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終戦後、ジャングルにて二十九年間も戦い続けた男ONODA!【大好きな映画⑫】

🎥『ONODA一万夜を越えて』

二十九年間も孤軍奮闘、フィリピンのルバング島で、戦い続けた奇跡の男の物語。

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ほんと小野田さんはラストサムライ。もの凄かったからなぁ・・この映画等々踏まえ、小野田さんの人生のアウトラインを考察&補完してみる。いったい戦場で、何があったのだろうか?

 

小野田寛郎氏、数奇な運命

 

1922年。小野田さんは和歌山県海草郡亀川村にて、父 小野田種次郎、母 タマエ、名家小野田家の四男として産まれた。実家は、海南市小野田にある「宇賀部神社」の宮司家だった。

しかし父は政治家で、兄三人はいずれも陸軍将校の家柄だった。小野田さんは、そんな父の在り方に強く反発し、単身上海へと渡った。現地の貿易会社、田島洋行で働いていたという。

(※宇賀部神社は古代豪族「名草戸畔の頭」を祀っている。小野田さんは父や祖父から“名草戸畔伝”を聞いて育った、最後の伝承保持者でもあった)

 

召集令状をうけ、故郷にて入営す

 

1942年。徴兵検査を受け「和歌山第61歩兵連隊」に入営する。さらに「歩兵第212連隊」へ転属した。同連隊にて「幹部候補生」を志願し試験に合格する。やはり兄達の影響もあり、一兵卒ではプライドが許さなかったのだろう。

1944年に小野田さんは「久留米第一予備士官学校」へ入校する。この頃、日本側は「捷一号作戦」発動。戦局は悪化の一途を辿り、アメリカ軍がレイテ島へ上陸する。それを迎撃した連合艦隊は、レイテ沖海戦で壊滅状態に陥っている。

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すでに戦地への補給路すら、ままならない状況だった。だが陸上戦の「フィリピンの闘い」は劣勢ながらも、8月15日以降も散発的に続いていくことになる。そんな戦況の中、彼はとある命令をうける・・

(※島守備側、山下奉文大将がマッカーサー元帥と、降伏文書に署名したのは1945年9月3日のこと。これにて「捷一号作戦」はようやく幕を閉じたことになる)

 

不思議な面接試験があった

 

ある日のこと。小野田さんは上官に呼び出され、不思議な面接を受ける。面接目的は何なのか?この将校は一体誰なのか?事前説明などは一切なく、プレッシャーだけが存在する状況だった。

会議室に入ると部屋の真ん中に、背もたれのない丸椅子がぽつんとある。促され正面を向いて椅子に座る。長机越しには面識のない四、五人の将校が座っていたという。

無表情、こちらに視線だけを投げつけてくる。「後ろを向けっ!」命令に従い180度からだをくるり回転させた。やがて合図があり正面に向き直る。

将校が尋ねた「この長机の上に何が置いてあったか?」これは思いがけない質問だった。見ると机に置かれていた物が、きれいサッパリ無くなっていた。

「灰皿、万年筆、たばこ・・・」懸命に記憶をたどり、五つほど挙げた。「よし、帰ってよろしい」それで、奇妙な面接はそれで終わりだった。これが小野田さんの「運命の分かれ道」となった。

 

中野学校二俣分校とは・・何?

 

天竜川沿い、二俣城近くに中野学校分校があった。不思議な面接に、無事合格した小野田さんは「(仮称)東部33部隊」へ転属命令うける。

特務曹長(見習士官)の階級章を付け、腰には軍刀を吊るしていた。この誰も知らぬ「中野学校二俣分校」で諜報活動、山岳ゲリラ戦を学んだ。

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静岡県浜松市天竜

ある日の教練中。教官が川を渡り終えたところで突然足を止めた。矢継ぎ早に質問を浴びせられる「この橋の長さは?」「川の水深は?」「どのくらいの爆薬があれば橋を壊せるか?」など。

そして悪名高い陸軍戦陣訓の真逆である「どんな生き恥をさらしてでも生き延び、下命任務を完遂するのが中野魂であ~る!」と新たな精神棒を注入される。正に、コペルニクス的転回!

