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あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ ノシ

日航123便 ジャンボ機事故。東京航空交通管制部の管制官の証言 息詰まる会話記録【航空機 事件簿5】

 

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(注☆いまから九年前の朝日デジタルの記事です。一部追加、リライト加えています)

 

西日本のとある空港で、管制官の男性が語り始めた

 

『夏になると当時に引き戻されるんですよ(日本航空のジャンボ機の)墜落直前にヘッドホンを通じて耳に届いた、パイロットの「ああ~っ」という悲鳴のような声が忘れられない。西日本のある空港で、男性(54)は言葉を選び語り出した。』

(※低音で安心感ある美声をしている方です。なのでとても聴きとりやすい)

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羽田空港を飛び立つ123便

25年(34年)前の夏。東京航空交通管制部(埼玉県所沢市、東京コントロール)の管制官として、上空の航空機と交信していた。8月12日も普段と変わらない一日だった。当時29歳。管制官になって8年目だった。

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123便飛行ルート

先輩管制官らと「関東南セクター」という空域を担当する勤務に夕方からつき、管制卓に着席した。羽田への到着便が増える時間帯。「そろそろ忙しくなるぞ」と、思った矢先だった。

 

▷午後6時24分47秒、地図赤丸

 

「ブーーッ!」

管制室内にブザー音が鳴り響く。レーダー画面の「日航123便」の機影に、緊急事態(エマージェンシー)を示す「E.M.G」の文字が点滅し始めた。乗客と乗員計524人。午後6時12分に東京羽田空港を離陸し、大阪伊丹空港に向かっている「ボーイング747型機」だった。部屋の隅から上司が近づいてきた。

 

▷午後6時25分21秒

 

日航123便、トラブル発生。羽田への帰還を求める。2万2千フィート(高度約6,700メートル)に降下したい」機長の声が、英語でヘッドホンから流れてきた。

「了解」そう答えながら「おかしいな」と感じた。エンジン出力が低下した客室内の気圧が下がったなどと、普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。心が騒いだ。東京航空交通管制部に「羽田へ戻りたい」と告げた日本航空123便は、旋回することなくふらふらと伊豆半島上空を西に向かっていた。

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伊豆大島
▷午後6時27分2秒

 

「123便、確認しますが緊急事態を宣言しますね?」

「その通り」

「どういった緊急事態ですか」

やはり応答はない。

「とんでもないことが起きているのでは…?!」

 

▷午後6時28分31秒、地図①

 

「レーダー誘導のため90度(東)へ飛んでください」

「しかし、現在アンコントロール(操縦不能)」

衝撃的な言葉だった。普段はオフのスピーカーがオンになり、123便とのやり取りが管制室中に響いた。

 

▷午後6時31分2秒、地図②

 

「降下できますか」

「今、降下しています」

「名古屋に降りますか」

「いや、羽田に戻りたい」

「何とかしたい」

そう思うと、とっさの呼びかけが口をついた。

「これから日本語で話していただいて結構ですから」

パイロットと管制官とのやり取りは、近くを飛ぶ航空機でも聞き取れるよう通常は英語を使う。でもいまはパイロットの負担を少しでも減らし、事細かにやりとりしたかった。

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123便は北に向かう。すでに隣の管制空域に移っており、無線の周波数を切り替え別の管制官に移管するところだが、そういう指示はしなかった。

「切り替えたはずみで、無線がつながらなくなるかもしれない。そうしたら日航機は命綱がなくなってしまう」

じりじりとしながら画面をにらんだ。他機が近づかないよう、航路から退ける指示を続けた。富士山をかすめた123便は、羽田のある北東に向かい始めた。

「戻れるかもしれない」

かすかに期待も芽生えたが、周囲は山。機体の高度は5分間で一気に3,500メートルも下がっていた。

 

▷午後6時47分17秒、地図③

 

「現在コントロールできますか」

「アンコントローラブルです」

もはや管制官は、まったく役に立っていなかった。ヘッドホンから「ああっ」という声も聞こえてきたが、機内で何が起きているのかはわからなかった。

「おれは、どうしたらいいんだ…」

絶望が襲う。その頃、機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことは、後で知った。

 

▷午後6時53分28秒、地図④

 

「えーアンコントロール。ジャパンエア123、アンコントロール

「了解しました」

これが最後の交信となった。

 

絶望感が、東京コントロール管制室を支配した 

 

三分後、糸の切れたタコのように画面上を点滅しながら漂っていた機影が止まった。その場で十数秒間点滅した機影は、突然消えた。体に電気のようなしびれが走った。

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JAL123 消失点 北緯35度59分、東経138度41分

△123便は、高度9,700フィート(約2,950メートル)速度300nt(約560km)の表示を残して、東京コントロール(運輸省航空交通管制部)のレーダー画面から消えた。

 

薄暗い管制室は、静まりかえった。背中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていた。30秒ほどして上司に促されて呼びかけてみた。

「ジャパンエア123、ジャパンエア123」

応答はなかった。

ヘッドホンを外し席を立った。別室で報告書を書いた。妻には「いつ帰れるか分からない」と、電話で告げた。頭の中で何度も交信した「最後の30分」を繰り返していた。

 

守秘義務から、誰にも言えない秘密を抱える 

 

朝方に帰宅して、墜落した機体をテレビで見た。ショックを気遣った上司に、数日休みを与えられた。事故原因を調べる国の航空事故調査委員会や警察から、事情を聴かれることはなかった。

管制官の仕事を続け最近までいた部署では、事故防止の対策づくりに取り組んできた。いまは管理職として空港事務所で管制関連業務に携わっている。だが123便と交信していたことは、家族や一部の同僚しか知らない。

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事故から数年後に御巣鷹の尾根に立った。その後も遺族や報道陣が多い八月を避けて仲間や家族とたびたび登ってきた。だが尾根へと向かう険しい道のりや事故で傷ついた山肌を見るたび、あの時のつらい思いが呼び起こされた。無理だったと分かっていても「自分が何とかできなかったか」という思いはぬぐえず、表に出て話す気持ちになれずにいた。

 

事故を風化させないため、いまなら出来ることもあるのでは

 

最近になって「事故を風化させないため、今ならできることもあるのでは」との考えが頭をよぎるようにもなった。世界各地で飛行機事故が起きるたび、原因は分かっているのか、管制官はどう対応したのか、と気になる。管制の現場には御巣鷹の後に生まれた管制官も出てきた。

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航空会社の経営はどこも厳しく「安全よりもコスト削減」ばかりが取りざたされるのが気がかりだ。25年前の「あの夏」のことを伝える時期なのかもしれない、と思いはじめている。

日航ジャンボ機墜落事故/東京コントロール交信記録、息づまる緊迫感ある音声。

youtu.be

18時25分21秒 (CAP)『Ah…TOKYO, JAPAN AIR 123, request from immediate e…trouble request return back to HANEDA descend and maintain 220 over.』始まりは「JAL123便、高濱機長」からの突然のリクエストからだった。

 

<日航123便墜落事故 あらまし>

1985年8月12日午後6時12分に、羽田空港を離陸した大阪伊丹行きの日本航空ボーイング747型ジャンボ機が、12分後に相模湾上空で操縦不能になり、同56分に群馬県上野村の山中(御巣鷹の尾根)に墜落した。乗客509人と乗員15人のうち乗客4人を除く520人が死亡しました。

'77年スペイン・カナリア諸島の空港で、ジャンボ機同士が滑走路上で衝突、583人が死亡した事故に次ぐ大惨事となる。単独機死亡事故としては、現在でも「世界最悪記録」となります。

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日航123便ジャンボ機747SR-100
<航空事故調査委員会 調査報告書>

1987年には、機体最後部にある「圧力隔壁のクラック(亀裂)が徐々に拡がり、一気に噴き出した客室内の空気で垂直尾翼などを吹き飛ばした」とする調査報告書が公表された。

この機材は、御巣鷹山事故の七年前に「伊丹空港でしりもち事故を起こして隔壁を損傷」している。この際に「ボーイング社が行った“修理が不適切”だった」ことが、当該事故の破壊へとつながる直接原因となった、と結論づけられた。

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ご安全に「GOOD LUCK!」

この御巣鷹山事故以降、日本の航空各社は「乗客を死亡させる大事故」を起こしてはいない。重大インシデントは、まま起きてはいるが…

○この曲を、航空関係者に捧ぐ「Save our ship」 By 松任谷由実。Save Our Ship は、「我が船を救え」救難信号の意味。

youtu.be

いつからか 沈黙に 慣れていた二人

いく度も 波にさらわれて

壊れかかった羅針盤 見ている

悲しんでいるのなら もう一度求めて

SAVE OUR SHIP

永遠に漂流する魂だから

せめて今は 強く抱いて

見えぬ未来を乗り越える

SAVE OUR SHIP

それぞれの光めざし

 

日航ジャンボ機墜落事故、「落合証言」についての記事。前後編あります。ぜひ参考にご覧下さい。

minminzemi81.hatenablog.com

minminzemi81.hatenablog.com

 

▽記事の引用元/朝日新聞社 デジタル記事 (2010年8月10日付)

asahi.com(朝日新聞社):墜落前の悲鳴「今も耳に」 日航機の管制官、沈黙破る - プレーバック1週間

 

(3800文字、thank you for reading.) <今週のお題> 老いも若きも楽しく研究

日航123便 ジャンボ機事故「マイケル・アントヌッチ・Jr 元米軍大尉」が証言で示すもの【航空機 事件簿3】

 

米軍輸送機C130ハーキュリーズパイロット、マイケル・アントヌッチ・Jr 元 米軍大尉の証言

日航ジャンボ機123便、墜落の二時間後にはアメリカ海軍の救助ヘリが現場に着いた。あの時、救助にストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。

