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紀州徳川家「和歌山城の見どころ」2019 決定版!! お城の“お花見と巡り方”を、ジモティがご紹介いたします【観光案内】

白亜三層の大天守がそびえる和歌山城。連立式天守閣という珍しいナワバリのお城なんです。

徳川御三家のひとつとして、紀州徳川家は五十五万五千石を領しました。和歌山城は市街中心部に位置する、標高約五十メートルの虎伏山に建造され、その天守からは眺望よく、和歌山市街を360度ぐるりと見渡すことができます。北を流れる紀の川、西には紀伊水道が望め、その絶景を楽しむことが出来ます。

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堀端から天守閣を望む

お城見学のその前に、知っておきたいこと

 

交通機関と駐車場について

 

和歌山城の最寄り駅は、JR和歌山駅と南海和歌山市駅になります。

南海和歌山市駅からは歩いて10分ほど、JR和歌山駅からはもう少し離れているので、駅前のバス利用をオススメします。

車利用の場合、お城の南側三年坂から入れる城内駐車場があります。ココが一番天守に近く便利ですよ。

 

事前見学の場所としてオススメ

 

大型バス駐車場(和歌山市役所の前)のとなりに、2015年9月オープンした「わかやま歴史館」があります。和歌山城見学のプレ学習に最適ですよ。

二階に上がると和歌山城の歴史と、和歌山出身の著名人についての展示があります。“VRシアタールーム”と“紀州徳川家の金印”がみどころです。

料金 大人100円、小中学生は無料。

時間:9時から17時半まで

📞073-435-1044

 

また同じ館内で観光案内所と観光土産品センターが一階にあり、お土産もの、軽食などを販売しています。ホッと一息いれたい時にどうぞ。

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わかやま歴史館

おもてなし忍者が(どっかに)いる!はず

 

忍者コスプレのボランティアが、登城の手助けをしてくれます。これは「障害者の方にも天守に登ってもらいたい!」てことで始まったらしいです。

忍者を見かけたのは「わかやま歴史館」の芝生の所、天守下の広場でも見かけました。とても良い取り組みだと思いました。

○お申し込み・お問合せ…城プロジェクト(月火休み) 📞073-435-1044

 

ではでは、和歌山城見どころ案内はじめます

お城を時計周りにぐるりとお城の見どころを巡り、最後に天守へ登楼するコースです。まずは和歌山城の表玄関から入りましょう。けやき大通り、公園前交差点に大手門があります。

まずはココから、いちの橋です

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大手門、いちの橋

開花は枝垂れ櫻から始まります

 

この門をくぐった右手には、とても素晴らしい「早咲きの枝垂れ櫻」がある。まだ肌寒い春先に一気に咲き誇る姿は、大手門の形と相まって随分景色がいいですよ。

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さらにすこし先、石垣のうえからは「大楠」が枝を拡げている。樹齢数百年、和歌山城の歴史を見つめて来た御神木、天然記念物だそうです。

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和歌山城は夜も開門しているので、夜桜眺めブラリ散歩するのもいい感じですね。

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お城の持つ幽玄な雰囲気が味わえます。

 

少しへんかな虎伏像は、とらふすやま

 

和歌山城を別名「虎伏山 竹垣城」と言う。

天守ある山容一帯を海から眺めれば「まるで虎が伏しているようだ」と、見立てて名ずけたらしい。それでコンクリート製「虎伏像」が造られここにあります。

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虎伏像は迫力満点!

まさに「南龍公に虎伏城、龍虎並び立つ!」て訳ですね。これは勇ましいなぁ。

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和歌山城桜祭り

この辺りお城の東側エリアが、櫻木も多く屋台も沢山出ていました。ここが一番の桜花見のおすすめスポットですね。

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桜が満開ですよ

お城の石垣の上に登って花を見下ろすと、視界が拡がり独特の高揚感も楽しめます。足元に注意しながら石垣に登ってみましょう。

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ところで、いまや虎伏山どこから観ても、虎には見えないよな?

