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あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ のし

紀州街道をゆく(1) 古寺巡礼 あじさい寺で有名「長慶寺」を往く【お墓まいり】

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生憎の雨模様が続くゴールデンウィーク

 

いまは四月の終わり、ワタシは曇り空を眺めながら考えていた。 

平成時代最後に、すべきこととは何か?!

「う~むゅ、そ~だっ!」ふと思い立った。そう、思いたったんだから仕方ない。このGWを利用して、菩提寺にでも息子を連れて行くか。まだ連れていったことがなかったからね。

我が家の菩提寺は、近年アジサイ寺とも呼ばれ多くのカメラマンで賑わうようになった、真言宗 泉涌寺派の「長慶寺」さん。

泉南市街を一望する丘の上、はるかに関空島や淡路島を眺める、良い場所にあります。

 

ではでは、南海電車に乗り、出発進行!

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ただいま電車で移動中

我々は南海樽井駅に降り立った。駅前からコミュニティバスがあるはずだが…運行表を見ると「はい~!?」

何てことでしょう、次のバスを“一時間半”も待たねばならない?!“ゲバゲバ90分!”←古い、昭和テレビ史を知らないと!

「えー冗談じゃないよ、待ってられませんよぉ」その距離にしてだいたい二キロ位かな。とりあえずてくてく、歩くことにした。

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途中にある「君ヶ池」で休憩

しかし、思った以上に遠かった…。坂道だった…。甘かった…。

 

紀州街道 信達の宿です

この紀州街道の信達の地は、ワタシが生まれ育った場所。なので懐かしい思い出が蘇る。実家があった場所(いまはもう家もなくなったが)で、写真を撮ってみる。子供の頃遊んだ地蔵堂と棗の木がある。その横には「泉南石綿の碑」がありました。

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泉南市 信達牧野

泉南地域は社会問題となった「アスベスト被害」がとても多かった地域。石綿紡織産業が盛んだったので、工場従事者やその家族にも石綿被害が及びました。この碑は、“国の責任を認める判決を勝ち取った証”として建立されたものです。

生まれ故郷というものは、なんだか感傷的になりますね。子供の頃、これは大きな道だと思っていたがいま見れば道幅、車がやっとすれ違える程度しかない。

そのぶん自分が大きくなったからかな。

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歴史街道としてイメージアップ

江戸時代には紀州藩の参勤交代が、ここ信達で宿泊しました。

旅程「和歌山城出発⇒山口⇒雄ノ山峠⇒山中⇒信達宿 到着」紀州徳川家は御三家で見栄張り殿様、その行列は四千人にもなり、この街道筋に延々と長蛇の列をつくった。

鞠と殿様『♪表の行列 なんじゃいな 紀州の殿様 お国入り 金紋先箱 供揃い 御駕籠のそばには 髭やっこ 毛槍をふりふり ヤッコラサの ヤッコラサ』しばし想像してみる。

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紀州街道に並んだ宿場町

夜間も街道をゆく旅人のために、明かりを灯したと伝わる石燈籠『常夜灯』がありました。この風合いがたまりません。時代が移り平成になっても灯り続けたといいます。

燈籠は「紀州街道」と「信長街道」が交差する辻に建っています。この信長街道※1は、織田信長が雑賀攻めのおりに整備されたものとか。

一説によれば、この時の織田軍団は総勢十万人※2。それがこの街道筋にわっと殺到したと云うのだから、もうこれでは住民はたまりませんね。

そしてここ信達の宿に、信長は本陣を定めた。この地で織田軍団をふた手に分け、紀州街道浜街道紀州目指し南下していった、そんな歴史があります。

(※1 泉南市の信達で紀州街道から分かれ下出、黒田、鳥取辺りで浜街道と合流する斜め道。天正五年、織田信長が軍用道路として整備したので、この名がついています)

(※2 浜手の将は、丹羽長秀滝川一益明智光秀・蜂谷頼隆・細川藤孝筒井順慶など、山手の将は、佐久間信盛羽柴秀吉堀秀政荒木村重・別所長治・別所重宗…まるで天正織田軍団、オールスターキャスト大集結の巻)

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いい感じにあった石灯籠

常夜灯、右側は『両皇大神宮』文政十三(1830年)三月吉日。真中『太神宮』は、寛政二(1790年)正月吉日。左側『両神宮』、文化十二(1815年)五月。と書かれています。どうやらそれぞれが、お伊勢講の旅の記念碑のようですね。

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すぐ横に説明看板がありました

お~、そうだ。本陣さんに行ってみるか。

紀州徳川家の参勤交代時には、この角谷(つのや)家の本陣にて、殿様が一泊することが習わしとなっていて、ずいぶん由緒と歴史がある建物なのです。

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角谷家 本陣さん

が~ん、門は閉まっていました。一般公開はどうやら、昨日までだったようです。まぁ、仕方ないよね。「もっとよく調べろよっ!」てな話ですな、これは残念。

ちなみにいまも角谷さん御一家が、ここで暮らしています。なのであまりウロウロしているのも、よろしくありません。とっとと退散です。

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それじゃ、そろそろ長慶寺さんに行きますか

 

参道の石段を登ってゆくと山門がある

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長慶寺の百段続く参道

参道には百段の石段があります。これ「厄除けの石段」と伝えられ「女性は33段目、男性は42段目」で厄除けを念じれば、ずいぶんご利益があるらしいですよ。

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この時はツツジが咲いていました

また石段脇に、沢山植栽されたアジサイが近年とても有名となり、梅雨時期ともなると“紫陽花目当て”のカメラマンで賑わいます。

しかしいまはゴールデンウィークの最中、アジサイにはちょっと早過ぎますね。植栽には、美しくツツジが咲いていましたよ。あと、青紅葉が鮮やか。

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長慶寺 仁王門

侘びた仁王門あり。三間一戸、重層楼門、入母屋造、本瓦葺。扁額には「金泉山」とある。

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いい感じの山門ですね

それぞれ花頭格子窓が付いており、なかに金剛力士、「阿吽の像」が安置されています。素材は石ではなく、どうやら金属のようですね。

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「あ!」

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「ん!」

そこには草鞋の奉納がされていました。ワラジには何の意味があるのだろうか?山門をくぐれば三重塔がみえます。

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左手に見える三重塔

境内には、堂塔伽藍がひしめいています

階段を登りきり境内へ。まず、目を引くのが三つの塔。手前には「三重塔」ドーン。中程には「唐様裳階付三重塔」がドドーン。しかも、石灯篭が必要以上にデカい。

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唐様裳階付三重塔


これは薬師寺三重塔と同じ様式です。これは凄い、立派な塔ですよねえ。

そして奥に「多宝塔」「本堂」「香炉堂」「大師堂」と並び、とても広い作庭も設えてあります。さて本堂に、お参りしましょうか。

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長慶寺 本堂

本堂の内部は、何だかやたら暗くてよく判りません。
六十年に一回御開帳となる、秘仏如意輪観音」をはじめ、本堂内陣には「多聞天持国天愛染明王、福禄寿、不動明王弘法大師役行者」が祀られています。

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賓頭盧尊者

本堂の左脇には「びんずるさん」と呼ばれる像がありました。擦られまくって“ハゲちょろアタマ”になっているではないですか。

ん~、そうだ。びんずるさんといえば、東大寺大仏殿の右手に何と申しましょうか、ほとんどゾンビ化した枯れた像が有名ですね。

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頭ばっか擦られるということは…

<びんずるさん>

釈迦仏の弟子、十六羅漢の一人。神通力をもてあそんだとして釈尊に叱責され、涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生の救済にあたった。日本では金堂の前に像を置き、撫でると“除病の功徳”があるという信仰が広まりました。

駐車場へと降りてゆきますと…

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多宝塔と本堂が並ぶ

見慣れない謎の建物がありました。いったい何だろうか?

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駐車場で発見した謎の「鳳凰堂」

追記/この建物は「長慶寺会館」といって檀家のための葬儀会館なのでした。それで鳳凰が載ってるのか。

 

長慶寺の寺伝では、由緒はこう記されていた

 

神亀元年(724年)、聖武天皇勅願寺として行基によって創建されました。そして永延二年(988年)には伽藍を焼失し、また長徳三年(997年)に、再興されました。

秀吉の根来攻めの際に、焼失した海会寺宮境内にて唯一焼け残った「観音堂」を、慶長年に豊臣秀頼の命により、この地に移築された。御本尊は“行基自作の秘仏”となる。

その当時の年号の「慶長」を逆にして「長慶寺」と名ずけたと、伝えられています。

(※河内国生まれ 天智七年(668年)~天平二十一年(749年)八十一歳没。朝廷からは、民衆を惑わす私度僧と度々弾圧や禁圧された。しかし民衆の圧倒的な支持を集め、その逆境を跳ね返した。そして大僧正<行基が日本で最初>として、東大寺大仏造立の責任者として招聘された)

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お寺にあった由緒書き、文字が…

 

海会宮寺跡の発掘調査では、また違った話がある

 