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C130 ハーキュリーズ

「あの飛行機事故のことは、10年経ったいまも脳裏に焼き付いて離れない」と、アントヌッチ氏が語る

日航123便機を追尾中だった「米軍機C130」が、19:15に墜落現場を現認した。さらにC130より誘導された沖縄海兵隊ヘリが、20:05に現場到着した。アントヌッチ証言によれば、午後七時の時点で「墜落現場の正確な位置」は確定し、午後八時にはすでに「人命救助を開始」したことを伝えています。

 

アントヌッチ証言『JAL123便が管制塔に「エマージェンシー」を告げた時、私は沖縄・嘉手納基地から横田基地へ、米軍輸送機C130Hで飛んでいた。現場はすぐに発見出来た。墜落現場を視認後、グリフィン隊長は残骸の上空600メートルで、そのまま旋回飛行を続けた。彼ら(海兵隊ヘリ)は少し離れたところで、ラペル(ロープを使って懸垂降下すること)で二人の乗員を地上に降ろし、調査しようとしていた。

『航空機墜落位置、YOD305°34NW…』 

私は横田基地からの位置を測り、20分後には“正確な位置を割り出し”て横田基地へ知らせた。やがて横田基地から連絡が入り、60キロ離れた厚木基地から海軍の救助隊が来ると知らされる。あと一時間で着くという。ゲイリーがヘリと話している間に、私は司令部へまた連絡を入れた。その時、司令部からの命令はこうだった。

「日本の救助隊が向かっている。すぐ基地に戻るように」

しかし、私は次のように答えた。

「海軍は、救助に入りたいと言っています」

すると、司令部は次のように言った。

「繰り返す、すぐ基地に戻るように。海軍も同じだ」

もはや、私は「わかりました、帰還します」と答えるしかなかった。降下しかけていたヘリ乗員たちは、再びロープを登っていった。その時、我々の900メートル上空に日本の飛行機が旋回しているのを視認した。午後9時20分だった。これが現場に来た「最初の日本の飛行機」である。

横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団の副司令官ジョエル・シルズ(現、在日米軍司令官/第5空軍司令官中将)である。グリフィン隊長が報告を終えると、シルズは「よくやった。でも、このことは一切マスコミに話してはいけない」と言った。理由はまったく説明されなかった。』

(※戦術輸送機のベストセラー。米軍・空自など69ヶ国で、半世紀以上たったいまも現役で活躍している。最新型は『C-130J スーパー・ハーキュリーズ(Super Hercules)』となる)

 

日本の救援隊はいったい朝まで何をしていたのか?

 

アントヌッチ証言続き『しかし翌日のニュースはもっと衝撃的だった。日本の救助隊は現場を発見できず、やっと着いたのは “墜落の14時間後” だと言っているではないか。私は焦って自分の地図を取り出し、墜落現場を正確に伝えたかどうか調べた。私には自信があった。伝えた位置は正確だった。海軍のヘリは私の情報に従って現場に来たのだから、それは間違いない。我々はあの時、現場の「上空を飛んでいた日本の救援隊」に後を任せた。それにしても、どうして墜落現場がわからなかったのか?一体朝まで何をしていたのか?不思議でならなかった』

▽リンク/マイケル・アントヌッチ・Jr 元米軍大尉の証言

youtu.be

『事故から2週間たって『タイム』と『ニューズウィーク』で、生存者が4人いたことを初めて知った。しかし残りの記事はデタラメだった。「生存者の一人の証言(落合由美さん)”」が、私をぞっとさせた。彼女は墜落後、数人の子供達の声を聞いた、と言っていた。ヘリを見て手を振ったが、気づいてくれなかったと語っていた…』

 

気になるのは“アントヌッチ氏証言”の信憑性

 

その後のアントヌッチ氏は『1987年3月。私は横田基地を離れサクラメントのマザー空軍基地で、航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき「空軍表彰メダル」を授与された。そこにはこう書いてある「アントヌッチ大尉とその乗務員は日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」私は空軍が、私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ生存していた人たちを救出できなかった」と、付け加えたかった』という。

この名誉勲章の意味するところは、「口止め」の類と思われる。

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事故調査報告書 25P

△事故調査報告書の25P。(捜索・救難活動の状況)米軍機C130Hから発信された墜落位置情報を、現地救難本部が横田より受け取った旨の記載あり。(12日/19時15分)

1994年9月25日、報道番組「ニュース・ステーション」が、アントヌッチ氏の証言を取り上げ「日本政府側の要請により、米軍機は救援活動を中止した」と報道しています。やはり間違いない事実であったと思います。

日航ジャンボ機墜落事故/「落合証言」の記事です。前後編あります。 

minminzemi81.hatenablog.com

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おまけ/1980年代のJALイメージが『スチュワーデス物語』だった。このドラマは、一種社会現象にもなったぐらい。そして、麻倉未稀のテーマ曲「what a feeling」当時を表している曲ですね。「何チュー気持ち」てか!

スチュワーデス物語「What a feeling」1983 麻倉未稀 - YouTube

 

記事引用/『週間文春 1995年9月28日号』、『事故調査報告書』

(2400文字、thank you for reading.) <今週のお題> 老いも若きも楽しく研究

日航123便 ジャンボ機事故、落合証言の示すもの「Part2 恐怖で捻れた時間感覚」【航空機 事件簿2】

 

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「JAL123便 ジャンボ機事故」搭乗者の証言。【後編】

生存者わずか四名、そのうちのひとり当時客室乗務員だった落合由美さん。旅客機乗務員の経験と知識を持ち「当該事故を実体験した方の証言」ほど説得力あるものはない。その落合証言が物語るモノとは?

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巡航高度24.000feet

○前編の「Part1急減圧はなかった」です。こちらからどうぞ。

minminzemi81.hatenablog.com

  

<JAL 123便 操縦クルー>

○CAP 高濱雅巳氏(49歳)宮崎出身。海上自衛隊からJALへ、1963年入社。12,423飛行時間、操縦教官資格。千葉住。

○COP 佐々木祐氏(39歳)熊本出身。OJT機長昇格テスト中だった。3,963飛行時間。千葉住。

○F//E 福田博氏(46歳)京都出身、技術教官資格9,838飛行時間、千葉住。三名共、ベテランパイロット達でした。

<落合由美さん(DH)>

○1959年大阪生まれ、当時26歳。伊丹空港近くに実家があり、航空機になれ親しんだ。1983年アシスタントパーサー3400時間、6年の経験。大阪への帰省途中、当該事故にあった。リハビリ後、客室乗務員に見事復帰した。

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JAL123便 飛行経路(出典朝日新聞社)

(FDR=フライト データ レコーダー、CVR=コックピット ボイス レコーダー)

(備考/1000ft=305m、30.000ft=9150m。200ノット=370km、300ノット=555km。CAP=機長 高濱、COP=副操縦士 佐々木、 F/E=航空機関士 福田、PRA=チーフパーサー 波多野、STW=スチュワーデス、PUR=機械音声、ACC=東京コントロール(所沢)、TAC=東京進入管制(羽田)、COM=JAL社内無線、YOK=横田米軍基地)

 

⑩機内では救命胴衣を付ける乗客乗員

 

○以下『青字』が落合証言です。事故後、落合由美さんが語っています。

 

『子供の声が聞こえました。「おかあさ~ん」という声。大きくはなかったのですが、短い叫びのような声でした。大人のお客様は叫んだり、悲鳴をあげたりすることはありませんでした。声も出なかったのかもしれません。不安と緊張の機内でした。全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。つけ終わった方は、となりの方を手伝ったりしていました。救命胴衣をつけているあいだに、スチュワーデスの声でアナウンスがあったのです。正確には覚えていませんが「急に着陸することが考えられますから」というような内容です』

▷FDR・CVR音声記録より/22,400ft(6,827m)、200kt、東京コントロールが、関東空域上にある全航空機に呼びかけ始める。交信周波数134.0の指定と、沈黙の要請があった。

18時41分~

55秒 (ACC) all station all atation except JAPAN AIR 123 and

contact TOKYO CONTROL contact TOKYO CONTROL 134.0

change frequency 134.0 and keep silent until further advised.

18時42分~

17秒 (CAP) あたま下げろ

18秒 (COP) はい 

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『それと「管制塔からの交信はキャッチできています」とも言っていました。私の想像では二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、様子を聞いてきたのではないかと思います。落着いた声でした。揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。そのときには眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、上着があれば衝撃の際の保護になるように着用してくださいと指示するのですが、そんな時間的余裕はありませんでした』

○目撃情報/『疑惑/JAL 123便墜落事故』の著者である角田四郎氏は、たまたま奥多摩にキャンプに訪れていたという。そしてJAL 123便と、追尾する自衛隊機を目撃しました。この本がいわゆる「疑惑本」と呼ばれる最初と記憶しています。

引用文『このとき私は、日航123便を目撃していた。(山梨県大月市と神奈川県相模湖の中間あたり)東から南へ南から西へ旋回しようとする地点である。18時42分頃になる。そして44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かったであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう “二機の自衛隊機” を私は見た。

その時、また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。「あれは、さっきの飛行機じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登っていった。この間5~6分の出来事である。』

さて、角田氏が目撃した機体は、いったい何だったのか?

