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あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ ノシ

運命の日は、5月1日。あの日はたしか、1994年のGWだった。音速の貴公子アイルトン・セナへの想い出ぽろぽろ 【自動車レース】

平成生まれの若者は、伝説のF1ドライバー「アイルトン・セナ」を知らないらしい。もちろん、自分が生まれる前に亡くなったヒトに「てんで興味がな~い」のも仕方ない。でもね、チョットまって、チョットまって。

かつて「昭和の終わりから平成の始まり」にかけて日本では、空前絶後の「F1ブーム」があったのです!

F1ファン(オタじゃないよ)のワタシが、あの熱い90年前後を振り返り、F1ブームの状況とかレース観戦の思い出話を書いてみます。では…「1994年5月1日に、いってらっしゃい!」←所ジョージかっ!

 

熱いアツい「F1ブーム」とやらを、サクッと解説します

 

まずは皆様に知って頂きたいのは、日本人F1ドライバーで遅咲きルーキーと呼ばれた中嶋悟※1が、1987年にキャメルカラー「ロータス・ホンダ※2」でデビューしたことなのであります。そしていきなり7位、6位、5位、4位と尻上りのリザルトを、たたき出したのです!これにはホント、日本中が沸いたぁ!!

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ロータス・ホンダ99T(#11中嶋悟マシン)

そして、その翌日には大きくニュースにも報じられました。特に第七戦イギリスGPにてウィリアムズのマンセルが優勝、二位ピケ、ロータスが三位セナ、四位に中嶋悟「ホンダエンジンがトップ4独占!」という快挙を達成。それで「な~んだ中嶋悟、次は表彰台かな?」と、あの頃は至極当然のように想っていましたね(実はこれトンデモなコト)。ロータス・ホンダでの中嶋のチームメイトが「アイルトン・セナか」だった訳で、いまにして思えば、中嶋も“大変な相手”と組まされていたものです。なぜなら翌年の「ワールド・チャンピオンがセナ」だったのですから!

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マクラーレン・ホンダMP4/4(#12セナマシン)

バブル景気の始まりで、資金がダブダブの日本企業がF1のスポンサーや、コンストラクタとして参戦し「アイルトン・セナ&ホンダ」人気なんかもF1ブームの後押しをしました。世の中が“妙な熱気に溢れていた”あの頃。

(※1 中嶋は、34歳でロータス・ホンダよりデビューを果たし、日本人初のF1ドライバーとなる。「雨の中嶋」と呼ばれ、ウエットレースに強かった。1987年の開幕戦から1991年の最終戦オーストラリアで引退するまで、五年間F1で活躍した。出走回数80回、予選最高位6位、決勝最高位4位、ファステストラップ1回) 

(※2 車体を油圧制御するハイテク装備、アクティブサスペンションが本格的に実戦投入された。ロータスホンダ車は全戦使用したが、重量増加や信頼性など問題も多くリザルトには反映出来なかった)

 

F1グランプリテレビ中継は、欠かさず観る!見ながら、「ビデオでも録画」

がディフォだったね!

 

それからCXのテレビ中継「F1グランプリ」。レースウィークには必ず「TV観戦&ビデオ録画」をしていました。悪いことに日曜日の深夜枠で、眠くてね「ん~夜更しは、ヤバいよォ…zz」ウトウト寝落ち寸前、だからビデオ録画が必須だったんだ。

▽いま想えばそんな状況で見るから、逆に楽しかったのかも?!

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番組は、この「超イケてるオープニング曲」で始まった。T-SQUAREの『TRUTH』(1987年~1998年までOP曲)が流され続けた。いま聞いても、ワクワク♪ドキドキするね。当時としては、「超斬新なフルCG」の画面だった。あぁ、懐かしのフレーズ「超~」って、いまでは死語だったかな?いや、まだ使うよね。

あと、エフワン雑誌も買っていました『F1グランプリ特集』や『レーシングオン』を購入して、チーム状況やレース展開を分析なんかしていましたね。しかしこれ、何なんですかねぇ、F1にまつわる情報のあの奇妙な面白さは…何だかね、ヤッパリ90年代が懐かしいなぁ。昭和人ならみんな思うのでは?

 

毎年恒例となる「秋の鈴鹿詣」が始まったのが1991年からです!

 

初めて「F1日本グランプリ」を観に行く日がやってきた!

