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「鬼」は本当に悪者だったのか?征夷大将軍「坂上田村麻呂」 鬼ヶ城 奇譚【歴史伝承】

征夷大将軍として活躍した「坂上田村麻呂蝦夷の反乱、あるいは各地方の海賊や鬼討伐に活躍する“軍事的英雄”として、日本史にしばしば登場します。

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坂上田村麻呂

征夷大将軍 坂上 田村麻呂。

天平宝字二年758年生まれ。父は坂上 苅田麻呂、母はまったく不明。坂上氏は、渡来系の軍事氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)の流れ。武術をもって朝廷に仕えた。798年、京都東山の清水寺を建立する。802年。東北に胆沢城、続いて志波城を築き、蝦夷の族長 阿弖利為(アテルイ)、母礼(モレ)など500人余りを降伏させた。田村麻呂は強く反対したが大和朝廷は彼等をひどく恐れ、河内国杜山で打ち首にしてしまう。大阪枚方市宇山の公園内には、二人の供養塚が遺っています。

 

昔話にも、たびたび登場する「鬼」の正体とは?

 

鬼といえば…子供の頃、誰もが体験した「鬼ごっこ※1」を思い出すでしょう。近所の子供達が集まれば、すぐ始まった。決まって鬼は一人で、その他はわ〜わ〜逃げ回る役だった。世代を超えて、子供にこれ程親しまれた遊びも珍しいのでは?

さて、奇譚話に登場する鬼や賊の名前は、地域や伝承によって変わります。岩手県では「悪路王」や「赤頭」福島県では「大高丸」や「大多鬼根」といった奇妙な悪名をつけられています。また秋田県には有名な「なまはげ※2」伝説もあり、まるで「東北地方が鬼の本場」の感じがします。

近畿地方にもいくつかそんな伝承話が残されていて、天皇の命を受けた坂上田村麻呂が、紀伊半島一帯を荒らし廻っていた「鬼ヶ城の海賊」を退治した話が、いまに伝わっています。

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鬼ヶ城三重県 熊野市

(※1 一説に鬼ごっこの起源は奈良平安時代、年末宮中行事の「追儺(ついな)祓い」からという。人々に害をなす邪鬼、疫病退散を祈念する呪術だった)

(※2 ナマハゲは、鬼の外形的なモチーフとなっているが、ほんとうは子供を護る神様らしい。秋田の地元では、鬼子母神的なイメージとのことです)

 

坂上田村麻呂鬼ヶ城」の鬼退治伝説 

 

平城天皇※1の頃。「鬼ヶ城」に鬼神が住みつき、村人をたいそう悩ませたそうな。その話を聴いた坂上田村麻呂将軍が「大君の神の国で暴れるとはけしからん!」と、二木島※2を経由して軍船で鬼の岩屋へと近付いていった。一方、その動きを知った鬼の大将「金平鹿」二つ名を「多娥丸」は、手下の鬼達八百匹を集めて知恵を絞った。そしてようよう話が決まった。

金平鹿「田村丸にはどうやら観音の加護があり、我々の神通力が効かないかもしれない」と食料を運び込み磐屋に閉じこもって、窟の戸をピッタリと閉めた。鬼たちは不要な戦闘を避けて、籠城策を選択したのだった。さすがの田村麻呂将軍も、これには攻めあぐんでしまった。

するとその時、沖合にある「魔見ヶ島」の空に、菩薩のような光る童子が現れた。そして弓矢を携えて将軍を手招きしているのが見えたのです。

その童子がいう「私が舞うから軍勢の皆も一緒に舞おう」と誘う。しばし船上を舞台に舞い遊んだ。その妙なる調べに鬼の金平鹿は、何事かとソワソワと気になり窟の戸を少し開け顔を出してしまう。

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鬼ヶ城三重県 熊野市

そこをすかさず田村麻呂将軍は、童子から授かった金弓矢で金平鹿の左眼を撃ちぬいた。続いて磐屋から八百もの手下の鬼達が飛び出したが、田村軍の千の弓矢にことごとく倒れてしもうた。

そうしたら千手観音の化身である童子は、たちまち光を放っていずこかへ飛び去ったという話じゃ。

(※1 第五十一代、平城天皇 桓武天皇の第一皇子。上皇となり政令を乱発するが、薬子の変により失脚した。在位期間 延暦二十五年より大同四年まで)

(※2 二木島は、三重県熊野市にある。過去には「二鬼島」と表記されたこともある。中上健次原作、映画「火まつり」の舞台にもなった)

 

坂上田村麻呂の「尾呂志」の鬼退治

 

さらに話は続く。また「四鬼の窟」に住む鬼が村の子供をさらっていくので、人々は不安であったそうな。

田村麻呂将軍は「鬼ヶ城」で鬼の首魁や手下を滅ぼしてから「尾呂志」の鬼たちも退治しようと、意気盛ん。再び甲冑に身を固めた。

そして通りかかった村人に鬼の住む窟と、四頭の鬼が住むことを聞き出した。田村麻呂側は弓に弦を張り、矢尻と刀を研ぎ戦の用意を整えなおします。

田村麻呂の軍勢が金掘の南の谷あいを辿ってゆくと、鬼どもは大きな磐の上であぐらをかいて、こちらを睨みつけ「俺達を退治しようとは片腹痛いわぁ!射れるものなら射てみよっ!」と大音声を張り上げた。

