『…その鋼鉄のような岩ぶすまは、激しい、険しいせり上がりをもって、雪をよせつけない。四方の山々が白く装われても、剱だけは黒々とした骨稜を現している。その鐡の砦と急峻な雪谷に守られて、永らく登頂不可能の峰とされていた…』By 深田久弥
北アルプス屈指の名峰『劔岳』!
北アルプス立山連峰 劔岳(標高△2,999m)は、荘厳な美しさと険しい山容から「岩と雪の殿堂」と謳われ、また毎年遭難事故が多発し、別名「針山地獄」や「魔の山」とも称されます。
北の雄大な峰々「雄山、大汝山、富士の折立、真砂岳、浄土山、別山、大日岳 、奥大日岳」その北方に「劔岳」が鎮座し、また大雪渓「長次郎谷や平蔵谷」などの純白の澤筋が「蒼天に向ってドド~ン!」と何処までも突き上げる景観が、登山者を圧倒してきます。さらに劔名所「八ツ峰、源次郎尾根、早月尾根」の鋭く尖る巌稜帯※1 は、氷河や風雨の浸食作用などにより、剣呑な山容が出来上がりました。
その登道※2 は狭く長い痩せ尾根、ザレ場やガレ場の連続、半歩踏み外せば簡単に深い谷へと吸い込まれる、まったく気の抜けない難ルートの連続となります。これらが劔岳を「屈指の名峰」と、クライマー達が大絶賛する理由なのです。
▽リンク/名峰と山男達を讃えまして、まずは名曲を Let's Singing!良いね昭和だネ。
(※1 がんりょうたい。山嶺の特徴である岩質は、灰色の「花崗岩」と黒っぽい「閃緑岩」が入り混じる。さらに永い年月かけ氷河や風雨により花崗岩が削りとられ、比較的強い閃緑岩だけが鋭く残り、現在観られるとても険しい山容となりました)
(※2 一般的なルート。室堂→雷鳥沢C場→剱御前小舎→剱沢C場→一服剱→前剱⇄剱岳(ピストン)バリエーションルートはかなり難易度はアップ。森林限界のハイマツ帯には、劔名物の「ライチョウ」が住処としており「チングルマ」や「アオノツガザクラ」や「ハクサンイチゲ」などの高山植物の自生がみられます)
『散歩ついでに富士登山?』バカ者に言う例え
しかし近年では登道整備が進み、また登山道具の進歩も相まって、結果「健脚エキスパート(山岳会など)」でなくても、一般登山者がピストン(往復)可能な山となりました。国内最高難易度レベル※1なのに、これには驚くばかりですね。そのおかげ?お気軽「ハイカー軽装備、ソロ登山」で登ってしまい、滑落や遭難する哀しい事故が起きています。でもそんな人達を見かけても、止めることは難しい。立山周辺散策の“ついで登頂”してしまうから。これにも驚きです。
『山を、舐めんじゃねぇ!!』By 山屋の髭オヤヂ
▽参考動画/厳冬期の劔岳の怖さ。昭和四十四年、中日ニュースより。
⇒[昭和44年1月] 中日ニュース No.783_1「剣岳で“大量遭難”」 - YouTube
はい。「やはり登山者は『劔岳の本性』を、知っておくべきなんですよ!」とはいえ、この山で「本当に怖い経験※2」すれば、その時点でゲームオーバーなのです!その前に教訓となる良い体験、あればいいのですが…例えば「山岳映画、山行ビデオ」があります。例え映画であっても、先人達の何かしら“SPIRIT”を学ぶことは、キットできます!有益なのですよ。と、言う訳で…山岳映画の傑作『劔岳 点の記』を推奨します。
(※1 実は劔岳の登山難易度は、富山県(公式)から発表されていません。季節、ルート状況によりまったく違うグレードとなってしまうのが、その原因とか…ん〜そうだったのか?劔のハイシーズンはやはり夏、八月。春先GWの頃は天候不順多く、残雪も緩みやすい。秋は雪量は少なくなるが、雪渓のシュルンドが多くなる)
(※2 劔岳での死亡者数は、345人(1959~2016年)となる。上市町観光協会調べ)
不覚にも涙!映画『劔岳 点の記』
明治四十年(1907)。参謀本部 陸地測量部の測量官「柴崎芳太郎」と民間山岳ガイド「宇治長次郎」らが日本地図完成のため、命懸けで劔岳初登頂に挑む「山男達の熱血怒濤の物語」である。ババ~ン!
北アルプスの山嶺が大好きなヒト、もちろんガチの山屋なら、本編ストーリーに関係なくワクドキ♪出来る映画ですね。特撮やCGも使わずオール「現地ロケ撮影」にこだわり、立山連峰の峻峰、純白な大雪渓、真赤に染まる雲海、富士の遠景などの情景描写が美しい。また劔名物「雷鳥」や「月の輪熊」も、重要なモチーフとして登場します。
レビュ、あえて不満点など探してみる
ストーリー展開の都合上、測量隊と山岳会が劔岳初登頂にシノギを削ることになるが、そのあたりの描写が何やらステレオタイプで、押しが弱いのだ。そしてお約束のラストには「みんな好い人なのよ大団円♪山男ばんじゃ~い!」となるのも、予定調和的な肩透かしを喰らったよ。
そして何よりも「むさ苦しい山男だらけの映画」に咲く華一輪、柴崎の新妻役「宮崎あおい」の出番が少ないこと。これはもったいない使い方。大人気だったNHK大河『篤姫(2008年)』の翌年となる時期、当時の宮崎あおいは“美しい旬”を迎えていた。このあたりも残念!
