minminzemi+81's blog

あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ ノシ

運命の日は、5月1日。あの日はたしか、1994年のGWだった。音速の貴公子アイルトン・セナへの想い出ぽろぽろ 【自動車レース】

平成生まれの若者は、伝説のF1ドライバー「アイルトン・セナ」を知らないらしい。もちろん、自分が生まれる前に亡くなったヒトに「てんで興味がな~い」のも仕方ない。でもね、チョットまって、チョットまって。

かつて「昭和の終わりから平成の始まり」にかけて日本では、空前絶後の「F1ブーム」があったのです!

F1ファン(オタじゃないよ)のワタシが、あの熱い90年前後を振り返り、F1ブームの状況とかレース観戦の思い出話を書いてみます。では…「1994年5月1日に、いってらっしゃい!」←所ジョージかっ!

 

熱いアツい「F1ブーム」とやらを、サクッと解説します

 

まずは皆様に知って頂きたいのは、日本人F1ドライバーで遅咲きルーキーと呼ばれた中嶋悟※1が、1987年にキャメルカラー「ロータス・ホンダ※2」でデビューしたことなのであります。そしていきなり7位、6位、5位、4位と尻上りのリザルトを、たたき出したのです!これにはホント、日本中が沸いたぁ!!

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ロータス・ホンダ99T(#11中嶋悟マシン)

そして、その翌日には大きくニュースにも報じられました。特に第七戦イギリスGPにてウィリアムズのマンセルが優勝、二位ピケ、ロータスが三位セナ、四位に中嶋悟「ホンダエンジンがトップ4独占!」という快挙を達成。それで「な~んだ中嶋悟、次は表彰台かな?」と、あの頃は至極当然のように想っていましたね(実はこれトンデモなコト)。ロータス・ホンダでの中嶋のチームメイトが「アイルトン・セナか」だった訳で、いまにして思えば、中嶋も“大変な相手”と組まされていたものです。なぜなら翌年の「ワールド・チャンピオンがセナ」だったのですから!

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マクラーレン・ホンダMP4/4(#12セナマシン)

バブル景気の始まりで、資金がダブダブの日本企業がF1のスポンサーや、コンストラクタとして参戦し「アイルトン・セナ&ホンダ」人気なんかもF1ブームの後押しをしました。世の中が“妙な熱気に溢れていた”あの頃。

(※1 中嶋は、34歳でロータス・ホンダよりデビューを果たし、日本人初のF1ドライバーとなる。「雨の中嶋」と呼ばれ、ウエットレースに強かった。1987年の開幕戦から1991年の最終戦オーストラリアで引退するまで、五年間F1で活躍した。出走回数80回、予選最高位6位、決勝最高位4位、ファステストラップ1回) 

(※2 車体を油圧制御するハイテク装備、アクティブサスペンションが本格的に実戦投入された。ロータスホンダ車は全戦使用したが、重量増加や信頼性など問題も多くリザルトには反映出来なかった)

 

F1グランプリテレビ中継は、欠かさず観る!見ながら、「ビデオでも録画」

がディフォだったね!

 

それからCXのテレビ中継「F1グランプリ」。レースウィークには必ず「TV観戦&ビデオ録画」をしていました。悪いことに日曜日の深夜枠で、眠くてね「ん~夜更しは、ヤバいよォ…zz」ウトウト寝落ち寸前、だからビデオ録画が必須だったんだ。

▽いま想えばそんな状況で見るから、逆に楽しかったのかも?!

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番組は、この「超イケてるオープニング曲」で始まった。T-SQUAREの『TRUTH』(1987年~1998年までOP曲)が流され続けた。いま聞いても、ワクワク♪ドキドキするね。当時としては、「超斬新なフルCG」の画面だった。あぁ、懐かしのフレーズ「超~」って、いまでは死語だったかな?いや、まだ使うよね。

あと、エフワン雑誌も買っていました『F1グランプリ特集』や『レーシングオン』を購入して、チーム状況やレース展開を分析なんかしていましたね。しかしこれ、何なんですかねぇ、F1にまつわる情報のあの奇妙な面白さは…何だかね、ヤッパリ90年代が懐かしいなぁ。昭和人ならみんな思うのでは?

 

毎年恒例となる「秋の鈴鹿詣」が始まったのが1991年からです!

 

初めて「F1日本グランプリ」を観に行く日がやってきた!

 

それで、1991年のこと…うん、平成三年か。三重県にある『鈴鹿サーキット』に「F1グランプリ」を初めて“生観戦する日”が突然訪れたのです!ついに「生」なんでもナマが一番だっ!F1観戦も、ビールも、チョメチョメもねっ!←コラコラ

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マクラーレン・ホンダMP4/6(#1セナマシン)

10月18日~20日の三日間。スケジュールは、もらったチラシがまだ手元にあった。あの頃は、決勝前にF3やシビックレース、あとクラッシックカーパレードなんかも同時開催していたのでした。いまもそうだろうか?

(※チョメチョメの発案者は、山城新伍だという。放送上、都合のワルい単語に充てた。ちなみにホニャララは久米宏らしいね!)

 

<91年F1日本グランプリ in SUZUKA>

○18日金曜日、フリー走行、F1予選1回目

○19日土曜日、フリー走行、F3サポートレース予選、F1予選2回目

○20日日曜日、フリー走行、F3サポートレース決勝、F1決勝レース

 

当時、指定席チケットが「プラチナ✨チケット」と呼ばれとても入手困難、あれば“プレミア闇価格”で出回っていた。とてもそんな高価なモノ、買えませ~んからね。どうしたもんじゃろの?それで一計を図った。レース関係の知り合いに「自由席チケット」何とか二枚サイドドレイン。ワタシ以上に“エフワンオタ”だった兄を誘ってみたら、即OK!そりゃそうです、随分気合いが入っていましたね。笑

18日の金曜日は、会社を有給♪とって、準備万端、備えは盤石!キャンプ道具一式等を車の後部座席(ミニクーパーだったので、後方見えぬ程テンコ盛り状態です、何なんだぁこの物量は?)に積込んで、いざ決戦の鈴鹿へ!車高がさがりイイ感じにパンパン底突きしていた。爆

