもありますが。

しかし日本語の難しさのひとつに“方言が多過ぎる”ことがある、とある外人が言いました。 ふむふむ、そらそうだなぁ…我々日本人でもかなり厄介なハナシだしね。

例えば“鹿児島弁と津軽弁”のふたりが出逢い会話しても、まったく言葉が噛み合わない。同じ日本人とは思えない位、乖離(かいり)している日本の方言。

島国で数千年もの歴史を重ねれば、言語はひとつに集約されそうだが、現実は逆だ。

 

だいたい日本の伝統文化や話し言葉は、中央(京)から地方(田舎)へと伝播してゆく。ひとの流れと共に言葉も伝わり、そして地方詞としてそれぞれの土地に保存される。

であるならば奈良・平安京に比較的近い「紀州、和歌山弁」のヘンテコさの正体は、いったいなんだろう?これは多分、奈良・平安時代から連綿と続いたと云う「熊野詣」が影響を与えているのではないのか。

紀州を訪れた都ビトの“コトバの置き土産”その結果、なのでは?ワタシはそう考えた。紀州弁の大元は古代の“イケてる言葉”だったのだ…そうに違いない。

 

いまに伝わる一例を書き記し、少し考察してみたい。

 

あがら(Agara)

 

例文「あでぇ~あがら、和歌山やしてぇ」

意味[あがら=自分自身のこと]

「私は和歌山出身です」

 

吾が(あが)、我が(わが)、など古代より自人称として。

吾が名は厩戸皇子であ~る」←イイ感じ!

 

あかい(Akai)

 

例文「昼はまっと、あかいやしてよぉ」

意味[あかい=明るい、明るくなった]

「昼にはもう少し明るいですよ」

 

古文「春は曙 やうやう白くなりゆく山際 すこしあかりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる」[出典] 枕草子

 

ある(Aru)

 

例文「海に魚、よーけあるでなぁ」 

意味[ある=いる]

「海には魚が、たくさんいます」

 

古文「昔、男有りけり ならの京は離れ この京は人の家まださだまらざりける時に 西の京に女ありけり その女 世人にはまされりけり」[出典] 伊勢物語

 

うたとい(Utatoi)

 

例文「こえ、うたといことやでぇ」 

意味[うたとい=面倒な]

「これは、うっとうしいですよ」 

 

古文「もとの住みかに帰りてぞ さらに悲しき事は多かるべき しかしかのことは あなかしこ 跡のため忌むなることぞ など言へるこそ かばかりの中に何かはと 人の心はなほうたて覚ゆれ 」[出典] 徒然草

 

こまる(Komaru)

 

例文「あれ、歯になんぞこまっちゃぁら」 

意味[こまる=挟まる]

「あ、歯になんか挟まっています」 

 

古文 「雀の子を犬君が逃がしつる 伏籠の内にこめたりつるものを とていとくちをしと思へり このゐたる大人 例の心なしの かかるわざをして さいなまるるこそいと心づきなけれ」[出典] 源氏物語

 

ずつない(Zutunai)

 

例文「こえよ、ずつないよって、食べられやん」 

意味[ずつない=なす術なし]

「これは美味しくないので、食べられませんよ」 

 

古文「思ひ寝に聞けば  ひしひしと ただ食ひに食ふ音のしければ ずつなくて  無期ののちに「えい」といらへたりければ 僧たち笑ふこと限りなし」 [出典] 宇治拾遺物語 

 

(※まだ該当するコトバあるけども、出典探しが思いのほか大変だった!のでもう止め!-w)

 

清少納言は千年前の立派なブロガー、感じたことを(皮肉こめ)ありていにつぶやく。

 

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枕草子を書く
歴史/藤家の権力闘争の図

 

枕草子が成立したのは、だいたい西暦千年頃。

一条天皇をめぐる「藤原道隆VS道長対決」が決着して、道長一条天皇外戚マウンティング、権勢を欲しいままにしていた頃である。「我世の春が、来たぁぁぁ~!」てか。

 

一方、よくやった清少納言!このビミョーな時代に(…だからなのか?)よく記録したもんだ、偉いね。カンタンに図式化するとこんな感じだった。

 

赤コーナー(道長→彰子→紫式部)⇒【一条天皇】⇐(清少納言←定子←道隆)青コーナー

 

参考/有名な「枕草子」一段 

 

春はあけぼの やうやう白くなりゆく山際 少し明かりて 紫だちたる雲の 細くたなびきたる

 

夏は夜 月のころはさらなり 闇もなほ 蛍の多く飛びちがひたる また ただ一つ二つなど ほかにうち光て行くもをかし 雨など降るもをかし

 

秋は夕暮れ 夕日の差して 山の端いと近うなりたるに 烏の寝所へ行くとて 三つ四つ 二つ三つなど 飛び急ぐさへあはれなり まいて 雁などの連ねたるが いと小さく見ゆるは いとをかし 日入り果てて 風の音 虫の音など はた言ふべきにあらず

 

冬はつとめて 雪の降りたるは言ふべきにもあらず 霜のいと白きも またさらでもいと寒きに 火など急ぎおこして 炭持て渡るも いとつきづきし 昼になりて ぬるくゆるびもていけば 火桶の火も 白き灰がちになりてわろし

 

YouTube 

参考図書
枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)

 
枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

 

 

 

書名について/「枕草子」その“まくら”とは?

 

枕草子」という書名全体についていえば、この作品がこの書名で呼ばれるようになった当時において「枕草子」は一般名詞であった。

枕草子』の執筆動機等については巻末の跋文によって推量するほかなく、それによれば執筆の動機および命名の由来は、内大臣伊周が妹中宮定子と一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上した時「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が「枕にこそは侍らめ」(三巻本系による、なお能因本欠本は「枕にこそはし侍らめ」能因本完本は「これ給いて枕にし侍らばや」堺本と前田本には該当記事なし)と即答したので「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜された…と記されている。

枕草子」の名もそこから来るというのが通説であるが、では肝心の枕とは何を意味するのかについては、古来より研究者の間で論争が続き、いまだに解決を見ない。

(引用ウキペディア)

 

百人一首 六十二番「清原諾子、行きマ~ス!!」

 

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清少納言


清少納言の有名な『 夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ 』このうたは地名“逢坂”と男女の“出会う”を掛けている。

いまで言えば届いたツイートを、気の利いたリツイートでやり返した、そんな感じなのですかね。イイね♡がたくさんつくのだ。

 

さてわたしが思うに、題名「枕草子」の“枕”とは文字どうりの「うたの枕」なのではないかな?そう想うが…どうだろうか。

 

付記/

清少納言は役職名、本名は清原諾子(なぎこ)らしいが確定できない。

※日本語は地方ごとに多様な方言があり、とりわけ琉球諸島で方言差が著しい。近世中期までは京都方言が中央語の地位にあったが、近世後期には江戸方言が地位を高め、明治以降の現代日本語では東京山の手の方言(山の手言葉)を基盤に標準語が形成された。表記体系はほかの諸言語と比べて複雑である。漢字と平仮名、片仮名が日本語の主要な文字であり、常にこの3種類の文字を組み合わせて表記する。(出典ウキペディア)