ここより南に向かうとずいぶん古い門構えが待っています、岡口門です。

 

武骨な顔、岡口門(重文指定)ですよ

 

浅野時代までは、この「岡口門」が大手門でした。戦国時代の気風がある、戦闘的で重々しい構えをしています。いまも往時と変わらぬ姿で保存されています。

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元々はこの門の両脇に櫓が並びたち、後背には桝形に武者だまりが控え、さらに奥には松の丸の高石垣大櫓が遥か上から睨みをきかしていました。

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まるで野武士の面構え岡口門

そして大水堀(最大幅73メートル!)と空堀で挟むカナメの位置に、この岡口門がありました。そう考えてみるとこの場所、如何に重要視されていたのか良く分ります。

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堀幅73メートルもある

浅野期に大名行列ルート変更に伴い、北の一の橋が大手門となりました。

その意味とは「戦の門」から「儀礼の門」に移り変った訳で、時代性を城門が表していると想います。一度、岡口門を出て振り返って観てください。

きっといい写真が撮れますよ。

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岡口門外からの眺め

かつてあった城門のはなしです

 

沢山あった城門と縄張りの話です。

お城玄関の「一の橋大手門」から城内に入ると次には「中御門」がありました。この「中御門」を過ぎ奥に見える表坂の、その徐々に道幅が狭くなりつづら屈曲する石段を登り切った所には「松ノ丸門」がまたあり、その南側には二層の松ノ丸櫓がたち、岡口門と南の丸に睨みをきかしていました。

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つづら折れの表坂

その奥へは緩やかに登り、東西に細長い「松ノ丸」があった。この長さの意味は火縄銃の有効射程で、迫り来る敵を両端から釣瓶打ちに出来たのではと思えます。

さらにその松の丸の終わりに天守本丸への道をふさぐ「本丸いち之門」がありました。籠に乗った殿様もこの急段は籠を降り歩いたといいます。

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和歌山城MAP

この虎口(こぐち)は、ほぼ直角に右に折れ、さらに右へと曲がっている登り階段です。そして続く「中門」という小さな隠し門があった。これにより石垣と城門でぐるり囲まれた桝形構造、これでは三方向から一斉攻撃を受けることになります。

中門の先は東側に「本丸御殿門」北側に「本丸裏門」そして西側に「天守いち之門」がどっしり構えていました。これらの城門全てを閉じると、ここもまた二つ目の桝形空間になります。万一敵が攻め登っても逃げ場はない、連続桝形虎口となるのです。

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本丸郭の縄張図

そして天守曲輪への入口にあたる「天守いち之門」へと続く「天守二の門(楠門)」は、最後に立ち塞がる巨大な要害となりました。

大手から都合七つもの要害をくぐり抜けて、ようやく天守台に辿り着けたのです。縄張り名人と謂われた藤堂高虎の、面目躍如なのではないでしょうか。

和歌山城を攻める武将気分で、天守まで登ると結構面白いと想います。

 

楽しい童話園・水禽園がある南の丸エリア

 

南の丸には動物園(童話園・水禽園)があります。お城のなかに動物園があるのは、全国的にもかなり珍しいものです。お城と動物園とのコラボ、しかも入場無料!

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動物園へとむかう道

ファミリー層にはオススメのエリアです。人気のゾウやキリンはいないけれど、お城巡りの癒しのスポットとなっています。

さらに動物園のすぐ西側には「一般駐車場」があります。城内に駐車場とは何とも無粋で頂けない話だが、車利用者には便利でありがたいですね。

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家族連れで賑わう童話園(動物園)

天守閣への上り口は三つあって「表坂」に「裏坂」と「新裏坂」があります。それぞれ表情が違い面白いのだが、最短で登れるのがここにある新裏坂。

延々と石の階段が続いて…いっきに登るのは、すこしつらいな。やはり表坂か裏坂から、ゆるゆる登るのがオススメですね。

駐車場の入口にあるのが「高石垣」です。

 

お城好きにはたまらない南の丸、高石垣

 

和歌山城がある場所は、基本地盤が岩山であり南西が砂地というあまり築城には向かない場所。この「南の丸」あたりは小高い砂丘だったようで、それで城の南側の堀切は断念したようです。空(水?)堀を巡らし微高地にこの高石垣(23.4m)を築きました。

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南の丸高石垣

和歌山城での一番の高石垣と謂われ、さらに高層矢倉(二層か?)がうえに載っていたそうです。「不明門(あかずもん、と読む。普段は開けることがなかった)」を護るために厳重に守りを固めたらしい。

その訳は万がいちの落城時には、ここ不明門が退き口であったらしいのです。いよいよ事態切迫…不明門より間道つたい南方面(寺町筋)へ逃げのび、海路にて徳川菩提寺の長保寺(別名徳川腹切り寺)まで、タッタッタッと走る殿様!

