minminzemi+81's blog

あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ ノシ

ウソップ物語「アリとキリギリス」です【労働問題説話】

アリとキリギリス

ウソップ・スットコ・ドッコイ 原作 

 

☀️ある暑い夏の日のことでした…

 

キリギリスは、バイオリンを弾き歌を唄うミュージシャンでした。一方アリ達は、一生懸命荷物を運ぶ「アリ印の運送屋(末尾に詳細記載)」だったのです。ある日のこと、キリギリスは毎日せっせと働くアリたち眺めて、KY発言しました…

 

🎻「食料をわざわざ運ばなくても、スーパーに沢山あるじゃな~い?」

 

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すると、アリ達は口々に「いまは沢山あるけど、冬になると食べ物は、なくなって仕舞うっぺ」とか「んだ、トイレットペーパーもだべ」と、ウインクして答えようとしたら、マブタがないコトに気づきました。

キリギリスは「まだ夏は、始まったばかり。楽すくサマーバケイションしようぜぇ~」汗だくのアリたちをチョット馬鹿にし、ゴーツートラベル!バイオリンで「睡蓮花」を弾きました。ノリノリ~名曲♪です。

🎻上がりまくる季節が来た!ヤバくなれるのは、誰? 俺! 俺! 俺! 俺! Ole! Ole! Ah~フィィィ~♪濡れたママで、逝っちゃってぇぇ~!


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やがて秋となる。キリギリスは唄っています

 

とうとう雪が舞いちる、寒い冬がやってきました。なんと「緊急事態宣言」雷舞ハウスも、とうに閉鎖されてしまいました。オーマーガーなんてこったい!

 

『♪雪の降る街ぉぉ~  雪の降る街ぅ…ガクシ』

 

キリギリスは、慌てて食料を探しますが、すでにスーパーには何もありませんでした。これは悪い誰かが、買い占めたのかもしれませんね。

それでお腹がペコペコで、困り果てたキリギリスは、夏場にアリが食料を集めていたことを、ハタと想い出したのでした。それで、少し食料を分けてもらおうと、アリん家をこっそり訪ねたのです。アリんちの前で、キリギリスは夏の間に猛烈に働いていたアリ達を、薄笑いでディスってしまったことに気付きました。

そして『虫付き合いは、普段が大事✨』

婆ちゃんキリギリスに教えてもらった警句も、想いだしました。

 

悔やんでも、時すでにお寿司🍣食べた~い♡

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「これでは、食料を分けてもらえないかなぁ…だろうなぁ…」

ところが、家をノックをしても、誰も出てきませんでした。それでも、かまわず中に入ってみると。

「ア、リィ~?」

真夏の重労働がたたり、アリ達はチ~ン♪

どうやら、過労死したようでした。

「👼What the hell ?!」

 

皆さん、くれぐれもブラック企業に、気をつけねばなりません

 

▽キリギリスは、アリ達が残してくれた食料で食いつなぎ、何とかひと冬を越すことが出来ました。そして、感謝のしるしとして、キリギリスは「残酷な自然のテーゼ」を高らかに唄いました。


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🎻『残酷な  自然のテーゼ  巣穴からやがて飛び立つ  ほとばしる熱いパスタでぇ  思ひ出を裏切るなら  この宇宙を抱いて輝く  アリさんよぉ  神話にな~れっ!』コラコラコラ、ギリギリッス! でも、Good job👍

▽繰り返す公開中止。コレで、めでたし、めでたし…なのか?いや違う。

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まだわからんよ

▷参考まで/アリのマークの引越し社は、ブラック企業だった!

「アリさんマークの引越社」社員が起こした訴訟 会社からの和解案に愕然 - ライブドアニュース

 

(1300文字、thank you for reading.)

 

新製品「コカコーラ・エナジー」を、チョッコシ飲んでみましたよん!【製品レビュ】

 

近頃、何かとエネルギー不足なので…どうする 笑

 

エナジードリンク」なるものを飲んでみましたっ!!

 

今回は「コカコーラ・エナジー」のレビュします。たしか昨年の年末頃かな?コンビニで並んでるのチラッと見かけた。

「ン~?値段高いねぇ、ボトルデザインも気持ち悪ィ~なぁ💧」

もちろんこんなキワモノ、用心して(笑)手を出さなかった。

だって飲み口が『赤』なんですよぉ!「警告色」だしね。

ウワサによれば、なんかヤバい奴なんでしょ、コレ?

その後、周囲に聴いても、誰も飲んだやつはいなかった。

それなら話のネタに、チョッコシ飲んでみるかナ?←(へそ曲がりィ~)

 

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コカコーラ・エナジー

それで、ローソンで購入しましたよ。

コップに注ぐと、まず漢方薬のような匂いがします。

怪しげな色の液体ですよぉぉ、すでに嫌な予感が。

見た目は薄目のコーラ色なのですが、

飲むとコーラとは似ても似つかぬシロモノだった。

わちゃぁ~期待はずれな味だよ。失敗したカモ。

甘さもあまりなく、ゴクゴク飲める爽快感もない。

カフェイン成分だけが高め。ん、ん…?

少し心臓が、ドキドキしてきました。

結論「困ったなぁ~、てんで個性がないよぉ」といったレビューなのでした。点数つけるなら30点かな。ダメだこりゃ。

とりあえず、「ドキドキしたい方にオススメ」なのかも。笑

▽コカコーラエナジーの“イッちゃってる”CM。コレも怖いイメージだな。

youtu.be

【コカコーラ・エナジー

○価格 : 250ml缶が200円(税別)250ml。1本あたりのカフェイン量80mg、105カロリーですね。○成分 : 糖類(果糖ぶどう糖液糖、ぶどう糖)ガラナエキスパウダー、炭酸、酸味料、香料、カラメル色素、カフェイン、保存料(安息香酸Na)ナイアシン、ビタミンB6。

 

(800文字、thank you for reading.)