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鬼ヶ城三重県 熊野市

田村麻呂将軍の号令で一大合戦が始まった。やがて鬼どもはしだいに弱りはじめた。これはかなわないと棍棒を引きずり、ほとほと逃げはじめた。

そこを田村麻呂将軍にスパッと切られた鬼の大将の首は宙高く飛びあがり、将軍めがけて噛みつこうとした。間髪身をかわされ、そばの木の根へと噛みついた。ほかの三鬼も、皆みな殺されていった。

そして鬼を退治した将軍が彼らのこもっていた窟に行くと、奥の暗いところで「しくしく泣く声」がする。

そこには藤蔓で縛られた子供がおり「それは一昨日さらわれた、娘の松でございます」と村人達の中より男が進み出た。このように田村麻呂将軍は各地で鬼を退治したので、村人たちは大層喜んだということじゃ。

 

これにて…めでたし…めでたし…か?

 

この鬼の正体とは、いったい何だったのか?

 

しかし何故、鬼は一方的に虐殺されねばならなかったのか?「鬼なんだからあたり前」と思ってはいけない。この伝説は、本当のことを何も語らない。

鬼は「牛と虎」牛の角をはやして、トラのパンツ穿いてるウシトラ。鬼は丑寅の方角からやってくる。鬼門とは東北東「蝦夷が住むところ」である。

 

奈良県 大峰山には有名な「前鬼、後鬼」がいた!

 

話はかわって。修験道の開祖 役小角に従っていたとされる鬼は、もともと生駒山暗峠で人の子をさらって食べる悪鬼。役行者がこの夫婦の子供を隠して、二人をおびき出し「悔い改めるならば人間にしてやる」といわれ、役行者の従者となりました。

前鬼は「赤鬼(奈良県吉野郡 下北山村出身)」鉄斧を手に、笈を背負っている。その妻の後鬼は「青鬼(奈良県吉野郡 天川村出身)」水瓶を手に、種子を入れた笈を背負っていた。そして、二人の鬼には五人の子供がいました。その名を「五鬼継、五鬼熊、五鬼上、五鬼助、五鬼童」という。

この五鬼家それぞれが、その後も修験者のための宿坊を営んだ。ところが明治時代初めの修験道禁止令により、これらの行者宿が大打撃をうけ衰退する。

いまは、六十一代目 五鬼助義之氏(小仲坊 五鬼助家)が宿坊を受け継ぎ、大峯山中で営業されています。

▽小仲坊は、大峯山釈迦ヶ岳の東面、山の中腹にある。

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○住所 奈良県吉野郡 下北山村前鬼三十

○連絡先/07468-5‐2210

○一泊二食付8 ,000円、素泊まり4,000円

  

世界遺産登録「鬼ケ城」あんない

 

○訪れる価値アリの場所です!R311号、25kmほど続く七里御浜沿いの道。その海岸線の終わりあたりにポンと突き出た岬に「鬼ケ城」があります。人々を圧倒してくる迫力ある海岸に、自然奇勝が続きます。

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○住所 三重県熊野市木本町1835

○リンク/世界遺産 鬼ケ城(おにがじょう・三重県熊野市)

 

出典参考/三重県観光連盟、ウキペディア

(2800文字、Thank you for reading.bon voyage.)

見渡す限り雪景色。軍歌「雪の進軍」始めっ!【明治時代】

 

徳島大尉「雪の進軍、始めっ!

 

壱番

ゆき進軍シングン こほりんで
何處どこかはやらみちさへれず
うまたふれるてゝもおけず
此處こゝ何處いづこみなテキくに
まゝ大膽ダイタン 一服イップクやれば
たのすくなや煙草たばこ二本ニホン

 

 

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弐番

かぬ乾魚ひものハンめし
なまじ生命いのちのあるうち
こられないさむさの焚火たきび
けぶはずだよ 生木なまきいぶ
しぶかほして功名コウミョウばなし
粋とふのは梅干うめぼひと

 

 

▽リンク/『雪の進軍』八甲田山死の彷徨より。明治三十五年一月。日本陸軍第八師団 歩兵第五連隊が、青森市から八甲田山で遭難した、実際にあった遭難事件を映画化した。

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参番

のみのまゝ氣樂ラク臥所ふしど
背嚢ハイノウまくら外套ガイトウかぶりや
せなぬくみでゆきけかゝる
夜具ヤグ黍殻きびがらシッポリれて
むすびかねたる露營ロエイゆめ
つきつめたくかほのぞきこむ

 

 

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肆番

いのちさゝげててきたゆゑ
ぬる覺悟カクゴ突喊トッカンすれど
武運ブウンつたなにせねば
義理ギリからめた恤兵ジュッペイ眞緜まわた
そろりそろりとくびめかゝる
どうせかしてかへさぬもり

 

 

<用語解説>

『突喊(とっかん)=突撃号令に、兵士は大声を上げ応える』

『恤兵真綿(じゅっぺいまわた)=綿入れの防寒具、慰問品』

 

▷歌の作者は、永井 建子(ながい けんし)慶応元年九月八日~昭和十五年、広島市佐伯区五日市町生まれ。陸軍一等軍楽長。日清戦争時、永井建子は大山巌大将率いる第二軍司令部附軍楽隊の軍楽次長だった。山東半島の駐屯地での苛酷経験を唄にしました。

