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戦国武将列伝 大和五條に松倉重政という“マカフシギ”な殿様がいました【歴史人物考】

松倉重政は奇妙な戦国大名。奈良 五條新町地区の礎を築いた名君と、称えられるその一方で「島原天草一揆」の原因をつくった“史上最悪の殿様”とも酷評されています。水と油ほど違う評価がある。それは何故なのか?!

松倉重政とはいったい、どんな人物だったのか?

 

元々は、奈良の戦国大名 筒井順慶を支える武将でした 

 

父の松倉重信(右近)は最初、大和の大名 筒井順慶に仕えていた。有名な嶋清興(左近)と並び、筒井氏の両翼「右近 左近」と讃えられた名将でした。

そもそも松倉一族の出自は、越中国新川郡松倉が本貫地。室町時代あたりに、大和の添上郡橋田に移り住んだと伝えられています。

その後、筒井家の傘下に加わり主家を支えた。その順慶の死後、重信の息子「松倉重政」は、筒井氏を離れ浪人(異説あり)となったらしい。

 

徒手空拳のスタート、転機は関ヶ原の戦いから

 

しばらく後、重政は“関ヶ原の戦い“に単身参陣し、軍功(一番首を挙げるなど)により「大和五條 一万石 二見城主」となりました。

一万石とはいえ、一国一城の大名なのです。これは余程、家康に見込まれたのでしょう。たぶん「目端の利く者」として。

関ヶ原合戦以降、五條の西隣りの九度山には、徳川家の「目の上のたんこぶ」とも言える「眞田一族の昌幸、信繁親子」が移り住んでいました。そのための“監視係”として家康から、密命を受けていたのかも知れませんね。

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一国一城の主を夢見て

そして、商業の町「五條新町」の整備や諸役免除など藩政に尽力して、わずかな期間ではありましたが、大和五條を「商業の町」としての礎を見事に築いたのでした。商業に目を付けるあたりやはり重政、只者ではありませぬ。

(※地元五條市では「松倉祭り」も開催されるほどの大人気ぶりなのです。町中に“豊後様”の顕彰碑まで建っています。それでいまでも「名君」と、評価され続けていますよ)

▷大和五條時代の松倉重政についての絵解き動画です。参考にどうぞ。

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武勇伝「大坂の陣」またもや松倉重政が、大活躍した!

 

慶長二十年、大坂夏の陣の前哨戦。“道明寺での戦い”では天下無双の豪傑「後藤又兵衛」と相間見えることになった。

豊臣方の作戦では、国分村の狭隘な地で徳川方を迎撃する予定だった。ところが双方とも、思わぬ場所で会敵することとなる。

深夜、午前二時頃。大和から大坂に向けて徳川方が行軍中、小松山に後藤又兵衛隊の布陣を確認した。この強敵を、各隊が用心しながら包囲し始めた。

先方、奥田忠次隊が小松山に寄せ掛かろうと進む。そこへ後藤隊からの銃撃あり、すぐに槍合わせとなった。この地で忠次は、呆気なく戦死する。

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この後藤又兵衛を討ち取ってみよ!

続いて北面から、松倉重政隊が参戦する。松倉隊は後藤隊の剛の者、平尾久左衛門ら二百名を討ち取る大奮戦を見せた。

しかしやがて松倉隊も押し返され力尽き、伍隊が崩れかかったところ、後詰の水野勝成、堀直寄が急援して危うくこの難を逃れたという。

 

このような“大坂夏の陣”での大活躍により、九州は肥前国「日野江 四万三千石」の大名となった。「石高が四倍増」とは、最大評価された結果ですね。

相次ぐ戦乱を巧みに駆け抜け、順調な出世をかさねてゆく重政。めでたし、めでたし…いやいや、そうは問屋が卸さないっ!

 

九州「島原天草一揆」の本質とは、何だったのか

 

俗説には、脚色や誇張が沢山含まれる。それは教科書にも 

 

歴史教科書に必ず登場する「島原天草一揆」は、よくいう「隠れ切支丹への弾圧」から起ったのでは無く、領主の有り得ない「低レベルな悪政の結果」引き起されました。そしてその領民の多くが、キリシタンだった、という訳です。

昔から小説、映画などで喧伝された「美少年♡天草四郎時貞(本名は益田四郎)、隠れキリシタンを救う!」といったBLイメージは、後に付加されたもの。ましてや、妖術なんか使えませんよ。<笑

 

▷参考1/懐しの角川映画魔界転生』予告編。

深作欣二監督&豪華俳優陣、こんな面白い時代劇が観たいものです!「復讐するは我にあり、エロエムエッサム、エロエムエッサム」ジュリィ~♪何故かエロい細川ガラシャ夫人、イイねぇ~18禁だよ?