(※戦陣訓。昭和16年に、陸軍東条英機が配布した戦場心得。なかでも「生きて虜囚の辱めを受けず」という文言が陸軍兵卒から民間人まで、悲惨な玉砕攻撃や自決に追い込む結果となった)

 

謎の陸軍中野学校(東部第33部隊)

 

帝国陸軍諜報機関であり、「間諜や防諜(所謂スパイ)」などの情報戦の教育訓練を目標に始まった。その所在地は、帝都中野区中野四丁目(校名は地名由来)に存在していた。

参謀本部直轄の学校で、陸軍内でもその存在は秘匿された。戦争が激化した1944年。静岡県二俣町に「ゲリラ戦養成」を目的とした、陸軍中野学校二俣分校が設立された。

 

そして離島残置工作員となる

 

1944年。小野田少尉は、フィリピンで「ゲリラ戦指揮」の任務を与えられ、同地に派遣される。第14方面軍隷下、第八師団(八甲田雪中行軍遭難事件で有名な師団)参謀本部付となる。

師団長(第41軍司令兼務)横山静雄中将からは「玉砕は一切まかりならぬ。三年でも五年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張れ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん!わかったな」と、またも重いクギをさされた。

これで逃げ場は一切閉ざされた。そして、ルバング島に潜伏し工作活動を開始する。

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日本陸軍階級(標準)~

元帥(名誉称号)

○将校
大将◁中将◁少将
大佐◁中佐◁少佐
大尉◁中尉◁少尉

准尉(特務曹長)

下士官
曹長◁軍曹◁伍長

○兵卒
兵長上等兵一等兵二等兵

更にチョコっと言及しておくと。軍隊階級は、おおまかには3階層で分かれる。最下層が兵隊さん。兵は基本4階立て階級で成り立つ。平時徴兵制では2~3年は、この階層で兵役を務める義務があった。

各連隊等で基礎訓練中の兵士が最下層「☆二等兵」となる。大抵は半年、長くても1年で自動的に一等兵(普通兵扱い)となった。「☆☆一等兵」大半の兵士はこの階級。古参と新参の違いはある。徴兵制敷く国では、この階級で殆どが退役する。新入りが入営したら押し出され予備役入り。「☆☆☆上等兵」は、少しだけエリート扱いされた。勤務態度が良好、兵士の模範となる手柄、剣道や柔道などの心得ある等、何らかの見所ある者が選出された。大抵は古参兵で、伍長勤務上等兵があった。「━━ 兵長」は大戦勃発による兵士の大幅増員に伴い、伍長(定数)では兵士を纏める人手が圧倒的に不足し、新設された仮設中間階級。伍長勤務上等兵が退役、再び戦争が勃発再度徴兵される時には、下士官採用とする特典があった。

続く真中層が下士官。軍隊に正式就職した「職業軍人(公務員)」となる。 ここから上の階級は、自分で軍人になる選択し、試験に合格した者だけが任務につける。下士官の階層は、伍長、軍曹、曹長の3階級立てから成る。直接兵士を指揮する分隊長と働いたり、より上位部隊の先任下士官経理主任などになる。下士官が兵卒と決定的に違うのは、兵は兵役によって強制的勤務だが。下士官は自らが希望し上官から推薦うけ試験合格して、初めて着任できる。

「━☆━ 伍長」上等兵が試験に合格し最初に就ける階級。伍長の「伍」は、古代中国軍隊の「伍人組」。5人程度の兵士まとめ役、分隊長の軍曹の補佐役を務める。「━☆☆━ 軍曹」直接新兵指導する教官役、分隊長として10名程度の兵士を率いる。その国の軍曹を見れば、その国の軍隊の強さが判ると言われるほど。「━☆☆☆━ 曹長」中階層では一番分かりずらい階級。中隊クラスの部隊の先任下士官として助言役、部隊経理の責任者、厨房関係総責任者等を務めるベテラン熟練者。「特務曹長」特務曹長は伍長勤務上等兵曹長版。いわば少尉勤務曹長の感じ。曹長が次の特務少尉に進むための仮置きポジション。何やら差別的色合がある。

漸く次で将校クラス少尉となる。

何が言いたいかというと。驚くのは小野田さんが約二年程で「二等兵▷少尉」までスピード出世したこと。8階級特進なのである。それがいかにモノ凄いことなのか!旧陸軍で星一個上がるのに、軍歴数年はかかるという。しかもその後の配属先は、歴史ある第八師団参謀部。さらに任地は最激戦地ルソン島、これら考え合わせれば、彼はとびきり「優秀なソルジャー」だったのです!

