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あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ ノシ

眞子さま結婚問題に揺れる、秋篠宮御一家。苦渋の決断か?まだまだ波乱が、ありそうな状況です【皇室問題】

去る十一月二十二日。秋篠宮殿下の「お誕生日会見」があり、その全文記事を読んだ。特段気にもならなかったが再度読み返してみると、一部分だけ少し引っかかった箇所がありました。それについてのただの「思い付きまとめ」ですのでシクヨロです。

(※1965年11月30日生、五十三歳です)

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十一月二十二日、お誕生日会見

 

秋篠宮殿下のお言葉 記者会見で

 

秋篠宮さま『小室さんに関することが毎週のように、週刊誌などで報道されていることはすべてをフォローしているわけではありませんが、承知しています。渦中の小室さんとの連絡ですか、どうでしょう。コンタクトについては二、三ヵ月に一度くらいでしょうか、時々もらうことがあります。これは娘と小室さんのことではありますが、私は今でもこの二人が結婚したいという気持ちがあるのであればやはり「それ相応の対応」をするべきだと思います。

婚約前ですのでひとのうちのことについて、何か言うのは憚られますけれども、やはり「相応の対応」というのは大事です。二人にも伝えましたが、いま色々なところで話題になっていること、これについてはきちんと整理して問題をクリアにする、ということかもしれません。そして、それとともにやはり多くの人が、そのことを納得し喜んでくれる状況、そういう状況にならなければ、私たちは婚約にあたる納采の儀を行うことはできません』

<秋篠宮殿下のお言葉 記者会見(11/22) 一部抜粋>

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2017年9月3日、婚約内定会見

○『やはり「それ相応の対応」をするべきだ』“相応の対応”と云う単語を二度重ねられたのは、娘を思う親としての“強い決意の表れ”とも思えるし、後手対応してきた“いままでの反省”ともとれる。

『国民が納得し喜んでくれる状況にならなければ』とは「とうてい婚約の儀は、もうありえないのです」秋篠宮さまは(借金問題の解決しても)もう結婚させないと、仰ったとも理解できますが。『納采の儀を行うことはできません』と、結論を結んでいますから。

秋篠宮さまは、眞子さまへのメッセージとして『次からは、人物をよくみてから、交際してくださいね』と、この会見で言葉を含めたのだと想われます。

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ご公務中の眞子さま

 

紀子さまのお言葉 同じく記者会見

 

紀子さま『昨年の夏から様々なことがありました。そして折々に私たちは話し合いを重ねてきました。そうしたなかで昨年の暮れからだんだん寒くなっていくなかで、長女の体調が優れないことが多くなりました。そうした状況が長く続き長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうかと私は、大変心配でした。家族として非常に難しい状況のなかにありますが、私は長女の眞子がいとおしくかけがえのない存在として感じられ、これからも長女への思いは変わることなく、大切に見守りたいと思っております』

<紀子さま 記者会見(11/22) 一部抜粋>

 

○九月に婚約内定してから『長女の体調が優れないことが多く』それが去年の暮(十二月)から、長く続いたと云う。このことの“意味”は、とても重いですね。婚約発表からわずか“三ヶ月後に体調不良”となる。結婚前の一番“幸せな季節”のはずが、いっきに暗転、憂慮すべき事態に。

続けて『どのような思いで過ごしているだろうか』そして『家族として非常に難しい状況』にもあると、伝える紀子さま。小室氏に対する非難なのか?とも、想えますが。最後に『これからも、大切に見守りたい』と、言葉を結んだのも、意味深か。

▷引用資料リンク/ 文仁親王殿下お誕生日に際し(平成30年) - 宮内庁

 

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千代田のお城に暗雲が忍び寄る
追記 1/来年(2019年)に大波乱の様相か?

『…眞子さまは、国際基督教大学の博士後期課程に入学されました。修了されるのは、来年八月の見込みです。博士号を取得されれば研究者として、さらなるステップアップを目指されるでしょう。当然、“海外の大学や研究機関”も視野に入ってきます。現在の勤務先も眞子さまご自身が、公募のポストに応募し採用されたものです。日本では孤立無援となった眞子さまは「秋篠宮ご夫妻には相談せずに海外行きを模索されている可能性」もあります』

来年は“大きな転機”になると語る、宮内庁関係者。←コレ誰、怪しいね。

 

追記 2/海外でも関心をよんでいる。英Times社、記事より

<日本の皇后陛下がナイーヴな眞子内親王のロマンスに終止符を打つ>

www.thetimes.co.uk

要約『美智子皇后陛下は(中略)初めての孫と一般人との「不幸な婚約」を終わらせるために、主導的な努力を果たされている。伝えられるところによれば、皇后陛下は小室氏が(金銭トラブルを)秘密にし、不誠実な態度をとってきたことに怒りを表されている。さらに美智子さまは“小室さんが個人的な利益目的”で、皇室ご一家との関係を利用しようとすることを危惧されている』…あの“お堅いタイムス”にまで書かれてしまってはねえ、どうなることやら…。

 

追記 3/少し面白い記事を見つけた「皇族の結婚に口をつっこむ」とはなんだ?!

▽この『口をツッコむ』とは、漫才のボケとツッコミみたいなイメージだったのかな?もちろん口を挟むつもりはないけれど。

webronza.asahi.com

著者/青木 るえか 女史(あおき るえか)

1962生、東京都、主婦、エッセイスト。ちなみに筆名の「るえか」は「かえる」を逆にしたらしい。本の雑誌社で「間抜けな主婦エッセイ」を書いている。

 

(2300文字、thank you for reading.)

狂気孕んだ『天才画家 ムンク』の波瀾万丈の人生とは? 【画家覚書】

 
エドヴァルド・ムンクといえば、世界中の人々が知っている絵画『叫び』ですよね。この絵、誰もが一度は目にしたことがあるはずです。でも、ムンク自身がどんな画家だったかは、サッパリ知りませんでした。

ムンクの人生は「病気と狂気や死」にとりつかれていたらしい

例えば普段SNSで、なにげに使うアイコン(😱)にまで影響を与えた!というムンクはやっぱり「凄いヒト!」その人生を、書き留めておこうと想います。

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エドヴァルド・ムンク

エドヴァルド・ムンク(1863年12月12日~1944年1月23日)北欧ノルウェー南部にある、ロイテンという小さな農村で生まれた。ムンクは五人兄弟の二番目だった。

一家は間もなく首都クリスチャニアに移り住んだ。

ムンクの父親は医者であった。それなのに1868年(ムンク五歳)に母親を亡くし、また1977年(ムンク十四歳)に姉を、立て続けに亡くした。二人とも死因は、肺結核でした。この「母と姉の死」は、まだ年若いムンクにとって「深いトラウマ」となったと思われますね。自分の家族を次々襲う「病気と死」得体の知れない死の闇に対する不安。

そのことについて「病と狂気と死が、私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」ムンクは、後年語っています。

そしてムンク自身も幼い頃から体が弱く、家に閉じ込められる生活であったらしく、このことが原因で「閉所恐怖症」になったとも云われています。荒れた家庭環境と自身のトラウマがもたらす「漠然とした不安」を生涯、心に抱え続けることになったのです。

 

ムンクの人生の転機は、叔母さんが与えた!

 

ムンクに絵の楽しさや転機を与えたのは、母親替わりの叔母カーレンでした。叔母から絵を描く楽しさを教わったムンクは、ここで人生の転機を迎える。自己表現の出来る「絵描き」を目指すことになった。

1880年、オスロの王立美術学校に入学した。この頃のノルウェー絵画は、近代写実主義が主流だった。宗教や風景画などがモチーフとなる。ボヘミアングループと活動を始め展覧会へ出品を始めだす。しかし、ムンク作品への評価はあまり良くなかったようです。

1889年、政府の奨学金を得て、フランスのパリに留学することが出来た。アカデミズムの画家レオン・ボナのアトリエで学ぶ。留学した年にムンクは、父親を亡くしています。

「これからは息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」といった「サンクルー宣言」をムンクは書き残している。また、この時期にマネなど印象派の作品に感化され、さらに「ファン・ゴッホ」にも強く影響を受けた。このことは自身の作風にも、変化を与えたようです。ゴッホの激しくグルグル渦巻く独特の筆使いは、ムンクの不安定な絵画構成の中でも、度々使われるようになる。象徴主義の始まり、ヒトの内面まで踏み込んでゆく描き方。そして野心的な作品『病める少女』や『春のめざめ』が、描き始められている。この頃にムンクの才能が一気に開花し始めます。

(※象徴主義とは十九世紀後半、ヒトの内面的な「不安、生と死、運命」など、形がなく目には見えないモノまで捉えようとした描き方)

 

世界的に有名となった、作品「叫び」 誕生秘話

 

最初に描かれたとされる油彩の『叫び』が、世界的に最も有名な絵画となります。誰もがどこかで見た記憶がある、あの衝撃的な絵ですね。

(※「叫び」には四枚の作品がある。1893年油絵、1895年にパステル、1895年にリトグラフ、1910年にテンペラで同タイトル、構図による作品を描いている)

真ん中にデフォルメされた、空虚なタッチで描かれる黒い人物。橋の下には紅い血で染まったフィヨルドが、不気味な死の影がそこへ忍び寄る。真っ赤な夕焼けとダークな背景色、遠近法すら不自然に歪めるおかしな構図…。

何故こうなるのか?