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岡口門のあたりから三年坂望む

こりゃ「何ともタイヘンですねぇ」でも、そんな事態におちいることは一度もなかった訳ですが。この不明門も長い間、開くことは無かったのでしょう。

また、この前の道路は「三年坂」と呼ばれています。いまはかなり切り通されて広くもなったが、往時はかなりキツい難所だったそうです。

もしこの坂で転んだら何と「三年以内に死ぬ!」そんな謂われもあった場所です。このエリア、城マニアの方必見ですよっ!

 

少し静かな護國神社と刻印石垣に注目

 

このあたりは櫻木多く、シートを拡げてのんびり花見を楽しめる場所。ひと気も少なく穴場ですね。小さな子供が散る花弁を、追いかける姿は微笑ましい。 

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ファミリーで花見が今風かな

気になるのはこのあたりによく見かける刻印のある謎の石。時代によって石垣の積み方も変化しますが、この辺りの石は豊臣・浅野時代に刻印されたものです。

その紋様は約170種類、2,100個以上の石に確認されている。これの意味することとは、いったい何なのか。定紋のある石垣は多くの場合「天下普請(担当部署)」を表しているらしいです。しかしこれは、やはり謎なのです。

次は砂の丸へ続きます。

 

お城の西側、砂の丸・追廻門がある

 

砂の丸とは文字どうり砂丘部を取り込み、周囲を高石垣を築いたのです。この門の外側で乗馬の追いきりをやっていたといいます。

それでこの赤門の名前が「追廻門(おいまわしもん)」と名ずけられた。藩士の武術鍛錬の場所だったのですね。いまはその場所には、国道四十二号線が走っています。

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追廻門を外から眺める

城郭西側防備のためにきつい勾配の高石垣を、巡らしたのと対照的な優雅な赤い高麗門は何か違和感を覚えますが、それはこの場所お城の裏鬼門にあたり、風水的な意味(鬼門封じ?)でのことらしいです。朱塗りなので婚礼門かもしれません。

門の反対側、砂の丸広場には、藩の勘定所が置かれていたそうです。

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赤門、追廻門

砂の丸から鶴の溪へ石段を降りていきますと紅葉溪庭園があります。 

 

紅葉溪庭園・紅松庵でちょっと休憩しますか

 

ここ「紅葉溪庭園」は名前どうりモミジの名所です。晩秋にはとても美しい風景が楽しめますよ。お濠を取り込んだ大名庭園は、かなり珍しいものです。

こちらは是非、秋に訪れてみて下さい。時には蒼く、刻には紅く、静謐(せいひつ)な時間が流れる見事な作庭ですね。

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秋の紅葉溪庭園

また「紅松庵」は数寄屋造りの武家風茶室。昭和四十八年、和歌山市出身の故松下幸之助さんが寄贈してくれたそうです。

紅葉渓(もみじだに)の「紅」と松下氏の「松」から命名されました。

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紀州藩では表千家宗匠が代々茶道頭を務め、歴代の藩主は茶道に造詣が深かったそうです。十代藩主徳川治宝表千家皆伝であったとか。

茶室からの庭園の眺めはとても素晴らしく、ゆったりと茶事を楽しむことができます。

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紅松庵茶室

和服姿の女性が、抹茶を点ててくれます。立礼水屋点てなので、どなたでもお気軽にどうぞ。

○抹茶、菓子付き…460円です。

時間:9:00〜16:30

年中無休(12/29~1/3は休み)

 

殿様気分で御橋廊下を渡ってみる

 

二の丸と西の丸を繋ぐこの「御橋廊下」は、藩主とその側近だけが渡れる“秘密の廊下”として使われました。ですので殿様の姿が見えないように厳重に囲いがされています。この約11度の角度がついている傾斜橋は、かなり珍しいものです。