やはり史実(小説)を元に「少しだけ味付けを加えたシナリオの限界点」なんだろうか?木村大作監督の「YAMA♡LOVO」感は、画面からもビシビシ伝わってきますが。
さらに穿って観れば、もしかしたら主人公は「浅野忠信」ではなく「劔岳」そのものではないか?何となくそんな気がしますね。監督「主人公は『劔岳』だよ!俳優は山の供物で、ヨロピコ…」まさか、ね。
▽木村大作初監督作品。2007年4月~2008年8月まで撮影し、2009年6月に、東映系ロードショー公開。二時間二十分(139分)。
▽新田次郎の山岳小説『劒岳 点の記』が、シナリオベースです。
<映画の主な登場人物>
○柴崎芳太郎(浅野忠信)山形県大石田町出身。測量官。劔岳測量を命じられる。口数は少なく、なによりも仲間を大切する沈着冷静な男。
○宇治長次郎(香川照之)地元、富山出身。小さい頃から山と一緒に生きてきた。古田が紹介した劔の案内人。柴崎と力を合せ奮闘を続ける。
○生田信(松田龍平)静岡県出身。測量夫。数々の苦難を超えながら、自然の厳しさや仲間の大切さを、劔岳よりひとつひとつ学んでいく。
○木山竹吉(モロ師岡)鳥取県出身。山岳経験豊富なベテランの測量夫。劔岳測量隊を、表裏より精神的に支え続ける存在。
○大久保徳明(笹野高史)陸軍少将、陸地測量部長。陸軍の威信をかけて「剱岳の初登頂」という厳命を下した、ちょっとヤな人物。
○柴崎葉津よ(宮崎あおい)劔測量隊を率いる柴崎の妻。命をかけて地図造りに邁進する夫を、陰ながら甲斐がいしく支え続ける。
○古田盛作(役所広司)元陸地測量部の測量手。「二等三角點ノ記」著者。かつて劔岳の登頂を試みたのだが、断念した過去がある。
○小島烏水(仲村トオル)ヨーロッパかぶれの登山装備で、劔岳の初登頂を目指すライバル。日本山岳会を率いる若きやり手リーダー。
<ワタシが考えた配役>
役者をチェンジすれば、映画も変わる!配役がさ、少し違うような気がする。そんなのど~でもエエて?まぁ、そう言わずにね!
○まず主人公、柴崎芳太郎役は…「高倉健✨」八甲田山や鉄道員での演技見る限り、この人以外適役はないでしょう。ダダハマりと思えますね!
○重要ポジション、宇治長次郎…「竹中直人✨」異様な存在感を示すバイプレーヤー。コミカルな演技も超上手いので、健さんと相性バッチリ!
○くそ生だが良い男、生田信役…「香川照之✨」残留処置。長次郎よりも生田役の方が似合ってる!竹中とも仲良しだしね。絡みが良いはずだ。
○柴崎の賢妻、柴崎葉津よ役は…「柴咲コウ✨」もちろん、宮崎あおいも良いが、健さんとのバランスを考えるとなぁ、もう少し円熟味いるから。
○日本山岳会代表、小島烏水役…「GACKT✨」キザったらしい東京モンやらせたら、この人の右に出るものはない!妖艶さある山屋だね!
○玉殿窟、謎の籠り修験者役が…「笹野高史✨」残留処置。笹野さんは、頭の硬い日本の将校役やってましたが、絶対老行者が似合っています。
…ここまで考えてハタと気づいた。単に主役級の役者並べているだけなのでは?てか、一年近くのスケジュール抑えると、トンデモなギャラが発生する罠。ブロキャスあるある…さらに俳優の体力問題、健さんに劔岳登らすのは…??
▽『劔岳 点の記』映画予告編。監督は名キャメラマンの木村大作。「大作が超大作に挑む!」劔山嶺の捉え方、ほんと素晴らしいですね!
○映画逸話/監督の木村大作は、黒澤明の影響を強く受けた、いわゆる「黒澤組」のひとり。黒澤からは「ピント合わせ」のうまさから、一目置かれていた。(え!ピントかよ)それで黒澤監督から「撮影助手で名前を憶えているのは、大ちゃんくらいだ(褒め言葉)」と言われたらしい。
○やはりキャメラマン※が監督すれば、美しい映像美を撮ることに執念を燃やすもの。季節の移ろいを順撮りしたり、トンデモな画角を要求したりとか、映画スタッフの苦労が忍ばれます。撮影隊の大所帯が、あの劔岳を移動するだけで、現地ではドタバタ大騒動となったことでしょう。
🎬 以下より、少し長めのストーリーダイジェストです。そして「大幅にネタバレ」します。いや、させちゃいます。なので本作をまだ観ていない方「映画作品をみてから」を推奨!ですね。
(※映画業界は伝統的に「キャメラ」と言います。考えてみたら他の世界では「カメラ」なのに、これ少し変だな。それだけ映画は、リュミエール兄弟以来の歴史あるぞっ!て、ことなのか?)
