minminzemi+81's blog

あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ ノシ

ようやく最後のチューリップが咲きました【ベランダー】

ワタシはいわゆる「ベランダー」住み家のベランダで園芸を楽しむ。園芸歴だけはやたらと長いが、なかなかどうして上達はしませんね。

 

昨年のこと。年末がちかづくころに、近所のホームセンターでチューリップの球根を買い求めました。赤、白、ピンク、黄色など、それぞれ二~三個ずつ。毎年たいして計画性もなくやるものだから、一気に咲き揃うこともない。

 

それで今回は、時期をずらして咲くように計算し、球根の植栽月をずらしてみた。初春になればカワイイ芽が顔をのぞかせ、葉と茎を天に向かってズンズン伸ばしてゆく。そんなイメージを描きながら、少しずつ球根を植えてゆく。これが嬉しみのひとつでもあるのです。

 

コロナ自粛で、家にひきこもりきり

 

年が明けてTVニュースで、中国でのウイルス感染云々と報道され始めた頃。最後の球根を埋める。果たして何色の花だったのかも判らない。まさかまさか、世界中がコロナ禍で大変な騒動になるなんて、この時には想いもしなかったが。

 

やがて時が過ぎ、日本も「非常事態宣言」というではないか。自粛、三密、家でひきこもり生活が始まった。そんな時の慰めだったのが「ラジオ番組とベランダの草花たち」だった。

 

『自然は敵にもなれば、味方ともなってくれる。』

 

そうだ、ラジオ番組にリクエストもしましたよ『マイ フェバリット ソングなのです!⇒『Rose』By 手嶌葵、お願いしま~す!』と、コメントした。

 

When the night has been too lonely 

一人きりで とても長い 闇夜

And the road has been too long 

そう あまりにも 長すぎる時間

And you think that love is only 

そんなとき あなたは想う 愛とは

For the lucky and the strong 

幸運と力ある人のものだと

 

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最後のチューリップ

Just remember in the winter 

だけど 思い出してね

Far beneath the bitter snows 

凍えるような 雪原の大地に

Lies the seed that with the sun's love 

その種は 太陽の愛を うけて

In the spring becomes the rose 

訪れた春に 薔薇の花を 咲かせている

 

そして、最後に植えた球根が、見事に開花した。いま黄色のチューリップが、爽やかな初夏の風に揺れている。夏は来ぬ。

 

▷おまけ/コロナ対策には、この曲を。『The Rose』Ver.手嶋葵【神曲】 - 無茶苦茶でござりまするがな

 


(1100文字、Thank you for reading.)

今週のお題「カメラロールから1枚」

JR 西日本鉄道 福知山線 脱線転覆事故。音声通話記録に人を想う、四月二十五日。九時十八分五十四秒【鉄道事故案件】

事故から十五年の歳月が過ぎた。暴走した列車車輌は、マンションに激突し大破。乗客と運転士107人が死亡、562人が負傷した未曽有の大惨事でした。

ことしはコロナ騒ぎで、例年行われていた慰霊祭は、中止となったそうです。

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列車にはたくさんの乗客が乗り合わせている。しかし運転室には、運転士ひとりのみ。孤独な閉鎖空間での仕事を、常にしいられている。刻々運行状況は変化し、突然の指示命令もくる。しかし、ミスは許されません。

 

<西日本旅客鉄道 福知山線 列車事故>

▷日時/平成十七年四月二十五日、九時十八分五十四秒、事故が起る。
▷車輌/福知山線(JR宝塚線上り快速 「5418M」207系 七輌編成
▷被害/乗客と運転士あわせ、合計107名が死亡し、562名が負傷した。

▼事故現場にある慰霊施設「祈りの杜」は、一般公開されている。

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事故現場周辺

当該車両の運行遅れは『80秒』だった。このわずかな遅れを取り戻すため回復運転を始めた直後に、脱線転覆事故が発生。我々の人生において、たとえ80秒の遅刻が60秒になっても、なんの意味があるだろうか?