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鈴鹿サーキット国際レーシングコース

 <鈴鹿サーキット特長>

一周、5.807km。コースレイアウトは東西に細長く八の字を描き、立体交差を挟んで右回りと左回りが入れ替わる。最大高低差は、52mもある。アスファルトのμ係数はとても高いが、雨が降るとコースに川のスジが出来るほどにもなる。スタンドから海が見える、世界一素敵なサーキットだ!…Maybe。鈴鹿コースレコードは、ルイス・ハミルトンが叩き出した「1分27秒.319」(2017年F1日本GP予選Q3)「でるかっ、夢の34秒台ィ!」とか騒いでいた頃が懐かしいなぁ。

 

レースへの期待と素晴らしいワクワク高揚感、これぞF1

 

ブォン、ブォ~ォ~!西名阪をカッ飛ばし、目指すは三重県鈴鹿サーキット!そうなんです、この年の鈴鹿は実に興味深かった。「セナのワールドチャンプ決定&中嶋悟引退鈴鹿ラストラン」があったのです。この頃が日本での「F1人気絶頂期」だったのですね。

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ティレル・ホンダ020(#3中嶋悟マシン)

カーステから流れる曲は、ヤッパこれ「TRUTH✨」でキメっ!イケイケGO!GO!スピード出し過ぎっ?!亀山ICで降り窓を開けると、涼しい風が舞い込んだ。そしてカーンと秋晴れの蒼空が、とてもいい天気だった。全く問題(キャンプなので)ないね。鈴鹿川沿いの道を車でゆくば、やがて空からエクゾーストが聴こえてきた。「キャッホィ!」この甲高い音、きっとフェラーリだっね、ワクワクドキドキ感が高まってきた。ついに来たよぉ来ましたよぉ~♪この高揚感こそ、エフワンの醍醐味なんだぁー!!

(※エクゾーストは排気音。F1マシンが絞り出す凄まじいサウンドは、まさに天に轟く雷鳴!ちなみにマクラーレン・ホンダのマシンは、MP4/6。エンジンが、RA121E 3.5ℓ NA、V12。地響きをたて「地獄のような音♪」がしていたな<笑)

 

アイルトン・セナ VS ナイジェル・マンセル対決が決着

 

<超絶技巧『セナ足』>

セナだけが出来る“謎のテクニック”と言われ、これはコーナー旋回途中で「パパパパ…」と小刻みに右足でアクセルをあおる。これによりコーナーアウト時のエンジンの吹け上がり(+500~1000位か?秒6回ほど、忙しい開閉の煽る)を良くしたらしい。予選時には、ワタシはスプーンカーブにいた。そこで“セナとベルガーを比較”して観ていたのだが、排気音が確かに違った。そして、スプーン二つ目での脱出スピードも違い、さらにクリッピングポイントもセナは手前で、バックストレートに飛び込んでいった。しかし、何だろう?良く分からないな。結局のところ予選タイムPPはベルガーで、セナは二番手となったから「ベル足」の勝利ってコトですか。ベルガーが予選用セッティングで、セナは決勝重視だったかもしれない?

▽アイルトン・セナの鈴鹿アタックを、大迫力オンボードカメラでどうぞ!

YouTube

(※セナは1回目のタイムアタックで1分34秒898を記録。ナイジェル・マンセルは1分35秒594と届かない。このままセナが4年連続でポールポジションかと思われたが、セナのチームメイトのゲルハルト・ベルガーがさらにスーパーラップを刻み1分34秒700をマーク、ポールポジションを獲得した)

<決勝レース>

フロントロウにはベルガー、セナ二台のマクラーレン・ホンダが並ぶ。その後ろにナイジェル・マンセルがいた。スタートして1コーナー、ベルガーが先頭に飛込みセナがマンセルを巧みにブロック牽制し、まずはマクラーレンの作戦が成功。続く9周目には、メインスタンド前から1コーナーにかけて、マンセルがセナのスリップストリームを利用し追い抜こうと仕掛けた。だが、そのまま2コーナーでランオフエリアに飛び出し、リタイアしてしまった。それでこの瞬間に、セナの「三度目のワールドチャンピオン✨」が決定したのです。

(※スリップストリームは、レースの追抜きテクニック。ストレートで先行車の背後に付いて、空気抵抗を減らしスピードアップを図る。しかしコーナーでは逆に、空力的に不安定となり危険、あと冷却系にも影響する) 

 

<決勝リザルト>

優勝 ゲルハルト・ベルガー

二位 アイルトン・セナ

三位 リカルド・パトレーゼ

鈴鹿ラストラン中嶋悟は、S字カーブでリタイアした。ホント残念でしたっ。

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F1マシンは間近で見るとホント美しい(MP4/6)

セナはレースを終始安定した走りで、まさに「王者のレース」だった。やはりこの年('91年)が「セナの黄金期」だったのか。翌年から少し状況が変わり、あまり勝てなくなった。ハイテクマシン相手に、クレバーな走りで優勝したり、逃したり。あっ、モナコだけは別格だ。セナは「モナコマイスター(6勝)」なのだから! 特に「'92年のモナコGP」には、萌え!ゴール寸前迄、手に汗を握るヒートだったね。

それにあわせて、'92年から'93年へとブームは少しずつトーンダウン、世間のF1人気も陰りが見え始めて来た。でも、個人的には逆にヒートアップ⤴していましたが。この頃のF1は愉しくて仕方ない。そして94年のシーズンを迎える…運命の年。

○90年アイルトン・セナ“予選スーパーラップ”の様子。シンジラレナイ・・・F1 Classic Onboard: Senna On The Charge At The 1990 Monaco Grand Prix - YouTube

(※モナコGPの長い伝統に加え一般の市街地コースのため、高い運転スキル、長時間にわたる集中力を、ドライバーに要求される。それゆえに「モナコGPの優勝は3勝分の価値がある」ともいわれている)

 

えぇぇー!!! 音速の貴公子、アイルトン・セナがまさか…!

