minminzemi+81's blog

あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ のし

噂の「野口英世の母シカの手紙」を読んでみたら・・・【感動した話】

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磐梯山猪苗代湖の秋


千円札になった偉人「野口英世」は、勿論知っていた。でも、その母親「野口シカ」は、まったく知らなかった。その手紙には感動で、涙が止まらなかった。

野口シカ(1853~1918年)の人生とは…まさに会津の女。

 

野口英世(清作)が一歳半の時、囲炉裏に落ちて大火傷を負ったことを、シカは生涯に渡って悔い続けていた。

 

故に英世の出世を、誰よりも喜んだらしい。

 

シカは云う「息子がどんな勲章を貰ったとしても、自分にはそれがどのような立派なものかはわからないが、息子が向こうで元気でやっているのなら、それで良い」と、息子の出世自慢はしなかったらしい。

 

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猪苗代湖の白鳥


シカさん、四十五歳の頃。

農作業の傍ら副業として、産婆を営むようになった。だが産婆の開業について政府による、新免許制度が創設された。これにより全ての産婆に、免許取得が必要となってしまった。

 

然しながら、シカは満足に文字の読み書きができなかったのだ…。

 

話は子供時代に遡る。

 

江戸幕末期(シカの幼少期)では、学校制度がまだ確立していなかった。また、祖父と両親が相次いで家を出ている。そして身体を壊した祖母がいた。そこで必死に実家を支えんとし、シカは子守などの丁稚奉公に従事をしていたのだ。


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[野口シカ(母)より野口英世(子)宛の手紙、1912年1月23日付]

 

よって教育を受けるチャンス(機会)が、シカには全く無かったのだ。

その後、近所の寺の住職に頼み込んで、いちから読み書きを教えてもらった。あの囲炉裏の炭を指先につけ、必死に文字を練習したともいう。

やがて苦労の末に国家試験に合格。正式な産婆の免許を取得し、生涯にわたって合計二千人近くの子供を、とりあげたらしい。

そのためシカは、近隣の人々から非常に感謝され慕われた。

ようやく息子清作と再会を果たした三年後、スペイン風邪のためシカが死去(1918年)した際には、村始まって以来の盛大な葬儀がとり行われた、と伝わっている。


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手紙の前半部分拡大
 
○は句読点、ひらがなカタカナ、漢字もある。はやくきてくたされと連続するところ、文字が乱れ感情が爆発している。

 

この手紙に感動する。文字に、文章に、朴訥な人柄に、子を想う母の心に、涙。


以下抜き書きを併せて、読んで頂きたい。



手紙原文/

おまイの ○ しせにわ ○ みなたまけました ○ わたく

しもよろこんでをりまする ○ なかた

のかんのんさまに ○ さまにねん ○ よこもりを ○ い

たしました ○ べん京なぼでも ○ きりかない

○ いぼし ○ ほわこまりをりますか ○ おまい

か ○ きたならば ○ もしわけかてきま

しよ ○ はるになるト ○ みなほかいドに

○ いてしまいます ○ わたしも ○ こころ

ぼそくありまする ○ ドかはやく

きてくだされ ○ かねを ○ もろた ○ こトた

れにもきかせません ○ それをきかせるト

みなのまれて ○ しまいます ○ はやくき

てくたされ ○ はやくきてくたされ

はやくきくたされ ○ はやくきて

くたされ ○

いしよのたのみて ○ ありまする

にしさむいてわ ○ おかみひかしさむ

いてわおかみ ○ しております ○ き

たさむいてわおかみおります ○

みなみたむいてわおかんておりま

する ○ ついたちにわしをたちをし

ております ○ ゐ少さまに ○ついた

ちにわおかんてもろております

る○なにおわすれても ○ これわす

れません ○ さしんおみるト ○ いただいております

る ○ はやくきてくたされ ○ いつくるトおせて

くたされ ○ これのへんちちまちてをり

まする ○ ねてもねむられません


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母シカと野口英世


現代文訳/お前の出世には、皆たまげました。わたくしも喜んでをりまする。中田の観音様に、毎年、夜籠りをいたしました。勉強なんぼでも切りがない。烏帽子(烏帽子村から金の催促)には困りをりますが、お前が来たならば、申し訳ができましょう。春になると、みな北海道に行つてしまひます。わたしも、心細くありまする。どうか早く来てくだされ。金を貰うたこと、誰にも聞かせません。それを聞かせると、みな飲まれてしまひます。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。早く来てくだされ。一生の頼みでありまする。西さ向いては拝み、東さ向いては拝みしてをります。北さ向いては拝みをります。南さ向いては拝んでをりまする。一日には、 塩断ちをしてをります。栄昌様(天台宗の修験者)に一日には拝んでもろてをりまする。なにを忘れても、これ忘れません。写真を見ると、戴いてをりまする。早く来てくだされ。いつ来ると教へてくだされ。これの返事待ちてをりまする。寝ても眠られません。


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引用元/野口英世資料館 参考/ウキペディア

さあ、田舎に帰ろう。


付記/大阪府のモミジの名所、箕面公園野口英世博士の銅像があります。
大正四年の九月のこと。野口博士はようやくアメリカから帰国出来ました。そして老母シカに親孝行したいと考え一緒に東京、名古屋、伊勢、大阪を旅した。大阪でのこと、箕面の料亭「琴の家」で隣に座る老母シカに、何かと心を砕き孝行した野口英世。その姿に女将が感銘を受け、顕彰したいと考え建立したとのことです。


参考資料/「この愛届きますか」歌 和田アキ子

YouTube
(3400文字)

もうひとつのラピュタ、深山砲台跡と海軍秘密基地。ドタバタ探検記!! 和歌山市加太【戦争遺跡】…Part1

ヒトはとかく“何か”を求め「旅」に出たがるもの。

つまんない日常を飛び出し、非日常に我が身を置いてみる。

そして未知の土地を、ひたすら尋ね歩く。

あげくヘトヘトと、なる。

そして求める“何か”は発見するのだが「謎」は読み解けないまま「トホホ気分」で旅を終えるのが常だ。

それでイィのだ。

なのでまたも“新たなる旅”に出る訳なのだね。いやはや、何やってんだかね。

世の中には「自分探しの旅?」に出るヤツ迄いるらしいが。

オイオイ、旅なんかで自分を探して、ド~すんだい??

それでもイィのだ!

Let's go easy!!

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深山展望台より友ヶ島を望む

Mission One ]

謎のダンジョンとは?和歌山、加太の男良谷(おらだに)にあったと云う“海軍由良水雷隊基地”にまつわる情報を調べる

 

何故この場所に興味を持ったのか

 

何処から話し始めるべきなのか?何だかいまだに迷っているのだ。では、この場所に興味を持ったきっかけ話から始めよう。

 

十年ほど前のある日、地元タブロイド紙ニュース和歌山」に掲載された記事にふと目が止まったのである。

 

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これがその記事 出典ニュース和歌山

この記事によると和歌山の城郭研究家 森崎順臣氏が、加太深山で謎の洞窟?を発見したと云うのだ。

 

それは明治時代の海軍が「由良水雷隊」を編成し、加太の北側にある深山の地に極秘理に軍事基地を構築していたと云うハナシで「え、えっなんじゃ…こりゃ?!」と、ワタシは結構驚いた。

 

「秘密基地!…萌♡」←小学生かっ!