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松倉重政は新天地で、何処をどう間違ったのか??

 

さて松倉重政が入国後、検地を行い自領内「石高四万三千石」を、倍近く偽り計上(公称十万石という)。そして民百姓の限界を遥かに超える、年貢を絞り取り始めるのです。やはり何かが、取り憑き始めた。

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この踏み絵に、効力はあったの?!

江戸時代初め頃の年貢は、だいたい「五公五民」でした。それを捏造した“倍の石高”から逆計算すれば、百姓が作る米をほとんど取り上げる結果となります。エロエムエッサム、なんたる悪知恵か。「毒を持つ蛇」よのう。

そして松倉重政は身の丈に合わない「江戸城改築」の普請役を願い出たり「ルソン島遠征(表向きはキリシタン弾圧、実際は密貿易かも?)」を自ら計画し、先遣隊の派遣準備始めたり、また新城「嶋原城」の建設も強行しました。これでは藩財政もたず、無茶苦茶ですね。

(※『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録では、領民反乱の原因を「年貢の取りすぎ」にあると記している。また島原地方は火山地帯特有のシラス台地でやせており、実際の収穫高は表高 四万三千石よりもかなり少なかった。一説には、その半分程度だったという話もある)

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松倉重政

さらに領民弾圧。年貢を納めきれない百姓(家族)には「焼きゴテを押す、指を切り落とす、雲仙の熱湯を浴びせる、火を付けた蓑踊り」など、残酷極まりない数々の拷問処刑を行って行きます。もう基地外です。

これは最悪です!エロエムエッサイムです!この出来事に驚愕した、オランダやポルトガル船長のログ(記録)に残っているほどです。

突如「大和五條の名君が、島原では悪魔となった!」この信じられない程の豹変ぶりは、いったいどうしたことなのでしょうか?

 

松倉氏の居城「嶋原城」から読み解く人物像とは

どこかで読んだ本に「建築物は施主の哲学、考え方をよく表す」と書いてありました。それならば松倉重政の居城「嶋原城」から、何か考察できるのではないか?

 

とても四万三千石どころでは無い、巨大城郭

 

重政は元和四年より、七年もの歳月を費やし「嶋原城下」を築きました。町割は南北十三丁、南面に城下町を作り、北面丘陵に城郭と武家屋敷を配置しました。

本丸と二の丸を連郭し、総掘りと南北にやたら長い三の丸で、とり囲んだ。迷路のように複雑に入りくんだ本丸・二の丸内の構造は、戦国時代に小規模な城郭でよくみかける縄張り、それの拡大巨大版といえます。時代遅れで使い勝手は悪かったはず。

その特徴的なのは、本丸への唯一の橋「廊下橋門」によって、二の丸と繋がっていたこと。この廊下橋を崩し落とせば、本丸は「完全な孤立状態」となる。

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原城郭古図面(江戸後期)

そうなれば確かに寄手は本丸に到達出来ないが「本丸への渡り口、また退き口もない」ということに。通常、闘う城に搦手は必要不可欠なものですが、それが無い。

寡兵で守りただ籠城するには良いが、孤立すればもう「戦う術も無くなる構造」となっている。これはいったい、どうしたことなのか?

 

白亜五層の大天守、でも何故か一階だけに「ナマコ壁」

 

そして城の象徴、本丸には白亜五層の大天守(白壁塗り五階建て独立天守)と、その南面に三重の大櫓(天守レベルの隅櫓)が、三ヶ所そびえ立っていた。破風などの装飾ない珍しい姿、そしてナマコ壁。その姿を南方向、城下町が建ち並ぶ方向にむけて、ドド~ンと威容を見せ付けていたのであります。

きっと嶋原城が完成した際には、この天守最上階より得意満面あたりを睥睨した、松倉重政がいたことでしょう「すげぇ~だろう!ワシの城はっ、ぬは、ぬははは…」と、ドヤ顔で。あ~凄く嫌な感じだな。

 

司馬遼太郎先生は、松倉重政を悪逆非道と観る

あの司馬遼太郎さんが悪し様に「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」また「がんまつである」とバッサリ切っている。

