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名城「和歌山城の見どころ」決定版!! パート2「和歌山城の歴史と見所」をご紹介いたします【城址案内】

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白亜三層の大天守がそびえる和歌山城。この名城の特性と長い歴史を解説します

徳川御三家のひとつとして、紀州徳川家は五十五万五千石を領しました。和歌山城は市街中心部に位置する、標高約五十メートルの虎伏山に建造され、その天守からは眺望よく、北側を流れる紀の川、西には紀伊水道が望め、その絶景を楽しむことが出来ます。

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小高い岩山に天守が乗る

(※よくある勘違い/細かい事ですが…徳川御三家とは「徳川宗家、尾州徳川、紀州徳川」の三家を云う。水戸は?実は、最初は御三家を除外されていたのです。家光の代にて、宗家を別格として三家に加わる) 

 

和歌山城、最大特長である「三種類ある石垣積み」とは

 

石垣を見ればそのお城の歴史まで見えてきます

 

いきなりですが、お城石垣の話。和歌山城をよく表すものは、「石垣組み」にあると思います!

例えば、城という文字を分解すれば「土」と「成」になります。堀あげた土で土手を築き、強度不足を石組みにて補い成る。このことから決して上物を指して「城」とは、呼ばないことが解りますね。そう「石垣こそ城!」なのです。

そして和歌山城、全国的にみても珍しい“各時代の石垣”が遺っています。

 

壱、「野面積み」について 

 

和歌山城初期、豊臣秀長の時代。綺麗な「緑色片岩(紀州青石)」を巧みに積んだ「野面積み」の石垣が残っています。この石垣は一見荒々しく雑に見えますが、築き方を間違えれば崩落する訳で、高度な技術が必要ですね。なので傾斜角も緩やかです。

城内、山吹溪辺りの野面積みが見所です。特に雨上がり後には、石が綺麗な発色をして照りばえがとても美しいですね。 

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山吹溪に連綿と続く野面積み

お城の南側の岡公園にある、天妃山(てんぴさん)から切り出した青石を使用。この岡公園の裏側に池がありますが、石切場の跡に自然水が溜まり池となったのだと云います。岩山を切り崩す勢いで、大急ぎで作事が進んだことがうかがえます。

○こちらが、天妃山のある丘公園の紹介記事です。

minminzemi81.hatenadiary.com

 

弍、「打込みハギ」について 

 

和歌山城中期、浅野幸長の時代では。

加太城ヶ崎、友ヶ島などから「和泉砂岩」を打ち欠いて加工し、はぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られました。大石の隙間に小さな石を挟みこみ荷重を分散させる技法。これによりさらに高く積上げることが可能になりました。

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左側にある高石垣

岡口門近く、まず目に付く高石垣が、打込みハギです。しかし、元々地盤の弱いこの場所にこれだけの高石垣を築くのは、相当苦労したと想われますね。

 

参、「切込みハギ」について 

 

和歌山城後期、徳川時代になると。

熊野地方の「花崗斑岩」を用いて、切石で精密に擦り合わせ積んだ「切込みハギ」の石垣が作られました。面と面をピッタリ隙間無く組あわせています。主に来城者の目につきやすい箇所などを、この最新式の石垣に築き直したようですね。

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二の丸にある、切り込みハギ

このことは高さより美しさ、より<手間暇=コスト>かけることを意味し、単純に“お金持ちアピール”だったか、と思えますね。戦乱が治まった後もお城石垣に手をいれ続ける、紀州藩ならではの考え方が解ります。

 

かつては存在した「喪われし城門」のはなし

 

