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あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ のし

日航123便 ジャンボ機事故。東京航空交通管制部の管制官の証言 息詰まる会話記録【航空機 事故5】

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(注☆いまから九年前の朝日デジタルの記事です。一部追加、リライト加えています)

 

西日本のとある空港で、管制官の男性が語り始めた

 

「夏になると当時に引き戻されるんですよ(日本航空のジャンボ機の)墜落直前にヘッドホンを通じて耳に届いた、パイロットの『ああ~っ』という悲鳴のような声が忘れられない」西日本のある空港で、男性(54)は言葉を選び語り出した。

(※低音で安心感ある美声をしている方です。なので、とても聴きとりやすい)

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羽田空港を飛び立つ123便

25年(34年)前の夏。

東京航空交通管制部(埼玉県所沢市、東京コントロール)の管制官として、上空の航空機と交信していた。8月12日も普段と変わらない一日だった。

当時29歳。管制官になって8年目だった。

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123便飛行ルート

先輩管制官らと「関東南セクター」という空域を担当する勤務に夕方からつき、管制卓に着席した。羽田への到着便が増える時間帯。

「そろそろ忙しくなるぞ」と、思った矢先だった。

 

▷午後6時24分47秒、地図赤丸

 

「ブーーッ!」

管制室内にブザー音が鳴り響く。レーダー画面の「日航123便」の機影に、緊急事態(エマージェンシー)を示す「E.M.G」の文字が点滅し始めた。

乗客と乗員計524人。午後6時12分に東京羽田空港を離陸し、大阪伊丹空港に向かっている「ボーイング747型機」だった。部屋の隅から上司が近づいてきた。

 

▷午後6時25分21秒

 

日航123便、トラブル発生。羽田への帰還を求める。2万2千フィート(高度約6,700メートル)に降下したい」機長の声が、英語でヘッドホンから流れてきた。

「了解」そう答えながら「おかしいな」と感じた。

エンジン出力が低下した客室内の気圧が下がったなどと、普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。心が騒いだ。

東京航空交通管制部に「羽田へ戻りたい」と告げた日本航空123便は、旋回することなくふらふらと伊豆半島上空を西に向かっていた。

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伊豆大島
▷午後6時27分2秒

 

123便、確認しますが緊急事態を宣言しますね」

「その通り」

「どういった緊急事態ですか」

やはり応答はない。

「とんでもないことが起きているのでは…!?」

 

▷午後6時28分31秒、地図①

 

「レーダー誘導のため90度(東)へ飛んでください」

「しかし、現在アンコントロール(操縦不能)」

衝撃的な言葉だった。

普段はオフのスピーカーがオンになり、123便とのやり取りが管制室中に響いた。

 

▷午後6時31分2秒、地図②

 

「降下できますか」

「今、降下しています」

「名古屋に降りますか」

「いや、羽田に戻りたい」

「何とかしたい」

そう思うと、とっさの呼びかけが口をついた。

「これから日本語で話していただいて結構ですから」

パイロットと管制官とのやり取りは、近くを飛ぶ航空機でも聞き取れるよう通常は英語を使う。

でも今はパイロットの負担を少しでも減らし、事細かにやりとりしたかった。

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123便は北に向かう。

すでに隣の空域に移っており、無線の周波数を切り替え別の管制官に移管するところだが、そういう指示はしなかった。

「切り替えたはずみで無線がつながらなくなるかもしれない。そうしたら日航機は命綱がなくなってしまう」

じりじりとしながら画面をにらんだ。

他機が近づかないよう、航路から退ける指示を続けた。

富士山をかすめた123便は、羽田のある北東に向かい始めた。

「戻れるかもしれない」

かすかに期待も芽生えたが、周囲は山。

機体の高度は5分間で一気に3500メートルも下がっていた。

 

▷午後6時47分17秒、地図③

 

「現在コントロールできますか」

「アンコントローラブルです」

もはや管制官はまったく役に立っていなかった。

ヘッドホンから「ああっ」という声も聞こえてきたが、機内で何が起きているのかはわからなかった。

「おれは、どうしたらいいんだ…」

絶望が襲う。その頃、機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことは、後で知った。

 

▷午後6時53分28秒、地図④

 

「えーアンコントロール。ジャパンエア123、アンコントロール

「了解しました」

これが最後の交信になった。

 

絶望感が、東京コントロール管制室を支配した 

 

三分後、糸の切れたタコのように画面上を点滅しながら漂っていた機影が止まった。

その場で十数秒間点滅した機影は突然、消えた。

体に電気のようなしびれが走った。

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JAL123 消失点 北緯35度59分、東経138度41分

123便は、高度9700フィート(約2950メートル)速度300nt約560)の表示を残して、東京コントロール(運輸省航空交通管制部)のレーダー画面から消えた。

 

薄暗い管制室は、静まりかえった。

中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていた。

30秒ほどして上司に促されて呼びかけてみた。

「ジャパンエア123、ジャパンエア123」

応答はなかった。

 

ヘッドホンを外し席を立った。別室で報告書を書いた。

妻には「いつ帰れるか分からない」と、電話で告げた。

頭の中で何度も交信した「最後の30分」を繰り返していた。

 

守秘義務から、誰にも言えない秘密を抱える 

 

朝方に帰宅して、墜落した機体をテレビで見た。

ショックを気遣った上司に、数日休みを与えられた。

事故原因を調べる国の航空事故調査委員会や警察から、事情を聴かれることはなかった。

 

管制官の仕事を続け最近までいた部署では、事故防止の対策づくりに取り組んできた。

いまは管理職として空港事務所で管制関連業務に携わっている。

だが123便と交信していたことは、家族や一部の同僚しか知らない。

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事故から数年後に御巣鷹の尾根に立った。

その後も遺族や報道陣が多い8月を避けて仲間や家族とたびたび登ってきた。

だが尾根へと向かう険しい道のりや事故で傷ついた山肌を見るたび、あの時のつらい思いが呼び起こされた。

無理だったと分かっていても「自分が何とかできなかったか」という思いはぬぐえず、表に出て話す気持ちになれずにいた。

 

事故を風化させないため、いまなら出来ることもあるのでは

 

最近になって「事故を風化させないため、今ならできることもあるのでは」との考えが頭をよぎるようにもなった。

世界各地で飛行機事故が起きるたび、原因は分かっているのか、管制官はどう対応したのかと気になる。管制の現場には御巣鷹の後に生まれた管制官も出てきた。

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航空会社の経営はどこも厳しく「安全よりもコスト削減」ばかりが取りざたされるのが気がかりだ。25年前の「あの夏」のことを伝える時期なのかもしれない、と思いはじめている。

 

日航ジャンボ機墜落事故/東京コントロール交信記録、緊迫感ある音声。

18時25分21秒 (CAP)『Ah…TOKYO, JAPAN AIR 123, request from immediate e…trouble request return back to HANEDA descend and maintain 220 over.』高濱機長からの突然のリクエストは、異様だった。

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<日航123便墜落事故>

1985年8月12日午後6時12分に、羽田空港を離陸した大阪伊丹行きの日本航空ボーイング747型ジャンボ機が、12分後に相模湾上空で操縦不能になり、同56分に群馬県上野村の山中(御巣鷹の尾根)に墜落した。乗客509人と乗員15人のうち乗客4人を除く520人が死亡した。スペイン・カナリア諸島の空港で77年にジャンボ機同士が衝突し、583人が死亡した事故に次ぐ惨事で、単独機の事故としては現在も世界最悪となる。

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日航123便ジャンボ機747SR-100
<航空事故調査委員会>

1987年、機体後部の圧力隔壁の亀裂が広がって破壊され、一気に噴き出した客室内の空気が尾翼などを吹き飛ばしたとする調査報告書を公表。この機体は事故の7年前に伊丹でしりもち事故を起こして隔壁を損傷しており、この際にボーイング社が行った修理が不適切だったことが破壊につながったと結論づけた。御巣鷹以降、日本の航空会社は乗客を死亡させる事故を起こしていない。

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ご安全に「GOOD LUCK!」

○この曲を、航空関係者に捧ぐ「Save our ship」松任谷由実

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日航ジャンボ機墜落事故、「落合証言」についての記事。前後編あります。

minminzemi81.hatenablog.com

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○記事の引用元/朝日新聞社デジタル記事 (2010年8月10日付)

asahi.com(朝日新聞社):墜落前の悲鳴「今も耳に」 日航機の管制官、沈黙破る - プレーバック1週間

 

(3600文字、thank you for reading.) <今週のお題> 老いも若きも楽しく研究

日航123便 ジャンボ機事故。「マイケル・アントヌッチ・Jr 元米軍大尉」が証言で示すもの【航空機 事故3】

米軍輸送機C130 ハーキュリーズパイロット「マイケル・アントヌッチ・Jr」元 米軍大尉の証言

日航ジャンボ機123便、墜落の二時間後にはアメリカ海軍の救助ヘリが現場に着いた。あの時、救助にストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。

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C130 ハーキュリーズ

「あの飛行機事故のことは、10年経ったいまも脳裏に焼き付いて離れない」と、アントヌッチ氏が語る。

 

日航123便機を追尾中だった「米軍機C130」が、19:15に墜落現場を現認した。さらにC130より誘導された沖縄海兵隊ヘリが、20:05に現場到着した。アントヌッチ証言によれば、午後七時の時点で「墜落現場の正確な位置」は確定し、午後八時には「人命救助を開始」した“事実があった”ことを伝えている。

 

『JAL123便が管制塔に『緊急』を告げた時、たまたま沖縄・嘉手納基地から横田基地へ、米軍輸送機C130Hで飛んでいた。現場はすぐに発見出来た。現場を確認後、グリフィン隊長は残骸の上空600メートルで、そのまま旋回飛行を続けた。

私は横田基地からの位置を測り、20分後には“正確な位置を割り出し”て横田基地に知らせた。やがて横田基地から連絡が入り、60キロ離れた厚木基地から海軍の救助隊が来ると知らされた。あと一時間で着くという。

彼らは少し離れたところで、ラペル(ロープを使って懸垂降下すること)で二人の乗員を地上に降ろし、検索しようとしている。ゲイリーがヘリと話している間に、私は司令部へ連絡を入れた。『Air craft down I have position YOD 305° 34 NW…』 

 

その時、司令部の命令はこうだった。

『日本の救助隊が向かっている。すぐ基地に戻るように』 

しかし、私は次のように伝えた。

『海軍は救助に入りたいと言っています』 

すると、司令部は次のように言った。

『繰り返す、すぐ基地に戻るように。海軍も同じだ』

もはや、私は『わかりました、帰還します』と答えるしかなかった。

 

降りかけていたヘリの乗員たちは、再びロープを登っていった。その時、我々の900メートル上空に“日本の飛行機”が旋回しているのを認めた。午後9時20分だった。これが現場に来た“最初の日本の飛行機”である。

横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団の副司令官ジョエル・シルズ(現、在日米軍司令官/第5空軍司令官/中将)である。グリフィン隊長が報告を終えると、シルズは『よくやった。でもこのことは一切マスコミに話してはいけない』と言った。理由はまったく説明されなかった。』

(※戦術輸送機のベストセラー。米軍・空自など69ヶ国で、半世紀以上たったいまも、現役で活躍している。最新型は『C-130J スーパー・ハーキュリーズ(Super Hercules)』となる。)

 

日本の救援隊は、いったい朝まで何をしていたのか?!

 

『しかし翌日のニュースはもっと衝撃的だった。日本の救助隊は現場を発見できず、やっと着いたのは“墜落の14時間後”だと言っているではないか。

私は焦って自分の地図を取り出し、墜落現場を正確に伝えたかどうか調べた。私には自信があった。伝えた位置は、正確だった。海軍のヘリは私の情報に従って現場に来たのだから、間違いない。

我々はあの時、現場の“上空を飛んでいた日本の救援隊”に後を任せた。それにしても、どうして墜落現場がわからなかったのか? 一体朝まで何をしていたのか? 不思議でならなかった。

 

○マイケル・アントヌッチ・Jr  元 米軍大尉の証言

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事故から2週間たって『タイム』と『ニューズウィーク』で、生存者が4人いたことを初めて知った。しかし残りの記事は、間違いだらけだった。

“生存者の一人の証言(落合由美さん)”が、私をぞっとさせた。彼女は墜落後、数人の子供達の声を聞いた、と言っていた。ヘリを見て手を振ったが気づいてくれなかった、と語っていたのだ…』と語る。

 

気になるのは“アントヌッチ氏証言”の信憑性。

○その後のアントヌッチ氏は…『1987年3月。私は横田基地を離れサクラメントのマザー空軍基地で、航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある「アントヌッチ大尉とその乗務員は日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」

私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ生存していた人たちを救出できなかった」と、付け加えたかった』という。この名誉勲章の意味するところは「口止め」の類と思われる。

○事故調査報告書の25P。(捜索・救難活動の状況)米軍機C130Hから発信された墜落位置情報を、救難本部が横田より受け取った旨の記載あり。(12日/19時15分)

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事故調査報告書 25P

○ 1994年9月25日に報道番組「ニュース・ステーション」が、アントヌッチ氏の証言を取り上げ「日本政府側の要請により、米軍機は救援活動を中止した」と報道しています。やはり事実であった、と思いました。

日航ジャンボ機墜落事故/「落合証言」の記事です。前後編あります。 

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○参考/1980年代のJALのイメージは『スチュワーデス物語』だった。このドラマは、社会現象にもなった。麻倉未稀のテーマ曲『what a feejing』この時代を表している曲。

スチュワーデス物語「What a feeling」1983 麻倉未稀 - YouTube

 

記事引用/『週間文春 1995年9月28日号』『事故調査報告書』

(2300文字、thank you for reading.) <今週のお題> 老いも若きも楽しく研究

日航123便 ジャンボ機事故、落合証言の示すもの「Part2 恐怖で捻れた時間感覚」【航空機 事故2】

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「JAL123便 ジャンボ機事故」搭乗者の証言。【後編】

生存者わずか四名、そのうちのひとり当時客室乗務員だった落合由美さん。旅客機乗務員の経験と知識を持ち「当該事故を実体験した方の証言」ほど説得力あるものはない。その落合証言が物語るモノとは?

