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あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ のし

徳島ラーメン老鋪 中華そば「いのたに本店」へ行きましたよ。徳島県 鳴門市【ラーメン屋】

徳島ラーメンで有名な「中華そば いのたに本店」は、徳島駅より少しだけ離れた場所にある。「地元民が一推し!」すると云う、伝説的中華そば屋なのである。一度はいかずばなるまいて、皆の衆よ。

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JR徳島駅

徳島に到着しました。腹が減っては観光ができぬ。中華そばで腹ごしらえ

 

我々は、地元ではメッチャ有名な「中華そば屋 いのたに」へとむかうのでした。有名なだけあって市内にはいくつか「いのたに」があります。そんな時は「迷った時には、とりあえず本店へ行っとけ」がセオリー、この先人の教えに従うのが、順当というもの。他店との関係は、よく分からないもんね(たいてい、暖簾分け)。

JR徳島駅より駅前大通りを「眉山」という、低い山の見える西方向へ「沖洲川」に架かる橋を渡り、交差する大きい通りを北へとスタスタと、あゆみを進める。

よーするに、大阪風にいえば「この道しゅーと行って、クイッと右へ曲がる!」すると店に着く。やがて赤色テント屋根に白抜きデカ文字にて、どど~ん!「中華そば いのたに」と書いてあるのがハッキリと判った。

そう、例えれば“赤いシャア専用機カラー※”を身にまとい、ヤル気に溢れた店の佇まいといったところ。推力は30%増しだなっ!これには戦果が期待出来ますねっ。

何故か突然始まったガンダムネタ、気になさらずに。『見せてもらおうか。いのたに本店の性能とやらを』 ←ちがふ

そして呼び名は『中華そば』なんですよ皆さん、これ大事。通は『支那そば』とも。

(※機動戦士ガンダムに登場するシャア・アズナブル少佐専用のザクⅡ)

 

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お店の前には駐車場完備

中華そばType徳島、そのポテンシャルとは如何かっ?

 

ガラガラッ「おばちゃん中華そば、やって!」するとオバチャンが、指さすではないか、彼方には券売機。ナルホド、ナルホド“豪に入れば郷ひろみ”と昔から云うね。

いのたには、近代化された「食券システム✨」なのでした。

ラーメンの盛りの種類は「大」と「中」もあるぞ。普通ラーメンと、豚肉増量タイプのアッガイたん「肉まし」も選べるようである。

もちろん“腹を空かせた狼の群れ✨である我々”は、肉多めをセレクトした。ここまではなんの問題もなかったはずだ。食券機のボタンを逆上気味に“ポチッ”と押すと、プラスチックの札がコロリンコと出てきましたよ。

フェーズONE完了。

 

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中華そば「いのたに」本店

すぐさま「徳島美人阿波踊り一筋、ン十年」といった風情の店員さんに手渡しする。これですべての手続きはすんだ。

フェーズTWO完了。

程なく徳島ラーメンが、いやさ徳島の『中華そば』が目前にどど~ん!と、姿を現した。「おやおや? なんかこれは…」

 

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いのたに本店 中華そば

ここ「いのたに」の中華そばは、茶色いスープの豚骨醤油味。その見ためは“濃ゆい”ですが、それほどスープはくどくない。そして中太のストレート麺です。最大特徴は、『チャーシューではなく「煮込んだ豚バラ肉」が乗っていること。次に「生卵がセンターイン」していること』この二つにあると、断言してもいい。

この関係は“すき焼き風の味わい”とでも云うべきでしょうか「豚肉&生タマゴ」のペアは、丸いリンクの華とでも申しましょうか。ともかく“必須アイテム”だったのですよ、タマゴちゃん。でも玉子は標準装備、デフォではなかったのよ。よよよろ、涙

ままよ、ズズッーと食べ進めながらこの失策、よお~く噛みしめました『生たまご券買うの忘れたは、痛恨のミス! 』もしくは『認めたくないものだな、若さ故の過ちというものを』だったかな。

ササッとわずか五分で完食した我々一行は、本日のメインデッシュである「大塚国際美術館」へむかうのでした。

オバチャン、バイなら。

 

まとめ

本日の御教訓『生タマゴトッピングアイテム、券売機で焦らずポチッとな』

中華そばいのたに本店/○住所 徳島県 徳島市 西大工町4-25 ○営業時間 10:30~17:00 (売り切り終了) ○電話番号 088-653-1482 ○定休日 月曜日 ○駐車場 35台

 

(1600文字)

「眞子さま結婚問題」に揺れる、秋篠宮 御一家。苦渋の決断?【皇室問題】

去る十一月二十二日。秋篠宮殿下の「お誕生日会見」があり、その全文記事を読んだ。特段気にもならなかったが再度読み返してみると、一部分だけ少し引っかかった箇所がありました。それについてのただの「思い付き感想文」ですのでシクヨロです。

(※1965年11月30日生、五十三歳です)

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十一月二十二日、お誕生日会見
 

秋篠宮殿下のお言葉 記者会見では

 

秋篠宮さま『小室さんに関することが毎週のように、週刊誌などで報道されていることはすべてをフォローしているわけではありませんが、承知しています。

渦中の小室さんとの連絡ですか、どうでしょう。コンタクトについては二、三ヵ月に一度くらいでしょうか、時々もらうことがあります。

これは娘と小室さんのことではありますが、私は今でもこの二人が結婚したいという気持ちがあるのであればやはり「それ相応の対応」をするべきだと思います。

婚約前ですのでひとのうちのことについて、何か言うのは憚られますけれども、やはり「相応の対応」というのは大事です。

二人にも伝えましたが、いま色々なところで話題になっていること、これについてはきちんと整理して問題をクリアにする、ということかもしれません。

そしてそれとともにやはり多くの人が、そのことを納得し喜んでくれる状況、そういう状況にならなければ、私たちは婚約にあたる納采の儀を行うことはできません』

<秋篠宮殿下のお言葉 記者会見(11/22) 一部抜粋>

 

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2017年9月3日、婚約内定会見

『やはり「それ相応の対応」をするべきだ』“相応の対応”と云う単語を二度重ねられたのは、娘を思う親としての“強い決意の表れ”とも思えるし、後手対応してきた“いままでの反省”ともとれる。

『国民が納得し喜んでくれる状況にならなければ』とは「とうてい婚約は、もうありえないです」秋篠宮さまは(借金問題の解決しても)もう結婚させないと、仰ったとも理解できます。『納采の儀を行うことはできません』と、結論を結んでいますから。

秋篠宮さまは、眞子さまへのメッセージとして⇒『次からは人物をよくみてから、交際してください💢』と、この会見で言葉を含めたのだ、と想いますね。

 