 

もちろん深山(みやま)の砲台跡は前々から知っていたが、陸軍砲台と海軍基地が一つ場所に混在しているなんて、なかなか考えられないことである。少し気持ちわるいね(※陸海軍は歴史的に何かと仲が悪かった。しかし日清、日露戦争の頃でもあるので、若干事情は違うのかも知れない)

 

しかし「自分は別にミリオタではない」し、当時は個人的なことでゴタゴタしていた時期だったので、詳しく調べることもなくそのうちこのコトを忘れた。

 

でも、急に思い出したりするしな

 

そして去年の春のことです。友ヶ島に遊びに出かけた。で、友ヶ島要塞群のこと面白おかしく(コレが大切!)ブログにまとめた。その時のブログがコレです。

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友ヶ島ラピュタの秘密地図

(タイトルの「もうひとつのラピュタ、深山砲台跡と海軍秘密基地」の意図は前作に引き続く話であるという、意味合いでもあります。)

それで現地友ヶ島(ここにも海軍施設がある)で色々調べるうちに、深山にある謎の海軍施設の話を、ふと思い出したのでした。

 

水雷基地かぁ…。あれはいったい、何だったんだろうか?」

 

ブログの流れ的には友ヶ島砲台跡に続いて「加太、深山の要塞群」をまとめる予定だったが、それにしても残されている情報が少ないのだ。いや、自分に情報収集能力ないだけかもしれないが。

 

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深山砲台掩蔽壕跡

謎の解明は魅力的だけれども、どこからアプローチすべきなのか?

 

「困った困ったこまどり姉妹←このギャグ、誰も知らない?!

 

その頃の時代背景考えてみると

 

朝鮮半島をめぐり日清両国がシノギを削っていた時代。その先には帝国ロシアの影が常にあった。明治二十二年に大日本国憲法公布し、帝国議会を開設する。明治政府は“近代国家”なるものを大慌てで拵えてゆく。

 

「西洋に追いつき、追い越せ!!」

 

その熱気ムンムンのなかで「明治二十二年より三十八年頃まで、足掛け十六年間」由良要塞は少しづつ形造られていったのだ。しかし由良砲台群が築かれた時代は、まだ日露戦争以前のことである。この時代の加太地区の歴史なぁ…。

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淡嶋神社(年代不明) 現在とおもむきが違う

 

のんびりと作戦会議を始める

 

我が家の大宮二等兵に声をかけてみる。

 

「大宮!深山の砲台跡に、海軍の水雷基地があったらしい。ココ行ってみるか?」

「へー、面白そう。行きたい、ん?…大宮て何?!」

「いや~まぁ、気にするな。この図面をみてみ、山の上からワイヤーで水雷を吊して海面に放つんやで。ワイルドだろぉ?!」

 

資料の『由良水雷隊兵舎假設位置圖』なるものを示した。

 

「…て訳でやな、この場所は崩落してかなり危険なんやな。なので翌朝未明、我が第三総軍が乾坤一擲の勝負にでるっ!」

「第三総軍て、二人しかおらへんやんか。」と大宮二等兵

「う~む、細かいことはよろし。先ずは行程。銀輪部隊は加太駅前を目指す。ココから無料バスがある。そして前線基地を第二砲台跡にある紀州加太休暇村に定める。ココには我が軍の輜重隊が展開し、さらに噂では温泉♨まであるらしい。」

「よろしいなぁ、でご馳走食べて、温泉入って帰ってくると…」

「そうそうそう、やっぱ天然♨温泉で眺めかてエエしなぁ。ホッコリしてこりゃ、ええわぁ~♪て、コラコラッ!ちゃいますがなっ。」ピシッ!

 

これはノリツッコミですな。

 

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深山第一砲台跡(連絡通路トンネル)

とりあえず大宮二等兵に説明を、いや明治の歴史がザックリつかめる史料ないかな…あ、坂の上の雲かぁ。そうそうコレな。

  

坂の上の雲についてすこし語ってみる

 

そうだよぉ、司馬遼太郎氏が描く「坂の上の雲」の頃なんですね。この作品、明治政府の黎明期か、いや青春時代なのか、そのガムシャラな世相と空気感を、見事に表現していますよ。

 

この小説はドラマにもなりました。放送時にはワクワク興奮しましたから。モックンがハマってましたねぇ、秋山真之。好古は阿部寛香川照之の子規も好演。キャスティングがいい。脇を固める役者も大物ぞろいだった。 (※2009年から2011年まで足掛け3年にわたり放送された)

 

「珍しい事だよね、NHKがこのクオリティをつくれたのはホント奇跡だ!」シナリオだけが二転三転したことだけが、残念ポイントになるのかな。いやいや、人物の描き方がステレオタイ…

 

ハイ、グダグダ云わないの、こんな感じで始まった。

YouTube 

 

このオープニング(渡辺謙NA)で毎回、ハートをガッチョリ掴まれてしまいましたからねぇ。そしてドラマ終わりに憎いことにエンディング曲「Stand alone」が流れだすのだった…

 

迷い悩むほどに 人は強さを掴むから 夢をみる 凛として旅立つ 一朶(いちだ)の雲を目指し♪

 

またこの楽曲でビンビン余韻を噛み締めることになるのだった、ワタクシ。

いま聴いても何故か泣きそうになるな(何故だっ!明治人か貴様はっ!)。

 

「昭和生まれで有りますっ!」

 

なるほど成程そうか、久石譲作曲だったのか。

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このドラマをまだ未視聴の方(特に若いヒトはね)いますぐ観た方がいい。DVDにもなっています。そして原作読んでいない方、是非とも読んでください。たしかKindle版にもなりました。

 

この小説は「竜馬がゆく」と並び、司馬文学の最高傑作、まさに真骨頂だと想いますからね(ハイ、異議は自動却下されました)。

 

司馬さんはあるインタビューに答え「(日本は)何故こういうつまらない国なのか。国を運営している人々が何故こんなにお粗末なのか」…だから私は描いたのだ、敗戦時の二十二歳であった自分への手紙なのである…と動機を語った。

 

残念ながらいまだに日本政府はそうですね。(明治から昭和にかけてはゴタゴタと、そうせざるを得ない情けない事情もあった訳ですが)で挙句、敗戦国日本よ。何とも情けない国のままだ。お粗末さんだ。

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おそ松さんだっ!!!

 

多分、戦中派の司馬さんは戦後生れの「戦争を知らない子供たち」に、作品を通じて問うてみたかったのでしょう。「むかし、こんな男がいた。そして、こんなことをやり遂げた。さぁ、あなたはどうなんですか?」と…あ、話がそれちゃいましたかねぇ?

 

そうでした「坂の上の雲」のレビュじゃないのだから-w

 

一応参考までに/作家 司馬 遼太郎(しば りょうたろう 1923年生 ~1996年没)本名 福田 定一(ふくだ ていいち)大阪府大阪市生まれ。

筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の漢(太郎)」から。ほんまシャレてます。

大戦中は戦車第一連隊に属する。満州国にて九五軽、九七式中戦車(チハたん※)の戦車長(小隊長)をつとめていた。大戦末期には大陸から茨城県佐野に移動、敵上陸地点を九十九里浜に想定し本土決戦準備を整えた。結果、戦闘を交えることなく敗戦を迎える。

その後九十九里浜にて慟哭したという。

 

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これが九七式中戦車

余談だが、チハたんチハ」とは「三番目(イロハ順)の中戦車 チ」である事を表す秘匿名称。(甲型「チイ」乙型「チロ」などある)ちなみにガルパン知波単学園、福田ちゃん(小柄でおさげ、丸メガネ!可愛い)は司馬遼太郎がモデルらしい。あと西絹代はバロン西だし、いいのかこのパロぶりはっ。

 

知らぬ間に“女体化JK”にされた司馬さん、さぞや泉下で…ガルパンでも観てるかな?!

 

これがガルパン「進め!乙女の戦車道」

いちばん通信士、武部沙織「♪装甲が薄くたって~ 主砲がしょぼくたって~ それはそれ☝︎」劇場版は必見ですぞっ!