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巡航高度24.000feet

○前編の「Part1急減圧はなかった」です。こちらからどうぞ。

minminzemi81.hatenablog.com

  

<☆JAL 123便 操縦クルー>

○CAP 高濱雅巳氏(49歳)宮崎出身。海上自衛隊からJALへ、1963年入社。12,423飛行時間、操縦教官資格。千葉住。

○COP 佐々木祐氏(39歳)熊本出身、OJT機長昇格テスト中だった。3,963飛行時間。千葉住。

○F//E 福田博氏(46歳)京都出身、技術教官資格9,838飛行時間、千葉住。

三名共、ベテランパイロット達でした。

 

<☆落合由美さん(DH)>

○1959年大阪生まれ、当時26歳。伊丹空港近くに実家があり航空機になれ親しんだ。1983年アシスタントパーサー3400時間、6年経験。大阪への帰省途中、当該事故にあった。リハビリ後、客室乗務員に見事復帰した。

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JAL123便 飛行経路(出典朝日新聞社)

(FDR=フライト データ レコーダー、CVR=コックピット ボイス レコーダー)

(備考/1000ft=305m、30.000ft=9150m。200ノット=370km、300ノット=555km。CAP=機長 高濱、COP=副操縦士 佐々木、 F/E=航空機関士 福田、PRA=チーフパーサー 波多野、STW=スチュワーデス、PUR=機械音声、ACC=東京コントロール(所沢)、TAC=東京進入管制(羽田)、COM=JAL社内無線、YOK=横田米軍基地)

 

⑩機内では救命胴衣を付ける乗客乗員

 

○以下『青字』が落合証言です。事故後、落合由美さんが語っています。

 

『子供の声が聞こえました。「おかあさ~ん」という声。大きくはなかったのですが、短い叫びのような声でした。大人のお客様は叫んだり、悲鳴をあげたりすることはありませんでした。声も出なかったのかもしれません。不安と緊張の機内でした。

全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。つけ終わった方は、となりの方を手伝ったりしていました。救命胴衣をつけているあいだに、スチュワーデスの声でアナウンスがあったのです。正確には覚えていませんが「急に着陸することが考えられますから」というような内容です』

 

▷FDR・CVR音声記録より/22,400ft(6,827m)、200kt、東京コントロールが、関東空域上にある全航空機に呼びかけ始める。交信周波数134.0の指定と、沈黙の要請がありました。

 

18時41分~

55秒 (ACC) all station all atation except JAPAN AIR 123 and

contact TOKYO CONTROL contact TOKYO CONTROL 134.0

change frequency 134.0 and keep silent until further advised.

 

18時42分~

17秒 (CAP) あたま下げろ

18秒 (COP) はい 

 

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『それと「管制塔からの交信はキャッチできています」とも言っていました。私の想像では二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、様子を聞いてきたのではないかと思います。落着いた声でした。

揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。そのときには眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、上着があれば衝撃の際の保護になるように着用してくださいと指示するのですが、そんな時間的余裕はありませんでした』

 

○目撃情報/『疑惑/JAL123便墜落事故』の著者である角田四郎氏は、たまたま奥多摩にキャンプに訪れていた。そして123便と、追尾する自衛隊機を目撃したという。

この本がいわゆる「疑惑本」と呼ばれる、最初と記憶しています。

引用『このとき私は、日航123便を目撃していた。(山梨県大月市と神奈川県相模湖の中間)東から南へ南から西へ旋回しようとする地点である。18時42分頃になる。

そして44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かったであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう“二機の自衛隊機”を私は見た。

その時、また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。

「あれは、さっきの飛行機じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登っていった。この間5~6分の出来事である。』

○角田四郎著『疑惑/JAL123便墜落事故』推奨資料。

疑惑 JAL123便墜落事故―このままでは520柱は瞑れない

疑惑 JAL123便墜落事故―このままでは520柱は瞑れない

 

 

百里基地よりスクランブル発進した「ファントムF-4EJ」二機が123便の追尾体制にはいったのは、この辺りから。

まず機体外部の様子を視認し、日航123便へ「垂直尾翼の破損」と「垂直尾翼及び機体下部に異物あり」と“致命的な機体ダメージ”について通告したと思えます。このあたりから、地元民の自衛隊機目撃情報が増えてくる。

 

▷FDR・CVR音声記録より/18,600ft(5,669m)、240kt。18時43分に「ANA NH757便(羽田18時半発、小松行き)」が、右旋回中のJAL123便を上方に視認する。この時NH757の高度は、18000ft以下に制限されていました。

角田氏が最後に見たという「北西に向かう航空機」は、このANA NH757便だったかもしれない。

 

18時43分~

19秒 (STW) どうぞそのままの状態で、お待ちくださいませ…

23秒 (CAP) あたま下げろ

47秒 (CAP) おもたい もっと もうすこし あたま下げろ

50秒 (COP) はい

56秒 (CAP) さがるぞ

 

緊急着陸に備え、安全姿勢をとる乗客乗員

 

『私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは、通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は頭を下げ膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。

「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。全身を緊張させるのは衝撃にそなえるためです。こういうときは「…してください」とは言いません』

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夏の富士山、右側の席から見える風景

『お相撲さんや妊娠してお腹の大きい女性の場合、腰をかがめるのは苦痛ですから逆に背中を伸ばして脚でしっかり床を踏み、椅子の背に上体を押しつける安全姿勢のとり方があるのですが、このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。

安全姿勢をとる直前、私はとなりのKさんに言いました。「緊急着陸して私がもし動けなかったら、うしろのL5のドアを開けてお客様をにがしてやってください」と。Kさんは「任せておいてください」と、とても冷静な声で言いました。Kさんと言葉をかわしたのは、これが最後です』

 

▷FDR・CVR音声記録より/15,000ft(4,575m)、220kt。大月上空でギアダウン、右旋回して緊急降下が始まった。この場所でディセントしたのは、“最寄り空港”に着陸するプランだったのか?フラップの準備まで始めていますね。

 

18時44分~

05秒 (CAP) おもたい

22秒 (CAP) いっぱいやったか?

23秒 (COP) いっぱい、かじいっぱいです

43秒 (CAP) あーおもたい

47秒 (F//E) フラップどうしましょうか?下げましょうか?

49秒 (CAP) まだはやい

50秒 (F//E) まだはやいすか

51秒 (CAP) まだはやい

52秒 (COP) ギヤおりてますか?

53秒 (F//E) ギヤおりてます

54秒 (CAP) えっ?

55秒 (COP) コントロールのほうが ←

 

『そしてそのとき、窓の外のやや下方に富士山※が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときにもっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に白い雲がかかっていました。

左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき私は安全姿勢をとって頭を下げたのです』

(※左側窓から下方に富士山がまじかに見えるのは、大月上空 “右旋回ディセント”の時と思われる)

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『頭を下げながら機内をちらっと見ると、たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くがピーンと下にひっぱられているのが見えました。マスクをつけたまま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。

安全姿勢をとった座席のなかで体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。しかし上下の振動はありませんでした。前の席のほうでいくつくらいかはっきりしませんが、女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。聞こえたのはそれだけです』

 

▷FDR・CVR音声記録より/11,900ft(3,627m)、250kt。横田米軍基地からの呼びかけが始まる。この時、機長が気にしている“コントロール”とは「JALのOCC、ディスパッチャー」のコトなのか?「JAL⇔Yokotaの調整」が、まだ出来ていなかったようです。

 

18時45分~

18秒 (CAP) ニッコウ…オオシバ…

37秒 (YOK) JAPAN AIR ONE TWENTY THREE JAPAN

39秒 AIR ONE TWENTY THREE YOKOTA APPROACH ON GUARD.

41秒 IF YOU HEAR ME YOKOTA 129.4

46秒 (CAP) ジャパナ123

47秒 アンコントローラブル

49秒 (ACC) JAPAN AIR 123 GO AHEAD.

50秒 (F//E) コンタクトしましょうか?

52秒 (CAP) ちょっとまって、コントロールだ ←

54秒 (F//E) どこへ?

 

⑫髪の毛が逆立つくらい、機体が急降下しだした

 

『そしてすぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。

頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。

怖いです。怖かったです。

思いださせないでください、もう。

思いだしたくない恐怖です。

お客様はもう声もでなかった。私もこれはもう死ぬ、と思った。

まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんかとても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとり続けるしかない。汗をかいたかどうかも思いだせません。座席下の荷物が飛んだりしたかどうかわかりません。体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと思います』

 

▷FDR・CVR音声記録より/大月にて、高度22,000ftより6,000ftへと、一気に15,400 ftも緊急降下(神技!)し、横田米軍基地まで24kmの距離に詰めた。機長の目論みは「横田基地に強行着陸」と思われます。羽田よりも横田の方が“何かと都合”がよいのです。ただ軸線が南北なので回り込む必要がある。大月上空で右旋回したのは、横田基地の北側進入するための機材旋回能力を、リハーサルしたのか?この時、南西風。さぁCAP、神技をもうひとつ!

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横田基地、日本で二番目にデカい

18時46分~

03秒 (CAP) あたま下げろ

06秒 (COP) えー相模湖まできてます

08秒 (CAP) はい

09秒 (ACC) JAPAN AIR123 羽田に コンタクトしますか?

16秒 (CAP) このままでお願いします ←

20秒 (ACC) コンタクトしますか? 

21秒 (CAP) こ…このままでお願いします ←    

27秒 (ACC) はい 了解しました スタンバイ お待ちください

33秒 (CAP) これはだめかもわからんね… ←

 

○CVRの09~27秒のあたり、ACC管制官と機長の“会話が噛み合っていない”のがとても気になる。機長はいったい「どこと交信して」いたのか?

そして33秒の「これはだめかもわからんね」となるが、相当変ですね。これが当時、機長の「弱気発言」として、ずいぶんとマスコミから叩かれた。

しかし、それは全く違う。その直後に機長は、“木更津へのレーダー誘導”を47分07秒に、リクエストしています。

あくまでも「空港に、ハードランディング」するつもりだった。

 

⑬緊急降下の恐怖体験により、時間感覚が歪んだのか? 

 

○「32分間が何時間にも感じた」という落合さん。その一方で、右旋回し緊急降下から墜落までの記憶が、まるで“一瞬のことのように”縮んでいます。

その「恐怖の正体」とは?!

 

『「パーン」から墜落まで三十二分間だったといいます。でも長い時間でした。何時間にも感じる長さです。羽田にもどりますというアナウンスがないかな、とずっと待っていました。そういうアナウンスがあれば操縦できるのだし、空港との連絡もとれているのだからもう大丈夫だって。でも、なかった』

 

▷FDR・CVR音声記録より/11,000ft(3,352m)180kt。着陸コースを阻止され?北へ向かう。すぐに山並が迫る。

機材は二度目のストールにより、最低高度5000ftを記録する。さらに三度目のストールにより大きくバランスを崩し、機体は、右40度の傾斜となってしまう。フラップ−10度以上は、着陸レベルとなるが、このすぐ後 −25度近くまで下がっていた。

長野県南佐久郡川上村の住民の方が「黒煙あげながら山に落ちてゆく日航機」を、目撃している。この黒煙とは、異様な状態を示しています。

 

18時55分~             

01秒 (CAP) フラップおりるね?

03秒 (COP) はいフラップ 10    

15秒 (CAP) あたま上げろ   

16秒 (F//E) はい了解しました

17秒 (CAP) あたま上げろ   

19秒 (CAP) あたま上げろ

24秒 (APC)…わっかんないんだ(管制官の背後のヒトか?)

27秒 (CAP) あたま上げろ

34秒 (COP) ずっとまえからささえてます

37秒 (STW)管制塔からの交信は

39秒 (STW)ちゃんとつながっております

42秒 (COP) パワー      

43秒 (CAP) フラップとめな   

45秒 (?) あーぁーっ     

47秒 (CAP) パワー (CAP) フラップ

48秒 みんなでくっついちゃだめだ  

49秒 (COP) フラップアップ  フラップアップ 

50秒 フラップアップ  フラップアップ 

51秒 (CAP) フラップアップ (COP) はい  

56秒 (CAP) パワー       

57秒 (CAP) パワー    

58秒 (CAP) フラップ!!     

59秒 (F//E) あげてます     

 

18時56分~

02秒 (CAP) 口ごたえするな

04秒 (CAP) あたま上げろ!

07秒 (CAP) あたま上げろ!

10秒 (CAP) パワー!!

12秒【火災警報音1秒間】【社用無線呼出音1秒間】

14秒【GPWS=地上接近警報】(GPWS) SINK RATE

16秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

17秒 (GPWS) PULL UP

18秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

19秒 (GPWS) PULL UP

20秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

21秒 (GPWS) PULL UP (CAP)もうだめだぁー!!

22秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

23秒 (GPWS) PULL UP【衝撃音①U字溝に右翼あてる】

24秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

25秒 (GPWS) PULL UP

26秒【衝撃音②機体が裏返し、高天原尾根に激突した】

 

18時56分28秒【録音終了】

 

▷FDR・CVR音声記録より/56分7秒、急激な降下速度、機首下げ36°右横70°にもなる。56分11秒、降下率は18,000ft(5,400m)/分。対気速度は400kt(740km)を超える、高速墜落。墜落五秒前に、機長は悲痛な絶叫『もうだめだぁー!!』と叫んだ。最後の最後まで、クルーはコクピットで闘っていました。

 

『衝撃がありました。衝撃は一度感じただけです。

 

いっぺんにいろんなことが起きたという印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが私はもう怖くて顔をあげた。その途端、頭にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなもの、がいっぺんにです。

音はまったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、と思ったのはこのときでした』

 

群馬県 上野村 高天原山、墜落現場にて

 

○墜落時にも“冷静な観察”を続けようとした落合さん。あまりにも“有能過ぎる”気がするが、CAとはそんな人達なのかもしれない。

群馬県高天原山北尾根筋に“高速墜落”した123便、しかし落合さんの周りには沢山の息遣いが聴こえた。生存者がまだ沢山いたのです。 

 

『すごく臭かった。機械の匂いです。油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。体はちょうど座席に座っているような姿勢です。左手と両脚は何か固いものにはさまれていて動かせません。足裏は何かに触っていました。それほどの痛みはなくもうぐったりしているという感じです。

目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったようにとても熱く感じました。失明するだろうなと思っていました。これはあとで知らされたのですが左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。

すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。灰色っぽい夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。呼吸は苦しいというよりもただ、はあはあ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。

ぐったりしてそのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし痛くて、強くは噛めないのです。墜落の直後に「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。

 

「おかあさ~ん」と呼ぶ男の子の声もしました。

 

次に気がついたときはあたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのかわかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。

私は座ったままいろんなものより一段低いところに、埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりにたぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。

シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて苦しかった。右手を使ってベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。頭の上の隙間は右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして何か固いものがあったので、どかそうと思って押してみたのですが、動く気配もありません。

それを避けて、さらに手を伸ばしたらやはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません』

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⑮墜落後“たくさんの生存者”が周囲にはいた!

