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有田蜜柑 誕生秘話「伊藤 孫右衛門」有田蜜柑の礎を築いた男の話【戦国時代】

 

毎年、五月頃になると有田の山々にみかんの白い花が咲き誇り、甘酸っぱい香りが街中に広がります。「全国一の生産量」を誇る有田ならではの風物詩だと思います。

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ミカンの花が咲いている

そして九月ともなれば、蒼い「極早生蜜柑」が市場に出回り、秋が深まるに続いて「早生、中手蜜柑」と出荷量が増えていきます。品種には「ゆら早生」「日南1号」「上野早生」「大浦早生」など。

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その中で「ゆら早生」は、和歌山県で発見された品種で、果皮が緑色。でも果肉は糖度が高く、さわやか風味なのが特徴です!

 

さぁ、もうすぐ温州みかんの季節到来ですね!なんでも夏の暑い陽射しが、甘くて美味しい蜜柑を育てると言います。今年も、まずまずの作柄ではないでしょうか?

▷みかんの花咲く丘 https://youtu.be/_UFiQcGe_Qc

🍊 極早生ゆら蜜柑

鼻歌♪「みかんの花が 咲いているぅ~ 思い出の道 丘の道ぃ~ はるかに見える 青い海 お船がとおく かすんでるぅ~」有田のみかん畑から海を眺めていると、童謡「みかんの花咲く丘」を思い出しました。

 

有田蜜柑の礎を築いた男がいた

 

有田出身の方の話によると、この地方を“日本一の蜜柑産地に変えた男”がいるというのです。でも、世に名高い「紀伊國屋文左衛門」ではありませんよ。三波春夫先生が唄います。「沖の暗いのに、白帆がぁ~見ゆるぅ~あれが紀伊国ぃ~蜜柑ぶねぇ~♪」

▷名調子『豪商紀伊國屋文左衛門』豪商一代紀伊国屋文左衛門 三波春夫 - YouTube

いや漢、文左衛門・・ではなく。それはまだ世に知られていない、ひとりの男。

その名を『伊藤 孫右衛門』という。

時代は元亀天正あたりの出来事、世の中がガチャガチャ騒乱していた頃ですね。宣教使のルイス・フロイスが「紀州の地には四つ、五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者も、それを滅ぼすことができなかった」と述べています。そんな国人衆や寺社勢力が入乱れ、自主割拠していた紀州は有田地方、糸我村でのハナシです。

 

蜜柑で全国的有名な有田地方は、元々蜜柑が無かった・・えっ?!

 

ここ紀州有田地方は「山また山、こりゃまた山、振り返ったら、川か海」と云う土地柄で、水田はなく米が殆ど採れなかったそうな。昔より見るべき産物もなく、食うや食わずの着るものさえままならないという「極貧の地」であった。その有田の糸我村で農業を営んでいた伊藤孫右衛門は、そんな村民の窮状を日々憂えていた。というか、単純に腹が減りすぎていたのだ。人間、貧すれば鈍するのです。

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第一村人登場

野良仕事を終えた村人が、立ち話をしている…

「のう、バァさんやぁ、たまには熟鮨でも、食べたいもんじゃなぁ~」

「あでぇ、おぢぃさん、アタマでも可笑しくなったのかぇ、米なんか見たこともねぇぇぇ・・」

孫右衛門は「この地域に殖産を起す」には、何がよいかと色々思案シマクリ千代子だった。荒地を開墾し様々な木を植え試してみたが、なかなか良いものを見出せなかったそうな。そのような時、肥後の国は八代高田(やつしろ、こうだ)の地に『蜜柑』という樹木があることを旅人からツテ聴いた。

何でもたいそう「芳しい香りがする果実」がなるというのだ。さらに「山地にあっても生育し、歩留りも悪くない」とも聞いた。「♪からたち、からたち、から〜たぁ~ちの、花よぉ~」か?その時、何かを閃いた孫右衛門は思わず膝をポン!と打ち、眼がキラリと光った・・