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ご公務中の眞子さま
 

紀子さまのお言葉 同じく記者会見

 

紀子さま『昨年の夏から様々なことがありました。そして折々に私たちは話し合いを重ねてきました。そうしたなかで昨年の暮れからだんだん寒くなっていくなかで、長女の体調が優れないことが多くなりました。

そうした状況が長く続き長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうかと私は、大変心配でした。

家族として非常に難しい状況のなかにありますが、私は長女の眞子がいとおしくかけがえのない存在として感じられ、これからも長女への思いは変わることなく、大切に見守りたいと思っております』

<紀子さま 記者会見(11/22) 一部抜粋>

 

九月に婚約内定してから『長女の体調が優れないことが多く』それが“去年の暮(十二月)から、長く続いた”と云う。このことの“意味”は、とても重いですね。

結婚前の一番“幸せな時期”のはずが暗転、体調不良とは…これでは、とても心配です。

続けて『どのような思いで過ごしているだろうか』そして『家族として非常に難しい状況』にもあると、伝える紀子さま。小室氏に対する非難なのか?とも、想えますが。

最後にこれからも『大切に見守りたい』と、言葉を結んだ。

 

参考資料/ 文仁親王殿下お誕生日に際し(平成30年) - 宮内庁

(1400文字)

狂気孕んだ「天才画家 ムンク」の波乱人生とは?!【画家覚書】

エドヴァルド・ムンクといえば、世界中の人々が知っている著明な絵画「叫び」ですよね。この絵、誰もが一度は目にしたことがあるはずですが。
でも、ムンク自身がどんな画家だったかは、サッパリ知りませんでした。
例えば普段SNSで使っているアイコン→(😱)にまで、影響を与えた?!というムンクはやっぱり“凄いヒト!”ここにその人生を、書き留めておこうと想います。

ムンクの人生は常に「病気や狂気、死にとりつかれて」いたらしい!?

 

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エドヴァルド・ムンク

エドヴァルド・ムンク(1863年12月12日-1944年1月23日)北欧ノルウェー南部にある、ロイテンという小さな農村で生まれた。ムンクは五人兄弟の二番目だった。

一家は間もなく首都クリスチャニアに移り住んだ。

ムンクの父親は医者であった。それなのに1868年(ムンク五歳)に母親を亡くし、また1977年(十四歳)に姉を、立て続けに亡くした。二人とも死因は、肺結核であった。

この「母と姉の死」は、まだ年若いムンクにとって深いトラウマとなったのではないか、と思われますね。

自分の家族を襲う「病気と死」得体の知れない“死の闇”に対する不安。そのことについて「病と狂気と死が私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」と後年語っています。

そしてムンク自身も幼い頃から体が弱く、家に閉じ込められる生活であったらしくこのことが原因で、閉所恐怖症になったとも云われています。

荒れた家庭環境と自身のトラウマがもたらす「漠然とした不安」を生涯、内に抱え続けることになったのです。

 

ムンクの人生の転機は、叔母さんが与えた?!

 
ムンクに絵の楽しさや転機を与えたのは、母親替わりの叔母カーレンでした。叔母から絵を描く楽しさを教わったムンクは、人生の転機を迎える。自由に自己表現の出来る「絵描き」を目指すことになった。
 
1880年オスロの王立美術学校に入学した。この頃のノルウェー絵画は、近代写実主義が主流だった。ボヘミアングループと活動を始め展覧会への出品を始めた。しかしムンク作品への評価は厳しかったようです。

 

1889年、政府の奨学金を得て、フランスのパリに留学することが出来た。アカデミズムの画家レオン・ボナのアトリエで学ぶ。この年にムンクは、父親を亡くしています。

 

「これからは息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サンクルー宣言」をムンクは書き残している。

 

また、この時期にマネなど印象派の作品に感化され、さらに「ファン・ゴッホ」にも強く影響を受けた。このことは自身の作風にも、変化を与えたようです。

ゴッホの激しくグルグル渦巻く独特の筆使いは、ムンクの不安定な絵画構成の中でも、度々使われるようになる。象徴主義、ヒトの内面まで踏み込んでゆく描き方。

(※象徴主義とは十九世紀後半、ヒトの内面的な「不安、生と死、運命」など、形がなく目には見えないモノまで捉えようとした)

そして野心的な作品『病める少女』や『春のめざめ』が、描き始められている。この頃ムンクの才能が一気に開花し始めた。

 

有名な作品「叫び」 誕生秘話

 

最初に描かれたとされる油彩の『叫び』が、世界的に最も有名な絵画である。誰もがどこかで見た記憶がある、あの絵。

(※「叫び」には四枚の作品がある。1893年油絵、1895年にパステル、1895年にリトグラフ、1910年にテンペラで同タイトル、構図による作品を描いている)

 

真ん中にデフォルメされた、空虚なタッチで描かれる黒い人物。橋の下には紅い血で染まったフィヨルド、不気味な死の影がそこに忍び寄る。真っ赤な夕焼けとダークな背景色、遠近法すら不自然に歪める構図。何故こうなるのか?

この異様な技法は、ムンクが実際に感じた“幻覚症状”がそうさせたのだった。その時経験した“神秘体験”を、当時の日記にムンクは克明に記してみせます。

 

『私はふたりの友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え戦っていた。そして私は“自然を貫く果てしない叫び”を聴いた』

 

ムンク「叫び」とは「自然を貫く果てしない叫び」に、怖れおののき、思わず耳を塞いでしまった自分自身を描いたものでした。

 

1892年、ベルリンの芸術家協会に招聘(しょうへい)され、自身の作品を公開した。しかし会員投票によって突然中止となり、ムンクの展覧会は一週間で終了。そして大きなスキャンダルとなった。

当時の新聞、評論家はこぞって酷評したが、のちには高評価されるようになる。この騒動がきっかけでマックス・リバーマン率いる「分離派」の結成となる。

そして「禍福あざなえる縄の如し」ムンクの人生とは簡単ではない。

1894年に、妹ラウラ・カトリーネが統合失調症になる。『メランコリー』のモデルは、この妹といわれている。翌年には弟ペーテル・アンドレアースが、結婚わずか半年後に死亡した。またも身内の不幸が続く。

多くの芸術家らと親交を深めながら『叫び』や『マドンナ』そして『思春期』といったムンクの代表作を生み出してゆく。円熟期を迎えたムンク、それ以後1908年までドイツに滞在し続けた。

 

ムンクの恋愛遍歴も、普通じゃない

 

ムンクの随分歪んだ女性観は、恋愛にも重大な影響を与えた。ハンサムな顔立ちで長身でもあり、いまでいう「イケメン」だった。

 