 

○JAL123便を追尾していた米軍輸送機C130が「19時15分墜落現場」を確認。次に沖縄米軍海兵隊のヘリが、墜落地点に「20時05分に到達」しました。ですが…救助降下寸前に、横田基地より“中止命令”があり帰投する。あぁ、なんたることか。この時点なら、助かったひともいたはずです。

 

▷この時の、C130ハーキュリーズパイロット「マイケル・アントヌッチ・Jr」元 米軍大尉の証言について書きました。ご覧下さい。

(※墜落現場を最初に発見した米軍の「輸送機C130H」については「事故調査報告書の25ページ」に記載があります)

minminzemi81.hatenablog.com

○さらに、朝日新聞のヘリコプターが「21時10分に墜落現場」を発見し、墜落現場写真を撮り帰投する。さて、墜落前から123便をしばらく追尾していたという「百里基地所属、二機のファントムF-4EJ」は、この後いったいどうしたのでしょうか?

 

○12日墜落後、位置情報が何度も錯綜しすぐに墜落現場を特定できなかった等々、これらは完全な偽装であるね。わざと“ミスリード”させたといってもいい状況。JAL123便が「7700発報」以来、追跡し続け「軍、軍、一部のマスコミ」には、事故機の航跡は周知の事実だったのだから。

 

○正確な墜落位置は「北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒」住所は「群馬県上野村 大字楢原 字本谷」となります。

(※ すべての航空機は、日常的にレーダーで監視されています。「E.M.G信号」発信すれば、軍民、すべてのレーダーサイトが注視し、行方をモニタリングします。ACCでは、123便がレーダーから消失したのが18時56分1秒、墜落の25秒前まで。自衛隊、米軍のレーダーサイトでは、この後も捉えていたはずです。)

 

『どこからか若い女の人の声で「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。

それからまたどれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。

突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。

しかしさっき「おかあさ~ん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか判断はつきません。私はただぐったりしたまま荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。

もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした』

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墜落現場、群馬県多野郡上野村高天原山尾根

『やがて真暗ななかにヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで助かる、と私は夢中で右手を伸ばし振りました。けれどヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と声も出したと思います。ああ、帰って行く…。

このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声はもう聞こえてはいませんでした。

体は熱くまた右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだらとても不幸だと。母は私がスチュワーデスになったとき「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなことあなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。

それからまた、どうして墜落したんだろうということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないでもっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。

涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じはもうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そしてまた意識が薄れていきました』

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自衛隊機からの事故現場の映像 08/13(共同通信社)

墜落機、確認直後の映像 日航事故、陸自が空撮 - YouTube

○『時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないでもっとうまくできるのに。

また『墜落のあのすごい感じはもうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。

発言に落合さんの職業倫理、前向きな性格が表れています。そして、本格的救援活動が開始されたのは、翌日13日の午前七時からでした。

 

 

⑯落合さんがスゲの沢で発見されたのは、翌日10時45分 

 

『気がつくとあたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかなと、思いました。

でも声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「はあ、はあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。

あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶんそれから私は眠ったのだと思います。

風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものがバーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました』

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○落合さんを最初に発見したのは、長野県警の柳澤隊員、手を振る落合さんに気付き「何か動いてるぞ!」と発言したという。そして、地元上野村消防団と猟友会のグループも加わり、彼女を無事救助しました。

 

『はっと気がついたらヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でもあかるい光が目の前にあふれていました。

朝の光ではなくてもっとあかるい光です。

すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして振りました。

「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。

そのすぐあとで私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません』

 

⑰搬送先の病院でも「不思議な感覚」が続く

 

○落合由美さんは翌8月13日の午前十一時半に、事故現場から救出されました。墜落してから、十六時間もたっていました。

そして、ヘリコプターにて藤岡市の病院に緊急搬送されました。

 

『体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。

応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。

目を開けたら病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて奇妙な返事をしました。

「はい、二、三回きたことがあります」って。

そんな馬鹿なと自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。

でも電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。

それで、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました』

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『家族がきていると教えられたとき、えーっと思いました。飛行機がおちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。

現実感がなかなかとりもどせないのです。

たぶんこのときだったと思いますが「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ、全部女の人ばかり」と教えてくださいました。

それしか助からなかったんですか、と思いながら「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。

天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。私もほんとうはもう助からなくて死んでいくところなんだ、などとも考えていました。

百幾針も縫ったのに痛みは感じません。麻酔をしていたせいだと思いますが、でもあとで看護婦さんに聞くと「痛い、痛い」と言っていたようです。

救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。

私は「四人しか…」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました』

 

日航123便ジャンボ機事故」関連、お勧め資料など

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日航123便 747 SR-100

○落合由美さんは、墜落前後の状況に関して“重要な証言”を残しています。そして吉岡忍氏もわずか一年後には『墜落の夏』を書き上げた。

その後たくさん続く「日航123便事故本」の魁(さきがけ)となる名著です。この本により、当時の“時代性や空気感”まで感じることが出来ます。

Amazonのカスタマーレビューより引用文『そもそもあんなに巨大で重い物体が空を飛ぶということ自体が、本来あるはずのないことなのだ。あるはずのないことを、人類は科学技術によって実現させた。(中略)

本書が事故発生後わずか一年で書かれたことには驚きすら覚える。その後新たに判明した事実は少なからずあるものの、いま読んでも全く古さを感じさせない。単なる技術論や感情論に走ることなく達観した見地から事故を冷静に分析している。それを物足りないと評する向きもあるかも知れないが、数ある類書の中で名著と呼ぶにふさわしい一冊だと思う。』

わたしも同意見です。興味を持たれた方は、まずは『墜落の夏』をお読みください。多くの関連情報も記されています。

墜落の夏―日航123便事故全記録 (新潮文庫)

墜落の夏―日航123便事故全記録 (新潮文庫)

 

○吉岡忍/長野県佐久市出身、ノンフィクション作家。上記、日本航空123便墜落事故を題材にした『墜落の夏 日航123便事故全記録』で第9回講談社ノンフィクション賞を受賞。日本ペンクラブ常務理事、放送倫理・番組向上機構放送倫理検証委員会委員なども務めた。 

 

○そして小説『沈まぬ太陽』。日航がなぜ“崩壊にいたった”のか、見事に描写されています。小説家の文体は、とても読みやすいですね。またノン・フィクション(ほぼ、実話)としても、一読の価値があります。それから、映画化もされました。

文中抜書『…「実は事故機の墜落原因について、聞き捨てならない重大な話を仕込みましね、墜落の真相は、自衛隊がミサイル発射訓練に使う標的機が、たまたま飛行中の国民航空123便の尾翼に衝突したらしいのです、ご意見を聞かせて下さいませんか」

ホームで、記者は強引にコメントを求めた。

「いきなりそんな突飛なことを言われても、答えようがないですな」

「おや、おとぼけですか、それとも政府・防衛庁は、事故調査官を棚上げして、真相を隠蔽するつもりなのですかね」

嫌味な言い方をした。

「確たる証拠でもあるのですか」

「事故機が最初に緊急事態を発信したあの時刻に、海上自衛隊護衛艦『たかつき』が相模湾でちょうど演習中だったのですよ。現に事故の翌日、相模湾内に尾翼の重要部品である垂直安定板が浮いていて、回収されたではありませんか」…』

山崎豊子著『沈まぬ太陽(三)御巣鷹山篇』より 

 

○映画『沈まぬ太陽渡辺謙主演⇒【映画】 沈まぬ太陽 - YouTube

(※作中の護衛艦「たかつき」は「DD-130 まつゆき」のこと。日航機事故時、相模湾にて公試中だった。事故発生時に、事故機より海上に落下した垂直尾翼を発見回収した)  

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DD-130まつゆき
沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)

 

 

○事故の第一報/八月十二日、第二次大戦の番組中に日航機事故のテロップが突然流れ、番組は中断「NHKニュース」が始まった。木村太郎アナが、慌ただしく原稿を読み上げはじめた。

youtu.be

<不思議な報道>

事故当日12日夜、NHK報道番組中、速報にて。

NHKアナ「ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に向かった自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。続報が入り次第お伝えします」 画面にはテロップ流れ、NHKアナがニュースを読み上げた。

NHKアナ「先ほど、自衛隊員が何者かに襲撃され死者が数名出たとお伝えしましたが、誤報だった模様です」その後、繰り返し否定した。

これは、いったい何だったのか??

 

▷1*⋆✈ 外部リンク/JAL123便 日本航空墜落事故。この事故の原因・墜落は、“なにかと外的要因”が関係しています。まずは“音声テープ”を聴いてみて下さい。

youtu.be

 

▷2*⋆✈ 外部リンク/JALの安全啓発センターHP、JALに予約申し込めば、誰でも見学(多分)ができます。搭乗者の遺品、回収された123便の機体パーツなどが展示されています。ぜひ一度訪れて下さい。最寄駅は、東京モノレール新整備場駅」下車。

 

▷安全啓発センター/https://youtu.be/AqFhjMxcCDU

www.jal.com

 

▷3*⋆✈ 外部リンク/ありし日の坂本九さんの名曲。「見上げてごらん夜の星を」は1963年のヒット曲、リンクは、ゆずのカバー曲『見上げてごらん夜の星を』です。名曲は新たに歌い継がれてゆく。

youtube

『見上げてごらん 夜の星を 小さな星の 小さな光が

ささやかな幸せを 歌ってる

見上げてごらん 夜の星を 僕らのように 名もない星が

ささやかな幸せを 祈ってる』 

 

日航123便墜落事故関連ブログです。

minminzemi81.hatenablog.com

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○そして34年目の夏がきた。8月12日の慰霊の精霊流しが伝えられた。

日航機墜落事故から34年 遺族らが灯籠流し(19/08/12) - YouTube

 

○最後に//ずっと、辛らかったよ…書くことさえね。

この記事を書くきっかけは、日航123便に「私の知人が搭乗していた」ことからでした。そしていまからだいたい20年前、地元図書館に通い続け日航123便に限らず“航空機事故本”を読み漁りました。それで司書のヒトに変な顔された、想い出がありますね。

~おかげで少しは、知識を得ることが出来たのですが~

時間は無残に過ぎてゆく。いまや“当該事故から34年もの歳月”がたち、ワタシが故人の没年を追い越しました。なのに、うまくまとめられずにいました。いまだ、謎が多すぎます。

また当ブログを作った動機、その目的のひとつが「JAL123便墜落事故」を記録して遺しておきたいと、意気込んだものでした。

が…しかし、この事故は「余りにも難物」で、どこから手をつければいいのか?そして故人のことも、いまとなればとても書きずらいのです。

そして、あまた各種ある「陰謀説」も、角度がなんか違う気もする…困った。

それで、原点へと立ち戻り、まずは「落合証言とFDR,CVR音声記録」を併せて記録することにしました。この事故を風化させないためにも、若い人達にも是非知ってもらいたいと願っています。

日航ジャンボ機墜落事故は、乗員・乗客524名のうち520名が死亡しました。さらに“二次被害”においても、亡くなられたすべての方々のご冥福を、心よりお祈りいたします。合掌

 

参考/墜落の夏、ウキペディア (15.000文字、thank you for reading.)

  <今週のお題> 老いも若きも楽しく研究

日航123便 ジャンボ機事故、落合証言の示すもの「Part1 急減圧はなかった」【航空機 事故1】

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「JAL123便ジャンボ機事故」搭乗者の証言。【前編】

520名の犠牲者を出した「日航123便ジャンボ機事故」から今年で、34年目の夏となる。生存者わずか四名、そのうちのひとり当時客室乗務員だった落合由美さん。「旅客機乗務員の経験と知識」を持ち「事故を実体験したヒト」の証言ほど説得力あるものはない。落合証言が物語るモノとは?!

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747 SR-100 機体記号 JA8119

(✈︎747 SR-100、SRはショートレンジの略。全長70.5m全幅59.6m全高19.3m重量52万7333ポンド、総飛行時間25,030時間18分、総着陸回数18,835回。燃料三時間十五分搭載、伊丹からのリターン燃料も積載していた)(※現在、日本航空の「123便」と「350便」は、どちらも“墜落事故のため欠番”となっている)

 

<事故のあらまし> 

日本航空123便墜落事故、昭和六十年(1985年)八月十二日のこと。「東京羽田発✈︎大阪伊丹行」123便ボーイング747 SR-100 (機体記号JA8119) が、群馬県多野郡上野村高天原山(たかあまはらやま)の北尾根(通称 御巣鷹山)に墜落し、空前絶後の犠牲者を出した、痛ましい航空事故である。

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圧力隔壁 出典:JAL安全啓発センター

○事故原因は後日、ボーイング社の“手抜き修理”があったと発表された。後部圧力隔壁が飛行中に疲労破断し、噴出した空気圧により垂直尾翼を完全に吹き飛ばした、とされた。さらに油圧操縦4システムも全喪失する。

その結果、JAL123便は完全に操縦不能に陥り、あげく迷走飛行し続け「高天原山の尾根」へと、墜落しました。

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羽田空港18時発(イメージ写真、以下同)

○しかし、“事故調が描いたこのストーリー”は、そもそも「客室内で急減圧」が起こらないと垂直尾翼を吹き飛ばすモーメントたりえず、実際にはJAL123便がディセンドするまで、高度2万4千フィートあたりを上下しながら、17分間以上飛び続けたのです。

それでは「客室内は、どうだったのか?」が、重要な意味を持ってきます。

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垂直尾翼 出典:JAL安全啓発センター

○巡航高度(東京⇔大阪線は、2万4千ft位)で、突如「急減圧」になると、乗客乗員が意識を何とかたもてるのは、せいぜい「数十秒程」と言われています。なのでパイロットは、大急ぎで酸素マスクし、ディセンド降下します。

▷急減圧事故の分かりやすい動画⇒【物理エンジン】もしも飛行機の窓が割れたら乗客はどうなる?【気圧の話】 - YouTube

またキャビンの一部に穴が開き「急減圧」となると、機外との気圧差(外気圧は約0.4気圧。機内の気圧は約0.9気圧、その圧力差は0.5気圧)により一瞬にして開いた穴からヒトやモノが機外に吸い出されます。しかも外気温は、マイナス40~50℃の死の世界なのです。


