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佐久間信盛のお墓発見!からの~織田信長の手紙、など考察してみた【武将列伝】

 
織田家筆頭家老「佐久間信盛」が追放された場所は、たしか高野山のはず。まさか、こんな場所に墓があるとは、何故なのか?

偶然、織田武将「佐久間信盛墓所」をみつけた!

奈良十津川に遊びに来てR168を走っていますと、偶然にも「佐久間信盛の墓」との看板があった!好奇心が湧くわく。

 

おっ…なんか小さな看板がある…「これは織田家武将の、あのヒトのことかな?」急ぐ旅ではなかったので、少し寄り道をしました。

我ながら物好きだニャン♪「アンタも好きね…チョッチだけよ。」

しか~し、この武蔵集落への登り口を見落して、一度十津川温泉までスル~スル~と通り過ぎてしまった!「ありゃりゃ、こりゃたいへんだぁ」と即、Uターン。それくらい山のまた山奥だった。笑

▽佐久間盛信 墓所/車(小型)でないと到達出来ません。R168より脇道(旧道)を東に入ってゆく。さらに武蔵集落への細い坂道を登ります。住所は、奈良県吉野郡十津川村武蔵435 

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佐久間信盛の墓

(※十津川村のみどころは…やはり、大自然。星空や雲海が写真バエる!メジャースポットには「谷瀬の吊橋」「十津川温泉」「玉置神代杉」「果無集落」など)

 

佐久間信盛ファンキーエピソード

 

○その一。

陸攻めの時。朝倉義景軍への追撃戦を怠たり、大将義景を取り逃した。それで信長から叱責されていた。すると盛信「…そうは申されましても我々のような優秀な家臣団はなかなか居ませんぜ!」としたり顔で口答えし、信長をさらに「激オコ💢プンプン丸」にさせてしまう。

○その二。

三方ヶ原の戦い※1、徳川方の援軍として出向いた時。佐久間軍は精強武田軍団を目の当たりにして、たちまち恐怖し真っ先に浜名湖付近までトンズラしたとか。もちろん徳川方は総崩れ。これで織田信長は面目丸潰れとなる。さすが異名通り「退き佐久間」真骨頂ココにありですね。

○その三。

石山本願寺攻略の総大将を任された信盛は、力攻めも謀略戦も仕掛けず、丸々五年間をたいした成果もなく過ごした。勿論、戦国最強の雑賀衆が「強烈な鉄砲」で寄せ手側を完全排除したからですが、その恐怖心たるやハンパなかった模様です。お気の毒ではありますね。

 

(※1 余談ですが…三方ヶ原の戦い。当初、徳川家康は武田軍団襲来の報を受け、籠城策をとろうとした。この時、徳川兵8000に加え、織田援軍(総大将が佐久間盛信)3000を合わせ、浜松城にこもればまず負けはない!ところが武田軍主力27000は、浜松城を素通りし西方へと向かいます。プライドを傷付けられた家康は「背後から攻撃すれば、我らに勝機あり!」と主張し、何と「武田軍追撃戦」に作戦変更する。三万近くもの敵軍に対し、寄合連合軍は半数以下。しかも相手は最恐の武田騎馬軍団🐎💨…この愚策は徳川家臣や佐久間盛信らからも猛反対されたが、家康は押し切って出陣する!ドド~ン陣太鼓鳴り響く。徳川織田連合軍は「祝田の下り坂を武田軍の背後から急襲」する手筈だった…ところが武田軍は三方ヶ原の台地の奥で反転「武田 魚鱗の陣」を布き手ぐすね引き待っていた。慌てた連合軍は横陣に近い「鶴翼の陣」を展開。微高地にあり数でも勝る武田軍の攻撃は「きこと風の如く!侵掠すること火の如し!」連合軍は闘かう前から負けていた。この三方ヶ原の戦いは夕刻に始まり、日没までのわずか二時間ほどであっさりと決着がつく。もちろん、武田軍の圧勝だった。必死のパッチ敗走する家康が、恐怖のあまり💩ブリブリちびったのは有名な話(笑!)。記念に絵に描かせたほど(爆!)。さて、敗因のひとつとして「佐久間盛信らが逃げ出した」からと云われるが、これはとんだとばっちり。そもそも「勝ち目のない野戦」を仕掛けた家康が愚か者なのだ。後詰援軍の織田方はそんな負け戦に付き合う義理なく、戦線離脱は軍法にかなっていると想われますね。それにしても註釈、ながっ!)

 

織田家筆頭家老「佐久間信盛」が追放された理由…讒言?

 

そして、その後の展開は… 

やがて信盛には、信長より「十九か条の折檻状※」を突きつけられた。信盛はこの手紙を読んで「もはやワシもこれまでなのか…」と絶望感を抱いたようです。程なくして嫡子の信栄(のぶひで)とともに頭を丸め、高野山へ入りました。

ところがその高野からも信長に追われ、さらに家臣達にも見捨てられ、熊野の山奥で亡くなったときには、息子の信栄と小者一人しかいなかったそうです。天正十年一月二十四日、熊野山中に哀れ信盛没す!