 

日清戦争がようやく終結。日本帝国陸軍が、新たなる北の「露帝国」を仮想敵とした時代。唄の歌詞をよく聴けば、巧みな厭戦歌となっていることが判ります。描いている情景は最前線の極寒の地で、疲弊した兵士達のやるせない心情が漂っています。

 

▷曲は明治二十八年の二月頃に作曲されたらしい。その曲調は、軽快な「ヨナ抜き音階(五音音階)」で、日本人に馴染みやすく配慮されています。第二軍 司令官であった陸軍大将 大山巌はこの歌をいたく気に入り、死ぬ間際まで繰り返し何度も、愛聴していたと伝えられています。

ガルパンもいいぞ!


www.youtube.com

 

(歌詞/明治四十四年『軍歌傑作集』より転載、1100文字、thank you for reading.)

聖徳太子没後1400年。法隆寺ほど謎を秘めた寺院はないからね『隠された十字架』推奨本【文藝作品⑩】

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皆さんにお勧めしたい本「隠された十字架」 梅原猛

 

かなり古い本(初版 昭和五十六年)なのですが。ワタシは若い頃、広告代理店にいた。昼休みに先輩とふと古代歴史の話になり、そんな流れから「この本を読む事を薦められた」のです…ん、どういう意味なんだろ?

そんな単純な経緯で、新潮文庫版を買ってはみたものの、その「執拗な描写と学者文体」になんだか恐れをなし、狼狽え、中途でパタンと本を閉じて書架封印してしまった。そんな過去がありました。

「あぁ、若かったねェ、あの頃は…」

その後、随分たってからふと思い出して、ゆっくりと読みすすめていった。

「恐れる必要など、何も無かったのだ」

これは怨霊信仰の「法隆寺論」でしかない。そして「よく出来た小説」なのでした。作者は高名な哲学者ですが、日本史からのアプローチにより日本人の精神の在り方を探ろうとした、初期の頃の野心作なのです。

▷参考動画/『斑鳩の空』映像作家の保山耕一さんが、法起寺を素晴らしい切り取り方をしています。まさにこれは斑鳩の空だ。

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(※法起寺由来『聖徳太子伝私記』推古三十年622年2月22日、聖徳太子は臨終前に山背大兄王を呼び寄せ、岡本宮を改め寺院とすることを遺命する。現存する日本最古の三重塔は、慶雲三年(706年)に完成しました。茜に染まる塔頭は、とても絵になります)

 

春宵一刻値千金「知的冒険の書」なのですよ! 

 

内容はネタバレになるのであまり詳しく書けませんが、著者梅原さんが伝えたかった核心とは、いったい何だったのか?

古代日本人は、罪無く殺害された前権力者達が怨霊化し、病気や天災飢饉を起こすのは『祟り神』の仕業と考えていた。時の権力者(特に身に覚えのある藤原一族)たちはそのことをひどく恐れ、何とかその祟りから逃れようとする。飛鳥時代の「最新の哲学であり科学」でもあった「仏教」の力を使って、太子の怨霊封じを執り行った。

そしてこの法隆寺こそ『聖徳太子一族の怨霊』を封じるための巨大装置なのである!といったところが、本書のキモとなります。さらに当時、執り行った「恐怖呪術」とはいったいなんであったか…やんわりと怖いね。

その一連の考察過程において、作者は「私はこの原稿を書きながら、恐ろしい気がする。人間というものが、恐ろしいのである。(文庫版 本文464P)」と述べています。何と人間がおとろしいとは…作者は法隆寺聖徳太子にまつわる「歴史謎解きのテイ」をとりながら、その反射作用で我々日本人の奥底に睡る「闇の精神」を炙りだそうとしたのではないか?そう想われますね。読み手にグイグイ迫ってくるものがある。

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さすが切り口が哲学者です。考古学者でない論考は、新鮮でとても面白かった。この文庫本を何度も読み返し手垢もつき、かなり薄汚れてしまいました。いまでも、ずっと書架のセンポジ位置に存在しています。

そして、過去の一時期、何度も明日香や斑鳩法隆寺へ旅していたことがあり、その時に何時も鞄の中にあった、良き相棒なんです。それで本がボロボロとなってしまった経緯があります。この本には、旅の色々な想い出まで染み付いています。

 

~著書紹介~

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

 

 

<アマゾン読者レビューより> 

『とんでもない本とされていますが、読んでみるととても良い本でした。この本に書かれていることは真実なのではないかと感じました。法隆寺の謎から推理していき、順を追って考えを進めていく本書の進め方は、読み手を納得させます。(中略)日本書紀は梅原氏が主張しているように、藤原不比等のでっち上げであり、天照大神天皇の権威付けのために作られたお話であり、菅原道真に代表されるような日本の神社の全てではないにしろ、その根源には怨霊に対する恐怖とそれを鎮め、封じ込める呪詛的要素をもった、お墓であると結論付けされます。この本を、とんでも本と馬鹿にする前に、よく読んでご自身で結論付けされるとよいと思いました。日本人は二千年間、現在に至るまで騙されていると思いました』

 

<梅原猛 略歴> (1925年3月20日~2019年1月12日没)