<JAL123便の飛行計画>

○アシスタント・パーサーの落合由美さんは、八月十二日の朝を札幌で迎えた。その日の乗務は千歳空港から羽田に飛び、また千歳に飛んでふたたび羽田着、午後三時の便に乗るというものでした。一往復半の飛行は、通常スケジュールどおり。勤務を終えて、大阪の自宅に戻るため日航123便に、デッドヘッド搭乗していました。

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生存者は全て後部座席の女性四名だった

○落合さんの席は上図の右側。客室E部後方から三列目、二席の通路側「56C」だった。一般乗客の生還者「54列 D.F」に吉崎博子さんと、吉崎美紀子さん母娘が「60列 D」に川上慶子さんが座っていました。

以上が生存者四名のシート位置です。

 

フライトプランは、JAL123便が「東京 羽田空港」を18時00分にテイクオフ。離陸後は三原パーチ、大島・伊豆相良から西に巡航し、和歌山串本VOR/TACにて北西に右旋回。信太VOR/DMEから「大阪 伊丹空港」へ。

18時56分に、伊丹到着予定です。

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○15名の乗務員と509名の乗客を乗せた123便は、ほぼ満席“定刻十二分遅れ”で六時十二分二十秒に、羽田空港をテイクオフしました。大島から伊豆半島にところどころ積雲(九千から一万ft)があり、西に沈む夏の夕陽を追いかける、フライトとなります。

▷航空機ファンが、たまたま捉えていた123便の姿⇒羽田空港を離陸するJAL123便② - YouTube

(※航空界では「出発12分遅れ」は定刻となる。“ショートカット”したり回復運航の手が色々と…この12分遅れのため、“内陸寄りにショートカット”したと思われます)

 

○以下、『青字』が落合証言です。事故後、落合由美さんが語っています。またFDR/CVR音声テープ記録も、なるべく時系列に沿う様に添付しました。

(※これは完全には一致しません。またCVR音声は「プライバシー保護のため」として、いまだに全面公開されていない。 FDR=フライト データ レコーダー、CVR=コックピット ボイス レコーダー)

(備考/1000ft=305m、30.000ft=9150m。200ノット=370km、300ノット=555km。CAP=機長 高濱、COP=副操縦士 佐々木、 F/E=航空機関士 福田、PRA=チーフパーサー 波多野、STW=スチュワーデス、PUR=機械音声、ACC=東京コントロール(所沢)、TAC=東京進入管制(羽田)、COM=JAL社内無線、YOK=横田米軍基地)

 

①客室に「バ~ン」でなく、カン高い「パーン」と音がした

 

123便は、相模灘 大島の北方を上昇飛行していた。やがて水平飛行に移ろうとするあたり。右窓には暮れなずむ江ノ島や富士山を眺め、乗客がほっと一息つくあたりでした。

 

『離陸してすぐ私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。女性や子供の姿が多くいつもの大阪便とはちがうな、という印象はありました。

私の席の周囲にも若い女性の姿が目立った。禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうかはっきりしません。』

 

▷FDR・CVR音声記録より/衝撃音より前に、レコが始まっていた。キャビンでは、すでに「何か?に緊張状態」にあったと思われます。

繰り返し「気をつけて」発言があった。トイレに行くだけのことに、なぜしつこく“気をつけねばならない”のか??

 

18時24分~

12秒 (STW) (トイレに行き)…たいとおっしゃる方がいらっしゃるんですが

14秒 よろしいでしょうか?

15秒 (COP) 気をつけて ←

16秒 (F//E) じゃ、気をつけてお願いします ←

17秒 (COP) 手早く ←

18秒 (F//E) 気をつけて下さい ← 

19秒 (STW) はいありがとうございます

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123便は十二分遅れで飛び立った

○前触れなく「甲高いパーン」という衝撃音を聞いたと、話す落合さん。音は「自席の天井の後ろ辺り」からしたと云う。しかし、振動は感じなかったとも言います。

 

『そろそろ水平飛行に移るかなというとき「パ-ン」というかなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。

「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。急減圧がなくても耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常はまったく何も感じませんでした。

音は私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。私は思わず天井を見上げました。しかし振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。』

 

▷FDR・CVR音声記録より/伊豆半島 下田沖上空、23900ft(7170m)、300kt。衝撃音は、連続二回(もしくは三回か?)ありました。機体は衝撃音より、オートパイロットがはずれマニュアル操舵となる。また短時間に、二度も発言する「オレンジエア※1」の正体とは、いったい何か?!

 

18時24分~

35秒「パーン」というような音① ←

36秒「ドーン」というような音② ←

37秒【高度警報音】ビービー音

38秒 (F//E) まずいっ

39秒 (CAP) 何かわかったぞ

42秒 (CAP) スクォーク 7700 (宣言)※2

43秒 (CAP) ギアみて、ギア部

44秒 (F//E) はい?

46秒 (CAP) エンジン?

47秒 (COP) スクォーク 7700 (発報)

48秒 (F//E) オレンジエア… ← 

51秒 (COP) これみてください

53秒 (F//E) はい 

55秒 (COP) オレンジエア… ←

57秒 (COP) ハイドロプレッシャみませんか?

59秒 (CAP) 何か爆発…

 

(※1 ここでは、いわゆる“無人標的機”のことと思われるが、未だ確定は出来ない)

(※2 SQUAWK-7700は、国際救難信号E.M.G、CAPは衝撃音からわずか“七秒後に宣言”した。早すぎる手順)

 

○事故調査報告書によれば、圧力隔壁損壊部分から客室内の空気流出しキャビンには“強烈な減圧”が、発生したと主張します。

事故調査委員会はこの減圧計算を行い、衝撃音発生の八秒後には「機内の“与圧はすべて失われ”気温も-40℃まで低下した」ことを主張している。

それではその八秒後以降の「機内の様子に注目」して下さい。果たして“そのような状況”が機内で、生まれたのか?

 

○落合証言による『振動はまったく感じませんでした。霧のようなものは数秒で消えました。酸素マスクをしてぱっと見たときには、もうありませんでした。白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。体に感じるような急激な降下はありませんでした。機体も揺れなかった』証言は“急減圧との整合性”がまるでないことが解ります。

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▷参考音声/何回聴いても「オレンジエア」としか聴こえない⇒日本航空123便ボイスレコーダー「スコーク77」オレンジエアの部分をスロー再生 - YouTube

 

○いわゆる“謎の飛行体”について「1990年10月14日付 朝日新聞記事」に写真・記載あり。通称「オレンジエア」は、開発中の“プロトタイプ”を指し、視認性を良くするため「蛍光オレンジ色」に全面塗装されています。

 

○この時、相模湾で「追尾システム搭載型 巡航ミサイル」の試射(誤射か?)をしていたと思われます。しかし、数多くの航空機が常に飛び交っている「関東南A空域」で、自衛隊がなぜ実験したのか、理解に苦しみますね。

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左「ファイアービー」右「チャカII改良型」

(△標的機「ファイアービー」全長7m、全幅3.9m、上昇限度7000m、自重686kg、速度960キロ、航続約60分。△誘導ミサイル「チャカII改良型」全長3.87m、全幅1.76m、高さ0.71m、速度900キロ、上昇限度9.000m、自重182キロ、航続約80分)

○標的機相手に演習していたのが、“自衛隊ではない”のなら、それは誰なのか?▷外部リンク/123便に衝突したのはファイヤー・ビーとチャカ2

 

○参考/R-116(レンジ イチイチロク)は、軍事演習用海域のひとつ「チャーリー水域」と呼ばれる。房総半島の南東に設定され「アメリカ海軍に供用」されている。射爆訓練時には航空機や船舶の航行は、全面禁止される。

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エリア116「チャーリー空域」が変更された件

 

②すぐに酸素マスクが、自動的に落ちて来た

 

『お客様からは「うわっ」という声がした。女の人だと「きゃっ」という一瞬喉に詰まったような声。騒がしくなるとか、悲鳴があがるということは、ありませんでした。

耳は痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。しかしそれもすぐに直りました。

「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。ジャンボの場合、席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、私の座っていた「56」の二席には三つありました。

それが機内にいっせいに落ちてきたときは、マスクがわんわんわんとバウンドするような感じでした。ひっぱると酸素が流れだして口もとの袋がふくらむ。酸素が出てこないのもあったけれど足りないということはありません。

ただちに録音してあるアナウンスで「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください」と、日本語と英語で流れました。マスクのつけ方はとなり同士教えあって、あんがいスムーズにつけていました。

ベルトについての指示はなかった。お客様はまだベルトをしたままでした。煙草をすぐ消すように、という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。

あとで気がつくと、離陸してまもなく消えていたはずの(禁煙)サインが、ついていましたから』

 

▷FDR・CVR音声記録より/24,200ft(7,376m)、310kt。落合さんによれば、まず最初は機内に「PURが流れた」そうです。“ベルトについて指示がなかった”とは、すでにベルトサイン表示が出ていたと思えます。

 

18時24分~

45秒 (PUR) 酸素マスクをつけてください

46秒 (PUR) 酸素マスクをつけてください

47秒 (PUR) ベルトはベルトを

48秒 (PUR) してください…

 

③白い霧の発生と、緊急降下中のプレアナウンス

 

○「パーン」という音と同時に「白い霧」が発生した。かなり濃くて、前の方がうっすらとしか見えないほどであったらしい。しかし数秒で消え、空気も流れなかった。このことは、重要な要件であると思います。

 

『しかし緊急降下中といっても、体に感じるような急激な降下はありませんでした。急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることはもちろん知っていました。急減圧は何かがぶつかったり衝撃があって、機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、そういうことが起きたのだなと考えたのですが。しかし何が起きたのか想像もつきませんでした。

酸素マスクが落ちてくる光景は訓練では見ていますが、実際に経験するのはもちろんこれがはじめてでした。やはり「パーン」という音と同時に白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方がうっすらとしか見えないほどです。

私の席のすぐ前はそれほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号「47」「48」あたりのところが濃かったように見えました。ふと見ると前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がボヤ-ッと見えるだけでした。

その霧のようなものは数秒で消えました。酸素マスクをしてぱっと見たときには、もうありませんでした。白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。

すっと消えたという感じだったのです。

匂いはありませんでした。こうした白い霧というか靄のようなものが出るのは、急減圧の場合の現象だ、ということも、もちろん訓練のときに教わっていたことでした。』

 

▷FDR・CVR音声記録より/伊豆半島上空。機体が右に40°傾き、尾翼破片を落とす。キャビン内では、クルーがエンジン、ランディング・ギアをチェック、異常はなかったが、ハイドロ(油圧)四系統が、すべて不能となったことを知る。機体のダッチロールが始まる。

 

○25分16秒、高濱機長はACC交信前に「ライトターン」 指示を出している。そして21秒「あー、東京。日本航空123便トラブル発生、ただちに、えー羽田に帰ることを要求します。220へ降下し、維持したい。どうぞ」と管制官に了解をとり「右旋回か左旋回か?」のリクエストに「右旋回したい」と、即答をする。

 

18時25分~

04秒【高度警報音 47分28秒まで鳴動継続】

05秒 (F//E) ギア ファイブオフ

06秒 (PUR) ベルトを必ずしてください

14秒 (F//E) はいはい、ラジャー

15秒 (PRA) ベルトを締めて

16秒 (CAP) ライトターン ←

17秒 (CAP) ライトターン 

19秒 (COP) プレッシャ  (F//E) おっこった 

21秒 (CAP) Ah…TOKYO, JAPAN AIR 123,

24秒 request from immediate e…

27秒 trouble request return back to HANEDA descend and maintain 220 over.

37秒 (ACC) Roger,apprived as you request.

40秒 (CAP) Radar vector to OSHIMA, please.

42秒 (ACC) Roger, you want right or left turn?

45秒 (CAP) Going to right turn, over. ←

49秒 (ACC) Right, right heading 090 Radar Vector to OSHIMA.

52秒 (CAP) 090.

53秒 (CAP) バンクとんな そんなに  

54秒 (COP) はい                   

55秒 (CAP) バンクそんなにとんなってんのに、バカ! 

57秒 (COP) はい                

59秒 (CAP) なんだよ、それ 

 

18時26分~

00秒 (F//E) ハイドロプレッシャがおっこちています、ハイドロが…

02秒 (PUR) ただいま緊急降下中…

03秒 (CAP) バンクそんなにとるな、マニュアルだから【高度警報音2秒間】

05秒 (COP) はい

11秒 (CAP) 戻せ

12秒 (COP) 戻らない

15秒 (CAP) プルアップ

17秒 (PRA) ……

27秒 (CAP) ハイドロ全部だめ?

28秒 (F//E) はい

 

④トイレの上、カーテンのような布がヒラヒラしていた 

 

『はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくしてお客様のマスクを直したりしてまわっていました。そのときはエキストラ・マスクをひっぱって口にあてていました。

マスクのチューブは伸ばすとけっこう伸びます。三列くらいはひとつのマスクをつけたまま、まわっていたようでした。

このときも荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながらきょろきょろあたりを見まわしていました。』

 

▷FDR・CVR音声記録より/駿河湾上空、22,200ft(6,766m)、300kt。機長とACCとの会話。管制官の「大島レーダー誘導のため、方位090(真東)」へとの指示に対して、123便高濱機長が『But now uncontrol.』と応える。なんて哀しい交信だろうか。

 

18時28分~

31秒 (ACC) JAPAN AIR 124, fly heading 090 radar vector to OSHIMA.

35秒 (CAP) But now uncontrol.

39秒 (ACC) Uncontrol roger understood.