長慶寺は、ここより北の大苗代(おのしろ)にあった「古代寺院 海会宮寺」の一院として開創されたと云います。本当は「金泉山 慈昌院 海会宮寺」だそうです。

この海会宮寺の創建は聖武天皇の時代より前、七世紀後半と比定されているとか。そうすると、飛鳥時代にまで遡ることになり、とんでもなく古い寺院となりますね。

そして、あの「斑鳩法隆寺」と同じ伽藍様式であった、とのことなんです。もう、これには「ビックリ~!」です。そんなこと、今迄てんで知りませんでした。

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海会寺跡 周辺地図

そうそう、お墓参りもしっかり?致しました

墓地へは、必要以上にデカい立派な鐘つき堂の横から、降り口がありました。巨大な梵鐘、ガゴ~ン!と撞いてみたい(笑)のをこらえつつ通り過ぎる。

もっとも、本堂側からお墓に来たことがなかったので、しばらく道を探しましたが。

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必要以上にデカい鐘つき堂<笑

小さな子供の頃。

ばあちゃんに連れられて、何度もなんども来たお墓なのです。ただいま。

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お久しぶりで御座います一族の皆様
 
<長慶寺への交通 アクセス>

JR阪和線 和泉砂川駅 下車 徒歩約15分

JR阪和線 新家駅 下車<コミュニティバス> 市場青年会場前 徒歩10分

○お寺の東側に広大な駐車場(無料)があります

真言宗 泉涌寺派 金泉山 長慶寺』

○拝観料は無料、御朱印は三百円が相場

○住所/大阪府泉南市信達市場815

電話/072-483-2692

f:id:minminzemi81:20190511174835j:plain信達の宿 見所案内

この地は古くには「呼唹郷、おうのさと」と呼ばれた。「この地は中世より賑わった熊野詣での宿駅として栄え、江戸時代には紀州徳川家の参勤交代の街道(紀州街道)となり本陣、旅籠などが設けられ、今日も往時の姿をしのばせる街道筋です」と、市の説明看板にあった。

 

泉南市の西部にある男神社(おのじんじゃ)の元宮は、日本神話の神武東征譚において、傷を負い亡くなった「五瀬命が雄叫び」をあげた場所とされる。その「雄の水門」の比定地のひとつと謂われる。

紀州街道が樫井川を渡る岸辺に「樫井の戦い」の古戦場跡がある。大坂夏の陣。豊臣軍の先鋒軍「塙団右衛門、岡部則綱」と、浅野軍の「亀田高綱、浅野知近、上田重安」が会敵し大混戦となったという。塙団右衛門と淡輪六郎兵衛の墓が遺る。

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樫井の古戦場 古地図(明治43年)

○江戸時代の牧野村、市場村は共に岸和田藩領であった。両村とも古来より熊野詣での熊野街道筋に並び「信達宿」とよばれ、街道沿いには熊野九十九王子社のひとつ「信達王子社」と「一之瀬王子社」があった。

○信達宿は江戸時代も宿駅として受け継がれ、市場村には「人馬継立所」があり信達宿の中心として「小川信左衛門家」のちに「角谷与右衛門家」に本陣が置かれた。紀州藩主も参勤交代でここに宿泊した。

○昭和時代中頃まで、随分と賑わった名勝地「砂川奇勝」が、JR和泉砂川駅の東側にドト~ンと拡がっていました。現在は宅地開発され既に往時の姿はなく、わずかながら「砂川公園」として残るだけです。

○梶本邸では四月下旬に「ふじ祭り」が催され、毎年多くの人で賑わっています。会場では垂れ下がる藤を見上げるだけでなく、二階から藤の花房を見渡すことが出来て、また一味違った「藤花見」が愉しめます。

 

<泉南市 信達 略歴>

○明治二十二年 四月一日、町村制施行により「信達四ヶ村」が発足する。

○昭和三年 一月一日、北信達村が「信達村」に、改称する。

○昭和十六年 二月十一日、信達村と東信達村が合併して「泉南郡 信達町」となる。

○昭和四十五年 七月一日、泉南町から市制化し「泉南市 信達」となり、現在に至る。

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信達の宿周辺 古地図(明治43年)

○おまけ/「泉南熊寺郎」泉南ゆるキャラ「せんくま」は金の熊で、江戸時代からタイムスリップしたらしい。

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泉南 熊寺郎 見参!

○「せんくま」の特長は「金熊寺の梅の花模様」と背中には「海に沈みゆく美しい夕陽」が描かれた着物を着ている。あてもなく散歩していたときに見つけた「藤の花」が大のお気に入り。相棒の刀「穴子丸」とともに“正義の為に活動する”ことを誓っており、無口だが実際は熱いハートを持つ心優しい侍なんだとか。

しかし、てんでゆるく無いし、このキャラだては何だかイタいねぇ<笑

 

 (5200文字)

参考/恋する泉南泉南市HP、ウキペディア

<今週のお題>10連休どうだった?

運命の日は、5月1日「あの日はたしか、1994年のGWだった」音速の貴公子アイルトン・セナへの想い出ぽろぽろ 【F1GP】

平成生まれの若者は、伝説のF1ドライバー「アイルトン・セナ」を知らないらしい。もちろん、自分が生まれる前に亡くなったヒトに「てんで、興味がな~い」のも仕方ない、でもチョット寂しいかな。

かつて“昭和の終わりから平成の始まり”にかけて日本では、空前絶後の“F1ブーム”があったのです!

F1ファン(オタじゃないよ!)のワタシがあの熱い90年代前後を振り返り、F1ブームの状況とかレース観戦の思い出話を書いてみます。では…「1994年5月1日にいってらっしゃい!」←所ジョージかっ!

 

熱いアツい「F1ブーム」とやらを、サクッと解説します

 

まず知って頂きたいのは、日本人F1ドライバーで遅咲きのルーキーと呼ばれた中嶋悟が、1987年にキャメルカラー「ロータス・ホンダ」でデビューしたこと。

そしていきなり7位、6位、5位、4位と尻上りのリザルトを、たたき出したのです。これには、ホント日本中が沸いた!!

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ロータス・ホンダ99T(#11中嶋悟マシン)

そして、その翌日には大きくニュースにも報じられました。特に第七戦イギリスGPにてウィリアムズのマンセルが優勝、二位ピケ、ロータスが三位セナ、四位に中嶋悟「ホンダエンジンがトップ4独占!!」という快挙を達成。

それで「な~んだ中嶋悟、次は表彰台かな?!」と、あの頃は至極当然のように想っていましたね(実はこれ、トンデモで驚異的なコト)。

ロータス・ホンダでの中嶋のチームメイトが「アイルトン・セナ」だった訳で、いまにして思えば、中嶋も“大変な相手”と組まされていたものです。

なぜなら翌年の「ワールド・チャンピオンがセナ」なのですから。

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マクラーレン・ホンダMP4/4(#12セナマシン)

バブル景気の始まりで、資金がダブダブの日本企業がF1のスポンサーや、コンストラクタとして参戦し「アイルトン・セナ&ホンダ」人気なんかもF1ブームの後押しをしました。

世の中が“妙な熱気に溢れていた”あの頃。

○Very great history of Formula One, Cool !! References/HQ F1 "Grand Prix Weekend" English documentary - YouTube

(※中嶋は、34歳でロータス・ホンダよりデビューを果たし、日本人初のF1ドライバーとなる。「雨の中嶋」と呼ばれ、ウエットレースに強かった。1987年の開幕戦から1991年の最終戦オーストラリアで引退するまで、五年間F1で活躍した。出走回数80回、予選最高位6位、決勝最高位4位、ファステストラップ1回) 

 

F1グランプリテレビ中継は、欠かさず観る!見ながら、“ビデオでも録画”がディフォだったね

 

それからCXのテレビ中継「F1グランプリ」。レースウィークには必ず「TV観戦&ビデオ録画」をしていました。

悪いことに日曜日の深夜枠で、眠くてね「ん~夜更しは、ヤバいよォ…zz」寝落ち寸前、だからビデオ録画が必須だったね。

いま想えばそんな状況で見るから、逆に楽しかったのかも?!

YouTube

番組は、この“超イケてるオープニング曲”で始まった。T-SQUAREの『TRUTH』(1987年~1998年まで、OP曲)が流され続けた。いま聞いても、ワクワク♪ドキドキするね。

当時としては、“超斬新”なフルCGの画面だった。ありゃ、懐かしのフレーズ「超~」て、いまでは死語だったかな?いや、まだ使うよね。

あと、エフワン雑誌も買っていました『F1グランプリ特集』や『レーシングオン』を購入して、チーム状況やレース展開を分析なんかしていましたね。

しかし何なんですかねぇ、F1にまつわる情報の、あの奇妙な面白さは…何だかね、ヤッパリ90年代が懐かしいな。

 

その後、毎年恒例となる“秋の鈴鹿詣”が始まったのが1991年からです

 

初めてF1日本グランプリを観に行く日がやってきた 

 

それで、たしか1991年のこと…平成三年。三重県にある『鈴鹿サーキット』に「F1グランプリ」を初めて生観戦する日が突然訪れたのです!

⇒ついに「生!」なんでもナマが一番だっ!!F1観戦も、ビールも、チョメチョメも!←コラコラ

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マクラーレン・ホンダMP4/6(#1セナマシン)

10月18日~20日の三日間。スケジュールは、もらったチラシがまだ手元にあった。あの頃は、決勝前にF3やシビックレース、あとクラッシックカーパレードなんかも同時開催していたのでした。いまもそうだろうか?