そう「イケメンの絵描き」世の女性が放っておく訳が無い、だがしかし…。

三十歳頃のムンクが出会ったのは、夫のいる「ダグニー・ユール」との不倫関係である。彼女は“憎愛と嫉妬の暗い闇”にムンクを引きずり込んだ。これが彼にとっての『マドンナ』であり『吸血鬼』だったのです。

また富豪の娘「トゥラ・ラルセン」と恋に落ちる。三十九歳の時、別れ話から彼女にピストルで撃たれて左手に大怪我をする。作品『離別』や『灰』に登場する彼女、まるで舞台女優のような描き方です。

 

ムンクは精神不安定に陥りアルコール依存性となる。それでもムンクは孤独で自由な創作人生を、変えようとはしなかった。この頃から徐々に、精神が蝕まれてゆく。

 

そして晩年には祖国に戻り、最大評価される 

 

1908年に精神性疾患の治療ため、祖国ノルウェーに戻ることになった。自分に襲いくる災難が、ムンクの絵画を自伝的な作風へと変化させてゆく。

その一方でノルウェー政府から勲章を与えられ、国立美術館ムンクの絵画を次々と購入し、ノルウェーでのムンクの評価は最大級となった。

自分自身の“精神的弱点を絵画世界で昇華させ”続け、独自の世界観を造り上げたムンク。なのに名声が高まれば高まるほど、現実世界では不幸と荒廃に見舞われる。

 

晩年にいたり「明るく輝く風景画」を描くようになる。とても明快で明るい色で構成され、軽い。このことはムンク自身の“象徴主義の終焉”だったのかもしれない。

1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、制作を続けていたが1944年に亡くなったという。いまに残る絵を観れば「重く苦しい人生だった」と、思わざるを得ない。

 

付記/2012年、個人が所有していた「叫び」パステル画が、オークション(ニューヨーク・サザビーズ)で1億1990万ドル(約96億円)で落札されたことは、記憶にあたらしい。

ほんと「凄い…ヒト😱」のひとことですね。


参考文献/ウキペディア、美術手帖

(3000文字)

もうひとつのラピュタ「深山砲台群跡と海軍由良水雷隊基地」山中迷走!ドタバタ探検記!!和歌山市加太【戦争遺跡】…Part2

南海電鉄加太線<和歌山市駅…🚋…加太駅>ただいま“第三総軍”が移動中!

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ガタンゴトン、ガタンゴトン

[Mission two] 

深山砲台跡とその周辺部を徹底調査する

前回のお話<Part 1 序章>です。コチラからご覧下さい。

(※より理解が深まるやも知れません?!ただし、効能には個人差があります)

minminzemi81.hatenablog.com

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キィー、シュ~

現地到着、調査開始! まずは作戦会議始めますよ

 
南海加太線、加太駅前にいた。
少し蒸し暑かった。今年の夏はきっとギラギラ熱くなる、そんな予感がする初夏の頃である。

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杉板に焼き印の駅名看板
加太駅前にあったものとは

 

しばし給水タイムをとる。加太駅前から「紀州加太休暇村」まで、無料送迎バスが出ているのだが、それに乗るために我々は時間調整していた。結構暑いね、もう汗かいてる。

 

「この加太線はここで急に終わってる。な~んでか、判るか?」 

「さぁ…これ以上延伸しても、海に落ちるから」

「そう正解!…な、訳ないやろっ、その頃にはすでに“アレ”があったんや」

 

加太線は昔、軽便鉄道であった。加太軽便鉄道が開通したのが明治四十五年、砲台への軍需物資や兵員輸送に利用されたらしい。もちろん行楽客にも、おおいに利用された。

 

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加太軽便鉄道

当時の加太軽便鉄道の状況は…『終点加太の淡島神社は全国淡島信仰の総本山。その他にも、西庄には六世紀にまで遡れる由緒正しい八幡宮のひとつ木本八幡宮、大川には浄土宗々祖円光大師自作の大師像を安置する報恩講寺と、著名な神社仏閣が目白押し。

信仰と観光を目的とする人々が引きも切らずに訪れたのです。

そして忘れてはならないのが、明治二十七年からある由良要塞深山重砲兵連隊。深山地区は一般人の立ち入りは禁止されていましたが、連隊の兵営がありそれ自体が街を形成していました。

加太軽便は和歌山からまた全国から同連隊への物資輸送の要となったのです。大正九年に加太~深山間が県内で二本目の国道に指定されていることからも、加太軽便の重要性がわかります。』

引用文「南海加太線むかしむかし」より

この記事によれば、明治から昭和まで「寺社観光と軍事基地の街」だったようです。

 

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軽便鉄道だった頃の加太駅前

古写真を見ると、その当時もいまも駅舎がたいして変らないね。コレが加太駅のスゴいところです。もう明治、大正時代の「レトロ感がまんさ~いの駅」だから。

小さな木造洋館風の駅舎はオッサレだし、ホームの支柱は歴史あるドイツ製(100年物)の軽便線路を曲げ使用している。

屋根煙突(駅のシンボル)はホーム展示。駅舎のディスプレイも、なかなか凝っていますねぇ。駅員さん頑張っていますよ。

そして駅前にある土産物屋 姫路屋さん(閉店)は、むかしは道の反対の鉄道寄り(いま加太駅構内トイレが出来た場所)にあったようで、長い歴史ある商店であったことが伺えます。

 

我々は観光案内所の横のベンチに移動する。

 

ジュースを飲みながら、スマホアプリの古地図(今昔マップon the Web)を確認してみる。このマップアプリはカンタンに、新旧の地図が同尺で表示されるので、実に分かりやすい。なかなか面白いので、皆さんにお勧めします。

それで、この場所の古地図を眺めて「やややのや!」またひとつ、発見をしましたよ。

いま駅前から眺める南に広がる住宅地一帯には、明治時代に深山重歩兵連隊の練兵場があったみたいなんですね。そのため、この加太線はそのヤバい場所を避けるように、山際を走らざるを得なかった。そして練兵場に横ずけする形で、この加太駅が設けられた、という訳ですね。

 

「砲兵がこんな場所で陸戦の演習をやっていたのか…うん、なるほどねぇ」

 

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加太の町古地図(明治四十五年)今昔マップより

いま、この辺りの地名を「新町」と呼ぶ。後の時代になって練兵場跡に、新たに縦横に区画割りされた“新興住宅地”が建ち並んでいったのですねぇ。

たいてい連隊に練兵場は付き物、それが廃止されたということは砲兵連隊は、何時ごろ移動したのだろうか。後で調べてみよう。

 