明智光秀が襲撃した本能寺。そこより四百キロ離れたお寺に「信長の首塚」『富士山 西山 本門寺』後編【歴史ミステリー】

 

時は天正十年六月二日未明、その時歴史が動いた本能寺の変」が勃発!光秀、何を想ったのか?!

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惟任明智光秀(本徳寺蔵)
明智惟任光秀/十兵衛/日向守

生年不詳、一説に「岐阜明智城」で生まれたともいう。青年時代までいったいどこで何をしていたのか、まったくの“謎”である。これ、秀吉同様よほど具合が悪かったのか?後に将軍義昭に仕え、織田信長との橋渡し役を勤める。また、信長の正室である「帰蝶とイトコ」だったとも。天正七年。丹波攻めにて包囲を続けていた、八上城を落とす。続けて黒井城も落とし、丹波一国を平定。すぐに細川藤孝と協力し丹後も平定する。この働きに信長は、感状を出し褒め称え『丹波での光秀の働きは、天下の面目を施した』と信長は光秀を大絶賛した。そして天正八年には、三十四万石領す大名に成長した。天正十年。「徳川家康の饗応役」であった光秀は一転、その任務を解かれ、羽柴秀吉が担当していた「毛利攻め与力」を命じられる。その途上の何処かで光秀は、重臣達に対して「信長討伐の決意」を告げた。そして「本能寺の変」となる。さらに秀吉との「山崎の合戦」に敗れ坂本へ逃走途中、小栗栖で没する。天正十年、五十六才でした。

▽前編のお話です。コチラから。

(より“理解が深まる”やも知れません?ただし“効能には個人差”があります)

minminzemi81.hatenablog.com

 

明智光秀丹波亀山城を準備万端、発進す!

 

本能寺の変がおきたのは旧暦「天正十年六月二日未明」のこと。これを太陽暦(ユリウス暦)に直せば「六月二十一日」頃になります。篠突く雨が続く鬱陶しい、梅雨の真っ只中でした。表向きには「本能寺での馬揃※1のため」居城 丹波亀山城を猿の刻(夕刻)発進させた。やがて日が落ち、月も出ない暗い丹波街道を急ぐ光秀軍。昨日の雨によりぬかるむ山道を、ただ黙々と進む。

武士のたしなみとされる「夜討ち朝駆け」。この言葉は「行軍には払暁、つまり夜明けに。討ち入りするなら、深夜」これが戦国武将の闘いのセオリーでした。敵が一番油断した頃合に、前触れなく奇襲することが「最大の効果を生む」ということ。この時光秀は、居城をわざわざ夕刻発進しました。なので“夜間行軍の意図”とは「夜討ち」と推定できます。間違いありません。そして道半ば、老ノ坂※2 にて別心する。

「敵は、本能寺にあり」と、光秀は告げた!

この時、謀反を決断するにはまず「信長、信忠親子」のたしかな所在が判明しなければ、決断出来なかったハズです。京に放った探索方からの報告があったのでしょうか。早馬が光秀に駆け寄り「御注進!信長公、信忠公、本能寺にあり」と、告げたのか?

(※1 大規模な観兵式や軍事パレード。一説には、信長が森乱丸に突如、指示したと云う。これには、べつの「事案」があったのかもしれない ※2 光秀の謀反については“突然思い立った”かの記述が多い。道半ばの老ノ坂あたりで、何処からの“使者”が既に待っていたのか?このあたりに答えがあるはずである)

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△桔梗は別名「岡止々支」オカトトキと云う。土岐氏が本拠とした地名は、この「ととき」の咲く場所「とき」から派生したと云う。土地に咲く花にまつわる家紋とは、何とも優雅な話です。

 

六月二日の未明、京の都に鬨の声があがる

 

京、本能寺に在泊していた織田信長を、明智光秀の兵一万三千で押し囲み襲撃。信長は「こは、謀反か 如何なる者の企てぞっ!」と森乱丸に尋ね、急ぎ物見を命じた。物見を終えた乱丸は「桔梗紋、明智が者と見え申し候」と答え、信長は「…で、あるか。是非に及ばずっ!」と言い捨てたと伝えられる。みずから弓を放ち、しばし薙刀でも防戦する信長。そして不意を襲われ完全包囲されたことを悟ると、本堂奥に独り引き籠り火を放ち自害して果てた。ほどなくして本能寺伽藍は紅蓮の劫火につつまれ、完全に灰塵となったらしい。太田牛一の『信長公記※1』でも本能寺の変くだりは、ドラマチックですね。

大河ドラマ本能寺の変』信長役、役所広司が主演。いい演技です。


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また火災時に「焰硝蔵に引火し誘爆したので派手に燃え崩れた」とも伝えます。織田軍団の中国攻めその出陣前なので、本能寺は「武器弾薬の兵站基地」となっていたのかも知れませんね。これは普通に有り得る話だと思います。

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燃え崩れた本能寺

小瀬甫庵※2の『信長記』では「首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども、何とかならせ給ひけん骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり…」と、光秀の狼狽ぶりを伝えている。そして「骸骨と思えるものさえ、一切見つからなかった」と云うのです。これ、信長を取り逃し「もしや上様は、まだ生きているのではないか??」疑心暗鬼に取り憑かれた、光秀の心理状態がよく判る描写です。

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上様の亡き骸を疾く探せ!