 

それで、1991年のこと…うん、平成三年か。三重県にある『鈴鹿サーキット』に「F1グランプリ」を初めて“生観戦する日”が突然訪れたのです!ついに「生」なんでもナマが一番だっ!F1観戦も、ビールも、チョメチョメもねっ!←コラコラ

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マクラーレン・ホンダMP4/6(#1セナマシン)

10月18日~20日の三日間。スケジュールは、もらったチラシがまだ手元にあった。あの頃は、決勝前にF3やシビックレース、あとクラッシックカーパレードなんかも同時開催していたのでした。いまもそうだろうか?

(※チョメチョメの発案者は、山城新伍だという。放送上、都合のワルい単語に充てた。ちなみにホニャララは久米宏らしいね!)

 

<91年F1日本グランプリ in SUZUKA>

○18日金曜日、フリー走行、F1予選1回目

○19日土曜日、フリー走行、F3サポートレース予選、F1予選2回目

○20日日曜日、フリー走行、F3サポートレース決勝、F1決勝レース

 

当時、指定席チケットが「プラチナ✨チケット」と呼ばれとても入手困難、あれば“プレミア闇価格”で出回っていた。とてもそんな高価なモノ、買えませ~んからね。どうしたもんじゃろの?それで一計を図った。レース関係の知り合いに「自由席チケット」何とか二枚サイドドレイン。ワタシ以上に“エフワンオタ”だった兄を誘ってみたら、即OK!そりゃそうです、随分気合いが入っていましたね。笑

18日の金曜日は、会社を有給♪とって、準備万端、備えは盤石!キャンプ道具一式等を車の後部座席(ミニクーパーだったので、後方見えぬ程テンコ盛り状態です、何なんだぁこの物量は?)に積込んで、いざ決戦の鈴鹿へ!車高がさがりイイ感じにパンパン底突きしていた。爆

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鈴鹿サーキット国際レーシングコース

 <鈴鹿サーキット特長>

一周、5.807km。コースレイアウトは東西に細長く八の字を描き、立体交差を挟んで右回りと左回りが入れ替わる。最大高低差は、52mもある。アスファルトのμ係数はとても高いが、雨が降るとコースに川のスジが出来るほどにもなる。スタンドから海が見える、世界一素敵なサーキットだ!…Maybe。鈴鹿コースレコードは、ルイス・ハミルトンが叩き出した「1分27秒.319」(2017年F1日本GP予選Q3)「でるかっ、夢の34秒台ィ!」とか騒いでいた頃が懐かしいなぁ。

 

レースへの期待と素晴らしいワクワク高揚感、これぞF1

 

ブォン、ブォ~ォ~!西名阪をカッ飛ばし、目指すは三重県鈴鹿サーキット!そうなんです、この年の鈴鹿は実に興味深かった。「セナのワールドチャンプ決定&中嶋悟引退鈴鹿ラストラン」があったのです。この頃が日本での「F1人気絶頂期」だったのですね。

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ティレル・ホンダ020(#3中嶋悟マシン)

カーステから流れる曲は、ヤッパこれ「TRUTH✨」でキメっ!イケイケGO!GO!スピード出し過ぎっ?!亀山ICで降り窓を開けると、涼しい風が舞い込んだ。そしてカーンと秋晴れの蒼空が、とてもいい天気だった。全く問題(キャンプなので)ないね。鈴鹿川沿いの道を車でゆくば、やがて空からエクゾーストが聴こえてきた。「キャッホィ!」この甲高い音、きっとフェラーリだっね、ワクワクドキドキ感が高まってきた。ついに来たよぉ来ましたよぉ~♪この高揚感こそ、エフワンの醍醐味なんだぁー!!

(※エクゾーストは排気音。F1マシンが絞り出す凄まじいサウンドは、まさに天に轟く雷鳴!ちなみにマクラーレン・ホンダのマシンは、MP4/6。エンジンが、RA121E 3.5ℓ NA、V12。地響きをたて「地獄のような音♪」がしていたな<笑)

 

アイルトン・セナ VS ナイジェル・マンセル対決が決着

 

<超絶技巧『セナ足』>

セナだけが出来る“謎のテクニック”と言われ、これはコーナー旋回途中で「パパパパ…」と小刻みに右足でアクセルをあおる。これによりコーナーアウト時のエンジンの吹け上がり(+500~1000位か?秒6回ほど、忙しい開閉の煽る)を良くしたらしい。予選時には、ワタシはスプーンカーブにいた。そこで“セナとベルガーを比較”して観ていたのだが、排気音が確かに違った。そして、スプーン二つ目での脱出スピードも違い、さらにクリッピングポイントもセナは手前で、バックストレートに飛び込んでいった。しかし、何だろう?良く分からないな。結局のところ予選タイムPPはベルガーで、セナは二番手となったから「ベル足」の勝利ってコトですか。ベルガーが予選用セッティングで、セナは決勝重視だったかもしれない?