(※チョメチョメの発案者は、山城新伍だという。放送上、都合のワルい単語に充てた)

 

<91年F1日本グランプリ in SUZUKA>

○18日金曜日、フリー走行、F1予選1回目

○19日土曜日、フリー走行、F3サポートレース予選、F1予選2回目

20日日曜日、フリー走行、F3サポートレース決勝、F1決勝レース

 

当時、指定席チケットが「プラチナ✨チケット」と呼ばれとても入手困難、あれば“プレミア闇価格”で出回っていた。とてもそんな高価なモノ、買えませんからね。

それで、一計を図った。レース関係の知り合いに「自由席チケット」何とか二枚、横流してもらい、ワタシ以上に“エフワンオタ”だった兄を誘ってみたら、即OK。そりゃそうです、随分気合い入っていましたね。

18日の金曜日は、会社を有給♪とって、準備万端、備えは盤石! キャンプ道具一式を車の後部座席(ミニクーパーだったので、後ろが見えぬテンコ盛り状態です、何なんだぁこの物量は)に積込んで、いざ決戦の鈴鹿!!

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鈴鹿サーキット国際レーシングコース

 <鈴鹿サーキット特長>

一周、5.807km。コースレイアウトは東西に細長く八の字を描き、立体交差を挟んで右回りと左回りが入れ替わる。最大高低差は、52mもある。

アスファルトのμ係数はとても高いが、雨が降るとコースに川のスジが出来るほどにもなる。スタンドから海が見える、世界一素敵なサーキット!!

鈴鹿コースレコードは、ルイス・ハミルトンが叩き出した「1分27秒.319」(2017年F1日本GP予選Q3)夢の30秒台と、騒いでいた頃が懐かしいね。

 

レースへの期待と素晴らしいワクワク高揚感、これぞF1

 

ブォン、ブオ~ォ~!!

西名阪をカッ飛ばし、目指すは三重県鈴鹿サーキット!

そうなんです、この年の鈴鹿は実に興味深かった『セナのワールドチャンプ決定と中嶋悟引退鈴鹿ラストラン』があったのです。この頃が日本での“F1人気絶頂期”だったのですね。

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ティレル・ホンダ020(#3中嶋悟マシン)

カーステから流れる曲は、ヤッパこれ「TRUTH✨」でキメっ。イケイケGO!GO!スピード出し過ぎっ!?

亀山ICで降り窓を開けると涼しい風が舞い込む、そしてカーンと秋晴れの蒼空。とてもいい天気だった、全く問題(キャンプだから)ないね。

鈴鹿川沿いの道を車でゆくと、やがて空からエクゾーストが聴こえてきた。キャッホ~!この甲高い音、きっとフェラーリだっ!!

ワクワクドキドキ感が高まってきた。ついに来たよぉ~来ましたよ。この高揚感こそ、エフワンの醍醐味なんだぁ―!!

(※エクゾーストは排気音。F1マシンが絞り出す凄まじいサウンドは、まさに轟く雷鳴!ちなみにマクラーレン・ホンダのマシンは、MP4/6。エンジンが、RA121E 3.5ℓ NA、V12。地響きをたて「地獄のような音♪」がしていたよ<笑)

 

アイルトン・セナVSナイジェル・マンセル対決!決着

 

<謎テク『セナ足』>

セナだけが出来る“謎のテクニック”と言われ、これはコーナー旋回途中で「パパパパ…」と小刻みに右足でアクセルをあおる。これによりコーナーアウト時のエンジンの吹け上がり(+500~1000位か?秒間6回ほど、忙しい開閉の煽り)を良くしたらしい。

予選時には、ワタシはスプーンカーブにいた。そこで“セナとベルガーを比較”して観ていたのだが、排気音が確かに違った。そして、スプーン二つ目での脱出スピードも違い、さらにクリッピングポイントもセナは手前で、バックストレートに飛び込んでいった。

しかし、何だろう、これ良く分からないな。結局のところ予選タイム、PPはベルガーで、セナは二番手となったから「ゲル足」の勝利ってコトですか。ベルガーが予選用セッティングで、セナは決勝重視だったかもしれない。

○アイルトン・セナの鈴鹿アタックを、大迫力オンボードカメラでどうぞ

YouTube

<決勝レース>

フロントロウにはベルガー、セナ二台のマクラーレン・ホンダが並ぶ。その後ろにナイジェル・マンセルがいた。

スタートして1コーナー、ベルガーが先頭に飛込みセナがマンセルを巧みにブロック牽制し、まずはマクラーレンの作戦が成功。

続く9周目には、メインスタンド前から1コーナーにかけて、マンセルがセナのスリップストリームを利用し追い抜こうと仕掛けた。

だが、そのまま2コーナーでランオフに飛び出し、リタイアしてしまった。それでこの瞬間に、セナの「三度目のワールドチャンピオン!!」が決定したのです。

(※スリップストリームは、レースの追抜きテクニック。ストレートで先行車の背後に付いて、空気抵抗を減らしスピードアップを図る。しかしコーナーでは逆に、空力的に不安定となり危険、あと冷却系にも影響する) 

 

<決勝リザルト>

優勝 ゲルハルト・ベルガー

二位 アイルトン・セナ

三位 リカルド・パトレーゼ

鈴鹿ラストラン中嶋悟は、S字カーブでリタイア。ホント残念でした…。

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F1マシンは間近で見るとホント美しい(MP4/6)

セナはレースを終始安定した走りで、まさに「王者のレース」だった。やはりこの年('91年)が「セナの黄金期」だったのかな。

翌年から少し状況が変わり、あまり勝てなくなった。あっ、でもモナコだけは別格だった。セナは「モナコマイスター(6勝)」なのだから!

それにあわせて、92年から93年へとブームは少しずつだがトーンダウン、“世間のF1人気”も陰りが見え始めて来たね。

でもでも、個人的には逆にヒートアップ⤴していましたが。愉しくて仕方ない。そして94年のシーズンを迎える…運命の年。

 (※モナコGPの長い伝統に加え一般の市街地コースのため、高い運転スキル、長時間にわたる集中力を、ドライバーに要求される。それゆえに「モナコGPの優勝は3勝分の価値がある」ともいわれている)

 

えぇぇー!!!音速の貴公子、アイルトン・セナがまさか…!

 

運命のあの日はGWのなか日、1994年5月1日だった

 

そう、あの日はゴールデンウィークで実家に帰っていた。遊び疲れてヘロヘロだ、まさに寝る寸前だった。よい子は、もう寝るぞ~深夜だから。<笑

すると二階から姉が、ドタドタ階段を降りて来た。「テレビつけてみ、エラいコトになってるで!!」とわざわざ言うのである。あいかわらず変なやつ。

テレビをポチッとな。 

それで一通りチャンネルをソートしてみると、突然、奇妙な番組が目に飛び込んできた。そこにはサーキットで沈鬱な表情を浮かべ喋る中年男性二人の姿が。あっ、れれっ?

画面にいたのは、フジTVの三宅アナとF1解説者、今宮純氏なのである。確かに…なのだがパドック前で棒立ち、マイクを握り喋っているではないか。そして、泣いているではないか。打ちひしがれているではないか。

これはレース中継では無い。

イモラ・サーキットからの生放送であること、セナがレース中に事故をおこし死亡したこと、レースのあらまし等など、繰り返し二人は伝えていた。

そして“トイレで泣き腫らした後の顔”みたいな川井ちゃんが横に立っていて、それが妙に印象的だった。

○あの夜に、この放送を観た。丁度この辺りからかな?

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しばらく寝ぼけ頭で考える「え~なんてこと、セナが死んだって…?」にわかには信じられない。しかも、単独でウォールにぶつかるなんて、そんなのありえないな。

あまりのショックで茫然自失…と言いたいところだが、わりあい冷静にテレビを眺めていましたね。そして明け方まで、何かを考えていました。

そんなこんなでイモラからの「F1グランプリ」番組は、生中継で観ていましたが。

 

その後にも、とんでもない話が続いていくことに

 

この94年シーズンの状況※1は、セナが6年間在籍したマクラーレンチームを離れ、かねてから念願だった“最強マシンのウィリアムズ”へと移籍した。

各メディアとも、事前予想では「セナがチャンピオン最有力候補」だった。しかし現実にはマシンの信頼性に欠け、開幕から二連続リタイア、ノーポイントで終わっていた。

新レギュレーション※2で“アクティブサスが全面禁止”になり、ピーキーな挙動をする「ウィリアムズFW16」をなだめすかして駆っていたセナ。

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イリアムズFW16(#2セナのマシン)

このマシン(FW16※3)について、セナはシーズン前にこう語っていました。

『この車の運転にはとてもネガティブな感触がある。限界までコーナーを攻める時やその他の点でもね。車に乗っている時は違和感があって、なにもかもが間違っているように感じる』

少し感覚的で捉えどころのないセナのコメントだが“すでに何か?!”を、この時に予見していたらしい。なにもかもが間違っている…?