最後の地図空白地帯『劔岳測量』開始!
明治三十九年。日露戦争に勝利した日本は、さらなる国土防衛のために詳細な日本地図の完成を目指していた。陸地測量部 測量手「柴崎芳太郎」は、日本最後の空白地点とされる「越中 劔岳」の測量登頂を突然命じられる。
この前年、一般市民有志で結成された「日本山岳会※1」ができ、劔岳登頂を狙っていた。民間人の集まりである「小島烏水」らに先を越されることは、陸地測量部の恥辱であり断固許されず「必ず初登頂しろ!」と厳命が下された。しかし、地元で「針山地獄」とまで云われる峻厳な劔岳への初登頂は、簡単ではないことだけは明白だった。
そこで柴崎は、元測量部先輩である「古田盛作」を訪れた。すると「立山曼荼羅で劔岳は死者の山※2とされ、もし登頂すれば信仰への否定ともなる。これは生半可な仕事ではない」と諭した古田だが、自分が信頼する山の案内人「宇治長次郎※3」を紹介してくれた。
(※1 日本山岳会は明治三十八年に設立された、日本で初めて誕生した山岳クラブ。志賀重昂の「登山の気風を興作すべし」に影響された小島久太(小島烏水)が初代会長となる。史実では明治四十二年の夏。日本山岳会の吉田孫四郎らが、民間人による劔岳初登頂を果たした)
(※2 劔岳は古来より「立山修験道」と呼ばれる山岳信仰の対象だった。雄山神社「本地不動明王」の御神体そのもので、また山塊は「針山地獄」とみなされ、剱岳を遠く立山連峰より「遥拝」すべしとの作法があった。なので劔岳に直接登頂することは、いままで全く許されていなかった)
(※3 宇治 長次郎、明治四年十二月二十三日~昭和二十年十月三十日。幼き頃より山と共に暮らし、山々で育った根っからの杣人であり、山男である。礼儀正しくとても謙虚な人柄で、北アルプス各地の山岳ガイドを永く務め続けた鉄人。その功績を讃え、雪渓の「長次郎谷」に名を遺している)
柴崎は単身、夜行列車で一路富山へむかう
柴崎と長次郎は、富山駅で初対面した。長次郎は誠実で朴訥な人柄、早々に長次郎宅へと招かれた。長次郎はまず自分が記した絵図を示し「劔岳は立山連峰の中で最も危険、下見を重ねることが重要である」と説明した。
翌日には、長次郎の仲介で芦峅寺(あしくらじ)の総代「佐伯永丸」へ挨拶する。そして人夫は出せないが、資材手配は協力すると約束してくれた。続けて立山室堂(たてやまむろどう)へ、劔岳周辺の偵察に向かった。
ふと考えてみると、昔は富山から室堂平※1まで徒歩で登っていたはずで、大変な道中だったでしょう(いまはバスで室堂に簡単に着きますが)。尾根伝いには大日岳、奥大日岳から室堂乗越、別山を巡って立山へ至る、行者道があった。この尾根筋は大変だ!
▽山行で交流を深めた二人は、室堂で天幕泊することになった。
翌朝。はるか遠く富士山を望遠しつつ、長次郎が「三つの劔登頂案」を提案する。
壱、別山へ登って尾根伝いに劔澤へ降り、東面より取りつくルート。
弍、劔御前へ登り、前劔へと尾根伝いに峰々を縦走するルート。
参、室堂乗越を越えて、西へ張り出す尾根伝いに登るルート。
だが、いずれの案にしても劔岳の七、八合目あたりからは、人を寄せつけぬ「峻厳な巌壁」であり、そこより頂上まではいずれも未知の巌稜登攀となる。まずは、この難所に辿り着くまでの、安全なアプローチが求められた。
(※1 標高は2420m。この一帯を「室堂平」と呼ぶ。東西に600m、南北は200m。東奥の小高い所に木造平屋の建物『立山室堂』があり、これが「国内最古の山小屋」となる。しかし建築様式に古めかしさはない。元来は修行道場であり、山の遥拝所とした玉殿窟が麓にある)
「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ!」
「お山のことなら行者に聴け」そこで二人は、玉殿窟にて籠る老修験者を訪ねた。長次郎は見かけた行者に対し、手を合わせる信心深さを示した。その姿をみた柴崎は「長次郎の迷惑になっているのではないか?」といぶかる。すると長次郎いう「誰も行かなかったら道はできん。柴崎さんとわしらが登れば道はできますちゃ。劔岳はきっといつか、誰かが登らないといけない山ではないでしょうか。わしは柴崎さんと同じ想いです!」と熱き言葉で柴崎を励ますのだった。
長治郎の案内で劔の大雪渓を歩き始めた。