この異様な技法は、ムンクが実際に感じた「幻覚症状」がそうさせたのだった。その時経験した「神秘体験」を当時の日記に、ムンクは記していました。

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ムンク「叫び」

『私はふたりの友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え戦っていた。そして私は“自然を貫く果てしない叫び”を聴いた』

ムンク「叫び」とは「自然を貫く果てしない叫び」に怖れおののき、思わず耳を塞いでしまった「自分自身を描いたもの」でした。

1892年、ベルリンの芸術家協会に招聘(しょうへい)され、自身の作品を公開した。しかし会員投票によって突然中止となり、ムンクの展覧会は一週間で終了。そしてこれが大きなスキャンダルとなった。当時の新聞、評論家はこぞって酷評するが、のちには高評価されるようになる。この騒動がきっかけでマックス・リバーマン率いる「分離派」の結成となる。

ホントに「禍福あざなえる縄の如し」ムンクの人生とは簡単ではない。

1894年に、妹ラウラ・カトリーネが統合失調症になる。『メランコリー』のモデルは、この妹といわれています。翌年には弟ペーテル・アンドレアースが、結婚わずか半年後に死亡した。またも身内の不幸が続きます。

多くの芸術家らと親交を深めながら『叫び』や『マドンナ』そして『思春期』といったムンクの代表作を生み出してゆく。やがて円熟期を迎えたムンク、それ以後1908年までドイツに滞在し続けました。

 

ムンクの恋愛遍歴も、やっぱり普通じゃな~い!

 

ムンクの随分歪んだ女性観は、恋愛にも重大な影響を与えた。ハンサムな顔立ちで長身でもあり、いまでいう「イケメン」だった。そう「イケメンの絵描き」世の女性が放っておく訳が無い、だがしかし…。

三十歳頃のムンクが出会ったのは、夫のいる「ダグニー・ユール」との不倫関係でした。彼女は「憎愛と嫉妬の闇」にムンクを引きずり込んだ。これが彼にとっての『マドンナ』であり『吸血鬼』だったのです。

また富豪の娘「トゥラ・ラルセン」と恋に落ちる。三十九歳の時、別れ話から彼女にピストルで撃たれて「左手を大怪我」する。作品『離別』や『灰』に登場する彼女は、まるで舞台女優のような描き方ですね。

やがてムンクは、精神不安定に陥って「アルコール依存症」となる。それでもムンクは「孤独で自由な創作人生」を、変えようとはしなかった。

この頃から徐々に、精神が蝕まれてゆきます。

 

そして晩年には祖国へ戻り、最大評価されました

 

1908年に精神性疾患の治療ため、祖国ノルウェーに戻ることになった。自分に襲いくる災難が、ムンクの絵画を自伝的な作風へと変化させてゆく。

その一方でノルウェー政府から勲章を与えられ、国立美術館ムンクの絵画を次々と購入し、ノルウェーでのムンクの評価はいまや最大級となった。

自分自身の「精神的弱点を絵画世界で昇華」させ続け、独自の世界観を造り上げたムンク。なのに名声が高まれば高まるほど、現実世界では不幸と荒廃に次々に見舞われる。

晩年にいたり「明るく輝く風景画」を描くようになる。とても明快で明るい色で構成され、画面が軽い。このことはムンク自身の「象徴主義の終焉」だったのかもしれません。1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、絵画制作を続けていたが、1944年(八十歳)で亡くなりました。

 

いまに残る絵を観れば「重苦しい人生だった」と、思えます。ムンクの絵画作法とは…例えば自分自身の心の内に沈殿してゆく「汚れたモノ」を、ひとつひとつ絵画作品として「掃き出していった」のではないか?そしてそれは「心の自浄作業」でもあったのだ。ワタシにはそう思えるのです。

 

○付記/2012年、個人が所有していた「叫び」パステル画が、オークション(ニューヨーク・サザビーズ)で1億1990万ドル(約96億円)で落札されたことは、記憶にあたらしい。

コレ、ただのパステル画ですよ。

 

ほんと「すンご~いお方😱💦」のひとこと、ですね!


参考文献/ウキペディア、美術手帖

(3300文字、thank you for reading.) #ムンク

もうひとつのラピュタ「深山砲台跡と海軍由良水雷隊基地」山中迷走?ドタバタ探検記!和歌山市加太【戦争遺跡】…Part2

南海電鉄加太線<和歌山市駅…🚋…加太駅>ただいま“第参総軍”が移動中!

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ガタンゴトン、ガタンゴトン

 

[Mission two] 

深山砲台跡とその周辺部を徹底調査する

前回のお話<Part 1 序章>です。コチラからご覧下さい。ミリオタでもない奴が書いております。軽く読み流してやってくだされ。

(※より理解が深まるやも知れません?ただし効能には、個人差があります)

minminzemi81.hatenablog.com

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キィー、シュ~

 

現地到着、調査開始!まずは作戦会議始めますよ

南海加太線、加太駅前にいた。少し蒸し暑かった。今年の夏はきっとギラギラ熱くなる、そんな予感がする初夏の頃である。

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杉板に焼き印の駅名看板

加太駅前にあったものとは

 

しばし給水タイムをとる。加太駅前から「紀州加太休暇村」まで、無料送迎バスが出ているのだが、それに乗るために我々は時間調整していた。

すでに結構暑いね、もう汗かいてる。

「この加太線はここで急に終わってる。な~んでか、判るか?」

「さぁ…?これ以上延伸しても、海に落ちるから」

「そう正解!な、訳ないやろっ、その頃にはすでに“アレ”があったんや」

加太線は昔、軽便鉄道であった。加太軽便鉄道が開通したのが明治四十五年、砲台への軍需物資や兵員輸送に利用されたらしい。もちろん行楽客にも、おおいに利用された。

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加太軽便鉄道

当時の「加太軽便鉄道」の状況は…この記事に詳しい。以下引用文。

『終点加太の「淡島神社」は全国淡島信仰の総本山。その他にも、西庄には六世紀にまで遡れる由緒正しい八幡宮のひとつ「木本八幡宮」、大川には浄土宗々祖円光大師自作の大師像を安置する「報恩講寺」と、著名な神社仏閣が目白押し。信仰と観光を目的とする人々が引きも切らずに訪れたのです。

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本八幡

そして忘れてはならないのが、明治二十七年からある「由良要塞深山重砲兵連隊」深山地区は一般人の立ち入りは禁止されていましたが、連隊の兵営がありそれ自体が街を形成していました。

加太軽便は和歌山からまた全国から同連隊への物資輸送の要となったのです。大正九年に加太~深山間が県内で二本目の国道に指定されていることからも、加太軽便の重要性がわかります。』

引用文「南海加太線むかしむかし」より

 

この記事によれば、明治から昭和まで加太は「寺社観光と軍事基地の街」だったようです。

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軽便鉄道だった頃の加太駅前

古写真を見ると、その当時もいまも驛舎がたいして変らないね。コレが加太駅のスゴいところです。もう明治、大正時代の「レトロ感がまんさ~いの驛舎」だから。オリジが保存されてます。

小さな木造洋館風の驛舎(1912年築)レトロだし、ホームにある屋根支柱は歴史ある「ドイツ製(百年物)の軽便線路」を曲げて活用している。屋根煙突(駅のシンボルだった)はホーム展示。

驛舎ディスプレイも、なかなか凝っていますねぇ。

駅員さんかなり頑張っていますよ。

そして駅前にある「土産物屋 姫路屋さん(閉店した)」は、むかしには道の反対の鉄道寄り(いま加太駅構内トイレが出来た場所)にあったようで、長い歴史ある商店であったことが伺えますね。

 

我々は観光案内所横のベンチに移動

 

ジュースを飲みながら、スマホアプリの古地図(今昔マップon the Web)を確認してみる。このマップアプリはカンタンに、新旧の地図が同尺で表示され、実に分かりやすい。なかなか面白いので、皆さんにお勧めします。

それで、この場所の古地図を眺めて「やややのや!」またひとつ、ビックリな発見をしました。

いま駅前から眺める南に広がる住宅地一帯には、明治時代に深山重歩兵連隊の練兵場があったみたいなんですね。そのため、この加太線はそのヤバい場所を避けるように、山際を走らざるを得なかった。そして練兵場に横ずけする形で、この加太駅が設けられたという訳です。

「砲兵がこんな場所で、陸戦の演習をやっていたのか。そうだったのか、なるほどねぇ」へんに感心した。

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加太の町古地図(明治四十五年)今昔マップより

いま、この辺りの地名を「新町」と呼ぶ。後の時代になって練兵場跡に、新たに縦横に区画割りされた“新興住宅地”が建ち並んでいったのですねぇ。

たいていの連隊に練兵場は付き物、それが廃止されたということは砲兵連隊は、何時ごろこの地から移動したのだろうか。後で調べてみよう。

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現代の航空写真をレイヤーで地図に重ねてみると、かなり解り易いな。

さぁて目指す男良谷(おらだに)砲台跡は、一般観光客があまり立ち入らない場所なのだ。まずは「深山第一、第二を軽くチェック」してから、男良谷へ降るルート。それではぐるんと大回りになるがうまく回らねば、無駄に山中彷徨うこと必至だね!

ようやくバスがやって来たようだ。

ではでは、乗りますかな。

 

道中バスの車窓から、色々発見したモノなど…

 

バスが発車します、山頂向けて

 

送迎バスは我々二人を乗せて、加太海岸沿いをゆったりと走る。このビーチ、一言で表現すれば「砂浜荒磯」か。

海沿いに城ヶ崎が見えてきたね、以前訪れたことがあった。なんでもここにも陸軍の「探照灯設備」があったらしいが戦後、国民宿舎の研修場になりいまは、展望所の四阿(あずまや)だけがポツンとある。

眺めがすこぶるいいが、いまは訪れるのは釣り人ぐらいなのかな。あと地層マニアね<笑 そうそう、地層の名所なんですよ「ジオパーク」。

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城ヶ崎展望台 四阿

この場所は砂岩、泥岩層が積み重なった地層が露呈している。中生代白亜紀(7000年前)の和泉層群の地層、西日本を貫く中央構造線上に位置する訳でダイナミックな地形です。海底岩盤がググッと盛り上がり山状となった。

階段を海へと降りると「鬼の洗濯岩」と呼ばれる、砂岩と泥岩のミルフィーユ状態(泥岩凹で砂岩凸)が観察できます。永年波に侵食されノコギリ状になっています。この地層は沖にある友ヶ島にも共通する。 

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夕陽浴び紅に染まる城ヶ崎海岸

さらに細く観察すると中生代の「生痕化石」があったりします。コダイアマモなどが見つかるとモチベがUPするので、頑張って探るとイイですよ。 (わりと地層好きだったりする)岩の隙間に、蛸とか海鼠とかもいますね。

そしてまたこの地は、萬葉集にも謳われたずいぶん風光明媚な場所でもある。この岬の展望所には、紀州青石の萬葉歌碑が存在します。

 

『藻刈舟  沖漕ぎ来らし  妹が嶋  形見の浦に  鶴翔ける見ゆ』詠人知らず

意訳「白い春霞のたおやかな海峡。ワカメを載せた小舟が櫓を軋ませながら、妹が嶋から漕ぎ寄せてくる。すると形見の干潟で餌をついばんでいた鶴が一声鳴き、いっせいに空高く飛び立って往くのであった。嗚呼、何と素晴らしい情景であったことか…」

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現代の藻狩りするヒト

以前歌碑を眺めた時にはですね、城ヶ崎のダイナミックで美しい情景と相まって、そんな枯淡な風景がアタマに浮かびましたよ。えぇ、浮かびましたとも。ホント、ホント!