みぃ、蜜柑じゃこれじゃぁ~

欣喜雀躍その神木を是非とも我が手に入れ、この地を「ばぶりぃな国」に変えたいと願うようになった。だがしかし。なんでもその木は「藩外不出、面会謝絶、一子相伝アンタッチャブルな木」であり、おいそれと手に入れられるような代物ではなかったそうなのである。

 

🍊ぷろじぇくと おれんぢ

♪地上にある星を 誰も覚えていない 人は空ばかり見てるぅ~

(※1 熟鮨は和歌山の特産品。鯖・秋刀魚など魚と飯を合わせ、樽に漬け重石をする。数日から数か月あるいは数年間も乳酸発酵させる。乳酸発酵によって味は酸っぱくなるが、雑菌の繁殖を抑えつつタンパク質の分解に伴う、アミノ酸成分の旨みを増加させる料理法で、“寿司の元祖”と云われる)

 

そして孫右衛門は来る日も来る日も、たいそう思案した

 

そして和歌山の上役に相談したが、色良い返事をもらうことはできなかった。だが、それであきらめるようなお人ではなかった。ヘタレではなかったのだ。さても~さても~どうしたものか、想い悩んだ。

和歌山県有田市 糸我町の集落

▷リンク/有田市糸我町
https://maps.app.goo.gl/3kryjZBRCcvqqVpL9

村民の窮状を見るにつけ、オイシイ熟鮨を食べたいという自己要求は、ますます強まってゆく一方であった。それで彼は上役に幾度も願いでて、遂に上役も彼のしつこさに呆れ、彼を肥後の国に遣わすことにしたらしい。そこで上役は思う「しかしのぅ、そう簡単には譲ってくれぬであろうぞ」そこで一計を案じ、彼に一通の手紙を持たせたらしい。その内容は「木の所望は、殖産の目的ではござらぬ。単に盆栽として花実の美をめでたいのよ。よって数株恵与されたし…云々」との内容が書かれていた。これでは「テイの良い詐欺or搾取」である。果たして巧くいくだろうか?

そうして孫右衛門は九州に渡海した。八代高田でのすったもんだの末、ようやく「高田小ミカンの苗木二本」が彼に与えられた。孫右衛門は、念願のみかんの木を手に入れた!「イェイ、ゲッチュ~!」それは天正二年のことでござった。

(※2 天正二年と云えば織田信長に追放された公方様「足利義昭」が、紀州由良にある興国寺へ逃げ延びてきた頃なのです。興国寺は、金山寺味噌や醤油発祥で有名ですね)

 

ぷろじぇくと おれんぢ

♪名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴むぅ~

地上の星 / 中島みゆき [公式] - YouTube

 

人は皆、徒歩で旅をした。孫右衛門だって歩くしかない

 

しか~し。さらなる苦闘が孫右衛門に待ち受けていた。今日のように交通手段の発達した社会ではない。人は皆、テクテクと歩いて長旅をした。新たなる難題「いかに木を枯らさずに、郷里まで持ち帰るのか?」といった状況が待ち構えていた。彼は孫を慈しむかのよう(そら孫右衛門だけに)、その苗木を大事に扱い、郷里へと持ち帰ったのです。道中は「背中から二本の木がはえた男」としてたいそうな噂に、マヂかぁ?しかし、長旅の故に苗木は枯死寸前、ハラホロヒレハレ状態であったそうな。一本を和歌山の上役に賄賂としてソッと渡し、残りの一本をようやく糸我村へ持ち帰った!「ばぁ、ばぁさん…ただいま」バタッ!和歌山の木は当然の如く枯れてしまったが、糸我で植えた苗木の方は孫右衛門のたゆまぬ努力と熱情により息を吹き返し、唯一この地に根付いたのである。俗に言う “Dreams come true” ついに願いは叶った・・かに思えた。

ところが、一難去ってまた一難、更なる難題が待ち構えていた。ピンチの連続波状攻撃だぁ・・

 

地場産業と育成してゆくには、繁殖させねばならないですティニー

 

次の難問は苗木の繁殖であった。苗木を増やさねば殖産は叶わないのだ。「繁殖させることこそ、重要!」なのです。農業立国、アグリ産業の命題。「産めよ~増やせよ~金に成る木」孫右衛門は、有田に自生していたという「橘の木」に接ぎ木を試みて、ようやく見事成功させた。これで沢山の苗木を産むことも出来るのでした。やがて数年が過ぎ去った・・