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「進軍でありますぅ!」「突貫!!」福田ちゃんであります。可愛ぇぇぇ

劇場版 ガールズ&パンツァー フィルム 知波単学園 福田

 

はいっ、またも脱線しますたぁ☺時系列戻せっ!

 

では、もう少しだけ明治期の流れをまとめてみますか。

いえいえ、残念ながらたいしたコトは知りません。サクッと「戦史の流れ」なぞるのみにて。

 

日露戦争前に砲台構築は始まっていた、その背景と意味は

 

明治時代、いわゆる西洋列強(イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、イタリアなど)が清での権益を虎視眈々と狙っていた。

 

その「清」争奪戦のなかでの明治三十七年二月から三十八年九月迄続いた、日本とロシアとの戦史を『日露戦争』と呼ぶ。これは云わば“日本の安全保障問題”であったのだ。

 

その以前、明治二十七年。『日清戦争』に勝利した日本は下関条約を結び、多額の賠償金と土地を清より譲り受けた。国内の産業、軍事整備に大きく寄与したという。日清戦争以前と比べ、急速な進捗を可能とした。

 

が、しかし中国の遼東半島は各々列強にとって戦略的に重要。なのでロシアは日本の遼東半島を我が物にしたいと考え、ロシアはドイツとフランスを誘って“三国干渉”を画策した。

 

要求を受けしぶしぶ遼東半島を清に返した日本。だが意図に反し清は、欧米列強に侵略され続けることとなる。高まる国内不安、政府批判。当時の日本では「臥薪嘗胆※」が流行語になった。

(※がしんしょうたん。“リベンジのために苦労に耐えしのぶ”という意味)

 

ロシアは日本が返還した遼東半島を租借(期間占有)さらにドイツ、イギリス、フランスも各地域を租借する。ロシアは部隊を増強し満州も事実上占領。そして更に南下政策を推し進める動きを見せる。

 

このままではアジア地域は、アフリカ大陸の二の舞になってしまうだろう。その状況を危険視した大英帝国。あくまでも“自国の権益”を護るため、急ぎ日本と明治三十五年「日英同盟」を結ぶ。日本と英国は利害関係が一致した訳だが、安心どころか益々状況は剣呑となった。

 

このカオスな帝国主義者の陰謀渦巻く“清国領土争奪戦”のさなかで、明治日本は帝国ロシアとの開戦を決意するのです。

 

これには世界中が驚いたっ!!

 

何とフェザー級が、ヘビー級に挑む!」のですから。

ハイ、三笠出撃デスよ!

ハセガワ 1/700 日本海軍 戦艦 三笠 プラモデル

日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本帝国海軍は軍拡を進める。その中で「六六艦隊計画」の一環として「三笠」はイギリスのヴィッカースに発注され建造された。

 

◉1899年(明治32年)1月24日起工。1900年(明治33年)11月8日進水。

◉1902年(明治35年)1月15日から20日まで海洋公試が行われた。

◉同年3月1日サウサンプトンで日本帝国海軍への引渡し式が行われた。

◉建造費用は艦本体が88万ポンド、艤装兵装が32万ポンドであった。

排水量15.140㌧、全長131.7m、出力15.000馬力、速力18㌩

<ジェーン海軍年鑑より>

 

三笠公園岸壁には戦艦三笠が記念鑑として保存されている。三笠の艦首は皇居へ向けられており、さらにそのまま直線状にロシアへ向けられている。これは保存時に三笠が、帝国海軍の象徴(聯合艦隊旗艦)とされていたことから。そのため終戦直後にソビエトから三笠解体の声が上がったが、交渉等により解体は回避されたと云います。 

<ウキペディアより>

 

景気付けに軍歌「日本海海戦」をどうぞ<笑 海戦のあらましが判りますねっ!


YouTube 

戦艦三笠登場したところで、次は…「由良要塞の地勢的」なお話です。

戦闘機すらなかったこの時代、戦闘艦で戦争を決していた。島国日本の国土防衛を考えたなら、まずは沿岸を固めねばならない。

 

紀淡海峡の地形について理解する

 

もしも“敵の艦隊に本土が強襲されたなら”を考えてみる。

 

衛星画像の左下から、沼島、淡路島、友ヶ島沖ノ島地ノ島。本州側に深山加太地区、右端に紀ノ川流れる和歌山市街がある。

神戸大阪に大型船舶が向かう場合。拓けた紀淡海峡が急に狭まり、敵艦(大型船)の航路が淡路・沖ノ島間の由良瀬戸を通るしかないことが解る。これ程護りやすい地形は他には見当たらない。

 

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友ヶ島 由良瀬戸風景

もちろん鳴門海峡もあるが遠廻りの上、明石海峡をまたくぐらねばならなくなる。戦術的にはこちらのルートをとる可能性は極めて低い。

 

なので“由良瀬戸を狙って来る”と考えるのが妥当だ。

 

[防衛エリア]兵庫県 淡路島 由良〰(由良瀬戸4,700m)〰沖ノ島〰(中ノ瀬戸500m)〰地ノ島〰(加太瀬戸800m)〰和歌山市 深山 加太 

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衛星画像 出典元/ウキペディアから

 

由良要塞群の全体像とは…いまだに不明な点が多い

 

由良砲台、堡塁跡(陸軍)は確認出来るだけでも二十五箇所以上ある。さらには海軍施設も確実に存在する。“未発見で埋もれた建造物”もまだあると思われるが、謎が多い。

 

【由良地区】淡路島地区
1 生石山第1砲台 2 生石山第2砲台 3 生石山第3砲台 4 生石山第4砲台 5 生石山第5砲台 6 赤松山堡塁 7 伊張山堡塁 8 生石山堡塁 9 成山第1砲台 成山第2砲台 10 高崎砲台

 

友ヶ島地区】沖の島地区
友ヶ島第1砲台 2 友ヶ島第2砲台 3 友ヶ島第3砲台 4 友ヶ島第4砲台 5 友ヶ島第5砲台 6 虎島堡塁

 

【加太地区】深山、加太地区
1 深山第1砲台 2 深山第2砲台 3 男良谷砲台 4 加太砲台 5 田倉崎砲台 6大川山堡塁 7 高森山堡塁 8 佐瀬川堡塁 9 西の庄堡塁

 

【鳴門地区】現状不明

 

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二十四サンチ加農砲

深山砲台跡のあらまし

 

明治20年頃、清国との戦争がいよいよ現実味を帯びて来る。明治政府は国防策として日本艦隊より遥かに有力な清国艦隊に対処するため、沿岸要塞建設が急務となった。

 

最初に着手したのは「対馬要塞」と 「下関要塞」、そして「由良要塞」です。

 

なかでも“紀淡海峡の重要性”にいち早く気付き、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に、強力な西洋式砲台群を大急ぎで設置。

 

そのうちの深山地区は紀淡海峡を東から扼する位置にありました。(運用上は友ヶ島地区と連動すると考えられますが、後に由良地区の所轄となったようです)

 

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二十七サンチ加農砲射程範囲

深山加太地区の深山重砲兵連隊(後、重砲兵第五連隊となる)は、紀淡海峡を北上侵犯するであろう敵艦を、山上から迎撃する砲台要塞をここ深山に展開しました。当時としては最新鋭の二十八サンチ砲を据付け海峡を睨んでいました。

 

<深山地区 砲台内訳>

 

○深山第一砲台(海抜122m)  二十八サンチ榴弾砲×六門

○深山第二砲台(海抜100m)  二十八サンチ榴弾砲×六門

○深山第三砲台(海抜10m程)  十二 サンチ 加農砲×四門

 

<加太地区 砲台内訳>

 

○加太   砲台 二十七サンチ加農砲×四門

○田倉崎砲台 二十八サンチ榴弾砲×六門

 

二十八サンチ榴弾砲徹甲弾は217kgもあった。揚弾機で吊るしハンドルで位置調節しながら装填した。砲身の長さは2,863mm、最大射程は7,650mでした。 由良要塞群の二十八サンチ榴弾砲のいくつかが日露戦争時に、遼東半島の203高地攻略のため此処から運ばれていったという。

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深山 第二砲台 二十八サンチ榴弾砲
現在ある「休暇村紀州加太」の場所に「深山 第二砲台」があった。駐車場から延びるレンガ遊歩道を、道なり北に進むと「深山 第一砲台」へ。さらに西側に進み、海沿いに下れば「男良谷 第三砲台跡」と至る。

 

「この砲台の南にあったという水雷基地を探りに行くぞっ!」フォー!!