青年期には「西田幾多郎田辺元ら京都学派の哲学」に強く惹かれ、1945年京都帝国大学 文学部哲学科に入学。進学直後徴兵され、敗戦後九月に復学を果す。

最初の論文「闇のパトス」は哲学論文の体裁をとらず不評。二十歳代後半、強い虚無感に襲われ破滅的な日々を送る。ハイデッガーの虚無思想を乗り越えるべく「笑い」の研究を目指す。自己の暗さを分析して「闇のパトス」を書き、その一方で人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指す。寄席に通い渋谷天外藤山寛美大村崑などを研究対象として論文を書いた。

三十代後半から日本の古典美学への関心を強め「壬生忠岑『和歌体十種』について」という論文を書く。その後は神道・仏教を研究の中心に置き、多くの著作物を記した。『隠された十字架』での論証、考察は多くの学者を驚かせた。

1972年に「第26回毎日出版文化賞」を受賞。西洋哲学の研究から出発したが、“西田幾多郎を越えるという目標”を掲げ「人間中心主義への批判」を唱える。西洋哲学者信奉者が多い日本の哲学界で、異色の存在である。

 

聖徳太子没後1400年~ 

 

例えば「隠された十字架」をたずさえ、奈良法隆寺を訪れてみてはどうでしょうか?そう、春秋の夢殿ご開帳の日が良い!そして観光客が引けた夕刻。ベンチにでも座って茜に染った五重塔を眺めれば…きっと「アナタの心に響く何か」がきっとあると思いますよ!ゴ~ン♪

 

『見上ぐれば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 

▷おまけ/美しい法隆寺の観光案内です。日本人の琴線にふれる色んな意味で、素晴らしいお寺なのです。それにしても…拝観料、高すぎるダロ!

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聖徳宗総本山 法隆寺 / 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内。

○電話0745-75-2555

○拝観料/一般1,500円、小学生750円

○交通/JR法隆寺駅から徒歩15分。奈良交通バス「法隆寺前」8分。

○2021年の3~4月に予定されていた「聖徳太子1400年御遠忌」は、新型コロナウイルス感染状況から延期されました。

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(2700文字、Thank you for reading.Journey to ancient times!)

古くて新しい謎に充ちた物語、芥川龍之介の小説『妙な話』について考えてみる【文藝作品⑨】

芥川龍之介は沢山の短篇小説を遺しています。文章の洒脱さはもとより、サクッと読めてなお読み手の心に響く話なんですね。そのひとつ『妙な話』の秘密を少し探ってみました。

芥川龍之介『妙な話』のツボは“謎の赤帽”の正体

 

まずは『妙な話』あらすじ 

 

主人公の「私」は、旧友である村上から“妙な話”を打ち明けられた。彼の妹で海軍将校の妻である千枝子が、夫の欧州出征中に神経衰弱(ノイローゼ)になっていたと云う。中央停車場※1でのこと、赤帽※2に突然声を掛けられた千枝子。その“謎の赤帽”が、戦地へ赴いている彼女の夫のことを、いきなり尋ねるのです「旦那様はお変りもございませんか」と。

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中央停車場の様子 大正三年頃

赤帽が夫の消息を訊ねているのに、千枝子は「最近手紙が来ないの」と答える。するとその赤帽は「旦那のようすを見てきましょう」というのです。さらにその後、再び彼女の前に現れた“謎の赤帽”は、夫が戦地で手を負傷したこと、そして間もなく帰国することまで告げるのだった。後日談として帰国した夫自身もまた、欧州マルセイユで「日本人の赤帽に出逢った」というのですが。果たしてこれは、何を意味しているのか?

(※1 現東京駅。各鉄道別だったターミナル駅の中間位置を選び「中央停車場」を構想、大正3年12月20日に駅開業を果した)

(※2 鉄道駅構内などで、旅客の荷物等を構内から車等に運ぶ職業。ポーター)

 

作品発表された頃の時代性を考える

 

大正時代には「第一次世界大戦」が勃発。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島サラエボで、1914年6月28日にオーストリアハンガリー帝国の皇太子と妻がセルビア青年に暗殺された。そこから同盟国側ドイツ・オーストリア・イタリアと、連合国側イギリス・フランス・ロシアと、欧州を二分して繰り広げられた大戦争だった。

日本はイギリスと「日英同盟」を結んでいた関係で、連合国側の一員として参戦(大正三年)、地中海にも「第二特務艦隊」を派遣した。なので作中に「A_※」とあるのは、日本の地中海派遣の駆逐艦の何れかである。芥川は海軍機関学校の教官(英語担当)として教鞭を執った経験もあるが「反戦的な作品傾向」にある。当時の陸軍の横暴な様子を「小児のようだ」と自著で酷評したと云う。

(※この当時は軍が著作物検閲をするのが常態だった。検閲によって訂正・加筆・削除された作品が多数存在する。作中の「A_」は、旗艦 明石のことか?)

 

ミステリーや怪奇譚とも少し違う、アダルトなお話

 

芥川作品には妖(あやかし)、物の怪(もののけ)などの「怪奇譚」が沢山あります。不条理な出来事はすべて“奴等のせい”にすれば、話は簡単なのですが…これは明らかに、違いますね。時代を踏まえた「現実世界を見事に投写した物語」だと思いました。

▽ではでは、まずは『妙な話』を読んで下さい。

 

軽く感想文ですよ、以下ネタバレ含みます

 

この『妙な話』は少しずつ少しずつ話にバイアスをかけていき、「同化から異化」させるベーシックな物語手法を採っています。不倫を犯す※1彼女の罪悪感がそういう幻想を見せたのか?しかし帰国した夫自身もまた、パリで日本人の“赤帽”に出逢ったというのですが、いったいこれは何故なのか?