(※1 詳しく/前年度圧倒的勝利したウィリアムズチームは、この年コンストラクターズチャンピオンの死守に、からくも成功した。セナの後釜は復活「#2 ナイジェル・マンセル」が務めた。しかしドライバーズランキングは「#5 ミハエル・シューマッハ」と、最後までワールドチャンピオン争いをしていたセカンドドライバー「#0 デイモン・ヒル」が追い上げ、わずか1ポイント差で二位に終わった。このリザルトから考えても、やはりセナが生きていれば“結局チャンピオン”になれたはずだ。でも、まぁこれはタラレバだけど)

(※2 この年の規制は、「ハイテク技術の禁止」により“チーム間の格差解消”を目的としたものだったが、それが逆に“安全性を損ねる結果”へとつながった)

(※3 ウイリアムルノー FW16、エンジン、ルノーRS6 3,5ℓ NA V10)

 

魔女に魅入られた、イモラ「サンマリノグランプリ」

 

金曜日(決勝の前々日)予選初日。

同国のブラジル人ドライバー「バリチェロの大クラッシュ」があり、ホテルに帰ったセナは恋人のアドリアーナに電話をかけた。

そしてきょうあった事故について話している途中に、泣き崩れたと言われている。

土曜日(決勝前日)予選の二日目。

この日にも「ラッツェンバーガーの死亡事故」が起きていた。セナはこのアクシデント後、恋人に電話し「走りたくないよ…」と弱音をもらした。

しかし夜になると「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」とも語ったと言う。

このように情緒不安定となり、セナは徐々に追い詰められていく。

そして結果的にはセナも含み、F1開催三日間で「5回の大事故(内2名が死亡)観客にも重軽傷者多数」と云う犠牲者が出ることとなります。

イモラ・サーキットに棲むと云う、伝説の魔女が牙を剥いたのだった。

 

決勝レースではレース中断、再スタートから呆気なく…

 

決勝日の5月1日を迎える。セナは「開幕から三戦連続のポールポジション」からスタートを切った。その後の展開は、難なくトップをキープした。

しかし後方での事故によりレースが中断、すぐに“セーフティーカーが導入”され再度、仕切り直し。これで少しのアドバンテージも無くなる。

(※JJ・レートが、エンジンストールしてグリッド上に停止、後方からスタートしたペドロ・ラミィが追突し二台のマシンは、コース上で大破した。マシンの破片はコース上に散乱し、観客席にも飛び込んだ。警備員・観客の多くが負傷。しかしスチュワードは、赤旗中断としなかった)

 

そして再スタート後の七周目(現地時間午後2時17分)、二位のミハエル・シューマッハを従えて超高速左コーナー「タンブレロ」にセナは進入する。

この時の車速は312km。 

コーナー三つ目の舗装のバンプ(継ぎ目)で、突如マシンのトラクションが不安定となり、タイヤグリップを完全に失った。

(※セナの死亡事故により、94年度のワールドチャンピオンとなった新星「ミハエル・シューマッハ」は2013年12月29日、フランスで“スキー事故”により、頭部に致命的な障害をおった。いまでは昏睡状態から覚醒して、リハビリができる状態まで回復した。このタンブレロ事故の時、一番セナのマシンの挙動を見つめていた人物である。)

 

マシンはアウト側に大きく振られ、たいして減速もできずにそのまま直進しコンクリートウォールに激突。セナのマシンはボディー右側が大破し、タイヤ、パーツ撒き散らしながらランオフエリアに停止した。

○このセナの車載映像をご覧いただきたい。

YouTube

タンブレロコーナーで、路面の舗装が変わる部分(三つ目の黒い路面)突如マシンの後輪がトラクションを喪失して(スローパンクだとすると右リアタイヤか?)います。

セナは一瞬アクセル戻し、カウンターをあてるが、既にマシンはグリップを完全に喪い、そのままフッ飛ぶようにウォールに激突しました。

これは、単純な“ドライビングミスでない”ことは明らかです。

 

○推奨ビデオ/「アイルトン・セナ音速の彼方へ」

 

このレースの「事故原因の解明」はどうなったのか!?

 

事故原因として当初から疑われた「ステアリング故障※1」は否定された。そして現在では“わずかな路面の不整備”からマシンがコントロールを失ったとされています。

天才ドライバーセナにして“コントロール不能”とは、明らかにFW16マシンに何らかの原因※2がある。しかし、事故原因の本質的な結論には、いまだ至っていない。

そしてセナの死亡原因については「大破したFW16の右サスペンションアームがセナのヘルメット(バイザー)を直撃貫通し、脳損傷した」と、医師団から発表された。

これは即死に近いと思われる。

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タンブレロコーナー事故の瞬間

事故原因不明、責任者不在、さらに裁判の長期化。それでも開催中止には至らないF1サーカス。レギュレーションを改悪指示した「F1の悪魔」だけが、その“因果関係の全容”を知っているのだろう。そして永久封印とした。

そして、巨大なパワハラに曝される世界が、いまも続いています。

(※1 レース前、セナの要望によりチームが、ステアリング位置の簡易な改造を行った。この改造が事故原因と疑われたが、その後“何故か不問”となった)

(※2 不思議なのは、そのマシンの挙動変化を一番知っていたのは、セナ自身だったはず。そしてウイリアムズチームも、テレメタリーで判っていたはず⇒「ドライバーもチームも判断ミス」を犯している)

 

ユーミンの鎮魂歌にて、この話のまとめとしたいよ

 

いま生きていれば、セナ59歳となるねぇ「around還暦」だ。略して「あらカン」もしくは「還暦前の紅Ferrari チャンチャンコ」かな。

引退後は、F1界の名伯楽として「チームSena」のオーナーになっていたのかなぁ…最後に、ユーミンがセナに捧げたレクイエム曲「ハローマイフレンド(1994年)」です!

YouTube

 

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アイルトン・セナ・ダ・シルバ
 (Ayrton Senna da Silva,3/21/1960~5/1/1994)

○ブラジル人のF1パイロット。「モナコマイスター」や「音速の貴公子」の異名で呼ばれた。

○F1での生涯成績/出走回数161回、レース優勝41回、ポールポジション65回、ファステストラップ19回、総獲得ポイント614ポイント。

○88年、90年、91年と3回F1ワールドチャンピオンになった。マクラーレン・ホンダで大活躍したことから、またセナ本人が親日家でもあり、そのため日本人のセナファンが数多くいた。

○歴代チャンピオン、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケらと並び近代F1を象徴する存在として「F1四天王✨」と呼ばれる。

○特にプロストとの強烈なライバル関係が「セナ・プロ決戦!」とマスコミに囃し立てられ、大注目された。

○「セナとプロストとマンセルと」“限界ギリギリのバトル”が楽しめた、いわゆる「F1黄金時代」レースの数々、波平さんがF1を語りはじめます。

推奨V⇒セナVSプロストVSマンセル スーパーバトルヒストリー SENNA VS PROST VS MANSELL - YouTube

(※そう名付けたのはMC古舘伊知郎で、音速を時速換算すれば1,220km位、トンデモ速すぎる)

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還暦前の紅Ferrariチャンチャンコ
👾もぐもぐタイム「何で今頃 アイルトン・セナなんか書いてるんだよ?!」そだねぇ~

○この記事を書く気になったのは「まさき りお」さん(いつもユニークな“宇宙ネタ”ばっか書いている)のブログでですね、何故か唐突に“アイルトン・セナ”をネタに取り上げたのです。この記事デス⇒アイルトン・セナ、健在なら3/21で 59歳に - テェゲテェゲに

○「ふ~ん今年で、セナ59歳なんだぁ」ン?、そう言えば…思い出すよなぁ、F1に夢中になっていた、あの頃ねぇ…てな感じで、この“おもひでぽろぽろ”が始まったのでした。

○付記/F1界を40年にわたり牛耳ってきた「バーニー・エクレストン」が務めてきた最高経営責任者に、アメリカのリバティ・メディアの「チェイス・キャリー」が就任した。「この著名なグローバル・スポーツを成功に導いたバーニー・エクレストンに感謝したい。彼は名誉会長に就任する…」実質的にはバーニーは、窓際族てことかしらん?

 

参考/ホンダコレクションホール、レーシングオン、F1グランプリ特集、ウキペディア

(8900文字)

戦国武将列伝 大和五條に松倉重政という“マカフシギ”な殿様がいました【歴史人物考】

松倉重政は奇妙な戦国大名。奈良 五條新町地区の礎を築いた名君と、称えられるその一方で「島原天草一揆」の原因をつくった“史上最悪の殿様”とも酷評されています。それは何故なのか?!

松倉重政とはいったい、どんな人物だったのか?

 

元々は筒井順慶を支える武将でした 

 

父の松倉重信(右近)は最初、大和の大名 筒井順慶に仕えていた。有名な嶋清興(左近)と並び、筒井氏の両翼「右近 左近」と讃えられた名将でした。

そもそも松倉一族の出自は、越中国新川郡松倉が本貫地。室町時代あたりに、大和の添上郡橋田に移り住んだと伝えられています。

その後、筒井家の傘下に加わり主家を支えた。その順慶の死後、重信の息子「松倉重政」は、筒井氏を離れ浪人(異説あり)となったらしい。

 

徒手空拳、転機は関ヶ原の戦いから

 

しばらく後、重政は“関ヶ原の戦い“に単身参陣し、軍功(一番首を挙げるなど)により「大和五條 一万石 二見城主」となりました。

一万石とはいえ、一国一城の大名なのです。これは余程、家康に見込まれたのでしょう。たぶん「目端の利く者」として。

関ヶ原合戦以降、五條の西隣りの九度山には、徳川家の「目の上のたんこぶ」とも言える「眞田一族の昌幸、信繁親子」が移り住んでいました。

そのための“監視係”として家康から、密命を受けていたのかも知れません。

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一国一城の主を夢見て

そして、商業の町「五條新町」の整備や諸役免除など藩政に尽力して、わずかな期間ではありましたが、大和五條を“商業の町”としての礎を見事に築いたのでした。

商業に目を付けるあたり、やはり重政、只者ではありませぬな。

(※地元五條市では「松倉祭り」も開催されるほどの大人気ぶりなのです。町中に“豊後様”の顕彰碑まで建っています。それでいまでも「名君」と、評価され続けています)

○大和五條時代の松倉重政についての絵解き動画です。参考にどうぞ。

YouTube

武勇伝「大坂の陣」またもや松倉重政が、大活躍した!