▽角田四郎著『疑惑/JAL 123便墜落事故』推奨資料。

疑惑 JAL123便墜落事故―このままでは520柱は瞑れない

疑惑 JAL123便墜落事故―このままでは520柱は瞑れない

 

百里基地よりスクランブル発進した「ファントムF-4EJ」二機が123便の追尾体制にはいったのは、この辺りから。まず機体外部の様子を視認し、日航123便へ「垂直尾翼の破損」と「垂直尾翼及び機体下部に異物あり」と“致命的な機体ダメージ”について通告(これの通信記録はない)したと思えます。このあたりから、地元民の「自衛隊機の目撃情報」が増えてくる。

▷FDR・CVR音声記録より/18,600ft(5,669m)、240kt。18時43分に「ANA NH757便(羽田18時半発、小松行き)」が、右旋回中のJAL123便を上方に視認する。この時NH757の高度は、18000ft以下に制限されていました。角田氏が最後に見かけたという「北西に向かう航空機」は、このANA NH757便かもしれない。高度、方位ともだいたいあう。

18時43分~

19秒 (STW) どうぞそのままの状態で、お待ちくださいませ…

23秒 (CAP) あたま下げろ

47秒 (CAP) おもたい もっと もうすこし あたま下げろ

50秒 (COP) はい

56秒 (CAP) さがるぞ

 

緊急着陸に備え、安全姿勢をとる乗客乗員

 

『私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは、通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は頭を下げ膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」全身を緊張させるのは衝撃にそなえるためです。こういうときは「~してください」とは言いません』

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夏の富士山、右側の席から見える風景

『お相撲さんや妊娠してお腹の大きい女性の場合、腰をかがめるのは苦痛ですから逆に背中を伸ばして脚でしっかり床を踏み、椅子の背に上体を押しつける安全姿勢のとり方があるのですが、このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。安全姿勢をとる直前、私はとなりのKさんに言いました。「緊急着陸して私がもし動けなかったら、うしろのL5のドアを開けてお客様をにがしてやってください」と。Kさんは「任せておいてください」と、とても冷静な声で言いました。Kさんと言葉をかわしたのは、これが最後です』

▷FDR・CVR音声記録より/15,000ft(4,575m)、220kt。大月上空でギアダウン、右旋回して緊急降下が始まった。この場所でディセントしたのは、最寄り空港に着陸するプランだったと思える。ギアダウンに続き、フラップの準備まで始めていますからね。

18時44分~

05秒 (CAP) おもたい

22秒 (CAP) いっぱいやったか?

23秒 (COP) いっぱい、かじいっぱいです

43秒 (CAP) あーおもたい

47秒 (F//E) フラップどうしましょうか?下げましょうか?

49秒 (CAP) まだはやい

50秒 (F//E) まだはやいすか

51秒 (CAP) まだはやい

52秒 (COP) ギヤおりてますか?

53秒 (F//E) ギヤおりてます

54秒 (CAP) えっ?

55秒 (COP) コントロールのほうが ←

『そしてそのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときにもっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって頭を下げたのです』

(※左側窓より下方に富士山がまじかに見えるのは、大月上空 “右旋回ディセント”の時と思われる)

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『頭を下げながら機内をちらっと見ると、たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くがピーンと下にひっぱられているのが見えました。マスクをつけたまま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。安全姿勢をとった座席のなかで体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。しかし上下の振動はありませんでした。前の席のほうでいくつくらいかはっきりしませんが、女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。聞こえたのはそれだけです』

▷FDR・CVR音声記録より/11,900ft(3,627m)、250kt。横田米軍基地からの呼びかけが始まる。この時、機長が気にしている“コントロール”とは「JALのOCC、ディスパッチャー」のコトなのか?「JAL⇔Yokotaの調整」が、まだ出来ていなかったようです。

18時45分~

18秒 (CAP) ニッコウ…オオシバ…←?

37秒 (YOK) JAPAN AIR ONE TWENTY THREE JAPAN

39秒 AIR ONE TWENTY THREE YOKOTA APPROACH ON GUARD.

41秒 IF YOU HEAR ME YOKOTA 129.4

46秒 (CAP) ジャパナ123

47秒 アンコントローラブル

49秒 (ACC) JAPAN AIR 123 GO AHEAD.

50秒 (F//E) コンタクトしましょうか

52秒 (CAP) ちょっとまって、コントロールだ ←?

54秒 (F//E) どこへ?

 

⑫髪の毛が逆立つくらい、機体が急降下しだした

 

『そしてすぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私もこれはもう死ぬ、と思った。まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんかとても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとり続けるしかない。汗をかいたかどうかも思いだせません。座席下の荷物が飛んだりしたかどうかわかりません。体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと思います』

▷FDR・CVR音声記録より/大月にて、高度22,000ftより6,000ftへと、一気に15,400 ftも緊急降下(神技!)し、横田米軍基地まで24kmの距離に詰めた。この時の機長の目論みは「横田基地に強行着陸」と思われます。羽田よりも横田の方が“何かと都合”がよいのです。ただ軸線が南北なので回り込む必要がある。大月上空で右旋回したのは、横田基地の北側進入するための機材の旋回能力を、リハーサルしたか?この時、南西風。さぁCAP、神技をもうひとつ!

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横田基地、日本で二番目にデカい

18時46分~

03秒 (CAP) あたま下げろ

06秒 (COP) えー相模湖まできてます

08秒 (CAP) はい

09秒 (ACC) JAPAN AIR123 羽田に コンタクトしますか?

16秒 (CAP) このままでお願いします ←

20秒 (ACC) コンタクトしますか?

21秒 (CAP) こ…このままでお願いします ←    

27秒 (ACC) はい 了解しました スタンバイ お待ちください

33秒 (CAP) これはだめかもわからんね… ←

○CVRの09~27秒のあたり、ACC管制官と機長の “会話が噛み合っていない” のがとても気になる。機長はいったい「どこと交信して」いたのか。相手側の音声が消されているのでは?と疑惑を招いた部分。そして33秒の「これはだめかもわからんね」となるが、これも相当変ですね。事故当時、「機長の弱気発言」として、ずいぶんとマスコミから叩かれた。しかし、それは全く違う。その直後に機長は、“木更津へのレーダー誘導”を47分07秒に、リクエストしています。あくまでも「空港に、ハードランディング」するつもりだった。

 

⑬緊急降下の恐怖体験により、時間感覚が歪んだのか? 

 

○「32分間が何時間にも感じた」という落合さん。その一方で、右旋回し緊急降下から墜落までの記憶が、まるで“一瞬のことのように”縮んでいます。その「恐怖の正体」とは?

『「パーン」から墜落まで三十二分間だったといいます。でも長い時間でした。何時間にも感じる長さです。羽田にもどりますというアナウンスがないかなと、ずっと待っていました。そういうアナウンスがあれば操縦できるのだし、空港との連絡もとれているのだから、もう大丈夫だって。でもなかった』

▷FDR・CVR音声記録より/11,000ft(3,352m)180kt。着陸コースを阻止され?北へ向かう。すぐに山並が迫る。機材は二度目のストールにより、最低高度5000ftを記録する。さらに三度目のストールにより大きくバランスを崩し、機体は、右40度の傾斜となってしまう。フラップ−10度以上は、着陸レベルとなるが、このすぐ後−25度近くまで下がっていた。この巨大な揚力を生むフラップが逆にアダとなった。

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ジャンボ機の巨大フラップとランディングギア

○長野県南佐久郡川上村の住民の方が「黒煙あげながら山に落ちてゆく日航機」を目撃している。この黒煙とは、機体エンジンの異様な状況を示しています。

18時55分~             

01秒 (CAP) フラップおりるね?

03秒 (COP) はいフラップ 10    

15秒 (CAP) あたま上げろ   

16秒 (F//E) はい了解しました

17秒 (CAP) あたま上げろ   

19秒 (CAP) あたま上げろ

24秒 (APC)…わっかんないんだ(管制官の背後)

27秒 (CAP) あたま上げろ

34秒 (COP) ずっとまえからささえてます

37秒 (STW) 管制塔からの交信は

39秒 (STW) ちゃんとつながっております

42秒 (COP) パワー      

43秒 (CAP) フラップとめな   

45秒 (?) あーぁーっ     

47秒 (CAP) パワー (CAP) フラップ

48秒 みんなでくっついちゃだめだ  

49秒 (COP) フラップアップ  フラップアップ 

50秒 フラップアップ  フラップアップ 

51秒 (CAP) フラップアップ (COP) はい  

56秒 (CAP) パワー       

57秒 (CAP) パワー    

58秒 (CAP) フラップ!!    

59秒 (F//E) あげてます 

18時56分~

02秒 (CAP) 口ごたえするな

04秒 (CAP) あたま上げろ!

07秒 (CAP) あたま上げろ!

10秒 (CAP) パワー!!

12秒【火災警報音1秒間】【社用無線呼出音1秒間】

14秒【GPWS=地上接近警報】(GPWS) SINK RATE

16秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

17秒 (GPWS) PULL UP

18秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

19秒 (GPWS) PULL UP

20秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

21秒 (GPWS) PULL UP (CAP) もうだめだぁー!

22秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

23秒 (GPWS) PULL UP【衝撃音①U字溝に右翼あてる】

24秒 (GPWS) WHOOP WHOOP

25秒 (GPWS) PULL UP

26秒【衝撃音②機体が裏返し、高天原尾根に激突した】

 

~18時56分28秒~【録音終了】

 

▷FDR・CVR音声記録より/56分7秒、急激な降下速度、機首下げ36°右横70°にもなる。56分11秒、降下率は18,000ft(5,400m)/分。対気速度は400kt(740km)を超える、高速墜落。墜落五秒前に、機長は悲痛な絶叫「もうだめだぁー!」と叫んだ。最後の最後までクルー達はコクピットで闘っていたのです。

 

『衝撃がありました。衝撃は一度感じただけです。』

 

『いっぺんにいろんなことが起きたという印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが私はもう怖くて顔をあげた。その途端、頭にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなもの、がいっぺんにです。音はまったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、と思ったのはこのときでした』

 

群馬県 上野村 高天原山、墜落現場

 

○墜落後にも“冷静な観察”を続けようとした落合さん。あまりにも有能過ぎる気がするが、CAとはそんな人達なのかもしれない。群馬県高天原山北尾根筋に“高速墜落”した123便。しかし落合さんの周りには沢山の息遣いが聴こえた。「生存者がまだ沢山いた」のです。 

『すごく臭かった。機械の匂いです。油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。体はちょうど座席に座っているような姿勢です。左手と両脚は何か固いものにはさまれていて動かせません。足裏は何かに触っていました。それほどの痛みはなくもうぐったりしているという感じです。目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったようにとても熱く感じました。失明するだろうなと思っていました。これはあとで知らされたのですが左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。灰色っぽい夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。

呼吸は苦しいというよりもただ、はぁはぁ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。ぐったりしてそのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし痛くて、強くは噛めないのです。墜落の直後に「はぁはぁ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。』

 

「おかあさ~ん」と呼ぶ男の子の声もしました。

 

『次に気がついたときはあたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのかわかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったままいろんなものより一段低いところに、埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて苦しかった。

右手を使ってベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。頭の上の隙間は右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして何か固いものがあったので、どかそうと思って押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたらやはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません』

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⑮墜落後“たくさんの生存者”が周囲にはいた!