夫も云う「おれはどうしてもその赤帽の顔が、はっきり思い出せないんだ。ただ窓越しに顔を見た瞬間、あいつだなと」…はてさて“あいつ”とは一体、誰なんだ?芥川は、書き進めながら「ほら貴方にも、こんな経験するやも知れませんよ」と、嗤っている。

(※1 この時代は、まだ姦通罪があったのです。1947年に廃止された)

 

ワタシはこう思ったのだが、解釈はひとそれぞれに

 

ワタシの解釈としては「赤帽」は、それぞれ潜在意識下の「私」なのです。嘘偽りのない「赤心のココロ」、それが見えなくなっているのです。

さらに穿った見方をすれば「憲兵※2の赤い帽子(特色ライン)」を暗喩するのかもしれない。「あの怪しい赤帽(憲兵)が、絶えずこちらの身のまわりを監視していそうな心もちがする」これならば千枝子が軽いノイローゼになってしまう現実的な意味も理解出来ますね。

淡々と語られる、どこかぼんやりとした「夫想いの妻君の夢想エピソード」と思わせておいて、展開ラスト四行でアイロニーな結末を用意した芥川は、やはり見事なストーリーテラーですね。

(大正九年十二月 作品発表)

(※2 憲兵陸軍大臣の指揮下にある軍事警察。しかし海軍には独自の憲兵はなく、海軍大臣は海軍の警察案件には憲兵隊を直接指揮できるとしたが、海軍将兵憲兵嫌いは有名だった)

▽活字が苦手な方には、朗読版でどうぞ。

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妙な話

妙な話

 

 

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若き日の龍之介
芥川 龍之介

(あくたがわ りゅうのすけ、明治二十五年~昭和二年七月二十四日没)

本名も同じ、大正を代表する大作家。精神疾患から睡眠薬自殺した。その動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」の言葉はあまりにも有名。辞世の句が「水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」でした。 代表作品『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』『河童』など。文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した「芥川賞」を設けた。これが新人小説家の登竜門となる。

○参考動画/生前の芥川龍之介の姿です。

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(2200文字、thank you for reading.)

何度観ても、感動する映画『幸福の黄色いハンカチ』と『男はつらいよ』寅さんとの親和性。(1977年封切り作品)【大好きな映画⑦】

 

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やはり映画館で観ると感動が違います!

超名作『幸福の黄色いハンカチ』この映画は、北の大地を舞台に網走刑務所帰りの中年男と、たまたま出逢った若い男女二人が繰り広げる「ハートフル ロードムービー」です。(昭和五十二年十月一日に劇場公開)

恋愛に臆病になり過ぎた若者にこそ、見て欲しい作品です!

ニャンとですね、本作は国内の映画賞を総ナメにしてしまう快挙を成し遂げた、山田洋次監督の代表作です。毎年恒例、二本撮りが続く寅さん映画の合間に、サクッと撮ったとはとても思えないほどの出来栄え!俗にいう脂が乗ってる!状態とは、このことでしょう。

(※第一回日本アカデミー賞、第51回キネマ旬報賞、第32回毎日映画コンクール、第20回ブルーリボン賞、第二回報知映画賞など…国内映画賞を総ナメにした!)

ちなみにですが、同年の「男はつらいよシリーズ」では、'77年の夏に、第十九作『男はつらいよ 寅次郎と殿様』が封切られた。この作品には、鞍馬天狗こと「嵐寛寿郎」が大洲の殿様役で出演していた。あと、執事役の三木のり平がほんとイイ味だしてました。

▽19作目『男はつらいよ 寅次郎と殿様』劇場予告編。マドンナが真野響子だった。寅さんの恋愛は、少しおとなしくなってしまったね。

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そして続く年末の作品は、第二十作目記念作品となる『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』この作品には、当時の青春スター「中村雅俊大竹しのぶ」が登場しました。二人とも、とても若い!

▽20作目『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』劇場予告編。なんだかタイトルが頑張れてない気がするなぁ、なんでかなぁ(笑)

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盆暮れ二作品、どちらもクオリティ保った、とても面白い作品でした。さらに本作『幸福の黄色いハンカチ』が十月の封切りとなり、二作品の谷間にはさまる形で封切られたのですから、きっと殺人的な撮影スケジュールだったろうと、思えますね!山田組スタッフは、てんてこ舞い?

幸福の黄色いハンカチの原作は、ピート・ハミル作「黄色いリボン※1」をベースに、シナリオを改変し映画化した。でもその制作過程は簡単ではなかった。

 

~映画化に際しての逸話~

 

原作者ピートさんに、映画化の許可を求めた。するとどうやら彼は日本嫌いだったらしくて、国内限定の公開条件ならOKすると、やんわりと意地悪された。

その後、日本国内で大成功収めた本作を、海外でも公開したい意向の松竹は困った。それでは「ピートさんに観てもらいましょう」とフィルム※2抱え、山田監督は遥々アメリカまで乗り込んだらしいのです。

その結果「Beautiful✨」と、高評価を得たのでした!