「加太浦古歌には皆、形見浦といふ。加太 形見 唱へは異なれとも同義にして、形見は本名ならん潟海の義にて、遠干潟の地をいふなり」

(紀伊風土記より引用)

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いまは「鶴」ではなく「飛行機」が飛び立ってゆく

この歌に登場する萬葉時代の地名が「妹が嶋=友ヶ島 、形見の浦=加太海岸」となる。潟海「かたみ」が音変化して「加太 かだ」となったというのだが。この話、ホントかな・・?

 

バスは加太海岸から、深山地区を走る

 

さて、バスの窓からぼんやり深山湾を眺めていると…ん!「アレは、なんだろ?」脱走した子供を連れ戻す、お父さんの姿が見えたのだ。

コチラは「藻狩り」ならぬ「子狩りだねぇ、大変だよ」<笑

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深山湾、バスの車窓より

そしてバスは、勝手に命名「地獄坂」にさしかかる。前回(実は数週間前にも来た)チャリにてこの道を登攀したのだ。ここめっさキツかったよ。

それでこの辺りで息切れ(諦めた)足つきリタイア、流石に辛いよぉ~この地獄坂はね。原チャリですら“ウィン~ウィン”なるぐらいキツい!

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で、今回は当然ながら呆気なく「休暇村紀州加太」に到着。バスなので楽々でしたよ。この日は金曜日なのに、この駐車台数の凄さ!ほぼ満杯、凄。

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紀州加太 駐車場

 

深山第二砲台がいまは、休暇村 紀州加太なんです

 

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休暇村 紀州加太

(休暇村の無料バスに乗せてもらった手前、すこしベンチャラ解説しておきますよ)

 

大人気、休暇村紀州加太とは

 

ここ「休暇村」ずいぶん人気が出たよね。リニューアル前のいささか“寒い過去”を知っているだけに、ビックリだな。

この宿の一番のウリはなんといっても「景色の良さ」天気よい日には、紀淡海峡の絶景がどっか~んと望めます。そしてこの宿のお風呂は「加太温泉 天空の湯」湯舟に浸かり眺める夕景が、みごとなんですよ(…と、聴いた)。

一度は泊まって落日をのんびりと眺めてみたいものです。

(※加太温泉の泉質は「炭酸水素、塩泉ナトリウム」ヌメっとした海水みたいな<笑) 

また日帰り入浴も人気です。問題点は「入浴時間が限られている」こと。日帰り入浴は、時間要注意ですよ。なので旅程などご留意ください。

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天空の湯 入口付近

(※日帰り利用時間 12:00~15:50 <15:00 札止め> 料金 大人1,200円 小人600円)

こちらが「天空の湯」入口付近です。でも、今回は温泉に入りにきた訳ではない。いささか「残念でござるなぁ」我々はあっさりと湯ターンして外へ向かうのだった。

▽「休暇村紀州加太」ざっくりとした紹介ビデオ。

youtu.be

○休暇村紀州加太ホームページ⇒ https://www.qkamura.or.jp/kada/ 

 

さて、まずは「第二砲台跡 展望所」からの眺めをチェック!この位置に、第二砲台の左翼観測所がありました。紀伊水道が一望でき、視界はすこぶるイイ。ただこの日の海は、軽く霞んでいましたが。

トンビがクルクル上空を舞っていました。

🙄弁当食べるには、要注意ですね。

 

深山第二砲観測所跡から海を眺める

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展望所からの眺め

見下ろすと加太の漁港に大波止、その奥には淡嶋神社や旅館街がよく見える。沖ゆく船が霞んでみえますね。構図がよく、なかなか絵になる風景です。

「報告、敵艦見ユ!」

陸軍がこの地を対艦砲台に選定した意味が、展望所に立ったらよく分かった。海抜110mから打ち出す砲弾は、弧を描き加速度がつく。きっと破壊力抜群だったと想われますね。

「しかし・・あんな芥子粒みたいな船に、砲弾が当たるものだろうか?」

沖ゆく船眺めての感想。この後「第二砲台 掩体壕跡」へ移動した。

 

第二砲台跡 棲息掩体壕跡は…嗚呼、何たること 

 

すると「エンタイゴーてなに?」と大宮一等兵が聞く。

すでに☆栄進しているぞ。

「う~んと掩体壕はねぇ、英語でバンカーとかトーチカとかいうやつ。ヒトとか物資とか飛行機とか守るため、煉瓦とかコンクリでガッチリと守備陣地を…何というか、まぁこんなやつやな」

写真を指し示す。が、掩体壕が写ってないよ?これ。

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在りし日の第二砲台

深山重砲兵連隊(重砲兵第五連隊)は、紀淡海峡を北上侵犯する敵艦を、山上から迎撃するための砲台要塞をこの深山に展開した。当時最新鋭の二十八サンチ砲を据付け、紀淡海峡を守っていました。

○深山第二砲台(海抜100m)  二十八サンチ榴弾砲×六門、明治二十六年十月 成立

また深山第二砲台は、深山重砲兵連隊の演習砲台としても使用されたらしい。深山連隊が日露戦争の旅順要塞攻略(203高地)に参加した際、高い命中率と練度をもって旅順陥落に貢献したとのことです。

この休暇村の建物がある場所に、砲台群があった訳ですが。でも砲台らしき痕跡は、いまは全く残ってはいません。

 

我々は駐車場の東側、掩体壕に移動す

 

ここに小さ目の掩体壕がある。残念なことに保存されている遺跡は、このひとつしかないようだ。その周囲は芝をうえベンチもあり、綺麗に公園化されている。

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駐車場から見た掩体壕

フランス積みの煉瓦が素晴らしい。入口上部の二重アーチの巻き方もいい、なかなか意匠をこらしていて美しいですね。出入口横に縦スリットがあいているが、これは明り取りだろうか、それとも連絡用のケーブルを引き込んだ穴なのか?

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第二砲台跡に唯一残る掩体壕

さらに不思議なのは出入口が、海側を向いていることである。そして位置が、少しだけ掘り下げた「半地下構造」なのである。なんか変だよね、果たしてココは“弾薬庫”なのかな?

第二砲台には二十八サンチ砲が、六門備え付けてあったという。その堅鉄弾は217kgもあったらしいから、管理運用とも簡単ではなかったはずだろ?てことは、ここは「弾薬庫ではなかった可能性」がたかいね。

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弾薬庫?小さ目の内部構造

内部は比較的小さい構造で、左右と天地(高さ)も無い。だいいち砲台とも離れ過ぎているし…この場所は「砲台指揮官の発令所」として、使ったのかもしれないね。

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反対側から眺めると

 

う~ん作戦計画、再確認しますね

 

公園ベンチに腰を下ろし、水分補給。再びモバイル古地図チェック。海寄りの山頂点が二箇所削平され平坦になっている。その南側がいま居る「第二砲台跡」そして少し上の北側の平坦な場所が「第一砲台跡」となります。

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深山砲台跡付近古地図(今昔マップより)

その山の右下、麓には「衛生病院」と「重砲兵営」と記載されている。ここが「深山重砲兵連隊本部」があった場所です。

阿振川(あぶりがわ)が山間を流れています。その谷間に、連隊本部がありました。いまも駐車場に、顕彰碑が残っています。

由良要塞司令部の年譜を調べてみると、明治三十七年に一度部隊は外地へ転出(日露戦争)。その後大正二年には、深山第一砲台、深山第二砲台がすでに役目を終え、廃止になったことが書かれていました。

 

<由良砲台 年譜(略歴)>

明治22年、1889年  3月 - 「生石山第三砲台」を起工、由良要塞の建設開始。

明治29年、1896年  7月 - 「由良要塞司令部」開設。

明治31年、1898年10月- 「由良要塞司令部」が兵庫県津名郡由良町に移転 

明治36年1903年  5月 - 「鳴門要塞」を吸収合併。

明治37年、1904年  2月 - 「動員下令(日露戦争へ出兵)」により転出。

○大正  2年、1913年  4月 - 「佐瀬川保塁、深山第一砲台、深山第二砲台、赤松山保塁、伊張山保塁、成山第一砲台、成山第二砲台」の廃止の方針が出る。

 

いまは兵舎跡がスポーツ公園になり、衛生病院跡がオートキャンプ場などに使われていますね・・え”~あのキャンプ場に昔陸軍病院があったの?!

しかし「衛生病院」とはね。衛生には感染症のイメージがあるよな。兵隊さんが悪所で○○を貰ってくるみたいな「こりゃ、ヤバいっ」<笑

ココも航空写真と重ねて見ると解りやすい。歴史が流れていますね。

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深山砲台跡の東側には、あぁ~何と!