 

運命のあの日はGWのなか日、1994年5月1日だった

 

そう、あの日はゴールデンウィークで実家に帰っていた。遊び疲れてヘロヘロだ、まさに寝る寸前だった。よい子は、もう寝るぞ~深夜だからね。すると二階から姉が、ドタドタ階段を降りて来た。「テレビつけてみ、エラいコトになってるでぇ!」とわざわざ言うのである。あいかわらず変なやつ。ほな、テレビをポチッとな。 

それで一通りチャンネルをソートしてみると、突然、奇妙な番組が目に飛び込んできた。そこにはサーキット会場で、沈鬱な表情を浮かべ喋る中年男性二人の姿が。あ、れれっ?画面にいたのは、フジTVの三宅アナとF1解説者、今宮純氏なのである。確かにそうなのだが、パドック前で棒立ちマイクを握り喋っているではないか。そして泣いているではないか。打ちひしがれているではないか…!これはレース中継では無いぞ。

イモラ・サーキットからの生放送であること、セナがレース中に事故をおこし死亡したこと、レースのあらまし等など、繰り返し二人は伝えていた。そして“トイレで泣き腫らした後の顔”みたいな川井ちゃんが横に立っていて、それが妙に印象的だった。

▽あの夜に、この放送を観た。丁度この辺りだったかのかな?

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しばらく寝ぼけ頭で考える「え~なんてことだ、セナが死んだって…?」にわかには信じられない。しかも、単独でウォールにぶつかるなんて、そんなのありえない。あまりのショックで茫然自失…と言いたいところだが、わりあい冷静にテレビを眺めていましたね。そして明け方まで、ずっと何かを考えていました。そんなこんなで、イモラからの「F1グランプリ」番組は、生中継を観ていましたが。

 

その後にも、とんでもない話が続いていくことに

 

この'94年シーズンの状況※1は、セナが6年間在籍したマクラーレンチームを離れ、かねてから念願だった“最強マシンのウィリアムズ”へと移籍した。各メディアとも、事前予想では「セナがチャンピオン最有力候補」だった。しかし現実にはマシンの信頼性に欠け、開幕から二連続リタイア、いまだノーポイントで終わっていた。新レギュレーション※2で“アクティブサスが全面禁止”になり、ピーキーな謎挙動をする「ウィリアムズFW16」をなだめすかして駆っていたセナ。

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イリアムズFW16(#2セナのマシン)

このマシン(FW16※3)について、セナはシーズン前にこう語っていました…『この車の運転にはとてもネガティブな感触がある。限界までコーナーを攻める時やその他の点でもね。車に乗っている時は違和感があって、なにもかもが間違っているように感じる』少し感覚的で捉えどころのないセナのコメントだが「すでに何か」をこの時に予見していたらしい。なにもかもが間違っているとは…なんてこと。

(※1 詳しく/前年度圧倒的勝利したウィリアムズチームは、この年コンストラクターズチャンピオンの死守に、からくも成功した。セナの後釜は復活「#2 ナイジェル・マンセル」が務めた。しかしドライバーズランキングは「#5 ミハエル・シューマッハ」と、最後までワールドチャンピオン争いをしていたセカンドドライバー「#0 デイモン・ヒル」が追い上げ、わずか1ポイント差で二位に終わった。このリザルトから考えても、やはりセナが生きていれば“結局チャンピオン”になれたはずだ。でも、まぁ、これはタラレバだけど)

(※2 この年の規制は、「ハイテク技術の禁止」により“チーム間の格差解消”を目的としたものだったが、それが逆に“安全性を損ねる結果”へとつながった悪夢の年)

(※3 ウイリアムルノー FW16、エンジン、ルノーRS6 3,5ℓ NA V10)

 

魔女に魅入られた、イモラ「サンマリノグランプリ」

 

金曜日(決勝の前々日)予選初日。同国人のブラジル人ドライバー「バリチェロの大クラッシュ」があり、ホテルに帰ったセナは恋人のアドリアーナに電話をかけた。そしてきょうあった事故について話している途中に、泣き崩れたと言われている。

土曜日(決勝前日)予選の二日目。この日にも「ラッツェンバーガーの死亡事故」が起きていた。セナはこのアクシデント後、恋人に電話し「走りたくないよ…」と弱音をもらした。しかし夜になると「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」とも語ったと言う。このように情緒不安定となり、セナは徐々に追い詰められていく。

そして結果的にはセナも含み、F1開催三日間で「5回の大事故(内2名が死亡)観客にも重軽傷者多数」という犠牲者が出ることとなります。イモラ・サーキットに棲むと云う、「伝説の魔女」が牙を剥いたのだ。

 

決勝レースではレース中断、再スタートから呆気なく…

 

決勝日の5月1日を迎える。セナは「開幕から三戦連続のポールポジション」からスタートを切った。その後の展開は、難なくトップをキープした。しかし後方での事故によりレースが中断、すぐに“セーフティーカーが導入”された。再度、仕切り直し。これで少しあったアドバンテージも無くなる。

(※JJ・レートが、エンジンストールしてグリッド上に停止、後方からスタートしたペドロ・ラミィが追突し二台のマシンは、コース上で大破した。マシンの破片はコース上に散乱し、観客席にも飛び込んだ。警備員・観客の多くが負傷する大惨事。しかしスチュワードは、レース中断としなかった。あきらかに判断を誤っている)

そして再スタート後の七周目(現地時間午後2時17分)、二位のミハエル・シューマッハを従えて超高速左コーナー「タンブレロ」にセナは進入する。この時の車速は312km。コーナー三つ目の舗装のバンプ(継ぎ目)で、突如マシンのトラクションが不安定となり、タイヤグリップを完全に失った。

(※セナの死亡事故により、94年度のワールドチャンピオンとなった新星「ミハエル・シューマッハ」は2013年12月29日、フランスで“スキー事故”により、頭部に致命的な障害をおった。いまでは昏睡状態から覚醒して、リハビリができる状態まで回復した。このタンブレロ事故の時、一番真近でセナマシンの挙動を見つめていた人物である。)

