この本能寺の変は「永遠のミステリー」と呼ばれ、多くの歴史ファンを引き付けます。その光秀が愛宕山で初めて「謀叛の意思表示した」と云われていますが、ホントのところは…?
愛宕百韻(あたごひゃくいん)ときは今 あめが下知る 五月哉
天正十年五月二十八日※1は「愛宕山※2連歌会」が開かれた日。連歌は「発句、五七五に続き七七を付け、七七を受けて五七五…」と続けて詠みます。そして「百句をもって、ひとつの作品」となし、これを「百韻」と呼ぶ。
この「愛宕百韻」の連歌、殆どが暗号文のような“隠喩※3の連続”なのです。後に、この時の発句が「光秀が反乱を表明している」として一躍有名になりました。通説どうりに既に“謀叛意図があった”として、少し考察してみます。
(※1 ユリウス暦になおすと六月十八日頃となる、梅雨のさなかでした)
(※2 愛宕山。右京区嵯峨愛宕町にある山、標高924メートル、丹波山地で突出した硬岩。山頂には、朝廷の火難除けの信仰「愛宕神社」があり、山腹には「月輪寺、空也の滝」などがある)
(※3 メタファー、暗にそれとなく伝えること。比喩表現の一種)
里村紹巴以下九人が「愛宕山威徳院」にて巻いた百韻
また謀叛とは別に、光秀の中国方面への出陣前なので「暗黙の了解」として戦勝祈願を“言挙げ”したはずです。こちらはまず間違いないと思います。そんな時代の微妙な空気を踏まえて、愛宕威徳院において歌詠みが始まったのでした。
百韻は、最初の三句、発句、脇句、第三、あと最後の挙句、この四句が勘所らしいのです。これらにより、云いたいこと(裏の意図)を言い切ってしまうとか。
素直に(うわツラだけ)考えれば中国戦線「備中高松城攻め」を描写、その「戦勝を言挙げ」しているのだ、と想えます。そのことを一応踏まえつつ…発句では、季題を定めます。
①先ず明智光秀が、発句『ときは今 あめが下知る 五月哉』と詠みました。
これのワタシの解釈は…
「とき」→「土岐氏、光秀の出自」
「あめ」→「天、天皇」
「下知る※1」→「下命」
これを意訳すれば「土岐氏※2(光秀)に天皇が、御下命された五月」
(※1 実は「あめが下知る」→「天が下なる」で、改ざんされたというもの。とりあえずここでは、従来解釈の下知るとしておきます)
(※2 土岐氏は鎌倉時代から江戸時代にかけて、美濃で栄えた名門武家。清和源氏系)
②次に威徳院行祐が受けて、脇句「水上まさる 庭の夏山」と詠みました。
ワタシの解釈では…
「水上」→「物事の始まり、神」
「まさる」→「勝る、勝利」
「庭」→「朝廷」
「夏山」→「愛宕山」
意訳すると「神なる愛宕山より、朝廷(京)へ流れ始めた」それは何か?
③里村紹巴が受けて、第三「花落つる池の流れをせきとめて」と詠みました。
ワタシの解釈は…
「花おつる」→「桔梗の花弁」
「池の流れ」→「時代の流れ、巨椋池※か」
「せきとめて」→「関とめ」
意訳すると「時流を関止め、桔梗紋(光秀)は“花”を落とす」
(※当時、京都南部に巨椋池(おぐらいけ)という巨大湖があった)
④明智光慶※が百句目、挙句「国々はなおのどかなるとき」と詠みました。
ここでまた発句の頭と同様に「とき=土岐」が登場します。百韻が一周した訳です。「国々はなお のどかなるときは 今 あめが下知る 五月哉」と愛宕百韻が、完結した。しかし・・この句もやはり、何やらおかしい。戦乱のさなかに「国々はのどかなるとき」とは、いったいどうしたことなのか?そして時制は、これで天下泰平とは何故なのか?