 

①事故のあらまし

 

当該列車は、午前九時四分に宝塚駅を出発し、時速120キロ前後で北伊丹駅を通過。伊丹駅の停止位置、手前643メートル地点を約113キロで走行中、停車をうながす警告音、ボイス機能※1 がまず作動した。

再びボイスと警報が鳴りその直後に、運転士は常用ブレーキ(B8※2)を使用した。その時、オーバースピードに気ずいた車掌が、非常ブレーキを操作。

また運転士も非常ブレーキを使用し、約72メートルもオーバーラン伊丹駅に停車した。この72メートルは、通常ではありえないミス。3.5車輌程度が、前方にズレて停止した。

先頭車輌からはホームではなく、草っ原が見えた。

(※1 停車駅に接近すると運転士に「停車です、停車です」と女性音声で知らせる)(※2 列車ブレーキには「常用ブレーキ」と「非常ブレーキ」と「予備ブレーキ」の三種がある。B8は、常用ブレーキの最大値。さらに押し込むと、非常ブレーキとなる。予備ブレーキは通常使われない)

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運行経過表(時系列)

乗降客のために、所定停止位置へと戻る後退操作を始める。ところがまた、停止位置を三メートル戻り過ぎ、伊丹駅には9時15分43秒の到着となる。伊丹駅からの出発時刻は、「1分20秒の遅れ」となった。

車掌が次駅の案内放送を始めたところ、運転士からの車内電話があり「まけてくれへんか?」という。車掌は、行き過ぎた距離を過小報告してほしいといった意味と受け取り「だいぶと、行ってるよ」とこたえた。

すると再度、運転士が「まけてくれへんか?」という。

その時男性の乗客が、客室との間の仕切り窓をたたいたので、車掌は車内電話を受話器に戻した。車掌は、列車無線で「オーバーランを八メートル、遅延時間は、一分半」と司令所に過小報告をした。

(※乗客に「なんで、お詫びの放送せーへんのや?」「遅れているのに、あやまらんのか」と言われ「いまやろうと思ってました。いまから放送しますのでちょっとお待ち下さい」と応えた)

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運行経過表(時系列)

当該車両のフルノッチ『力行(りっこう)』が始まる。猪名寺駅通過後。速度制限は、時速120キロだったにもかかわらず、塚口駅の手前約75メートル地点で、時速124から125キロに達し、運転士はノッチオフ、弱いブレーキ(B1)をかける。この時、速度超過にたいして認識があった。

約一分十二秒の延通(えんつう)で、塚口駅を場内進行。

そして、続く速度制限70キロの右カーブには、116キロで進入。まず常用ブレーキ(B7)をかけ105キロまで落とし、さらに最も強くブレーキ(B8)もかけたが、九時十八分五十四秒、左前方に車輌が横転するように脱線、転覆した。

(※事故現場となった右カーブ、半径304m。塚口駅の南側 約1km、尼崎駅の手前、約1.4kmの地点。平成八年十二月に半径600メートルから、現行の304メートルに付け替えた。緩カーブから急カーブに付け替える工事は、滅多にない)

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事故現場状況

先頭車輌は一階駐車場内の奥へと突入し、二輌目はマンション外壁へ横から激突、さらに後続の三、四車輌に挟まれて圧壊。建屋壁面に巻き付くような状況で、前二輌は原形をとどめないほどまでに大破した。

福知山線 脱線事故、推奨動画/ナショナルジオグラフィック

 https://youtu.be/VnYxWBkganQ

 

②原因は、何処にあったのか?

 

運転士が伊丹駅にて、過小報告を求める車内電話を、車掌に切られたことを「断られたのか」と思い込み、車掌と指令員との無線会話内容に意識がとられ、または自分のミスに動揺し、速度制限を失念。右カーブ進入時のブレーキ操作がそのために疎かになったと、考えられている。

また、当該運転士の焦りや運転注意がそれた背景には『大幅なオーバーラン、速度超過、非常ブレーキ作動等々のミスにより「日勤教育、いわゆる懲罰的社員教育」を受けさせられることを、ひどく恐れていたからである』と、事故調査報告書ではそう指摘している。

 

③主な傍証としては

 

『当該事故を起こした運転士は、当時23歳 運転歴は11か月で、運転技術や勤務姿勢が未熟だった可能性を指摘された』

JR西日本では長期間にわたり新規採用者を見送り、運転士の年齢構成が中抜き体制となった。運転経験が浅い新人に、運転技術を伝えるべき中堅運転士が、運行現場から消えたことが問題視されている。