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現代の航空写真をレイヤーで地図に重ねてみると、かなり解り易いな。

 

さてさて目指す男良谷(おらだに)砲台跡は、一般観光客があまり立ち入らない場所なのだ。まずは「深山第一、第二を軽くチェックしてから、男良谷へ降る」ルートだな。それではぐるんと大回りになるが…うまく回らねば、無駄に山中彷徨うこと必至だね。

 

ようやくバスがやって来たようだ。

ではでは、乗りますかな。

 

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加太駅前の下り坂、奥にお迎えのバスが停まっている

 

道中バスの車窓から、色々発見したモノなど…

 

バスが発車します、山頂向けて

 

送迎バスは我々二人を乗せて、加太海岸沿いをゆったりと走る。このビーチ、一言で表現すれば「砂浜荒磯」か。海沿いに城ヶ崎が見えてきたね、以前訪れたことがある。

なんでもここに陸軍の「探照灯設備」があったらしいのですが。戦後、国民宿舎の研修場になり、いまは展望所の四阿(あずまや)がある。

眺めがいいが、いまは訪れるのは釣り人ぐらいかな。あと地層マニアね<笑 そうそう、地層の名所ですよ、ジオパーク

 

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城ヶ崎展望台 四阿

この場所は砂岩、泥岩層が積み重なった地層が露呈している。

中生代白亜紀(7000年前)の和泉層群の地層、西日本を貫く中央構造線上に位置する訳でダイナミックな地形ですね。 

階段を海へと降りると”鬼の洗濯岩”と呼ばれる、砂岩と泥岩のミルフィーユ状態(泥岩凹で砂岩凸)が観察できます。永年波に侵食され、ノコギリ状になっていますよ。

 

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夕陽浴び紅に染まる城ヶ崎海岸

更に細く観察すると中生代の生痕化石があったりします。コダイアマモなどが見つかるとモチベがUPするので、頑張って探るとイイですね。  (わりと地層好きだったりする?)岩の隙間に、蛸とか海鼠とかいますよ。

そしてまたこの地は、萬葉集にも謳われたずいぶん風光明媚な場所でもある。この岬の展望所には紀州石の萬葉歌碑が存在します。

 

『藻刈舟  沖漕ぎ来らし  妹が嶋  形見の浦に  鶴翔ける見ゆ』詠人知らず

  

意訳「白い春霞のたおやかな海峡。ワカメを載せた小舟が櫓を軋ませながら、妹が嶋から漕ぎ寄せてくる。すると形見の干潟で餌をついばんでいた鶴が一声鳴き、いっせいに空高く飛び立って往くのであった」…嗚呼、何と素晴らしいことか。

以前歌碑を眺めた時にはですね、城ヶ崎のダイナミックで美しい情景と相まって、そんな枯淡な風景がアタマに浮かびましたよ。えぇ、浮かびましたとも。ホントホント!

「加太浦古歌には皆、形見浦といふ。加太 形見 唱へは異なれとも同義にして、形見は本名ならん潟海の義にて、遠干潟の地をいふなり」(紀伊風土記より)

この歌に登場する萬葉時代の地名が「妹が嶋=友ヶ島 、形見の浦=加太海岸」となる。潟海「かたみ」が音変化して加太「かだ」となったと云うのだが?!

この話、ホントかなぁ?

 

バスは加太海岸から、深山地区を走る

 

さて、バスの窓からぼんやり深山湾を眺めていると…

ん!「アレは、なんだろ?」脱走した子供を連れ戻す、お父さんの姿が見えたのだ。コチラは「藻狩り」ならぬ「子狩りだねぇ、大変だ」<笑

 

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深山湾、バスの車窓より


そしてバスは、勝手に命名→「地獄坂」にさしかかる。前回(実は数週間前にも来た)、チャリにてこの道を登攀したのだ。コレはなかなかキツかったなぁ。

それでこの辺りで息切れて(諦めた)足つきリタイア、流石に辛いよぉ~この地獄坂はね。原チャリですら“ウィン~ウィン”なるぐらいキツいっ!

 

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で、今回は当然ながら呆気なく「休暇村紀州加太」に到着。バスなので楽々でしたよ。この日は金曜日なのにこの駐車台数の凄さ! ほぼ満杯デス。

 

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紀州加太 駐車場

 

深山第二砲台がいまは、休暇村 紀州加太なんです

 

休暇村の無料バスに乗せてもらった手前、すこしベンチャラ解説しておきますよ。

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休暇村 紀州加太

 

大人気、休暇村紀州加太とは

 

ここ「休暇村」ずいぶん人気が出たよねぇ。リニューアル前のいささか“寒い過去”を知っているだけに、ビックリだなぁ。

この宿の一番のウリはなんといっても「景色の良さ!」天気よい日には、紀淡海峡の絶景がどっか~んと望めます。

そしてこの宿のお風呂は「加太温泉 天空の湯」湯舟に浸かり眺める夕景が、みごとなんですよ(と、聴いた)。一度は泊まって落日をのんびりと眺めてみたいものです。

(※加太温泉の泉質は「炭酸水素、塩泉ナトリウム」ヌメっとした海水みたいな<笑) 

また日帰り入浴も人気です。問題点は「入浴時間が限られている」こと。日帰り入浴は時間要注意ですよ、なので旅程などご留意ください。

 

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天空の湯 入口付近

(※日帰り利用時間 12:00~15:50 <15:00札止め> 料金 大人1,200円 小人600円)

こちらが「天空の湯」入口付近ですよ。でも、今回は温泉に入りにきた訳ではない。いささか「残念でござるなぁ~」我々はあっさりと湯ターンして外へ向かうのだった。

○休暇村紀州加太ホームページ⇒ https://www.qkamura.or.jp/kada/

 

まずは「第二砲台跡 展望所」からの眺めをチェック! 紀伊水道が一望でき、視界はすこぶるイイ。ただこの日の海は、軽く霞んでいましたが。

トンビがクルクル上空を舞っていました。弁当食べるには、要注意ですよ。

 

深山第二砲観測所跡から海を眺める

 

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展望所からの眺め

見下ろすと加太の漁港に大波止、その奥には淡嶋神社や旅館街がよく見える。沖ゆく船が霞んでみえますね。構図よくなかなか絵になる風景です。

「報告、敵艦見ユ!」

陸軍がこの地を対艦砲台に選定した意味が、展望所に立ったらよく分かった。海抜110mから打ち出す砲弾は、弧を描き加速度がつく。破壊力抜群だったと想われますね。

「しかし、あんな芥子粒みたいな船に、砲弾が当たるものだろうか?!」沖ゆく船眺めての感想。この位置に、第二砲台の左翼観測所がありました。


その後「第二砲台 掩体壕跡」へ移動した。

 