 

織田家現当主 織田信忠との闘いへ

 

やがて織田信忠妙覚寺にいることが判り、そちらへも軍勢を差し向けます。この光秀の迂闊な采配ぶりは、いったいどうしたことでしょうか?天下取りに綿密に動いた武将の行動とは、とても思えない粗忽ぶりです。まったく「キレ者、光秀」らしくない。

一方、妙覚寺で変報を聞いた織田信忠は、直ちに父信長がいる本能寺救援に向おうとするが、京都所司代 村井貞勝が駆けつけ「本能寺は既に焼け落ち候」と応える。そして「二条新御所は、守るのに堅固」と重ねて進言。信忠勢は二条御所へ立て籠もり、粛々と戦準備を始めだした。

「あれれ…村井ちゃん!それは変だよっ?!」

寡兵で籠城は一番の愚策。この村井貞勝は信長の古くからの行政官僚で「京都の行政全般」を任されていた知将だった。例えば、信長が京都での住居を本能寺に定めた時、貞勝にお寺の「改造普請」を命じている。また本能寺の変の頃には、すぐ真向かいに村井貞勝屋敷があった。そして貞勝は明智光秀とも古馴染みの間柄だった。おやおや、これどうなのか?

信長公記によれば『ここを出て退きましょうと言う者もいたが、信忠は「光秀はこのような謀反で自分を逃さないだろう。雑兵の手にかかるのは無念、ここで腹を切る」と仰せられた』という。信忠は文字通り腹を括った。

そして『まもなく明智が軍勢を攻めかけた。そこで猪子兵助、福富平左衛門、毛利新助(桶狭間で義元首をとった有名武将)らをはじめ他の武将もそれぞれ斬り殺し斬り殺され、我劣らじと戦った』寡兵ながらも信忠軍は大奮戦する。しかし利あらず、最期をむかえる。

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『しんちようき』陽明文庫所蔵

やがて『信忠は腹を切った後、縁の板を剥がしてこの中に入れ、遺骸を隠すようにと仰せられ介錯鎌田新介に命じた。御一門や歴々の家臣、家子、郎党は枕を並べて討死した。この散乱した有様をご覧になり、不憫にお思いになられた』『御殿へもまもなく火が回って来た。この時腹を切られ鎌田新介、ご加護なく首を打ち申した。仰せのとおりに遺骸を隠し置き無常の煙となり、哀れな様は目も当てられないほどであった』

そして「織田家当主 信忠」も父と同じく館に火を放って自刃。そして信忠の首も光秀は手に入れることは出来なかった…光秀がやらかしたこの「二重の失策」は、やがて致命的となっていくのです。

(※1 太田 牛一『信長公記 しんちょうこうき』の著者として有名。信長幼少時代から、義昭を奉じて上洛までを首巻、上洛永禄十一年~天正十年までを十五冊、計十六巻にまとめている。信長近辺の確証できる事跡を編年体にまとめ、比較的正確に記述している。信長の事績を研究するには、無くてはならない一級史料である)

(※2 小瀬甫庵。美濃土岐氏の庶流で、尾張春日井出身。坂井氏の養子となり、さらに土肥氏、小瀬氏と名乗りを改める。慶長十六年に『信長公記』を下敷に『甫庵/信長記』を、寛永十年には『甫庵/太閤記』を記した)

 

遺骨すら残さずこの世からプッツリと消え去った信長

 

本能寺の南側、一街(約254メートル)離れた場所に、南蛮寺(教会)があった。そこにいた宣教師の記録には『ある人は日本の大名にならい割腹して死んだと云い、ある人は御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ諸人が、その声ではなくその名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した』(天正十一年イエスス会 日本年報)

やはり間近で目撃した宣教師も、一切何も残さず「信長は消えた」と、描写しています。しかしやはりコレもおかしいのです。死体が消えるわけはない。

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イッタイナンデスカナ??

信長の遺体は、本能寺跡でとうとう見つからなかったという。しかし、日本家屋がいくら燃え盛っても「骨すら残らない」とは、到底考えられないことですね。最悪「真っ黒に炭化して残るはず」です。もちろんこれで、個体判別はかなり困難な話にはなりますが。

それで昔から「秘密の隧道(地下道)があり、密かに逃げ延びたのではないか?」と考えられてきました。信長は事変以前に本能寺の改造を命じています。例えばこのトンネル工事を、武田領から連れ帰った「黒川金堀衆」に命じたのでしょうか?

この本能寺の変のち、信長の残された息子たちは「父の拝み墓」を建立した。天下人となった秀吉もまた、信長一周忌法要に「木像の葬儀」を執り行いその墓まで造った。それで信長の墓と称されるものは、各地に伝承されいくつも遺っています。各地の墓に共通するのは、そこには「遺骸は埋まっていない」ということ。これは、探偵小説で言うところの「消失トリック」ですね。

それでは、いったい信長の遺体…

「誰が?何処に?隠したのか?」この謎は、ますます深まるばかり。

 

京、本能寺より四百キロも離れた、西山本門寺「信長の首塚

 

静岡県富士宮市にある西山本門寺。そこに伝わる寺伝によれば「信長の首を携えた武士がやって来て塚を築き、篤く弔った話」が遺されている。 

本門寺 首塚前解説看板には『天正十年六月二日京都本能寺の変で討ち死にした織田信長の首を、囲碁の初代本因坊算砂「日海」の指示により、原志摩守 宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に、炎上する本能寺より持ちだし信長の首をここ駿河西山本門寺に納め、首塚を築き柊を植えたのであります。第百代後水尾天皇のご息女常子内親王の帰依をうけた、当山中興の祖十八代 日順上人は、原家のご出身でご自筆の内過去帳に、本因坊海上人と織田信長公の法号を記し、手厚くご回向されておりました』と、記されています。

確かに当時の住職は、十八代日順上人で「日海の弟子」でした。しかも日順は元々は武家、原家の出身だったそうです。また、西山本門寺過去帳には、日順自身が「惣見院 信長、為明智 被誅」と記しています。これは「織田信長は、明智光秀により誅殺された」と云う意味。誅殺した?と…この“誅殺”とは「謀叛人が上意討ちされる」といった用語なので、まさに信長にとっては「占い通りの天中殺」なのでした。う~ん、ちょっと待てよ。

(※ この事変が下克上であったなら「弑逆、しいぎゃく」と呼ぶ。もちろん“下が光秀、上が信長”である。誅殺ならば、上意討ちとなり、この時の信長の官位は元 右大臣。その上となると日本にはわずか数人しかいない。左大臣太政大臣、その上はもう天皇しかないのです) 

 

しかし、この寺伝には「数々の不審と疑問点」もあります

 

【疑問点1】囲まれた本能寺をいったい、どのように抜け出せたのか?