(※明智光秀の嫡男、光慶(みつよし)ですが、生年不詳で元服や初陣の記録もない不思議。唯一、光秀主催の“愛宕百韻で光慶が結句を詠んだ記録”があるだけです。この時は十三歳位だったらしい。山崎での敗戦のあと坂本城にいた光慶は、比叡山に逃れ出家したのではないか?光慶にはいくつか生存説があり「妙心寺」住職となった僧の「玄琳が光慶」であるという説。光秀唯一の肖像画がある和泉国の「本徳寺」を開山した僧「南国梵桂が光慶」といった説もある)
さらに穿った見方をしてみればこうなる
また、③+②で「花落つる 池の流れを せきとめて 水上まさる 庭の夏山」とイイ感じの成句となる。これは、とても風流ですね。
まとめて超訳す「惟任光秀に天皇が、御下命なされた五月。いままさに愛宕山より、朝廷の時代へと流れが代わり始めた。織田の流れをせきとめ、桔梗紋は“花”を落とします」ひらたく直せば「ミッツーがこれから首とって、織田軍団を仕留めようとするんやろ。ほならな、上流の関所(山崎関※)あたりに陣取れば、勝てるんちゃいますかいなぁ?」言うことですかな。
しかし、いくら何でもそこまで言うのか?
やはり、おかしいのである!
(※この場所は古くから、交通の要衝で「山崎関」が設置されていた。京より警固の兵が派遣されたらしい)
結論を出すその前に、この妙な歌を再考す
もしこれが本当なら光秀さん以下、そ~と~な“アホタレ”としか言いようないではないか。そ~だよ、叛意がバレバレなんだからさ、コレでは!
ワザワザ 犯行予告までヤラかして、誰得 なんだよっ!!
第三「花落つる池の流れをせきとめて」例えばこの歌「備中高松城水攻め」の落城描写と思われますが、そこがやっぱり妙なのですね。五月二十八日の時点で、いまだ城主清水宗治と高松城は、水没ながらどちらも健在。もちろんその後、六月四日になりようやく城主切腹決着となり羽柴秀吉、自慢の手柄話がまたもや増えました。百韻歌詠み時、横に居並ぶ明智の大将(秀吉の付与力にされた)を差し置いて、ライバルの秀吉(先任の総大将)褒めするのかぁ、紹巴はんはよ?それは、ナイナイ。ありえな~い!
もちろん真実は藪の中、推測する以外にないのですが…例えば後の時代、政権奪取に動き出した羽柴秀吉が「愛宕百韻」のことを知り、里村紹巴あたりを呼び付け“歌の改竄”を命じたのではないかな?
そして黄金十枚ほど、目の前に積み上げ「ほれっ、ねんごろに推敲を加えよ!よき歌になっ」と猿殿下が命じた。これ充分ありえると、思います!
👉よって結論、愛宕百韻は・・
「時の権力者秀吉により改竄されたもの」である。
ほぼ、間違いないっ!
では、明智光秀の拵えたオリジンは・・消されてしもうたのか?悲しい話だなぁ、うん。
では、その代わりに萬葉集より朝顔の一句を。万葉集のなかで「秋の七草」と歌われている「朝顔の花」は、実は桔梗なのです。明智光秀は桔梗を家紋とし、こよなく愛したらしいですよ!
朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ
(※桔梗は朝露にて咲くというが、夕陽でこそ一層その美しさが際立つのです。萬葉集 10-2104 詠人知らず)
[愛宕神社]は、こんな場所
○愛宕神社の場所は、朝日峯の頂点に位置する。古来より平安京における「王城鎮護、火伏せの神」とされてきました。
○祭神は本宮に稚産日命、植山姫命、伊弉冉尊、天熊人命、豊受姫命の五柱。若宮には雷神、迦遇槌命、破元神の三柱が祀られています。
○住所 京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1 京都バス「清滝」終点、下車、参道を徒歩にて約4km 専用駐車場があり、拝観は無料です。
何かと“謎”が多い明智光秀さん。
さらに考察続けたいと想います。
(3000文字、You read it, thank you.)