 

坂の上の雲を目指しどエラい坂を登って逝くのである!<笑

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休暇村紀州加太

どどど~ん!!! 

TO BE CONTINUED…

さて次回予告⇒「水雷隊基地の秘密」探検の話が始まります!

(イントロだけで6900文字超えちゃった!ドンならんでなぁ…砲台跡だけに)

放送禁止だらけです!「つボイノリオ曲」は聞けば聞くほど、艶が出る?! 空前絶後の【閲覧注目2018】

四月一日である。エイプリルフールでもある

 
ほんじゃらココらでホラ話でも一発カマすかな?!
う~ん、洞(洞窟)ばなし、ホラー(心霊)話とか…気乗りしないなぁ。
まぁ、春の夜話を書くことにする。

 

すこし前、古くからの知人N氏と、車の中でゴニョニョ話をしていた。

最初は会社運営とか登記の話とか、オッサンならではの眠ィことtalking Aboutしていたのだったが。

そんなカタい話はすぐ終わる。終わらせる。その後は会社関係の女の話、からの~エロばなへ。何故かコレが鉄板。でも、ここでは書けないような話が続き、突然「金太の大冒険」の歌詞はイケてるかぁ?となったのだった。何故そうなる?「知らんがな」不思議だよな、昭和生まれてね。ホント。

…てな訳で、昭和元禄を代表する“つボイノリオ曲”を再評価し、皆さんにサクッとご紹介するコトにします。

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昭和元禄バブリーイメージ

今から三、四十年以上前。昭和時代にはTV放送局が、ユルユルだった時もあったのである。バラエティ番組でこの曲が流され、女子大生がゲラゲラ笑っていたのである。ホントだよ。

だがしかし、金太が“何故かマカオに行く”だけの歌詞である。NGワードをいかに上手くブッコムか…あ、いまの若者は知らないか。例えば嘉門達夫みたいな…カモーン達夫を知らないか?じゃ、初期の所ジョージみたいな…ヤッパ知らない?!

いまでも中部地方では有名人であり、知っているヒトにはウケるが、知らないヒトは眉をひそめると言う存在のつボイ先生。まぁそれなりに実力派のフォークシンガーだったのです。

 

それぞれの曲には時代背景が存在する、らしい

 

じゃ、論より映像、YouTubeで見つけたので見てください。業界人(主に芸能界)にファンが多いという名曲です。何と、発表わずか二十日で放禁!二十世紀を代表する問題作! 「金太の大冒険(1975)」です。

 

YouTube

ネタ的には“金太○”の連呼でしかない。この味わい深いシュールさが果たしてイマドキの若者達のハートを、ジャストミートするのでアルカぽね?!

いやいや、それは無理で御座ろうよ。いまやDKがスマフォでエロサイトBANBAN!する時代だしね。正統派下ネタソングの深さが、ヒダが、カンタン理解出来るとは思えないな。

そうだっ、つボイ先生は歴史ネタが得意だった。次は「極付け!お万の方(1976)」です。コチラは何と、六日で放禁!

注/亀頭古墳はどうやらキトラ古墳の間違いのようです-w

YouTube 

最後の「おま~ん」の絶叫が心に染みる。ウエッティな名曲である。

 

リアル“お萬の方”情報をお届けします 

 

なんだ「春になって頭湧いてんのか?」思われるのも癪なので、すこし歴史ネタをはさみます。歴史上本当にいたおマンの方とは…

 

お萬の方とは…

父は勝浦城正木氏。当初は北条氏の人質であったが、御家の事情で上総に戻ることになる。成長した萬は慶長元年頃、徳川家康に見初められ側室となる。大柄で芯が強い田舎娘?が家康のタイプだったらしい。お萬は慶長七年、徳川頼宣、さらに翌年徳川頼房を生んだ。歴史的重要人物(この血統が後の将軍吉宗や水戸光圀に繋がる)の産みの母である。

 

お萬の方、武勇伝!

お萬は日蓮宗を信仰しており、一方家康は浄土宗であった。

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鳴かぬなら泣くまで待てない徳川家康

宗論(難癖?)対決があった。家康は日蓮宗の日遠を家臣に襲わせ浄土宗を勝利させる。この家康のチートぶりに怒った日遠は、家康が禁止した宗論を上申。コレに逆ギレの家康、日遠を磔獄門にしかけた。

するとお萬は家康に猛然と「師の日遠様が死ぬ時は萬も死ぬ!」と言い放つ。これには家康もビックリ驚いて、日遠をすぐ放免した。無敵モードの家康を凹ましたのである。

 

お萬の方の墓所など

このお萬の武勇伝は当時の大ゴシップだった。

時の天皇もこの話に感激し、自筆「南無妙法蓮華経」の七文字を下賜された。その墓所は承応三年に徳川頼宣が建立、戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。なので歴史上は、養珠院(ようじゅいん)と呼ばれる場合が多い。

 

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海禅院多宝塔

平成十六年(2004年)和歌山の和歌浦にある、海禅院の多宝塔(供養塔)の石室から十五まんこの経石とお萬の遺髪が発見されました。

 

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海禅院の案内板

では最後に、大感動必至「吉田松陰物語(1976)」あの松蔭先生をリスペクト!した楽曲です。つボイ先生も艶アルいい声ですね。この作品は幕末の歴史も学習できるスグレモノ。高校生の歴史教材にぜひ活用して頂きたいものですね。

 

YouTube

付記/2016年につボイノリオ先生は「平成28年度愛知県芸術文化選奨」を受賞。愛知県が芸術文化の各分野において、その向上発展に貢献し業績が顕著な個人・団体に贈られている。マジか…4月18日に69歳の誕生日でしたっ。

⇒「69」オメデトウゴザリマッスル!!