沢山あった城門と縄張りの話です。

和歌山城玄関の「一の橋大手門」から城内に入ると、縦に長い枡形となり続いて「中御門」がありました。これ喰違い虎口となっています。

この「中御門」を過ぎ、奥に見える表坂は、徐々に幅が狭くなりつづら曲折する石段となっています。これは錯視効果を狙ったものですね。

それを登り切った所には「松ノ丸門」があり、その南側には二層の松ノ丸櫓がたち、四方に睨みをきかしていました。

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つづら折れの表坂

さらに奥へは緩やかに登り、東西に細長い枡形「松ノ丸」があった。この長さの意味は火縄銃の有効射程で、迫り来る敵を両端から釣瓶打ちに出来たのでは、と思えます。

さらにその松の丸の終わりに天守本丸への道をふさぐ「本丸いち之門」がありました。籠に乗った殿様もこの急段は籠を降り歩いたといいます。

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和歌山城MAP

この虎口は、ほぼ直角に右に折れ、さらに右へと曲がっている登り階段です。そして続く「中門」という小さな隠し門があった。これにより石垣と城門でぐるり囲まれた桝形構造、これでは三方向から一斉攻撃を受けることになります。

中門の先は東側に「本丸御殿門」北側に「本丸裏門」そして西側に「天守いち之門」がどっしり構えていました。これらの城門全てを閉じると、ここもまた二つ目の桝形空間になります。万一敵が攻め登っても逃げ場はない、連続桝形虎口となるのです。

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本丸郭の縄張図

そして天守曲輪への入口にあたる「天守いち之門」と、続く「天守二の門(楠門)」は、最後にドーンと立ちふさがる巨大な要害となりました。

大手から都合七つの要害を抜いて、ようやく天守に辿り着けたのですね。縄張り名人と謂われた藤堂高虎の、面目躍如なのではないでしょうか。

和歌山城を攻める武将気分で、天守まで辿ると結構面白いと想います。オススメですよ。

  

何度も増改修を繰り返した城郭は、各時代の様式を留める。和歌山城の歴史が始まります

 

城郭規模は「戦国→江戸→明治」と数々の遍歴がある

 

城郭は単なる戦闘施設から、都市の象徴(シンボル)へと変化していく。

和歌山城の城郭規模は、北部を流れる紀の川と東側の和歌川を天然の堀とし、本丸の北側に二の丸(政庁御殿)を置きました。その外側に大きく三の丸(上級武家屋敷などが建ち並んでいた)があり、さらに土塁と外濠に囲まれていました。

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天守より螺旋に渦を巻くように計画された「梯郭式平山城」でした。また、和歌山市内の城下町特有の微妙に曲がり入り組んだ道路は、昔の名残を感じることが出来ますね。

ちなみに和歌山城下町の名残りとして、地名に「○○丁」と「○○町」が混在します。丁は「ちょう」と読んで武家屋敷を、町は「まち」と読み町人街を表しています。

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江戸時代の雰囲気遺す白壁

いま城跡として現存しているのは、徳川時代の最盛期の四分の一ほどの面積でしかなく、お城の南側に拡がっていた下級藩士の屋敷、三の丸にあった壮麗な武家屋敷が、明治以降に一気に喪われてしまうことになりました。

 

秀吉さんが「和歌山」の名ずけ親?!なんかすごい話

 

天正十三年、羽柴秀長紀州攻めの将として参陣。紀州平定後に紀伊・和泉の二ヶ国を加増された。そしてこの地に目を付けた羽柴秀吉が、弟 秀長に築城を命じたのです。

秀吉自ら城域を選定し縄張りを行ったといわれ、普請奉行に藤堂高虎を任じ、約一年で縄張りを完成させた。高虎は全国にある二十八城を手掛けたと言われ、この和歌山城が最初だったと伝わります。この時から「和歌山城の歴史」が始まりました。

しかし羽柴秀長はこの地、和歌山より奈良の郡山城を本城としました。伏見、大坂、大和、紀伊、和泉の地理条件を考えた場合、合理的判断であったと思えます。

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和歌山城いまは何の違和感ないけれど

また、この時期に「和歌山」と地名を改めた。秀吉が紀州 和歌浦の風景をいたく気に入り和歌浦の「和歌」と、この城郭予定地の字名だった岡山の「山」を合わせて「和歌山」と名ずけました(文献の初見)。

しかしこれ、果たしてどれだけ地元に定着したのか、疑問は残りますね。和歌山人はとにかく「紀州人」であること!に誇りを持っていましたから。

 