 

○この時123便と交信していた、東京航空交通管制部(ACC、通称 東京コントロール)の管制官は、このことをどう感じていたのか。

その本人の証言があります。

管制官『「…了解」そう答えながら「おかしいな」と感じた。エンジン出力が低下した、客室内の気圧が下がったなどと、普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。心が騒いだ。』123便には、すでに“通告出来ない理由”があったのだ。詳しくは、こちらをどうぞ。

minminzemi81.hatenablog.com

 

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キャビンは平静を保っている、乗客の小川哲氏撮影。

○上記写真は「1985年10月13日付 毎日新聞記事」に言及あります。写真は56列 Hの席から、小川哲氏が撮影しました。また「謎の飛行体」と呼ばれる右側窓より撮影した「連続写真」も数枚ありました。

これが「飛行体の存在を示す証拠写真」となります。

 

『あとになって8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いたとありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。ですから開いたのかどうか、私は確認できませんでした。

きょろきょろしていたとき、私はトイレの上の横長の壁がほとんど全部はずれていることに気がつきました。トイレのドアはしまっていましたが、その上の壁がすっぽりはずれて、屋根裏部屋のような感じで見えたのです。

壁はちぎれたとか破壊されたというふうではなく、継目が外れたと言う感じでした。壁のパネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。

そして壁のはずれた向こう側に運動会で使うテントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました。オフ・ホワイトの厚地の布のようなものです。

ぴんと張ったのでもなく、ヒダの多いカーテンのようでもなく、一枚の布を垂らしたような感じでした。これもあとで整備の人に聞いたのですが、裏のほうにはそういう布があるのだそうです。

それが破れたというふうではなく、風にあおられたようにひらひらしていたのです。そこから機体の外が見えたとか、青空がのぞいたということはありませんでした。

もひとつ私の頭上の少し前の天井に整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、蓋がついているのですが、その蓋が私のほうに向いて開いていることに気がつきました。壊れたのではなくて何かのはずみで開いたという感じです。内部は暗く何も見えませんでした。ただ天井の荷物入れが下に開くということはありませんでした。

このときにはお客様は全員酸素マスクをつけていましたから、しゃべったりはしませんでした。酸素マスクをして呼吸するのに懸命で、とても会話どころではなかったのかもしれません。でもとても不安そうにしてきょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。赤ちゃんの泣き声がしたかどうか覚えていません。』

 

○証言『白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした』と『このときも荷物などが飛ぶということもなく』や『テントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました』これらの証言でも“急減圧は無かった”ことが判りますね。

 

○この時起こっていた現象は、ほんのわずかな“緩やかな減圧”でした。それでキャビンは、充分与圧されていたので、酸素マスクなしでも苦しくなかったのだと、思えます。

 

○また、29分30秒辺りからモガリ笛のような“高く低くピィーピュー音”が最後まで続きます。これR5の扉から“ほんのわずかな空気”が漏れ出していたからでは、なかったか?

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○18:30頃に書かれた乗客の遺書が、かなり多い。客席では、まだ何とか文字を書くことが出来たようです『(家族の名前)どうか仲良く がんばって ママをたすけて下さい パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない 今五分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 たすけて下さい きのうみんなと 食事をしたのは 最后とは 何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか しっかりた(の)んだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 今六時半だ 飛行機は まわりながら 急速に降下中だ 本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している』川口博次氏の遺書、手帳より発見された。

 

○六時半頃、伊豆半島南端の住民が「ドカーン」という大きな衝撃音を聞き、上空に尾翼付近から白煙(オイル?)を上げて飛ぶ飛行機を、目撃したと証言している。

 

▷FDR・CVR音声記録より/焼津上空、24,900ft(7,589m)、280kt。ここではなぜか、緊張感の無い会話(機内電話)が続く。この時点で、フライトエンジニアの福田氏は、後部座席の様子を目視チェックすべきではなかったのか?それとも“それほどの危機感”は、感じていないのか。

 

18時31分~

50秒 (F//E) えーとなにが、こわれているんですか?

56秒 (F//E) どこですか?

59秒 (CAP) あ~あああ

18時32分~

01秒 (F//E) 荷物を収納するところですね?

04秒 うしろのほうのいちばんうしろの

06秒 ほうですね?はいわかりました

11秒 (F//E) あのですね荷物いれてある

13秒 荷物のですね、いちばんうしろですね

17秒 荷物の収納スペースのところが

19秒 おっこってますね、これは降りたほうがいいと思いますぅ

 

⑤客室内では、酸素マスク外しても息苦しくなかった

 

『いつ点灯したのか気付きませんでしたが「EXIT 」と「非常口」を示すエマージェンシー・ライトはついていました。座席上の空気穴から空気が出ていたのかどうか記憶にありません。ライトをつけていた人が、いたかどうかも覚えていないのです。時間的にはそろそろ暗くなるときですから、つけていてもおかしくないのですが気がつきませんでした。

こうしているあいだも飛行機が降下している感じは、ほとんどありませんでした。ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをしてしばらくしてからです。

「パーン」という音からたぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。』

 

○この頃キャビンでは、大変な操作をしていた。翼下に四発あるエンジン(左1左2右3右4)のストラスレバーを微調整し、ほんのわずかな出力差で機首を北に回頭させようとしていた。なのでCAPがマスクの問いかけに気のない返事繰り返すのは、エンジン操作に集中していたためと想える。123便、まさに神技コントロールの始まり。 

 

▷FDR・CVR音声記録より/静岡上空、24,900ft(7,589m)、280kt。「操縦席では、酸素マスクをしていなかった」通常、急減圧が発生した場合は、最優先に「クルーは酸素マスクを着用」します。このことからも「垂直尾翼を破壊するような急減圧」は“発生していなかったこと”が解ります。発言の「R5の窓」とは、最後尾右側にある非常扉の窓です。

 

18時33分~

35秒 (F//E) キャプテン

36秒 (CAP) はい

37秒 (F//E) アールファイブの

38秒 窓が…【高度警報音2秒間】(ブロークン)ですから

39秒 (COM) JAPAN AIR 123 JAPAN AIR How do you read?

41秒 エマージェンシーやったほうがいいと思いますね

44秒 (CAP) はい

46秒 (F//E) マスク我々もかけますか?

48秒 (CAP) はい…

49秒 (COP) かけたほうがいいです

50秒 (COM) 【社用無線呼出音】

54秒 (F//E) オキシジェンマスクできたら吸った

56秒 ほうがいいと思いますけど

58秒 (CAP) はい…

 

⑥高高度24,000ft (7,200m)380ktでダッチロールする

 

○ダッチロール、もしくはフゴイト運動といったふらつき現象は、コクピットパイロット達にとって未経験で、全く理解出来ないことだった。それは、キャビンにいる落合さんにとっても同じことでした。

 

『ダッチロールという言葉は知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとかガタガタ揺れるというのでもなくスローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。』

(※ Dutch rollとは、航空機が、縦方向と横方向への振動を繰り返すふらつき現象) 

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巡航高度24.000feet

『私の席に近い左の窓から見えたのはまっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で地上は見えませんでした。お客様は窓の外を眺めたりなかにはスチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいました。

機内の様子はあわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、この段階ではまだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。ただコックピットからの連絡は何もなくて、みんな不安な表情ではあったのです。』

 

⑦マスクから酸素が終了、救命胴衣を装着する

 

『そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか私がフライトをしていたとき、お客様から酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。全員が吸った場合18分くらいと計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。

でもほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。

ちょうどそのころになって私のうしろのL5 (最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスがまわりのお客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだしてつけてください」という指示を出しました。

その指示がどこからきたのかわかりません。ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて各スチュワーデスに伝えられたり、急な場合は乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができる「オール・コール」でくるのですが、今度の場合はそれはありませんでした。

ライフ・ベストをつけるようにという指示は機内アナウンスではなく、スチュワーデスの口頭で行っていました。まずスチュワーデスが着用してこのようにつけるんです、と教えながら座席をまわることになっています。今度もそうしていました。

前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。スチュワーデスは口頭で座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て、救命胴衣をつけてくださいと言いながらまわりはじめました。私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして、頭からかぶりました。』

 

▷FDR・CVR音声記録より/静岡市 井川ダム通過、25,000ft(7,620m)、220kt。R5の扉に不具合が判明し、エマージェンシィーディセント(緊急降下)することとなった。しかし、なかなか高度が下がらない。

 

18時35分~

33秒 (STW) …かんじでございますが

34秒 (F//E) ええとですね、いまあのー

37秒 アールファイブのドアーがあのー

39秒 ブロークンしましたえーそれでー

43秒 えーいまあーディセント

46秒 しておりますえー

51秒【機内電話呼出音】

52秒 (CAP)…

53秒 (COM) 了解しました。キャプテンのインテンションとしては

56秒 リターンツウ東京でしょうか?

58秒 (F//E) はいなんですか?

 

18時36分~

00秒 (COM) 羽田にもどってこられますか?

04秒 (F//E) えーとちょっと待ってください

06秒 いまエマージェンシィーディセントしてますので

08秒 えーもうすこししたら

10秒 あーコンタクトしますのでもういちど

14秒 あー再びコンタクトしますので

16秒 えーこのままモニターしておいてください

20秒 (COM) 了解しました  

 

⑧いまだ高高度をダッチロールする機体 

 

『私は羽田にもどれればいいなと感じていました。しかしまだ雲の上で高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。

しかしライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、わかってもひっぱって取りだすことがわからないお客様も、少なくありませんでした。私の近くにも、ベストの場所がわからなくて、取り乱している若い女性がいました。

そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたのです。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。

私が席を立ったとき、となりの窓際の席にいた男性のKさんが「スチュワーデスの方ですか」と、声をかけました。私は「はい、そうです」と答えてKさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。

とても冷静な方でした。ご自分のをつけ終わると、座席から手を伸ばして前後のお客様の着用を、手伝ってくださったのです。

私は通路に出て、L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。彼女が私の席よりうしろのほうをまわり、私は前のほう二列分くらいの左右のお客様を指示してまわりました。』

 

▷FDR・CVR音声記録より/22,300ft(6,800m)、ディセンドがうまく出来ずに、逆に上昇を繰り返してしまう。機体破片を落とす。

 

18時37分~

04秒 (CAP) おりるぞ

05秒 ( ? ) ……

07秒 (CAP) そんなのどうでもいい

11秒 (CAP) あ~あああ~

 

⑨徐々に客室内に、不安感が募るようになる

 

『しかしこのころになると、機体の揺れはじっと立っていられないほどでした。激しい揺れというのではなくて、前と同じように左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いてお客様の座席の下のベストをひっぱってちょっと座って、また二、三歩、という感じでした。

まっすぐ歩いてあたりを見てまわるということはもうできません。

救命胴衣は飛行機が着水して外に脱出してからふくらませることになっています。機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。しかし私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が四、五人いました。男の人ばかりです。

こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。泣きそうになっているのは男性でした。これはとても印象深かったことです。

 

▷FDR・CVR音声記録より/オルタネート(電動モーター)で車輪を出した。これで空気抵抗が増え、機体は安定感を得る。しかしその一方で「失速の危険性が増す」ことにもなる。

 

18時38分~

32秒 (F//E) ギヤダウンしたらどうですか?ギヤダウン

34秒 (COP) ギヤダウンでしょうか?

45秒 (CAP) 出せない

46秒 ギヤ降りない

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18時39分~

13秒 (F//E) オルタネートでゆっくりとだしましょうか?

18秒 (CAP) はい、ちょっとまって

59秒 (F//E) スピードブレーキひきますか?

18時40分~

00秒 (CAP) あーあたま下げろ

01秒 (COP) はい

22秒 (F//E) ギヤダウンしました

23秒 (COP) はい

 

ベストをふくらませてしまった若い男性が「どうすればいいんだ」と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、ふくらませてしまったのは仕方ないですからそのままでいいですと、安全姿勢をとっていただきました。ひとりの方がふくらませると、そのとなりのお客様もふくらませてしまう。他のスチュワーデスも私も、それに私のとなりのKさんも「ふくらませないで!」と叫びました。

機内にはまだいくらかの空席がありました。ひとりだけポツンと座っている人は、不安になったんだと思います。救命胴衣をつけているあいだに、席を詰めて固まるようになりました。

私は何も聞かれませんでしたが制服を着ていたスチュワーデスは、お客様からいろいろ質問されました。「どうなるんだ」「大丈夫か」「助かるのか」聞いていたのは男の方ばかりでした。家族連れの女性は男の方が一緒だったせいでしょうか、そういう場合でも男の人がいろいろ質問していました。

スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、できるだけ冷静に行動していました。いろいろ聞かれても「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も受けています。絶対大丈夫です。」と答えていました。

そのせいもあって、客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います。ただ笑顔はもうなく、彼女たちの顔も緊張していたのですが。赤ちゃん用の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、このときにはもうそれを取りだす余裕はなく、大人用のベストをつけたと思います。』

 

○22,400ft(6827m)、200kt、衝撃音より15分も経過した。富士吉田付近。しかし、123便はまだ「巡航高度を保ったまま」なのです。

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○Part2後半へと続きます。↓当該事故の「原因・墜落には、外的要因」があった、と思われます。落合証言と音声記録から改めて、この事故を考えてみたいと思います。お読みください。

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日航123便墜落事故関連ブログです。ご覧下さい。

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○外部リンク/事故関連の記事です。よければ参考にどうぞ。

▷1 *⋆✈ - 日本航空123便墜落事故33年目の記録 -

▷2 *⋆✈ 日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図&ボイスレコーダー) - YouTube

▷3 *⋆✈ 日航機墜落 simulation of JAL123 B747 Crash accident Pilot's View - YouTube

 

参考/墜落の夏、ウキペディア (15,000文字、thank you for reading, See you again.) 

<今週のお題> 老いも若きも楽しく研究 

そろそろ「🐬イルカと🐳クジラの違い」を、ハッキリさせたいのココロ。そして「祝🎊商業捕鯨再開!」ですよ【鯨肉文化】

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和歌山県太地漁協の捕鯨船「第七勝丸」が帰ってきた。

ビックリするくらい、ちっちゃいボートです。でも、太地町エース!

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第七勝丸出航風景(出典 読売新聞社)

やっとこさフレッシュな鯨肉が、食べられるかな。しかし、初物は何でも高いからね⇒『全量落札されたが、価格は公表されなかった』と云う。これは、あか~んヤツかい?ご祝儀相場。

www.agara.co.jp

 

昨年の12月のこと、「日本がIWCから脱退」とのニュース!