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入口(東口と西口があり)で、履物を脱ぎます。備え付けのビニ袋に履物を入れ「さぁ、参ろうぞっ!」廊下は傾斜して滑りますよ。

でも大丈夫、廊下には突起細工が等間隔にあります。すると若竹踏み運動の感覚に「あぁ、足が痛いですっ!」日頃の不摂生が、思い知らされた訳なのですね。

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傾斜ある御橋廊下

案外健康に良いのかも知れません 笑。このアクティビティは無料なので記念に、何度も往復してみましょう。

 

二の丸庭園を探ってみると

 

ここ「二の丸」は、初期紀州藩の政庁と、住居のあった場所。東側から、表御殿、中奥、大奥と絢爛豪華な建物群がこの場所に、みっちみちに建っていたらしい。

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この道の左側に二の丸庭園が拡がる

明治初期(廃藩置県)と続く大戦末期(B29無差別爆撃)に、殆ど全ての建築物が喪失してしまう。いま残っていれば間違いなく「国宝級※」なだけに、次々と喪われていったことはホント残念ですね。

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花見の会場にはうって付けですね

在りし日の様相は、想像するしかないのだが探ってみると、わずかながら井戸や建物跡の痕跡があります。つぎに二の丸御殿のお話です。

(※天守が昭和十年(1935)国宝に指定されている)

 

<紀州御殿の数奇な運命>

なかでも「紀州御殿」と呼ばれる巨大な屋敷が、二の丸にありました。

明治十八年、和歌山城二の丸にあった紀州御殿は、大阪城本丸に移築され陸軍の第四師団が紀州御殿を司令部として使用しました。昭和七年、陸軍特別大演習の際に紀州御殿に昭和天皇行幸があり、その翌年に紀州御殿は「天臨閣」と改称された。

昭和二十年八月十四日、大阪大空襲。B29の集中的な爆撃(東側に軍需工場があった)を受けたが、紀州御殿は奇跡的に被害をまぬがれ、大戦を生き抜きました。敗戦後はGHQに接収され、昭和二十二年になんと占領軍の失火により、天臨閣(紀州御殿)が焼亡してしまう…あぁ、何てことっ!

 

<紀州徳川家の大奥とは> 

いまに残る「二の丸大奥 絵図面」を見ますと、大規模な建物群があったようです。この一角は殿様以外は全員が女性。ひしめき合って暮らしていたのです。御局様の部屋がアパート部屋みたく連続していますね。

「きっと、何かと、タイヘンだったろ~なぁ<汗」と、同情してしまいました。でも凄いことだな…大奥があるなんてね。さすが紀州徳川家ですね。

いまは植樹と庭石が置かれ公園化されています。花見客がお弁当食べたり散策するのに良い、市民憩いの広場となっています。

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はい、これでぐるっと一周お城を廻ってきました。次はドローン映像で天守を観てみましょう。和歌山市街が一望出来ます。

Youtube

 

<おまけネタ!>

 

ところで「コビトに見える木の根っこ」テレビなどで何度も取り上げられ、ご存知の方も多いみたいですが、場所が判らずスルーしてしまうらしいです。

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石段を登るコビト?!

その場所は、二の丸庭園から天守閣へむかう裏坂すぐに、管理事務所がある。その右手側、石垣階段途中にあります。

階段下でしゃがみ見上げるように観ると「コビトだっ!」発見! ☺

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裏坂最初はゆるく徐々に急になる

さあ、この裏坂から本丸天守へとむかいましょう。

 

和歌山城にまつわる歴史寄りの話です

歴史好き、お城好きマニアのために解説します。まずは和歌山城の最大特長。三種の石垣積みについて。石垣を見ればそのお城の性質まで見えてきます。つぎにお城の歴史的な話が続きます。