豊臣から徳川へと時代は、急激に推移してゆく

 

天正十四年。豊臣秀吉から秀長の家老職を命じられ、秀長は「桑山重晴」に三万石を与え城代としました。重晴は本丸を中心に城のさらなる拡張を行う。

○慶長元年。桑山重晴の隠居により、一代飛ばし孫の桑山一晴が城代を継ぎました。

○慶長五年。関ヶ原合戦で東軍に属した桑山一晴は、大和新庄藩に転封となりました。

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山吹に桜が良く似合う

○同年に同じく東軍に属した「浅野幸長」が三十七万六千石で紀州藩主として入城した。幸長もさらに城と町の大拡張を行っている。

○慶長十年頃。黒下見板張りの三層天守が建てられました(異説もあり) 。

(※この黒天守は、本丸御殿にあったのではないか?と云う話もあります。標高が本丸の山の方が高いため。)

  

有名な紀州南龍公、“徳川頼宣さん”の登場です!

 

元和五年。紀州浅野氏は広島藩(福島氏改易)に加増転封となった。そして、家康の十男徳川頼宣が五十五万五千石にて入国、紀州徳川家が誕生しました。

この頼宣公、大坂夏の陣での逸話。軍議で先陣を申し出た頼宣だったが却下される。すると涙を流して悔しがった。松平正綱が云う「まだお若いからこれから機会は何度でもありましょうぞ」すると頼宣は「十四歳が二度あるのかっ!」と言い返したと言う。

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複雑な構成美を魅せる回廊部

元和七年。頼宣は二代将軍秀忠より銀五千貫を貰い受け、城の大改修と城下町の大拡張工事を計画、実行しました。城郭唯一の弱点であった南への備えとして、堀川を拡張して総構えとする和歌山城下をも取り込んだ、巨大な城構えになる予定でした。

しかし余りにも大規模な作事だったため幕府より「謀反の嫌疑」をかけられたそうです。幕府には、付家老安藤直次の弁明で、ことなきを得たと云う。

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和歌山城下町絵図(安政二年)出典:和歌山市立博物館

和歌山市街の南部に「堀止」の地名が残っています。この場所が城郭総構の南限(計画上の)だったようです。スケールが凄かったのが判ります。

(※天守閣ある虎伏山から南に1.5kmの地点。なるほどこれでは、幕府がザワつくのもうなずけますね)

 

江戸時代後半は、紀州徳川家の天下だったのか?

 

野心家で武張った徳川頼宣が「将軍の座を虎視眈々と狙っていた?!」という逸話が残っています。その真偽は不明なれど、上記の戦術的な城下町造りや、地元の雑賀衆関ヶ原浪人を好んで雇ったりもした。また伊達政宗真田信之などとの交流など“幕僚が疑義を抱く動き”を、頼宣はやり続けました。

そして天下を騒がす「由比正雪の事件」が起こる。頼宣は「外様大名が加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うなら天下安泰」またも幕府に対し人を喰ったような申し開きで切り抜けました。

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冷や飯食いから天下人?!サクセス!

享保元年。徳川将軍家が断絶。そして徳川頼宣の孫で、八代将軍となる「暴れん坊将軍 吉宗」が誕生しました。それ以降幕末迄、紀州吉宗系の将軍が続くことになる(15代慶喜だけは水戸徳川から養子入りした)。ここに“始祖 南龍公の願い”が実現したのでした。

通常、将軍家にランクアップしたなら紀州藩は(廃藩か、直轄領)となるハズですが、将軍吉宗はそのママ存続させた。吉宗の「頼宣公リスペクト」だったかもしれませんね。

(※テレビドラマ「暴れん坊将軍」は、八代将軍 徳川吉宗が貧乏旗本の三男坊「徳田新之助」に姿を変え、江戸町民と交流しながら江戸にはびこる悪を斬る、痛快トンデモ話でした。) 

 

○参考まで/将軍家(紀州系)の流れ 

1家康-(頼宣-光貞)-8吉宗-9家重-10家治-11家斉-12家慶-13家定-14家茂-15慶喜

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昔お殿様の舟遊び、いまは観光客が

 