参考/ラジオ番組『つボイノリオの聞けば聞くほど』

(2000文字)

紀州徳川「和歌山城の見どころ」決定版!! お城の楽しみ方を、ジモティがご紹介します【地元発信2018】

白亜三層の大天守がそびえる和歌山城。連立式天守閣という珍しいナワバリ

徳川御三家のひとつとして、紀州徳川家は55万5千石を領した。
和歌山城は市街中心部に位置する、標高約50mの虎伏山に建造された。
その天守からは展望よく、和歌山市街を360度ぐるりと見渡すことができます。

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堀端から天守閣を望む

お城見学のその前に知っておきたいこと

 
交通機関と駐車場について

和歌山城の最寄り駅はJR和歌山駅か、南海和歌山市駅になります。南海市駅からは歩いて10分ほど、JR和歌山駅からはもう少し離れているので駅前のバス利用をオススメします。

車利用の場合、お城の南側三年坂から入れる城内駐車場があります。ココが便利ですよ。

 

事前見学の場所としてオススメ

大型バス駐車場(市役所前)となりに2015年9月オープンした「わかやま歴史館」があります。ココは和歌山城見学のプレ学習に最適。二階に上がると和歌山城の歴史と和歌山出身の著名人についての展示があります。“VRシアタールーム”と“紀州徳川家の金印”がみどころです。

 

料金 大人100円、小中学生は無料。

時間:9時から17時半まで

📞073-435-1044

 

また同じ館内で観光案内所と観光土産品センターが一階にあり、お土産ものや軽食などを販売しています。

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わかやま歴史館
おもてなし忍者が(どっかに)いる!はず

忍者コスプレのボランティアが、登城の手助けをしてくれます。これは「障害者の方にも天守に登ってもらいたい!」てことで始まったらしいですね。

忍者を見かけたのは「わかやま歴史館」の芝生の所、天守下の広場にもいました。とても良い取り組みだと、思いました。

 

お申し込み・お問合せ…城プロジェクト(月火休み) 📞073-435-1044

 

ではでは、和歌山城見どころ案内はじめます

 

お城を時計周りにぐるりとお城の見どころを巡り、最後に天守へ登楼するコースです。

まずは和歌山城の表玄関から入りましょう。

けやき大通り、公園前交差点に大手門があります。

 

まずはココから、いちの橋です

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大手門、いちの橋

浅野時代に岡口門から大手門が変わった。

この門をくぐった右手には、素晴らしい早咲きの枝垂れ櫻がある。

肌寒い春先に一気に咲き誇る姿は、大手門の形と相まって随分景色がいいですよ。

 

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さらにすこし先、石垣のうえからは大楠が枝を拡げている。

和歌山城の歴史を見つめて来た御神木、天然記念物だそうです。

 

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夜も開門しているので、ブラリ散歩するのもいい感じかな。

 

少しへんかな、虎伏像は…とらふすやま

和歌山城を別名「虎伏竹垣城」と言う。

天守ある山容一帯を「まるで虎が伏しているようだ」と、見立てて名ずけたらしい。それで「虎伏像」がここにある。

まさに「南龍公に虎伏城」龍虎並び立つ!て訳で。これは勇ましいなぁ。

 

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和歌山城桜祭り

この辺りお城の東側エリアが、櫻木多く屋台も出ます。

桜花見のおすすめ場所です。お城の石垣の上に登って花を見下ろすと、視界が拡がり高揚感も楽しめますね。

 

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ところで、いまやこの山どこから観ても、虎には見えないよな…あれれっ?

 

武骨な顔、岡口門(重文指定)ですよ

浅野時代までは、この岡口門が大手門だった。

戦国時代の気風がある、戦闘的で重々しい構え。いまも往時と変わらぬ姿でたっている。

 

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元々はこの門の両脇に櫓が並びたち、後背に桝形に武者だまりが控える。

さらに奥、松の丸の高石垣大櫓が遥か上から睨みをきかしていた。

 

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まるで野武士の面構え岡口門

そして水堀と空堀で挟むカナメの位置にこの岡口門がある…と、考えてみるとこの場所、如何に重要視されていたのかが良く分かる話だ。

大名行列ルート変更に伴い、北の一の橋が大手門となった。戦の門から儀礼の門に移り変った訳で時代性を城門が表していると想う。

一度、岡口門を出て振り返って観てください。きっといい写真が撮れますよ。

 

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花見の桜その殆どが染井吉野
かつてあった城門のはなしです

お城玄関の「一の橋大手門」から城内に入ると「中御門」がありました。

この「中御門」を過ぎ奥に見える表坂、その徐々に道幅が狭くつづら屈曲する石段を登り切った所には「松ノ丸門」があった。南側に二層の松ノ丸櫓がたち、岡口門と松の丸に睨みをきかしていました。

さらに奥へは緩やかに登りとなる東西に細長い「松ノ丸」があった。この長さの意味は火縄銃の有効射程で、迫り来る敵を両端から釣瓶打ちに出来たのではと思えます。

 

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和歌山城MAP

その松の丸の終わりに天守本丸への道をふさぐ「本丸いち之門」がありました。

籠に乗った殿様もこの急段は籠を降り歩いたとか。この場所ほぼ直角に右に折れ、さらに右へと曲がっている登り階段。そして続く「中門」という小さな門が受け留める。

石垣と城門でぐるり囲まれた桝形構造で、三方向から攻撃を受けることになります。

中門の先は東側に「本丸御殿門」北側に「本丸裏門」そして西側に「天守いち之門」がどっしり構えていました。

これらの城門全てを閉じると、ここもまた第二の桝形空間になります。万一敵が攻め登っても逃げ場はない、連続桝形空間なのですね。

天守曲輪への入口にあたる「天守いち之門」と続く「天守二の門(楠門)」は、最後の巨大な要害になりました。

大手から七つの門をくぐり抜けて、ようやく天守台に辿り着けたのですね。

 
楽しい童話園・水禽園がある南の丸エリア

南の丸には動物園がある。お城のなかに動物園があるのは、かなり珍しいものです。

いいですねぇ。お城と動物園とのコラボ、しかも入場無料!です。ファミリー層にはオススメのエリアですね。人気のゾウやキリンはいないけれど、癒しのスポットとなっていますね。

さらに動物園の西側には一般駐車場がある。公衆トイレもあります。城内に駐車場とは何とも無粋で頂けない話だが、利用者には便利でありがたいですね。

天守閣への上り口は三つあって「表坂」「裏坂」「新裏坂」がある。

それぞれ表情が違い面白いのだが、最短で登れるのがここにある新裏坂。延々と石の階段が続いている…いっきに登るのは、すこしつらい。見える風景もつまらない。

やはり表坂か裏坂から、ゆるゆる登るのがオススメ。

 

お城好きにはたまらない南の丸、高石垣

和歌山城がある場所は、基本地盤が岩山であり南西が砂地というあまり築城には向かない場所。この南の丸あたりは小高い砂丘だったようで、それで城の南側の堀切は断念したようです。

空(水?)堀を巡らし微高地にこの高石垣を築いた。

 

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南の丸高石垣

和歌山城での一番の高石垣と謂われ、さらに高層矢倉(二層)がうえに載っていた。

とにかく不明門(あかずもん、と読む。普段は開けることがなかった、今は門は無い)を護るために厳重に守りを固めたらしい。その訳は万がいちの落城時には、ここ不明門が退き口であったらしいのです。

いよいよ事態切迫…不明門より間道つたい南方面(寺町筋)へ逃げのび、海路徳川菩提寺の長保寺(別名徳川腹切り寺)まで、走る殿様!何ともタイヘンですねぇ…でも、そんな事態におちいることは一度もなかった訳で。多分この門も長い間、開くことは無かったのでしょう。

また、この前の道路は”三年坂”と呼ばれる。今はかなり切り通され広くもなったが、往時かなりキツい難所だったらしい。もしこの坂で転んだら何と「三年以内に死ぬ!」そんな謂われもあった場所。

この場所、城マニアの方必見ですよっ!