 

○JAL123便を追尾していた米軍輸送機C130が「19時15分に墜落現場」を確認。次に沖縄米軍海兵隊のヘリが、墜落地点に「20時05分に到達」しました。ですが救助降下寸前に、横田基地より“中止命令”があり帰投してしまう。あぁ、なんたることか。この時点なら、助かったひとも沢山いたはずなのです。

▽この時の、C130ハーキュリーズパイロット「マイケル・アントヌッチ・Jr元 米軍大尉」の証言について書きました。ご覧下さい。

(※墜落現場を最初に発見した米軍「輸送機C130H」について「事故調査報告書の25ページ」に記載があり)

minminzemi81.hatenablog.com

○さらに、朝日新聞のヘリコプターが「21時10分に墜落現場」を発見し、墜落現場写真を撮り帰投する。さて、墜落前から123便をしばらく追尾していたという「百里基地所属、二機のファントムF-4EJ」は、この後いったいどうしたのでしょうか?その記録はありません。

○12日墜落後、位置情報が何度も錯綜しすぐに墜落現場を特定できなかった等々、これらは完全な偽装でしょう。わざと“ミスリード”させたといってもいい状況。JAL123便が「7700発報」以来、航跡を追跡し続け「軍、軍、一部のマスコミ」には、事故機の航跡は周知の事実だったのだから。

○正確な墜落位置は「北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒」住所は「群馬県上野村 大字楢原 字本谷」となります。

(※ すべての航空機は、日常的にレーダーで監視されています。もし「E.M.G信号」を発報すれば、軍民、すべてのレーダーサイトが注視し、行方を逐一モニタリングします。ACCでは、123便がレーダーから消失したのが18時56分1秒、墜落の25秒前まで。自衛隊、米軍のレーダーサイトでは、この後も捉えていたはずです)

『どこからか若い女の人の声で「早くきて」と、言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はぁ、はぁ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。それからまたどれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。

突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞっ!」と男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。しかしさっき「おかあさ~ん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか判断はつきません。私はただぐったりしたまま荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした』

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墜落現場、群馬県多野郡上野村高天原山尾根

『やがて真暗ななかにヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで助かる、と私は夢中で右手を伸ばし振りました。けれどヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と声も出したと思います。あぁ、帰って行く…。このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。

体は熱くまた右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだらとても不幸だと。母は私がスチュワーデスになったとき「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなことあなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。

それからまた、どうして墜落したんだろうということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないでもっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じはもうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そしてまた意識が薄れていきました』

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自衛隊機からの事故現場の映像 08/13(共同通信社)

墜落機、確認直後の映像 日航事故、陸自が空撮 - YouTube

○『時間がもう一度もどってくれないかなぁ、そうすれば今度は失敗しないでもっとうまくできるのに』それから『墜落のあのすごい感じはもうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました』この発言に落合さんの職業倫理、前向きな性格が表れています。本格的救援活動が開始されたのは、翌日13日の午前七時からでした。

 

⑯落合さんがスゲの沢で発見されたのは、翌日10時45分 

 

『気がつくとあたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかなと、思いました。でも声を出してみたんです「がんばりましょう!」という言葉が自然と出てきました。返事はありません「はぁ、はぁ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものがバーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました』

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○落合さんを最初に発見したのは、長野県警の柳澤隊員、手を振る落合さんに気付き「何か動いてるぞっ!」と発言したという。さらに地元上野村消防団と猟友会のグループも加わり、彼女を無事救助しました。

御巣鷹山 墜落現場のカメラマンの記録

Moments of truth - フォトジャーナリストが御巣鷹山で見た真実の記録 小平尚典 - YouTube

『はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でもあかるい光が、目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。

すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。そのすぐあとで私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません』

 

⑰搬送先の病院でも「不思議な感覚」が続く

 

○落合由美さんは翌8月13日の午前十一時半に、事故現場から救出されました。山へ墜落してから、十六時間もたっていました。そして、ヘリコプターにて藤岡市の病院に緊急搬送されました。

『体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。「お水が飲みたい、お水が飲みたい」と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。目を開けたら病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか?」と聞かれて奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。

そんな馬鹿なと自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろうと思いました。それで、あのとき飛行機が落ちてそこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました』

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『家族がきていると教えられたとき、えーっと思いました。飛行機がおちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。現実感がなかなかとりもどせないのです。たぶんこのときだったと思いますが「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ、全部女の人ばかり」と教えてくださいました。それしか助からなかったんですか、と思いながら「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。

天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。私もほんとうはもう助からなくて死んでいくところなんだ、などとも考えていました。

百幾針も縫ったのに痛みは感じません。麻酔をしていたせいだと思いますが、でもあとで看護婦さんに聞くと「痛い、痛い」と言っていたようです。救出された日の午後三時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。私は「四人しか…」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました』

 

日航123便ジャンボ機事故」関連、お勧め資料など

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日航123便 747 SR-100

▷『墜落の夏日航123便事故全記録』吉岡忍著

○落合由美さんは、墜落前後の状況に関して「重要な証言」を残しています。そして吉岡忍氏もわずか一年後に『墜落の夏』を書き上げました。その後たくさん続く「日航123便事故本」の魁(さきがけ)となる名著です。この本から、当時の時代性や空気感まで感じることが出来ます。

Amazonのカスタマーレビューより引用文

『そもそもあんなに巨大で重い物体が空を飛ぶということ自体が、本来あるはずのないことなのだ。あるはずのないことを、人類は科学技術によって実現させた。

(中略)

本書が事故発生後わずか一年で書かれたことには驚きすら覚える。その後新たに判明した事実は少なからずあるものの、いま読んでも全く古さを感じさせない。単なる技術論や感情論に走ることなく達観した見地から事故を冷静に分析している。それを物足りないと評する向きもあるかも知れないが、数ある類書の中で名著と呼ぶにふさわしい一冊だと思う。』

わたしも同意見です。興味を持たれた方は、まずは『墜落の夏』をお読みください。多くの関連情報も記されています。

墜落の夏―日航123便事故全記録 (新潮文庫)

墜落の夏―日航123便事故全記録 (新潮文庫)

 

○吉岡忍/長野県佐久市出身、ノンフィクション作家。上記、日本航空123便墜落事故を題材にした『墜落の夏 日航123便事故全記録』で第9回講談社ノンフィクション賞を受賞。日本ペンクラブ常務理事、放送倫理・番組向上機構放送倫理検証委員会委員なども務めた。 

▷小説『沈まぬ太陽山崎豊子

日航がなぜ「崩壊にいたった」のか、見事に描写されています。小説家の文体は、とても読みやすいですね。またノン・フィクション(ほぼ、実話?)としても、一読の価値があります。それから、映画化もされました。

文中抜書『「実は事故機の墜落原因について、聞き捨てならない重大な話を仕込みましね、墜落の真相は、自衛隊がミサイル発射訓練に使う標的機が、たまたま飛行中の国民航空123便の尾翼に衝突したらしいのです、ご意見を聞かせて下さいませんか」ホームで、記者は強引にコメントを求めた。

「いきなりそんな突飛なことを言われても、答えようがないですな」

「おや、おとぼけですか、それとも政府・防衛庁は、事故調査官を棚上げして、真相を隠蔽するつもりなのですかね」

嫌味な言い方をした。

「確たる証拠でもあるのですか」

「事故機が最初に緊急事態を発信したあの時刻に、海上自衛隊護衛艦『たかつき』が相模湾でちょうど演習中だったのですよ。現に事故の翌日、相模湾内に尾翼の重要部品である垂直安定板が浮いていて、回収されたではありませんか」』

山崎豊子著『沈まぬ太陽(三)御巣鷹山篇』より 

(※作中の護衛艦「たかつき」は「DD-130 まつゆき」のこと。日航機事故時、相模湾にて公試中だった。事故発生時に海上へ落下させた垂直尾翼を発見し回収した)  

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DD-130まつゆき
沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)

 

▷事故の第一報/NHK

八月十二日、第二次大戦の番組中に日航機事故のテロップが突然流れ、番組は中断「NHKニュース」が始まった。木村太郎アナが、慌ただしく原稿を読み上げはじめた。

▷不思議な報道

事故当日12日夜。NHK報道番組中、速報にて。

NHKアナ「ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に向かった自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。続報が入り次第お伝えします」画面にはテロップ流れ、NHKアナがニュースを読み上げる。

NHKアナ「先ほど、自衛隊員が何者かに襲撃され死者が数名出たとお伝えしましたが、誤報だった模様です」その後、繰り返し否定した。これは、いったい何だったのか?

