たかしが彩乃と初登山した話
暑い夏だった。たかしは仕事終わりの缶ビールを、ルーチンようにゴクゴクと流し込み、ゲフゥと気の抜ける喉を鳴らした。「ふぅ~これのために働いてるんだよなぁ、俺…」カウチソファにだらしなく沈み込みながら、そうつぶやいた。その向かいのテーブルでは、彩乃がスマホをいじりながら鼻で笑った。「はい、はい。もう百回は聞いたわねッ、その台詞」言葉にトゲはあるけど、怒っているわけでもなく、ただ惰性のお約束口調だった。
結婚して十年足らず。子供はまだなく、夫婦仲も特段悪くない。でも新鮮味はとうに消え冷めている…夕飯の時間もテレビとスマホが、夫婦の会話の大半をくってしまう日常…「ねぇ、今度の休みって空いてるう?」彩乃が唐突に切り出した。目はまだスマホのSNS画面を追いながらいった。「ぅん?…別に…特に予定は…ねぇけどぉ」たかしはポテチをつまみながらぞんざいに返す。そこでようやく彩乃が顔を上げた。久しぶりに表情が明るくなる。
「あのさぁ、いつも美沙と登ってたんだけどね…あの子、足を滑らせて転んじゃったそうなの。それで足を怪我しちゃってさぁ、当分、山行は無理なのよね」「ほぅ~ん」たかしは、テレビの音にかき消されかねないほど気のない返事を返す。ところが彩乃はわざとらしく声を張った。「だからさ、たかし、一緒に登ろうよッ!」たかしは、少なからず驚いた。「ほへぇ─?やまのぼりぃ─?この俺がぁ─?」思わず手を止めた、二本目の缶ビールがペシュゥと変な音を立てた。「せっかくだしさぁ、たまには夫婦で新しいこと挑戦しよう!」笑ってはいるが、その目に「どうせ断るんでしょ?」半分覚めた侮蔑も混じっていた。
ズボラなたかしは首筋をポリポリかきながら、心底面倒くさそうなため息をついた。休日は家でゴロ寝、ビール呑みながらスポーツ観戦、それが人生最高の幸せだった。登山なんて興味ゼロ。それでも目前の愚妻…いや愛妻だったか、珍しく子どもみたいに自分に期待している─さぁて、どうする?一口含んだビールが、喉に刺さるように苦かった。暫く間があって、ダラダラの気のない声で、こう答えるしかなかった。「ぅん…まぁ…いいよ。いけばいいんでしょ行けば、さぁ」少し突き出た下腹を擦りながらそういった。
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早朝の太陽がまぶしい。たかしと彩乃は登山道の入り口に立っていた。「ねぇ─?本当に、ここ登るの?」たかしは急に億劫になった。「当たり前でしょ!ここまで来て、何言ってんだかさ w」彩乃はウキウキしながら大き目のリュックを背負い直した。「ほらほら、行くよっ!」たかしはぎこちなく彩乃の後を追った。最初はなだらかな林間道が続き、たかしも「なに、これくらい、楽勝じゃん~♬.余裕じゃん~♬.」と考えていた。しかし、次第に登路が険しくなりだし、汗がドッと噴き出してくる。やっぱりヨミが甘かった…
「ちょ…ちょっさ…一休みしないか?」たかしは早くもゼェ~ゼェ~息を切らし、彩乃にそう言った。「えぇ~!まだ登り始めて30分も経ってないよぉ~?」彩乃は驚いた顔をする。普段はデスクワークで、年中運動不足のたかしは、早くも坂道にバテた。そんなたかしの疲労困憊の表情を見てとり、苦笑しながらも「じゃさ、あそこの岩のところで、少しだけ休もっか?」と折れた。木陰に座って水をガブ飲みするたかしの横で、彩乃がそっと囁いてくる。「ねぇ─どうかしら─少しは山の空気とか、気持ちイイ~とか思わない?」「うぅ~ん。まぁ、確かに空気は、ウマイ気がするなぁ…」たかしは曖昧に話をあわせる。遠くからカッコウの啼き声※が木霊した。

汗を拭きながら「でもさぁ~やっぱキチいよなぁ…」「ふふっ。大丈夫ッ─!山頂まで登ったらさ、もっと気持ちイイ景色が待ってるからさあ」その笑顔を見て、たかしは「しょうがないなぁ…」とよっこいしょういちと、立ち上がった。それからも何度も、小休憩をチマチマ挟みながらも、ようやく山頂付近に辿り着いた。風が変わった。たかしはひぃひぃ息を切らしながらも、目の前にドォーンと拡がる情景を眺め、思わず声をもらす。「こりゃ…凄いなぁ…ホント絶景だぁ─!」澄み切った青空、眼下に広がる雲海や緑の山々、そして遙か遠くに霞んで見える街並み。いままでテレビや写真でしか見たことのなかった俯瞰絶景が、目前にドドォ~ンと拡がっていた。