第二砲台跡 棲息掩体壕跡とは…嗚呼、何たること 

 

すると「エンタイゴーてなに?」と大宮一等兵が聞く。すでに栄進しているぞ。

「う~んと掩体壕はねぇ…英語でバンカーとかトーチカとか云うやつで。ヒトとか物資とか飛行機とか守るため、煉瓦とかコンクリで構築した守備陣地で…何というか、まぁこんなやつ」写真を指し示す。

しかし掩体壕が写ってないな、これ。

 

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在りし日の第二砲台

深山重砲兵連隊(重砲兵第五連隊)は、紀淡海峡を北上侵犯する敵艦を、山上から迎撃するための砲台要塞をこの深山に展開。当時最新鋭の二十八サンチ砲を据付け、紀淡海峡を守っていました。

 

○深山第二砲台(海抜100m)  二十八サンチ榴弾砲×六門

 

また深山第二砲台は、深山重砲兵連隊の演習砲台としても使用されたらしい。深山連隊が日露戦争の旅順要塞攻略(203高地)に参加した際、高い命中率と練度をもって旅順陥落に貢献したそうです。

休暇村の建物がある場所に、砲台群があった訳ですが。でも砲台らしき痕跡は、いまは全く残ってはいない。

 

我々は駐車場の東側、掩体壕に移動する

 

ここに小さ目の掩体壕がある。残念なことに保存されている遺跡は、このひとつしかないようだ。その周囲は芝をうえベンチもあり、綺麗に公園化されている。

 

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駐車場から見た掩体壕

フランス積みの煉瓦が素晴らしい。入口上部の二重アーチの巻き方もいい、なかなか意匠をこらしていて美しいですね。

 

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第二砲台跡に唯一残る掩体壕

出入口横に縦スリットがあいているが、これは明り取りだろうか?それとも連絡用のケーブルを引き込んだ穴なのか?

さらに不思議なのは出入口が、海側を向いていることである。そして位置が、少しだけ掘り下げた半地下構造なのである。なんか変だな、果たしてココは“弾薬庫”なのか?

第二砲台には二十八サンチ砲が、六門備え付けてあったという。その徹甲弾は217kgもあったらしいから、管理運用とも簡単ではなかったはずだ。

…てことは、ここは弾薬庫ではなかった可能性がたかいね。

 

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弾薬庫?小さ目の内部構造

内部は比較的小さい構造で、左右と天地、高さも無い。だいいち砲台とも離れ過ぎているし…この場所は“砲台指揮官の発令所”として、使ったのかもしれない。

 

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反対側から眺めると
作戦計画再確認します

 

公園ベンチに腰を下ろし、再びモバイル古地図チェック。海寄りの山頂点が二箇所削平され平坦になっている。その南側がいま居る「第二砲台跡」そして少し上の北側の平坦な場所が「第一砲台跡」となります。

 

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深山砲台跡付近古地図(今昔マップより)

その山の右下、麓には「衛生病院」と「重砲兵営」と記載されている。ここが深山重砲兵連隊の連隊本部があった場所です。阿振川(あぶりがわ)が山間を流れています。

いまは兵舎跡がスポーツ公園になり、衛生病院跡がオートキャンプ場などに使われています…え”っ、あのキャンプ場に、陸軍病院があったの?!

しかし「衛生病院」とはね。衛生には感染症のイメージがあるよな。兵隊さんが悪所で○○を貰ってくるみたいな「こりゃ、ヤバいっ」<笑

ココも航空写真と重ねて見ると…解りやすい。

 

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深山砲台跡の東側には

 

そしてさらに右側(東側)へ、阿振川の上流部へ辿って見ると、山間にあったものとは…地図には「陸軍墓地」と「射撃場」と印してあったのです。

 

「あ~! そうかぁ、そうだったのか…!?」

 

いまは恐竜の森林公園として親しまれているが、明治時代には「深山重砲兵連隊の墓地」があったのでした。そのことについての最近の新聞記事を見つけました。

 

記事を一部引用しますよ。 

和歌山県和歌山市加太の森林公園内にある「旧深山陸軍墓地日清戦争以降 紀淡海峡防衛のため同地に配備された、旧陸軍の深山重砲兵連隊の兵士たちが埋葬されているとされる。

市民にはほとんど知られていないこの場所を後世に伝えようと、旧陸軍兵や元自衛隊員らでつくる深山会(旧陸軍墓地を守る会)が整備を進め、昨年初めて慰霊祭を実施。

 

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軍人墓地と深山会の皆さん

ことし(平成30年)も20日午前10時から営む。同会は「命を懸けて平和の礎を築いてくれた英霊を顕彰し不戦の礎として未来に伝えていきたい」と話している。

「旧深山陸軍墓地」は同地に重砲兵連隊や陸軍の病院が創設されたことから、兵役中の病死や公傷死者らの墓地として日露戦争後に造営され、約50基の墓石が並ぶ。

墓碑銘から兵士の出身地は和歌山や大阪、京都や滋賀など近畿圏中心であることが分かる。』

(引用文:和歌山新報 2018/5/19付)

 

この公園には過去、何度か訪れたことがあった。

阿振川沿って南北に大きめの公園が造ってある。リアルな巨大な恐竜や動物の像が、あちらこちらに沢山設置されていて子供向きに考えられていますね。

でもこの谷間特有の“陰気臭い雰囲気”があって、あまり好きになれなかった。

 

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深山森林公園(今昔マップより)

そして昔から心霊スポットとして、何かと噂のたえない場所だったのだが、その根拠がよく判らなかった。曰く「兵隊の幽霊に追いかけられた」とか「小さい女の子がたっている」あと「公園トイレに入ってはいけない」などである。

実際、忘れ去られた「陸軍墓地」そう云うコトだったのか、これはこれで何だか納得出来ましたね。少なくとも「お化けの根拠」がコレで、ハッキリしましたからね<笑

まぁこの場所は、これ以上触れないでおこう。

 

そして西側には友ヶ島がぽっかりと浮かぶ 

 

反対の西側には海が拡がり島嶼(とうしょ)が並ぶ。休暇村ロビーから、友ヶ島方面はこんな風に見えるのだ。

手前が地ノ島、奥が沖ノ島、併せて友ヶ島と呼ぶ。軍事要塞島だった関係で、戦後まで地図にすら明記され無かった「黒歴史を持つ」と云う。

 