(※1 初出1971年『ニューヨーク・ポスト』紙連載、ピート・ハミル『Going Home』が原作)

(※2 日本語版なので、英字訳はされてなかった。言葉が判らなくても通じたわけですね)

 

賛否両論あった黄色いハンカチ映画ポスター

 

賛否両論あった映画ポスターの話。いわく「オチを映画ポスターにするなんてっ!」とかなんとかもめた。でもそれは、多分違うだろう。

映画は、オチのためにあるのではない!

幸せの黄色の旗。これは、山田監督が掲げたZ旗(例えが古い)ナノだ。斜陽産業と言われ始めた映画界に喝を入れるべくですね「はい、手の内は明かしましたよ、オープンリーチ!でもね感動で泣かします、そして笑わせますからね。さぁさぁ、お立会い。映画館にいらっしゃ~い」とポスターで、猛然アッピールしているのですよね。私はそう思いますよ。

ド~ド~ン!『胸いっぱいに、愛がよみがえる』

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賛否両論あった映画ポスター

~キャスト~

島 勇作 高倉 健
島 光枝 倍賞 千恵子

花田 欽也 武田 鉄矢
小川 朱実 桃井 かおり

脇を固めるのは、渥美清太宰久雄三崎千恵子たこ八郎、小野泰次郎、谷よしの岡本茉利、赤塚真人。お馴染み寅さんファミリー陣が、ガッチリ全バックアップしています!

このあと、武田鉄矢は『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』(1978年8月公開)に田舎の青年役として、桃井かおりは『男はつらいよ 翔んでる寅次郎』(1979年8月)にマドンナ役として、それぞれ出演を果たしました。

▷【追悼】武田鉄矢が、高倉健を語ってます。⇒https://youtu.be/jr7eCYkbkuc

 

語り継がれる食事シーンはレジェンド

 

伝説的なシーンがある。主人公の島勇作が網走刑務所を出所して、はじめてシャバ飯を喰うシーン!この撮影のために、健さんは「二日間の絶食」までしたそうですよ。なんだか演技に、鬼気迫るものがありました。

笑いあり涙あり、勇作の念願である「幸せの黄色のハンカチ」に向かって一気に集約されていくストーリーは、観る者をまったく離さない。なので迂闊にトイレにも行けない!

そして、ようやく、辿り着くラストシーンでは、誰もが感動するのですね。間違いなく、涙することになります。

 

~あらすじ&感想など~

 

恋人の伸子に失恋した花田 欽也(武田 鉄矢)は、勤めていた工場を突然退職する。そして退職金で真っ赤な「ファミリア」を購入した。失恋の傷を癒すために、東京からフェリーで北海道 釧路港へと旅立った。

あざやかな北海道の緑の原野を、赤い車は爽快な音楽に合わせ北の大地をひた走る。網走駅前でひとり旅の朱実(桃井 かおり)と知り合う。朱実は国鉄特急列車でワゴン販売していたが、恋人を同僚に寝盗られてしまい、東京からひとりで傷心旅行へと来ていたのでした。

▽劇中歌として流れるのは、イルカの『なごり雪』。武田鉄矢が山田監督に「若い人の流行りの歌は、何?」と聞かれ、この曲を推したらしい。

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一方、網走刑務所の刑期を終えた島 勇作(高倉健)が出所する。街の食堂にたち寄り、ビールとラーメンとカツ丼を注文。食事を済ませ、郵便局にたち寄った勇作は、ハガキを一枚書いてポストへ投函する。

一方、欽也は網走駅前で朱実をナンパし、島と同じ駅前食堂で食事している。そして欽也の車へ誘い網走海岸で記念撮影。そこでツーショット撮影を頼んだのが、島勇作だった。

このくだりでは、欽也の異様なまでのハイテンションが、とにかくおかしい。人物描写を早いとこ描きわけようとする演出なのでしょうか。

そんなふとしたきっかけで、不思議な三人旅がはじまった。欽也が勇作に旅先を尋ねると、彼はしばらく考えてから「夕張」とだけ、ポツリと答える。その夜、阿寒湖温泉の宿屋へ辿りつく。

▽『幸せの黄色いハンカチ』劇場予告編。でっかいどう北海道、どこまでも伸びる直線道路にほんと憧れた!でも実際走ってみると、少々ウンザリする、笑。

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まんまと朱美と同室(ありえないミラクル展開)になった欽也は、勇作が眠ったのを見定め、朱実の寝床に忍び込み「キスだけでよかねぇ」とメチャメチャ気持ち悪く迫った。

ひぇぇコレはたまりません!お笑いのシーンだけど、いまならR18指定か?朱実は欽也に必死にあがらい、ついには大声で泣き出した。その不審な声に目覚めた勇作が、チャラ男欽也を一喝した!