マシンはアウト側に大きく振られ、たいして減速もできずにそのまま直進しコンクリートウォールに激突。セナのマシンはボディー右側が大破し、タイヤ、パーツなど大量に撒き散らしながらランオフエリアに停止した。

▽このヒルシューマッハ、セナの車載映像をご覧いただきたい。

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タンブレロコーナーで、路面の舗装が変わる部分(三つ目の黒い路面)突如マシンの後輪がトラクションを喪失して(スローパンクだとすると右リアタイヤか?)います。セナは一瞬アクセル戻しカウンターをあてるが、既にマシンはグリップを完全に喪い、そのままブッ飛ぶようにウォールに激突しました。これは、単純な「ドライビングミスでない」ことは明らかです。

▽推奨ビデオ/「アイルトン・セナ音速の彼方へ」

 

このレースの「事故原因の解明」はどうなったのか?

 

事故原因として当初から疑われた「ステアリング故障※1」は否定された。そして現在では“わずかな路面の不整備”からマシンがコントロールを失ったとされています。天才ドライバーセナにして「コントロール不能」とは、明らかにFW16マシンに何らかの原因※2がある。しかし、事故原因の本質的な結論にはいまだ至っていない。そしてセナの死亡原因については「大破したFW16の右サスペンションアームがセナのヘルメット(バイザー)を直撃、眼孔貫通し、脳損傷した」と、医師団から発表されました。これは即死に近いと思われます。

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タンブレロコーナー事故の瞬間

事故原因不明、責任者不在、さらに裁判の長期化。それでも開催中止には至らないF1サーカス。レギュレーションを改悪指示した「F1の悪魔」だけが、その因果関係の全容を知っているのだろう。そして永久封印としたのだ。そして…巨大なパワハラに曝される世界が、いまも続いています。

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改修されたイモラサーキット(2010年)

(※1 レース前、セナの要望によりチームが、ステアリング位置の簡易な改造を行った。この改造が事故原因と疑われたが、その後“何故か不問”となった)

(※2 不思議なのは、そのマシンの挙動変化を一番知っていたのは、セナ自身だったはず。そしてウイリアムズチームも、テレメタリーで判っていたはず⇒「ドライバーもチームも判断ミス」を犯している)

 

ユーミンの鎮魂歌にて、この話のまとめとしたいよ

 

いま生きていれば、セナ59歳となるねぇ「around還暦」だ。引退後はF1界の名伯楽として「チームSena」のオーナーになっていたのかもしれない。享年34歳でした。合掌。

○最後に、ユーミンがセナに捧げたレクイエム曲「ハローマイフレンド(1994年)」

youtu.be

アイルトン・セナ・ダ・シルバ (Ayrton Senna da Silva,3/21/1960~5/1/1994)

ブラジル人のF1パイロット。「モナコマイスター」や「音速の貴公子」の異名で呼ばれた。F1での生涯成績/出走回数161回、レース優勝41回、ポールポジション65回、ファステストラップ19回、総獲得ポイント614ポイント。88年、90年、91年と3回F1ワールドチャンピオンになった。

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マクラーレン・ホンダで大活躍したことから、またセナ本人が親日家で、そのため日本人のセナファンが数多くいた。歴代チャンピオン、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケらと並び近代F1を象徴する存在として「F1四天王✨」と呼ばれる。特にプロストとの強烈なライバル関係が「セナ・プロ決戦!」とマスコミに囃し立てられ、大注目され続けた。

(※そう名付けたのはMC古舘伊知郎で、音速を時速換算すれば1,220km位、トンデモ速すぎるダロ)

○付記/F1界を40年にわたり牛耳ってきた「バーニー・エクレストン」が務めてきた最高経営責任者に、アメリカのリバティ・メディアチェイス・キャリーが就任。「この著名なグローバル・スポーツを成功に導いたバーニー・エクレストンに感謝したい。彼は名誉会長に就任する…」実質的にバーニーは窓際族てことか?

 

参考/ホンダコレクションホール、レーシングオン、F1グランプリ特集、ウキペディア 

(9000文字、Thank you for reading.)

戦国武将列伝 大和五條に松倉重政という“摩訶不思議”な殿様がいました【歴史案件】

松倉重政は奇妙な戦国大名。奈良 五條新町地区の礎を築いた名君と、称えられるその一方で「島原天草一揆」の原因をつくった史上最悪の殿様と酷評されています。天と地ほど違う評価ですね。でもそれは、何故なのか?!

松倉重政とはいったい、どんな人物だった?

戦国大名筒井順慶を支える武将

松倉一族の出自は、越中国新川郡松倉が本貫地。室町時代あたりに、大和の添上郡橋田に移り住んだと伝えられています。

父の松倉重信(右近)は最初、大和の大名 筒井順慶に仕えていた。高名な嶋清興(左近)と並び、筒井氏の両翼「右近 左近」と讃えられた名将でした。

その順慶の死後、重信の息子である「松倉重政」は、筒井氏を離れ浪人(異説あり)となったらしい。

徒手空拳スタート転機は関ヶ原の戦い

しばらく後、重政は「関ヶ原の戦い」に単身参陣し、軍功(一番首を挙げるなど)により「大和五條 一万石 二見城主」となる。

一万石とはいえ一国一城の大名なのです。これは余程家康に見込まれたのでしょう「目端の利く者」として。

関ヶ原合戦以後、五條西隣りの九度山には、徳川家にとって目の上のたんこぶである、眞田一族の昌幸、信繁親子が移り住んでいました。そのための“監視係”として家康から、密命を受けていたのでしょう。

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一国一城の主を夢見て

その一方、商業の町「五條新町」の整備や「諸役免除」など藩政に尽力し、わずかな期間ではありましたが大和五條を「商業の町」としての礎を、見事に築きました。

商業に目を付けるあたり、やはり重政は只者ではありませんね。一説には「豊太閤に憧れていた」からとも云いますが。米作より商業の上がりを重視しました。

(※地元五條市では「松倉祭り」も開催されるほどの大人気ぶりなのです。町中に“豊後様”の顕彰碑まで建っています。それでいまでも「名君」と評価されていますね)

▽大和五條時代の松倉重政の絵解き動画、こちらも参考にどうぞ。

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武勇伝は「大坂の陣松倉重政が大活躍

慶長二十年、大坂夏の陣の前哨戦にて。「道明寺での戦い」では、天下無双と名高い「後藤又兵衛」隊と相間見えることになった。ドドーン!