▽アイルトン・セナの鈴鹿アタックを、大迫力オンボードカメラでどうぞ!

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(※セナは1回目のタイムアタックで1分34秒898を記録。ナイジェル・マンセルは1分35秒594と届かない。このままセナが4年連続でポールポジションかと思われたが、セナのチームメイトのゲルハルト・ベルガーがさらにスーパーラップを刻み1分34秒700をマーク、ポールポジションを獲得した)

<決勝レース>

フロントロウにはベルガー、セナ二台のマクラーレン・ホンダが並ぶ。その後ろにナイジェル・マンセルがいた。スタートして1コーナー、ベルガーが先頭に飛込みセナがマンセルを巧みにブロック牽制し、まずはマクラーレンの作戦が成功。続く9周目には、メインスタンド前から1コーナーにかけて、マンセルがセナのスリップストリームを利用し追い抜こうと仕掛けた。だが、そのまま2コーナーでランオフエリアに飛び出し、リタイアしてしまった。それでこの瞬間に、セナの「三度目のワールドチャンピオン✨」が決定したのです。

(※スリップストリームは、レースの追抜きテクニック。ストレートで先行車の背後に付いて、空気抵抗を減らしスピードアップを図る。しかしコーナーでは逆に、空力的に不安定となり危険、あと冷却系にも影響する) 

 

<決勝リザルト>

優勝 ゲルハルト・ベルガー

二位 アイルトン・セナ

三位 リカルド・パトレーゼ

鈴鹿ラストラン中嶋悟は、S字カーブでリタイアした。ホント残念でしたっ。

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F1マシンは間近で見るとホント美しい(MP4/6)

セナはレースを終始安定した走りで、まさに「王者のレース」だった。やはりこの年('91年)が「セナの黄金期」だったのか。翌年から少し状況が変わり、あまり勝てなくなった。ハイテクマシン相手に、クレバーな走りで優勝したり、逃したり。あっ、モナコだけは別格だ。セナは「モナコマイスター(6勝)」なのだから! 特に「'92年のモナコGP」には、萌え!ゴール寸前迄、手に汗を握るヒートだったね。

それにあわせて、'92年から'93年へとブームは少しずつトーンダウン、世間のF1人気も陰りが見え始めて来た。でも、個人的には逆にヒートアップ⤴していましたが。この頃のF1は愉しくて仕方ない。そして94年のシーズンを迎える…運命の年。

○90年アイルトン・セナ“予選スーパーラップ”の様子。シンジラレナイ・・・F1 Classic Onboard: Senna On The Charge At The 1990 Monaco Grand Prix - YouTube

(※モナコGPの長い伝統に加え一般の市街地コースのため、高い運転スキル、長時間にわたる集中力を、ドライバーに要求される。それゆえに「モナコGPの優勝は3勝分の価値がある」ともいわれている)

 

えぇぇー!!! 音速の貴公子、アイルトン・セナがまさか…!

 

運命のあの日はGWのなか日、1994年5月1日だった

 

そう、あの日はゴールデンウィークで実家に帰っていた。遊び疲れてヘロヘロだ、まさに寝る寸前だった。よい子は、もう寝るぞ~深夜だからね。すると二階から姉が、ドタドタ階段を降りて来た。「テレビつけてみ、エラいコトになってるでぇ!」とわざわざ言うのである。あいかわらず変なやつ。ほな、テレビをポチッとな。 

それで一通りチャンネルをソートしてみると、突然、奇妙な番組が目に飛び込んできた。そこにはサーキット会場で、沈鬱な表情を浮かべ喋る中年男性二人の姿が。あ、れれっ?画面にいたのは、フジTVの三宅アナとF1解説者、今宮純氏なのである。確かにそうなのだが、パドック前で棒立ちマイクを握り喋っているではないか。そして泣いているではないか。打ちひしがれているではないか…!これはレース中継では無いぞ。

イモラ・サーキットからの生放送であること、セナがレース中に事故をおこし死亡したこと、レースのあらまし等など、繰り返し二人は伝えていた。そして“トイレで泣き腫らした後の顔”みたいな川井ちゃんが横に立っていて、それが妙に印象的だった。

▽あの夜に、この放送を観た。丁度この辺りだったかのかな?