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小高い岩山に天守が乗る
 「野面積み」 

和歌山城初期、豊臣秀長の時代。綺麗な緑色片岩(紀州青石)を巧みに積んだ「野面積み」の石垣が残っています。

この石垣は一見荒々しく雑に見えますが、築き方を間違えれば崩落する訳で、高度な技術が必要ですね。傾斜角も緩やかです。

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山吹溪に連綿と続く野面積み

お城の南側の岡公園にある、天妃山(てんぴさん)から切り出した青石を使用。この岡公園の裏側に池がありますが、石切場の跡に自然水が溜まり池となったと云います。

岩山を切り崩す勢いで、大急ぎで作事が進んだことがうかがえます。

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野面積み、桜と山吹が良く似合う

城内、山吹溪辺りの野面積みが見所です。特に雨上がり後には、石が綺麗な発色をして照りばえがとても美しいですね。

 

「打込みハギ」 

和歌山城中期、浅野幸長の時代。

には加太城ヶ崎、友ヶ島などから和泉砂岩を打ち欠いて加工し、はぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られました。大石の隙間に小さな石を挟みこみ荷重を分散させる技法。これによりさらに高く積上げることが可能になった。

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石垣の微妙な違いが解ります

大手門入ってすぐ右側にある石垣が打込みハギです。しかし、元々地盤の弱いこの場所に高石垣を築くのは相当苦労したと想われますね。

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右手側が打込みハギ、奥あるのが切込みハギ
「切込みハギ」 

和歌山城後期、徳川時代

熊野地方の花崗斑岩を用いて、切石で精密に擦り合わせ積んだ「切込みハギ」の石垣が作られた。面と面をピッタリ隙間無く組合せてある。

主に来城者の目につきやすい箇所などを、この最新式の石垣に築き直した。

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二の丸にある、切り込みハギ

このことは高さより美しさ、より(手間暇=コスト)かけることを意味し、単純に“お金持ちアピール”だったと思えますね。戦乱が治まった後も城石垣に手をいれ続ける、紀州藩ならではの考え方が解ります。

 

城郭規模について。戦国→江戸→明治へと数々の遍歴がある。

 

城郭は戦闘施設から徐々に、都市のシンボルへと変化していく。

和歌山城の城郭規模は、北部を流れる紀の川と東側の和歌川を天然の堀とし、本丸の北側に二の丸(政庁御殿)を置き、その外に大きく三の丸(上級武家屋敷など)があり、土塁と外濠に囲まれていました。

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天守より右螺旋に渦を巻くように計画された、梯郭式平山城でした。

また、和歌山市内の城下町特有の微妙に曲がり入り組んだ道路は、昔の名残を感じることが出来ます。

いま城跡として現存しているのは、徳川時代の最盛期の4分の1ほどの面積でしかなく、お城の南側に拡がっていた下級藩士の屋敷、三の丸にあった壮麗な武家屋敷が、明治以降に一気に喪われてしまうことに。

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江戸時代の雰囲気遺す白壁

 

何度も改修を繰り返した城郭は、各時代の様式を留める。和歌山城の歴史が始まります。

 

秀吉さんが「和歌山」の名ずけ親?!なんかすごい話かも。

 

1585年(天正13年)羽柴秀長紀州攻めの将として参陣。紀州平定後に紀伊・和泉の二ヶ国を加増された。そしてこの地、岡山に目を付けた羽柴秀吉が弟、秀長に築城を命じたのです。

秀吉自ら城域を選定し縄張りを行ったといわれ、普請奉行に藤堂高虎を任じ、約一年で縄張りを完成させた。これが和歌山城の始まりとなります。

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和歌山城いまは何の違和感ないけれど

また、この時期に「和歌山」と地名が改められたらしい。一説によると秀吉が和歌浦の「和歌」と、岡山の「山」を合わせて和歌山と名ずけたらしいのです(文献初見)。

地名は古代に紀(キ)国、そして紀伊国紀州若山。戦国時代よりいまの県名である「和歌山」の名前は始まったのですね。

しかし果たしてどれだけ地元に定着していたのか、疑問は残りますね。和歌山人は「紀州人」であることに誇りを持っていましたから。

 

豊臣から徳川へと時代は急激に推移してゆく。

 

