minminzemi+81's blog

あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ ノシ

戦国武将列伝 大和五條に松倉重政という“摩訶不思議”な殿様がいました【歴史案件】

松倉重政は奇妙な戦国大名。奈良 五條新町地区の礎を築いた名君と、称えられるその一方で「島原天草一揆」の原因をつくった史上最悪の殿様と酷評されています。天と地ほど違う評価ですね。でもそれは、何故なのか?!

松倉重政とはいったい、どんな人物だった?

戦国大名筒井順慶を支える武将

松倉一族の出自は、越中国新川郡松倉が本貫地。室町時代あたりに、大和の添上郡橋田に移り住んだと伝えられています。

父の松倉重信(右近)は最初、大和の大名 筒井順慶に仕えていた。高名な嶋清興(左近)と並び、筒井氏の両翼「右近 左近」と讃えられた名将でした。

その順慶の死後、重信の息子である「松倉重政」は、筒井氏を離れ浪人(異説あり)となったらしい。

徒手空拳スタート転機は関ヶ原の戦い

しばらく後、重政は「関ヶ原の戦い」に単身参陣し、軍功(一番首を挙げるなど)により「大和五條 一万石 二見城主」となる。

一万石とはいえ一国一城の大名なのです。これは余程家康に見込まれたのでしょう「目端の利く者」として。

関ヶ原合戦以後、五條西隣りの九度山には、徳川家にとって目の上のたんこぶである、眞田一族の昌幸、信繁親子が移り住んでいました。そのための“監視係”として家康から、密命を受けていたのでしょう。

f:id:minminzemi81:20190420165225p:plain

一国一城の主を夢見て

その一方、商業の町「五條新町」の整備や「諸役免除」など藩政に尽力し、わずかな期間ではありましたが大和五條を「商業の町」としての礎を、見事に築きました。

商業に目を付けるあたり、やはり重政は只者ではありませんね。一説には「豊太閤に憧れていた」からとも云いますが。米作より商業の上がりを重視しました。

(※地元五條市では「松倉祭り」も開催されるほどの大人気ぶりなのです。町中に“豊後様”の顕彰碑まで建っています。それでいまでも「名君」と評価されていますね)

▽大和五條時代の松倉重政の絵解き動画、こちらも参考にどうぞ。

YouTube

武勇伝は「大坂の陣松倉重政が大活躍

慶長二十年、大坂夏の陣の前哨戦にて。「道明寺での戦い」では、天下無双と名高い「後藤又兵衛」隊と相間見えることになった。ドドーン!

豊臣方の作戦では、国分村の狭隘な地にて徳川方を包囲迎撃する作戦だった。ところが双方とも、思いもしない場所で会敵することになった。

深夜午前二時頃。大和路から大坂向け徳川方が行軍中、小松山上に後藤又兵衛隊の布陣を認めた。この強敵を各隊が用心し、ジワリジワリと包囲する。

先方、奥田忠次隊が小松山に寄せ掛かろうと進む、そこへ後藤隊から銃撃あり、すぐに槍合わせとなった。この地で忠次は呆気なく戦死する。

f:id:minminzemi81:20190423091547p:plain

この後藤又兵衛を討ち取ってみよ!

続いて北面から松倉重政隊も参戦する。松倉隊は後藤隊の剛の者、平尾久左衛門ら二百首を討ち取る大奮戦を見せた。しかし、やがて松倉隊も押し返され力尽き、伍隊が崩れかかったところ、後詰の水野勝成、堀直寄らが急援し、危うく難を逃れたという。

このような大坂夏の陣前哨戦での活躍により、九州は肥前国「日野江 四万三千石」の大名となる。「石高を四倍増」とは軍功を最大評価された結果ですね。

相次ぐ戦乱を巧みに駆け抜け、順調な出世をかさねてゆく重政。めでたし、めでたし・・・いやいや、そうは問屋がまったく卸さないっ!デデンデン。

九州島原天草一揆の本質とは?

説話には脚色や誇張も沢山含まれる。それは教科書にもあった。

歴史教科書に必ず登場する「島原天草一揆」は、俗にいう「隠れ切支丹への弾圧」から起ったのでは無く、領主の有得ない程の低レベルな「悪政の結果」、引き起されたのです。そして領民の多くがたまたまキリシタンだったのです。

小説、映画などで何度も喧伝された「美少年 天草四郎時貞(本名は益田四郎)隠れキリシタンを救う!」といったBL♡イメージは、後に付加されたもの。ましてや妖術なんか、とても使えませんよ。笑

松倉重政はこの新天地で、何処をどう間違ったのか?