▷1*⋆✈ 外部リンク/日本航空123便墜落事故。

この事故の原因・墜落には、“なにかと外的要因”が関係しています。まずはこの編集された「音声テープ」を聴いてみて下さい。

youtu.be

▷2*⋆✈ 外部リンク/JALの安全啓発センター。

JALに予約申し込めば、誰でも見学ができます。搭乗者の遺品、回収された123便の機体パーツなどが展示されています。ぜひ一度訪れてみて下さい。最寄駅は、東京モノレール新整備場駅」下車。安全啓発センター/https://youtu.be/AqFhjMxcCDU

www.jal.com

▷3*⋆✈ 外部リンク/ありし日の坂本九さんの名曲。『上を向いて歩こう

鎮魂の意味を込めて。

youtu.be

日航123便墜落事故関連ブログです。どうぞ。

minminzemi81.hatenablog.com

minminzemi81.hatenablog.com

▷そして34年目の夏がきた。8月12日の慰霊の精霊流しが伝えられた。

日航機墜落事故から34年 遺族らが灯籠流し(19/08/12) - YouTube

 

最後に//ずっと、辛らかったよ…書くことさえね

 

この記事を書くきっかけは、日航123便に「私の知人が搭乗していた」ことからでした。いまからだいたい20年ほど前、地元図書館に通い続けて日航123便に限らず「航空機事故本」を読み漁りました。それで司書のヒトに変な顔された想い出がありますね。

~おかげで少しは知識を得ることが出来たのですが~

時間は無残に過ぎてゆく。いまや「当該事故から34年もの歳月」がたち、ワタシが故人の没年を追い越しました。なのに、うまくまとめられずにいました。いまだ、この事件は謎が多すぎますから。また当ブログを作った動機、その目的のひとつが「JAL123便墜落事故」を記録し遺しておきたいと、意気込んだものでした。が…しかし。この事故は「余りにも難物」で、どこから手をつければいいのか?

そして故人のことも、いまとなれば何とも書きずらいのです。そして、あまた各種ある「陰謀説」も、角度がなんか違う気もする…うーん、これにも困った。それで、原点へと立ち戻り、まずは「落合証言とFDR,CVR音声記録」を併せて記録することにしました。この事故を風化させないためにも、若い人達にも是非知ってもらいたいと願っています。日航ジャンボ機墜落事故は、乗員・乗客524名のうち520名が死亡しました。さらに「二次被害」においても、亡くなられたすべての方々のご冥福を、心よりお祈りいたします。合掌

 

参考/墜落の夏、ウキペディア (15.100文字、thank you for Long sentence reading.)

  <今週のお題> 老いも若きも楽しく研究

日航123便 ジャンボ機事故、落合証言の示すもの「Part1 急減圧はなかった」【航空機 事件簿1】

 

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「JAL123便ジャンボ機事故」搭乗者の証言【前編】

520名の犠牲者を出した「日航123便ジャンボ機事故」から今年で、34年目の夏となる。生存者わずか4名、そのうちのひとり当時客室乗務員だった落合由美さん。「旅客機乗務員の経験と知識」を持ち「当該事故を実体験したヒト」の証言ほど説得力あるものはない。落合証言が物語るモノとは?!

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747 SR-100 機体記号 JA8119

(✈︎747 SR-100、SRはショートレンジの略。全長70.5m全幅59.6m全高19.3m重量52万7333ポンド、総飛行時間25,030時間18分、総着陸回数18,835回。燃料三時間十五分搭載、伊丹からのリターン燃料も積載していた)(※現在、日本航空の「123便」と「350便」は、どちらも“墜落事故のため欠番”となっている)

 

<事故のあらまし> 

日本航空123便墜落事故、昭和六十年(1985年)八月十二日のこと。「東京 羽田発 ✈︎ 大阪 伊丹行」123便ボーイング747SR-100 (機体記号JA8119) が、群馬県多野郡上野村高天原山(たかあまはらやま)の北尾根(通称 御巣鷹山)に墜落し、空前絶後の犠牲者を出した痛ましい航空事故である。

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圧力隔壁 出典:JAL安全啓発センター

事故原因は後日、ボーイング社の「手抜き修理」があったと発表された。後部圧力隔壁が飛行中に疲労破断し、噴出したキャビンの空気差圧により垂直尾翼を完全に吹き飛ばした、とされた。さらに4系統油圧システムも全喪失する。その結果、JAL123便は完全に操縦不能に陥り、あげく迷走飛行し続け「高天原山の尾根」へと墜落しました。

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羽田空港18時発(イメージ写真、以下同)

○しかし、“事故調が描いたこのストーリー”はそもそも「客室内で急減圧」が起こらないと垂直尾翼を吹き飛ばすモーメントたりえず、実際にはJAL123便がディセンドするまで、高度2万4千フィートあたりを上下しながら、17分間以上飛び続けたのです。それでは「客室内は、どうだったのか?」が、重要な意味を持ってきます。

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垂直尾翼 出典:JAL安全啓発センター

<航空機の急減圧とは>

○巡航高度(東京⇔大阪線は、2万4千ft 位、エベレストの高さに近い)で、突如「急減圧」になると、乗客乗員が意識をまともに保てるのは、せいぜい「数十秒程度」と言われています。なのでパイロットは「真っ先に酸素マスク装着」し、すぐにディセンド(降下)へとうつります。

▷急減圧の解かりやすい動画はこちら⇒【物理エンジン】もしも飛行機の窓が割れたら乗客はどうなる?【気圧の話】 - YouTube

またキャビンの一部に穴が開き「急減圧」となると、機外との気圧差(だいたい外気圧は、約0.4気圧。機内の気圧は約0.9気圧、その圧力差は0.5気圧ほど)により瞬時に開いた穴からヒトやモノが機外に吸い出されます。しかも外気温は、マイナス40~50℃の『死の世界』なのです…客室はとても怖い状況となる。


<JAL123便の飛行計画>

○アシスタント・パーサーの落合由美さんは、八月十二日の朝を札幌で迎えた。その日の乗務は千歳空港から羽田に飛び、また千歳に飛んでふたたび羽田着、午後三時の便に乗るというものでした。一往復半の飛行は、通常スケジュールどおり。勤務を終えて、大阪の自宅に戻るため日航123便に、デッドヘッド搭乗していました。

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生存者は全て後部座席の女性四名だった

○落合さんの席は上図の右側。客室E部後方から三列目、二席の通路側「56C」だった。一般乗客の生還者「54列、D.F」に吉崎博子さんと、吉崎美紀子さん母娘が、「60列、D」には川上慶子さんが、家族と一緒に座っていました。以上が生存者四名のシート位置です。

フライトプランは、JAL123便が「東京 羽田空港」を18時00分にテイクオフ。離陸後は三原パーチ、大島・伊豆相良から西に巡航し、和歌山串本VOR/TACにて北西に右旋回。信太VOR/DMEから「大阪 伊丹空港」へ。18時56分に伊丹到着予定でした。

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○15名の乗務員と509名の乗客を乗せた123便は、ほぼ満席「定刻十二分遅れ」で六時十二分二十秒に、羽田空港C滑走路をテイクオフしました。大島から伊豆半島にところどころ「積雲(九千から一万 ft)」があり、西に沈む夏の夕陽を追いかける、フライトとなります。

▷航空機ファンが、たまたま捉えていた123便の機影⇒羽田空港を離陸するJAL123便② - YouTube

(※航空界では「出発12分遅れ」は定刻となる。“ショートカット”したり回復運航の手が色々と…この12分遅れのため、123便は内陸寄りにショートカットしたと思われます)

○以下、『青字』が落合証言です。事故後、落合由美さんが語っています。またFDR/CVR音声テープ記録も、なるべく時系列に沿う様に添付しました。

(※これは完全には一致しません。CVR音声は「プライバシー保護のため」として全面公開されなかった。また一部に音声不明点もある)

(フィートキロ換算/1000ft=305m、30.000ft=9150m。200ノット=370km、300ノット=555km)

(略語備考/ FDR=フライトデータレコーダー、CVR=コックピットボイスレコーダー、CAP=機長 高濱、COP=副操縦士 佐々木、 F/E=航空機関士 福田、PRA=チーフパーサー 波多野、STW=スチュワーデス、PUR=機械音声、ACC=東京コントロール(所沢)、TAC=東京進入管制(羽田)、COM=JAL社内無線、YOK=横田米軍基地)

 

①客室に「バ~ン」でなく、カン高い「パーン」と音がした

 

○JAL123便は、羽田空港を離陸し、相模灘へ向け上昇飛行していた。やがて水平飛行に移ろうとするあたり。右窓には暮れなずむ江ノ島や富士山を眺め、乗員・乗客が一息つく頃でした。

『離陸してすぐ私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。女性や子供の姿が多くいつもの大阪便とはちがうな、という印象はありました。私の席の周囲にも若い女性の姿が目立った。禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうかはっきりしません』

▷FDR・CVR音声記録より/衝撃音より前に、レコが始まっていた。キャビンでは、すでに「緊張状態」にあったと思われます。繰り返し「気をつけて」と発言があった。トイレに行くだけのことに、なぜしつこく「気をつけねばならない」のか、パイロット達は何らかの異変に気付いていたのか?

18時24分~

12秒 (STW) (ラバトリーに行き)…たいとおっしゃる方がいらっしゃるんですが、よろしいでしょうか?

15秒 (COP) 気をつけて ←

16秒 (F//E) じゃ、気をつけてお願いします ←

17秒 (COP) 手早く ←

18秒 (F//E) 気をつけて下さい ← 

19秒 (STW) はい、ありがとうございます

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123便は十二分遅れで飛び立った

○前触れなく「甲高いパーン」という衝撃音を聞いたと、話す落合さん。音は「自席(56C)の天井の後ろ辺り」からしたという。しかし、その振動は感じなかったとも言います。

『そろそろ水平飛行に移るかなというとき「パ-ン」というかなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。急減圧がなくても耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常はまったく何も感じませんでした。音は私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。私は思わず天井を見上げました。しかし振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。』

▷FDR・CVR音声記録より/伊豆半島 下田沖上空、23,900ft(7,170m)、300kt。衝撃音は、連続二回(もしくは、三回)ありました。機体は衝撃音前後よりオートパイロットがはずれ、マニュアル操舵となる。また短時間に、二度も発言している「オレンジエア※1」とはいったい、何か?

18時24分~

35秒「パーン」というような音① ←

36秒「ドーン」というような音② ←

37秒【高度警報or離陸警報】ビービー音、数秒続く

38秒 (F//E) まずいっ

39秒 (CAP) 何かわかったぞ

42秒 (CAP) スクォーク 7700(宣言)※2

43秒 (CAP) ギアみて、ギア部

44秒 (F//E) はい?