明治時代の和歌山城には受難の歴史があった。

 

幕末から明治維新を経て。明治六年、明治政府が廃城令を発布しました。城郭跡だった場所には、次々に役所や学校が置かれ、三の丸の堀は埋め立てられ道路にもなりました。残念なことに城郭規模がずいぶん縮小され、市街地化されてしまったのです。

左図が明治四十三年頃の地図、右が現在(グーグルマップ)です。ずいぶんと縮小されてしまったことが見てとれます。

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明治時代40年代の和歌山城(今昔マップより)

 

そして現代の和歌山城天守台には

 

天守から時計回りに多門、天守二之楠門、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと繋がる連立式天守がそびえています。回廊部にまで石落とし、鉄砲狭間まで設け「武張った城」であることを遠目にもアッピールしていますね。大天守へと通じる小天守にある玄関は、雅な唐破風の御殿入口です。この場所、意外と写真映えがします。

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興味深いのは、不等辺四角形の天守台(基壇の面積は2,640)のカタチですね。一層目は方形ではなく上に載る二層目から方形になるのです。なので一層目の屋根や軒先が、上層部と微妙にずれる“歪み現象”がみえます。こういった「見えない所まで工夫を凝らす」ところに、和歌山城の心意気が感じられますね。

 

繰り返す歓びと哀しみ、これが天下人を育んだ城の意地か

 

和歌山城天守は二度も火災にあいましたが、そのたび蘇りました。

弘化三年。天守に落雷があり炎上焼失する。そして嘉永三年、間もなく幕末と云う時期に、日本で最後となる天守が完成する。黒船が来航する三年前のことでした。

そして昭和十年に和歌山城天守は国宝に指定される。しかし、大戦末期に米軍の爆撃により、またもや炎上焼失しました。いま現在ある天守は、戦災後の昭和三十三年に鉄筋コンクリート再建された三代目で、建造物内部には「紀州徳川家ゆかりの品」が博物館のように多数展示されています。

 

紀州人の大きな誇りでもあり、時には嫌悪すべき対象でもあった和歌山城は、いまは静かに佇み時を刻んでいます。

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和歌山城天守

料金:大人410円 小人200円
9:00〜17:30(入館は17:00まで)
年中無休(12/29 - 12/31 は休み)
📞073-422-8979 

 

交通機関と駐車場について

和歌山城の最寄り駅は、JR和歌山駅と南海和歌山市駅になります。南海和歌山市駅からは歩いて10分ほど、JR和歌山駅からはもう少し離れているので、駅前のバス利用をオススメします。

車利用の場合、お城の南側“三年坂から入れる城内駐車場”があります。ここが一番天守に近く何かと便利ですよ。ただし、すぐに“満車になる”ので要注意ですね。

 

和歌山城 再建こぼれ話など 

和歌山城天守は昭和二十年に戦災焼失し、その後“市民の力”によって昭和三十三年にコンクリート再建されました。その時の話です。

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桜の季節には大にぎわい

和歌山城天守再建の時には、和歌山出身の松下幸之助さんが“最も多額の寄附”をした。市の側でも松下電器からの寄附を期待して「二ノ丸」の復原も依頼しようとしました。すると…「寄付するので天守閣に“ナショナルの看板”を掲げさせてほしい」と和歌山市に要求したというのです。さすが幸之助はん、ですねぇ。

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2018年には、再建六十周年となりました。なんでも現状のCR構造の寿命や耐震構造に問題があるとの話、この際「木造での再建」を検討すべき時と、想います。

 

和歌山城関連のお勧め観光名所として

和歌山市南部地域に、紀州東照宮、不老橋、養翠園、番所庭園などがあります。いずれも紀州徳川家、縁の名所ですよ。

城郭内 近隣施設/三の丸跡には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。

 

参考史料/和歌山市観光協会HP、和歌山市立博物館、和歌山市教育委員会ニュース和歌山、ウキペディア

 

(6200文字、Thank you for reading. )