山頂休憩所で呼吸を整えながら、たかしは目の前の絶景に見惚れていた。「登るの大変だったでしょうけど、この風景を見たら疲れが吹っ飛ぶでしょ─?」彩乃が隣でニコニコ微笑んでいる。「うん。そうだねぇ。なんかいままで、なにか損してたのかもなぁ─」その言葉に彩乃の顔がさらに明るくなった。「それならまた一緒にさ、登ろうねッ!」「えぇっ─!?いやぁ…それは…なぁ」「じゃ決定ねッ!」たかしは「やれやれ」と苦笑しつつ、違う景色も眺めるため、居場所を変えた。「まぁ…これくらいなら、また来てもいいカモなぁ…」そんなブツブツ声を、彩乃は嬉しそうに聞いていた。足がもつれる、ズルッ!「ふわっ~!?」突然たかしの足が滑った。初心者ゆえ足運びがぎこちなく、斜面の縁でバランスを崩したのだ。ゴロッ、ガラ、ガラッガラ!そのまま倒れ込み、急斜面を滑落する。
たかしは咄嗟に手を伸ばしたが、掴めるものがまるでない。ザリザリッ…ガラガラァァァ!!土と小石が舞い上がり、たかしの身体が猛スピードで斜面を滑り落ちた。「わぁ~あぁあぁ~!」声が遠のく「ぇ、たかし…どこ──?!」彩乃がなにかを喚きながら、視界から消え去った、たかしをあちこち探している。不幸中の幸いなのか、たかしの体は斜面の低木にドン!と激突し止まった。「…っ…ぅ!!」たかしは息が詰まり声もでない。全身至る所を打撲し、声にならない悲鳴あげた…

暫くして「たかしィ~?」彩乃が用心しつつ駆け寄る。「だっ…大丈夫!?」「うぅ…ぅ…なんとか…痛ててッ」幸いなことに木の根が絡まった岩のくぼみに、足が引っかかりそれ以上の滑落は免れた。しかし、右足首が変な角度に曲がっている。「ぁ、たかし…足ッ…!」たかしは顔をしかめながら足を何とか動かそうとしたが「……ギャ!!」激痛がビリビリ走った。これはたぶん捻挫か、下手したら骨折してる…?立つことは恐らくできない。その様子をみて彩乃の顔がみるみる青ざめた。しかし、どうする…?自力下山はとてもできないな!彩乃はひとつ深呼吸し決意した。「たかし、動かないで此処に留まってね。いまから山小屋に救助を呼んでくるからっ!」焦るたかし「お、おっ、おいっ…大丈夫なのかぁ~!?」彩乃はリュックからホイッスルを取り出したかしに手渡す。ホイッスルは緊急事態の合図、自分の居場所を知らせるためのものだ。
救助ヘリのホバリングが山にパラパラ響いてる。ストレッチャーに括られ、たかしはボンヤリする意識の中で、不安そうな彩乃の顔を見つめた。「いやぁ…まさか、こんな目に合うとはなぁ…」「もぉ〜ほんとに」彩乃は涙目でたかしの手を握りしめた。「…よかった、無事だったから」「お前のおかげだよ…ありがとうな」たかしは、ふと、不思議そうに自分の手のひらを見つめる。なんだか奇妙な感じがする。そして身体が不思議に軽いのだ。いままで自分が着ていた衣服が、自分のものではないような違和感。「なぁ、彩乃…」「なぁに?」「俺は…ちゃんと…俺か?」彩乃は戸惑いながら「たかし…いったい…何言ってるのよ?」と不安げに首を傾げた。
だが、たかしの違和感はますます強まった。自分の聞き慣れた声が、どこか響きが違う。そう思いながらふとヘリの窓に映る自分の顔を見た瞬間、心臓の鼓動が跳ね上がった。見知らぬ中年男の顔が映っていたのだ。「う”っ─!?け”ぇ─!?」「たかしッ…どうかしたの…」違うッ!俺は…たかしぢゃ…ないッ。いや、記憶はまだ自分のものだったが。恐る恐る手を顔に当てる。肌の質感…骨格の感触…すべてが違っている。彩乃…オレはッ…誰??そう叫ぼうとしたが、そのとき、意識の奥底で知らない声が響く。
(これで…ようやく…帰れる)
何かが俺の体に流入してくる─?「うっ…ぅ…ふぁ─!!」突然頭に刺すような激痛が走る。脳内に流れ込んでくるのは、全く知らない記憶だった…!