46秒 (CAP) エンジン?

47秒 (COP) スクォーク 7700(発報)※2

48秒 (F//E) オレンジエア… ←? 

51秒 (COP) これみてください

53秒 (F//E) はい 

55秒 (COP) オレンジエア… ←?

57秒 (COP) ハイドロプレッシャみませんか?

59秒 (CAP) 何か…

(※1 いわゆる“無人標的機”のこととも思えるが、これについては未だ確定は出来ない)

(※2 SQUAWK - 7700は、国際救難信号 E.M.G。CAPは衝撃音からわずか“七秒後に宣言”した。異様に早すぎる手順に思われる)

○事故調査報告書によれば、圧力隔壁損壊部分から客室内の空気が流出し、キャビンには「強烈な減圧」が発生したと主張している。事故調査委員会はこの減圧計算まで行い、衝撃音発生の八秒後には「機内の“与圧はすべて失われ”気温も-40℃まで低下した」としている。

それでは、その「八秒後以降の機内の様子」に注目して下さい。果たして事故調の言うそのような状況が、機内で生まれていたのでしょうか?

○落合証言によれば『振動はまったく感じませんでした。霧のようなものは数秒で消えました。酸素マスクをしてぱっと見たときには、もうありませんでした。白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。体に感じるような急激な降下はありませんでした。機体も揺れなかった

以上の証言内容では「急減圧との整合性」が、まるでないことが解ります。

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いわゆる「陰謀論」とは…その一例

○この時代背景として。80年代はまだ「米ソの冷戦時代」で、軍拡競争がとても激化し、ヒリヒリしていた時代です。例えば、1983年9月1日には「大韓航空機撃墜事件」が起きています。「大韓航空ボーイング747(ニューヨーク発→アンカレッジ経由→ソウル便)」が、ソビエト連邦サハリン上空域で、ソビエト防空軍の戦闘機にミサイル攻撃を受け墜落する。その結果、乗員乗客合わせて269人(うち日本人は28人)全員が死亡した。そんな冷戦時代の空気感がリアルにあった。

▷参考音声/疑惑の「オレンジ、エア」。ならば、いったいコレは何を指すのか?スロー再生では「おれんぢぃやぁ」と聴こえる。FEの発言「オレンジや!」何かを指して「オレンジである」と、CAPに報告したのか?

日本航空123便ボイスレコーダー「スコーク77」オレンジエアの部分をスロー再生 - YouTube

○いわゆる “謎の飛行体” について「1990年10月14日付 朝日新聞記事」に写真・記載あり。通称「オレンジエア」は、開発中の“プロトタイプ”を指し、視認性を良くするため「蛍光オレンジ色」に全面塗装されています。

○この時、相模湾で「追尾システム搭載型 巡航ミサイル」の試射(もしくは誤射)をしていたのか?しかし、数多くの航空機が常に飛び交っている「関東南A空域」で、自衛隊がなぜ実験したのか、これは理解に苦しみますね。まず、ありえないことのように思えます。

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左「ファイアービー」右「チャカII改良型」

(△標的機「ファイアービー」全長7m、全幅3.9m、上昇限度7000m、自重686kg、速度960キロ、航続約60分。△誘導ミサイル「チャカII改良型」全長3.87m、全幅1.76m、高さ0.71m、速度900キロ、上昇限度9.000m、自重182キロ、航続約80分)

○標的機相手に演習していたのが「自衛隊ではない」のなら、“それは誰”なのか?

▷外部リンク/123便に衝突したのはファイヤー・ビーとチャカ2

▽参考/R-116(レンジ イチイチロク)は、軍事演習用海域のひとつ「チャーリー水域」とも呼ばれる。房総半島の南東に設定され「アメリカ海軍に供用」されている。射爆訓練時には航空機や船舶の航行は、全面禁止される。

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エリア116「チャーリー空域」が変更された件

 

②すぐに酸素マスクが、自動的に落ちて来た

 

『お客様からは「うわっ」という声がした。女の人だと「きゃっ」という一瞬喉に詰まったような声。騒がしくなるとか、悲鳴があがるということは、ありませんでした。耳は痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。しかしそれもすぐに直りました。

「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。ジャンボの場合、席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、私の座っていた「56」の二席には三つありました。それが機内にいっせいに落ちてきたときは、マスクがわんわんわんとバウンドするような感じでした。ひっぱると酸素が流れだして口もとの袋がふくらむ。酸素が出てこないのもあったけれど、足りないということはありません。ただちに録音してあるアナウンスで「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください」と、日本語と英語で流れました。マスクのつけ方はとなり同士教えあって、あんがいスムーズにつけていました。

ベルトについての指示はなかった。お客様はまだベルトをしたままでした。煙草をすぐ消すように、という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。あとで気がつくと、離陸してまもなく消えていたはずの(禁煙)サインが、ついていましたから』

▷FDR・CVR音声記録より/24,200ft(7,376m)、310kt。落合さんによれば、まず最初は機内に「PURが流れた」そうです。「ベルトについて指示がなかった」とは、すでにベルトサイン表示が出ていたと思えます。

18時24分~

45秒 (PUR) 酸素マスクをつけてください

46秒 (PUR) 酸素マスクをつけてください

47秒 (PUR) ベルトはベルトを

48秒 (PUR) してください…

 

③白い霧の発生と、緊急降下中のプレアナウンス

 

○「パーン」という音と同時に「白い霧」が発生した。かなり濃くて、前の方がうっすらとしか見えないほどであったらしい。しかし数秒で消え、空気も流れなかった。このことは、重要な事象であると思います。

『しかし緊急降下中といっても、体に感じるような急激な降下はありませんでした。急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることはもちろん知っていました。急減圧は何かがぶつかったり衝撃があって、機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、そういうことが起きたのだなと考えたのですが。しかし何が起きたのか想像もつきませんでした。酸素マスクが落ちてくる光景は訓練では見ていますが、実際に経験するのはもちろんこれがはじめてでした。やはり「パーン」という音と同時に白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方がうっすらとしか見えないほどです。

私の席のすぐ前はそれほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号「47」「48」あたりのところが濃かったように見えました。ふと見ると前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がボヤ-ッと見えるだけでした。その霧のようなものは数秒で消えました。酸素マスクをしてぱっと見たときには、もうありませんでした。白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えたという感じだったのです。匂いはありませんでした。こうした白い霧というか靄のようなものが出るのは、急減圧の場合の現象だということも、もちろん訓練のときに教わっていたことでした』

▷FDR・CVR音声記録より/伊豆半島上空。機体が右に40°傾き、尾翼破片を落とす。キャビン内では、クルーがエンジン、ランディング・ギアをチェック、異常はなかったが、ハイドロ(油圧)四系統すべて不能となったことを知る。機体のダッチロールが始まる。

○25分16秒、高濱機長はACCと交信前に「ライトターン」指示を出している。そして21秒に「あー、東京。日本航空123便トラブル発生、ただちに、えー羽田に戻ることを要求します。220へ降下し、維持したい。どうぞ」とACC管制官に了解をとり「右旋回か、左旋回か?」のリクエストには「右旋回したい」と、即断する。

(※220は高度22000フィート、約6700メートル)

<急減圧時の「Emergency Descent」とは>

〇航空機が急減圧時に真っ先に行うのが、乗員乗客が「酸素マスクをつける」こと。この酸素マスクの有効時間は15分間程度なので、それまでに航空機は安全とされる10,000ft(約3,040m)以下にディセント(緊急降下)する手順になっています。この時の機長がACC管制官への通告は「22,000フィートを維持したい」なので、この時「緊急降下の必然性」を感じていなかったと断言できます。このことからも、“キャビンでは急減圧の認識”はなかったのです。

18時25分~

04秒【高度警報音or離陸警報 47分28秒まで鳴動継続】

05秒 (F//E) ギア ファイブ オフ

06秒 (PUR) ベルトを必ずしてください

14秒 (F//E) はいはい、ラジャー

15秒 (PRA) ベルトを締めて

16秒 (CAP) ライトターン ←

17秒 (CAP) ライトターン 

19秒 (COP) プレッシャ  (F//E) おっこった 

21秒 (CAP) Ah…TOKYO, JAPAN AIR 123,

24秒 request from immediate e…

27秒 trouble request return back to HANEDA descend and maintain 220 over.

37秒 (ACC) Roger,apprived as you request.

40秒 (CAP) Radar vector to OSHIMA, please.

42秒 (ACC) Roger, you want right or left turn?

45秒 (CAP) Going to right turn, over. ←

49秒 (ACC) Right, right heading 090 Radar Vector to OSHIMA.

52秒 (CAP) 090.

53秒 (CAP) バンクとんな そんなに  

54秒 (COP) はい                   

55秒 (CAP) バンクそんなにとんなってんのに、バカ!

57秒 (COP) はい                

59秒 (CAP) なんだよ、それ 

18時26分~

00秒 (F//E) ハイドロプレッシャがおっこちています、ハイドロが…

02秒 (PUR) ただいま緊急降下中…

03秒 (CAP) バンクそんなにとるな、マニュアルだから【高度警報音2秒間】

05秒 (COP) はい

11秒 (CAP) 戻せ

12秒 (COP) 戻らない

15秒 (CAP) プルアップ

17秒 (PRA) ……

27秒 (CAP) ハイドロ全部だめ?

28秒 (F//E) はい

 

④トイレの上、カーテンのような布がヒラヒラしていた 

 

『はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくしてお客様のマスクを直したりしてまわっていました。そのときはエキストラ・マスクをひっぱって口にあてていました。マスクのチューブは伸ばすとけっこう伸びます。三列くらいはひとつのマスクをつけたまま、まわっていたようでした。このときも荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながらきょろきょろあたりを見まわしていました。』

▷FDR・CVR音声記録より/駿河湾上空、22,200ft(6,766m)、300kt。機長とACCとの通話。管制官の「大島レーダー誘導のため、方位090(真東)」へとの指示に対して、123便の高濱機長が『But now uncontrol.』と応える。なんと哀しい交信だろうか。

18時28分~

31秒 (ACC) JAPAN AIR 124, fly heading 090 radar vector to OSHIMA.