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しばらく寝ぼけ頭で考える「え~なんてことだ、セナが死んだって…?」にわかには信じられない。しかも、単独でウォールにぶつかるなんて、そんなのありえない。あまりのショックで茫然自失…と言いたいところだが、わりあい冷静にテレビを眺めていましたね。そして明け方まで、ずっと何かを考えていました。そんなこんなで、イモラからの「F1グランプリ」番組は、生中継を観ていましたが。

 

その後にも、とんでもない話が続いていくことに

 

この'94年シーズンの状況※1は、セナが6年間在籍したマクラーレンチームを離れ、かねてから念願だった“最強マシンのウィリアムズ”へと移籍した。各メディアとも、事前予想では「セナがチャンピオン最有力候補」だった。しかし現実にはマシンの信頼性に欠け、開幕から二連続リタイア、いまだノーポイントで終わっていた。新レギュレーション※2で“アクティブサスが全面禁止”になり、ピーキーな謎挙動をする「ウィリアムズFW16」をなだめすかして駆っていたセナ。

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イリアムズFW16(#2セナのマシン)

このマシン(FW16※3)について、セナはシーズン前にこう語っていました…『この車の運転にはとてもネガティブな感触がある。限界までコーナーを攻める時やその他の点でもね。車に乗っている時は違和感があって、なにもかもが間違っているように感じる』少し感覚的で捉えどころのないセナのコメントだが「すでに何か」をこの時に予見していたらしい。なにもかもが間違っているとは…なんてこと。

(※1 詳しく/前年度圧倒的勝利したウィリアムズチームは、この年コンストラクターズチャンピオンの死守に、からくも成功した。セナの後釜は復活「#2 ナイジェル・マンセル」が務めた。しかしドライバーズランキングは「#5 ミハエル・シューマッハ」と、最後までワールドチャンピオン争いをしていたセカンドドライバー「#0 デイモン・ヒル」が追い上げ、わずか1ポイント差で二位に終わった。このリザルトから考えても、やはりセナが生きていれば“結局チャンピオン”になれたはずだ。でも、まぁ、これはタラレバだけど)

(※2 この年の規制は、「ハイテク技術の禁止」により“チーム間の格差解消”を目的としたものだったが、それが逆に“安全性を損ねる結果”へとつながった悪夢の年)

(※3 ウイリアムルノー FW16、エンジン、ルノーRS6 3,5ℓ NA V10)

 

魔女に魅入られた、イモラ「サンマリノグランプリ」

 

金曜日(決勝の前々日)予選初日。同国人のブラジル人ドライバー「バリチェロの大クラッシュ」があり、ホテルに帰ったセナは恋人のアドリアーナに電話をかけた。そしてきょうあった事故について話している途中に、泣き崩れたと言われている。

土曜日(決勝前日)予選の二日目。この日にも「ラッツェンバーガーの死亡事故」が起きていた。セナはこのアクシデント後、恋人に電話し「走りたくないよ…」と弱音をもらした。しかし夜になると「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」とも語ったと言う。このように情緒不安定となり、セナは徐々に追い詰められていく。

そして結果的にはセナも含み、F1開催三日間で「5回の大事故(内2名が死亡)観客にも重軽傷者多数」という犠牲者が出ることとなります。イモラ・サーキットに棲むと云う、「伝説の魔女」が牙を剥いたのだ。

 

決勝レースではレース中断、再スタートから呆気なく…

 

決勝日の5月1日を迎える。セナは「開幕から三戦連続のポールポジション」からスタートを切った。その後の展開は、難なくトップをキープした。しかし後方での事故によりレースが中断、すぐに“セーフティーカーが導入”された。再度、仕切り直し。これで少しあったアドバンテージも無くなる。

(※JJ・レートが、エンジンストールしてグリッド上に停止、後方からスタートしたペドロ・ラミィが追突し二台のマシンは、コース上で大破した。マシンの破片はコース上に散乱し、観客席にも飛び込んだ。警備員・観客の多くが負傷する大惨事。しかしスチュワードは、レース中断としなかった。あきらかに判断を誤っている)

そして再スタート後の七周目(現地時間午後2時17分)、二位のミハエル・シューマッハを従えて超高速左コーナー「タンブレロ」にセナは進入する。この時の車速は312km。コーナー三つ目の舗装のバンプ(継ぎ目)で、突如マシンのトラクションが不安定となり、タイヤグリップを完全に失った。