豊臣方の作戦では、国分村の狭隘な地にて徳川方を包囲迎撃する作戦だった。ところが双方とも、思いもしない場所で会敵することになった。

深夜午前二時頃。大和路から大坂向け徳川方が行軍中、小松山上に後藤又兵衛隊の布陣を認めた。この強敵を各隊が用心し、ジワリジワリと包囲する。

先方、奥田忠次隊が小松山に寄せ掛かろうと進む、そこへ後藤隊から銃撃あり、すぐに槍合わせとなった。この地で忠次は呆気なく戦死する。

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この後藤又兵衛を討ち取ってみよ!

続いて北面から松倉重政隊も参戦する。松倉隊は後藤隊の剛の者、平尾久左衛門ら二百首を討ち取る大奮戦を見せた。しかし、やがて松倉隊も押し返され力尽き、伍隊が崩れかかったところ、後詰の水野勝成、堀直寄らが急援し、危うく難を逃れたという。

このような大坂夏の陣前哨戦での活躍により、九州は肥前国「日野江 四万三千石」の大名となる。「石高を四倍増」とは軍功を最大評価された結果ですね。

相次ぐ戦乱を巧みに駆け抜け、順調な出世をかさねてゆく重政。めでたし、めでたし・・・いやいや、そうは問屋がまったく卸さないっ!デデンデン。

九州島原天草一揆の本質とは?

説話には脚色や誇張も沢山含まれる。それは教科書にもあった。

歴史教科書に必ず登場する「島原天草一揆」は、俗にいう「隠れ切支丹への弾圧」から起ったのでは無く、領主の有得ない程の低レベルな「悪政の結果」、引き起されたのです。そして領民の多くがたまたまキリシタンだったのです。

小説、映画などで何度も喧伝された「美少年 天草四郎時貞(本名は益田四郎)隠れキリシタンを救う!」といったBL♡イメージは、後に付加されたもの。ましてや妖術なんか、とても使えませんよ。笑

松倉重政はこの新天地で、何処をどう間違ったのか?

さて松倉重政が入国後、検地を行い自領「石高四万三千石」を、倍近く偽り計上(公称十万石とも)する。そして民百姓の生産限界を遥かに超える年貢を絞り取り始めるのです。やはり既に、何かが取り憑き始めた。

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この踏み絵に、効力はあったの?!

江戸時代初め頃の年貢はだいたい「五公五民」でした。それを捏造した倍の石高から逆計算すれば、百姓が作る米を全て取り上げる結果となります。エロエムエッサムなんたる悪知恵か、まさに毒を持つ蛇と化す。

そして松倉重政は、身の丈に合わない「江戸城改築の普請役」を願い出たり、「ルソン島遠征(表向きキリシタン弾圧、実際は密貿易?)」を自ら計画し、先遣隊の派遣準備始め、また新城「嶋原城の建設」も強行しました。これではとても藩財政がもたず、全てが無茶苦茶です。

(※『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録では、領民反乱の原因を「年貢の取りすぎ」にあると記している。また島原地方は火山地帯特有のシラス台地でやせており、実際の収穫高は表高 四万三千石よりも、かなり少なかった。一説には、その半分程度だったという)

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松倉重政

さらに領民の弾圧。年貢を納めきれない百姓(家族)には「焼きゴテを押す、指を切り落とす、雲仙の熱湯を浴びせる、火を付けた蓑踊り」など、残酷極まりない数々の拷問処刑を行っていきました。

これは最悪です!もう基地外です!エロエムエッサイムです!この出来事に驚愕した、オランダやポルトガル船長ログ(記録)に残っているほどなのです。

突如「大和五條の名君が、島原では悪魔となった!」

この信じられない程の豹変ぶりは、いったいどうしたことなのでしょうか?にわかには理解できません。

松倉氏の居城「嶋原城」から読み解く、人物像と思想とは?

昔、どこかで読んだ本に「建築物は施主の哲学、考え方をよく表す」と書いてありました。ならば松倉重政の居城「嶋原城」から、何か考察できるのではないか?

四万三千石どころでは無い巨大城郭だった

重政は元和四年より、七年もの歳月を費やし「嶋原城下」を築き続けました。町割は南北十三丁、南面に城下町を作り、北面丘陵に城郭と武家屋敷などを配置する。

本丸と二の丸を連郭し、総掘りと南北へやたら長い三の丸で、とり囲んだ。迷路のように複雑に入りくむ本丸・二の丸内の構造は、戦国時代に小規模城郭でよくみかける縄張り。

これは時代遅れで、使い勝手は悪かったはずです。

更に特徴的なのは、本丸への橋「廊下橋門」によって、二の丸と唯一繋がっていたこと。この廊下橋を崩し落とせば、本丸は完全な孤立状態となる。しかし・・・

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原城郭古図面(江戸後期)

これで、確かに寄手は本丸には到達出来ないが、「二の丸への渡り口、また退き口もない」ということになる。

通常、闘う城に搦手は必要不可欠なものですが、それが無い。寡兵で守りただ籠城するには良いが、孤立すれば「戦う術も無くなる構造」となっている。これはいったい、どうしたことなのか?不思議な縄張り。