35秒 (CAP) But now uncontrol.

39秒 (ACC) Uncontrol roger understood.

○この時123便と交信していた、東京航空交通管制部(ACC、通称 東京コントロール)の管制官は、このことをどう感じていたのか。その管制官本人の証言があります。管制官『「…了解」そう答えながら「おかしいな」と感じた。エンジン出力が低下した、客室内の気圧が下がったなどと、普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。心が騒いだ。』123便には、すでに「通告出来ない理由」があったのだ。

▽こちらのブログでどうぞ。

minminzemi81.hatenablog.com

 

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キャビンは平静を保っている、乗客の小川哲氏撮影。

○上記写真について「1985年10月13日付 毎日新聞記事」に言及あります。写真は56列H席から、小川哲氏が撮影しました。また「謎の飛行体」と呼ばれる右側窓より撮影した「連続写真」も数枚ありました。これらが「謎の飛行体の存在を示す証拠写真」となります。

『あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いたとありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。ですから開いたのかどうか、私は確認できませんでした。きょろきょろしていたとき、私はトイレの上の横長の壁がほとんど全部はずれていることに気がつきました。トイレのドアはしまっていましたが、その上の壁がすっぽりはずれて、屋根裏部屋のような感じで見えたのです。

壁はちぎれたとか破壊されたというふうではなく、継目が外れたと言う感じでした。壁のパネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。そして壁のはずれた向こう側に運動会で使うテントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました。オフ・ホワイトの厚地の布のようなものです。ぴんと張ったのでもなく、ヒダの多いカーテンのようでもなく、一枚の布を垂らしたような感じでした。これもあとで整備の人に聞いたのですが、裏のほうにはそういう布があるのだそうです。それが破れたというふうではなく、風にあおられたようにひらひらしていたのです。そこから機体の外が見えたとか、青空がのぞいたということはありませんでした。

もひとつ私の頭上の少し前の天井に、整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、蓋がついているのですが、その蓋が私のほうに向いて開いていることに気がつきました。壊れたのではなくて何かのはずみで開いたという感じです。内部は暗く何も見えませんでした。ただ天井の荷物入れが下に開くということはありませんでした。

このときには、お客様は全員酸素マスクをつけていましたから、しゃべったりはしませんでした。酸素マスクをして呼吸するのに懸命で、とても会話どころではなかったのかもしれません。でもとても不安そうにしてきょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。赤ちゃんの泣き声がしたかどうか覚えていません』

 

○落合証言の『白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした』と『このときも荷物などが飛ぶということもなく』や『テントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました』これらの証言でも“急減圧は無かった”ことを示唆しています。

 

○この時起こっていた現象は、ほんのわずかな「緩やかな減圧」でした。それでキャビンは、充分再与圧されていたので、酸素マスクなしでも苦しくなかったのだと思えます。

○また、29分30秒辺りからモガリ笛のような「高く低くピィーピュー音」が最後まで続きます。これはR5の扉(右側最後尾)から「ほんのわずかな空気」が漏れ出していたからでは、なかったのか?そう思えます。

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○18:30頃に書かれた乗客の遺書が、かなり多い。客席では、まだ何とか文字を書くことが出来たようです。

『(家族の名前の列記)どうか仲良く がんばって ママをたすけて下さい パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない 今五分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 たすけて下さい きのうみんなと 食事をしたのは 最后とは 何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか しっかりた(の)んだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 今六時半だ 飛行機は まわりながら 急速に降下中だ 本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している』

この川口博次氏の遺書が、御巣鷹山の墜落現場から発見された。

 

○六時半頃、伊豆半島南端の住民が「ドカーン」という「大きな衝撃音」を聞き、上空に尾翼付近から白煙(オイル?)を上げて飛ぶ飛行機を、目撃したと証言している。

 

▷FDR・CVR音声記録より/焼津上空、24,900ft(7,589m)、280kt。ここではなぜか、緊張感の無い会話(機内電話)が続く。この時点で、フライトエンジニアの福田氏は後部座席の様子を、目視チェックすべきではなかったか?それとも「それほどの危機感」は、まだ感じていなかったのか。

 

18時31分~

50秒 (F//E) えーとなにが、こわれているんですか?

56秒 (F//E) どこですか?

59秒 (CAP) あ~あああ

18時32分~

01秒 (F//E) 荷物を収納するところですね?

04秒 うしろのほうのいちばんうしろの

06秒 ほうですね?はいわかりました

11秒 (F//E) あのですね荷物いれてある

13秒 荷物のですね、いちばんうしろですね

17秒 荷物の収納スペースのところが

19秒 おっこってますね、これは降りたほうがいいと思います

 

⑤客室内では、酸素マスク外しても息苦しくなかった

 

『いつ点灯したのか気付きませんでしたが「EXIT 」と「非常口」を示すエマージェンシー・ライトはついていました。座席上の空気穴から空気が出ていたのかどうか記憶にありません。ライトをつけていた人が、いたかどうかも覚えていないのです。時間的にはそろそろ暗くなるときですから、つけていてもおかしくないのですが気がつきませんでした。

こうしているあいだも飛行機が降下している感じは、ほとんどありませんでした。ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをしてしばらくしてからです。

「パーン」という音からたぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが』

 

○この頃キャビンでは、大変な操作をしていた。翼下に四発あるエンジン(左1左2右3右4)のストラスレバーを微調整し、ほんのわずかな出力差で機首を北に回頭させようと試みていた。

なので、CAPがマスクの問いかけに気のない返事を繰り返すのは、エンジン操作に集中していたためと想える。JAL123便、まさに「神技コントロール」が始まります。 

 

▷FDR・CVR音声記録より/静岡上空、24,900ft(7,589m)、280kt。衝撃音から10分過ぎた時点でも「操縦席では酸素マスクをしていなかった」このことから「垂直尾翼を崩壊させるような急減圧」は発生していなかったことが判ります。

会話内の「R5の窓」とは、客室最後尾右側にある非常扉の窓です。

 

18時33分~

35秒 (F//E) キャプテン

36秒 (CAP) はい

37秒 (F//E) アールファイブの

38秒 窓が…【高度警報音or離陸警報2秒間】(ブロークン)ですから

39秒 (COM) JAPAN AIR 123 JAPAN AIR How do you read?

41秒 エマージェンシーやったほうがいいと思いますね

44秒 (CAP) はい…

46秒 (F//E) マスク我々もかけますか?

48秒 (CAP) はい…

49秒 (COP) かけたほうがいいです

50秒 (COM) 【社用無線 呼出音】

54秒 (F//E) オキシジェンマスクできたら吸った

56秒 ほうがいいと思いますけど

58秒 (CAP) はい…

 

⑥高高度24,000ft (7,200m)380ktでダッチロールする

 

○「ダッチロール」もしくは「フゴイト運動」といった機体のふらつき現象は、コクピットパイロット達にとって未経験で、全く理解出来ないことだった。それは、客室にいる落合さんにとっても同じことでした。

 

『ダッチロールという言葉は知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとかガタガタ揺れるというのでもなくスローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。』

(※ Dutch roll とは、航空機が、縦方向と横方向への振動を繰り返す、ふらつき現象) 

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巡航高度24.000feet

『私の席に近い左の窓から見えたのはまっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で地上は見えませんでした。お客様は窓の外を眺めたり、なかにはスチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいました。

機内の様子はあわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、この段階ではまだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。ただコックピットからの連絡は何もなくて、みんな不安な表情ではあったのです』

 

⑦マスクから酸素が終了、救命胴衣を装着する

 

『そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか私がフライトをしていたとき、お客様から酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。全員が吸った場合18分くらいと計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。

でもほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。

ちょうどそのころになって、私のうしろのL5 (最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスがまわりのお客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだしてつけてください」という指示を出しました。

その指示がどこからきたのかわかりません。ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて各スチュワーデスに伝えられたり、急な場合は乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができる「オール・コール」でくるのですが、今度の場合はそれはありませんでした。

ライフ・ベストをつけるようにという指示は、機内アナウンスではなく、スチュワーデスの口頭で行っていました。まずスチュワーデスが着用してこのようにつけるんです、と教えながら座席をまわることになっています。今度もそうしていました。

前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。スチュワーデスは口頭で座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て、救命胴衣をつけてくださいと言いながらまわりはじめました。私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして、頭からかぶりました。』

 

▷FDR・CVR音声記録より/静岡市 井川ダム通過、25,000ft(7,620m)、220kt。R5の扉に不具合が判明し、エマージェンシィーディセント(緊急降下)することになった。しかし、高度が下がらない。

 

18時35分~

33秒 (STW) …かんじでございますが

34秒 (F//E) ええとですね、いまあのー

37秒 アールファイブのドアーがあのー

39秒 ブロークンしましたえーそれでー

43秒 えーいま あーディセント

46秒 しておりますえー

51秒【機内電話 呼出音】

52秒 (CAP)…

53秒 (COM) 了解しました。キャプテンのインテンションとしては

56秒 リターンツウ東京でしょうか?

58秒 (F//E) はいなんですか?

 

18時36分~

00秒 (COM) 羽田にもどってこられますか?