さて松倉重政が入国後、検地を行い自領「石高四万三千石」を、倍近く偽り計上(公称十万石とも)する。そして民百姓の生産限界を遥かに超える年貢を絞り取り始めるのです。やはり既に、何かが取り憑き始めた。

f:id:minminzemi81:20190421112433p:plain

この踏み絵に、効力はあったの?!

江戸時代初め頃の年貢はだいたい「五公五民」でした。それを捏造した倍の石高から逆計算すれば、百姓が作る米を全て取り上げる結果となります。エロエムエッサムなんたる悪知恵か、まさに毒を持つ蛇と化す。

そして松倉重政は、身の丈に合わない「江戸城改築の普請役」を願い出たり、「ルソン島遠征(表向きキリシタン弾圧、実際は密貿易?)」を自ら計画し、先遣隊の派遣準備始め、また新城「嶋原城の建設」も強行しました。これではとても藩財政がもたず、全てが無茶苦茶です。

(※『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録では、領民反乱の原因を「年貢の取りすぎ」にあると記している。また島原地方は火山地帯特有のシラス台地でやせており、実際の収穫高は表高 四万三千石よりも、かなり少なかった。一説には、その半分程度だったという)

f:id:minminzemi81:20190319104918j:plain

松倉重政

さらに領民の弾圧。年貢を納めきれない百姓(家族)には「焼きゴテを押す、指を切り落とす、雲仙の熱湯を浴びせる、火を付けた蓑踊り」など、残酷極まりない数々の拷問処刑を行っていきました。

これは最悪です!もう基地外です!エロエムエッサイムです!この出来事に驚愕した、オランダやポルトガル船長ログ(記録)に残っているほどなのです。

突如「大和五條の名君が、島原では悪魔となった!」

この信じられない程の豹変ぶりは、いったいどうしたことなのでしょうか?にわかには理解できません。

松倉氏の居城「嶋原城」から読み解く、人物像と思想とは?

昔、どこかで読んだ本に「建築物は施主の哲学、考え方をよく表す」と書いてありました。ならば松倉重政の居城「嶋原城」から、何か考察できるのではないか?

四万三千石どころでは無い巨大城郭だった

重政は元和四年より、七年もの歳月を費やし「嶋原城下」を築き続けました。町割は南北十三丁、南面に城下町を作り、北面丘陵に城郭と武家屋敷などを配置する。

本丸と二の丸を連郭し、総掘りと南北へやたら長い三の丸で、とり囲んだ。迷路のように複雑に入りくむ本丸・二の丸内の構造は、戦国時代に小規模城郭でよくみかける縄張り。

これは時代遅れで、使い勝手は悪かったはずです。

更に特徴的なのは、本丸への橋「廊下橋門」によって、二の丸と唯一繋がっていたこと。この廊下橋を崩し落とせば、本丸は完全な孤立状態となる。しかし・・・

f:id:minminzemi81:20190421102618p:plain

原城郭古図面(江戸後期)

これで、確かに寄手は本丸には到達出来ないが、「二の丸への渡り口、また退き口もない」ということになる。

通常、闘う城に搦手は必要不可欠なものですが、それが無い。寡兵で守りただ籠城するには良いが、孤立すれば「戦う術も無くなる構造」となっている。これはいったい、どうしたことなのか?不思議な縄張り。

白亜五層大天守、何故か一階だけに「ナマコ壁」

そしてお城の象徴、本丸には白亜五層の大天守(白壁塗り五階建て独立天守)、その南面に三重の大櫓(天守レベルの隅櫓)が三ヶ所そびえ立っていました。

破風などの装飾ない天守、そしてナマコ壁です。その姿を南方向、城下町が建ち並ぶ方向にむけ、ドド~ンと威容を見せ付けていたのです。

きっと嶋原城が完成した暁には、この天守最上階より得意満面あたりを睥睨した、松倉重政がいたことでしょう。「すげェだろ!ワシの城はっ、ぶは、ぶは・・」

司馬遼太郎先生は、松倉重政を悪逆非道とみる

あの司馬遼太郎さんが悪し様に「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」、また「がんまつである」とバッサリ切っている。
(※がんまつは奈良、葛城地方の方言で“がめつい奴、あつかましい”などの酷く罵る言葉です)