 

慶長二十年、大坂夏の陣の前哨戦。“道明寺での戦い”では天下無双の豪傑「後藤又兵衛」と相間見えることになった。

豊臣方の作戦では、国分村の狭隘な地で徳川方を迎撃する予定だった。ところが双方とも、思わぬ場所で会敵することとなる。

深夜午前二時頃。大和から大坂に向けて徳川方が行軍中、小松山に後藤又兵衛隊の布陣を確認した。この強敵を、各隊が用心しながら包囲し始める。

先方、奥田忠次隊が小松山に寄せ掛かろうと進む。そこへ後藤隊からの銃撃あり、すぐに槍合わせとなった。この地で忠次は、呆気なく戦死する。

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この後藤又兵衛を討ち取ってみよ!

続いて北面から、松倉重政隊が参戦する。松倉隊は後藤隊の剛の者、平尾久左衛門ら200名を討ち取る大奮戦を見せる。

しかし松倉隊も押し返され力尽き、伍隊が崩れかかったところ、後詰の水野勝成、堀直寄が急援して、危うく難を逃れたと云う。

このような“大坂夏の陣”での大活躍により、九州は肥前国「日野江 四万三千石」の大名となった。石高が“四倍増”とは、最大評価された結果ですね。

相次ぐ戦乱を巧みに駆け抜け、順調な出世をかさねてゆく重政。めでたし、めでたし…いやいや、そうは問屋が卸さない!

 

九州「島原天草一揆」の本質とは、何だったのか

 

俗説には、脚色や誇張が沢山含まれる。それは教科書にも 

 

歴史教科書に必ず登場する「島原天草一揆」は、よくいう「隠れ切支丹への弾圧」から起ったのでは無く、領主の有り得ない“低レベルな悪政の結果”引き起されました。

そしてその領民の多くが、キリシタンだった、と云う訳です。

昔から小説、映画などで喧伝された「美少年♡天草四郎時貞(本名は益田四郎)、隠れキリシタンを救う!」といったBLイメージは、後に付加されたもの。ましてや妖術なんか使えません。<笑

○参考1/懐しの角川映画魔界転生』予告編。深作欣二監督&豪華俳優陣、こんな面白い時代劇が観たいものです!「復讐するは我にあり、エロエムエッサム、エロエムエッサム」ジュリィ~♪

YouTube

○参考2/東映が創る「天草四郎時貞」はこちら。時代性(60年安保闘争)を反映して、横暴な支配者に対する“民衆蜂起の描き方”は単純で解りやすい。⇒Amakusa shiro tokisada 天草四郎時貞 Rebel 1962, CZ tit - YouTube

 

松倉重政は新天地で、何処をどう間違ったのか?!

 

さて松倉重政が入国後、検地を行い自領内「石高四万三千石」を、倍近く偽り計上(公称十万石という)。そして民百姓の限界を遥かに超える、年貢を絞り取り始めるのです。やはり何かが、取り憑き始めた。

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この踏み絵に、効力はあったの?!

江戸時代初め頃の年貢は、だいたい「五公五民」でした。それを捏造した“倍の石高”から逆計算すれば、百姓が作る米をほとんど取り上げる結果となります。エロエムエッサム、なんたる悪知恵か。

そして松倉重政は身の丈に合わない「江戸城改築」の普請役を願い出たり、「ルソン島遠征(表向きはキリシタン弾圧、実際は密貿易か?)」を自ら計画し、先遣隊の派遣準備始めたり、また新城「嶋原城」の建設も強行しました。もうこれでは藩財政、無茶苦茶ですね。

(※『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録では、領民反乱の原因を「年貢の取りすぎ」にあると記している。また島原地方は火山地帯特有のシラス台地でやせており、実際の収穫高は表高四万三千石よりもかなり少なかった。一説には、その半分程度だったという)

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松倉重政

さらに領民弾圧。年貢を納めきれない百姓(家族)には「焼きゴテを押す、指を切り落とす、雲仙の熱湯を浴びせる、火を付けた蓑踊り」など、残酷極まりない数々の拷問処刑を行って行きます。

もう、これは最悪です。エロエムエッサイムです。この出来事に驚いた、オランダやポルトガル船長の記録に残っているほどです。

突如「大和五條の名君が、島原では悪魔となった!」この信じられない程の豹変ぶりは、いったいどうしたことでしょうか?

 

松倉氏の居城「嶋原城」から読み解く人物像

どこかで読んだ本に「建築物は施主の哲学、考え方をよく表す」と書いてありました。それならば松倉重政の居城「嶋原城」から、少し考察できるのではないか?

 

とても四万三千石どころでは無い、巨大城郭

 

重政は元和四年より、七年もの歳月を費やし「嶋原城下」を築きました。町割は南北十三丁、南面に城下町を作り、北面丘陵に城郭と武家屋敷を配置しました。

本丸と二の丸を連郭し、総掘りと南北にやたら長い三の丸で、とり囲んだ。迷路のように複雑に入りくんだ本丸・二の丸内の構造は、戦国時代に小規模な城郭でよくみかける縄張り、それの拡大巨大版といえる。時代遅れで使い勝手は悪かったはず。

その特徴的なのは、本丸への唯一の橋「廊下橋門」によって、二の丸と繋がっていたこと。この廊下橋を落とせば、本丸は「完全な孤立状態」となる。

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原城郭古図面(江戸後期)

そうなれば確かに寄手は本丸に到達出来ないが「本丸への渡り口、また退き口もない」ということになる。通常、闘う城に搦手は必要不可欠なものだがそれが無い。寡兵で守りただ籠城するには良いが、孤立すればもう“戦う術も無くなる構造”となっている。これはいったい、どうしたことなのか?

 

白亜五層の大天守、でも何故か一階だけに「ナマコ壁」

 

そして城の象徴、本丸には白亜五層の大天守(白壁塗り五階建て独立天守)と、その南面に三重の大櫓(天守レベルの隅櫓)が、三ヶ所ドド~ンとそびえ立っていた。その姿を南方向、城下町が建ち並ぶ方向にむけて、威容を見せ付けていたのであります。

原城が完成した際にはこの天守最上階より、得意満面あたりを睥睨した松倉重政が想像されますね。「すげぇ~だろう!儂の城はっ、ぬは、ぬはは…」と、ドヤ顔で。ヤな奴…

 

司馬遼太郎先生は、松倉重政を悪逆非道と観る

あの司馬遼太郎さんが悪し様に「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」また「がんまつである」とバッサリ切っている。

(※がんまつは葛城地方の方言で“がめつい奴、あつかましい”などの罵る言葉)

司馬遼太郎さんの著作に拠れば…「松倉重政、サイテ~」

 

司馬さんは云う『日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。重政は自己の利益のためには獰猛なほどの勇猛心を発揮する男であった。重政は島原にあること14年、三代将軍の年の11月に死んだ。その後、勝家が継いだ。この男が、空前絶後といえるほどに領民を搾った。領民として一揆に立ちあがるのが当然であった』

そして『重政が豹変するのは、参勤交代で江戸に伺候し家光に謁したとき、なにを手ぬるいことをしておるのか、とはげしく叱責されてからであるという。豹変と大弾圧も保身のためなのである。人智でもって考えられるかぎりの残忍な方法をつぎつぎに案出して人を殺しはじめた』街道をゆく17島原・天草諸道』より 

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

 

 

結論的には「松倉重政も相当エグいが、跡継ぎの勝家マジ最悪!!」創業企業を二代目が見事にぶっ潰す!の巻

 

司馬氏の上記著作によれば、重政は将軍家光より「なにを手ぬるいことをしておるのか!!」とはげしく叱責されてから「たちまち態度を豹変」させたという。そして“自己保身のため”に、領民に大弾圧を加え始めたといいます。

まさにこれ「木っ端役人根性」ではないかっ!!

その重政から跡継ぎ、勝家の時代へ。あいかわらず続けられた苛政が“島原天草一揆”を招くこととなる。そして松倉勝家は天下騒乱を招いた大罪により、切腹ではなく斬首(江戸時代、大名で唯一)された。松倉氏は、当然ながら改易となった。

(※一揆を主導していたのは、元有馬・小西家に仕えた「関ヶ原浪人」や「土着豪族」である天草氏・志岐氏など。単なる百姓一揆とは性格が異なる、云わば江戸時代最大の内乱であった)

 

五條、島原 観光情報のコーナー

 
奈良五條市「二見城址

二見城は、東を流れる吉野川にせり出すような台地の先端に築かれ、北から南へと周囲に堀を巡らしてあった。

現在では本丸・二の丸跡は「妙住寺」となって、境内の西側が一段低くなっているところが堀跡である。

残念ながらそれ以外に、城の遺構らしきものは何も残ってはいない。

○交通アクセス

最寄り駅、JR和歌山線大和二見駅」下車、徒歩10分。車は、西名阪香芝ICから国道165号線。妙住寺の参詣者 駐車場(無料20台程度)あり。

○リンク/五條名物「柿の葉寿司」を賞味あれ⇒柿の葉すし本舗 たなか

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奈良五條市 二見城跡 周辺地図

○リンク/「美しき日本 五条新町」 街道のまち、五条新町では何処か懐かしい“日本の原風景”が広がります。

YouTube

 

長崎県島原市「嶋原城址」

本丸、二の丸とその石垣群が残る。本丸にある堂々たる五重天守は、層塔型で破風などの装飾がない珍しい姿、でも昭和のコンクリート再建天守なのです。内部には、キリシタン資料や藩政時代の郷土資料・民俗資料などを展示しています。

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一階になまこ壁を巡らす変わった姿

※御注意/島原天草一揆で農民が立て篭もり闘ったのは、2018年「世界文化遺産登録」された⇒「原城」の方で、この松倉氏が築いた⇒「嶋原城」ではありません。

○交通アクセス

最寄り駅、島原鉄道「島原駅」下車、徒歩8分。車は、長崎自動車道諫早ICから65分。島原城の西側から天守前まで、車で入ることができる。天守直下に、無料駐車場(約90台程度)あり。便利だが、お城の風情は台無し!