白亜五層大天守、何故か一階だけに「ナマコ壁」

そしてお城の象徴、本丸には白亜五層の大天守(白壁塗り五階建て独立天守)、その南面に三重の大櫓(天守レベルの隅櫓)が三ヶ所そびえ立っていました。

破風などの装飾ない天守、そしてナマコ壁です。その姿を南方向、城下町が建ち並ぶ方向にむけ、ドド~ンと威容を見せ付けていたのです。

きっと嶋原城が完成した暁には、この天守最上階より得意満面あたりを睥睨した、松倉重政がいたことでしょう。「すげェだろ!ワシの城はっ、ぶは、ぶは・・」

司馬遼太郎先生は、松倉重政を悪逆非道とみる

あの司馬遼太郎さんが悪し様に「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」、また「がんまつである」とバッサリ切っている。
(※がんまつは奈良、葛城地方の方言で“がめつい奴、あつかましい”などの酷く罵る言葉です)

司馬遼太郎さんに拠れば松倉重政最低。

司馬さんは云う『日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。重政は自己の利益のためには、獰猛なほどの勇猛心を発揮する男であった。重政は島原にあること14年、三代将軍の年の11月に死んだ。その後、勝家が継いだ。この男が、空前絶後といえるほどに領民を搾った。領民として一揆に立ちあがるのが当然であった』という。

そして、『重政が豹変するのは、参勤交代で江戸に伺候し家光に謁したとき、なにを手ぬるいことをしておるのか、とはげしく叱責されてからであるという。豹変と大弾圧も保身のためなのである。人智でもって考えられるかぎりの残忍な方法をつぎつぎに案出して人を殺しはじめた』(街道をゆく17島原・天草諸道)より 

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

 

結論「松倉重政も相当なポンコツだが、跡継ぎ勝家マジ最悪!創業企業を二代目の馬鹿息子が、見事にぶっ潰す!」の巻

司馬氏の上記著作によれば、重政は将軍家光より「なにを手ぬるいことをしておるのかっ!」と、はげしく叱責されて「たちまち態度豹変」させたという。そして自己保身のためだけに、領民に大弾圧を加え始めたといいます。

まさにこれ「木っ端役人根性」ではないか!

「松倉、大名の器にあらず!」

その重政から跡継ぎ、勝家の時代へ。あいかわらず続けられた苛政が「島原天草一揆」を招くこととなる。そして松倉勝家は、天下騒乱を招いた大罪により名誉ある切腹ではなく、斬首(咎人扱いは大名では唯一)される。さらに松倉主家は、当然ながら改易となった。

(※この一揆を主導していたのは、元有馬・小西家に仕えた「関ヶ原浪人」や「土着豪族」の天草氏・志岐氏など。単なる百姓一揆とは毛色の違った、江戸時代最大の反乱戦争だった)

五條と島原、観光情報コーナー

奈良五條市「二見城址

二見城(陣屋)は、東を流れる吉野川にせり出すような台地の先端に築かれ、北から南へと周囲に堀を巡らしてあった。現在では本丸・二の丸跡は「妙住寺」となって、境内の西側が一段低くなっているところが堀跡らしい。残念ながらそれ以外に城遺構らしきものは何も遺ってはいないようです。

○交通アクセス

最寄り駅、JR和歌山線大和二見駅」下車、徒歩10分。車は、西名阪香芝ICから国道165号線。妙住寺の参詣者 駐車場(無料20台程度)あり。

▷リンク/五條名物「柿の葉寿司」を賞味あれ⇒柿の葉すし本舗 たなか

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奈良五條市 二見城跡 周辺地図

▽リンク/「美しき日本五条新町」街道のまち五条新町は、懐かしい日本の原風景が拡がります。“Beautiful day by day, the cityscape of Gojo”

YouTube

長崎県島原市「嶋原城址」

本丸、二の丸とその石垣群が残る。本丸にある堂々たる五重天守は、層塔型で破風などの装飾がない珍しい姿、でも昭和時代のコンクリート再建天守なのです。その点は少し残念。その内部には、キリシタン資料や藩政時代の郷土資料・民俗資料などを展示しています。

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一階になまこ壁を巡らす変わった姿

(※御注意/島原天草一揆で農民が立て篭もり闘ったのは、2018年「世界文化遺産登録」された「原城」の方で、この松倉氏が築いた「嶋原城」ではありません)

○交通アクセス

最寄り駅、島原鉄道「島原駅」下車、徒歩8分。車は、長崎自動車道諫早ICから65分。島原城の西側から天守前まで、車で入ることができる。天守直下に、無料駐車場(約90台程度)あり。便利だがお城の風情は台無し。

▷リンク/詳しくは、島原城HPをご覧下さい⇒ 島原城 | 公式ホームページ

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長崎県島原市 島原城 周辺地図

▽リンク/こちら「南島原のドローン映像」です。自然が美しく感動します「訪れる価値あり」の場所ですね。

YouTube

 

参考/新町松倉講HP、島原市観光ビューロー、ウキペディア (4800文字、Thank you for reading.)

温故知新の精神で「平成元年」を振り返ってみましょうかね【平成ヒストリア】

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桜咲く四月一日のこと

はい「令和元年」が始まります…前の時代の始まり、すっかり忘れていましたが「平成元年」は、まさに衝撃的💥スタートだったのです!歴史の振り返り企画。

 

○1989年1月7日に昭和天皇崩御小渕恵三官房長官が新元号「平成」発表。翌1月8日から「平成時代」が始まりました。この時、日本中が火の消えたような「自粛ムード」だったのです。

○2月4日。意外や意外だった、この日から「週休二日制」がスタート。それまであった「半ドン」が消滅の憂き目に。

○2月9日。「天才漫画家、手塚治氏」が胃癌のため、六十歳で死去した。時代が代わった感あり、これはとても悲しいな。

○4月1日。いまに続く消費税施行され「消費税 3%」がスタートした。やたらと小銭が増えました。

○4月27日。パナソニックの創業者「経営の神様、松下幸之助」が、九十四歳で亡くなった。やはり時代は移り変わる。

○5月13日。変則フォーム“マサカリ兆治”こと、ロッテの「村田兆治投手が200勝」を達成する!

○6月4日。中国北京天安門広場にて人民解放軍が、一般市民を戦車装甲車などで武力弾圧した「天安門事件」がおきる。世界中がこの事件に注目した!