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休暇村ロビーからの眺め

さらに奥にうっすら見えるのは淡路島ですよ。紀淡海峡の幅(※約11キロ)は、わずかな距離しか無いことがよく判りますね。薄曇りなのは残念です。

※海峡間を地の島、沖の島でフタをする格好となる。由良瀬戸は幅4.7km、水深20m以上の大型船可航幅は2.8kmしかない。

 

深山第一砲台跡へと、サクサク転進しま~す

 

前回ここに来た時は、銀輪部隊がフラフラと登り、ダイレクトに海を目指して降りていった。電撃戦すこし慌て過ぎたね、今回はその反省をこめて来たのだから「慌てない、あわてな~い」駐車場の端にいい具合に、案内看板があった。

 

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休暇村の案内看板

かなり精度ある地図、等高線まで入っておりまするな。たいてい観光地の地図看板はデフォルメされたものが多く、変なイラストが被っていたりで地形が把握できないものが多い。コレはなかなか親切でイイね。

 

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第一砲台跡へ向かう歩道

休暇村から続く道を、てくてく下ってゆく。 整備された快適な遊歩道である。右に見えているのは、休暇村の第二駐車場。コチラも車がかなり多いですね。これじゃ宿、満室だなきっと。

 

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歩道脇には山フキが群生していた。何気無いことだけど、歩くの楽しくなるよ。トベラ、ツバキ、ヤマモモ、クヌギなど植栽されていました。

そしてすぐに分かれ道に至る。左へ道下れば「男良谷砲台跡」に至る。真っ直ぐ煉瓦道をいけば「深山第一砲台跡」へ迷わず、たどり着きます。

前回はこの道を海へと、降りていったけれど。

 

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海へと続く木漏れ日の道

通称「木漏れ日の道」、その名前のとうり、森から木漏れ日がさし鳥が啼く。なだらかな下り道で、気持ち良くテクテク歩いて行けます。当時の軍道をそのまま保存され、快適なハイキングコースとなっています。

また六月頃には「ヒメホタル」が舞い飛ぶ姿が観れるそうですよ。もちろんその時は夜ですので、足元だけは要注意です。

 

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この先に第一砲台跡がある

こちらは「深山第一砲台跡」へと続く煉瓦道、驚いたことに明治時代のままのレンガ敷が残されているそうです。歴史の香りがプンプンしますね。

軽い登り道になります。今回はまず、砲台跡経由して行くことにします。この路入口の右手側に小さな駐車場があり便利です。だいたい五~六台はクルマを停めることが出来ます。

 

第一砲台への道を歩く

 

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紀州名物「備長炭」の原材料である、ウバメガシが自生している。

木漏れ日が刺し、山あい独特の雰囲気がある歩道が続く「いかにも、いかにも」ずいぶんいわくありそうな煉瓦道ですねぇ。

初めて来たのなら結構“ワク♡ドキ”ものではないかな?この先に謎の洋館でもあれば「うきゃ~♪」と、なりますね。これは“カップルデート推奨地”ですよぉ~。<笑

 

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煉瓦敷の広場に到着
深山第一砲台に到着

 

深山第一砲台跡に着いた。右翼側、煉瓦を敷き詰めた広場がある。城郭で云えば「武者だまり」といった所かな。邀撃陣地(ようげきじんち)であるのは判るが、はてな?

この正面右手斜面を上がると右翼観測所、さらに奥深山砲台跡展望所へと続く道、左手へ折れて行けば砲台跡、正面すぐに地下掩蔽壕降り口がある。

また、右側の山を藪漕ぎ登ってゆけば「大川山堡塁」がある。この深山砲台を側面支援するために設けられた堡塁、明治三十年頃のものだ。いまは森と薮のなかに埋もれている。今回は探りません<笑

この広場のすぐ左側、振り向くと…「ありゃ、何だこれ?」

 

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謎の石垣組を発見

石垣組みで“コの字”に窪んだ場所がある。「?」なんか、ココ気になるな。

 

「この場所、なんだと思う?この造りは変やろ」

「う~ん、ゴミ置き場かな?…トイレかも??」

 

いやいや、この苔の付き方は水気があるからだろう。地面がここだけは煉瓦ではなく土だから、後から埋めたようだな。だいたい、この山頂には水の手がない。

…てことは、たぶん「ここに防火用水槽が、あったのではないかな?」と、ワタシは推定した。でも、ホントは何だろね?

 

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掩体壕への最初の降り口

広場すぐにいきなり急な階段があった。木々が生い茂り、昼なお暗い感じではある。風に揺れる木の影が、微妙な陰影をつける。地面に落ち葉が積もり腐葉土となっている。この造り、オシャレなのかな、それとも不気味かな?

 

生息掩体壕跡に降りて行くと 

 

「さぁ、ココから掩体壕に降りて行くことにしますかぁ~」

(※メンドーなので掩体壕と書いてますが、正確には「棲息掩蔽部跡」と云うらしい。“せいそくえんぺいぶ”って語感、何だかイヤらしい感じ<笑)

 

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通路は一部だけ水溜まりが出来ていた。意外と排水は良いみたいだが、排水溝が見当たらない。いったいこの通路下、どんな構造になっているのか?

後ろを振り返ってみる。角度を変え曲がっている通路。勿論、何らかの設計意図があるのだろう。この角度、やはり気になります。

 

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煉瓦建築物は、ホント綺麗に保存されている。イケてるミリコス立たせて、写真を撮りたいね。きっと映えるはずだ。「う~ん、イイねぇ~、オサレだぁ♪」地面の枯葉さえも、オシャレに見えてしまうよ。

「こりゃぁ、パリの裏町の風情だねぇ~!」(フランス、いったことないケド…)

「なんで、砲台の設計は、フランスなん?」と大宮が聞いてきた。

「いい質問ですねぇ…」☆いっこ追加だ。

「え~とね、日本陸軍が明治の初めに建軍した際、まず参考にしたのがフランス式要塞だったから、その流れで…」

ここ深山に限らず明治初期の建築物は、フランス式煉瓦作りの丸いアーチを描くものが多かった。特に砲台要塞は洋上から発見されにくいように、山中の高所に隠れるように建設され、ベトンで固めた砲座と艦砲射撃にも耐えられるように、やたら頑丈に弾薬庫、援体壕と兵員居住施設などが造られたと云う。

 

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それぞれ掩蔽庫の鉄扉は既になく、部屋のなかは昼でも真っ暗。懐中電灯が必須の暗さだ。子供が鬼ごっこするには…不適格!隠れるのには、怖すぎるからな<笑

この三連の掩蔽庫は、それぞれ内部が通路で繋がっていた。

しかし不思議なことに野ざらし物件に付き物のゲジゲジ虫もいないし、苔の類も付いていなかった。上から射し込む陽射しが、少しまぶしく感じる。これは幻惑されるね。

 