 

少し静かな護國神社と石垣

このあたりにも櫻木多く、シートを拡げて花見を楽しめる場所。

ひと気も少なく案外、穴場かもしれない。小さな子供が散る花弁を、追いかける姿は微笑ましい。 

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ファミリーで花見が今風かな

気になるのはこのあたりによく見かける、刻印のある謎の石である。

時代によって石垣の積み方も変化するのだが、この辺りの石は豊臣・浅野時代に刻印されたものらしい。

その紋様は約170種類、2,100個以上の石に確認されている。これの意味することとは、いったい何だろうか。定紋のある石垣は多くの場合、天下普請(担当部署)を表しているらしいが。やはり謎ですね。

 

お城の西側、砂の丸・追廻門

砂の丸とは文字どうり砂丘部を取り込み、高石垣を築いたらしい。

この外側で乗馬の追いきりをやっていたという。それで赤門の名前が追廻門(おいまわしもん)という。

藩士の武術鍛錬の場所だったのですね。 いまは国道42号線が走っています。

 

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赤門、追廻門

城郭の西側防備のためにきつい勾配の高石垣を、巡らしたのと対照的な雅な門構え。

優雅な赤い高麗門は何か違和感を覚えますが、それはこの場所お城の裏鬼門にあたり、風水的な意味(鬼門封じ?)でのことらしいです。朱塗りなので婚礼門かもしれませんね。

 

紅葉溪庭園・紅松庵で休憩

紅葉溪庭園は名前どうりモミジの名所です。晩秋にはとても美しい風景が楽しめます。お濠を取り込んだ大名庭園は、かなり珍しいものですよ。こちらは是非、秋に訪れてみて下さい。

 

時には蒼く、刻には紅く、静謐(せいひつ)な時間が流れる庭園。

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秋の紅葉溪庭園

紅松庵は数寄屋造りの武家風茶室。

昭和48年、和歌山市出身の故松下幸之助さんが寄贈してくれたそうです。紅葉渓(もみじだに)の「紅」と松下氏の「松」から命名されました。

茶室からの庭園の眺めはとても素晴らしく、ゆったりと茶事を楽しむことができます。

 

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紅松庵茶室

和服姿の女性が、抹茶を点ててくれます。立礼水屋点てなので、お気軽にどうぞ。

抹茶、菓子付き…460円です。

時間:9:00〜16:30

年中無休(12/29~1/3は休み)

 

殿様気分の御橋廊下を渡る 

二の丸と西の丸を繋ぐこの「おはしろうか」は、藩主とその側近だけが渡れる“秘密の廊下”として使われました。ですので殿様の姿が見えないように厳重に囲いがされています。この約11度の角度がついている傾斜橋はかなり珍しいものです。

 

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入口(東口と西口があり)で、履物を脱ぎます。すこしワクワク。

備え付けのビニ袋に履物を入れ「さぁ、参ろうぞっ!」廊下は傾斜して滑りますよ。でも大丈夫、廊下には突起細工が等間隔にあります。

すると若竹踏み運動の感覚になり「あぁ、足が痛いです!」日頃の不摂生が、思い知らされた訳なのですね。案外健康に良いのかも知れませんね。

このアクティビティは無料なので、何度も往復してみましょう。

 

二の丸庭園

初期紀州藩の政庁と、住居のあった場所。

二の丸には東側から、表御殿、中奥、大奥と絢爛豪華な建物群がこの場所にみっちみちに建っていたらしい。いまは想像するしかないのだが、探ってみるとわずかながら建物跡の痕跡がある。

 

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この道の左側に二の丸庭園が拡がる

明治初期(廃藩置県)と続く大戦末期(B29無差別爆撃)に、殆ど全ての建築物が喪失してしまう。

いま残っていれば間違いなく国宝級なだけに、次々と喪われていったことはホント残念ですね。(※天守が昭和十年(1935)国宝に指定されている)

いまに残る「二の丸大奥 絵図面」を見ると大規模な建物群があったようなのです。この一角は殿様以外は全員女、ひしめき合って暮らしていた。御局様の部屋がつづき連続しているのが「きっと何かと、タイヘンだったろ~~なぁ~(汗」と、同情してしまいました。

 

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いまは植樹と庭石が置かれ、公園化されています。花見客がお弁当食べたり散策するのに良い、市民憩いの広場となっています。

 

これでぐるっと一周お城を廻ってきました。次はドローン映像で天守を観てみましょう。

Youtube

おまけネタ

ところで「コビトに見える木の根っこ」テレビで何度も取り上げられたので、ご存知の方も多いみたいですが、場所が判らずスルーしてしまうとか。

二の丸庭園から天守閣へむかう裏坂すぐに、管理事務所がある。その右手側、石垣階段途中にあります。階段下でしゃがみ見上げるように観ると「コビトだっ!」発見!☺

 

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コビトが石垣を登っている?!

さあ、この裏坂から本丸天守へとむかいましょう。

 

お城にまつわる歴史寄りの話

 
歴史好き、お城好きな方のために<細く>解説します。

まずは和歌山城の最大特長。三種の石垣積みについて。石垣を見ればそのお城の性質まで見えてくる。

 

「野面積み」 

和歌山城初期。豊臣秀長の時代は、綺麗な緑色片岩(紀州青石)を巧みに積んだ「野面積み」の石垣。一見荒々しく雑に見えるが、築き方を間違えれば崩落する訳で高度な技術が必要ですね。

お城の南側の岡公園にある、天妃山から切り出した石を使用。この岡公園の裏側に池があるが、石切場の跡に自然水が溜まり池となったと云う。岩山を切り崩す勢いで、大急ぎで作事が進んだことがうかがえます。

城内、山吹溪の野面積みが見事です。特に雨上がり後には、石が綺麗な発色をして美しい。

 

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野面積み、桜と山吹が良く似合う

「打込みハギ」 

和歌山城中期。浅野幸長の時代には加太城ヶ崎、友ヶ島などから和泉砂岩を打ち欠いて加工し、はぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られた。

大石の隙間に小さな石を挟みこみ荷重を分散させる技法。これによりさらに高く積上げることが可能になった。

大手門入ってすぐ右側にある石垣が打込みハギです。しかし、元々地盤の弱い場所に高石垣を築くのは相当苦労したと想われますね。

 

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右手側が打込みハギ、奥あるのが切込みハギ

「切込みハギ」 

和歌山城後期。徳川時代には熊野地方の花崗斑岩を用いて、切石で精密に擦り合わし積んだ「切込みハギ」の石垣が作られた。

主に来城者の目につきやすい箇所などを、最新式の石垣に築き直した。このことは高さより美しさ、より手間暇(=コスト)かけることを意味し“単純にお金持ちアピール”だったと思えます。

戦乱が治まった後も石垣に手をいれ続ける、紀州藩ならではの考え方が解ります。

 

城郭規模について。戦国→江戸→明治へと数々の遍歴がある。

城郭は戦闘施設から、都市のシンボルへと、変化していく。

和歌山城の城郭規模は、北部を流れる紀の川と東側の和歌川を天然の堀とし、本丸の北側に二の丸(政庁御殿)を配し、その外に大きく三の丸(上級武家屋敷など)がある。螺旋に渦を巻くように計画された、梯郭式平山城です。

また、和歌山市内の城下町特有の微妙に曲がり入り組んだ道路は、昔の名残を感じることが出来ますね。いま城跡として現存しているのは徳川時代の最盛期の4分の1ほどの面積でしかなく、お城の南側に拡がっていた下級藩士の屋敷、三の丸にあった壮麗な武家屋敷が明治以降に一気に喪われてしまう。

 

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江戸時代の雰囲気遺す白壁
 
何度も改修を繰り返した城郭は、各時代の様式を留める。その始まりは…

1585年(天正13年)羽柴秀長紀州攻めの将として参陣。紀州平定後に紀伊・和泉の二ヶ国を加増された。そしてこの地、岡山に目を付けた羽柴秀吉が弟、秀長に築城を命じたのです。秀吉自ら城域を選定し、縄張りを行ったと云う。

普請奉行に藤堂高虎を任じ、約一年で縄張りを完成させた。これが和歌山城の始まりとなります。

 

秀吉さんが「和歌山」の名ずけ親?!なんかすごい話だ。

また、この時期に「和歌山」と地名が改められたらしい。一説によると秀吉が和歌浦の「和歌」と、岡山の「山」を合わせて和歌山と名ずけたらしいのだが。

 