04秒 (F//E) えーとちょっと待ってください

06秒 いまエマージェンシィーディセントしてますので

08秒 えーもうすこししたら

10秒 あーコンタクトしますのでもういちど

14秒 あー再びコンタクトしますので

16秒 えーこのままモニターしておいてください

20秒 (COM) 了解しました  

 

⑧いまだ高高度をダッチロールする機体 

 

『私は羽田にもどれればいいなと感じていました。しかしまだ雲の上で高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。しかしライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、わかってもひっぱって取りだすことがわからないお客様も、少なくありませんでした。私の近くにも、ベストの場所がわからなくて、取り乱している若い女性がいました。

そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたのです。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。私が席を立ったとき、となりの窓際の席にいた男性のKさんが「スチュワーデスの方ですか」と、声をかけました。私は「はい、そうです」と答えてKさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。

とても冷静な方でした。ご自分のをつけ終わると、座席から手を伸ばして前後のお客様の着用を、手伝ってくださったのです。

私は通路に出て、L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。彼女が私の席よりうしろのほうをまわり、私は前のほう二列分くらいの左右のお客様を、指示してまわりました』

 

▷FDR・CVR音声記録より/22,300ft(6,800m)、ディセンドがうまく出来ずに、逆に上昇を繰り返してしまう。ここで、機体破片を落とします。

 

18時37分~

04秒 (CAP) おりるぞ

05秒 ( ? ) ……

07秒 (CAP) そんなのどうでもいい

11秒 (CAP) あ~あああ~

 

⑨徐々に客室内に、不安感が募るようになる

 

『しかしこのころになると、機体の揺れはじっと立っていられないほどでした。激しい揺れというのではなくて、前と同じように左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いてお客様の座席の下のベストをひっぱってちょっと座って、また二、三歩、という感じでした。

まっすぐ歩いてあたりを見てまわるということはもうできません。

救命胴衣は飛行機が着水して外に脱出してからふくらませることになっています。機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。しかし私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が四、五人いました。男の人ばかりです。

こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。泣きそうになっているのは男性でした。これはとても印象深かったことです

 

▷FDR・CVR音声記録より/オルタネート(電動モーター)で車輪を出した。これで空気抵抗が増え、機体は安定感を得る。しかしその一方で「失速の危険性が増す」ことにもなる。

 

18時38分~

32秒 (F//E) ギヤダウンしたらどうですか?ギヤダウン

34秒 (COP) ギヤダウンでしょうか?

45秒 (CAP) 出せない

46秒 ギヤ降りない

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18時39分~

13秒 (F//E) オルタネートで、ゆっくりとだしましょうか?

18秒 (CAP) はい、ちょっとまって

59秒 (F//E) スピードブレーキひきますか?

18時40分~

00秒 (CAP) あーあたま下げろ

01秒 (COP) はい

22秒 (F//E) ギヤダウンしました

23秒 (COP) はい

 

ベストをふくらませてしまった若い男性が「どうすればいいんだ」と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、ふくらませてしまったのは仕方ないですからそのままでいいですと、安全姿勢をとっていただきました。ひとりの方がふくらませると、そのとなりのお客様もふくらませてしまう。他のスチュワーデスも私も、それに私のとなりのKさんも「ふくらませないで!」と叫びました。

機内にはまだいくらかの空席がありました。ひとりだけポツンと座っている人は、不安になったんだと思います。救命胴衣をつけているあいだに、席を詰めて固まるようになりました。私は何も聞かれませんでしたが、制服を着ていたスチュワーデスは、お客様からいろいろ質問されました。「どうなるんだ」「大丈夫か」「助かるのか」聞いていたのは男の方ばかりでした。

家族連れの女性は男の方が一緒だったせいでしょうか、そういう場合でも男の人がいろいろ質問していました。スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、できるだけ冷静に行動していました。いろいろ聞かれても「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も受けています。絶対大丈夫です。」と答えていました。

そのせいもあって、客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います。ただ笑顔はもうなく、彼女たちの顔も緊張していたのですが。赤ちゃん用の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、このときにはもうそれを取りだす余裕はなく、大人用のベストをつけたと思います』

 

○22,400ft(6,827m)、200kt、衝撃音より15分が経過した。富士吉田付近。しかし、123便はいまだ「巡航高度を保ったまま」なのです。

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いまの気分は…🎶『悲しくてやりきれない』コトリンゴ


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▽Part2後半へと続きます。当該事故の「原因・墜落には、外的要因」があった、と思われます。落合証言と音声記録から改めて、この事故を考えてみたいと思います。続けてPart2をお読みください。

minminzemi81.hatenablog.com

○以下、日航123便墜落事故関連ブログです。ご覧下さい。

minminzemi81.hatenablog.com

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○外部リンク/事故関連の記事です。よければ参考にどうぞ。

▷1 *⋆✈ - 日本航空123便墜落事故33年目の記録 -

▷2 *⋆✈ 日航ジャンボ機 - JAL123便 墜落事故 (飛行跡略図&ボイスレコーダー) - YouTube

▷3 *⋆✈ 日航機墜落 simulation of JAL123 B747 Crash accident Pilot's View - YouTube

 

参考/墜落の夏、ウキペディア (16,000文字、thank you for reading, See you again.) 

<今週のお題> 老いも若きも楽しく研究 

むかし、恐ろしい殺人事件がありました…『カレー毒物混入無差別殺人事件』とは【現代の怪談】

 

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梅雨明け寸前、夏空もモヤモヤする
梅雨空を眺めていたら、ふと思い出したコトがあった。いや、これは決して“忘れてはイケナイ事件”だろう。今年もまた、七月二十五日がやって来る。

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恐いよなぁ、ホント怖い…。それはいまから20年以上前のこと、1998年7月25日。和歌山市北部「園部第十四自治会 夏祭り会場」にて。楽しいはずの夏祭りが一転、突如『毒物混入 無差別殺人事件』が発生したのです!

猛毒である亜ヒ酸が混入されていた「🍛カレーライス」が原因でした。この夏祭りの「カレーを食べた67人」が薬物中毒を起こし、このうち「自治会長(64)副会長(53)女子高校生(16)小学生男児(10)」この四名が残念ながら、その犠牲者となりました。

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愉しいはずの夏祭りが一転して

事件の当初、和歌山保健所は「食中毒によるもの」と判断しました。さらに和歌山県警は、嘔吐物を精査し「青酸の反応が出た!」と発表。このことから「青酸カリ中毒による殺人」と断定、発表しました。これで事件性を帯びてくる。

しかし、犠牲者の症状が「青酸中毒と合致しない」という指摘を受け、警察庁科学警察研究所が再精査し「亜ヒ酸」の混入がようやく判明します。

このカレーに“毒を盛った真犯人”は、夏祭りにおいて「無差別大量殺人」を狙ったのです。手口がテロリストじみていて、それがホントに怖かった。

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カレー事件の園部地域

さらに事件当時、この猟奇的な事件に連日マスコミ報道がヒートアップしまくる。日本中がこの殺人事件に注目し、地元では連日報道陣で大騒ぎとなった。

(和歌山市 園部1014番地、写真川沿い空き地の場所)

その後、逮捕起訴されたのは、ご存知「林 眞須美 容疑者(当時37歳)」です。しかし彼女は、さかんに無罪を訴えていました。第一審判決公判では「死刑判決」その後大阪高等裁判所でも「死刑判決」、最高裁判所では上申棄却され「死刑確定※」しました。そして現在、死刑囚である林眞須美 死刑囚は、大阪拘置所にいます。

○毒物カレー事件判決要旨⇒毒物カレー事件 判決

(※林死刑囚は執拗に保険金詐欺を繰り返し、約八億円を手にしていた。カレー事件は、物的、状況証拠などにより死刑は確定した。しかし林死刑囚は、当初から犯行否認し続け“冤罪の可能性”も疑える事態となった)

彼女は何故「無差別殺人」を犯したのか?

この案件の、最大の恐怖は「殺人動機がまったく不明」な点にある!

いまだ「動機が全く解明出来ていない」のです。これでは誰もがモヤモヤ状態。しかし、動機を解明したところで、これにて安心ともならないが。

転記『すぐに動機は何かと聞いてくる。本当の動機なんて事実を集めて、集めて、その先にやっと見えてくるかこないか…。本人が言っているだけのこともあるし、簡単にはわからないんだ。人は何事も理由をつけて安心したがる。それらしい動機がわかれば「あぁ、だから事件が起きたのか」と納得して終わる』(岡山県警の捜査一課 ベテラン刑事 談)

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ヒトはペルソナを被りたがる

名探偵コナンが『トリックなんて、所詮人間が考えだしたパズル。人間が頭をひねれば、いつかは論理的な答えが導きだせるけど、情けねぇえがヒトが人を殺した理由だけは、どんなに筋道を立てて説明されても、わからねぇんだ。理解はできても、納得できね~んだよっ。まったくな』という。事件は理不尽におきる。

それで現在では「彼女がサイコパス人格」だったから、云々…といった文脈でこの殺人事件があらたに語られています。サイコパスだったのか?確かにそんな可能性は、保険金詐欺事件など見る限りそうなのかも知れませんね。破滅的な人格をしているようです。

『一銭の金にもならない殺人はしません!』などと眞須美死刑囚は言った。物凄~い言葉だよね。すべては「金」てか😱怖すぎる。

○参考/社会病質者「サイコパスについて」⇒ ソシオパス・サイコパスと接した10人のセラピストが語る、彼らの真の恐ろしさがわかる体験談 (2018年4月23日) - エキサイトニュース

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アナタの身近に潜んでいます

ひとつだけ言えること。サイコパス・ソシオパスと“何らかの関係”を持っても…

「何ひとつ良いことは🚷ありませんっ!!」

サイコ、彼らは、調子♪のいいときのみ「尻尾をフリフリ🐶しながら、善人の顔で近づいてきます」基本は「ノラポチ体質」なのです。ところが彼らにとりターゲットが、利用価値がないと判断した時点で“手のひら返し”をしてきます。これだけは間違いありません。

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仮面の下は…

サイコ疑惑の人物(とても分りずらいですが)には、「期待も、信用も、近ずきも、しない!」が、正解なのです。

皆さん。くれぐれもご用心ください!

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 (1900文字、thank you for reading, be careful.)