その雄大で荒々しい大自然の光景に「私がやっていることが、ちっぽけに思えてきます」と柴崎が言えば、長治郎は「人は、寂しさに耐えながら生きているからな…何であれ山に登ることは、気持ちがいい」と応じた。まるで哲学者のような山男なのです。
二人はそびえ立つ劔、その麓の巌稜帯(前劔、一枚岩)まで辿り着いた。
長治郎が「ここから先は、もはや誰も行ったことがない」という。とりあえず確認のため長治郎が草鞋を脱ぎ、目前の絶壁の向う側へ軽々登っていく。その姿を見送りながら「自然の猛威とこの絶望的な巌壁を超え、測量機器をとても上げることが出来ないのではないか」と思う。
やがて長次郎が「越えた先も、やはり無理!」と叫んだ。急に風が強くなった。柴崎の脳裏に一年後の測量登山がどうなるのか、漠然とした不安を覚える。
天幕地へと戻ってくると、劔の偵察にやって来た日本山岳会の小島らとバッタリ遭遇する。小島は得意気にヨーロッパ式の最新登山装備を披露した。柴崎は老婆心から「劔岳を登るのは危険な遊びだ」と、忠告すると「必ず先に登ってみせる!」と小島が、ライバル心をむき出しにしてそれに応えた。
S.E.「🌀びぅぉぉぉ~🌀ぶょぅぅぅ~」
再び登道探しに出る柴崎と長次郎の二人。しかし劔岳の冬の訪れは、予想以上に早く猛吹雪となった。劔の巌稜部の取り付きすら発見できずに、やむなく偵察山行を終えることになった。長次郎は「玉殿窟の行者様と一緒に戻りたい」とその身を心配する。
玉殿窟を訪れると老修験者は『雪を背負って登り、雪を背負って降りよ!』と古くから修験道に伝わる言葉を告げて、その場に昏倒してしまった。柴崎は行者を背負いながら下山する。ようやく下界に戻った二人は、翌年四月の再会を固く約して、柴崎は汽車に乗り東京へと帰り着く。
「山が隙をみせる瞬間を狙え」とのアドバイス
陸地測量本部※では柴崎の「リアルな報告書」に対して、たいそう不満だった。それは新聞記者たちが「先に劔岳に登頂するのは、陸軍なのか?山岳会なのか?」といたずらに煽りたて、空騒ぎしていたからだった。陸地測量部長は「君に選択の余地はない!何としても初登頂するんだ!」と、再び“劔岳初登頂”を厳命。これに困惑した柴崎は、元測量士の先輩古田盛作に再び助言を求めにいく。やはり持つべきものは、良き先輩だ。
古田は「できるだけ接近して観察することだ。山が隙をみせる瞬間を狙え!」とアドバイスした。山がスキをみせる瞬間、いったい何時なのか?
(※東京三宅坂に参謀本部内、陸地測量部があった。明治四十一年(1908)より「二万五千分の一 地図作成」を開始する。大正四年(1915)に「一等三角測量網」がひとまず完成。大正十三年(1924)には「日本全土、五万分の一地図」が完成した)
▽参考/📻ラジオドラマ『劔岳 点の記』前編。熱血漢、藤岡弘隊長が行く!
翌春。満を持して、測量隊が劔岳へ出発する!
翌年四月。春爛漫、桜が満開※1している。柴崎は自宅で、新妻である「葉津よ」と登山装備の準備と、自身の身辺整理をしていた。
「命を賭して山に登る覚悟」を決めたのだっ!
「あとは自分でやるよ。何がどこに入っているかわからないと、いざというとき困るから」と柴崎が妻、葉津よに告げる。その言葉に急に心細くなり、柴崎のリュックサックへ密かにお守りを滑り落とす。このシーン、葉津よの心情を端的に表していて、とても良いね。
さぁ、いざ出発だ!!
柴崎のもとに測量経験豊富な「木山竹吉」、血気盛んな「生田信」の二人が加わった。劔周辺の山々に「二十七か所の三角点」を建てる計画、ためにボッカ(荷物持ち)として、現地人夫三人も加えることにする。これで七名の測量隊となった。さっそく劔岳へ向おうとする長次郎に、息子の幸助「あの山は、登ったらダメちゃ!」と強く父を諌めようとする。そんな幸助を振り払い、長次郎は柴崎の前を頑然と歩き始めるのだった。
春とはいえかなりの残雪が残る、とても厳しい山行となった。そしてまたも吹雪が測量隊を襲う。下界とは全く異なる立山気候の気まぐれ※2さに、右往左往しつつも劔の取り付きの模索を続けるのです。
右でもなければ左でもない。それならば…何処へ?なかなかに「焦れったいストーリー」です!これが未踏峰の難しさ、誰かが踏破さえすれば、あとは格段に楽になるのです。この時代の「劔岳初登頂」を現在に置き換えれば『梅里雪山(という未踏峰、中国雲南省)』の登頂アタックに匹敵するレベルなのではないか?