 

そしてMAPをさらに右側(東側)へ、阿振川の上流部へ辿って見ると、山間にあったもの…地図に「陸軍墓地」と「射撃場」と印してあったのです。

「あ~!そうかぁ、そうだったのか・・」わかっちゃった!

いまは「恐竜の森林公園」として親しまれているが、明治時代には「深山重砲兵連隊付の墓地」があったのでした。これ軍人専用のお墓です。それについての最近の新聞記事を見つけました。記事を一部引用します。 

 

以下引用『和歌山県和歌山市加太の森林公園内にある「旧深山陸軍墓地日清戦争以降 紀淡海峡防衛のため同地に配備された、旧陸軍の深山重砲兵連隊の兵士たちが埋葬されているとされる。

市民にはほとんど知られていないこの場所を後世に伝えようと、旧陸軍兵や元自衛隊員らでつくる深山会(旧陸軍墓地を守る会)が整備を進め、昨年初めて慰霊祭を実施。

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軍人墓地と深山会の皆さん

ことし(平成30年)も20日午前10時から営む。同会は「命を懸けて平和の礎を築いてくれた英霊を顕彰し不戦の礎として未来に伝えていきたい」と話している。「旧深山陸軍墓地」は同地に重砲兵連隊や陸軍の病院が創設されたことから、兵役中の病死や公傷死者らの墓地として日露戦争後に造営され、約50基の墓石が並ぶ。墓碑銘から兵士の出身地は和歌山や大阪、京都や滋賀など近畿圏中心であることが分かる。』

(引用文:和歌山新報 2018/5/19付)

 

この森林公園には過去、何度も訪れたことがあったのですが。

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紫陽花のシーズンはとてもいい雰囲気

阿振川に沿って南北に、大きめの公園が造ってある。リアルで巨大な恐竜や動物の像があちらこちらに沢山設置されていて、子供向きかなぁ?(笑)

まぁ、色々と考えられていますね。でもこの谷間特有の「陰気臭い雰囲気」があって、あまり好きになれなかったな~。

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深山森林公園(今昔マップより)

そして昔から「心霊スポット」として、何かと噂のたえない場所だったのだが、その根拠がよく判らなかったのです。

いわく「兵隊の幽霊に追いかけられた!」とか「小さい白い女の子がたっている!」あと「公園トイレにだけは、入ってはいけない!」などである。

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迫力あるタイガーが棲息しています

実際、忘れ去られた「陸軍墓地」その場所。そういうコトだったのか、これはこれで、何だか納得出来ましたね。

少なくとも「お化け話の根拠」がコレで、ハッキリしましたからね。苦笑い

この場所は、これ以上触れないでおこう。この公園に置かれているオブジェ等については、こちらの『日本珍スポット100景』に詳しいです。

珍スポット扱い⇒恐竜世界&サファリ探検っぽい撮影スポット「森林公園」【和歌山】 | 日本珍スポット100景

 

西側には友ヶ島がぽっかりと浮かぶ 

 

反対の西側には海が拡がり島嶼(とうしょ)が並ぶ。休暇村ロビーから、友ヶ島方面はこんな風に見えるのです。

手前が地ノ島、奥が沖ノ島、併せて友ヶ島と呼ぶ。軍事要塞島だった関係で、戦後まで地図にすら明記され無かった「黒歴史を持つ」のです。

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休暇村ロビーからの眺め

さらに奥にうっすら見えるのは淡路島ですよ。紀淡海峡の幅(※約11キロ)は、わずかな距離しか無いことがよく判りますね。薄曇りなのは残念です。

(※海峡間を地の島、沖の島でフタをする格好となる。由良瀬戸は幅4.7km、水深20m以上の大型船可航幅は2.8kmしかないいわゆる海の難所である)

 

深山第一砲台跡へと、サクサク転進しま~す

前回ここに来た時は、銀輪部隊がフラフラと登り、ダイレクトに海を目指して降りていった。電撃戦すこし慌て過ぎたね、今回はその反省をこめて来たのだから…「慌てない、あわてな~い」By 一休さん

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休暇村の案内看板

駐車場の端にいい具合に、案内看板があった。かなり精度ある地図、等高線まで入っておりまするな。たいてい観光地の地図看板はデフォルメされたものが多く、変なイラストが被っていたりで地形が把握できないものが多い。コレはなかなか親切でイイね。

▽参考動画/加太、深山、城ヶ崎、友ヶ島周辺海域のドローン映像

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さて第一砲台跡に向いましょうか

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第一砲台跡へ向かう歩道

休暇村から続く道を、てくてく下ってゆく。 整備された快適な遊歩道である。右に見えているのは、休暇村の第二駐車場。コチラも車がかなり多いですね。これじゃ宿、満室だよなきっと。

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歩道脇には山フキが群生していた。何気無いことだけど、歩くの楽しくなるよ。トベラ、ツバキ、ヤマモモ、クヌギなど植栽されていました。

そしてすぐに分かれ道に至る。左へ道下れば「男良谷砲台跡」に至る。真っ直ぐ煉瓦道をいけば「深山第一砲台跡」へ迷わずたどり着きます。

前回はこの道を海へと、降りていったけれど、ねぇ。

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海へと続く木漏れ日の道

通称「木漏れ日の道」その名前の通り、森から木漏れ日がさして鳥が啼く。なだらかな下り道で、気持ち良くテクテク歩いて行けます。当時の軍道をそのまま保存され、快適なハイキングコースとなっています。

また六月頃には「ヒメ✨ホタル」が舞い飛ぶ姿が観れるそうですよ。もちろんその時は、夜ですのであたりは真っ暗、足元だけは要注意です。

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この先に第一砲台跡がある

こちらは「深山第一砲台跡」へと続く煉瓦道、驚いたことに明治時代のままのレンガ敷が残されているそうです。歴史の香りがプンプンしますね。

軽い登り道です。今回はまず、砲台跡経由して行くことにしますね。この路入口の右手側に「小さな駐車場」があり便利。だいたい五~六台はクルマを停めることが出来ます。そしてネコちゃんがいました。

 

第一砲台への道をサクサク歩く

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紀州名物「備長炭」の原材料である、ウバメガシが自生している。木漏れ日が刺し山あい独特の空気あり、イイ雰囲気ある歩道が続く。「いかにも、いかにも」ずいぶん“いわく”ありそうな煉瓦道ですねぇ。

初めて来たのなら結構“ワク♡ドキ”ものではないかな?この先に「謎の洋館」でもあれば「うきゃ~♪」と、なりますね。これはカップルデート推奨地ですよ。イチャコラしつつね散歩<笑

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煉瓦敷の広場に到着

 

深山第一砲台跡に到着しました

 

深山第一砲台跡に着いた。右翼側、煉瓦を敷き詰めた広場がある。城郭で云えば「武者だまり」といった所かな。「邀撃陣地(ようげきじんち)」であるのは判るが、はて?この正面右手斜面を上がると右翼観測所、さらに奥には深山砲台跡展望所へと続く道、左手へ折れて行けば砲台跡、正面すぐに地下掩蔽壕降り口がある。

また、右側の山を藪漕ぎ登ってゆけば「大川山堡塁(海抜129m)」がある。この深山砲台を側面支援するために設けられた堡塁、明治三十年頃のものだ。いまは森と薮のなかに埋もれている。今回は探りませんよ。ヤダヤダ<笑

この広場のすぐ左側、振り向くと・・「ありゃ、何だこれ?」

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謎の石垣組を発見

石垣組みで“コの字”に窪んだ場所がある。「?」なんか、ココ気になるな。 

「この場所、なんだと思う?この造りは変やろ」

「う~ん、ゴミ置き場かな?トイレかも?」

いやいや。この苔の付き方は水気があるからだろう。地面がここだけは煉瓦ではなく土だから後から埋めたようだ。だいたい、この山頂には水の手がないからね。てことはたぶん「ここに防火用水槽があったのではないかな」と、ワタシは推定した。でも、ホントは何だろねぇ?

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掩体壕への最初の降り口

広場すぐにいきなり急な石段があった。木々が生い茂り、昼なお暗い感じではある。風に揺れる木の影が、微妙な陰影をつける。地面に落ち葉が積もり腐葉土となっている。この造りは、オシャレなのかな、それとも不気味かな。

 

生息掩体壕跡に降りて行くと 

 

「さぁ、ココから掩体壕に降りて行くことにしますかぁ」

(※メンドーなので掩体壕と書いてますが、正確には「棲息掩蔽部跡」と云うらしい。“せいそくえんぺいぶ”って語感、何だかイヤらしい感じ<笑)

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通路は一部だけ水溜まりが出来ていた。意外と排水は良いみたいだが、排水溝が見当たらない。いったいこの通路下、どんな構造になっているのか?

後ろを振り返ってみる。角度を変え曲がっている通路。勿論、何らかの設計意図があるのだろう。この角度、やはり気になります。錯視効果か?