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スリットから空を眺める

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掩体壕反対側からの眺め

正面の階段を登り振り返ったところ。地階と地上からでは感じるイメージがまるで違う(そりゃ当たり前、だけれども)目線が変わるだけで、かなり変な感じがするね。

やはりここは邀撃陣地だったのかな、道を曲げてのトレンチ構造としたら。

(※邀撃陣地とは、攻め来る敵を迎え撃つ地形効果の高い場所に、要塞や塹壕線を張る。「橘中佐の唄」にも登場する。♪わが精鋭の三軍を“邀撃(ようげき)せん”と健気にも 思い定めて敵将が集めし兵は二十万♪)

 

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砲座跡を探る

 

深山第一砲台は三ヶ所の砲座を、二つの煉瓦隧道(トンネル)で繋ぐ構造になっている。柵のある下に二連の弾薬庫があり、それぞれ階段で降りてゆくことが出来ます。

基本的には先程見た掩体壕と同じ構造になっていて、このエリア右側に二砲座跡がある。この設計は友ヶ島にある砲台と煉瓦構造もほぼ同じ、多分同時期に建設されたものと思えますね。年代は、どうだったろうか。

 

○深山第一砲台(海抜121m)  二十八サンチ榴弾砲×六門

 

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二十八サンチ榴弾砲 砲座跡

丸い形に落ち葉が積もっている。この場所に、二十八サンチ榴弾の砲塔があった。砲座間にある四角い窪みは、砲弾をリフトアップする穴。いまは埋められているみたい。

 

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砲座跡木漏れ日が陰影つくる

前方にはレンガ壁さらに盛上げた土手斜面が続き、砲座の高い遮蔽物になる。二つの砲座の真ん中に海方向への階段がひとつある。

 

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砲座前の煉瓦壁面に直径20センチ位の謎の穴が開いている。まるで魚雷発射管みたいな感じに見えますね。

ワタシが「この穴はなんに使うと思う?」と大宮上等兵に聞いた。すると「砲弾を撃った残り物を、ココから下に戻すのかなぁ」と云うのだ。

「おぉ、薬莢を捨てる穴か! エコシステムやなぁ」なるほど、面白いね!…が、そんな物戻されたら、弾薬庫ではいろいろ大変だろうなぁ。

「答えは、伝声管。ここから叫ぶと地下の弾薬庫に、声が聴こえるらしいよ」と耳を当ててみる。当たり前だが何も聴こえない…てか、逆に聴こえたら怖いわっ!

 

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二つ目のトンネル抜け振り返った所、百数十年も雨風に耐え、トンネル隧道が綺麗な弧を描く。長い年月にびくともしない頑丈さ、美しい造りにはホント驚きますね。

 

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三つ目の砲座から階段を上がり、左翼側の観測所跡へ。この場所だけはかなり崩壊が進み、土砂が下の砲台跡に崩落していました。コレは残念ですね。

 

そして深山砲台展望所からの眺め

 

海側へとむかえば展望台がある。紀淡海峡にたおやかな海風が吹いていた。瀬戸を往く船舶と友ヶ島、淡路島、その奥に四国の山並みが霞んで見える。

北方向みれば、大阪湾から神戸市街地がうっすら見えた。空気が澄み渡る冬には、遠く神戸の市街地、明石海峡大橋まで観ることが出来ます。春先にはノリ面に水仙が咲きますよ。

 

写真を撮っておきたい場所

 

フォトジェニックな写真を撮るなら、絶対この場所が推し!とにかく180度ワイドな空と海景色が「ドド~ン!」と拡がっています。

 

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深山砲台跡 展望所

そして夕刻、夕焼け映えの震えて落ちるような太陽が、秀逸な絵画みたく色が変化して逝きます。以前、これにはホント、感動した覚えがありましたね。

 

その時の様子が、過去ブログにありました。 

minminzemi81.hatenablog.com

しかし天候により、かなりその表情が変わる(大気中の塵や水蒸気量とか)ので、ベストな季節、日時の予測は簡単ではないのです。

たぶん晴天の無風であれば、撮影には上々かと想われますが。夕陽写真、季節は春より秋が、夏はやはり晩夏がイイ感じに夕焼けています。

 

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秋の夕暮れ、表情がゆたかです

もしも荒天欠航や何かの事情で、友ヶ島へ渡れなかったのなら、ここ「深山第一砲台展望所」をオススメ。「もうひとつのラピュタ」この記事、ご覧になったように、山側にある弾薬庫群も結構“ラピュタ感”は、ありますからね。

 

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どどど~ん!!! 

TO BE CONTINUED…Part3に続く

 

さて次回予告⇒いよいよ大詰め「水雷隊基地の秘密」探検話が、始まります!

(深山砲台跡説明だけで、10.000文字超えちゃった!ドンならんでなぁ…砲台跡だけに)

 

資料参考/ 「写真にみるあのころの和歌山」和歌山市立博物館、アジア歴史資料センター、ウキペディア、ニュース和歌山

(10.000文字)

失敗しながら旨くなる「パンチェッタ ペペロンチーノ」の作り方。我が家の乳化メソッドとは?【パスタ料理】

昔から“女史はパスタ料理が大好き”なのだ→「わたすぃ、イタ飯大好きぃ♡」なのに、調理知識がナイナイだったら、そりゃ「痛メシィ~」ハナシだろう。
そうなのだ、そこでやっすいウンチクをダラダラ語るのが、これまた昔から“イケてる男”の務めナノだね。これぞまさに“イケメン”なのだ、なっ!

<発見ポイントを、最初に書いておきます>

○茹で汁は、3%程度の塩分濃度で?
○茹で時間は、マイナス一分で勝負!
○ソースを乳化させることが、大切!
○イタリア料理は、ラテンのノリで!

 

パスタを茹でる際に、最適な塩分濃度はアバウト3%?

 

そ~です、そうなのです、海水の塩分濃度※と同じ。夏に海水浴に行きワーワーやってたら、急に高波が来て呑んでしまう。「( ゚∀゚)・∵. グハッ、かっらぁ~~!」と感じる、アレ。辛すぎますよね。

余談だが、地球上の海水の量は約13.7億m3で、地球上の水分の97%である。残りわずか3%が水、アクア。しかも南極の氷に大半が集中している。飲める安全な水は地球上にわずかしかないよぉ。

更に余談だが、その海水の成分構成は「塩化Naが77.9%、塩化Mgが9.6%、硫酸Mgが6.1%、硫酸Caが4.0%、塩化Kが2.1%」わずか残りの成分は、沖ゆく兄弟船から流れてくる「演歌Na」なのである。「コレで、えエンカなぁ?」

 

嘘、でぇ~す!