この当時には、簡単な山図面すらなかったので「自分のカンと案内者の言葉」に頼るほかなく、ルートファインディング(図上と地形の登道探し)も簡単ではなかった。国土地理院の仕事のありがたさが、これで判りますよね。
(※1 桜の名称は元来、草花が密生する“植物全体を指したもの”と云う。春に山から里に降りてくる「稲(ササ)の神」が、憑依する「座(クラ)」から「サクラ」と名ずけられた。また富士山から花の種を撒き花を咲かせた「木花咲耶姫」より「サクラ」となった説話も面白い)
(※2 立山の峰々には日本海からダイレクトに北風が吹き付けます。山頂付近では常に冷たい風が吹きつけその結果、すぐに天候がコロコロ変化する。気圧計に注意すべきです)
さて一日目の夜。
天幕地で、柴崎に生田がいう「明日、剣岳やっちゃいませんか?山岳会が来る前に…」柴崎は「俺たちの仕事は、剣岳に登ることだけじゃないんだっ!」といい返す。測量隊は登ってからが、仕事本番なのだから。
そこで長次郎が雪渓沿いに、劔岳の西側尾根部あたりから探ることを提案する。地元出身で土地勘のある「岩本鶴次郎」を案内役とし「柴崎、長次郎、生田」の三人で、馬場島方面へと向かった。早月尾根、キワラ谷(きわらだん)。道無き道を突き進む!ドドーン!!
その雪渓の北側から気和平を目指した。すると途中で、突然「底雪崩※3」に襲われる。全員が完全に雪に埋もれてしまった。この出来事に「早月尾根」からの登頂はもはや困難であると判断、室堂まで撤退を開始した。これはいわゆる“引き返す勇気”ってヤツですね!そりゃ雪崩に巻き込まれれば誰だって、腰が引けます。
(※3 “なだれ”は、春先の融雪期に長雨や温度上昇に伴って、大規模雪崩が誘発される。新雪部だけが滑り落ちると「表層雪崩」積雪した全層が一気に滑り落ちると「全層雪崩」と言いわけます。渓谷にゴロゴロ溜まるデブリは、雪崩があった痕跡でありひとつの基準)
ここで、豆知識「三角点情報、パート1」📣 ぱふ ぱふ
さて、山岳地図を作るときに第一基準とする標柱が「三角点」。三角点からの距離、方位、高さを測量することで、より精密な平面地図が出来あがります。三角点構築に命を懸けた柴崎芳太郎みたいな測量士が、全国でたくさんの山岳路を切り拓き続けたのです。その結果、現在。日本に約10万6000箇所もの三角点があります。そこでは、きっと数々のドラマがあったことでしょう。
本測量時には、三角点の真上に「4mもの丸太のヤグラ」を組み上げ、経緯儀で測定したらしい。なので山頂への荷揚げ重量は、マジ半端なかった!聴いた話によると「一人あたりのボッカ重量は、100kg以上」にもなったという。そんなの、凄すぎるやろ~!ワタシなら一歩も歩けない…てか、そもそもが担げない…そしてこの三角点は、我々の身近な場所にも存在しています。はいっ、ピークハンター垂涎?の「一等三角点✨」をご紹介。ジャン!
▽これが友ヶ島、鷹ノ巣山△119.7m、立派な「一等三角点」だっ!
…をひをひ、つぎ行ってみようか、次!
陸地測量隊と日本山岳会の軋轢と邂逅
ライバルの日本山岳会が富山県へと到着した。それを待ち構えていた新聞記者達が、小島を煽り取材する。富山日報の牛山が「ずいぶんのんびりと登場ですね。測量部が勝つとみんな噂してますよ、勝算はあるんですか?」これに対して「勝算があるから、来ている!」と、自信満々に応えた。果たして劔初登頂は、どちらに軍配があがるのか?
柴崎、長次郎、生田の三人グループは、ひとまず「鷲岳」の測量を終えた。すると帰路、猛烈な吹雪に巻き込まれ、ホワイトアウトする。そして踏跡(ルート)まで見喪ってしまう遭難の危機が訪れる。案内人の長次郎に、強くあたりだす生田。それを「誰が一番山の事を知っているのかっ!」と柴崎が強く諌める。
S.E.「🌀ぴょぉぉぉ~🌀ぶぉぅぅぅ~」
長次郎は雷鳥※の鳴き声「グェ~ グェ~」を聞き分けて方角判断し、天幕場に二人を無事誘導した。そして天幕を吹き飛ばすほどの暴風を何とか一晩凌ぎきった。翌朝、救助に来た木山と人夫たちに無事救出される。
日本山岳会も劔岳アタックを目指し登り始める。山行途中に柴崎らの焚火の痕を見つけ、きっと測量隊はここで諦めたのだろうと推測した岡野が、「我々が劔岳やってやろうじゃないか!」と気色ばんだ。しかし測量隊を出し抜こうとする岡野とは、見解が異なる小島は「安全な道で登ろう」と別山(劔御前)の尾根筋からのルートを主張する。
(※氷河期に大陸より南下し、日本に棲みついた。森林限界帯で見られる 。劔では「山神の使い」として大切に保護されてきた。外敵から身を守るため、冬の純白、繁殖期の褐色、さまざまな姿を魅せる)
地図は国家のためではない。生きている人々にこそ必要なのだ
ようやく資材準備が整った測量隊。劔岳の想定外の厳しさに、柴崎は自分たちのしている『地図造りの意義』を深く考えていた…そして先輩古田と妻宛に、手紙をしたためる。
測量隊は「奥大日岳」に、ようやくひとつ目の三角点設置を果たした。そんな折、測量隊と山岳会が偶然、劔澤雪渓で天幕を並べることになった。小島は自分の決意を語る「人には、それぞれの生き方がある。その人の目指すもの次第だ。私は挑戦する心に勝るものはないと、そう思っている」と柴崎に告げた。その言葉に柴崎は奮起し、劔岳登頂を狙うことに決めた!そして「秋に行った巌稜(前劔)に、もう一度行ってみましょう」と長次郎に伝える。これで二度目の挑戦となる。
そして生田が勇んで腰へ藁縄を巻きつけ、雪付きの巌稜壁に取り付いた。しかし、巌壁から滑落し右足を怪我してしまった。またも攻略失敗となる。怪我の生田を「立山温泉」にひとり残し、測量隊は再び劔岳へ立ち向かう。そんなおり、長次郎の息子 幸助が立山温泉へと訪れる。持参した手紙と差し入れのふかし芋を、生田へと託したのだった。
幸いにも足の傷がいえた生田は、測量隊へと復帰した。持参した「古田から柴崎宛」「妻から木山宛」「幸助より長次郎宛」それぞれへの手紙と、ふかし芋を手わたす。そして自分に子供が生まれたことを話すと、隊員達は歓喜の声をあげた!