 

この伝承に拠れば、本能寺にいた本因坊 日海が指示を出し「原志摩守 宗安」という武士に信長の首を持たせ、囲みを見事にすり抜けたことになる。しかもこの時、原志摩守宗安は、信長と共に自刃した自分の父「原胤重」と兄の「孫八郎 清安」の首と共に、本能寺より持ち出した。

本能寺からおめおめ「三つもの首」を持ち出した、志摩の守とはいったい何者なのか?そして原志摩守がいくら剛の者でも、万余の明智軍に幾重にも取り囲まれた本能寺、そう易々と突破出来たとは思えない。ましてや小脇に「怪しいモノ」を抱えた姿なら、誰もがまず疑います「そは、怪しやっ!召し捕れやぁー!」たちまち鉄砲、槍衾の餌食となりますから。

 

【疑問点2】駿河より手前の織田氏本拠、美濃尾張では何故ダメなのか?

 

やがて囲みを突破した原志摩守は、駿河にある「富士山西山本門寺」を目指して、一目散に山道をひた走ったと伝えられています。その距離にして、約四百キロ。しかも日に夜を継いで山道を真っすぐひた走った。どうもこの話もにわかに信じがたいですね。

そもそも、はるか遠く離れた「駿府のお寺」でなければならない理由、これは何だったのでしょうか。この当時、美濃や尾張、信州などには、信忠配下の武将がひろく展開していました。ならばそのいずくかに駆け込めばひと安心が出来るはずなのです。それをなぜわざわざなぜ避けたのか?

信長の首が“権力闘争の鍵”であるのならば「いったい誰に託すのか?」燃え盛る本能寺にて、死を覚悟した信長が左右に密かに遺言し「後継者を指名」したのではないか。そんな気もするのです。では、それは誰だろう?

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赤ピン「富士山 西山本門寺

○富士山 西山 本門寺(にしやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市西山にある。日興上人(日蓮高弟の一人、白蓮阿闍梨)の法脈を継承する古刹。老杉の緑に覆われた境内は、3万5千坪(約11万5千5百平方メートル)と広大で黒門から本堂裏手の墓地まで直線で2kmもある。

 

【疑問点3】この「首塚(お墓)に、ヒイラギ」とは、なんとも異様です!

 

西山本門寺の黒門から参道を約五百メートル。御堂の裏手側に「信長の首塚」は現存します。御堂の背後に「柊(ヒイラギ)を墓標」として土饅頭の墓があり、信長の首は約三メートル程下の土中に眠っているとされる。

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柊鰯(ひいらぎいわし)

そう、ヒイラギでまず思い出すのは節分に『鰯の頭も信心から』といった「柊鰯」を入口に掲げて、鬼が嫌うと云う「魔除け法」ですね。また自家の魔除けには「表鬼門(北東)にヒイラギを、裏鬼門(南西)に南天の木」を植栽するというしきたり。ならば墓を護る呪術か?いや、違う・・・

これは、信長の怨霊を畏れた「鬼封じ」呪術だ!

 

首塚と云えば、歴史的に有名な「平将門」がある

 

またもや余談ですが・・「平将門の乱」の解説。平将門の乱は、関東騒乱を利用した「武士階級を朝廷に認知させる」ための闘いだった。平氏一族の内紛平定から始まり、関東諸国を巻き込み戦闘は大きく拡大していった。やがて将門は朝廷に対し、自らを新たな天皇「新皇」と僭称し、東国で独立国宣言をし、朝廷側より「朝敵」とされる。

やがて、朝廷側の追討軍と関東側の将門軍の戦いが始まった。しかし、その合戦中。飛んできた矢が将門の額に命中し、呆気なく討死した。敗将の将門の首級は京まで送られ、都大路にて晒される事となった。ところが三日目に、夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、東国のある場所に落ちた。この「首塚のある場所」に深い意味があります。

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平将門首塚の位置

将門の首塚江戸城の東側、いまの千代田区大手町、超一等地にあります。江戸城の大手門を護る位置。そして、何度動かそうとしても「将門の呪い」により、阻止されて来た。ここにわざわざ「呪術結界」が張ってある…これ、相当に怖い話なのです。

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(伝)織田信長首塚

さて、この駿府の地は古くは織田信長に討たれた今川義元の本拠地であり、さらには武田勝家の領地となり、次には徳川家康の政庁・隠居所ともなった場所です。それぞれ三者とも、信長にとって因縁あさからぬ人物達ですね。ここにも何か“引っかかるもの”があります。因縁話か…。

ハイっ「真実はいつもひと~つ」しかし「歴史の真実は、常に勝者により書き換えられる」とも。アイタタ…ホント解りずらいねぇ、困った。

  

その後「秀吉VS家康」天下盗りレースの行方?

 

天正十四年、秀吉と家康が対陣した「小牧長久手の戦い」の二年後。秀吉に対して家康は臥薪嘗胆の時期でした。ライバルの秀吉は「関白太政大臣」となりました。家康は本能寺の変後の出遅れが大きく響き、すでに挽回困難な差がつき天下取りの戦略転換を図る必要が生じた。この頃の駿府はうち続く戦乱によりずいぶん荒廃していました。それでも政庁をあえて浜松から、駿府へと移したのです。「そんな場所」に移る意味とは、そこに「何か」があったから。是非とも護らねばならない何か、とは。

(※一説には「秀吉ら上方勢に対抗するため」と言われていますが、それなら浜松で充分でしょう)

 

話を本能寺に戻して「徳川家康暗殺説」とはホント?