○リンク/詳しくは、島原城HPをご覧下さい⇒ 島原城 | 公式ホームページ

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長崎県島原市 島原城 周辺地図

○リンク/こちらは「南島原のドローン映像」です。とても自然美しく、感動出来る“訪れる価値あり”の場所です!

YouTube

 

参考/新町松倉講HP、島原市観光ビューロー、ウキペディア

(4900文字)

「JR西日本 御坊駅 車輌脱線事故について」 平成31年 4月14日 午前6時55分【鉄道事故】

鉄道事故に言及するのはおこがましいが「書かずにいられなかった事故」が起きたのでここに記します。あ、お断りしておきますがワタシは決して「キモ鉄」などでは断じてありません!チョッピリ鉄道♡好きの小市民で御座います。そこのところ宜しくご査収下さいませ。

平成31年 4月14日 午前6時55分ごろ、JR西日本きのくに線(紀勢本線)御坊駅構内において、脱線事故が発生する

 

少し不思議な脱線事故

 

JR西日本 紀勢本線(亀山駅にゼロポスト~和歌山市駅まで)のうち「新宮駅和歌山駅」間だけは「きのくに線」という名称で呼ばれています。

御坊駅構内には外側0番線(紀州鉄道専用線)、紀勢本線1、2、3番線(JRきのくに線)があります。よって2面4線の駅となります。

北側に留置線4線あり、紀勢本線と平面交差(可動クロッシング写真左下)する場所が脱線事故現場となります。

(※稼働クロッシング、本線を斜めに跨ぎレール先端部分のみ動き、閉開するという連結機構。) 

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事故のあった御坊駅周辺(google mapより)

事故の当該車輌は、225系5000番。これは既存の旧車両(117系113系など)の置換目的で、2010年より投入された比較的新しい車輌です。

225系の運行は留置4番線より、紀伊内原(左側)に向け列車は進行。平面交差する上り本線を跨ぎ、引上げ線に進入後、御坊駅の2番プラットフォームに入線する予定だった。

しかし車輌が平面交差に進入した時に、ポイントは紀勢本線側に開いており、そこに乗り上げた先頭車両は本線側に乗り込み停止。続く“二両目が大きく脱輪”した。

この不思議な車輌の動きは、225系編成がすべて“モハ車※1”であったためなのか?引上げ線のメンテ不足からなのか?しばらく考えたが、このあたりのモーメント※2はよく分からない。

(※1 モハ車。モ=モーター車、ハ=普通車)

(※2 誤進入に狼狽した運転士が、車輌をバックさせたことが判明。よって二両目から脱輪したらしい)

 

朝日新聞によりますと

 

以下新聞引用『JR紀勢線(きのくに線)御坊駅構内で14日午前6時55分ごろ、4両編成の回送列車の2両目が脱線した。

事故により、印南―紀伊由良駅間で約14時間運転見合わせとなり、交通に大きな影響が出た。15日は始発から通常通り運転した。

JR西日本支社によると、列車は14日午前7時14分御坊発 和歌山行きの運行予定で、留置線からホームに向かう途中だった。

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脱線車輌の現場(JR西和歌山支社提供)

駅の係員が列車の進行方向を変えるポイントの切り替え操作を誤り、間違った進路に列車が進入して2両目の一部の車輪が脱線したという。

駅の係員と車掌との連絡が不十分だったとしている。乗客はおらず、列車の運転士と車掌にけがはなかった。

(中略)特急列車30本を含む計102本が運休し、約1万300人に影響が出た』

(朝日新聞2019/4/16)

 

ホントの事故原因は、まだ判らない

 

上記新聞記事によれば、次の二点が原因と指摘されている。

①駅の係員の“ポイントの切り替え操作”の誤り。

②駅の係員は“車掌との連絡が不十分”だった。

これでは、少しおかしいのではないか。

まるでポイント係員だけがミスを犯したような書き方ですね。聞いた話では、ポイント操作している“駅の係員”は御坊駅にはいない。もっと南の「リゾッチャ駅で集中管理」しているそうです。

鉄道事故時、いつも思うのは列車運行に関して、統括責任者はいったい誰なのか?運行現場ではまず「乗務員であり、運転士」だろう。しかし、路線に関しては乗務員は操作、管理は全く出来ない。

(※リゾッチャ、JALの“南国キャンペーン”で使われた造語。スチュワーデスが何とアロハシャツを着て乗務するという暴挙にでた、伝説的キャンペーンであった。)

 

勝手な想像、憶測をまじえて書きます

 

○早朝乗務で、車輌乗務員は駅での“仮眠明け”であることから、「不覚醒、寝ぼけ眼での乗務」ではなかったか。 ⇒“不覚醒での運行”開始したか?

○車掌の勝手な思い込み、本線閉塞しているだろうといった情報未確認で、運転士に出発信号を送ったのではないか。 ⇒“だろう運行”の常態化?!

○列車運行は全て一箇所で“信号で管理”されている。運転士の「入換信号の見落とし」はなかったか。 ⇒“入換信号機の見落とし”があったか?

○列車扱いの「切替信号入力ミス」関係ないポイントを開きながら、当該ポイントと勘違いしていた。さらに操作確認も怠っていた。 ⇒もうこれでは、話になりません!!

責任者出て来いっ!

 

ワタシは憤慨する、いまだ反省のないJR西日本に!

 

間もなく4月25日、あの痛ましい「福知山線 脱線転覆事故の日」がやってくる。大惨事(死者107名負傷者562名)から14年目となる。昨年、追悼慰霊碑もようやく完成したばかりではないか。

福知山線脱線事故からの教訓「利益優先より安全第一」と舵を切ったはずだが、この脱線事故「あぁ、またか…JR西」と皆さん思ったのではないでしょうか。

今回、乗客には怪我はなかったのですが、職務怠慢(ヒューマンエラー)から起きたことは明らかで、とても危険な「インシデント事故」だったのではないか。と思います。

 

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JRきのくに線御坊駅周辺
御坊駅(ごぼうえき)

紀伊半島の西側、和歌山県の中核都市であり、浄土真宗本願寺の日高御坊があります。約400年前に建立され、寺院を御坊様と呼びならわしたコトから「御坊」の名前の由来となりました。

○JR和歌山駅紀伊田辺駅の中間地点でもあり、特急を含む全ての列車が停車します。ここからの折り返し列車(上り下り共)も、多数運行されています。 

 

追記/御坊地図中、緑ピンは「川常」 さん。有名な鰻屋さんです。“和歌山いち旨い”かもしれない。紀州備長炭で焼いたパリフワな鰻丼はたまりません!

黄色ピンは「八ッ房」さん。紀州名物「熟鮨」の名店です。なれずしは、発酵した鯖寿司で話のネタに、またお土産にもどうぞ。

 

(2500文字)

新元号が決まり、新年度も始まったので、記事の振り返り企画でもやってみる【春の四選抜】

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いましがた、新年号は『令和』と発表した。萬葉集から文字を採録したと云うが、昭和と何が違うのか?音やイメージが、ダブるからね。どうなんだろ?

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新年号は「令和」

この「令」の文字にはいいイメージが湧かないね。例えば、命令、号令、指令、とヤな感じ“律と令はセット”だからさ。書きやすいのはまぁ、イイかな。

検索アクセスが多かった、記事四選 発表!

 

さぁ、平成が終わり令和が始まることになった四月です。

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過去ブログを発表して心機一転、心を入れ直そう…(でも、新しい心がローソンにも売ってなかったので、無理)とりあえずGoogleとYahooからの検索流入の数字から、順位を決定しました。

ではでは、発表します。だららららら…(ドラムロールのつもり)ジャーン♪

 

第四位✨『「大塚国際美術館」想定外に凄かった! 展示作品数、展示方法も、我々の想像を超えた“巨大な美術館”でした。徳島県 鳴門市【西洋陶板美術館】』

 

○タイトル、ながっ!去年の年末のことです。徳島県にある大塚国際美術館に行ってきました。その時の珍道中ぶりを記事にしました。とかく絵画芸術は敷居が高いものです。

それで“お気軽に行けるところ”はないかと調べ、たいした期待も持たず訪れました。するとなんてことでしょう~思った以上に素晴らしい美術館だったのです。

minminzemi81.hatenablog.com

 

 

第三位✨『もうひとつのラピュタ、深山砲台跡と海軍由良水雷隊基地 見所満載、ドタバタ探検記!! 和歌山市 加太【戦争遺跡】…Part1』

 

○このタイトルも、ながっ! 記事は現地に二回も冒険(取材)に行き、比較的力を込めて書きました。三部作に分けて書き分けようとした、野心作(笑)なのであります。

それでパート1とパート2はエントリーしましたが、三つ目がなかなか上手くまとまらなくて、いまはペンディング状態なのです。近々完結させま~す。はい、乞うご期待!