測量隊が奥大日岳を別山(剣御前)から観測していると、山岳会が訪れてきた。劔の自然の厳しさを痛感した小島が「自分たちの山登りは、遊びなのかもしない。我々は登ること自体が目的だが、あなた方は山に登ってからが本当の仕事だ…」という。「では、なぜ山に登るのか?」と柴崎が問えば、彼は沈黙してしまった…その時柴崎は、先輩の古田から届いた手紙の文面を思いだしました。
ドド~ン!!『地図は国家のためではない。生きている人々にこそ必要なのだ。人がどう評価しようとも、何をしたかではなく、何のためにそれをしたかが大事なのだ』By 古田 盛作
寝静まった夜。長次郎は息子からの手紙を読んでいた…長次郎は涙していた…まだ幼かった幸助が、父と「雄山※」に登った想い出話がしたためてあった。
手紙『…道中は、父ちゃんの背中だけを見て。苦しかったが、やっと頂上に近づいたとき、父ちゃんが「先に行け!」と言ってワシが頂上に立って、振り返って父ちゃんの顔を見たとき、笑っていたように見えた。こんかいワシを殴って、山に入る父ちゃんの背中は、あの時の背中と同じやった。あの時、ワシに言いたかったこと、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、乗り越えて喜びを味わうんやね。いまは、測量隊と無事のぼることを祈っている』と、書いてありました。
このクダリは物語の伏線だけど、泣かされたよ!もう爆泣き。自分の子供の頃を思い出したからね。親に連れられて登った山は、決して忘れない。ほんと辛かった、でも愉しかった!そんな「想い出だけが、人生の宝物」となってふとよみがえります。こんな話は“山男あるある”かもしれないな。
(※立山連峰は主峰、雄山(△3003m)、大汝山(△3015m)、富士ノ折立(△2999m)の三山で「立山」と総称される。なので立山としてのピークはありません)
ここで再び、豆知識「三角点情報、パート2」 📣 ぱふ ぱふ
一等三角点の標石の重さは、何と「柱石が90kg、盤石が45kg」もある。標高3,000m級の高山に、剛力が「うんしょこ💦うんしょこ💦」と麓から人力で運び上げる。まったく登道すらない傾斜面を藪漕ぎしながら荷あげした訳で、それには壮絶な難渋したことでしょう。我々が山頂でふと見掛ける部分は、標石全体からすれば、ほんの先っちょ部分でしかありません。標石の上部より「柱石」→「盤石」→「下方盤石」と並び、さらに石柱の周りは、四方の防護石でガッチリとガードしています。
標石×1、盤石×3、単純計算すれば石だけで225kgにもなる…驚!こんなの劔岳のアタマまで引き上げるの絶対ヤダ!
地下にある盤石と下方盤石は、災害後などに標石をすぐ復元作業できるように考えられていて、それぞれの石盤の中心線を一致させている。しかし高山の頂点などでは、下方盤石が設置されないことも多いという。土のない岩盤の山もある訳で、柱石の埋没はどうするのだろうか?まさかの盛り土とか?どんだけ~凄いのよ!
ついに前人未到の劔岳頂点へ到達!