翌日、陸別駅前の食堂で蟹を食べながら雑談する。勇作と欽也が福岡県の同郷出身と判明、お互いの距離間が一気に縮まった。欽也はこの時、蟹をガツガツと沢山食べたことから、腹をこわしてしまう。

急いでトイレに駆け込んだ欽也に代わって「これでも仮免まで行ったの」という朱美がハンドルを握った。ところが朱美は車を脱輪させさらに農地を暴走し始め、干し草に車を突っ込みようやく止まった。

ようやく戻ってきた欽也は朱美の失態を激しくののしり、朱美はまたも泣き出してしまった。その日は勇作が交渉して、その農家に泊まることになる。

 

小さな逸話シーンが面白い。落語噺のよう 

 

武田鉄矢にとって本作が初演作品だった。なので、色々と演技に悩んだらしい。オーバーに笑いをとろうとする武田鉄矢に、ダメだしを何度も繰り返す山田監督。「うんこ漏れそうな男(笑)をリアルに演じろっ!」と謎の要求をされ、もうワケが分からなくなったらしい。この時隣で健さんも、呆れて笑っていたはずだ。

▽20回以上もリテイク繰り返したといわれる、迷シーンがコレです!確かに武田鉄矢は、何やらあざとい演技していますよね。

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「おまえ、それでも九州の人間かっ!」その夜、勇作は欽也の朱美に対する不埒な態度を、またもや叱りとばした!九州男児のあるべき姿を熱く語る勇作だが、ちゃんとオチをつける「おまえみたいな男を草野球のキャッチャーという・・ミットもないっちゅうこったい!」笑

武田鉄矢は、本作がシナリオ順での「順撮り」で行われたと語っている。そして「アドリブがひとつもない(いや、あるだろ)」し、「どのシーンも、10から20テイクは撮っている(?)」というのだ。何気ないワンカットにも映画人のプライド、とんでもない熱量が、ぶち込まれて撮影されているのですね。

▽新旧の九州男児対決!このメッセージを当時の若者はどう聴いたのだろうか?ちなみに健さん福岡県中間市生まれ。武田鉄矢は福岡県博多市出身。故郷がけっこう近いのだ。

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帯広の駐車場では、欽也が邪魔な外車を無人と思い込み蹴り飛ばした。すると車内で寝ていた「チンピラヤクザ(たこ八郎、懐かしい)」にタコ殴りされる。

これに勇作が猛反撃して、ようやく災難を逃れたのだがこの後、そのまま勇作が車を運転していったことで、物語は大きく展開していく。

▽見事なパンチだった、たこ八郎。実は元プロボクサーなのである。

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大雪山が見える狩勝峠では、強盗犯人が逃亡したらしく一斉検問が行なわれていた。勇作が無免許運転であったことが判明する。警官が不審に思い、さらに職質すると「一昨日刑期を終え、網走刑務所を出所しました・・」彼は、正直に答えた。これに驚く欽也と朱美。

 

富良野署で登場する警察官、渥美清に注目

 

パトカーで連行されることになるが、勇作の六年前の傷害事件のことを知る「渡辺課長(渥美清、髭はやした寅さん)」の粋な取りはからいで、大事とはならなかった。渡辺課長は別れ際、勇作に告げる。

「真面目に生きてりゃ、いいことあるから」と、おまゆう

この富良野署シーンで思わずニヤけてしまうのは、男はつらいよ18作『寅次郎純情詩集』(1976年12月公開)では、寅さんが警察に宿屋での無銭飲食で捕まってしまう。そして地元警察の渡辺課長に良くしてもらうシーンがあったのです。

本編幸福の黄色いハンカチでは、いわばアイロニーとして、こんどは渥美清が「渡辺課長」役を演じているのです。このこと知っていたらヤッパリ笑うよね。(男はつらいよ18作、寅次郎純情詩集)

 

富良野署から無事解放され、走る車の中で勇作が、ばつ悪そうに重い口を開いた。そして、自分の過去をポツリ、ポツリと語り出す。

勇作は若い頃には北九州に住んでいたが、三十歳を過ぎて夕張炭抗で働らき始めた。夕張の生協マーケットで働いていた、光枝(倍賞千恵子)が「奥さん病気なの?」と勇作に声をかけ、知り合うきっかけができる。

そしてしばらく後に結婚した。

ある日「妊娠したかもしれない」と言う光枝に、勇作はその結果をいち早く知りたいと言った。光枝は「もし、妊娠していたら、竿の先に黄色いハンカチを揚げておくから」と言う。

仕事帰りに竿の先にはためく「一枚の黄色いハンカチ」を見つけた勇作は、これにはめちゃくちゃ大喜びした!!

メインテーマ、ドーン!幸福の黄色いハンカチ

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これが夕張の炭鉱住宅(出典、夕張ミュージアム)

それからしばらく幸せな日々が続くが、光枝はせっかく出来た赤ちゃんを流産してしまった。その夜。勇作は飲み屋街で酔っぱらったチンピラに、因縁をつけられる。昼のことでむしゃくしゃしていた勇作は、逆上し相手をボコボコに殴ると、相手は死んでしまった。

網走刑務所へ面会に訪れた光枝に、勇作がいう。

勇作「いまならお前はまだ若いし、その気なら良い男もいるかも知れん、幸せになれ」

光枝「あんたって、勝手な人だね。会った時もそうだったけど」と、泣いてしまう。

やがて刑務所には、判を押した離婚届が届いた。勇作はその後、六年間を刑務所で過すが、やはり光枝の面影は勇作の心からずっと離れなかった。やがて出所した勇作は、勇気をだして一通のハガキを書いた。

葉書文面『俺はお前が良い男と再婚して、幸せになっていることを望んでいる。この手紙がつく頃、俺は夕張に行くが、もしもお前がいまでも独りで暮しているなら、庭先の鯉のぼりの竿の先に黄色いハンカチをつけておいてくれ。そのハンカチを見たら俺は家に帰る。でもハンカチがなかったら、俺はそのまま夕張を去っていく』・・なんて切ない手紙だろうか。