 

戦争の真実はいずこ

 

実は、小野田少尉は『戦争がとっくに終わっていたこと知っていた?!』らしい。中野学校出身の残置工作員として、日本軍の上層部だけが知る、機密情報までも共有していたという。

要するに日本敗戦は、既に折り込み済みだった訳です。そしてまた戦後からはラジオ、新聞などで逐一世界情勢の把握に努めていたそうです。

ルバング島では、仲間達と島民を襲い食料などを強奪し、さらにたくさん射殺もしている。これであっさり投降すれば、報復リンチにあうだろう。みずから白旗あげることだけは、矢張り出来なかった。

しかし、最期まで作戦行動を共にしていた部下、小塚さんがフィリピン警察に射殺され、ジャングルに独りぼっちとなった。これで守るべきものもなくし、精神的にも耐えられなくなったのではないか・・?

1974年3月9日。当時の上官より任務解除命令を受け、小野田少尉はついにジャングルより投降し、永い長い闘いは、幕を閉じた。

しかし、帰国にさいしては“惨めな敗残兵扱い”だけは是非とも避けたい。それで軍刀を捧げる最敬礼するなど「時代かかった大芝居」を打ったのかもしれない。

その姿は世界中に配信された。それにしても・・・

(※マラカニアン宮殿での投降式セレモニー。マルコス大統領は降伏印としての軍刀を、小野田さんより直に手渡される。すると大統領は「第二次世界大戦は終わった」と軍刀を返した)

 

永遠の命題、なぜ人を殺してはいけないのか?

 

これについて賢者、ニーチェのお答えは・・『なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない。それにしても、なぜ、他の人々は誰もこうした明白な真理を、口にしようとしなかったのか。そしていまもしないのか。それは彼らが不道徳で恥知らずだからである』これが、ニーチェ先生が導いた答えである。

近年で例えれば、不審者が列車内で刃物を振り回し、塩酸とオイルを撒いて火をつけ大量殺人やらかす基地外も、ニーチェ先生なら「まぁ、しようがねぇ奴ら」と、なるのだろう。

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戦後、引き続き小野田少尉が30年近くジャングルに籠り、約30人(フィリピン側の推定人数)殺害したとしても・・・さ。実際のところ、小野田さんがジャングルからようやく投降した時。マルコス大統領は、その罪一切不問とした。

ただ、それに対し現地の遺族達がザワつき始めたので、日本政府は大慌てし口封じ・・いや、違った「見舞金100万ドル(三億円)」支払ったそうです。勿論、この金銭受取にも一悶着があったそうだが。全くマッタク…

戦争はホント罪なもの、お金がやたらかかるのだ。そしてひたすら虚無感ダケがのこる・・・

 

小野田さんその後の身の振り方

 

昭和四十九年。母国日本へようやく帰還を果たした。しかし、大変貌した日本社会には全くなじめず、一年後にはサッとブラジルへ移住してしまう。現地ではジャンルを切り拓き「小野田牧場」をつくり、そこでの経営者となった。

昭和五十九年。日本で野外活動などを通じて「子供達の生きる力を育てる」といった目的の「小野田自然塾」を始める。このように最後まで、何かとワイルドな話題を振りまくヒトでしたね。

Did you watch the movie "ONODA"?

▽映画『ONODA 一万夜を越えて』フランス人監督だから、描けることもあるワケで。日本監督だとやはり色々と“表現が難しい”のかもしれないな。

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『三年でも五年でも頑張れ。必ず迎えに行く』

(4000文字、Thank you for reading, Please enjoy movie!) お題「ゆっくり見たい映画」