 

だいたいやね、国際捕鯨委員会(IWC)を例えれば⇒「ぼったくりバーみたいなもの」ホ~ント「捕鯨反対派のためのおかしな団体」に、成り下がっていました。

ていっ!て~いっ!。

 

産経記事引用『IWCは「クジラ資源の保存と捕鯨産業の秩序ある発展」を目的に国際捕鯨取締条約に基づき1948年に設立された国際機関。日本は1951年に加盟した。

当初は捕鯨国でつくる資源管理機関だったが、反捕鯨国の参加が増えて1982年に商業捕鯨の一時停止が採択された。

水産庁によると八月時点で加盟国のうち、捕鯨支持国は日本やノルウェーなど41カ国、反捕鯨国がオーストラリアやブラジルなど48カ国。捕鯨支持国との反捕鯨国が激しく対立している』(産経新聞事 2018/12/20)

 

これね、単純に言えば「食肉輸出国=反捕鯨国=反捕鯨団体なのであります。さらに、あのグダグダの「みどり豆ヤロー」共ときたら! まあ、良い。

(※みどり豆とか云う“カルト集団”は、ただの“利権団体”でしかないのは、既に周知の事実です)

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捕鯨漁 風景(昭和の頃)

それで、捕鯨基地のある和歌山県山口県高知県では「調査捕鯨」は終了。そして「商業捕鯨」再開がいよいよ始まった。

この漁は日本の領海と排他的経済水域(EEZ)で行われる。調査捕鯨では、大西洋でクジラを捕っていたが、これからはそれらも実施しないと云う。

じつは地球上に生息するクジラ類は、充分に回復しているのです。“愚かな乱獲”さえしなければ、まったく問題はありません。

 

引用文『…現在インド洋西部に生息するザトウクジラは、三万頭以上にまで増えているという。この海域のザトウクジラの個体数は、約二世紀にわたる捕鯨によって激減し、1970年代末には600頭未満になっていた。

そして研究チームは、2018年の調査とそれ以前のデータに基づき、インド洋西部に“三万頭以上のザトウクジラが生息”していると推定した』

(出典 ナショナルジオグラフィック)

 

いま本当に資源保護しなければならないのは「ニホンウナギ」である。資源枯渇して絶滅寸前、なのにNO天気な日本人はのたまう…

土用の丑の日は鰻よ♡うふふっ」

じつはワタシ鰻丼大好き♪人間なのですが、この十数年位“ほとんど鰻丼を食べた記憶”がない。すぐ記憶をなくす、回転寿司屋で摘む位かな?それ食べてるヤ~ン、すまぬウナちゃん。

 

輝く!和歌山県の郷土料理「クジラの竜田揚げ」です

 

農林水産省が選定した「農山漁村の郷土料理百選和歌山県代表の郷土料理です。

「あ~竜田揚げ食べた~い!!」

そして「クジラ給食復活!」もね。そうだよぉ~♪人気献立はやはり圧倒的に「クジラの竜田揚げ」だね。給食のやつは、ホント美味かったよねぇ!

戦後貴重なタンパク源として、日本の食卓を支えた懐かしの鯨料理。クジラの竜田揚げは、鯨料理の代表的メニューだったのです。

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1950年頃の小学校の給食

 

<クジラの竜田揚げレシピ>

 

昭和のソールフードだったね。ひと口大に切った鯨に下味をつけ、片栗粉をまぶし油でサクッと揚げます。「まいう~♪」

 

○鯨赤身をひと口大にカットする。隠し包丁も入れると下味がよく染みる

○ボウルに「醤油、酒、味醂、おろし生姜」液に、鯨肉をしばらく漬けておく

○ひと切れずつ片栗粉まぶし、すぐに180℃の油であげる。ここがポイント

○揚がった鯨肉と、付けあわせをあしらって   <<完成です!>>

 

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新鮮な鯨肉は刺し身✨にて

 

<給食ランキングをブッチで一位「鯨の竜田揚げ」>

 

しかし悪名高かった「コッペパン」が三位になってるよ。あと七位の「脱脂粉乳」てか。これ…マジですか、人気あったの?

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人気給食メニューランキング

 

知っておきたい、なが~い捕鯨の歴史

日本人の鯨を食べる習慣は、それこそ太古からあったといいます。また、奈良時代の文献に“鯨肉贈答”の記載があるそうですから、ずいぶんとその歴史は古くて永い。

 

紀伊半島の南端に位置する和歌山県東牟婁郡太地町は、日本の「古式捕鯨発祥の地」として、世界的にも有名な捕鯨の町です。 

その始まりは、江戸初期(1606年)。紀州太地で捕鯨組織の「鯨組🐳」が設立される。そして和田一族、和田頼元を中心に「刺手組」と呼ばれる捕鯨漁師たちが、太地浦を拠点に沿岸鯨漁を始めました。

延宝三年(1675年)には「鯨を網に追い込む捕鯨法」を、和田頼治が考案しました。

これ「クジラ一頭で七浦潤う」と云われた位だからね。乱獲なんかありえなかった。

○古式捕鯨説明サイト⇒http://www24.big.or.jp/~kyusoku/w_old_whaling.htm

(※縄文や弥生時代貝塚から、鯨の骨が数多く出土します。こんな時代から捕鯨していた証)

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ザトウクジラのブリーチング

 

そもそも欧米と日本では、利用目的も捕鯨手段も違う

 

幕末になると、欧米諸国(主にアメリカ、オーストラリア船)の捕鯨船が、はるばる日本近海までやって来ました。

当時は「米式捕鯨」と呼ばれる遠洋捕鯨でした。まず帆船見張り台から、見張り員がクジラを捜す。姿を発見したら手漕ぎのボートで漕ぎよせ、鯨に次々と銛を撃ち込んでゆくスタイルだった。

この西洋における遠洋捕鯨は、十九世紀から二十世紀前半までがピーク。漁獲目的は「灯火燃料や機械油」に使うためでした。船上で脂を絞ったら、肉や骨などはすべて海洋投棄した。なな、なんて勿体ないことを!

しかも欧米船は「世界規模で鯨を乱獲」し続けたのです。

そして油だけが目的なので、まず「マッコウクジラ」種が、絶滅寸前の危機に瀕した。次に「セミクジラ」が、1931年には最大種「シロナガスクジラ」の捕獲数がピークをむかえる。

世界全体で800隻程度の捕鯨船が活動し、一隻あたり年間10頭程度捕獲していたらしい。単純計算すれば「年間8000頭」にもなるっ!!

 

どんだけぇぇぇ~!!

(※デコに大量の脂を蓄えていた。さらに悪いことに「抹香鯨」からは「龍涎香」という香料・医薬にもなる珍品が採れた。その正体はマッコウクジラの「腸内で形成される結石」である。これが高価で取り引きされていたので、マッコウクジラ種のみが執拗に狙われた背景もある)

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「どど~ん!!」whale watching!✨

そのあたりの話は、有名な小説「白鯨※1」に詳しく描写されています。この話は、実際に捕鯨船に乗船、捕鯨に従事した「メルヴィルの実体験」をもとにしています。

 

▷映画「モビー・ディック」グレコリーペック主演。“白鯨の描き方”は、ほとんどゴジラ扱い<笑 このMADさは“アメリカ人の精神構造”をよく捉えています。あの“アメリカンバイソン”を絶滅寸前※2(レッドリスト)に追い込んだ奴らだからね。

youtu.be

(※1 1851年に発表されたアメリカ文学を代表する作品である。また、たびたび映画化もされている。原題は、英国版が"The Whale"、米国版が"Moby-Dick or The Whale")

(※2 アメリカンネイティヴは弓で仕留めたり、追い詰めて崖から落とすといった伝統的な狩猟法だった。なのでバイソンの個体数は“絶妙なバランス”が保たれていた。17世紀頃に“悪魔のような白人種”が来るまでは…)

最終的には「鯨類資源の減少」と「鯨油需要の低下」から不採算になり、欧米では一気に捕鯨が衰退する。しかし…日本では。

 

日本の捕鯨は、随分出遅れていた「古式捕鯨」からの~進歩

 

欧米船による乱獲、その結果として日本近海で鯨の個体数は著しく減少し、日本の古式捕鯨は、壊滅的な打撃を受けることになったのです。

明治十一年(1878年)には、太地において海難事故「大背美流れ」が起った。この大打撃を受け近代捕鯨への発展には、まだまだ時間が必要でした。

その後、捕鯨銃による沿岸捕鯨、鯨解体場の開設、鯨缶詰工場の建設など、次々と改善され、太地町捕鯨産業はようやく軌道に乗りました。

(※覚書『脊美流れ控え』によれば、子連れのセミクジラを追って沖合へと漕ぎ出した鯨取り船団は、遭難事故により百名以上が帰らぬヒトになりました) 

 

そうだった「イルカと、クジラの違い」とは何か

 

まず、クジラはだいたい二種類に大別することができます。鯨の口が髭なのか、歯なのか?「髭クジラ」と「歯クジラ」のツータイプです。

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ザトウクジラ

①「ヒゲクジラ」は、口の周りにヒゲを持ち、小魚やプランクトンをガバ飲みします。「髭」タイプ代表種は⇒「ナガスクジラ、ザトウクジラ」など。

②「ハクジラ」は、頑丈な「歯」で巨大な生物(例えば大王イカとか)も捕食できます。「歯」タイプ代表種は⇒「マッコウクジラ」です。

そして、イルカも歯を持つので②の「歯」タイプになりますね。 

 

まさかっ?! イルカとクジラの差とは…

 

実は「何となく」らしいのです。

「えぇぇぇ、ナニそれ?!」

ひとが見て「チッコイなぁ」思うのが「🐬イルカ」で、ひとが見て「デッカイのう」思うのが「🐳クジラ」その境目はテキトーだった。目安としては、だいたい「体長四~五メートル」あたりで線引きらしい。

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イルカは、賢そうだよな

例えば「セントバーナードとチワワ、コレどっちも犬でしょ?」

みたいなハナシなのか <笑

 

○鯨は海の中で「唄い、踊り、遊ぶ」とても愉しそうですね。

youtu.be

 

和歌山県太地町には「鯨魂の永く鎮まりますよう」という願いを込めた「くじら供養碑」が建立されているのです。

毎年、四月二十九日(肉の日?)には「くじら供養祭」が行われています。

もちろん日本人は、鯨さんをリスペクトしていますよ。日本での古名は「勇魚 いさな」これは“キングオブフイッシュ”といった感じですかね。

鯨法会、これが日本人の感性である。  

 

○推奨図書/「勇魚」と云えば、この本「C.W.ニコル」さんの名著です。西洋人に日本捕鯨をここまで描かれては、少し気恥しい心持ちがする。

勇魚〈上〉 (文春文庫)

勇魚〈上〉 (文春文庫)

 

 

金子みすずさんの詩『鯨法会』で〆ます

 

鯨法会は春のくれ、
海に飛魚採れるころ。

浜のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、

村の漁師が羽織着て、
浜のお寺へいそぐとき、

沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、

死んだ父さま、母さまを、
こいしこいしと泣いてます。

海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら

 

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(4500文字、thank you for reading.) 

名城「和歌山城の見どころ」決定版!! パート2「和歌山城の歴史と見所」をご紹介いたします【城址案内】

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白亜三層の大天守がそびえる和歌山城。この名城の特性と長い歴史を解説します

徳川御三家のひとつとして、紀州徳川家は五十五万五千石を領しました。和歌山城は市街中心部に位置する、標高約五十メートルの虎伏山に建造され、その天守からは眺望よく、北側を流れる紀の川、西には紀伊水道が望め、その絶景を楽しむことが出来ます。

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小高い岩山に天守が乗る

(※よくある勘違い/細かい事ですが…徳川御三家とは「徳川宗家、尾州徳川、紀州徳川」の三家を云う。水戸は?実は、最初は御三家を除外されていたのです。家光の代にて、宗家を別格として三家に加わる) 

 

和歌山城、最大特長である「三種類ある石垣積み」とは

 

石垣を見ればそのお城の歴史まで見えてきます

 

いきなりですが、お城石垣の話。和歌山城をよく表すものは、「石垣組み」にあると思います!

例えば、城という文字を分解すれば「土」と「成」になります。堀あげた土で土手を築き、強度不足を石組みにて補い成る。このことから決して上物を指して「城」とは、呼ばないことが解りますね。そう「石垣こそ城!」なのです。

そして和歌山城、全国的にみても珍しい“各時代の石垣”が遺っています。

 

壱、「野面積み」について 

 

和歌山城初期、豊臣秀長の時代。綺麗な「緑色片岩(紀州青石)」を巧みに積んだ「野面積み」の石垣が残っています。この石垣は一見荒々しく雑に見えますが、築き方を間違えれば崩落する訳で、高度な技術が必要ですね。なので傾斜角も緩やかです。

城内、山吹溪辺りの野面積みが見所です。特に雨上がり後には、石が綺麗な発色をして照りばえがとても美しいですね。 

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山吹溪に連綿と続く野面積み

お城の南側の岡公園にある、天妃山(てんぴさん)から切り出した青石を使用。この岡公園の裏側に池がありますが、石切場の跡に自然水が溜まり池となったのだと云います。岩山を切り崩す勢いで、大急ぎで作事が進んだことがうかがえます。

○こちらが、天妃山のある丘公園の紹介記事です。

minminzemi81.hatenadiary.com

 

弍、「打込みハギ」について 

 

和歌山城中期、浅野幸長の時代では。

加太城ヶ崎、友ヶ島などから「和泉砂岩」を打ち欠いて加工し、はぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られました。大石の隙間に小さな石を挟みこみ荷重を分散させる技法。これによりさらに高く積上げることが可能になりました。

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左側にある高石垣

岡口門近く、まず目に付く高石垣が、打込みハギです。しかし、元々地盤の弱いこの場所にこれだけの高石垣を築くのは、相当苦労したと想われますね。

 

参、「切込みハギ」について 

 

和歌山城後期、徳川時代になると。

熊野地方の「花崗斑岩」を用いて、切石で精密に擦り合わせ積んだ「切込みハギ」の石垣が作られました。面と面をピッタリ隙間無く組あわせています。主に来城者の目につきやすい箇所などを、この最新式の石垣に築き直したようですね。

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二の丸にある、切り込みハギ

このことは高さより美しさ、より<手間暇=コスト>かけることを意味し、単純に“お金持ちアピール”だったか、と思えますね。戦乱が治まった後もお城石垣に手をいれ続ける、紀州藩ならではの考え方が解ります。

 

かつては存在した「喪われし城門」のはなし

 

沢山あった城門と縄張りの話です。

和歌山城玄関の「一の橋大手門」から城内に入ると、縦に長い枡形となり続いて「中御門」がありました。これ喰違い虎口となっています。

この「中御門」を過ぎ、奥に見える表坂は、徐々に幅が狭くなりつづら曲折する石段となっています。これは錯視効果を狙ったものですね。

それを登り切った所には「松ノ丸門」があり、その南側には二層の松ノ丸櫓がたち、四方に睨みをきかしていました。

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つづら折れの表坂

さらに奥へは緩やかに登り、東西に細長い枡形「松ノ丸」があった。この長さの意味は火縄銃の有効射程で、迫り来る敵を両端から釣瓶打ちに出来たのでは、と思えます。

さらにその松の丸の終わりに天守本丸への道をふさぐ「本丸いち之門」がありました。籠に乗った殿様もこの急段は籠を降り歩いたといいます。

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和歌山城MAP

この虎口は、ほぼ直角に右に折れ、さらに右へと曲がっている登り階段です。そして続く「中門」という小さな隠し門があった。これにより石垣と城門でぐるり囲まれた桝形構造、これでは三方向から一斉攻撃を受けることになります。