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煉瓦建築物は、ホント綺麗に保存されている。イケてるミリコス立たせて、写真を撮りたいね。きっと映えるはずだ。「う~ん。イイねぇ~オサレだ」地面の枯葉さえも、オシャレに見えてしまうよ。

「こりゃぁ、パリの裏町の風情だねぇ!」(フランス、いったことないケド)

「なんで砲台の設計は、フランスなん?」と大宮が聞いてきた。

「おぉ、 いい質問ですねぇ。ダーバンセセレガァ~ン…なんたらこたら」

☆いっこ追加だ。

「え~とですね、日本陸軍が明治の初めに建軍した際、まず参考にしたのがフランス式要塞だったから、その流れで…ナンダカンダ」

ここ深山に限らず明治初期の建築物は、フランス式煉瓦作りの丸いアーチを描くものが多かった。特に砲台要塞は洋上から発見されにくいように、山中の高所に隠れるように建設され、ベトンで固めた砲座と艦砲射撃にも耐えられるように、やたら頑丈に弾薬庫、援体壕と兵員居住施設などが造られたという話である。

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それぞれ掩蔽庫の鉄扉は既になく、部屋のなかは昼でも真っ暗。懐中電灯が必須の暗さだ。子供が鬼ごっこするには「不適格!」隠れるのには、マジ怖すぎるから。この三連の掩蔽庫は、それぞれ内部が通路で繋がっていた。

しかし不思議なことに野ざらし物件に付き物のゲジゲジ虫もいないし、苔の類も付いていなかった。上から射し込む陽射しが、少しまぶしく感じる。これには幻惑されるね。

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スリットから空を眺める

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掩体壕反対側からの眺め

正面の階段を登り振り返ったところ。地階と地上からでは感じるイメージがまるで違う(そりゃ当たり前だけれど)目線が変わるだけで、かなり変な感じがするね。なんだろう?やはりここは邀撃陣地だったのかな、道を曲げてのトレンチ構造としたら。

(※邀撃陣地とは、敵を迎え撃つのに“地形効果の高い場所”に、要塞や塹壕線を張る防衛陣地のこと。日露戦争時の唄「橘中佐の唄」にも登場する。♪わが精鋭の三軍を“邀撃(ようげき)せん”と健気にも 思い定めて敵将が集めし兵は二十万~♪ロシア軍が二十万てか、凄っ?!)

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さらに砲座跡を探ってみる

 

深山第一砲台は三ヶ所の砲座を、二つの煉瓦隧道(トンネル)で繋ぐ構造になっている。柵のある下に二連の弾薬庫があり、それぞれ階段で降りてゆくことが出来ます。

基本的には先程見た掩体壕と同じ構造になっていて、この写真の右側には二砲座跡がある。この設計は友ヶ島にある第二砲台と煉瓦構造もほぼ同じ、多分同時期に建設されたものと思えますね。年代は、どうだったろうか。

○深山第一砲台(海抜121m)  二十八サンチ榴弾砲×六門、明治三十年九月 成立

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二十八サンチ榴弾砲 砲座跡

丸い形に落ち葉が積もっている。この場所に、二十八サンチ榴弾の砲塔があった。砲座間にある四角い窪みは、砲弾をリフトアップする穴。いまは埋められているみたい。

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砲座跡木漏れ日が陰影つくる

前方にはレンガ壁さらに盛上げた土手斜面が続き、砲座の高い遮蔽物になる。二つの砲座の真ん中に海方向への階段がひとつある。

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砲座前の煉瓦壁面に直径20センチ位の謎の穴が開いている。まるで魚雷発射管みたいな感じに見えますね。

ワタシが「この穴はなんに使うと思う?」と大宮上等兵に聞いた。

すると「砲弾を撃った残り物を、ココから下に戻すのかなぁ?」というのだ。

「おぉ、薬莢を捨てる穴か!エコシステムやなぁ」なるほど、面白いね。そんな物戻されたら、弾薬庫ではいろいろ大変だろうなぁ。

「答えは、伝声管。ここから叫ぶと地下の弾薬庫に、声が聴こえるらしいよ」と耳を当ててみる。当たり前だが何も聴こえない…てか、逆に聴こえたら怖いわっ「揚弾!」と叫んでみるよ。

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二つ目のトンネル抜け振り返った所、百数十年も雨風に耐え、トンネル隧道が綺麗な弧を描く。長い年月にびくともしない頑丈さ、この美しい造りにはホント驚きますね。

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三つ目の砲座から階段を上がり、左翼側の観測所跡へ。この場所だけはかなり崩壊が進み、土砂が下の砲台跡に崩落していました。ココは残念ですね。

 

そして深山砲台展望所からの眺め

加太で「フォトジェニックな写真」そう“インスタ映え”を撮るなら、絶対この場所が推し!とにかく180度ワイドな空と海景色が「ドド~ン!」と拡がっています。

 

ぜひ写真に撮っておきたいスポットですね

 

海側へとむかえば、展望所がある。紀淡海峡に穏やかな海風が吹いていました。瀬戸を往く船舶と友ヶ島、淡路島、その奥に四国の山並みが霞んで見えますね。北方向には、大阪湾から六甲山がぼんやり霞んで見える。

空気が澄み渡る冬には、遠く神戸の市街地、明石海峡大橋まで観ることが出来ます。また春先には、海側のノリ面に可愛い水仙が咲くそうです。

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深山砲台跡 展望所

そして夕刻には。震えて落ちるような太陽が、あたり一面を照らしながら変化して逝きます。以前のことですが、ホント感動した覚えがありましたね。

その時の様子が、過去ブログにありました。 

minminzemi81.hatenablog.com

しかし天候により、その表情が変わる(大気中の塵や水蒸気量など)ベストな季節、日時の予測は簡単ではないのです。

たぶん「晴天の無風」であれば、撮影には上々かと想われますが。夕陽写真、季節は春より秋が、夏はやはり晩夏の頃がイイ感じに夕焼けます。

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秋の夕暮れ、表情がゆたかです

荒天欠航や何かの事情で、友ヶ島へ渡れなかったのなら、ここ深山第一砲台展望所をオススメ。「もうひとつのラピュタ」この記事をご覧になったように、山側にある弾薬庫群も結構“ラピュタ感”はアリます。

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どどど~ん!!

TO BE CONTINUED…Part3に続きます。

▽終曲/♬.*゚蘇州夜曲 Byアンサリー

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さて次回予告⇒いよいよ大詰め「水雷隊基地の秘密」探検話が、始まります!

○深山砲台跡説明だけで12.000文字超えちゃった。

ドンならんでなぁ~砲台跡だけに。

(※🐍足再び/大阪城天守閣入り口付近に青銅砲がある。元は大阪湾のお台場にあったものらしいが。徳川時代にはこの大砲で時を知らせていたと云う。正午には必ず「ドォ~ン!!」と大砲の空砲が放たれて、大阪の人々は昼前に「ドン鳴らん?」と呟いた、それが大阪弁の「ドンならんなぁ」の語源になったといいます)

 

資料参考/ 「写真にみるあのころの和歌山」和歌山市立博物館、アジア歴史資料センター、ウキペディア、ニュース和歌山

(12.000文字、thank you for reading.)

失敗しながらグングン旨くなる「パンチェッタ ペペロンチーノ」の作り方。我が家の乳化メソッドとは?【男の料理】

昔から“女史はパスタ料理が大好き”なのだ。デモでも「わたちぃ、イタ飯大好き♡」なのに、調理知識がナイナイだったら、そりゃ「痛メシィ~ハナシ」に終わるだろうモン?
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そうなのだ、そこでやっすいウンチクをサクッと語るのが、これまた昔から“イケてる男”の務めナノだね。これぞまさに「イケ麺」なのだなっ!…「それはどうかな?」まぁいい。

 

<今回の発見ポイントを、最初に書いておきます>

○茹で汁は、3%程度の塩分濃度で?
○茹で時間は、マイナス一分で勝負!
○ソースを乳化させることが、大切!
○イタリア料理は、ラテンのノリで!

 

パスタを茹でる際に最適な塩分濃度は、アバウト3%…マジか?

 

そ~です、そうなのです、海水の塩分濃度※と同じ。夏に海水浴に行きワーワーやってたら、急に高波が来て呑んでしまう。( ゚∀゚)・∵. 「グハッ、かっらぁ~~!」と感じる、アレ。あかんあかん、ホント辛すぎますよね。

余談ですが、地球上の海水の量は約13.7億m³で、地球上の水分の97%ですよ。残りわずか3%がお水、アクア。しかも南極の氷にそれの大半が集中している。さらに「飲める安全な水」は、地球上にほんのわずかしかないノダよん。サラに皿に、余談だが。その海水の成分構成は「塩化Naが77.9%、塩化Mgが9.6%、硫酸Mgが6.1%、硫酸Caが4.0%、塩化Kが2.1%」わずか残りの成分は、沖ゆく兄弟船から流れてくる「演歌Na」のであ~る。

▽曲はもちろん名曲『石狩挽歌』だぁ~🎶

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コレで、えエンカなぁ~?

 

嘘、どぇ~ぇ~す~ぅ!!

 

(※調べてみたら海水塩分濃度は、3.5%と書いてあった。これではさすがに、濃すぎますね、ダメぽ)

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さらに、余談ついでに「タバコよりも塩を何とかして欲しい極悪JTの塩」オーストラリアだか輸入した謎な白い粉を、薬品でMg、Caなどニガリ成分を除去、純粋培養工業用「塩化Na99.9%」こんなの使っちゃぁダメですぜっ!そこのお母さん!美味しんぼの山岡だって怒っていた。「嫌煙よりも嫌塩」だろ!

ミネラル塩を使いませう!

我が家では国産「あらぢお」です。漬物、特に梅干しを漬けるとその違いが判りますよ。青梅に対して20%の粗塩比率が、黄金比✨なのだな。例えばスーパーで売ってる梅干しなんか塩分8%と書いてある。ヘタすると6%とかある、保存性がなく賞味期限つきやし、そもそもおかしいじゃろ「保存出来ない梅干しなんて、ありえなくな~い?」でしょ!

んん~?あっ、パスタだった~そうでした。取り乱してすいやせーん。

「水1リットルに対して約30g、大匙二杯見当」の比率、多いかな?