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平成とはなんだったのか

○8月26日。お騒がせナマズ殿下(秋篠宮殿下)が、一般人「川嶋紀子さんと婚約しました♡」と電撃発表した!

○9月1日。スーパー業界最大手「ジャスコグループ」が、いまに続いている「イオングループ」となった。

○10月29日。日本シリーズで「近鉄が巨人に三連勝!のち四連敗!」でまたも日本一のがす。

○10月31日。三菱地所が、アメリカのシンボル「ロックフェラーセンター」を買収する!ビックリしたね。

○11月9日。ドイツの「ベルリンを東西に分断する壁」を、両側の市民が自由に通行し「ベルリンの壁崩壊」した。

○12月3日。アメリカのブッシュ大統領ソ連邦ゴルバチョフ議長が「冷戦終結を共同宣言」する。

○12月29日。東証、日経株価は、シャン👏シャンの「史上最高値の38,957円44銭を記録した!」日本経済が世界を征服する勢い!!

 

以上、平成元年の主な出来事「ビックリしたなぁ~もう」でした。

 

※付記/この翌年すぐ、まさかの「バブル崩壊へと、ひた走る」ことに。日経平均株価は1989年12月29日に、最高値38,957.44円、終値38,915.87円を付けました。翌1990年10月1日には一時2万円割れを起こし、わずか九ヶ月で約半分まで下落。日本中で沢山の泡あわが弾け飛んだ!

 

(1000文字、thank you for reading.)

「JR西日本 御坊駅 車輌脱線事故について」平成31年4月14日 午前6時55分【鉄道事故 案件1】

 

平成31年 4月14日 午前6時55分ごろ、JR西日本きのくに線(紀勢本線)御坊駅構内において、脱線事故が発生する!

 

少しだけ「不思議な脱線事故」だった

 

JR西日本 紀勢本線(亀山駅にゼロポスト~和歌山市駅まで)のうち「新宮駅和歌山駅」間だけは「きのくに線」という名称で呼ばれています。御坊駅構内には外側0番線(紀州鉄道専用線)、紀勢本線1、2、3番線(JRきのくに線)があります。二面四線の駅となります。北側に留置線が四線もあり、紀勢本線と平面交差(可動クロッシング写真左下)する場所が脱線事故現場となります。

(※可動クロッシング。本線を斜めに跨ぎレール先端部分のみ動き、閉開するという連結機構。) 

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事故のあった御坊駅周辺(google map)

事故当該車輌は、225系5000番。これは既存の旧車両(117系、113系など)の置換目的で、2010年より投入された「比較的新しい車輌」なのです。225系の運行は留置四番線より、紀伊内原(左側)に向け列車は進行。平面交差する上り本線を跨ぎ、引上げ線に進入後、御坊駅の二番プラットフォームに入線する予定だった。

しかし車輌が平面交差に進入した時に、ポイントは紀勢本線側に開いており、そこに乗り上げた先頭車両は本線側に乗り込み停止した。続く「二両目が大きく脱輪」した。この不思議な車輌の動きは、225系編成がすべて“モハ車※1”であったためなのか?引上げ線のメンテ不足からなのか?しばらく考えてみたが、このあたりのモーメント※2はよく分かりません。

(※1 モハ車。モ=モーター車、ハ=普通車、となる)

(※2 誤進入に“狼狽した運転士”が、なんと車輌をバックさせたことが判明しました。それで二両目から脱輪した模様)

 

新聞報道(朝日新聞)によりますと

 

以下、新聞引用します『JR紀勢線(きのくに線)御坊駅構内で14日午前6時55分ごろ、4両編成の回送列車の2両目が脱線した。事故により、印南―紀伊由良駅間で約14時間運転見合わせとなり、交通に大きな影響が出た。15日は始発から通常通り運転した。JR西日本支社によると、列車は14日午前7時14分御坊発 和歌山行きの運行予定で、留置線からホームに向かう途中だった。

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脱線車輌の現場(JR西和歌山支社)

駅の係員が列車の進行方向を変えるポイントの切り替え操作を誤り、間違った進路に列車が進入して二両目の一部の車輪が脱線したという。駅の係員と車掌との連絡が不十分だったとしている。乗客はおらず、列車の運転士と車掌にけがはなかった。(中略)特急列車30本を含む計102本が運休し、約1万300人に影響が出た』

(朝日新聞2019/4/16)

 

ホントの事故原因は、まだ判らない

 

上記新聞記事によれば、次の二点が原因と指摘されている。

①駅の係員の“ポイントの切り替え操作”の誤り。

②駅の係員は“車掌との連絡が不十分”だった。

これでは、少しおかしいのではないか?まるでポイント係員だけがミスを犯したような書き方ですね。聞いた話では、ポイント操作している駅の係員は、御坊駅にはいないらしく、もっと南にある「リゾッチャ駅」で集中管理」とか?…(よくわかりません)。

鉄道事故時、いつも思うのは列車運行に関して、統括責任者はいったい誰なのか。運行現場ではまず「乗務員であり、運転士」なのだろう。しかし、路線に関しては乗務員は操作、管理は全く出来ないのだ。

(※リゾッチャ、JALの“南国キャンペーン”で使われた造語。スチュワーデスさんが何と“アロハシャツ”を着て乗務するという暴挙にでた、伝説的キャンペーンであった。モチロン大好評)

 

勝手な想像、憶測をまじえて書きます

 

○早朝乗務で、車輌乗務員は駅での“仮眠明け”であることから、「不覚醒、寝ぼけ眼での乗務」ではなかったか。⇒“不覚醒での運行開始”したのか?

○車掌の勝手な思い込み、本線閉塞しているだろうといった情報未確認、運転士に出発信号を送ったのではないか。⇒“だろう運行”の常態化なのか?

○列車運行は全て一箇所で“信号で管理”されている。運転士or車掌の「入換信号の見落とし」ではなかったか。⇒入換信号機の見落とし”があったのか?

○列車扱いの「切替信号入力ミス」関係ないポイントを開きながら、当該ポイントと勘違いしていた凡ミス。さらに操作確認すら怠っていた。⇒「もうこれでは話になりませ~ん!」ゴラッ、責任者出て来い!