中門の先は東側に「本丸御殿門」北側に「本丸裏門」そして西側に「天守いち之門」がどっしり構えていました。これらの城門全てを閉じると、ここもまた二つ目の桝形空間になります。万一敵が攻め登っても逃げ場はない、連続桝形虎口となるのです。

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本丸郭の縄張図

そして天守曲輪への入口にあたる「天守いち之門」と、続く「天守二の門(楠門)」は、最後にドーンと立ちふさがる巨大な要害となりました。

大手から都合七つの要害を抜いて、ようやく天守に辿り着けたのですね。縄張り名人と謂われた藤堂高虎の、面目躍如なのではないでしょうか。

和歌山城を攻める武将気分で、天守まで辿ると結構面白いと想います。オススメですよ。

  

何度も増改修を繰り返した城郭は、各時代の様式を留める。和歌山城の歴史が始まります

 

城郭規模は「戦国→江戸→明治」と数々の遍歴がある

 

城郭は単なる戦闘施設から、都市の象徴(シンボル)へと変化していく。

和歌山城の城郭規模は、北部を流れる紀の川と東側の和歌川を天然の堀とし、本丸の北側に二の丸(政庁御殿)を置きました。その外側に大きく三の丸(上級武家屋敷などが建ち並んでいた)があり、さらに土塁と外濠に囲まれていました。

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天守より螺旋に渦を巻くように計画された「梯郭式平山城」でした。また、和歌山市内の城下町特有の微妙に曲がり入り組んだ道路は、昔の名残を感じることが出来ますね。

ちなみに和歌山城下町の名残りとして、地名に「○○丁」と「○○町」が混在します。丁は「ちょう」と読んで武家屋敷を、町は「まち」と読み町人街を表しています。

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江戸時代の雰囲気遺す白壁

いま城跡として現存しているのは、徳川時代の最盛期の四分の一ほどの面積でしかなく、お城の南側に拡がっていた下級藩士の屋敷、三の丸にあった壮麗な武家屋敷が、明治以降に一気に喪われてしまうことになりました。

 

秀吉さんが「和歌山」の名ずけ親?!なんかすごい話

 

天正十三年、羽柴秀長紀州攻めの将として参陣。紀州平定後に紀伊・和泉の二ヶ国を加増された。そしてこの地に目を付けた羽柴秀吉が、弟 秀長に築城を命じたのです。

秀吉自ら城域を選定し縄張りを行ったといわれ、普請奉行に藤堂高虎を任じ、約一年で縄張りを完成させた。高虎は全国にある二十八城を手掛けたと言われ、この和歌山城が最初だったと伝わります。この時から「和歌山城の歴史」が始まりました。

しかし羽柴秀長はこの地、和歌山より奈良の郡山城を本城としました。伏見、大坂、大和、紀伊、和泉の地理条件を考えた場合、合理的判断であったと思えます。

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和歌山城いまは何の違和感ないけれど

また、この時期に「和歌山」と地名を改めた。秀吉が紀州 和歌浦の風景をいたく気に入り和歌浦の「和歌」と、この城郭予定地の字名だった岡山の「山」を合わせて「和歌山」と名ずけました(文献の初見)。

しかしこれ、果たしてどれだけ地元に定着したのか、疑問は残りますね。和歌山人はとにかく「紀州人」であること!に誇りを持っていましたから。

 

豊臣から徳川へと時代は、急激に推移してゆく

 

天正十四年。豊臣秀吉から秀長の家老職を命じられ、秀長は「桑山重晴」に三万石を与え城代としました。重晴は本丸を中心に城のさらなる拡張を行う。

○慶長元年。桑山重晴の隠居により、一代飛ばし孫の桑山一晴が城代を継ぎました。

○慶長五年。関ヶ原合戦で東軍に属した桑山一晴は、大和新庄藩に転封となりました。

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山吹に桜が良く似合う

○同年に同じく東軍に属した「浅野幸長」が三十七万六千石で紀州藩主として入城した。幸長もさらに城と町の大拡張を行っている。

○慶長十年頃。黒下見板張りの三層天守が建てられました(異説もあり) 。

(※この黒天守は、本丸御殿にあったのではないか?と云う話もあります。標高が本丸の山の方が高いため。)

  

有名な紀州南龍公、“徳川頼宣さん”の登場です!

 

元和五年。紀州浅野氏は広島藩(福島氏改易)に加増転封となった。そして、家康の十男徳川頼宣が五十五万五千石にて入国、紀州徳川家が誕生しました。

この頼宣公、大坂夏の陣での逸話。軍議で先陣を申し出た頼宣だったが却下される。すると涙を流して悔しがった。松平正綱が云う「まだお若いからこれから機会は何度でもありましょうぞ」すると頼宣は「十四歳が二度あるのかっ!」と言い返したと言う。

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複雑な構成美を魅せる回廊部

元和七年。頼宣は二代将軍秀忠より銀五千貫を貰い受け、城の大改修と城下町の大拡張工事を計画、実行しました。城郭唯一の弱点であった南への備えとして、堀川を拡張して総構えとする和歌山城下をも取り込んだ、巨大な城構えになる予定でした。

しかし余りにも大規模な作事だったため幕府より「謀反の嫌疑」をかけられたそうです。幕府には、付家老安藤直次の弁明で、ことなきを得たと云う。

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和歌山城下町絵図(安政二年)出典:和歌山市立博物館

和歌山市街の南部に「堀止」の地名が残っています。この場所が城郭総構の南限(計画上の)だったようです。スケールが凄かったのが判ります。

(※天守閣ある虎伏山から南に1.5kmの地点。なるほどこれでは、幕府がザワつくのもうなずけますね)

 

江戸時代後半は、紀州徳川家の天下だったのか?

 

野心家で武張った徳川頼宣が「将軍の座を虎視眈々と狙っていた?!」という逸話が残っています。その真偽は不明なれど、上記の戦術的な城下町造りや、地元の雑賀衆関ヶ原浪人を好んで雇ったりもした。また伊達政宗真田信之などとの交流など“幕僚が疑義を抱く動き”を、頼宣はやり続けました。

そして天下を騒がす「由比正雪の事件」が起こる。頼宣は「外様大名が加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うなら天下安泰」またも幕府に対し人を喰ったような申し開きで切り抜けました。

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冷や飯食いから天下人?!サクセス!

享保元年。徳川将軍家が断絶。そして徳川頼宣の孫で、八代将軍となる「暴れん坊将軍 吉宗」が誕生しました。それ以降幕末迄、紀州吉宗系の将軍が続くことになる(15代慶喜だけは水戸徳川から養子入りした)。ここに“始祖 南龍公の願い”が実現したのでした。

通常、将軍家にランクアップしたなら紀州藩は(廃藩か、直轄領)となるハズですが、将軍吉宗はそのママ存続させた。吉宗の「頼宣公リスペクト」だったかもしれませんね。

(※テレビドラマ「暴れん坊将軍」は、八代将軍 徳川吉宗が貧乏旗本の三男坊「徳田新之助」に姿を変え、江戸町民と交流しながら江戸にはびこる悪を斬る、痛快トンデモ話でした。) 

 

○参考まで/将軍家(紀州系)の流れ 

1家康-(頼宣-光貞)-8吉宗-9家重-10家治-11家斉-12家慶-13家定-14家茂-15慶喜

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昔お殿様の舟遊び、いまは観光客が

 

明治時代の和歌山城には受難の歴史があった。

 

幕末から明治維新を経て。明治六年、明治政府が廃城令を発布しました。城郭跡だった場所には、次々に役所や学校が置かれ、三の丸の堀は埋め立てられ道路にもなりました。残念なことに城郭規模がずいぶん縮小され、市街地化されてしまったのです。

左図が明治四十三年頃の地図、右が現在(グーグルマップ)です。ずいぶんと縮小されてしまったことが見てとれます。

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明治時代40年代の和歌山城(今昔マップより)

 

そして現代の和歌山城天守台には

 

天守から時計回りに多門、天守二之楠門、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと繋がる連立式天守がそびえています。回廊部にまで石落とし、鉄砲狭間まで設け「武張った城」であることを遠目にもアッピールしていますね。大天守へと通じる小天守にある玄関は、雅な唐破風の御殿入口です。この場所、意外と写真映えがします。

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興味深いのは、不等辺四角形の天守台(基壇の面積は2,640)のカタチですね。一層目は方形ではなく上に載る二層目から方形になるのです。なので一層目の屋根や軒先が、上層部と微妙にずれる“歪み現象”がみえます。こういった「見えない所まで工夫を凝らす」ところに、和歌山城の心意気が感じられますね。

 

繰り返す歓びと哀しみ、これが天下人を育んだ城の意地か

 

和歌山城天守は二度も火災にあいましたが、そのたび蘇りました。

弘化三年。天守に落雷があり炎上焼失する。そして嘉永三年、間もなく幕末と云う時期に、日本で最後となる天守が完成する。黒船が来航する三年前のことでした。

そして昭和十年に和歌山城天守は国宝に指定される。しかし、大戦末期に米軍の爆撃により、またもや炎上焼失しました。いま現在ある天守は、戦災後の昭和三十三年に鉄筋コンクリート再建された三代目で、建造物内部には「紀州徳川家ゆかりの品」が博物館のように多数展示されています。

 

紀州人の大きな誇りでもあり、時には嫌悪すべき対象でもあった和歌山城は、いまは静かに佇み時を刻んでいます。

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和歌山城天守

料金:大人410円 小人200円
9:00〜17:30(入館は17:00まで)
年中無休(12/29 - 12/31 は休み)
📞073-422-8979 

 

交通機関と駐車場について

和歌山城の最寄り駅は、JR和歌山駅と南海和歌山市駅になります。南海和歌山市駅からは歩いて10分ほど、JR和歌山駅からはもう少し離れているので、駅前のバス利用をオススメします。

車利用の場合、お城の南側“三年坂から入れる城内駐車場”があります。ここが一番天守に近く何かと便利ですよ。ただし、すぐに“満車になる”ので要注意ですね。

 

和歌山城 再建こぼれ話など 

和歌山城天守は昭和二十年に戦災焼失し、その後“市民の力”によって昭和三十三年にコンクリート再建されました。その時の話です。

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桜の季節には大にぎわい

和歌山城天守再建の時には、和歌山出身の松下幸之助さんが“最も多額の寄附”をした。市の側でも松下電器からの寄附を期待して「二ノ丸」の復原も依頼しようとしました。すると…「寄付するので天守閣に“ナショナルの看板”を掲げさせてほしい」と和歌山市に要求したというのです。さすが幸之助はん、ですねぇ。

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2018年には、再建六十周年となりました。なんでも現状のCR構造の寿命や耐震構造に問題があるとの話、この際「木造での再建」を検討すべき時と、想います。

 

和歌山城関連のお勧め観光名所として

和歌山市南部地域に、紀州東照宮、不老橋、養翠園、番所庭園などがあります。いずれも紀州徳川家、縁の名所ですよ。

城郭内 近隣施設/三の丸跡には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。

 

参考史料/和歌山市観光協会HP、和歌山市立博物館、和歌山市教育委員会ニュース和歌山、ウキペディア

 

(6200文字、Thank you for reading. ) 

名城「和歌山城の見どころ」決定版!! パート1「お花見(桜と紅葉)の歩き方」ご紹介いたします【観光案内】

白亜三層の大天守がそびえる和歌山城。連立式天守閣という珍しいナワバリのお城です。

徳川御三家のひとつとして、紀州徳川家は五十五万五千石を領しました。和歌山城は市街中心部に位置する、標高約五十メートルの虎伏山に建造され、その天守からは眺望よく和歌山市街を360度ぐるりと見渡せ、北を流れる紀の川、西には紀伊水道が望めその照り光る絶景を楽しむことが出来ます。

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堀端から天守閣を望む

お城見学のその前に、知っておきたいこと

 

交通機関と駐車場について

 

和歌山城の最寄り駅は「JR和歌山駅」と「南海和歌山市駅」になります。

南海和歌山市駅からは歩いて10分ほど、JR和歌山駅からはもう少し離れているので、駅前のバス利用をオススメします。

また車利用の場合、お城の南側三年坂から入れる城内駐車場があります。ここが一番天守に近く便利ですよ。難点は満車になりやすいのです。

 

事前見学の場所としてオススメ

 

大型バス駐車場(和歌山市役所の前)のとなりに、2015年9月オープンした「わかやま歴史館」があります。和歌山城見学のプレ学習に最適ですよ。

二階に上がると和歌山城の歴史と、和歌山出身の著名人についての展示があります。“VRシアタールーム”と“紀州徳川家の金印”がみどころです。

料金 大人100円、小中学生は無料。

時間:9時から17時半まで

📞073-435-1044

 

また同じ館内で観光案内所と観光土産品センターが一階にあり、お土産もの、軽食などを販売しています。ホッと一息いれたい時にどうぞ。

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わかやま歴史館

おもてなし忍者が(どっかに)いる!

 

忍者コスプレのボランティアが、登城の手助けをしてくれます。これは「障害者の方にも天守に登ってもらいたい!」てなことで始まったらしいです。

忍者を見かけたのは「わかやま歴史館」の芝生の所、天守下の広場でも見かけました。とても良い取り組みだと思いました。

○お申し込み・お問合せ…城プロジェクト(月火休み) ☏ 073-435-1044

 

ではでは、和歌山城見どころ案内はじめます

お城を時計周りにぐるりとお城の見どころを巡り、最後に天守へ登楼するコースです。まずは和歌山城の表玄関から入りましょう。けやき大通り、公園前交差点に大手門があります。

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和歌山城MAP

まずはココから、いちの橋です

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大手門、いちの橋

開花は枝垂れ櫻から始まります

 

この門をくぐった右手にとても素晴らしい「早咲きの枝垂れ櫻」がある。まだ肌寒い春先に一気に咲き誇る姿は、大手門の形と相まって随分景色がいいですよ。

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さらにすこし先、石垣のうえからは「大楠」が枝を拡げている。樹齢数百年、和歌山城の歴史を見つめて来た御神木、天然記念物だそうです。

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和歌山城は夜も開門しているので、夜桜眺めブラリ散歩するのもいい感じですね。

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お城の持つ幽玄な雰囲気が味わえます。

 

少しへんかな虎伏像は、とらふすやま

 

和歌山城を別名「虎伏山 竹垣城」と言う。

天守ある山容一帯を海から眺めれば「まるで虎が伏しているようだ」と、見立てて名ずけたらしい。それでコンクリート製「虎伏像」が造られここにあります。

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虎伏像は迫力満点!