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和歌山城いまは何の違和感ないけれど

地名は古代に紀(キ)国、そして紀伊国紀州。戦国時代よりいまの県名である「和歌山」の名前は始まったというのだが。果たして地元に定着していたのか疑問は残りますね。

和歌山人は「紀州人」であることに誇りを持っていたから。

 

豊臣から徳川へと時代は急激に推移してゆく。

1586年(天正14年)秀長は桑山重晴に、三万石を与え城代とした。重晴は本丸を中心に城の拡張を行う。

1596年(慶長元年)桑山重晴の隠居により、孫の一晴が城代を継いだ。

1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で東軍に属した桑山一晴は大和新庄藩に転封となった。

そして同じく東軍に属した浅野幸長が37万6千石で藩主として入城した。幸長もさらに城と町の拡張を行っている。

1605年(慶長10年)頃、黒下見板張りの三層天守が建てられた。(異説もあり) 

 
戦国時代(浅野期)、和歌山城の意味合いとは…大阪城との関係にあった。

例えば<大坂夏の陣(1615年)、樫井の戦い>で理解できる。

大坂夏の陣紀伊領主、浅野長晟は国内で一揆の兆候(紀州一揆)があったことから、出陣をしばし見合わせていたが4月28日に、兵五千を率いて和歌山城を出陣した。

まず、浅野先鋒隊が和泉国佐野に着陣。

その日の夜半に物見が豊臣軍の先方を発見。すぐに本陣に報告した。この時、豊臣軍の兵数を約二万と誤認した浅野方は、劣勢での迎撃に適した樫井までひとまず後退することにした。そして亀田高綱を和泉国安松に殿軍(しんがり)として残した。

豊臣方の先鋒軍「塙直之、岡部則綱」らと、浅野軍殿軍「亀田高綱」の間で戦闘が開始された。亀田は遅滞戦術を展開し豊臣軍を樫井まで誘引した。樫井では亀田隊に「浅野知近、上田重安」が参戦、豊臣軍と大激戦になった。

塙と岡部は先鋒を争う形で激しく突出したため後詰め軍が追いつけず混戦に、やがて岡部は敗走し塙と淡輪重政は樫井で討死した。この樫井での戦闘後、浅野方は国境の紀伊国 山口まで撤収。

その後方で、一揆勢の蜂起を合図に攻めようとしていた大野治房は、先方で戦闘が偶発したことに驚き、慌てて樫井へ駆け付けた。しかし浅野勢は撤退した後だったため、そのまま大坂城に引き返したと謂う。

この戦闘結果により、その後も続く大坂攻めの展開に、大きく影響を与えたのでした。

 

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複雑な構成美を魅せる回廊部
紀州南龍公、徳川頼宣さんの登場です!

1619年(元和5年)紀州浅野氏は広島藩(福島氏改易)に加増転封となった。トコロテン人事のように、家康の十男徳川頼宣が55万5千石にて紀州入りし、紀州徳川家が誕生しました。頼宣は二代将軍秀忠より銀五千貫を貰い受け、城の改修と城下町の大拡張を計画したという。

1621年(元和7年)から頼宣は城の大改修と城下町拡張を始めた。その計画では城下町を取り込んだ巨大な城構えになる予定であったが、余りにも大規模な作事であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられた。しかし、家老安藤直次の弁明で取り敢えず事なきを得る。

 

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和歌山城下町絵図(安政二年)出典:和歌山市立博物館

この時、唯一の弱点であった南への備えを始めた。堀川を拡張して総構えにしようとしたが、幕府嫌疑により中止させられてしまったため、中途半端に終わっている。

和歌山市南部に「堀止」の地名がいまに残る。ここが城郭総構の南限(計画上)となります。(※天守閣ある虎伏山から南に1.5kmの地点、なるほど幕府がザワつくのも分る)

 

江戸時代後半は紀州徳川家の天下だった?!

野心家で武張った徳川頼宣が将軍の座を虎視眈々と狙っていた、という逸話がある。

その真偽は不明なれど、上記の戦術的な城下町造りや、地元の雑賀衆関ヶ原浪人を好んで雇ったり、伊達政宗真田信之との交流など、幕僚が疑義を抱く動きを頼宣はやり続けた。そして由比正雪の事件が起こる。またも幕府に対し人を喰ったような申し開きで切り抜ける。

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冷や飯食いから天下人?!サクセス!

1716年(享保元年)徳川将軍家が断絶した。そして徳川頼宣の孫が八代将軍となる「暴れん坊将軍 吉宗」の誕生である。

以降、幕末迄紀州系の将軍が続くことになる。(※15代慶喜だけは水戸徳川から養子入りした)通常、将軍家にランクアップしたなら紀州藩は(廃藩→直轄領)となるハズだが、吉宗はそのママ存続させた。

吉宗の「頼宣公リスペクト」だったかもしれない。ここに始祖南龍公の願いが実現したのでした。

 

参考/将軍家の流れ 1家康-(頼宣-光貞)-8吉宗-9家重-10家治-11家斉-12家慶-13家定-14家茂-15慶喜

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そして現代の和歌山城天守台には…

これが天下人を育んだ城の意地なのか。和歌山城天守は二度の火災に遭ったが、その都度蘇った。

天守から時計回りに多門、天守二之楠門、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと繋がる連立式天守。大天守へと通じる小天守の玄関は優美な唐破風の御殿入口で、意外と写真映えします。

さらに興味深いのは“不等辺四角形の天守台”に載る大天守。一層目は方形ではなく上に載る二層目から方形になる。一層目の屋根や軒先が、上層部と若干ずれる歪み現象が観られます。「見えない所まで工夫を凝らす」和歌山城の心意気感じます。

 

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繰り返す歓びと哀しみ。昭和十年に国宝に指定される。しかし、戦争末期に空襲で灰燼と帰す。現在ある天守閣は戦災後の昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート再建された三代目で、建造物内部には紀州徳川家ゆかりの品が博物館のように、多数展示されています。

 

紀州人の大きな誇りでもあり、時には嫌悪すべき対象でもあった和歌山城は、いまは静かに佇み時を刻んでいます。

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和歌山城天守

料金:大人410円 小人200円
9:00〜17:30(入館は17:00まで)
年中無休(12/29 - 12/31 は休み)
📞073-422-8979 

 

付記/ 和歌山城天守は昭和二十年に焼失し、その後市民の力によって昭和三十三年にコンクリート再建されました。今年で丁度再建60周年になります。現状のCR構造の寿命や耐震構造に問題があり、木造での再建を検討すべき時と想います。

和歌山城関連のお勧め観光名所として

和歌山市南部地域に、紀州東照宮、不老橋、養翠園、番所庭園などがあります。

参考/三の丸跡等には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。

参考史料/和歌山市観光協会HP、和歌山市立博物館、和歌山市教育委員会ニュース和歌山、ウキペディア

(8800文字)

その数、日本一です。和歌山・加太の人形供養の神社「淡嶋神社の雛流し」三月三日【地元発信2018】

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三月三日は日本全国、雛祭り

 

毎年恒例、和歌山は淡嶋神社の「雛流し」に行ってきましたよ。

流し雛の神事は三日の正午から始まるという。

少し慌てながら何とか淡嶋神社に到着。

神社前では警察官による交通規制が入り、駐車場はどこも満車のようだ。それでもかまわず、やって来るクルマで大混乱。加太は今日が一年のうちで、最大人口密度を記録したはずだね。

 

こんな感じ→[ꐕ ꐕ ꐕ ꐕ ꐕ 友ヶ島客+雛流し客>>>>>加太住民ꐕヒエ-]

 

では現地より雛流しのリポートを始めます。

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社殿内にはお雛様が

どど~ど~ん!!