司馬遼太郎さんに拠れば松倉重政最低。

司馬さんは云う『日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。重政は自己の利益のためには、獰猛なほどの勇猛心を発揮する男であった。重政は島原にあること14年、三代将軍の年の11月に死んだ。その後、勝家が継いだ。この男が、空前絶後といえるほどに領民を搾った。領民として一揆に立ちあがるのが当然であった』という。

そして、『重政が豹変するのは、参勤交代で江戸に伺候し家光に謁したとき、なにを手ぬるいことをしておるのか、とはげしく叱責されてからであるという。豹変と大弾圧も保身のためなのである。人智でもって考えられるかぎりの残忍な方法をつぎつぎに案出して人を殺しはじめた』(街道をゆく17島原・天草諸道)より 

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

 

結論「松倉重政も相当なポンコツだが、跡継ぎ勝家マジ最悪!創業企業を二代目の馬鹿息子が、見事にぶっ潰す!」の巻

司馬氏の上記著作によれば、重政は将軍家光より「なにを手ぬるいことをしておるのかっ!」と、はげしく叱責されて「たちまち態度豹変」させたという。そして自己保身のためだけに、領民に大弾圧を加え始めたといいます。

まさにこれ「木っ端役人根性」ではないか!

「松倉、大名の器にあらず!」

その重政から跡継ぎ、勝家の時代へ。あいかわらず続けられた苛政が「島原天草一揆」を招くこととなる。そして松倉勝家は、天下騒乱を招いた大罪により名誉ある切腹ではなく、斬首(咎人扱いは大名では唯一)される。さらに松倉主家は、当然ながら改易となった。

(※この一揆を主導していたのは、元有馬・小西家に仕えた「関ヶ原浪人」や「土着豪族」の天草氏・志岐氏など。単なる百姓一揆とは毛色の違った、江戸時代最大の反乱戦争だった)

五條と島原、観光情報コーナー

奈良五條市「二見城址

二見城(陣屋)は、東を流れる吉野川にせり出すような台地の先端に築かれ、北から南へと周囲に堀を巡らしてあった。現在では本丸・二の丸跡は「妙住寺」となって、境内の西側が一段低くなっているところが堀跡らしい。残念ながらそれ以外に城遺構らしきものは何も遺ってはいないようです。

○交通アクセス

最寄り駅、JR和歌山線大和二見駅」下車、徒歩10分。車は、西名阪香芝ICから国道165号線。妙住寺の参詣者 駐車場(無料20台程度)あり。

▷リンク/五條名物「柿の葉寿司」を賞味あれ⇒柿の葉すし本舗 たなか

f:id:minminzemi81:20190421153126p:plain

奈良五條市 二見城跡 周辺地図

▽リンク/「美しき日本五条新町」街道のまち五条新町は、懐かしい日本の原風景が拡がります。“Beautiful day by day, the cityscape of Gojo”

YouTube

長崎県島原市「嶋原城址」

本丸、二の丸とその石垣群が残る。本丸にある堂々たる五重天守は、層塔型で破風などの装飾がない珍しい姿、でも昭和時代のコンクリート再建天守なのです。その点は少し残念。その内部には、キリシタン資料や藩政時代の郷土資料・民俗資料などを展示しています。

f:id:minminzemi81:20190423131208j:plain

一階になまこ壁を巡らす変わった姿

(※御注意/島原天草一揆で農民が立て篭もり闘ったのは、2018年「世界文化遺産登録」された「原城」の方で、この松倉氏が築いた「嶋原城」ではありません)

○交通アクセス

最寄り駅、島原鉄道「島原駅」下車、徒歩8分。車は、長崎自動車道諫早ICから65分。島原城の西側から天守前まで、車で入ることができる。天守直下に、無料駐車場(約90台程度)あり。便利だがお城の風情は台無し。

▷リンク/詳しくは、島原城HPをご覧下さい⇒ 島原城 | 公式ホームページ

f:id:minminzemi81:20190421153502p:plain

長崎県島原市 島原城 周辺地図

▽リンク/こちら「南島原のドローン映像」です。自然が美しく感動します「訪れる価値あり」の場所ですね。

YouTube

 

参考/新町松倉講HP、島原市観光ビューロー、ウキペディア (4800文字、Thank you for reading.)