 

 ※調べてみたら海水塩分濃度は、3.5%と書いてありました。これではさすがに、濃すぎますね。

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余談ついでに「タバコよりも塩を何とかして欲しい極悪JTの塩」オーストラリアから輸入した謎な白い粉を、薬品でMg、Caなどニガリ成分を除去、純粋培養工業用「塩化Na99.9%」こんなの使っちゃぁダメですぜっ!お母さん。美味しんぼの山岡だって怒っていた。嫌煙よりも嫌塩だろ。

ミネラル塩を使いませう。

我が家では国産「あらぢお」ですよ。漬物、特に梅干しを漬けるとその違いが判ります。青梅に対して20%の粗塩が、黄金比なのだなっ。

スーパーで売ってる梅干しなんか塩分8%と書いてある。ヘタすると6%。保存性がなく賞味期限つき、それはおかしい「そもそも保存出来ない梅干しなんて、ありえな~い」でしょ!?

ま、それはともかく。

「水1リットルに対して約30g、大匙二杯見当」の比率、多いかな?

紆余曲折経て「一般人が失敗しないために、濃いめの茹で汁がいる」に、辿り着いたのだけれども。例えばプロのレシピなんか見ると、茹で汁濃度1%なんて書いてある。

水1リットルに10gは、ほんの少しで計算が難しい。なので最後の仕上げに、また塩をふることになる。これでは失敗リスクが増えるよね、我々シロートだから。

例えば「エンゼルヘア」とかいうプロが使う細い麺がある。ペペロンチーノには不適だが、茹で時間と塩分濃度はかなりシビアらしいです。普通の饂飩と極上素麺ぐらい違う、繊細さがあるので失敗しやすい。パスタサイズが変われば、もちろん塩分も減らすわけで、やっかいな計算になる。

「マンマミーア!」

この話は標準的な乾麺パスタ(1.7mm)の話です。しかもいまだ発展途上のレシピなのです。結論にはなかなか至らない。

 

イタリア人シェフは、パスタ鍋にどっかし!と、塩を使うね

 

お店キッチン眺めて(シェフのやるコト観るの愉しい)ビックリした記憶がある。だいたいイタ飯屋の味は、全般やたら“濃いめ”に出来ているものだ。さすがアモーレのお国柄、物事は何でも“恋め”に出来ているのね♡ハイハイ。

日本では通称「ペペロンチーノ」だが、イタリアでは「アーリオ(にんにく)オーリオ(オリーブオイル)エ ペペロンチーノ(唐辛子)」という料理名です。「食材並べてるだけかいっ!」イタリア人にとってこの料理、大阪の「けつねうどん」みたいなモンじゃろ?

イタリア人と言えばこの番組、スケベそうなイタリア人シェフがまたいい感じ♪でやっていますね。本場「アーリオ オーリオ エ ペペロンチーノの作り方」です↓↓

YouTube

料理全般やはり「塩加減」は大切なのです。 神田川先生だって「塩は命やぁ~!」と、たしか仰っていた。(ちがふ?)

近頃、減塩ブームとかで、やったらめったら手抜き“塩抜き”したがる風潮がある。それは健康に良い?のかもしれないが、パスタが上手く出来ないではないかぁ! シオシオ…2%では?こんかい「にっぱ~♡」で。

 

パスタの茹で時間は、マイナス一分で勝負するのです

 

ペペロンチーノは、シンプルな素材「ニンニク、オリーブオイル、唐辛子」だけで仕上げるので「誰でも出来るが、奥が深い」といわれているらしい。奥が深い…マジかよ?!

ではでは、やってみよう~!

用意した材料/1.7mmスパゲティーニ(イタリア産)、国産ニンニク、唐辛子、エキストラバージンオイル、ベーコン(ブロック)

パスタの茹で時間はたいてい、袋に書いてくれているが。いま手元にあるのがイタリア産「アントニオ デニーロ 1.7mm」茹で時間は、何と9分と書いてある。長過ぎるでしょ、8分でもどうかな?あとの乳化作業での時間、マイナスしないとね。

パスタをお湯の中でクルクル回転させたいが、それがなかなか踊らない。本格的な寸胴鍋でやりたいところなれど、残念ながらそれは無い。家にある大き目な鍋でやるしかないね。お湯をグラグラ沸騰させずに、パスタ麺を茹でるのです。

茹でている間にソース作りをします。ニンニクは包丁の腹でぶっ潰し、鷹の爪は輪切りにタネは捨てます。フライパンにオリーブオイルを引き、ベーコンを投入し炒めます。

「ワイルドだろぉ~!」

次に潰したニンニクを入れ、パンを斜めにしてニンニクの香りをオリーブオイルに移します。コンガリしたら火からはずして、しばらく放置状態です。これでいいのだ。

 

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ガシャガシャガシャ混ぜています

乳化作業は手早く高速に、白濁すれば完了です

 

はい、セットしたキッチンタイマーが鳴っています。フライパンを弱火で、唐辛子入れ焦がさないように。 オリーブオイルは、温度がすぐ上がるので火加減は要注意。

パスタの茹で汁を大体お玉一杯アバウト見当、フライパンに投入しガシャガシャ手早く混ぜこみます。白濁するまでスピード感で、余熱で、ココが勝負だなっ。

つぎに鍋のパスタはお湯切りせずに、ダイレクトにパンに投入します。このパスタを使い、前後にパン揺すりながら仕上げてゆきます。これが乳化作業です。フライ返しはやらなくてもOKです。多分コレで、アルデンテに仕上がったはずですよ。

やがて「たっぷん、たっぷん」と、何だか猥雑な音がするように。

 

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ツヤツヤになりました

艶よく仕上がったら、胡椒を軽く振ってお皿に盛り付け、ニンニクとベーコンを上にトッピングして<パンチェッタ ペペロンチーノ> 完成 です。

Ex.粉チーズをふると、風味が増しますね。さらに乳化します。

オリーブオイルと茹で汁を渾然一体化、油と水のハーモニー

さぁ熱いうちに食べましょう♪

そうであった、そうでした、忘れていました。やっぱ「お酒」ですよ。酒の相棒に、辛口のペペロンチーノが良くあうのですね。甘口ワイン、麦酒にもよくあうな。グビグビッと…そこにペペロンチーノが、ど~ん! 登場!! コレですよね。

さぁ、山盛りペペロンチーノ、召し上がれっ! 

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完成ですっ!

本日の御教訓/料理の蘊蓄タレるオトコは重宝されるが、モテないなぁ!(※山岡は例外として)

(3000文字)