 

てんこ盛り、凄いことになっていますね。 

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庭のたぬき軍団が見つめるその先には…

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コチラも…どん、どど~ん!!

 

本日の主役は…ヒロインは、この社殿の雛達ではありません。

この方達は惜しくも予選落ちされた云わばオーディエンス、ベンチ組なのですね。

ハイ、本日の主役登場!三隻の舟に詰めこまれ、しずしずとやって来ました。

しかしまぁなんですねぇ~コッチもエラいことになっていますな。

 

雛流しの神事が始まった

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舳先には菜の花と桃の花があしらわれています。

ハルです、紀州は春なんだなぁ。

舟上では…「あれ、わらわの檜扇が…たれぞっ、疾くたもれ~」

雛の声が聞こえてきそうですね。

いや、じっと耐えているのか。

 

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神輿舟をかついでいるのは、昭和の娘さん達ですね。

皆さん、足元は大丈夫でしょうか?

この先、下り階段もありますよ。

舟、その重量は約100キロ。

 

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この後、参道を通りぬけて海沿いの道行となります。

だいたい桟橋まで約二キロあるそうですが。

観た感じ女雛限定で、色目が華やかですね。

ん?男雛はまさか…尻に敷かれてる?!

 

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小さな子供が肩車されて、楽しそうです。 

子供心にもいま記憶が刻まれていくんだ。

自分の子供時代の雛祭りをしばし考えてみる。

すぐ思い出したのは「うれしいひな祭り」の曲だな。

 

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しかし“たのしい雛祭り♪”のはずなのに、この曲何故か短調で暗い。

子供は祭りの雰囲気を、敏感に感じとるものです。

あっ、そうそう思い出したよ。

この曲には、ごていねいにも替え歌まであったねぇ。

 


YouTube 

私が小さな頃は、たしかこんな替え歌だった。

 

♪明かりをつけましょロウソクに~お花をあげましょ菊の花。五人囃子が死んじゃったぁ~きょうはたのしいお葬式♪ ←ハイ、コレ唄うと大人に怒られるょ~!

 

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各地方により別バージョンの歌詞も色々あるらしいのですが。

でも共通するのは「死」にまつわる歌詞となる。

これは、いったい何故なんだろう…?

なにやら不吉な符合だね。

 

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この「雛流し」にはたしかに、不吉な影もつきまとうようだ。

無邪気に“楽しいひな祭り”とは言えない雰囲気。

 

淡嶋神社の歴史は往古より続く

 

淡嶋神社系は日本国内に千社あまり。

その総本社であり和歌山でも屈指の歴史を誇っている。

その祭神は「少彦名命大己貴命息長足姫命」の三柱を祀る。

 

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社伝によれば加太の沖合いにある友ヶ島

そのうちのひとつ、神島に祀られたのが始まりとされる。

 

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神功皇后三韓より帰る途上、瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した。

船中で無事の祈りを捧げ「船の苫(とま)を海に投げ入れ、その流れのままに船を進めるように」と、お告げをうけた。やがて友ヶ島(神島)に無事避難できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を「少彦名命大己貴命」の二神に奉納したと謂われる。

 

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その後、神功皇后の孫である仁徳天皇友ヶ島に狩りに来た際、その故事を聞くにおよび「此処では何かと不自由であろう」と対岸の加太に社殿を移築したことが、いまの淡嶋神社の始まりとされている。(淡嶋神社 由緒)

 

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しかし、淡嶋神社主祭神については別伝がある。

淡島大神は住吉神の妃で婦人病にかかったため淡島(友ヶ島)に流され、そこで婦人病を治す誓いを立てたとする伝承がある。このことにより淡嶋神社は、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となったと謂う。

江戸期には淡嶋願人(あわしまがんにん)という行者が、淡嶋明神の小祠を携えて全国にその由緒を語って歩いた。(※帯下に悩む婦人に人形奉納して病苦をのがれよと勧進)

また、女性の罪穢れを祓う「人形流し」の神事との整合性から、あながち附会説とは言えないのではないだろうか。

 

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保育園児も雛流しに参加している。

きょうは社殿の前で、お歌の合唱をしたという。子供たちも楽しそうだね。

 

いよいよクライマックス、祝詞がはじまった

 

「畏み 畏み~祓いたまへ~清め給へ~と申す事を 聞こしめせと~」←タブンこんなカンジだろ?!風上にいるのでまったく聞こえなかった。(適当)

 

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そして散華(鶴?)が風に舞った。.*・゚ .゚・*.

いよいよ雛流しだ。

女雛が水底へ旅立つのだ。 

 

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う~ん、やはり哀しさがあるよなぁ。

咎無く理不尽に海に流される訳で…。

 

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実はコレ漁船がロープを引っ張っていたのでした。

これはこれで、何か悲しいなあ。

 

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「明るさに  顔  耐えている  流し雛」 榎木冬一郎

 

付記/当日の状況が共同通信で配信されていたので貼っておきます。

YouTube

 

淡嶋神社へは…🚃南海電鉄和歌山市駅より南海加太線約25分で加太駅着。加太駅からは、西へ(海方向)15分ほどで淡嶋神社に着きます。(※JR和歌山駅と南海和歌山市駅は違う駅ですのでご注意)

 

◉さらに友ヶ島もどうでしょう。オススメです!

minminzemi81.hatenablog.com

(2200文字)

みんなに伝えたい! 和歌山 磯ノ浦(南海加太線)の夕焼けが、やたら美しすぎる件【和歌山夕景2018】

人に逢うたびに「磯ノ浦の夕日の美しさ!」を紹介するのだが、相手の反応は「へぇぇ・・暇なの?!」てな、感じになる。ホント残念だけどそうなのだね。

スマフォいじりする手を止め、自然を眺めてみよう

 

意識して観ないと見えないものだってある。

我々は自然に対して普段見ているようで、みえてはいないのだ。

だから“意識して”眺めてみるようにする。

 

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糸を引くような雲が流れる

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磯ノ浦の夕景

まぁ、現代人は何かとガチャガチャ忙しいからね。

海辺りにてぼんやりとする小一時間がとれないらしい。

潮騒を聴き浜辺を散歩するだけで少しばかりのストレスは解消できるよ。

大切なのは意識して「積極的にぼんやり」すること。

 

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照りばえて沈む夕日

けれども「そんな暇はない!」言うよねぇ。

まったく持って現代人は「心を亡くす」ほど忙しい訳なのか。

非常に残念なことですね。なんてことだ。

 

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淡路島、その背後の四国の背後に入日する

「人間到る処青山あり」と云うけれど

 

むかしのワタシは、都会のド真ん中で長い間住んでいた。近くには新幹線が走り頭上には航空機が過ぎてゆくようなトホホな場所だった。

 

そんな大都会の片隅には夕方はあっても、“燃えるような夕景”は、とんとお目にかかれなかったね。

 

毎日がドタバタで心が消耗して、便利だけれども心に負債がたまっていく日々。箱の中にこもっていては気持ちが晴れない。だから意識して休日にはアウトドアを好んだ。

 

必ず田舎に向かって車を走らせていたな。それはゴルフや釣りや、ダイビングなどであったけれども。本当の目的は自然に心と体を癒されたいと願っていたのだ。

 

自然を“感じる心”がなければ、大切なモノは見えなくなる。そう想う。

Mon oreille est un coquillage Qui aime le bruit de la mer.

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「私の耳は 貝の殻 海の響を 懐かしむ」Byジャン・コクトー

 

理屈ではない感性を見失わないように。

 

きょうの気分はバラードだな「アラバマ」てかんじ。

YouTube

 

◉その他の「朝夕の写真ネタ」です。

minminzemi81.hatenablog.com

minminzemi81.hatenablog.com

 (900文字)