○1586年(天正14年)豊臣秀吉から秀長の家老職を命ぜられ、秀長は桑山重晴に三万石を与え城代とした。重晴は本丸を中心に城の拡張を行う。

○1596年(慶長元年)桑山重晴の隠居により、孫の一晴が城代を継いだ。

○1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で東軍に属した桑山一晴は大和新庄藩に転封となった。

○同年、同じく東軍に属した浅野幸長が三十七万六千石で紀州藩主として入城した。幸長もさらに城と町の拡張を行っている。

○1605年(慶長10年)頃、黒下見板張りの三層天守※が建てられた(異説もあり) 。

(※この黒天守は本丸御殿にあったのではないか?と云う話もあります。標高が本丸の山の方が高いため。)

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山吹に桜が良く似合う

 

戦国時代(浅野期)の和歌山城の意味とは…大阪城との地理的関係にあった。

 

例えば「大坂夏の陣(1615年)前哨戦、樫井の戦い」で、和歌山城の立ち位置が理解できる。

紀伊領主、浅野長晟は国内で一揆の兆候(紀州一揆)があったことから、出陣をしばし見合わせていました。

しかし徳川家康からの矢の催促に応じて、四月二十八日に兵五千を率いて和歌山城を出陣した。まず、浅野先鋒隊が和泉国佐野に着陣する。

その日の夜半に物見が豊臣軍の先方を発見。この時、豊臣軍の兵数を約二万と誤認した浅野方は、劣勢での迎撃に適した樫井まで後退することにした。

そして猛将、亀田高綱が和泉国安松に殿軍として残りました。

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物共、掛かれぇぇ~!!

睨み合う徳川方対豊臣方、前哨戦の始まりっ!

 

豊臣方の先鋒軍「塙直之、岡部則綱」らと、浅野軍殿軍「亀田高綱」の間で戦闘が開始された。亀田は遅滞戦術を巧みに展開し、功を焦る豊臣軍を樫井まで誘導した。

樫井では亀田隊に「浅野知近、上田重安」が参戦、豊臣軍と大激戦となった。塙と岡部は先鋒を争う形で激しく突出したため、後方軍が追いつけず混戦になる。

やがて大坂方の岡部は敗走し、塙直之と淡輪重政は樫井で討死した。この樫井での戦闘後、浅野本体は国境の紀伊国 山口まで一旦撤収する。

紀州一揆勢の蜂起を合図に攻め掛かろうと考えていた大野治房は、先方で戦闘が偶発したことに慌てふためき、樫井へ駆け付けた。

しかし浅野勢は撤退した後だったため、そのまま大坂城に引き返したと謂う。この戦闘結果により大阪方を上手く牽制し、その後も激戦が続く大坂城攻めの展開に、大きく影響を与えたのでした。

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複雑な構成美を魅せる回廊部

紀州南龍公、徳川頼宣さんの登場です!

 

○1619年(元和5年)紀州浅野氏は広島藩(福島氏改易)に加増転封となった。トコロテン人事のように、家康の十男徳川頼宣が五十五万五千石にて紀州入りし、紀州徳川家が誕生しました。頼宣は二代将軍秀忠より銀五千貫を貰い受け、城の改修と城下町の大拡張を計画したという。

○1621年(元和7年)から頼宣は、城の大改修と城下町拡張を始めた。その計画では城下町を取り込んだ巨大な城構えになる予定であったが、余りにも大規模な作事であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられた。しかし、家老安藤直次の弁明で取り敢えず事なきを得る。

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和歌山城下町絵図(安政二年)出典:和歌山市立博物館

この時、唯一の弱点であった南への備えを始めた。堀川を拡張して総構えにしようとしたが、幕府嫌疑※により中止させられてしまったため、中途半端に終わっている。和歌山市南部に「堀止」の地名がいまに残る。ここが城郭総構の南限(計画上)となります。

(※天守閣ある虎伏山から南に1.5kmの地点、なるほど幕府がザワつくのも分る)

 

江戸時代後半は紀州徳川家の天下だった?!

 

野心家で武張った徳川頼宣が将軍の座を虎視眈々と狙っていた、という逸話がある。

その真偽は不明なれど、上記の戦術的な城下町造りや、地元の雑賀衆関ヶ原浪人を好んで雇った。また伊達政宗真田信之との交流など、幕僚が疑義を抱く動きを頼宣はやり続けた。そして由比正雪の事件が起こる。またも幕府に対し人を喰ったような申し開きで切り抜けた。

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冷や飯食いから天下人?!サクセス!