紆余曲折経て「一般大衆が失敗すなーいには、こいめの茹で汁がいる」この答えに、たどり着いたのだけれども。例えばプロのレシピなんか見ると、茹で汁塩分濃度1%なんて書いてある。へえぇ?水1リットルに10gは、ほんの少しで何かと計算が難しい。なので最後の仕上げに、また塩をふることになる。これでは失敗リスクが増えるよ、我々シロートだからねぇ。まず条件がちがふ。

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パスタの茹で方がポイント

例えば「エンゼルヘア」とかいうプロが使う細い麺がある。ペペロンチーノには不適だが、茹で時間と塩分濃度はソートーシビアらしいです。普通の饂飩と極上素麺ぐらい違う、繊細さがあるので失敗しやすい。パスタサイズが変われば、もちろん塩分も減らすわけで、やっかいな計算になる…と。

「マンマミーア!」

この話は標準的な乾麺パスタ(1.7mm)の話です。しかもいまだ発展途上のレシピなのです。

結論にはなかなか至らな~い。

 

イタリア人シェフ、パスタ鍋にどっかし!塩を使うぞな

 

お店キッチン眺めて(シェフのやるコト観るの愉しい♪)ビックリした記憶がある。だいたいイタ飯屋の味は、全般やたら“濃いめ”に出来ているものだ。さすがアモーレのお国柄、物事何でも「恋め」に出来ているのね♡ハイハイ。日本では通称「ペペロンチーノ」だが、イタリアでは「アーリオ(にんにく)オーリオ(オリーブオイル)エ ペペロンチーノ(唐辛子)」という料理名です。「食材並べてるだけかいっ!」イタリア人にとってこの料理、大阪の「けつねうどん」みたいなモンでっしゃろ?大阪弁やな、笑 イタリア人と言えばこの番組、スケベそうなイタリア人シェフがまたいい感じ~♪でやっていますね。

▽本場の「アーリオ オーリオ エ ペペロンチーノの作り方」観てAmore!

YouTube

料理全般やはり「塩加減」は大切なのです。 神田川先生だって「塩は命やぁ~!」と、たしか仰っていた。 (ちがふ?)近頃、減塩ブームとかで、やったらめったら手抜き“塩抜き”したがる風潮がある。それは健康に良いのかもしれないが、パスタが上手く出来ないではないかぁ!シオシオ…2%か?では、こんかい「にっぱ~☆(梨花ちゃん)」で。

 

星くん、パスタ茹で時間は、マイナス一分で勝負するですたい

 

ペペロンチーノは、シンプルな素材「ニンニク、オリーブオイル、唐辛子」だけで仕上げるので「誰でも出来るが、奥が深くて飛騨がある」といわれている。…奥飛騨慕情やな、マジか!んんっ、ではでは、やってみよう~♪パン!

○用意した材料/1.7mmスパゲティーニ(イタリア産)、国産ニンニク、唐辛子、エキストラバージンオイル(トルコ産)、ベーコン(ブロック肉)orパンチェッタ(イタリア産)ハイっ、オールスターキャスト、ジャ~ン!!パスタ一人前100gは、女性の指でOKサイン位。200gは、男の指で二人前の見当になりますね。今回はこちらの男スケールで、大盛り、喰いすぎ。茹で時間はたいてい、袋に書いてくれています。

いま手元にあるのがイタリア産「アントニオ デニーロ 1.7mm」茹で時間は、何と9分と書いてあるね。それ長過ぎる、8分でもどうかな?あとの乳化作業での時間、マイナスしないとね。それ、だいじ。

パスタをお湯の中でクルクル回転させたいが、それがなかなか踊らないよ。本格的な寸胴鍋(業務用)でやりたいところなれど、残念ながらそんな装備は無い。我が家の永年の検討案件ですな。

家にある大き目な鍋でやるしかないね。お湯をグラグラ沸騰させずに、パスタ麺を茹でるのです。アバウト2%のゆで汁ですよ。さぁいきますよぉ―。

<オリーブオイルと茹で汁を渾然一体化、油と水のハーモニー>

さて、茹でている間にソース作りをします。ニンニクは包丁の腹でぶっ潰し、鷹の爪は輪切りにタネは捨てます。フライパンにオリーブオイルを引き、ベーコンを投入し手早く、チョッチ炒めます!「ワイルドだろぉ~!」

次に潰したニンニクを入れ、パンを斜めにしてニンニクの香りをオリーブオイルに移します。コンガリしたら火からはずして、しばらく放置状態です。これでいいのだ!

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ガシャガシャガシャ混ぜています

 

乳化作業はアスリート「手早く高速」で、白濁すれば完了

 

はい、セットしたキッチンタイマーが鳴っています。「ゆっくり急げ!」フライパンを弱火で、唐辛子入れ焦がさないように。 オリーブオイルは、温度がすぐ上がるので火加減は要注意。キッチンスタジアムは、ヒートアップ!パスタの茹で汁を大体お玉一杯アバウト見当、フライパンに投入しガシャガシャと手早く混ぜこみます。白濁するまでスピード感で、余熱で、ココで一気呵成、勝負だなっ!オラオラオラァ~ 「いいですねぇ~いいですよぉ~出来栄え点が期待出来ますねっ!」つぎに鍋のパスタはお湯切りせずに、ダイレクトにパンに投入します。このパスタを使い、前後にパン揺すりながら、ユサユサと仕上げてゆきます。これが乳化作業です。フライ返しは怖かったら、やらなくてもOKです。やがて「たっぷん、たっぷん」と、何だか猥雑な音がするようになる。エッチぃ感じ♡になったら、その動きをピタリとめる。はい、多分コレでアルデンテに“仕上がったはず”ですよ!

(※乳化白濁の裏技、茹で汁にほんの少し小麦粉を混ぜ込むと楽チンですが、風味がオチるのだ)

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ツヤツヤに仕上がりました

艶よく仕上がったら、胡椒を軽く振ってお皿に盛り付け、ニンニクとベーコンを上にトッピして!

<<パンチェッタ ペペロンチーノ>>

完成です!☆☆☆星三つです!←はやっ

さぁ、熱いうちにソク食べましょう~♪おぉそうであった、そうでした、忘れていました。やっぱ「お酒」ですな。酒の相棒には、辛口のペペロンチーノが良くあうのですよ。甘口ワイン、麦酒にもよくあうな。グビグビッと…そこにペペロンチーノが、ど~ん!登場!コレですよね。チュル「う~まいっ!」

さぁ、山盛りペペロンチーノ。召し上がれっ!

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~完成ですっ~

Ex.粉チーズ(パロマ産)をふると、すこぶる風味が増しますね。さらに乳化します。胡椒はホールのヤツをすり鉢で、ゴリゴリ粉砕すれば香りが立ちます。そして豚肉は、角ベーコンではなくパンチェッタを使えば、さらに本格的になりますが…すべて弱点は“お値段”です! ビンボーが憎いです<涙

(3600文字、thank you for reading.buono!)

「深山砲台跡と海軍由良水雷隊基地」もうひとつのラピュタ!ドタバタ探検記。和歌山市 加太【戦争遺跡】…Part1

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ヒトはとかく何かを求め「旅」に出たがるもの。つまんない日常を飛び出し、非日常に我が身を置いてみる。そして未知の土地を、ひたすら尋ね歩く。

あげくヘトヘトだ。そして求める何かは発見するのだが「謎」は読み解けないまま「トホホ気分」で旅を終えるのが常だ。でも、それでイイのだ。

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なのでまたも新たなる旅に出る訳なのだね。いやはや、何やってんだかね。世の中には「自分探しの旅」に出るヤツ迄いるらしいが。

オイオイ、旅なんかで自分を探して、ド~すんだい?それでもイイのだ!Let's go easy !!

 

[Mission One]

謎のダンジョンとは?和歌山、加太の男良谷(おらだに)にあったと云う“海軍由良水雷隊基地”にまつわる情報を調べる

 

何故この場所に興味を持ったのか

 

何処から語り始めるべきなのか、何だかいまだに迷っているのだ。では、この場所に興味を持ったきっかけ話から始めよう。

十年ほど前のある日、地元タブロイド紙ニュース和歌山」に掲載された記事にたまたま目が止まったのである。

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これがその記事 出典ニュース和歌山

この記事によると和歌山の城郭研究家 森崎順臣氏が、「加太(かだ)深山(みやま)で謎の洞窟を発見した」と云うのだ。

(※地名の加太は→「かだ」深山は→「みやま」で、男良谷は→「おらだに」と読みます。「読み方を間違えているヒト、多過ぎィ~(笑)」なので。地元の方は、そんなコトで怒ったりしませんが“不快感”はありますので、ご注意を…)

この洞窟、明治時代の海軍が「由良水雷隊」を編成し、加太の北側にある深山の地に“極秘理に軍事基地を構築していた”と云うハナシで「え、えっー、なんじゃ、こりゃ?!」と、ワタシは結構驚いた。

「秘密基地!…萌♡」←小学生かっ!

もちろん深山の砲台跡は前々から知っていたが、陸軍砲台と海軍基地が一つ場所※に混在しているなんて、なかなか考えられないことである。それに少し、気持ちわるいよね。

(※陸海軍は歴史的に何かと仲が悪かった。しかし日清、日露戦争の頃でもあるので、若干事情は違うのかも知れない。)

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深山砲台跡

しかし「自分は別にミリオタではない」し、当時個人的なことでゴタゴタしていた時期だったので、詳しく調べることもなくそのうち、このコトを忘れていた・・。

 

でも、急に思い出したりするしね

 

▽そして去年の春のことです。友ヶ島に遊びに出かけた。で、友ヶ島要塞群を面白おかしくブログにまとめた。その時のブログがこちらです。

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友ヶ島ラピュタの秘密地図

タイトルにある「もうひとつのラピュタ、深山砲台跡と海軍秘密基地」の意図は“前作に引き続く連続話である”という、意味合いがあります(ダラナガばなしの連作なのですよ、笑)。

それで、現地友ヶ島(ここにも、海軍施設があるね)で色々調べるうちに、深山にある「謎の海軍施設」の話をふと思い出したのでした。 

「海軍の水雷基地かぁ・・しかし、あれはいったい何だったんだろうか?」

ブログの流れ的には友ヶ島砲台跡に続いて「加太、深山の要塞群」をまとめる予定だったが、それにしても残されている情報が少ないのだ。いや、自分に情報収集能力ないだけかもしれないが。

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深山砲台掩蔽壕跡

謎の解明は魅力的だけれども、この案件どこからアプローチすべきなのか。「困った困った、こまどり姉妹←この昭和ギャグ、誰も知らない?ポコポコヘッド!なら「しまった、しまった、島倉千代子も?