遂にその夢にまで見た果実を、得ることができた。「実の麗しきこと、また美味なこと」は、他の果実の遠く及ばないところであったといいます。

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果実は得られ苦労は報われた

いまで例えれば「メロンより<<マンゴーより<<蜜柑🍊LOVE♡」ですかね。孫右衛門は、さぞや有頂天だったに違いない。孫右衛門の熱意とその果実のすばらしさに、周囲の村人達も大絶賛開催中!です。そして驚いたことに孫右衛門は、栽培方法を惜しげも無く近隣の「保田庄、宮原庄、田殿庄」にも教え、有田地方を密柑産地として興産せしめた。さらに紀州浅野、続き紀州徳川家の庇護のもと、作付面積もドンドン拡大されてゆく。ようやくここに、貧困地有田を窮状から救い、豊かな大地へと変える「一大蜜柑産業が産まれた」のでした!

👏拍👏手👏…めでたし、めでたし、と。

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♪行く先を 照らすのは まだ咲かぬ 見果てぬ夢

遥か後ろを 照らすのは あどけない夢

旅はまだ 終らない…

ヘッドライト・テールライト - YouTube

文中引用した楽曲「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」どちらも神曲✨です。まさに孫右衛門、江戸時代のプロジェクトXだ!

 

柑橘栽培の起源と小みかんなど、こぼれ話詰め合わせ

しかし、ふと想う。「この話はホントのことなの?」起源は諸説あるようです。現在の「有田市糸我町 中番」で紀州藩の委託を受けた、伊藤孫右衛門が栽培したのが始まり・・というのが、やはり“一番の有力説”とのことなんです。

 

🍊曰く、神話時代(十一代垂仁天皇)に、田道間守命(たじまもりのみこと)が中国南部より持ち帰った「非時香果」が、現在の「海草郡下津町」に移植された。その後、有田地方に「橘」として徐々に広まったと伝わります。※3

(古事記 日本書紀)

 

🍊またある説。永享年間(1429年~1440年)糸我町の神田池のふちに、橘が一本自然に生えており、年々実を結び蜜のような味であったことから「蜜柑」と名付けられた。その後、各地方へも広まった。

(糸我社由緒)

 

🍊天正二年(1574年)今回のお話に登場した、糸我の地頭「伊藤孫右衛門」が命を受けて、はるばる肥後八代より「高田蜜柑(小みかん)苗木二本」を持ち帰った。その後、各地方へ広まった。

(紀州蜜柑伝来記)

 

🍊 「小ミカン」とは日本に最初に伝わった品種。肥後国八代に中国浙江省から小ミカンが伝り「高田みかん」として栽培された。のちに有田に移植され大発展したことから「紀州蜜柑」の名で全国に広まったという。

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たわわに実った早生みかん種

🍊江戸で小ミカンが高騰していた。その話を聞いた「紀伊國屋文左衛門」が、紀州から船で蜜柑を運搬し巨大な利益を得たとされる「文左衛門伝説」でも有名ですね。和歌山の湯浅に「紀伊國屋文左衛門生誕の碑」がある。

 

🍊温州みかんが忌み嫌われたのは「種がないから」とか。子孫が絶えるコトを嫌った「縁起かつぎ」のため。時代は移りいまや栽培種のほとんどが、いまある甘くて美味しい「温州みかん種」となっています。 

 

🍊有田の地はその昔「安諦(あで)」と呼ばれていた。ところが平城天皇の名である「安殿」に似ているので「ありだ(在田)」に変えられたそうです。さらに安諦も含めて有田という地名由来に「荒れた川」からきたという説もあり。

 

🍊江戸時代、和歌山城にあった有名な「三宝柑」。その味をいたく藩主が気に入り、「藩外移出禁止令」が出たほどだった。名前の由来は「三方」に載せて、紀州の殿様に献上されていたことから名付く。

 

そして蜜柑はとても甘く、高価なフルーツに進化した✨

 