○1716年(享保元年)徳川将軍家が断絶。そして徳川頼宣の孫で八代将軍となる「暴れん坊将軍 吉宗※」が誕生した。以降幕末迄、紀州吉宗系の将軍が続くことになる(15代慶喜だけは水戸徳川から養子入りした)。ここに“始祖 南龍公の願い”が実現したのでした。

(※テレビドラマ「暴れん坊将軍」は、八代将軍 徳川吉宗が貧乏旗本の三男坊「徳田新之助」に姿を変え、江戸町民と交流しながら江戸にはびこる悪を斬る、痛快トンデモ話でした。)

通常、将軍家にランクアップしたなら紀州藩は(廃藩→直轄領)となるハズだが、吉宗はそのママ存続させた。吉宗の「頼宣公リスペクト」だったかもしれません。

 

○参考までに/将軍家(紀州系)の流れ 

1家康-(頼宣-光貞)-8吉宗-9家重-10家治-11家斉-12家慶-13家定-14家茂-15慶喜

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明治時代の和歌山城には受難の歴史があった。

 

明治六年(1873年)明治政府が廃城令を発布。その城跡だった場所には、次々に役所や学校が置かれ、三の丸の堀は埋め立てられ道路になった。残念なことに城郭規模が縮小され、大きく市街地化されていきました。

左図が明治四十三年頃の地図、右が現在(グーグルマップ)です。

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明治時代40年代の和歌山城(今昔マップより)

そして現代の和歌山城天守台には

 

天守から時計回りに多門、天守二之楠門、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと繋がる連立式天守が廻り建つ。

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和歌山城 望遠

回廊部にまで石落とし、鉄砲狭間まで設け「武張った城」であることを遠目にもアッピールしていますね。大天守へと通じる小天守にある玄関は、雅な唐破風の御殿入口で、案外写真映えがします。

興味深いのは、不等辺四角形の天守台(基壇の面積は2,640)のカタチですね。一層目は方形ではなく上に載る二層目から方形になる。

一層目の屋根や軒先が、上層部と若干ずれる“歪み現象”が観れます。こういった「見えない所まで工夫を凝らす」ところに、和歌山城の心意気が感じられますね。

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繰り返す歓びと哀しみ、これが天下人を育んだ城の意地なのか

 

和歌山城天守は二度の火災に遭ったが、その都度蘇った。

弘化三年、天守に落雷し炎上する。そして嘉永三年、日本で最後となる天守が完成する。黒船来航の三年前のことだった。昭和十年に天守は国宝に指定される。しかし、大戦末期に空襲でまたも灰燼と帰す。

現在ある天守は、戦災後の昭和三十三年(1958)に鉄筋コンクリート再建された三代目で、建造物内部には紀州徳川家ゆかりの品が博物館のように多数展示されています。

紀州人の大きな誇りでもあり、時には嫌悪すべき対象でもあった和歌山城は、いまは静かに佇み時を刻んでいます。

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和歌山城天守

料金:大人410円 小人200円
9:00〜17:30(入館は17:00まで)
年中無休(12/29 - 12/31 は休み)
📞073-422-8979 

 

和歌山城 再建こぼれ話 

和歌山城天守は昭和二十年に焼失し、その後市民の力によって昭和三十三年にコンクリート再建されました。

その和歌山城再建の時には、松下幸之助さんが“最も多額の寄附”をした。市の側でも松下の寄附を期待して「二ノ丸」の復原を依頼しようとしたが「寄付するので天守閣に“ナショナルの看板”を掲げさせてほしい」と和歌山市に打診したという…さすが幸之助はん!

再建六十周年になります。なんでも現状のCR構造の寿命や耐震構造に問題があるとの話、やはり木造での再建を検討すべき時と、想いますね。

 

和歌山城関連のお勧め観光名所として

和歌山市南部地域に、紀州東照宮、不老橋、養翠園、番所庭園などがあります。いずれも紀州徳川家、縁の名所ですよ。

城郭内 近隣施設/三の丸跡には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。

 

参考史料/和歌山市観光協会HP、和歌山市立博物館、和歌山市教育委員会ニュース和歌山、ウキペディア

 

(19/04加筆、10.800文字)