豪雨がザンザン降りしきる薄暗い山道。必死に助けを呼ぶ声。ザッと滑落した瞬間、懸命に伸ばした手。でも誰にも相手にされなかった…無念……ッ!!
全てを理解した瞬間、たかしの視界が真っ暗になり、フッと気を喪った。
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それから二時間後…緊急病院のベッドで目を覚ました男は、もうそれは、たかしではなかった。シン タカシが微笑みながら彩乃の手を確り握った。「ありがとう、彩乃♡これからもずっと一緒だよッ!」今度こそ最期までッ!
更に数時間後…地元病院で再診を受けた結果、タカシの足は「両脚の捻挫と全身打撲」との診断だった。「骨折してない─?マジで─?」「はい。とても幸運でしたよねぇ~」医師が何故か薄笑いしながら言う。「ただし。しばらくは安静にしてください。アタマを相当打ったようですからね、無理は禁物です」という。
彩乃は漸くホッとしたようだ。「よかったぁ…ホントによかった…」「なぁ、彩乃」「なぁに?」「俺さ、登山ってさ、こんなに命がけのスポーツだったんだなって、初めて知ったんだ…」「いや、いや、いや、普通はこんなこと、ならないからぁ~!」即ツッコミ入れる彩乃。
タカシはニヤリと笑いながら言う。「でもさぁ、正直ちょっとだけ嬉しかったなぁ」「……ぇ?」「景色も綺麗だったし。お前がめちゃくちゃ頼もしくて、キラキラ輝いていたからさっ!」彩乃は一瞬驚いた顔をしたが、初めて聞いた言葉にやがて頬を赤らめた。
「また彩乃と一緒に登ってみようかなって、何かさ、いま本気で思った!」彩乃の目がまたウルウルしている。でも今度は嬉し涙だった。「ほんとにィ─?じゃあね、次はちゃんと登山靴も買って、トレーニングしてから行こうねッ!」「おう、ガッテンだッ!」
こうして「シン 夫婦登山ライフ」が幕を開けたのだった…ただし、次に登るのはもう少し安心で、安全な低山にとタカシは心に強く誓った。 (終)
(※カッコウの托卵。親鳥が自分で巣を作らず、他の鳥巣に卵を産みつけ、他鳥に自分のヒナを育てさせる)
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▷参考/上高地のフォーシーズン
🌷新緑の時期:梓川ブルーが鮮明で、上高地らしい絶景が愉しめる。朝夕はドン冷え、防寒対策は必須。
🌻盛夏の時期:最も快適な季節、沢山の観光客が訪れる。周辺ハイキングに最適、大正池の朝靄が見物。
🍁紅葉の時期:カラマツの黄葉など、美しい紅葉が楽しめる。例年10月末が見頃、近年は熊⚠要注意。
⛄️積雪の時期:山岳エキスパート以外、周辺山々に入っては危険。観光施設や交通機関も停止している。
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▷推し曲/Elton John-Your Song
https://youtu.be/GlPlfCy1urI?si=70I3cUkN-V1bCWQg
▷前回の話/SAVE OUR SOULS
https://minminzemi81.hatenablog.com/entry/2025/09/04/121755
(Thank you for reading, have a safe climb.)
#10月3日は登山の日#ライトノベル