柴崎と長次郎は、室堂の老修験者が語った謎の言い伝え『雪を背負って登れ』の真意を考え「大雪渓を辿り劔頂上を目指す」と、登路の決定する。長次郎の勘では三ノ澤雪渓(いまの長次郎谷)には、割れ目(シュルンド)はないと考えた。だが柴崎の憂いはもっと深刻だった。「…仮にこれで登頂出来たとして、測量機材や石柱などを果して山頂まで、引き上げることができるのだろうか?」というものだったからだ。その選定ルートは「劔澤雪渓」をひとまず降り、東側にある雪渓「長次郎谷(ちょうじろうたん)」を直線状に登りあげ「熊の磐(くまのいわ)」を目指す。さらに「左俣(ひだりまた)ルンゼ」を超えて「長治郎のコル(鞍部)」迄でる。そこから懸案である「劔の巌壁」へ取り付くというルートだった。
長次郎を先頭に測量隊は三の澤雪渓を、一歩いっぽ劔岳に向け着実に進んでいった。雪渓での落石は音もなく、まったく予断を許さない。また、もしも誰かが雪渓を滑り落ちれば、もはやそれを止める術はなかった。それ程の急斜度雪渓を登りきると、いよいよ聳え立つ巌稜帯にブチ当たった。
測量隊は、互いを藁縄(わらなわ)でアンザレン※1し、山陵帯をまた一歩ずつ、慎重に登り進めていく。取り付けば呆気なかった。そしてあともう少しで頂上といった場所で、長次郎は「ここまで来れば、後は大丈夫ですちゃ」と腰縄を解く。長次郎は、柴崎に先頭を譲ろうとした。これは「栄えある劔初登頂の第一歩を、柴崎に踏んで欲しい」と忖度※2したからだった。だが柴崎は長次郎に、静かに伝える「私はあなたの案内でなければ、頂上へは行きません。我々はもう立派な仲間です。私はあなたがいなければここまで来れなかった。この先も仲間と一緒でなければ意味がないんですよ、長次郎さん。最後まで案内お願いします」長次郎が他の面々を眺め、どうやら柴崎と同じ気持ちなのを確かめ、遠慮がちに再び命綱をギュと巻き直す。長次郎は、また先頭にたち歩き始めた…。
~明治四十年七月十三日~
柴崎達測量隊は、ついに前人未到の劔岳頂点へ到達した!そしてそこに標石ではなく、四メートルほどの棒杭に『景 第二十七號 四等三角點※3』と記し「二十七番目の三角点」をようやく建てることができました。これには何とも言い表せない達成感を、味わったことでしょう!!
(※1 アンザレンは、登山パーティーが「滑落予見される岩壁」を登る際に、ビレイ(安全確保)のためにザイルでつなぐ登山方法。しかし、もしひとりでも滑落すれば、全員が次々引きずり落とされる可能性は高く、けっして安全が担保される訳ではない)
(※2 一説には、長次郎は「宗教上の理由」から頂点をあえて避けたといわれる。宗教的側面として『立山開山縁起』大宝元年(701年)剱岳、立山連峰の山々を「佐伯有吉公(慈興上人)」が登頂、開山し「立山信仰」が成立。以降、剣岳に登ることを禁忌とし、立山曼荼羅では劔岳を『地獄の針の山』としていました)
(※3 四等三角点だと記録外となる。柴崎らの標柱があった痕跡は、劔岳祠の北側にある「ケルン、石積み」として、まだ残っている。これより時代がずいぶん下がって、平成十六年八月のこと。国土地理院がヘリコプターによって、ようやく石の標柱「三等三角点」が劔岳に設置されました!)
何者にも囚われず、何物にも畏れず、心のままに
この行者の言葉を胸に、測量隊は劔岳の測量準備を黙々と続ける。その合間、長次郎は巌稜の隙間に修験者が持つ「錫杖頭と鉄刀」を発見する。さらに古い焚き火の跡もみとめた。これらは遥かな昔、劔岳に登頂した者がいた証だった。このことを軍の上層部へと伝えると「一番ではなかったのか…」とひどく落胆し、柴崎たちの偉業を今度は不当評価しはじめる。さらに測量隊と山岳会の競争を煽っていた記者達も「初登頂ではなかった測量隊」との見出し記事で、柴崎ら測量隊に追い打ちをかけた。
劔岳で発見された錫杖頭と鉄剣は「千年以上も昔、修験者の遺物」であると判明した。さらに柴崎は、玉殿窟の修験者が亡くなったことも知った。「劔岳に登頂できたのか?」と、末期まで柴崎達を心配していたのだ。
~柴崎たちに遅れて、八月三日~
日本山岳会も、劔岳登頂を果たした!測量隊が「別山」から劔岳測量していると、山岳会が登頂を果した姿が見えました。小島と柴崎は遠く離れた山で、お互いの姿を確認しあいます。良きライバル小島烏水は「剣岳、初登頂おめでとうございます。この歴史的登頂は、日本山岳史に後世まで語り継がれるでしょう。劔岳を開山したのはあなた方なのです。ただ地図を作るためだけに、自らの仕事を成し遂げられたことを心より尊敬します」と手旗信号で讃えた。すると生田信も、毛嫌いしていたはずの山岳会に「剣岳、登頂成功おめでとうございます。小島烏水と日本山岳会のみなさんの栄誉を讃えます。あなたたちは、私たちのかけがえのない仲間です」と手旗で応答しました。 ~終~
~仲間たち~エンドロール~
▽参考/📻ラジオドラマ『劔岳 点の記』後編。汗と涙の物語は淡々と終わってしまう。これにて「劔岳点の記」の読み終わりで御座います。
そもそも『点の記』とは、何なの?