まさに「南龍公に虎伏城、龍虎並び立つ!」て訳ですね。これは勇ましいなぁ。ところで、いまや虎伏山どこから観ても、虎には見えないよな?

ん…それはともかく。

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和歌山城桜祭り

この辺りお城の東側エリアが、櫻木も多く屋台も沢山出ていました。なので人口密度も高くなります。穴場情報はのちほど。

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花より焼き芋

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桜が満開ですよ

お城の石垣の上に登って花を見下ろすと、視界が拡がり独特の高揚感も楽しめます。足元に注意しながら石垣にも登ってみましょう。

岡口門近くの石垣の上、この場所が桜花見の穴場スポットですね。

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表坂過ぎ南へ向かうと、ずいぶん古い門構えが待っています、岡口門です。

 

武骨な顔、岡口門(重文指定)ですよ

 

浅野時代までは、この「岡口門」が大手門でした。戦国時代の気風がある、戦闘的で重々しい構えをしています。いまも往時と変わらぬ姿で保存されていますね。

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元々はこの門の両脇に櫓が並びたち、後背には桝形に武者だまりが控え、さらに奥には松の丸の高石垣大櫓が遥か上から睨みをきかしていました。

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まるで野武士の面構え岡口門

そして大水堀(何と最大幅73メートル!)と空堀で挟むカナメの位置に、この岡口門がありました。そう考えてみるとこの場所、お城の防衛にずいぶん重要視されていたのか良く分ります。

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堀幅73メートルもある

浅野期に大名行列ルート変更に伴い、北の一の橋が大手門となりました。その意味とは「戦の門」から「儀礼の門」に移り変った訳で、時代性を城門が表していると想います。一度、岡口門を出て振り返って観てください。

きっといい写真が撮れますよ。こんな感じです。

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岡口門外からの眺め

楽しい童話園・水禽園がある南の丸エリア

 

南の丸には動物園(童話園・水禽園)があります。お城のなかに動物園があるのは、全国的にもかなり珍しいものです。お城と動物園とのコラボ、しかも入場無料なのです。いいですね。

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動物園へとむかう道

ファミリー層にはオススメのエリアです。人気のゾウやキリンはいないけれど、お城巡りの癒しのスポットとなっています。

さらに動物園のすぐ西側には「一般駐車場」があります。城内に駐車場とは何とも無粋で頂けない話だが、車利用者には便利でありがたいですね。

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家族連れで賑わう童話園(動物園)

天守閣への昇り口は三つあって「表坂」に「裏坂」と「新裏坂」があります。それぞれ表情が違い面白いのだが、最短で登れるのがここにある新裏坂。江戸時代にはなかったものです。

延々と石の階段が続き…いっきに登るのは、すこしつらいな。やはり表坂か裏坂から、ゆるゆる登るのがオススメですよ。

駐車場の入口にあるのが「南の丸高石垣」です。

 

お城好きにはたまらない南の丸、高石垣

 

和歌山城がある場所は、基本地盤が岩山であり南西が砂地というあまり築城には向かない場所。この「南の丸」あたりは小高い砂丘だったようで、それで城の南側の堀切は断念したようです。空(水?)堀を巡らし微高地にこの高石垣(23.4m)を築きました。

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南の丸高石垣

和歌山城での一番の高石垣と謂われ、さらに高層矢倉(二層か?)がうえに載っていたそうです。「不明門(あかずもん、と読む。普段は開けることがなかった)」を護るために厳重に守りを固めたらしい。

その訳は万がいちの落城時には、ここ不明門が退き口であったらしいのです。

そしていよいよ事態切迫…不明門より間道をつたい南方面(寺町筋)へ逃げのび、海路にて徳川菩提寺の長保寺(別名徳川腹切り寺)まで、タッタッタッと走る殿様!

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岡口門のあたりから三年坂望む

こりゃ「何ともタイヘンですねぇ」でも、そんな事態におちいることは、歴史的には一度もなかった訳ですが。この不明門も長い間、開くことは無かったのでしょう。

 

また、この前の道路は「三年坂」と呼ばれています。

いまはかなり切り通されて広くもなったが、往時はかなりキツい難所だったそうです。もしこの坂で転んだら何と「三年以内に死ぬ!」そんな謂われもあった場所です。

このエリア、城マニアの方必見ですよっ!

(※三年坂のいわれ『むかし折助という女癖の悪い男がおり、夜ごとあの坂で女の人に声をかけていました。あるとき折助に急用ができ、急いだところ提灯の火が消え暗闇の中で転んでしまいました。その様子を「坂てころんて(坂で転んで)これはさんねん(残念)」といったことから』出典『紀街の詠(ながめ)』1796年) 

 

少し静かな護國神社と刻印石垣に注目

 

このあたりは櫻木多く、シートを拡げてのんびり花見を楽しめる場所。ひと気も少なく穴場ですね。小さな子供が散る花弁を、追いかける姿は微笑ましいね。 

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ファミリーで花見が今風かな

気になるのはこのあたりによく見かける刻印のある謎の石。

時代によって石垣の積み方も変化しますが、この辺りの石は豊臣・浅野時代に刻印されたものです。その紋様は約170種類、2,100個以上の石に確認されている。これの意味することとは、いったい何なのか。定紋のある石垣は多くの場合「天下普請(担当部署)」を表しているらしいです。しかしこれは…やはり謎なのです。

次は砂の丸へ続きます。

 

お城の西側、砂の丸・追廻門がある

 

砂の丸とは文字どうり砂丘部を取り込み、周囲を高石垣を築いたのです。この門の外側で乗馬の追いきりをやっていたといいます。それでこの赤門の名前が「追廻門(おいまわしもん)」と名ずけられた。藩士の武術鍛錬の場所だったのですね。

いまはその場所には、国道四十二号線が走っています。

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追廻門を外から眺める

城郭西側防備のためにきつい勾配の高石垣を、巡らしたのと対照的な優雅な赤い高麗門は何か違和感を覚えますが、それはこの場所お城の裏鬼門にあたり、風水的な意味(鬼門封じ?)でのことらしいです。

これ朱塗りなので、婚礼門だったかもしれませんね。

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赤門、追廻門

門内側の、砂の丸広場には、藩の勘定所が置かれていたそうです。砂の丸から鶴の溪へ石段を降りていきますと、美しい紅葉溪庭園がありますよ。 

 

紅葉溪庭園・紅松庵でちょっと休憩しますか

 

ここ「紅葉溪庭園」は名前どうり“モミジの名所”です。

晩秋にはとても美しい風景が楽しめます。お濠を取り込んだ大名庭園は、かなり珍しいものです。こちらは是非、秋に訪れてみて下さい。

時には蒼く、刻には紅く、静謐(せいひつ)な時間が流れる見事な作庭ですね。

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秋の紅葉溪庭園

また庭内にある「紅松庵」は数寄屋造りの武家風茶室。

昭和四十八年、和歌山市出身の故松下幸之助さんが寄贈してくれたそうです。紅葉渓(もみじだに)の「紅」と松下氏の「松」から命名されました。

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紀州藩では表千家宗匠が代々茶道頭を務め、歴代の藩主は茶道に造詣が深かったそうです。また、十代藩主徳川治宝表千家皆伝であったとか。

茶室からの庭園の眺めはとても素晴らしく、ゆったりと茶事を楽しむことができます。

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紅松庵茶室

和服姿の女性が、抹茶を点ててくれます。

立礼水屋点てなので、どなたでもお気軽にどうぞ。

○抹茶、菓子付き…460円です。

時間:9:00〜16:30

年中無休(12/29~1/3は休み)

 

殿様気分で御橋廊下を渡ってみる

 

二の丸と西の丸を繋ぐこの「御橋廊下」は、藩主とその側近だけが渡れる“秘密の廊下”として使われました。

ですので殿様の姿が見えないように厳重に囲いがされています。この約11度の角度がついている傾斜橋は、かなり珍しいものです。匠の技お見逃しなく。

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入口(東口と西口があり)で、履物を脱ぎます。備え付けのビニ袋に履物を入れ「さぁ、参ろうぞっ!」廊下は傾斜して滑りますよ。

でも大丈夫、廊下には突起細工が等間隔にあります。すると若竹踏み運動の感覚に「あぁ、足が痛いですっ!」日頃の不摂生が、思い知らされた訳なのですね。<笑

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傾斜ある御橋廊下

案外健康に良いのかも知れません 。このアクティビティは無料なので記念に、何度も往復してみましょう。

 

二の丸庭園を探ってみると

 

ここ「二の丸」は、初期紀州藩の政庁と、住居のあった場所。

東側から、表御殿、中奥、大奥と絢爛豪華な建物群がこの場所に、みっちみちに建っていたらしいです。

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この道の左側に二の丸庭園が拡がる

しかし、明治初期(廃藩置県)と続く大戦末期(B29無差別爆撃)に、殆ど全ての建築物が喪失してしまう。

いま残っていれば間違いなく「国宝級※」なだけに、次々と喪われていったことはホント残念ですね。

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花見の会場にはうって付けですね

在りし日の様相は、想像するしかないのだが探ってみると、わずかながら井戸や建物跡の痕跡があります。つぎに二の丸御殿の秘話です。

(※天守が昭和十年(1935)国宝に指定されている)

 

<紀州御殿の数奇な運命>

紀州御殿」と呼ばれる巨大な屋敷が、二の丸にありました。

明治十八年、和歌山城二の丸にあった紀州御殿は、大阪城本丸に移築され陸軍の第四師団が紀州御殿を司令部として使用しました。

昭和七年、陸軍特別大演習の際に紀州御殿に昭和天皇行幸があり、その翌年に紀州御殿は「天臨閣」と改称された。

昭和二十年八月十四日、大阪大空襲。B29の集中的な爆撃(東側に軍需工場があった!)を受けたが、紀州御殿は“奇跡的に被害をまぬがれ”大戦を生き抜きました。

敗戦後はGHQに接収され、昭和二十二年になんと!占領軍の失火により、天臨閣(紀州御殿)が焼亡してしまう…あぁ~何てことっ!

 

<紀州徳川家の大奥とは> 

いまに残る「二の丸大奥 絵図面」を見ますと、大規模な建物群があったようです。

この一角は殿様以外は全員が女性。ひしめき合って暮らしていたのです。御局様の部屋がまるで、アパート部屋みたく連続していますね。

「きっと、何かと、タイヘ~ンだったろ~なぁ<汗」と、同情してしまいました。でも凄いことだな…大奥があるなんて、さすが紀州徳川様ですね。

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いまは植樹と庭石が置かれ公園化されています。花見客がお弁当食べたり散策するのに良い、市民憩いの広場となっています。 

 

はい、これでぐるっと一周お城を廻ってきましたよ。

 

次は「空から和歌山城を見てみよう」くもじいじゃ、嘘じゃ…☁☁

Youtube

 

<おまけネタ!> 階段を登るエイリアン?!

 

ところで「コビトに見える木の根っこ」テレビなどで何度も取り上げられ、ご存知の方も多いみたいですが、場所が判らずスルーしてしまうらしいです。

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石段を登るコビト?!

その場所は、二の丸庭園から天守閣へむかう裏坂すぐに、管理事務所がある。その右手側、石垣階段途中にあります。

階段下でしゃがみ見上げるように観ると…「コビトだっ!」発見 ☺ピース!

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裏坂最初はゆるく徐々に急になる

さあ、この裏坂から「本丸天守」へとむかいましょうか。

 

そして現代の和歌山城天守台には

 

天守から時計回りに多門、天守二之楠門、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと繋がる連立式天守がドドーンと建つ。

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和歌山城 望遠

回廊部にまで石落とし、鉄砲狭間まで設け「武張った城」であることを遠目にもアッピールしていますね。

天守へと通じる小天守にある玄関は、雅な唐破風の御殿入口で、案外写真映えがしますよ。そうインスタばえですね。

興味深いのは、不等辺四角形の天守台(基壇の面積は2,640)のカタチです。一層目は方形ではなく上に載る二層目から方形になる。一層目の屋根や軒先が、上層部と若干ずれる“歪み現象”が観れます。こういった「見えない所まで工夫を凝らす」ところに、和歌山城の心意気が感じられますね。

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繰り返す歓びと哀しみ、これが天下人を育んだ城の意地なのか

 

和歌山城天守は二度の火災に遭ったが、その都度蘇った。

弘化三年、天守に落雷し炎上する。そして嘉永三年、日本で最後となる天守が完成する。黒船来航の三年前のことでした。昭和十年に天守は国宝に指定される。しかし、大戦末期に空襲でまたも灰燼と帰す。

現在ある天守は、戦災後の昭和三十三年(1958)に鉄筋コンクリート再建された三代目で、建造物内部には紀州徳川家ゆかりの品が博物館のように多数展示されています。

紀州人の大きな誇りでもあり、時には嫌悪すべき対象でもあった和歌山城は、いまは静かに佇み時を刻んでいます。

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和歌山城天守

料金:大人410円 小人200円
9:00〜17:30(入館は17:00まで)
年中無休(12/29 - 12/31 は休み)
☏ 073-422-8979 

 

○より詳しい歴史“和歌山城情報”は、こちらに続きます↓ご覧下さい。

minminzemi81.hatenablog.com

  

和歌山城 再建こぼれ話 

和歌山城天守は昭和二十年に焼失し、その後市民の力によって昭和三十三年にコンクリート再建されました。

その和歌山城再建の時には、松下幸之助さんが“最も多額の寄附”をした。市の側でも松下側の寄附を期待して「二ノ丸」の復原を依頼しようとしたが「寄付するので天守閣に“ナショナルの看板”を掲げさせてほしい」と和歌山市に打診したという…さすが、幸之助はん!!

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岡口門外からの眺め

はや再建六十周年になります。なんでも現状のCR構造の寿命や耐震構造に問題があるとの話、やはり木造での再建を検討すべき時と想いますね。

 

和歌山城関連のお勧め観光名所として

和歌山市南部地域/紀州東照宮、不老橋、養翠園、番所庭園などがあります。いずれも紀州徳川家、縁の名所ですよ。

城郭内 近隣施設/三の丸跡には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。

 

参考史料/和歌山市観光協会HP、和歌山市立博物館、和歌山市教育委員会ニュース和歌山、ウキペディア

 

(6700文字、You read it, thank you.)