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第二位✨『噂の「野口英世の母シカの手紙」を読んでみたら』

 

野口英世さんはお札の肖像画にもなった偉人なので、けっこう言及は多いのです。ですがそのお母さんである「野口シカ」さんは、ほとんど知られていないのではないか。

ある時のこと、シカさんが書いた手紙を読んだのですね。それで“その文字と内容”にショックを受けたのです。皆さんにこの内容を伝えたかったので書きました。

minminzemi81.hatenablog.com

 

 

第一位✨『あの「しょうこおねえさん」を、再検証してみる。天才or奇人?エピソード4選』 

 

○意外や意外、検索一位は「しょうこお姉さん」の記事でした! むかし毎朝眺めていたTV「おかあさんといっしょ」で活躍していた、拝田祥子さんを思い出して書いてみたのです。

最近はテレビでお見かけする機会も少くなりましたが、まだまだ活躍して頂きたいですね。この記事、万余の方々にお読み頂けたみたいですので、書いて良かったと想いますね。

minminzemi81.hatenablog.com

 

<ひとり反省会>とかくブログというものは…

 

ふと気づいて見れば、あと数ヶ月で“ブログ生活二年目”が終わろうとしています。そして、平成も終わろうとしています。

「いやぁ、自分で思った程書けなかったなぁ」なのにサブブログ(実は三個もある。何それ爆笑)まで作ったりもしたね。さぁ“気分一新だっ!”てなことで創ったけど、さらに”もっと書くことが大変”になっただけだよ。笑笑

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SNS活動は、いまの所7媒体やってます。色々な媒体をクロスオーバーさせて情報充実させるのが目的だった。でもこれもねぇ、余りうまくいってないのですね。

はてなブログGoogleマップ、インスタグラム、フェイスブックツイッター、LINE、YouTubeと…「これ、やり過ぎだよっ!」てか動画(YouTube)までとても手が回らない。

だから、ずいぶんバコバコ書き込んだ(描きかけ保留も、沢山残っている)気分ではあったが、なかなかブログを量産するにはいたらなかった。いたし方なし。

はいっ、反省終了~はやっ

 

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平成時代をまとめてみるならば、この曲かな。

 

平成日本を総括する曲とは、何か?バブル崩壊から始まり大変な地震・豪雨災害もあり、経済も低迷した。いま振り返れば“激動の時代”だったか。次の令和には“希望を持ちたい”ものだねぇ。ならば、これかな…名曲「時代※」。

YouTube 

(※中島みゆきが作詞・作曲。1975年に発表され『第6回世界歌謡祭』でグランプリを受賞。後に卒業式で歌われたり、音楽の教科書にも採譜されている息の長い楽曲。また『日本の歌百選』にも選ばれました。)

 

○オマケ/誰も言及しないので、こっそり書き記しておきました↓↓↓<笑

minminzemi81.hatenadiary.jp

 

(2000文字)

じつは不意打ちを食らって、不覚にも涙を流したMVがあるのです! 嗚呼、なんてこったい【携帯電話】

これはいわゆる“何かの試金石”カモしれません?!

 

ワタシのいま使っている携帯電話に、サービスなのかプロモーションか、ハナから入っていた曲があった。それが「Dream It Possible」という楽曲なんですが、皆さんこの曲ご存じでしょうか?

最初、軽く聴いてピンとこなかった。「携帯⇒ディフォ装備にろくなものは無いっ!」といった、先入観から途中で聴くのをやめた。そしてそれっきり、聴くことはなかったのでした。

ある時、スピーカーを改造することを思い付き、この時ですね。↓↓

minminzemi81.hatenablog.com

 

音質テストの音源を探していて「Dream It Possible」を“音質ビフォーアフター”用の聴き比べに、何度も何度も流し続けたのです。はい、聞き馴染みした訳です。

リリカルソング?…この歌詞は何やら“哲学的な感じ”だが、意味がよく解らない。だってエーゴ苦手だも~ん、エーゴ。最初の方だけは、どうにか歌詞が理解出来たが、ははは。

 

この“Dream It Possible” は謎の曲なの?!

 

わたしは走る

わたしは登る

わたしは舞上がる 

無敵なわたし

自分の殻を 抜け出し 弦を弾く

そう わたしは 信じられる!!

 

「イイなぁ、いったい誰の曲なんだろう?」

 

そしてそして、曲調べのためにYouTubeで、検索ヒットしたのがこちらのMVなのです。しかしクレジットが無いのです。このクールなボーカルはいったい誰だ?!歌詞と動画があわさると「!」

YouTube 

 

I will run I will climb I will soar
I'm undefeated
Jumping out of my skin pull the chord
Yeah I believe it
The past is everything we were don't make us who we are
So I'll dream until I make it real and all I see is stars
It's not until you fall that you fly
When your dreams come alive you're unstoppable
Take a shot chase the sun find the beautiful
We will glow in the dark turning dust to gold
And we'll dream it possible
Possible

 

そして…何故か涙してしまった。

ホント迂闊なことにね。

なんか、おかしい?

あれれ…俺。

 

やっとわかったよ、ジェーン・チャンとは⇒「海豚姫」

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ジェーン・チャン(Jane Zhang)
○ジェーン・チャン(Jane Zhang)

中国四川省成都出身の有名女性歌手。特徴ある高い声(イルカ音)が魅力で、中国では“海豚公主 イルカ姫”という愛称で呼ばれているらしい。

 

(1200文字)

♪スカッと爽やか コカコ~ラ~♪は、危険薬物だったんだ。知ってた?日常に潜む薬物依存性の怖さとは【カフェイン中毒】

まずは懐かしの名曲「コカ・コーラの唄」Byフォーコインズ を聴きながらお読み下さい。しかし昔のCMは、なんてホッコリしていることか。

YouTube

子供の頃のコーラの思い出は、苦くて不味い液体だった

 

ワタシがはじめてコーラを飲んだのは、たしか小学校低学年の頃だったなぁ。テレビのCMを見て、どうしても飲んでみたかったんだ。スカッとしたかった、黒く魅惑的なジュース!

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これがオトナの味?!

一口飲んで「げぇぇぇ~不味うっ!」吐いた。ほんと泣きそうな気分になったな。それまで、三ツ矢サイダーバヤリース位しか飲んだことがないという、とても“健全なお子ちゃま”でしたので。ははは…のは。

コカコーラのネーミング由来は、当初コカの葉(コカインを含む、南米産)とコーラの実(カフェイン含む、アフリカ産)を原材料に使っていた。なので併せて名前は「コカ&コーラ」となったのです。これ奴隷貿易のルートじゃないか。

成程なるほど、それで最初は“妙な薬”だったのね、道理で薬っぽい香りがついてました。ガッテン!

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コカコーラ300㎖

<狂者の詩より> 

『頭の中から猫が啼く 何処かから誰かが ロダンを餌にする コカコオラ THANK YOU VERY MUCH』By高村光太郎

 

昔のはなし「モルヒネは🙅 コカインは🙆」いやいや、どっちもダメしょ!

 

清涼飲料のコカコーラは、アメリカの南部、ジョージア州アトランタで生まれた。時代は南北戦争が終わった頃のことでした。

実はコカコーラは、発明家のジョンペンバートン自身が患っていた“モルヒネ中毒の治療薬”として開発されたものだったのです。

20世紀まではコーラにはコカイン成分が含まれており、薬局(鬱やヒステリーの治療薬)などで“Dope”※というスラングで売られていたそうな。またソーダファウンテンで1杯5セントだった。

(※ドープとはまぁ、早い話“ドラッグ”のことです。いまでもドーピング検査とか言う、アレ)

その後“コカインの有害性”が明らかになると、1903年にコカコーラは、コカインの使用を中止。その代わりに“カフェイン”を代用することになるのでした。「ではカフェインなら安全か?」といえばさにあらず、後述します。

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歴代のコカコーラボトル

アメリカで産まれた頃の“コカコーラの歴史とその背景”などを、オタキング(岡田斗司夫氏)がノリノリ♪めちゃ早口で語っています。参考にどうぞ

麻薬中毒者が作った黒い飲料〜その名はコカコーラ - YouTube

ピエール瀧も大好きコカインの真実 - YouTube

 

コカの歴史的な流れ、南米から始まるコークの歴史

 

コークの原料は、南米原産の「コカの木」から得る。南米ではお茶や薬用として、いまも伝統的に利用されているそうです。

コカの葉自体はコカイン濃度が薄いため、依存性や精神作用は抽出コカインに比較すればとても弱いと云いますが(日本では禁止薬物指定です)。

1492年のこと。スペイン人が南米を征服した際に、コカの葉の使用を全廃しようとした。原住民が主張する「葉が与える神の力✨」を(都合良く)理解したため一転、合法化。さらには税金を課して販売されました。

摂取によって「恐怖感を喪失させる」「疲労感を薄れさせる」「空腹感を薄れさせる」「眠気を忘れさせる」といった薬物効果が得られるため、南米では鉱山労働者などがコカの葉を噛みながら、仕事をする習慣があったらしいのです。

入坑するときに頬いっぱいにコカの葉を詰め込み、そのエキスを飲むことで鉱山の“崩落事故”などの危険の恐怖を忘れ、疲労や空腹を癒し夕方まで(何と昼食もとらずに)働き続ける。これは都合のいい“労働強化策”ですな。

しかし、コカの葉を継続的に使うことで“覚醒状態での注意力の欠如”などにより事故を誘発する原因となったそうな。それ、ダメじゃん!