(※がんまつは奈良、葛城地方の方言で“がめつい奴、あつかましい”などの酷く罵る言葉です)

 

司馬遼太郎さんの著作に拠れば…「松倉重政、サイテ~」

 

司馬さんは『日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。重政は自己の利益のためには獰猛なほどの勇猛心を発揮する男であった。重政は島原にあること14年、三代将軍の年の11月に死んだ。その後、勝家が継いだ。この男が、空前絶後といえるほどに領民を搾った。領民として一揆に立ちあがるのが当然であった』というのだ。

そして『重政が豹変するのは、参勤交代で江戸に伺候し家光に謁したとき、なにを手ぬるいことをしておるのか、とはげしく叱責されてからであるという。豹変と大弾圧も保身のためなのである。人智でもって考えられるかぎりの残忍な方法をつぎつぎに案出して人を殺しはじめた』

街道をゆく17島原・天草諸道』より 

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

 

 

結論的には「松倉重政も相当ポンコツだが、跡継ぎの勝家マジ最悪!」創業企業を、二代目 馬鹿息子が見事にぶっつぶ~すの巻

 

司馬氏の上記著作によれば、重政は将軍家光より「なにを手ぬるいことをしておるのかっ!」とはげしく叱責されてから「たちまち態度を豹変」させたという。そして「自己保身のために、領民に大弾圧」を加え始めたといいます。

まさにこれ「木っ端役人根性」ではないかっ!

 

「松倉、大名の器にあらず!」

 

その重政から跡継ぎ、勝家の時代へ。あいかわらず続けられた苛政が「島原天草一揆」を招くこととなる。そして松倉勝家は、天下騒乱を招いた大罪により、切腹ではなく斬首(罪人扱い。江戸時代、大名で唯一だった)された。松倉家は、当然ながら改易となった。

(※この一揆を主導していたのは、元有馬・小西家に仕えた「関ヶ原浪人」や「土着豪族」である天草氏・志岐氏など。単なる百姓一揆とは少し性格が異なる、云わば「江戸時代最大の内乱」だった)

 

五條、島原 観光情報のコーナーです。

 
奈良五條市「二見城址

二見城(陣屋かな?)は、東を流れる吉野川にせり出すような台地の先端に築かれ、北から南へと周囲に堀を巡らしてあった。

現在では本丸・二の丸跡は「妙住寺」となって、境内の西側が一段低くなっているところが堀跡となります。残念ながらそれ以外に、城の遺構らしきものは何も残ってはいないようですね。

○交通アクセス

最寄り駅、JR和歌山線大和二見駅」下車、徒歩10分。車は、西名阪香芝ICから国道165号線。妙住寺の参詣者 駐車場(無料20台程度)あり。

○リンク/五條名物「柿の葉寿司」を賞味あれ⇒柿の葉すし本舗 たなか

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奈良五條市 二見城跡 周辺地図

○リンク/「美しき日本 五条新町」 街道のまち、五条新町では何処かホッコリする、懐かしい“日本の原風景”が広がります。

“Beautiful day by day, the cityscape of Gojo”

YouTube

 

長崎県島原市「嶋原城址」

本丸、二の丸とその石垣群が残る。本丸にある堂々たる五重天守は、層塔型で破風などの装飾がない珍しい姿、でも昭和時代のコンクリート再建天守なのです。内部には、キリシタン資料や藩政時代の郷土資料・民俗資料などを展示しています。

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一階になまこ壁を巡らす変わった姿

※御注意/島原天草一揆で農民が立て篭もり闘ったのは、2018年「世界文化遺産登録」された⇒「原城」の方で、この松倉氏が築いた「嶋原城」ではありません。

○交通アクセス

最寄り駅、島原鉄道「島原駅」下車、徒歩8分。車は、長崎自動車道諫早ICから65分。島原城の西側から天守前まで、車で入ることができる。天守直下に、無料駐車場(約90台程度)あり。便利だが、お城の風情は台無しだな。

○リンク/詳しくは、島原城HPをご覧下さい⇒ 島原城 | 公式ホームページ

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長崎県島原市 島原城 周辺地図

○リンク/こちらは「南島原のドローン映像」です。とても自然美しく、感動できます、「訪れる価値ありの場所」です!“What a wonderful world!”

YouTube

 

参考/新町松倉講HP、島原市観光ビューロー、ウキペディア (5100文字、Thank you for reading.)