 

気になるのは本能寺の変について、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』です。そこには『ある者は、これは信長の内命によりて、その親類たる三河の君主 家康を暗殺するためだったと疑惑した』といった記述があります。徳川家康の一行(本多忠勝酒井忠次井伊直政榊原康政石川数正服部正成穴山梅雪重臣や小姓、三十四名)が、武田戦勝御礼のため上洛する。そして、五月十五日には、安土に到着しています。

この信長が内命した?という「家康の暗殺説」なのですが。果たして本能寺の変は『家康と徳川近臣の討伐』にあったのか。この説も迂闊に信じられません。もし信長が本気ならば、安土城にて家康一行を簡単に討ち取れていたはずですから、まぁ違うだろう。

 

「信長の夢は、世界にあり!」

 

やはり信長は、自身亡き世に「未来に対する布石」を打っておきたいと、常々考えたことと思いますね。例えば安土城にて家康に向い世界戦略を語り「日本統一後には、日本を禅譲する」と、言わなかったか?それを陰で聴き知った光秀は、そんな(イカレポンチな)信長に絶望したのではないだろうか。そんな気がしますね。

(※穴山 信君、あなやま のぶただ。甲斐武田氏、御一門衆だった。天正十年、甲斐一国の拝領と武田氏の継承を条件に、徳川家康の誘いに乗り内応する。本能寺の変時には、家康らと共にいたが、畿内から逃亡できず途中で自害した。つまり、何かがあり“ツメ腹”を切らされたらしい『家忠日記』) 

 

明智軍記に遺された「光秀辞世の句」には

 

光秀の辞世とされる漢詩が、いまに伝わる。内容から勘案すれば、本能寺の変の後に詠んだものと推察※1されます。

『順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元』  明智軍記

<大意> 順逆※2を問われる謂れはない。大道がわたしの心と、やがて判るだろう。五十五年間の夢も醒めてみれば、元の世の中へと戻るのだろう。

京の貴族社会での顔が効き、武将としても超有能だった明智光秀が突然、謀叛に走ったのは、それが「世のため、正しい行為」であると考えたから。やがて時が過ぎれば自分の行為が、後世の人々が理解してくれるはずだ。光秀自身はきっと、そう思っていたことでしょう。ところがどっこい、謎のママだ。

考えてみると、本能寺の変が“起ったきっかけ”は、信長の隠居宣言。そして、織田家中の新旧交代と頭首交代劇から始まったのでした。信長から信忠へ移譲されるものは、「国家支配権力、広大な織田領地、数多くの家臣団」など、多岐にわたります。よって本質的には、単なる「織田家、代替り時のお家騒動」なのであったと思いますね。そこに「天下覇権」云々が付加されてくるので、ホントややこしくなる…。

(※1 後世の“偽作の可能性”もありますね)

(※2順逆は、叛逆の意味。大道は“正しい道”といったところ)

閑話休題。あぁ疲れたぁ~、木の話です。 信長の墓標となったヒイラギの推定樹齢は、四百五十~五百年あたりと診断され、信長が活躍した時代ともほぼ一致する。このヒイラギは随分な大木となり、昭和三十一年には、静岡県の天然記念物に指定されました。また境内の大イチョウが黄色く染まる十一月には、首塚伝聞に由来する「信長公 黄葉まつり」が盛大に開催されています!

(これまだ、考察続けるの?I think maybe…第三部へ続く)

 

<参考に、どうぞ>

▽参考 壱/本能寺の変、三日前。京、愛宕山おいて「何らかの決意表明」したと云う光秀。本能寺変後には梯子を外され、まったく予想外な展開に直面しました。その当日「光秀が詠んだ連歌」ついて考察してみました。

minminzemi81.hatenablog.com

○参考 弍/戦国武将の「お墓」を辿っていくと、本能寺の変などの様々な事件の舞台裏、生存説などの最期にまつわる異説、秘話など。それぞれ名将の波瀾の生涯、戦国歴史ばなしです。

戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 (PHP文庫)

戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 (PHP文庫)

 

   

参考/山岡荘八織田信長」、歴史人、ぶらり亀岡、PHP研究所、ウキペディア

(8600文字、You read it, thank you.) #本能寺の変

珍説「大きなカブ」うんとこしょ、よっこいしょ、なかなか抜けないカブとは?!【蕪式投資】

 

珍説 大きなカブ

所ガ・ドッコイ・盗ルストイ 原作

 

むかしむか~し。あるところに、定年退職したおぢいさんがいました。

暇と無駄に小金だけはありましたので、カブをセッセと育てることにしました。

「あら、せっかく定年退職したのに、働き者ですねぇ~おぢいさんは」

おぢいさんは「大甘で大きなカブ」にしたいと、欲望が炸裂!

市場に沢山のタネ銭をばらまいて、PC画面をジィ~と見つめていました。

そう、なぜか「観ているだけ」なのです…何だ、それ?そんなバナナ🍌パクパク!

「せいてはコトを子孫汁、と云うでなぁ…」

「何それ、美味しいの?」

「いや、良くゆーじゃろて。医師のアウェイにサーセンと!」

もう言ってることが、ワケが分かりませんね!

やがてカブは不思議と立派に育ち、いよいよ収穫の時がやってきました!

「ほ~ほっ、ほっ、ほぉ…ほ?にょ~?!」

カブは、まったく抜けませんでしたっ!

何しろ大きく育ちすぎて、足腰の弱ったヨボヨボおぢいさんひとりでは、市場からひっこ抜くことすらできませんでした。

「ありゃコレは、困ったのう…💧」

背中からは、変な汗が流れ始めます。

そこでおぢいさんは、おばあさんを呼んできて、手伝ってもらうことにしました。おぢいさんが「うんとこしょ、よっこいしょ!」とカブを引っ張り、おばあさんが、おぢいさんのチ○コを引っ張りましたが、やはり大カブも、○ンコも、まったくピクリともしませんでした。そこで、知恵者のおばあさんが、孫悟空を呼び手伝ってもらいました。

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「うんとこしょ、よっこいしょ!」と力を合わせ引っ張りましたが、カブはヤッパリ抜けません。いったいコレはどうしたことでしょうか。

今度は、孫悟空がケンケンを呼び、ケンケンが猫娘(新)を呼び、みんなで力を合わせて引っ張りましたが、それでもカブは抜けません!