(注意※しかし“いまのコカコーラ”には、上記コカ成分は含まれていません。残念なんだか、安心なんだか、当然なんだか)

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コカコーラ500㎖

<狂者の詩より> 

『柳の枝さへ夜霧の中で 白ぼつけな腕を組んで しんみに己に意見をする気だ コカコオラもう一杯』 By高村光太郎

 

角度を変えて“薬物依存性の強さ”を色々比較してみると

 

コカインなどに比べ、案外甘く見られがちな酒類。ビール、ワイン、ウイスキー、日本酒、焼酎、リキュール等々はいずれも「エチルアルコール」が主成分。合法的に市販されていますが、れっきとした“依存性薬物”であることに注意されたい。

法律により未成年の飲酒は、成長期の“心身に大きなダメージ”を与えるので「未成年者飲酒禁止法」で、とりあえずは禁じられてはいますが。酒類が安易に“コンビニで二十四時間販売”されているのは、如何なものか?

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いくつになっても未成年扱いされる

そのアルコール作用機序は「ヘロインなどのモルヒネ型薬物」に似て身体依存性がとても高く、また離脱症状はとても激しいものです。

例えば二日酔を考えてみてください…「グハッ💦ワタシはナマコになりたい」

体内臓器への急性と慢性毒性があり「急性アルコール中毒」では“死に至ること”もあります。慢性毒性としては「肝臓病や“脳の萎縮”をはじめ、すい炎や“糖尿病”、骨粗しょう症、癌」のリスクも高まることになります。

そして多量の飲酒によって身体は、病気の博覧会のようになってしまいます。

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依存性と有害性のスコア

○依存症の専門家による <精神依存性の平均スコア比較> によると(最高点3点☠)「ヘロインが2.54、アルコールは2.21、コカインが2.17、タバコが1.42」となる。

これには驚きましたね。大麻LSDよりも「アルコール、タバコ」はめっさヤバいっ!!気になるのは「街角のメサドン」である。いったい「街角の…」とは、何なのか~?! どんとはらい。

次にコーラなど「清涼飲料水に潜む危険」のはなしです。

 

一般飲料に潜む危険薬物とは何か?!

 

日常摂取する、コーヒー、紅茶、緑茶、チョコレート、コーラビーンズ(コーラ原料)などに含まれる「カフェイン」は、主にヒトの中枢神経を刺激して“興奮させる薬物”としての作用があります。

古くからの嗜好品とは別に「エナジードリンクや栄養ドリンク」など、カフェインの作用をメインにした新飲料が登場した⇒「レッ○ブル天国への翼を与える👼」ヤバ危険な香りが…

加えて「カフェインの錠剤」が安価で購入できるようになったことで「依存症や急性中毒の問題」が表面化した。これが“バカ者ジャンキー”の増加へと繋がった。

下の図表↓↓エナジードリンクの“カフェイン含有量の異常さ”に注目されたい。

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出典:農林水産省Webサイト「カフェインの過剰摂取について」

上の表からは何故か“書き落とされ”ているコカコーラのカフェイン濃度ですが、コーラ500mlボトルカフェインの含有量はおよそ50mg程度(日本コカコーラHPより)、100ml換算では10mgとなります。

ん?玄米茶と同じなのか?意外と少なく感じますね。これぞ数字MAGIC !

でも、コカコーラの弱点は「ついガブ飲みしてしまう」ところにあります。炭酸と甘味料の口当たりの良さでゴクゴクと、いくらでも飲めてしまう怖さがある。

いや、いまやカフェインよりも糖分の取り過ぎの方が怖いのかも?あれね…凄いから。500mlで225カロリー、ポテチをバリバリ、コーラゴクゴク、一食分カロリいきますね。

 

カフェイン中毒の正体とは!

 

さて、カフェイン飲料や錠剤は「眠気覚まし、集中力向上、ハッピー気分?」などを求めて使用されることが多い。でも、これはいわば「元気の先取り」であり、その効果が切れると“頭や体がとてもだるく”なります、逆効果を招きます。

そしてしだいに「効き目が悪くなり、カフェイン摂取量がドンドン増加してゆく…」という悪循環に陥るのです。本来リラックスするために飲む、コーヒーやお茶の目的とは正反対の“不快でつらい症状に苦しむ”症状が「カフェイン中毒※」の正体なのです。

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スーパーマンにはなれませんよ!

カフェインの過剰摂取は「めまい、心拍数の増加、興奮、不安、イライラ、震え、緊張感、不眠、頭痛」等々を招きます。下痢や吐き気嘔吐により脱水症状も起こします。

一流スポーツ選手が絶対“カフェインとらない理由”はここにある。

そしてさらには意識低下や心臓血管系への圧迫など、重篤な症状を招きます。このことより救急搬送や死亡例が多数報告され、近年社会問題(下段↓新聞記事参照)となっているのです。

カフェイン中毒は、普段からの注意が必要です!」

(※カフェインは、作用効果に大きく個人差があります。年齢差やカフェイン分解酵素の多寡がヒトにより違います。自分に合った適量を!でもそれがまだよく分からない) 

 

参考記事 

 

なんでも「カフェイン中毒についての明確な答え、定説は無い」そうです。なので以下の記事を参考にどうぞ。

○参考/日本中毒学会による調査、新聞記事一部抜粋

『カフェインは“一度に1グラム以上を摂取すると、中毒症状が出る”とされ激しい吐き気やめまいが起き心拍数が上がる。心停止に至った7人は、いずれも6グラム以上取っており、中には53グラムを摂取したケースもある。

(中略)

患者は2013年度から急増しており、97人は眠気防止薬を服用コーヒーやエナジードリンクをあわせて飲んだ人もいた。エナジードリンクだけの中毒は4人だった。

調査した上條吉人・埼玉医大教授は「カフェイン中毒の危険性が一般の人には十分知られておらず、行政も実態を把握できていない。一度に購入できる眠気防止薬の量を、制限すべきだ」と話している。

カフェインの摂取許容量は定められていないが、海外での目安は「成人で1日当たり0.4グラム(マグカップのコーヒー3杯分)」程度。エナジードリンクは数本を一気に飲まない限り問題ないとされる。

2015年には九州地方の20代男性が、エナジードリンクと眠気防止薬を長期間飲み続け、死亡した例が報告されている。』(2017/6/13付 産経新聞/共同)

 

○追記/コークに含まれる危険物質

アメリカのCSPIは「日本を含む世界各国で含まれているコカコーラには発ガン性物4-メチルイミダゾール(4-MI)が含まれている」と発表※した。

この発ガン性物質は、カラメル色素を製造する過程で、砂糖やアンモニア、亜硫酸塩が高圧・高温下で化学反応を起こして生成される化学物質です。

その後、日本のコカコーラがどう改善されたのかは不明。

そうたしか昨年、コカコーラの新製品「コカコーラ プラス コーヒー」が発売された。コーラにコーヒー成分を加えた製品ですね。見るからに不味そうなラベル、イミフな味…これが答ならエンガチョじゃ!

(※アメリカ公益科学センター(CSPI Center for Science in the Public Interest)の発表)

 

おまけコーナー

 

<<信じるか信じないかは、あなた次第です!>>

コカコーラにまつわる都市伝説

 

○日本で「コカコーラ」輸入販売は、大正三年(1914年)?その年発表された高村光太郎『狂者の詩』に早くも登場します。『己はしまいには気ちがひ相だ ああ、髪の毛の香ひがする それはあの人のだ、羚羊の角 コカコオラもう一杯』この詩、凄いね。

○コカコーラのフォーミュラ(オリジン配合レシピ)は、いまだに「謎!」コカコーラミュージアムの金庫の中に、大切に保管されている。門外不出で“社員の誰も知らない”とか。それ、マジでスカ?コーラ作るときに困るやんか。

○サンタクロースの衣装である赤い服は、アメリカで“コカコーラの広告”から始まったと云うのです。それまでは「実は緑の服を着ていた」という話なのですが。古くから広告業界に伝わる、変な神話だよね。

○昔からよく聞いた「コカコーラを飲み続けると骨がスカスカになる?!」コカ・コーラ社の回答は「確かに魚の骨をつけておくと溶けてしまう…」と認めたらしい。ん~、何だかなぁ、ショック。なんだかなぁ…「溶解液」かよ。

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コーラのデカボトルは日本だけ?!

○F1のジョン・バーナード(空力デザイナー)が車体設計した「MP4シリーズ」の「コークボトル形状」は、“コーラの瓶のカタチ”から着想を得たという。このフォルム、現代F1の定番となり全ての車両が採用している。

アメリカ大統領を務めているドナルド・トランプは、コーラ中毒なので毎日12本ものコカコーラを愛飲しているらしい。エ~ホントかよっ!共和党※1なのにっ。これは実話なのか?伝説なのか?何アピールなんだかね?

○スポーツ選手は、絶対にコカコーラを飲まない、と聴いた。それは“ドーピング検査で一発アウト”になるからね。でもコカコーラ社はずっと、オリンピックの“オフィシャルスポンサー”しているよねぇ、これは…何故??

○コカコーラのデカボトル(2ℓ)は日本だけと聞いた。「そんな訳ない、あのなんでもビックサイズ大好き♡アメリカ人がレギュラーサイズで満足できる訳ない!」ネトで調べた結果、何と3ℓサイズも!!あった、やっぱ凄いね。

(参考記事⇒世界中で見かけたコカコーラの国別サイズ違いペットボトル&缶いろいろ - GIGAZINE)

(※1 民主党がコカコーラで、共和党ペプシコと昔から言われている) 

 

参考、引用/ウキペディア、武田薬報web、産経新聞 

 

(5400文字)