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噂の「野口英世の母シカの手紙」を読んでみたら・・・【感動した話】

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磐梯山猪苗代湖の秋


千円札になった偉人「野口英世」は、勿論知っていた。でも、その母親「野口シカ」は、まったく知らなかった。その手紙には感動で、涙が止まらなかった。

野口シカ(1853~1918年)の人生とは…まさに会津の女。

 

野口英世(清作)が一歳半の時、囲炉裏に落ちて大火傷を負ったことを、シカは生涯に渡って悔い続けていた。

 

故に英世の出世を、誰よりも喜んだらしい。

 

シカは云う「息子がどんな勲章を貰ったとしても、自分にはそれがどのような立派なものかはわからないが、息子が向こうで元気でやっているのなら、それで良い」と、息子の出世自慢はしなかったらしい。

 

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猪苗代湖の白鳥


シカさん、四十五歳の頃。

農作業の傍ら副業として、産婆を営むようになった。だが産婆の開業について政府による、新免許制度が創設された。これにより全ての産婆に、免許取得が必要となってしまった。

 

然しながら、シカは満足に文字の読み書きができなかったのだ…。

 

話は子供時代に遡る。

 

江戸幕末期(シカの幼少期)では、学校制度がまだ確立していなかった。また、祖父と両親が相次いで家を出ている。そして身体を壊した祖母がいた。そこで必死に実家を支えんとし、シカは子守などの丁稚奉公に従事をしていたのだ。


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[野口シカ(母)より野口英世(子)宛の手紙、1912年1月23日付]

 

よって教育を受けるチャンス(機会)が、シカには全く無かったのだ。

その後、近所の寺の住職に頼み込んで、いちから読み書きを教えてもらった。あの囲炉裏の炭を指先につけ、必死に文字を練習したともいう。

やがて苦労の末に国家試験に合格。正式な産婆の免許を取得し、生涯にわたって合計二千人近くの子供を、とりあげたらしい。

そのためシカは、近隣の人々から非常に感謝され慕われた。

ようやく息子清作と再会を果たした三年後、スペイン風邪のためシカが死去(1918年)した際には、村始まって以来の盛大な葬儀がとり行われた、と伝わっている。


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手紙の前半部分拡大
 
○は句読点、ひらがなカタカナ、漢字もある。はやくきてくたされと連続するところ、文字が乱れ感情が爆発している。

 

この手紙に感動する。文字に、文章に、朴訥な人柄に、子を想う母の心に、涙。


以下抜き書きを併せて、読んで頂きたい。



手紙原文/

おまイの ○ しせにわ ○ みなたまけました ○ わたく

しもよろこんでをりまする ○ なかた

のかんのんさまに ○ さまにねん ○ よこもりを ○ い

たしました ○ べん京なぼでも ○ きりかない

○ いぼし ○ ほわこまりをりますか ○ おまい

か ○ きたならば ○ もしわけかてきま

しよ ○ はるになるト ○ みなほかいドに

○ いてしまいます ○ わたしも ○ こころ

ぼそくありまする ○ ドかはやく

きてくだされ ○ かねを ○ もろた ○ こトた

れにもきかせません ○ それをきかせるト

みなのまれて ○ しまいます ○ はやくき

てくたされ ○ はやくきてくたされ

はやくきくたされ ○ はやくきて

くたされ ○

いしよのたのみて ○ ありまする

にしさむいてわ ○ おかみひかしさむ

いてわおかみ ○ しております ○ き

たさむいてわおかみおります ○

みなみたむいてわおかんておりま

する ○ ついたちにわしをたちをし

ております ○ ゐ少さまに ○ついた

ちにわおかんてもろております

る○なにおわすれても ○ これわす

れません ○ さしんおみるト ○ いただいております

る ○ はやくきてくたされ ○ いつくるトおせて

くたされ ○ これのへんちちまちてをり

まする ○ ねてもねむられません


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母シカと野口英世


現代文訳/お前の出世には、皆たまげました。わたくしも喜んでをりまする。中田の観音様に、毎年、夜籠りをいたしました。勉強なんぼでも切りがない。烏帽子(烏帽子村から金の催促)には困りをりますが、お前が来たならば、申し訳ができましょう。春になると、みな北海道に行つてしまひます。わたしも、心細くありまする。どうか早く来てくだされ。金を貰うたこと、誰にも聞かせません。それを聞かせると、みな飲まれてしまひます。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。一生の頼みでありまする。西さ向いては拝み、東さ向いては拝みしてをります。北さ向いては拝みをります。南さ向いては拝んでをりまする。一日には、 塩断ちをしてをります。栄昌様(天台宗の修験者)に一日には拝んでもろてをりまする。なにを忘れても、これ忘れません。写真を見ると、戴いてをりまする。早く来てくだされ。いつ来ると教へてくだされ。これの返事待ちてをりまする。寝ても眠られません。


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野口 英世 (明治九年十一月九日~昭和三年五月二十一日)

福島県 耶麻郡 猪苗代町出身。高等小学校を卒業、上京し独学のみで医師となった。後、渡米してロックフェラー医学研究所の研究員となる。黄熱病、梅毒などの研究で知られる。ノーベル賞の候補に三度も名前が挙がったが、黄熱病に罹患し1928年5月21日、ガーナ共和国のアクラで死去(五十一歳)した。

引用元/野口英世資料館 参考/ウキペディア


さあ、田舎に帰ろう。


付記/大阪府のモミジの名所、箕面公園野口英世博士の銅像があります。
大正四年の九月のこと。野口博士はようやくアメリカから帰国出来ました。そして老母シカに親孝行したいと考え一緒に東京、名古屋、伊勢、大阪を旅した。大阪でのこと、箕面の料亭「琴の家」で隣に座る老母シカに、何かと心を砕き孝行した野口英世。その姿に女将が感銘を受け、顕彰したいと考え建立したとのことです。


参考資料/「この愛届きますか」歌 和田アキ子

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