 

その頃の時代背景など考えてみると

 

朝鮮半島をめぐり日清両国がシノギを削っていた時代。その先には帝国ロシアの影が常にあった。日本は、明治二十二年に大日本国憲法公布し、帝国議会を開設する。明治政府は「近代国家」なるものを大慌で拵えてゆく。 

「西洋に追いつき、追い越せっ!!」

その熱気ムンムンのなかで「明治二十二年より三十八年頃まで、足掛け十六年間」由良海堡は、少しづつ形造られていった。しかし由良砲台群が築かれた時代は、まだ日露戦争以前のことである。この時代の加太地区の歴史となると、なぁ・・結構つらいね。

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淡嶋神社(年代不明) 現在とおもむきが違う

 

のんびりと作戦会議を始める

 

我が家の大宮二等兵に声をかけてみる。

 

「大宮!深山の砲台跡に、海軍の秘密水雷基地があったらしい。ココへ行ってみるか?」

「へー、面白そう。行きたい!えっ・・大宮てぇ、、何?」

「いや~まぁ、それは気にするな。この図面をみてみ、山の上からワイヤーで水雷を吊して海面に放つんやで。ワイルドだろぉ~?!」

資料の『由良水雷隊兵舎假設位置圖』なるものを、指でトントン示した。 

「…(グタグタ説明中)…て~な訳。この場所は崩落してかなり危険なんや。なので翌朝未明、我が第参総軍が乾坤一擲の勝負にでるっ!」

「第参総軍て、二人しかおらへんやんか・・」と、大宮二等兵

「むむっ、細かい設定はよろし。先ずは行程。我々は一路加太駅前を目指す。ココから無料バスがある。そして前線基地を第二砲台跡にある紀州加太休暇村に定める。ココには我が軍の輜重隊が展開し、さらに噂ではまったりする温泉♨まであるらしいよ」

「よろしいなぁ。で、ご馳走食べて、温泉入って帰ってくると・・」

「そう、そう、そう。やっぱ天然♨温泉で、眺めかてエエしなぁ。ホッコリしてこりゃ、エエわぁ~♪て、コラコラッ!ちゃいますがなっ」ピシッ!

これは、ノリツッコミですな。

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深山第一砲台跡(連絡通路トンネル)

とりあえず大宮二等兵に説明を、いや明治の歴史がザックリとつかめる史料ないかな「あ、坂の上の雲なぁ・・」そうそうコレがあったな。

(※言わずと知れた戦争映画の傑作『兵隊やくざ勝新太郎が演じた、大宮二等兵である。観たことないなら激推し!!の作品です。是非ご覧あれ、昭和40年、大映映画社)

  

坂の上の雲について、すこし語ってみる

 

そうだよ、司馬遼太郎氏が描く『坂の上の雲』の頃なんですね。この作品、明治政府の黎明期、いや青春時代なのか、そのガムシャラな世相と空気感を見事に表現していますよ。

この小説はドラマにもなりました。放送時にはワクワク興奮しましたから。モックンがハマってましたねぇ、秋山真之だ。好古は阿部寛香川照之の子規も好演でした。キャスティングがいい。脇を固める役者も大物ぞろいだった。 (※2009年から2011年まで足掛け3年にわたり放送されました)

「ほんと珍しい事だよね、NHKがこのクオリティをつくれたのはホント、奇跡だね」シナリオだけが二転三転したことだけが、残念ポイントになるのかなぁ。いやいや、人物の描き方がステレオタィ・・ハイ、グダグダ云わない。そうそう、こんな感じでドラマは始まりました。

▽リンク/「坂の上の雲」OPシーン

YouTube 

このオープニング(渡辺謙NA)で毎回、ハートをガッチョリ掴まれてしまいましたからねぇ。そしてドラマ終わりに憎いことにエンディング曲「Stand alone」が流れだすのだった…

♪~迷い悩むほどに 人は強さを掴むから 夢をみる 凛として旅立つ 一朶(いちだ)の雲を目指し~♪

またこの楽曲で、ビンビン余韻を噛み締めることになるのだった。いま聴いても何故か泣きそうになるな(何故だっ、明治人か貴様はっ)なるほど成程そうか、久石譲作曲だったのか、名曲でしたね。

▽リンク/「坂の上の雲」ED曲『Stand alone

youtu.be

このドラマをまだ未視聴の方(特に若いヒトはね)は、いますぐ観た方がいい。DVDにもなっています。そして原作読んでいない方、是非とも読んでください。たしかKindle版にもなりましたよ。

この小説は『竜馬がゆく』と並び、司馬文学の最高傑作!まさに真骨頂だと想いますからね(ハイ、異議は自動却下されました)。

司馬さんはとあるインタビューに答え『(日本は)何故こういうつまらない国なのか。国を運営している人々が何故こんなにお粗末なのか』だから私は描いたのだ、敗戦時の二十二歳であった“自分への手紙”なのである。と執筆動機を語りました。

残念ながらいまだに日本政府はそうですね。(明治から昭和にかけては、何かとゴタゴタと、そうせざるを得ない「情けない事情」もあった訳ですが)で挙句、敗戦国日本よ。何とも情けない国のままだ。お粗末さんだ。

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おそ松さんだっ!!!

多分、戦中派の司馬さんは戦後生れの「戦争を知らない子供たち」に、作品を通じて問うてみたかったのでしょう。「むかし、こんな男達がいた。そして、こんなことをやり遂げた。さぁ、あなたはどうなんですか」と…あ、話がそれちゃいましたか、ねぇ?そうでしたぁ「坂の上の雲」のレビュじゃないのだから。

 

○一応参考までに/作家 司馬 遼太郎(しば りょうたろう1923年生 ~1996年没、命日は2月12日)本名 福田 定一(ふくだ ていいち)は、大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の漢(太郎)」から。ほんま、シャレてますな。

○大戦中は戦車第一連隊に属する。満州国にて、九五軽や九七式中戦車(チハたん※)の戦車長(小隊長)をつとめていた。大戦末期には大陸から茨城県佐野に移動、敵上陸地点を九十九里浜に想定し本土決戦準備を整えた。結果、戦火交えることなく敗戦を迎える・・その後九十九里浜にて慟哭したという。

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これが九七式中戦車

○余談だが、チハたんの「チハ」とは「チ=中戦車」で「ハ=三番目(イロハ順)」である事を表す秘匿名称。(甲型「チイ」乙型「チロ」などがある)ちなみにガルパン知波単学園、福田ちゃん(小柄でおさげ、丸メガネ可愛い)は、司馬遼太郎がモデル。あと西絹代はバロン西だし、いいのかこのパロぶりはっ。そして知らぬ間に「女体化JK」にされた司馬さん。さぞや泉下で・・「ガルパンでも観てるかな?」ガルパンはいいぞ~ぉ~♪

 

はいっ、これがガルパン「進め!乙女の戦車道」

 

いちばん通信士、武部沙織「♪装甲が薄くたって~ 主砲がしょぼくたって~ それはそれぇぇ」劇場版は、必見ですぞっ!

▽リンク/ガルパン『進め!乙女の戦車道』

YouTube

「進軍でありますぅ!」

「突貫!」

福田ちゃんであります、可愛ぇぇ~♪萌え。

劇場版 ガールズ&パンツァー フィルム 知波単学園 福田

はいっ、またも脱線しますたぁ☺時系列戻せ!

 

それでは、もう少しだけ明治期の流れをまとめてみます。いえいえ、残念ながらたいしたコトは知りません。サクッと「歴史の流れなぞる」のみにて。

 

日露戦争前、砲台構築は始まってる、その背景と意味

 

十九世紀末は日本にとって、とても“危うい時代”だった。帝国主義者が跋扈するヨーロッパ列強が、アフリカ・アジアを分割支配するのに躍起となっていた。もちろんそれを望まない日本国は「植民地を得るか?植民地になるか?」という二択を迫られます。

いわゆる「西洋列強(イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、イタリアなど)」が、清での権益を虎視眈々と狙っていた。その清国争奪戦のなかでの「明治三十七年二月から三十八年九月迄」続いた、日本とロシアとの戦史を『日露戦争』と呼ぶ。

この闘いは、云わば「日本の安全保障問題」であったのです。自国の存亡をかけた大博打と、言い換えてもいい。

 

その以前、明治二十七年に『日清戦争』に勝利した日本は「下関条約」を結び、多額の賠償金(当時日本の国家予算の四倍強、三億六千万円前後)と、港湾土地を清より譲渡される。これにより日本国内の民間産業、軍事整備が大きく発展し、日清戦争以前と比べ急速な進捗が可能となった。

しかし中国の遼東半島は各々列強にとっては、戦略的に特に重要な地域。なのでロシアは、日本の遼東半島を我が物にしたいと考え、ロシアはドイツとフランスを誘って「三国干渉を画策」した。

これを拒否すれば、戦争も辞さない「高圧的な要求」だった。この外圧を受け、しぶしぶ遼東半島を清に返した日本。だが現実には、その意図(戦争回避)に反し、隣国清国は欧米列強に次々と侵略され続けることとなる。高まる国内不安、政府への批判。さらにマスコミが、煽りにあおったのです。

そして当時の日本では、「臥薪嘗胆※」が流行語となった。

(※がしんしょうたん。“リベンジのために苦労に耐えしのぶ”という意味)

 

ロシアは日本が返還した遼東半島を租借(期間占有)し、さらにドイツ、イギリス、フランスも各地域をそれぞれ租借する。ロシアは大部隊を増強し満州も事実上占領する。そして更に南下政策を推し進める動きまで見せる。

このままではアジア地域は、「アフリカ大陸の二の舞」になってしまうだろう。この状況を危険視した大英帝国。あくまでも“自国の権益”を護るため、急ぎ日本と明治三十五年「日英同盟」を結ぶ。これにより日本と英国は利害関係が一致した訳だが、ひと安心どころか「益々情勢は剣呑」となった。このカオスな帝国主義者の陰謀渦巻く清国領土争奪戦のさなかで、明治日本は「帝国ロシアとの開戦を決意」するのです。

 

これには、世界中が驚いたっ!!