 

ワタシは憤慨する反省ないJR西日本

 

間もなく4月25日、あの痛ましい「福知山線 脱線転覆事故の日」がやってくる。空前の大惨事(死者107名負傷者562名)から14年目となる。昨年、追悼慰霊碑もようやく完成したばかりではないか、福知山線脱線事故からの教訓「利益優先より安全第一」と舵を切ったはずだが、またも脱線事故…「あぁ、またもJR西」と、皆さん思ったのではないでしょうか。今回、乗客(無乗車)には怪我はなかったのですが、職務怠慢(ヒューマンエラー)から起きたことは明らかで、とても危険な『インシデント事故』だったのではないかと思います。

▽関連リンク/JR西日本福知山線脱線転覆事故。

minminzemi81.hatenablog.com

▽参考リンク/「福知山線事故」14年目の脱線とオーバーラン(東洋経済)

toyokeizai.net

引用文『警告サインから学び、少数意見を促し、多様性を育むことが大切なのは、わかりきったことかもしれないが、それをやる方法は、わかりきったことではない。どれも実行するのは難しい。それはなぜかといえば、私たちの本能に逆らうことになるからだ。私たちは直感や自信を称え、よい知らせを聞きたがり、自分と見た目や考え方の似た人たちと過ごすことを好む。だが、複雑で結合されたシステムを運営するには、その正反対のことをする必要があるのだ』

(『巨大システム 失敗の本質 組織の壊滅的失敗を防ぐ たった一つの方法』クリス・クリアフィールド、アンドラーシュ・ティルシック著。本著を組織人は読んだ方がイイと思いますネ)

さてっと、気分を変えまして。紀州御坊の良きところを次に、サクッと紹介しますね!

 

ある意味パラダイス!JR御坊

 

紀伊半島の西側、和歌山県の真ん中にある中核都市であり、浄土真宗本願寺の「日高御坊」があります。約四百年前に建立され、寺院を「御坊様」と呼びならわしたコトから「御坊」の地名由来となりました。

○JR和歌山駅紀伊田辺駅の中間地点でもあり、「特急を含む全ての列車が停車」します。そして、折り返し列車(上り下り共)も、多数運行されています。短距離線日本一で有名な「紀州鉄道」も、0番よりレトロ列車が発着します。

▽参考動画/JR御坊駅を発着する車輌たち。ノスタルジックな駅です。

youtu.be

○御坊、見所プチ案内

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JRきのくに線御坊駅周辺

📌御坊地図中、右上緑ピンは安珍清姫でお馴染み「道成寺」物語の絵解き説法が大人気ですよ。門前町では「釣鐘饅頭」がお土産として定番となります。

📌中央緑ピンは「川常」有名な鰻屋さん。もしかして“和歌山イチ旨い”かもしんない。紀州備長炭で焼いたパリフワな鰻丼は、もうコレたまりませんね!

📌左上黄色ピンは「八ッ房」紀州名産品「熟鮨」の名店です。なれずしは、発酵した鯖寿司なので話のネタに、また食通の方へのお土産にも、どうぞっ!

👮 Every day beautiful day, Gobo!

(3000文字、You read it, thank you.)

四月一日のこと『令和』が新しい元号と決まりました。これ大丈夫?【元号考】

元号は『令和』と発表した。萬葉集から文字を採録したと云うが、昭和と何が違うのか?オンはイメージが、妙にダブるからね。実際どうなんだろね?ふと思ったのは「令」この文字にはいいイメージが湧かないこと。例えば、命令、号令、指令、とヤな感じ、ほら昔から“律と令はセット”だからさ。でも書きやすいのはまぁ、良きところかな。

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官房長官が発表した

 

「国風元号」と呼んでいいのか?

 

発表前、出典は萬葉集が有力と云うから、思っ切り「雅な和風」で名ずくと想っていた。すくなくとも「萬葉集内の歌」から採録するのが普通だろう。

 

ところが新聞記事に拠れば何のことはない、序文の漢文体から採録したという。いつもと一緒だよ!

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萬葉集の世界観とは

令和の文字を引いたのは、万葉集巻五に収録された梅花の歌の「序」この梅花の歌は32首あり、大伴旅人を中心とするグループが詠んだとされる。

 

漢字の音だけをあて表記された「歌」と違い「序」は、表意文字としての「漢字を使った漢文体」であることが出典に適していた。うわ、ややこしいな。

 

初春の令月にして気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉をふき、蘭は珮後の香を薫らす

 

令月とは『素晴らしい月』という意味。まさに天皇の代替わりに伴う季節感と、我が世を謳歌しているというイメージを受ける。

 

「令」には「令嬢」「令息」といった言葉に使われるように「良い」という意味、また「令」の漢字の構造は、ひざまずく人に申しつけている、「命令」の意味。令和を漢文調で「和たらしむ」とも読める。

(引用 日本経済新聞2019/4/1付)

 

わたらしむって何だ?要するに「ハナから漢文ありき」だったんだ、結局のところはね。萬葉集は「単なるカムフラージュ」に使っただけなんだ。このことに、一体なんの意味があったのか?

 

やはり「令」の文字、大変な意味が

 

ウキペディアの「律令」のページにはこう書いてあったぞ。『秦、漢においては「令=詔」であり「令」は皇帝の命令(詔)を指し「律」は個々の詔の文中に盛り込まれた規範的部分のみを指した』と。

(※『史記』秦始皇本紀)

 

これ要するにミカドから「詔=命令」されたなら、謹んで「承れ=和せよ」という意味にとれる。「令和」には、なんだか「いやらしいモノ」を感じる。まるで「王政復古」じゃないか?!…穿ちすぎなのかしら?

 

『新元号の選定作業で、政府が示した六つの原案すべてが明らかになり、新元号に決まった「令和」以外は「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか)」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」の五つの案でした。「令和」の考案者は、関係者の話などから、万葉集が専門の国文学者、中西進氏とみられます』(NHKニュースより)

 

(1200文字、thank you for reading.)