「はてさて、どうしたものかのう…?」

これでは、どうしようもないので、ヤケになった猫娘(新)が、ねずみ男(旧)を呼んできて、一緒に手伝ってもらいました。

「うんとこしょ、よっこらSHOW~♪」と、ムリムリにカブかを引っ張りあげると、ようやくカブを「スポポ~ン!」と、抜くことができました!

そして、抜いたカブを、よ~く見ると何と!「取引停止蕪」と書いてありました。

道理で市場から、引っこ抜けなかった訳ですね。

この事態に目を丸くするおじいさんを尻目に、おばあさんや孫悟空、ケンケンも猫娘(新)もねずみ男(旧)すら、腹を抱えてゲラゲラと大笑いしましたとさ。

 

メデタシ、メデタシ!

 

【大きなお世話様ジャイ、二題】

 

その壱『猿猴、月を取る』

猿が井戸に映った月をすくい取ろうとした。乗っていた木の枝が折れ落ちて、水死した話から。分不相応のことをして、大失敗する中国の例えばなし。

 

その弐『へたなナンピンすかんぴん』

 

ナンピンは、保有株価が下がったときに、さらに買い増しして平均取得価格を下げること。ナンピンした株価がさらに下げるようだと、大出血セール!

 

 

(1200文字、thank you for reading.)

明智光秀と織田信長と本能寺の変。そこから四百キロも離れたお寺にある「信長の首塚」『富士山 西山 本門寺』前編【歴史ミステリー】

 

まずは天正十年、信長が置かれていた状況。本能寺までの流れを追いかけてみることが、肝要でござるな

 
本能寺の変は「永遠のミステリー」と呼ばれ、いまだ多くの歴史ファンを引き付けます。明智光秀本能寺の変において、犯した最大のミス「信長の首がみつからない?!」この謎を考察してみたいと思います。歴史ファン待望ドラマ、デデンデン♪

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織田上総介信長(出典ウキペディア)
織田三郎/信長/上総介/右府様/第六天魔王

信長は尾張勝幡城で生まれた。子供の頃から「破天荒な行動」が多く、傾奇者の服装でねり歩き、栗や柿・瓜などを食べ歩きした。そのせいで周囲より「大うつけ(大馬鹿者)」と呼ばれる。信長の性格は「極めて残虐、人とは違う、異なる感性」を持っていた。敵対者や裏切り者に対しては、ことさらに残忍であったと言われ、浅井父子と朝倉義景の三人の髑髏を「はくだみ」とし“酒の肴”としたのは有名な逸話、どうも「サイコパスの傾向」があったらしい。しかし、その一方で「世間の評判」を非常に気にしたり、家臣や領民の意見も採用する柔軟性もあった。信長は日頃から武芸の鍛錬に励み、趣味として「相撲、鷹狩り、茶の湯囲碁」などに自ら励んだ。特に「南蛮文化」に強い興味をいだいていたらしい。最期には本能寺の変にて、明智光秀により弑逆された。享年四十九歳。

織田信長は、天正九年八月十三日に「自ら出陣し東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」と、天下一統の野望をあらわにした!そして、確実にひとつ、ひとつ布石を打ってゆく。 

(※ 囲碁で中盤以降の展開を予想し、勘所となる場所に石をあらかじめ張っておく、戦略的配置のこと。そこから転じて「布石を打つ」という慣用句となり「未来のための下準備」的な意味あいとなった) 

 

信長はついに、長年にわたる宿敵 武田勝頼を追い詰めた

 

本能寺の変が起こる三月前。天正十年三月十一日。織田信長は巧みに内部崩壊を誘い、武田勝頼親子を天目山に追い込め自害させ、ここに戦国名門 武田氏は滅びました。そして三月二十七日。高遠城を攻略した嫡男、織田信忠にたいし「そちに天下支配の権を譲る」と宣言に至る。

これは、織田家中の「世代交代」「信長の隠居」を意味する。

人生五十年の時代ですから、このことに何の不思議もない。ですが、実はこれ「大変な決断」なのでした。武家ではよくあるハナシで「代替り時には、必ずお家騒動が起きる」まして大き過ぎる権力の引き継ぎは、何かと家中係争の引き金となります。

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鳴かぬなら…ていっ!

(※信長にはですね、なんと~「11男11女、合計22人の子供」がいた!しかもBL趣味、有名な森蘭丸♡ちゃん関係あり。文字通り“超精力的武将”だったのです!スゴすぎる、槍チン信長)

それは、今回の“武田氏滅亡の遠因”ともなったことでもあり、何より信長自身が実弟信勝と「醜い家督争い」を身をもって経験した苦い過去もあった。しかし嫡男の織田信忠は、父信長の眼鏡にかなった「有能な武将」だった。なのでこの時点では、大きな諍いも起きず表面上「織田家は大安泰」と思われていました。

甲斐から東海道へと至る道。馬上鞍より「日本一の霊峰 富士山」を眺めながら、今回また新たに獲得した織田の新領土を、ゆるゆると帰国の途に就く。この時信長は、我が身我が家の来し方行く末、想い巡らしたのではないでしょうか。永年の宿敵であった武田氏を倒し、さらには懸案「後継者問題」も決着。堂々の安土凱旋でした。

 

次なるターゲットは「西国の毛利平定」で、あるか

 

そして、永年に渡る功労者である徳川家康には、駿河国を割譲した。この旧今川領にて、若き日々を人質として過ごした家康にとっては、駿府は良くも悪くも「想い出深き土地」でした。これにより、家康は東海三ヶ国に及ぶ大大名へと成長しました。