何とフェザー級が、ヘビー級に挑む」のですから。はい、三笠出撃デスよ!

▽リンク/ Naval legends『日本海海戦』なかなかよくできた番組です。


YouTube

戦艦三笠について

日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本帝国海軍は急ピッチで軍拡を押し進める。そのため国家財政が傾いたほどだった。そんな中で「六六艦隊計画」の一環として旗艦「三笠」は、イギリスのヴィッカース社に発注され建造されました。

 

ハセガワ 1/700 日本海軍 戦艦 三笠 プラモデル

◉1899年(明治三十二年)1月24日起工。1900年(明治三十三年)11月8日、進水。

◉1902年(明治三十五年)1月15日から20日まで「海洋公試」が行われた。

◉同年3月1日サウサンプトンで「日本帝国海軍への引渡し式」が行われた。

◉建造費用は艦本体が88万ポンド、艤装兵装が32万ポンドであった(約1500万円)。

排水量15.140㌧、全長131.7m、出力15.000馬力、速力18㌩

<ジェーン海軍年鑑より>

◉いま三笠公園岸壁には、戦艦三笠が「記念鑑として保存」されている。三笠の艦首は皇居へ向けられており、さらにそのまま直線状にロシアへ向けられている。これは保存時に三笠が「帝国海軍の象徴(聯合艦隊旗艦)」とされていたことから。そのため終戦直後にソビエトから“三笠解体の声”が上がったが、交渉等により解体は回避されたと云います。 

<ウキペディアより>

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日本海軍 戦艦三笠 呉沖合にて

付記/第二次世界大戦まで「五月二十七日を海軍記念日」としていた。日本海海戦(対馬沖海戦)でロシアのバルチック艦隊を破った日、それを記念して想定されたという。いまでも海上自衛隊などで記念式典(基地祭など)が行われています。ご存知でしたか?

 

江戸時代からお台場建設は、急務とされていた

 

島国日本の国土防衛を考えるならば、まずは沿岸部を固めねばならない。江戸時代からすでに、その歴史は動いていたのです。

それは幕末期のこと、安政元年九月十五日。ロシアのプチャーチン提督のディアナ号が日本に開国を迫り紀伊水道に現れた。もちろん“幕府や朝廷へ対する示威行動”だった。

紀伊水道を自由に往来し、大阪湾の天保山沖にディアナ号は停泊した。そして十月四日には加太浦に寄港する。

下田奉行宛ての親書を渡し翌日、下田へと向かったと云う。

紀州藩では急ぎ六千人藩士と、四千人の住民を動員して「友ヶ島」から「下津大崎」までのお台場の構築と、大砲、鉄砲、要員配備を実施しました。この時海、軍奉行並だった勝海舟や門下生の坂本龍馬も、砲台視察にきたと云う逸話もあります。それほど“重要視されていた場所”だったのですね。

さて、次は「由良要塞の地勢的」なお話です。

 

紀淡海峡の地形について理解する

 

では「敵の艦隊に本土が強襲されたなら」を考えてみる。

<神戸、大阪に大型船舶(敵艦隊)が向かう場合>

拓けた紀淡海峡が突然に狭まり、航路が淡路・沖ノ島間にある細い由良瀬戸を通るしかないことが解る。これ程護りやすい防衛地形は、他には見当たらない。

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友ヶ島 由良瀬戸風景

もちろん鳴門海峡もあるが遠廻りの上、明石海峡をまたくぐらなければならない。戦術的にはこちらのルートをとる可能性は極めて低い。なので由良瀬戸を狙って来ると考えるのが妥当。

 

▽衛星画像の左下から、沼島、淡路島、友ヶ島沖ノ島地ノ島。本州側に深山加太地区、右端に紀ノ川流れる和歌山市街がある。

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衛星画像 出典元/ウキペディアから

[想定防衛エリア]兵庫県 淡路島 由良地区〰(由良瀬戸4,700m)〰沖ノ島〰(中ノ瀬戸500m)〰地ノ島〰(加太瀬戸800m)〰和歌山市 深山 加太地区。

 

由良要塞群全体像とは…いまだ不明点が多い

 

由良砲台、堡塁跡(陸軍)は現認出来るだけでも二十五箇所以上ある。さらには海軍施設も、確実に存在する。“未発見で埋もれた建造物”もまだあると思われるが、けっこう謎が多い。

 

【由良地区】淡路島地区
1生石山第一砲台 2生石山第二砲台 3生石山第三砲台 4生石山第四砲台 5生石山第五砲台 6赤松山堡塁 7伊張山堡塁 8生石山堡塁 9成山第一砲台 成山第二砲台 10高崎砲台

 

友ヶ島地区】沖の島地区
友ヶ島第一砲台 2友ヶ島第二砲台 3友ヶ島第三砲台 4友ヶ島第四砲台 5友ヶ島第五砲台 6虎島堡塁

 

【加太地区】深山、加太地区
1深山第一砲台 2深山第二砲台 3男良谷砲台 4加太砲台 5田倉崎砲台 6大川山堡塁 7高森山堡塁 8佐瀬川堡塁 9西の庄堡塁

 

【鳴門地区】1篠山砲台跡、他不明 (観光地化され、駐車場などに転用されているらしい)

 

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二十四サンチ加農砲

深山砲台跡のあらまし

 

明治20年頃、清国との戦争がいよいよ現実味を帯びて来る。明治政府は国防策として日本艦隊より遥かに有力な清国艦隊に対処するため、沿岸要塞建設が急務となった。最初に着手したのは「対馬要塞」と「下関要塞」、そしてここ「由良要塞」です。

なかでも“紀淡海峡の重要性”にいち早く気付き、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に、強力な西洋式砲台群を大急ぎで設置する。

そのうちの深山地区は紀淡海峡を東から扼する重要な位置にありました。(※運用上は友ヶ島地区と連動すると考えられますが、後に由良地区の所轄となったようです)

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二十七サンチ加農砲射程範囲

深山加太地区の深山重砲兵連隊(後、重砲兵第五連隊となる)は、紀淡海峡を北上侵犯するであろう敵艦を、山上から迎撃する砲台要塞をここ深山に展開しました。当時としては「最新鋭の二十八サンチ砲」を据付け海峡を睨んでいました。

(※サンチについて。「サンチ」は「センチ」のフランス語発音。陸軍は「センチ」を「サンチ」と表記した。主に大砲の口径寸法に用いた。)

 

<深山地区 砲台内訳>

 

○深山第一砲台(海抜121m)  二十八サンチ榴弾砲×六門

○深山第二砲台(海抜100m)  二十八サンチ榴弾砲×六門

○深山第三砲台(海抜10m程)  十二 サンチ 加農砲×四門

 

<加太地区 砲台内訳>

 

○加太   砲台 二十七サンチ加農砲×四門

○田倉崎砲台 二十八サンチ榴弾砲×六門

 

二十八サンチ榴弾砲徹甲弾は217kgもあった。揚弾機で吊るしハンドルで位置調節しながら装填した。砲身の長さは2,863mm、最大射程は7,650mでした。由良要塞群の二十八サンチ榴弾砲のいくつかが日露戦争時に、遼東半島の203高地攻略※のため此処から運ばれていった。

この地を護っていた由良要塞砲兵連隊 第三大隊は、日露戦争において「旅順と奉天の戦い」に従軍。203高地奪取後の旅順港砲撃戦では、日頃の訓練の成果をいかんなく発揮して、ロシア太平洋艦隊を壊滅させる大戦果を挙げたということです。

(※海抜203mだったからフタマルサンと呼ばれたと云う。子供を亡くした乃木希典は「ニレイサン」と名ずけた。)

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深山 第二砲台 二十八サンチ榴弾砲

時代が昭和に移り、第二次大戦のころには航空機にて闘いを決するようになり、これらの要撃施設はもはや時代遅れとなってしまった。

そして太平洋戦争末期の本土空襲では、高高度で飛来するB29群に対しては、まったくなすすべのないまま敗戦を迎えたのです。これらの施設は終戦後、進駐軍の手によって爆破・撤去・解体され、その長い歴史の幕を下ろしたのでした。

 

しかし…この地にて「本土決戦準備」をしていたのではないか…?

 

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『もりもり盛り上がる 雲へあゆむ』By山頭火
そう、現在ある「休暇村紀州加太」の場所に「深山 第二砲台」があった。駐車場から延びるレンガ遊歩道を、道なり北に進むと「深山 第一砲台」へたどり着き、さらに西側に進み、海沿いに下れば「男良谷 第三砲台跡」と至る。

 

「この砲台の南にあったという謎の水雷基地を探検しに行くぞっ」フォー!!

 

我々は、坂の上の雲を目指し「どエラい坂(笑)」を、登って逝くのであ~る!

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休暇村紀州加太

さて次回予告⇒「深山砲台跡の秘密」探検話が、いよいよ始まります!

どどど~ん !!!  

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和歌山市駅から加太線に乗る

「出発進行」ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン・・

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TO BE CONTINUED…Part2第二話に続きます。↓↓↓

minminzemi81.hatenablog.com

イントロだけで8000文字超えちゃった!

ドンならんでなぁ…砲台跡だけに。

(※ヘビ足/大阪城天守閣入り口付近に青銅砲がある。元は大阪湾のお台場にあったものらしいが。徳川時代にはこの大砲で時を知らせていたと云う。正午には必ず「ドォ~ン!!」と大砲の空砲が放たれて、大阪の人々は昼前に「ドン鳴らん?」と呟いた、それが大阪弁の「ドンならんなぁ」の語源になった)

 

参考資料/和歌山市立博物館、ウキペディア、ニュース和歌山

(8800文字、thank you for reading.)