三角点の戸籍簿のようなもの。山名、地名、高度、経緯度、三角点へ至る道順や水源、食料の確保、測量人夫の雇用状況など測量隊の各種情報が記されている。もっともいまやGPSの時代となり、現在の測量には役立つことはないが、設置当時の状況を知る貴重な歴史資料となります。
『死ヲ賭シテ最後ノ登山ヲ試ミマシタ』By 柴崎 芳太郎
日本山岳史によれば…映画と少し違います
柴崎らの初登頂の二年後、明治四十二年(1909)日本山岳会「吉田孫四郎」グループが剱岳に挑む。案内人は宇治長次郎。これが民間人の初登頂となった。登山ルートは、勝手知った長次郎谷から。さらに続く登頂は、四年後。大正二年(1913)日本山岳会の「近藤茂吉」グループが果す。近藤は宇治長次郎と佐伯平蔵の両名と長次郎谷から登頂し、新ルートとなる「別山尾根」から降っていった。この劔岳に突き上げる二大雪渓である「長次郎谷」と「平蔵谷」は、この劔岳案内人ふたりを讃えて名付けられました。以来、劔岳の各所に「高名なクライマー名」を冠する先駆けともなりました。
『人は寂しさに耐えながら生きている』By 宇治 長次郎
【後書き的な何か・・】
冒険は自己責任」と、言い放つ奴!ど~ナノよ、それ?!
どうやらかなり以前から、登山ブームらしい。有名な高山に「山ガールが大量発生」しているのだ。しかもね、野放し状態らしいよ。「キャッチアンドリリースなのだぁ!」←コラコラ!はいは~い、閑話休題。
2019年9月のことです。単独登山の横浜市の19歳女性が、劔岳登山後「前剱と一服剱の稜線」で滑落死したとても痛ましい事故があったのだ。以下引用文はこの女性を探していたのお兄さんがネトにあげたものです。しっかりした文章からは、誠実な人柄が伺えます。
~9月11日深夜、SNS上にて~
引用『昨日の昼から家族と富山の警察署にて遺体の確認に行ってまいりました。警察の方の話では、恐らく剣岳に登頂したあと「夕暮れの暗さと霧による視界不良」の中、経路を間違えて崖の方に進み滑落したのではないかとのことでした。妹の遺体は150m滑落したことで、岩場に身体中を打ちつけており損傷が激しく「顔は殆ど原型を留めておらず」包帯でぐるぐる巻きにされ体も毛布で隠され、確認出来ない状況でした。唯一見ることのできた肩の部分には普通なら付かない場所に痣があり、壮絶な落下だったのではないかと思います。顔の確認が取れないため、身元の確認はDNA検査をする事になりました。
しかし一緒に発見された遺留品には見慣れたスマホのケースや鞄、靴など遺体が妹であることを証明するような物が多数ありました。その中には、防水処置のなされた防寒着や着替え雨合羽などもあり、私の想像よりはちゃんと準備してたのかなと思います。しかし遺留品は全部発見されたわけではありませんが、非常用のビバークやヘッドライト、コンパス、紙地図などは含まれておらず装備が不足していたことは事実です。 (中略)親から連絡を受けてからずっと最悪の場合を覚悟していましたが、低体温や飢え、水分不足などで苦しむことなく本人も何が起こったか分からぬうちに終わったことは、良かったと考えています。
今回の事故は「無計画さと準備不足に起因する」ものであります。どうか今回の妹の事故でこのような悲惨な最期を迎える方が居なくなるよう、私や私達家族と同じ思いをする方が居なくなるよう、妹の事故が何かの教訓になることが今の私の願いです。(後略)』
この遭難時にSNS上では、ずいぶんとガチャガチャと騒がれていた。その中でわたしが気になったのは『山登りは、自己責任だから~云々』といった文脈で語るヤツらが結構いた。クライマー当人がそう云うのなら、それはもう仕方ない。だが「山すら登れないよーな奴(知らんけど)らが、何を言うかっ!」と妙に腹が立った。何なんだろね、この違和感は…?!それで、この事故案件をブログに書いてみようと想ったのだが…「何とも気分は重くなる一方」だった。ど~しても「ネガティブ気分」のまま、いままで無駄に時間が過ぎてしまった。こりゃいよいよ、ダメぽ~な…💧
それで今回、映画『劔岳 点の記』のレビュ風に、仕立て直したのでした。当初「考えていた意図」が、これで伝われば良いのですが。やっぱ長杉かしら、ねぇ…?
▽おまけ/劔岳の物語をなぞり、劔の写真を眺めていると、無性に聴きたくなった曲があった『ずっとそばに』By原田知世、原曲 松任谷由実。
きみはハンター もがきながら
宝物みつけ きっと戻って来る
かわってあげられぬ
痛みが 哀しいわ
どんなに想っていても
たなびく夕映えの雲 私に
涙あふれさせてくれた かわりに
そっと呼んで つらいならば
時を かけて 行くわ
(15,900文字、Thank you for Long sentence reading. Go to mountain climbing!) 参考出典/国土地理院、GoogleMAP、ウキペディア、館山博物館、山と渓谷。今週のお題「もう一度見たいドラマ」#劔岳 点の記#12月1日は映画の日