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墓所西側には気持ちのイイ風景が拡がる

(※ ついでに林秀貞安藤守就、丹羽氏勝らも家中追放された。織田リストラ断行!なお『佐久間軍記』には、この追放劇について「誰か(光秀?)の讒言でもあった云々」といったことが書かれています。すると信盛はハメられたのか?信盛追放後、空席となった筆頭家老の座にスルスルと這い上がったのが明智光秀。さらに近畿エリアの武将をうまうま実質配下(与力)とした。これらを考え併せば、さもありなん。その数年後には「本能寺の変」をやらかすのだから、この謀略のヒトはさぁ…註釈またも、ながっ)

 

もしも「織田信長株式会社」があったなら…パワハラ確実!

 

え~本社は東大阪あたりにある、トンデモなブラック企業と名高い総合商社でした。ある日、佐久間常務のパソコンに、信長社長から業務メールがピロロ~ン♪と届きました!

(※以下、チョー適当な、大阪弁に翻訳してみました。笑)

 

<信長社長からの着信 Mail>

用件 :「佐久間信盛にメッサ言うとくで!」

 

To サクやんへ

 

ジブンなぁ、全然あかんヤツやん。七つもの国の支店長かき集めて、もうかれこれ五年なるのかなぁ…ほんで結局のところ、アンタじぇんじぇ~ん仕事出来ひんかったよなぁ。

ぶちょーのヒッデーやミッツーら見てみな、よおけ手柄あるやん。アンタここらへん手柄、じぇんじぇ~ん無いやんかいさ。しやろ?笑

そらな、でけへんのはしゃーないわ、そやけども、やで。出来ひんなら出来ひんなりに、ワイに相談したら、エエんとちゃうかぁ?マジで。そやのにアンタ何もやらんとからに、ダラダラしてたヤン、あっかんやっちゃ。

パートさんばっかこき使うて、自分の部下とかぜんぜん増えとらんちゃう?そらあかんでぇ。あっ、そや。ほんでな水野君のチームやけどな、ジブンに付けたったやん。そやのに、あいつらじぇ~んぶクビでっか?アイツらめっちゃツオかったんやで。ワリと見込み有馬温泉やったのに。

ミッツーやヒッデーら見てみいなぁ。ワイは表彰状何枚書いたと思てんねんな。もう右手、腱鞘炎やでぇホンマ。

で、ジブンどないですか?はやくも隠居でっか?隠居ハン?そらま~そんなコトも考える歳かもしれんけどもな。跡取り馬鹿息子、信栄かな、アレなメッサ評判悪いんやで。

ジブン、あんなんに跡継がすんでっか?ワイの部長とか支店長にまで横柄な態度とってんの、ホンマあのアホタレ笑かしょんでぇ。

そうそう、アンタよりもっと年寄のゴン六ちゃんなんか、北陸支店長スゲー頑張ってますやんかいさ。ゴンちゃんなんか跡取りの話なんかせぇへんて。いまゴンちゃんえらい頑張って…いや、たまには負けることあるわな。そら、しゃ~ないわ。いくさは勝ち負けちゃうしな。しゃろ?笑

まぁ結局のところ。ヤル気やんけ、ヤル気ィ。「ヤル気ィ、元気ィ、猪木ィ~!ボンバイエー」やな。

しょーみのハナシ、このままやったらジブンほんまアッカンで、マジ卍で。なぁサクやん。たまには死ぬ気でワンチャン大手柄たててみ、それか…サクッと切腹でもちてみる?身の振り方ようよう考え天下。ワイ、じぇ~たいゆるしまへんえっ!ほなな、あでぃおす!!

 

第六天魔王 織田信長 (天下布武 印) ババ~ン!

 

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紀伊半島の山の中腹に、佐久間盛信は眠っています。

(※天正三年。水野信元は武田方に内通した疑いで、信長からの命を受けた家康により、殺害される。これは佐久間信盛の讒言があったからという。後、水野領は佐久間信盛のものとなり、水野家の家臣は所領を奪われた。)

 

佐久間/信盛(のぶもり)/出羽介/右衛門尉

織田信長による「折檻状の一件」で、織田氏を離れるまでの三十年間。尾張国の出身で、若い頃から織田家に仕え軍事と外交面で活躍。信長に従い各地を転戦、織田家の主だった合戦に参戦している。殿軍戦(撤退戦)を得意としたことから「退き佐久間」と呼ばれ、案外戦巧者でもありました。織田家臣団の“筆頭家老”として重臣柴田勝家と並び、家中をまとめあげ重宝された。天正十年一月二十四日、熊野山中にて急死す。さしもの信長も、追放した信盛がすぐに亡くなったと知ると、さすがに「息子の信栄」のことは赦免しています。そして唯一の救いは、ずっと信盛に離れずにいた小者は、その変わらぬ忠義を賞されて士分に取り立てられたそうです。

 

(3600文字、Thank you for reading.bon voyage.)#戦国武将