勇作のそんな身の上話を聞いた朱実と欽也は、声をふるわせて泣いた。赤い車は「赤平」から「歌志内」へ、「砂川」を過ぎ一直線に「夕張」へと向かう。勇作と朱実と欽也、三人の祈りを乗せて、車は夕張の町にドンドン近づいてゆく。物語はいよいよ核心へ。

(※有名な砂川市直線道路)

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夕張炭鉱付近の地理。緑ピンが思い出広場

しかし、その「残酷な現実」を思い知らされるのが、怖くて怖くて仕方ない勇作は「やっぱり、引返そう・・」と言い出した。「どう考えたって、あいつが独りでいるはずがない」と「誰かと、一緒になっているよ」と、どんどん気弱になってゆく。

この心の振れ方には、観る者の胸がキューとなる。そして、車は一度は引き返すが、朱美が「ねぇ、万一ということがあるでしょ、万一待っていたらどうするのぉ、勇さん?!」という説得に思い直し、再び夕張へ車は向かう。この流れ一見不要なシーンに思えるが、ウロウロする車の轍の跡が勇作の心の振れ方として、シンクロする大事な場面。

 

いよいよドラマの核心へと迫る

 

車は夕張の町へと入った。鉄道橋(夕張鉄道?)を越え踏切を渡り、車は大きくカーブを描き炭鉱住宅へ続く坂道を、登っていった。

もう、とても車外を見ていられない勇作に、朱美が見える風景を逐一しらせだす。「その先左に曲がると、風呂屋がある・・」勇作は俯いて自分の家への道順を説明する。欽也は「もしかしたら引越してしまっているかもしれないな、うん」と、万が一のことを考え、保険をかけ始める。ドキドキドキ・・

いよいよ、感動のラストシーンとなる。

あれれ?今頃気づいたけど、桃井さんもしかしてノーブラじゃないの?ぅわ😆笑

するとその時、欽也と朱実の眼に映ったものがあった。それは炭鉱住宅の奥側庭先にとても高い旗竿あり、上から下まで一面に翻る黄色いハンカチだった!

ロングショットでドーン!!

このラストカット逸話、キメの大事なシーン。武田鉄矢が黄色い旗を見つめサメザメ泣くことが、上手く出来なかったらしい。そこで山田監督は、自身の想いを込めて直接指導しました。

山田監督『川崎で肉体労働をしている兄ちゃんが、風俗に行って遊んだ女の感想を友達と話して別れる。そして下宿への帰り道、街頭もない真っ暗な道をとぼとぼ歩きながらつぶやくんだ・・「あんなのは愛じゃねぇよ!俺はこんな人間だけど、いつか本当の愛をさ」と涙をこぼす。実は真面目な愛を探していた。それが、あの旗さ!!』と、武田に語った。それを聞いた武田はもう涙腺崩壊!そして、本番となった。

すると横にいた高倉健も、小さい声で「いい演出をするなぁ」と、頷いていたらしい。ほんとすごいよねぇ・・山田組ってさ、現場で魔法をかけるんだよ。この映画は素人役者、武田鉄矢の成長物語でもあったのですね!

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六年の歳月は決して二人を引き離すことはできなかった

万感胸に迫る想いを秘めながら、この物語は、終わる。

 

あとがき的な何か。ふと、想ったのだけど。

 

男二人に女ひとり三人組が北海道を旅する話、といえば『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(1975年8月の公開)をすぐ想い出した。この作品も北海道へと旅立った寅さんが、何か具合の悪そうな失踪男 兵頭と出会い、さらに古馴染みの歌姫 リリーとも再逢を果たす。

そして妙ちきりんな三人旅が始まる。途中下車して蟹を食べたり、大通り公園で万年筆の啖呵売や、駅舎ベンチでゴロ寝とか、馬車に同乗してのんびり移動したり、そんな楽しいロードムービーだった。面白い映画だった。

▽第15作『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』予告編。北海道の農地を馬車に乗り愉しそうに移動する三人組が、良かったなぁー。

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そして本作「幸福の黄色いハンカチ」には、「男はつらいよ」のイマージュをたくさん感じて、まるでスピンアウト作品のように想った。もちろん同じ監督なんだから、似てしまうのは当たり前なのかもしれない。

それで、またも想う。

例えば、シリーズ物へのテコ入れとして、往年の大スターをフィーチャーするのは映画会社がよくやる手口だし「高倉健浅丘ルリ子、そして渥美清」と大看板が並べば、大ヒットは間違いないからね。

これは、もしかしたら最初は「幸福の黄色いハンカチは、男はつらいよのアニバーサリー的シナリオ」だったのではないか?でも、そのこと調べてみたが、よく分からない。

ならば、何らかの事情でこの共演が出来なくなり(松竹VS東映問題とか、大人の事情で)まずは別稿として『寅次郎相合い傘』が誕生して、さらに数年後にようやく『幸福の黄色いハンカチ』に結実したのではないだろうか?欽也が寅さん、勇作は健さん、朱美が浅丘ルリ子かな?

🤔う~む、『男はつらいよ 幸福の黄色いハンカチ』観てみたかったなぁ~♪

~妄想終わり~

 

 (7100文字、Please enjoy movie!) お題「ゆっくり見たい映画」