あとは、関東方面で信長に盛んに抗戦していたのは、越前の上杉景勝だけだった。信長は北条氏まで傘下に収め、武田氏が滅び東方の憂いは去った。また九州の地ににて、大友氏や龍造寺氏共、信長とは「表向きは友好関係」にありました。

しかしその一方で、中国地方の大国 毛利一族との文字通り「泥沼の闘い」が続いていました。また四国においても長宗我部氏が突如反旗を翻し、交戦状態におちいった。これで席を温める暇もなく、織田軍は東奔西走することになる。

 

「駄目押し※1」続ければ、織田の天下一統がその手に

 

秀吉は、中国毛利攻めに「宇喜多秀家勢(約一万)」を傘下に加え、水攻めされた備中高松城はもはや落城寸前となった。ようやく、毛利の後詰軍(救援軍、五月二十一日になって猿掛城に毛利輝元本陣、岩崎山に吉川元春、日差山に小早川隆景)が着陣する。

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備中高松城水攻め(東京都立中央図書館蔵)

舞台はコレですべて整った。あらかた目算※2 がたった羽柴秀吉は五月末、急ぎ安土の信長に面会し援軍を要請、これらを了承される。さすが「おべっか使いの秀吉」上様の性格をよく判っていますね。サラリーマン武将の鏡、出世するタイプの男です。

さぁ、いよいよ『織田軍VS毛利軍』天下覇権を賭けた大戦の始まりだぁ~!!陣触れ太鼓がドド~ン♪

…実はこれ…「終わり始まり」だったのです。織田信長運命のカウントダウンが、この時スタートした!畿内で遊軍だった「明智光秀」ほか各武将の面々に、中国方面への出陣の下知が次々とくだる。信長、信忠親子も最前線へと駆付ける手筈を急ぎ整え終える。

そして舞台は、策謀渦巻く京は本能寺へと移る。デデン、デデ~ン♪

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京本能寺にて

六月に入り織田信長が、自慢の茶道具「九十九茄子茶入、白天目茶碗、高麗茶碗、青磁花入」など三十八名品を並べ、京貴族や豪商らを集め催した「本能寺茶会」は、大満足のうちに終りました。

続き夕刻からは、織田信忠主従も加わり酒の宴へと移る。信長は興がのり、得意の「敦盛」でも披露したのでしょうか?

『人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか~』ポン、ポポン♪

▽リンク/織田信長が敦盛を華麗に舞う。


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すべては順風満帆に運んでゆく。やがて夜もふけて、信忠が宿舎の妙覚寺へと帰る頃には、随分盛り上がった酒宴もおひらきとなった。信長は大の「茶事好き」であり、また「囲碁好き」だったのです。パチリ、パチリ、碁石の音。

(※1 囲碁での終局、どちらでも無い陣地を「ダメ」と言う。その駄目を埋めて勝敗を明らかにするため、さらに碁石を置き続けることを“駄目押し”という。「駄ジャレ」や「駄菓子」も、ダメよぉ~駄目)

(※2 「もくさん」とは碁盤の縦横にはしる交叉点のこと。確定地の把握と将来的な地目の可能性、盤上に展開した石の裏表などを総合的に勘案し判断する。転じて「物事の企てや計画する意味」となる)

 

本能寺にいた「本因坊(日海)算砂」なるヒト、何者でござるか

敵を殲滅するのではなく、最後の局面にて「一目多ければ勝ち」なのが囲碁。そのために知恵を絞り、想いを巡らすのが「戦略」であり、囲碁の醍醐味となります。

 

京、本能寺において。勝負の行方はどんなんかなぁ

 

六月朔※1の夜である。空に月はなく、漆黒の帷が本能寺を包んでいた。その本能寺の片隅にて「本因坊 日海(算砂)と鹿塩利賢」が、囲碁対局していた。しばらくすると「盤上に珍しい三劫※2」ができて決着はつかず“三劫無勝負”となったという。その対局の様子をじっと眺めていた織田信長。やおら立ち上がり日海と利賢に、本能寺に泊ることを勧める。信長のことなので「明日また対局を仕切り直せ」と含めたのかもしれない。

(※1 太陽暦ユリウス暦」では、六月二十日頃となる)

(※2 これ以降、囲碁世界では「三劫は不吉の前兆」とされるようになった。ただし遺された本能寺棋譜には、三劫になりそうな場所なく「後世の作り話である可能性」が高いらしい)

 

囲碁名人の「本因坊(日海)算砂」実はすごいヒトだった

 

その人物『本因坊 日海。永禄二年~元和九年、京都生まれ。京の日蓮宗 寂光寺 本因坊の僧で法名を「日海」と称し、後に「本因坊 算砂」と名乗る。家元 本因坊家の始祖※1』古代からの囲碁は、盤面四隅の星に碁石を配置してから始める「置き碁」だった。十六世紀後半には現代と同じ、自由布石による「互先」が始まった。

(※1 以来、本因坊は代々の世襲制となり、第二十一代本因坊秀哉まで続きます。昭和十四年、秀哉の引退後は世襲廃止、本因坊は「囲碁勝者に与えられる一大タイトル戦」となる)

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黒と白とのせめぎ合い、囲碁

この黒白交互に自由にパチリパチリと打ちはじめる「互先」が考案された天正年間“織豊時代”であり、日本が天下統一されていった時代でもある。単なる「戦バカ」は、淘汰され、真の実力者が勢力拡大果たしていった。そのため囲碁界でも「戦術法」ではなく「戦略眼」が重視され「布石」の概念が生まれた。これは織田信長好みに本因坊日海が「互先」をアレンジしたのだと思えます。とにかく頭がキレたのですね。

 

本因坊日海(算砂)と信長の関係はどうだった

 

そして日頃から、信長は日海に囲碁の教えを受けていました。そんなある日のこと。信長(下手)は日海(上手)と対局し「五子置き(ハンデ)」打ちはじめますが、まったく勝負にならず、日海に軽くいなされてしまった!これには流石の信長も舌を巻き「そちは、まことの名人なり!」と、本因坊日海を絶賛した。

ここから現在も使われる「○○名人」という言葉の起こりとされています。それ以来信長は、日海のことを名人と呼び囲碁の師匠と仰いでいた。しかし、明け方には「光秀謀叛の嵐」に巻き込まれることになるのですが。

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本因坊算砂、そちは名人じゃ!