🍊昭和時代なら当たり前だった「コタツみかん」籠にオレンジ色の蜜柑が盛ってある風景。コタツにこもりムシャムシャ食べるのが、冬の幸せパターンだったねぇ~♪

 

🍊もちろんいまは「薄皮、種無しの温州みかん」です。いまや伝説の小ミカンはお正月の鏡餅の上に、チョンと乗っている位しか見かけなくなった。

 

🍊新堂地区で生産されたもの⇒「新堂みかん」湯浅町田地区で生産されたもの⇒「田村みかん」と呼ぶ。“有田ミカンのトップブランド”としていずれも高名である。お値段もそれなりに。

 

🍊ブランド蜜柑は、有名百貨店や高級フルーツ専門店に並び、とても高価で販売されている。味は「芳香と濃厚な甘さ」があり、近年、諸外国からも大注目されています。

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幸せのコタツみかん

(※3 長めの引用注釈。“日本人に一番身近で親しみのあるのが蜜柑の愛称で通用している「温州みかん」である。そしてその本場とされているのが、和歌山県の有田であり「有田みかん」である。みかんが市場価値をもってから450年余りが経過し、有田地方の農業といえば「みかん栽培」が大宗を占め、天下に冠たる特産品となっている。長い歴史の間では品種改良等があったとはいえ今も変わらぬ消費需要があることは、日本の産業史でも特異な存在であろう。日本書紀には、11代垂仁天皇の御代に、新羅国から帰化した子孫、但馬の国出石の住人「田道間守」は病気静養中の天皇の勅命で、遥か南方の常世国(中国大陸南岸)に旅立った!彼国に「非時香菓、トキジクノカグノコノミ」という果物が年中実っており、それを食べると延命長寿の効果があるらしく、その果物を採りに行くこととなった。そして苦節10年。田道間守は南方の海上常世国を探し求め、ついに香菓「橘」を得て帰国する。都に着いた時は、10年を経過していたので帝は既に崩御していた。田道間守は帝の存命中に使命を果たせなかったことを残念に思い、御陵に「橘入手の報告」した。「香菓」を手に入れた常世の国の気候風土に似ている土地を探し求め、熊野街道沿いの下津町橘本(旧海草郡加茂村)に橘を植えた、と云う。田道間守は死後ここに祀られ「橘本神社、御神体」となった。この田道間守の植えた「橘」が紀州蜜柑のルーツ。田道間守は”蜜柑の始祖”として10月10日を「みかん祭り」として、蜜柑の関係者が集まりお祭りする。これは昔は「果物」を「菓子」といい、全国の製菓業者がお詣りするようになり、神社では毎年4月3日に「菓子集り」を開催する”和大のセンセの話)

今年冬には「コタツみかん」やりたいな♬.*゚これにて『有田蜜柑 誕生秘話』一巻の終わり。

 

わぁ(っ'ヮ') (( 🍊

 

[おまけコーナー] ちょっとイイ感じの話です

 

▽文豪 芥川龍之介の傑作短編に『蜜柑』と云う、とても爽やかな作品があります。わたしの大好きな作品なのです。ラストで蜜柑がとても鮮やかな色彩を放って登場します。

朗読/窪田等氏、渋いええ声。

窪田等 朗読『蜜柑』作:芥川龍之介 - YouTube

作者:芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、明治二十五年~昭和二年七月二十四日没)

○本名も同じ、大正を代表する大作家。精神疾患から睡眠薬自殺した。その動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」の言葉はあまりにも有名。辞世の句「水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」でした。

○代表作品『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』『河童』など。文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した「芥川賞」を設けた。これが新人小説家の登竜門となる。

▽美味しい「有田みかん早和果樹園、味まろしぼり」濃厚な絞りたてのジュースです。お土産にピッタリだと思います!美味~い!

⇒Link/ホットな“みかん産地”のリンクです

早和果樹園⇒ 和歌山有田みかん、味一しぼりの早和果樹園

JAありだ⇒ http://www.ja-arida.or.jp/index.php

参考文献/ウキペディア、JAありだ 、早和果樹園 、和歌山県観光振興課

(6,200文字、Thank you for reading.bon voyage.) 今週のお題「人生最大のピンチ」