(※セナの死亡事故により、94年度のワールドチャンピオンとなった新星「ミハエル・シューマッハ」は2013年12月29日、フランスで“スキー事故”により、頭部に致命的な障害をおった。いまでは昏睡状態から覚醒して、リハビリができる状態まで回復した。このタンブレロ事故の時、一番真近でセナマシンの挙動を見つめていた人物である。)

マシンはアウト側に大きく振られ、たいして減速もできずにそのまま直進しコンクリートウォールに激突。セナのマシンはボディー右側が大破し、タイヤ、パーツなど大量に撒き散らしながらランオフエリアに停止した。

▽このヒルシューマッハ、セナの車載映像をご覧いただきたい。

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タンブレロコーナーで、路面の舗装が変わる部分(三つ目の黒い路面)突如マシンの後輪がトラクションを喪失して(スローパンクだとすると右リアタイヤか?)います。セナは一瞬アクセル戻しカウンターをあてるが、既にマシンはグリップを完全に喪い、そのままブッ飛ぶようにウォールに激突しました。これは、単純な「ドライビングミスでない」ことは明らかです。

▽推奨ビデオ/「アイルトン・セナ音速の彼方へ」

 

このレースの「事故原因の解明」はどうなったのか?

 

事故原因として当初から疑われた「ステアリング故障※1」は否定された。そして現在では“わずかな路面の不整備”からマシンがコントロールを失ったとされています。天才ドライバーセナにして「コントロール不能」とは、明らかにFW16マシンに何らかの原因※2がある。しかし、事故原因の本質的な結論にはいまだ至っていない。そしてセナの死亡原因については「大破したFW16の右サスペンションアームがセナのヘルメット(バイザー)を直撃、眼孔貫通し、脳損傷した」と、医師団から発表されました。これは即死に近いと思われます。

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タンブレロコーナー事故の瞬間

事故原因不明、責任者不在、さらに裁判の長期化。それでも開催中止には至らないF1サーカス。レギュレーションを改悪指示した「F1の悪魔」だけが、その因果関係の全容を知っているのだろう。そして永久封印としたのだ。そして…巨大なパワハラに曝される世界が、いまも続いています。

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改修されたイモラサーキット(2010年)

(※1 レース前、セナの要望によりチームが、ステアリング位置の簡易な改造を行った。この改造が事故原因と疑われたが、その後“何故か不問”となった)

(※2 不思議なのは、そのマシンの挙動変化を一番知っていたのは、セナ自身だったはず。そしてウイリアムズチームも、テレメタリーで判っていたはず⇒「ドライバーもチームも判断ミス」を犯している)

 

ユーミンの鎮魂歌にて、この話のまとめとしたいよ

 

いま生きていれば、セナ59歳となるねぇ「around還暦」だ。引退後はF1界の名伯楽として「チームSena」のオーナーになっていたのかもしれない。享年34歳でした。合掌。

○最後に、ユーミンがセナに捧げたレクイエム曲「ハローマイフレンド(1994年)」

youtu.be

アイルトン・セナ・ダ・シルバ (Ayrton Senna da Silva,3/21/1960~5/1/1994)

ブラジル人のF1パイロット。「モナコマイスター」や「音速の貴公子」の異名で呼ばれた。F1での生涯成績/出走回数161回、レース優勝41回、ポールポジション65回、ファステストラップ19回、総獲得ポイント614ポイント。88年、90年、91年と3回F1ワールドチャンピオンになった。

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マクラーレン・ホンダで大活躍したことから、またセナ本人が親日家で、そのため日本人のセナファンが数多くいた。歴代チャンピオン、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケらと並び近代F1を象徴する存在として「F1四天王✨」と呼ばれる。特にプロストとの強烈なライバル関係が「セナ・プロ決戦!」とマスコミに囃し立てられ、大注目され続けた。

(※そう名付けたのはMC古舘伊知郎で、音速を時速換算すれば1,220km位、トンデモ速すぎるダロ)

○付記/F1界を40年にわたり牛耳ってきた「バーニー・エクレストン」が務めてきた最高経営責任者に、アメリカのリバティ・メディアチェイス・キャリーが就任。「この著名なグローバル・スポーツを成功に導いたバーニー・エクレストンに感謝したい。彼は名誉会長に就任する…」実質的にバーニーは窓際族てことか?

 

参考/ホンダコレクションホール、レーシングオン、F1グランプリ特集、ウキペディア 

(9000文字、Thank you for reading.)