 

作家 山岡荘八が描く「織田信長」に興味深いシーンがある

 

これも余談ですが…明智光秀は「算命術」つまり、いまで言う「四柱推命」を嗜んでいたらしい。それは合戦前に行う“縁起かつぎ”みたいなもので、出陣の日時、方位、場所などすべて占い、もしも“凶”と出たら合戦延期かとり止めともなった。もちろんこれは「軍配師」いわゆる軍師の役目で、総大将がわざわざ執うことではない。この時も光秀みずから筮竹と算木をシャシャと使い、自身の「未来運命」を占ったという。

そして光秀は『上様のご運は、この六月から“空亡”に入らせられる。空亡は十二年毎にまわってくるその人一代の凶運の時ながら、それにあるは上様お一人ではないぞ。光秀はなすでに去年、今年と空亡のうちにあるのじゃ。それゆえこの間の出来事は、一つとしてよい事はなかった。その空亡を脱するは七月半ば、それまでは光秀もやはり手を拱いて、自らの意思では動かぬものと知るが良い』と周囲に告げた。

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

 

ここで言う「空亡」はいわゆる“大殺界”のことで「自分から動けば必ず自滅する」といわれている。ならばこれ随分と自己矛盾した話となりますね。そしてさらに、疑問も浮かぶのです。本能寺の変は果たして「明智光秀ひとりで起こした」ものだったろうか?あるいは共犯なのでは?と。それは…誰?

 

昔からささやかれる、黒幕謀略説とは

実は光秀に、本能寺襲撃をそそのかした「黒幕がいたのではないか?」といった「黒幕」謀略説が、昔からあります。主な三つの説をザックリとご紹介、推理して下さい!

 

①朝廷黒幕説

○信長は朝廷側に対して、正親町天皇に譲位を求め、暦の改正(宣明暦を→三島歴に)を要求しました。そして官職を辞していた信長に、三職推任(征夷大将軍職の要請)したが信長はこれを完全無視、朝廷は綸旨(りんじ)をないがしろにされ面目を失くしました。

○光秀との朝廷のパイプ役「吉田兼見の日記」は何故か二つあり、書き落としの箇所がある。本能寺の変後には関与を疑われた前太政大臣 近衛前久が出家(号 龍山)、遠江国まで遁走しました。なぜ隠棲場所が、わざわざ徳川領なのか?ずいぶん変な話だね?

羽柴秀吉黒幕説

○犯罪捜査の基本「犯行により一番得した者は誰か?」それは明智光秀を討って結果、天下人となったのは秀吉。彼は京での変事を知ると、毛利氏と素早く講和(以前にすでに講和条件等は調っていた)し、待ってましたと「中国大返し」を敢行。そして山崎の合戦にて明智光秀を破った!

○その段取りの鮮やかさは、かねてから想定内(黒田官兵衛か)準備万端だったと、想われます。しかも毛利軍は、追撃戦(やれば一方的ボロ勝ち)すらありませんでした。そんな馬鹿な話はない。では「秀吉が光秀をまんまと陥れたのか?」権力者は歴史を捏造しますから…疑いは濃厚。

徳川家康黒幕説

○長年にわたり信長の同盟者だった徳川家康は、武田氏が滅亡することより「東国方面での存在価値」が、おおきく損なわれました。直前には、信長の招きに応じ重臣とわずかな供廻りだけを連れ、京や堺見物にのんびりと訪れていた。これは徳川主従には“とても危うい状況”でした。

○本能寺にて織田側が「徳川主従をひとまとめに殺害」する計画が発覚。この「危機的状況を打開」するために、家康は“何らかの対抗策”を前もって練っていた。意趣返しそれが「光秀の謀叛」の真意だった。しかも光秀は死なず、生きていたという伝説のおまけ付き…マジですか?

(注/光秀の子孫という明智憲三郎氏が書いた『本能寺の変431年目の真実』が、話題になりました。残念なから新しい考察はありませんでした)

④おまけコーナー、また新説です

○最近の黒幕トレンドには「四国政策説」があります。林原美術館で「石谷家文書」が発見された。長宗我部元親が光秀配下の武将、斎藤利三に宛てた手紙らしい。四国方面の政策担当していた光秀は、この政策にまつわる「軋轢から叛意を起した」というもの。

斎藤利三や長曾我部氏の「危険な先棒」を、上位者である光秀が自ら担ぐ意味が分かりませんが…とは言うものの、この説の可能性はゼロではない。さらに補完出来る「何らかの追証」が望まれますね。

▽推奨本/『現代語訳 信長公記』 現代語に翻訳されとても読みやすい。織田信長の生きた戦国時代の空気感がよくわかる伝記作品。

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

 

参考/太田 牛一(おおた ぎゅういち)官位は和泉守、通り名は又助(またすけ)。戦国から江戸初期にかけて活躍した。信長公記 しんちょうこうき』の著者として有名。信長幼少時代から、義昭を奉じて上洛までを首巻、上洛永禄十一年~天正十年までを十五冊、計十六巻にまとめている。確認できる事跡を編年体にまとめ、正確に記している。信長の事績を研究するには、無くてはならない一級史料。

▽はなしは「信長の首塚?何それマジで。後編」へと続きます

minminzemi81.hatenablog.com

 

参考/山岡荘八織田信長」、歴史人、ウキペディア

(6200文字、See you again.) #本能寺の変#明智光秀