『事故を起こした当該運転士は、過去に運行ミスなどで三回、日勤教育を受けていたが、事故直前の行動からみて何らかの“注意障害(ADHDASD症候群など)”を抱えていた可能性がある、と心理学上の見地からの指摘がある』(出典 ウキペディア)

 

▷ここで、伊丹→尼崎間の『線見、せんみ』の旅に、出かけてみましょう。

youtu.be

単純に、運転士によるヒューマンエラーと、結論していいのだろうか? ワタシには、とても疑問が残ります。

例えば注意障害の人は、とかくミスが多い。失敗を怒られることも多くなり、三回もの日勤教育が追い打ちをかけ、精神が病んでいた(通院、服薬?)と仮定すれば、こんな怖い話はない。

未必の「自殺 or 殺人」の可能性すら考えられます。

運転士が注意障害だろうが、鬱病になろうが(本人、医師が認めなければ)列車運行からは、なかなか外してはくれない。あるとするなら、日勤教育である。彼もまた犠牲者だったと、想う。

JR各社では“運転士不足が常態化している”のだから、洗脳教育で鍛え直して戦場に再投入するのだろう。まさに「パワハラ地獄」である。

(※国鉄時代から続く、JR西のブラックシステム。「乗務員休憩室や詰所や点呼場所から、丸見えの当直室の真ん中に座らせ、事象と関係ない就業規則や経営理念の書き写しや作文、レポートの作成を一日中させた。トイレに行くのも管理者の許可が必要で、プラットホームの先端に立たせて発着する乗務員に「おつかれさまです。気をつけてください」などの声掛けを一日中させたり、敷地内の草むしりやトイレ清掃などを命じるなど「見せしめ」や「晒し者」にする事例もあれば、個室に軟禁状態にして管理者が集団で毎日のように、恫喝や罵声を浴びせ続けて「自殺や鬱」に追い込んだ事例もあった。」出典 ウキペディア)

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④硬直した企業体質 

 

当該列車にはJR西日本の運転士二名(非番)が乗車していた。この社員らが職場に連絡を入れたところ、上司からは何と出勤を命じられている。

事故救助より日常出勤を優先させる『JR西日本の人命軽視体質』として報道され、大批判を浴びた。彼ら二人も、列車事故の被害者なのに。

 

<<JR西日本の鬼畜上司>>

事故車輌六両目に乗車していた、JR西日本の運転士の証言である。

中山寺駅で乗車し、六両目の右第三乗降口の扉付近に立っていた。(中略)名神高速道路を過ぎた辺りで、大きな揺れが「ガタガタ」ときたので扉横の手すりにつかまろうとしたが、それができないまま転倒し、他の客と団子状態で第一乗降口と第二乗降口との間まで「ズズズズー」と滑り、当該列車は、非常ブレーキではない変な力で「ドン」と止まった。

その間に室内灯が消え、予備灯が点いたことを覚えている。止まったとき、周りの乗客の「痛いっ痛い」と言う声と、五十歳くらいのサラリーマンの「脱線している」と言う声が聞こえ、砂埃が舞っていた。

その後七両目に移動して座っていたとき、車掌が電話機か無線機でやり取りをしているのが見えたが、その声は聞こえず防護無線機の音も聞こえなかった。

七両目に移動後、職場に電話して「電車が脱線した。それに乗っている」と伝えたところ「出勤は、何時だ?」と聞かれたので「(所定の出勤時刻は)14時です」と答えると「(その時刻までに)出てこられるな」と、言われたところで電話が切られた。

職場に向かおうとしたとき、第一新横枕踏切道の特殊信号発光機が「R現示」であり、特急(北近畿)が停まっていたので危ないと思い、遠回りになるが名神高速道路の塚口駅方の跨線橋を、渡って職場に向かった』という。

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これはいったい、何なんだろうか?? 確かにこれでは、言い訳の余地はない。JR西日本の、救い難いほどの“隠蔽体質”であり「風通しの悪い企業風土」がそうさせるのだろう。

 

~事故現場の生々しい状況が伝わってくる。その音声記録~

『事故直前、本件車掌と輸送指令Aとの音声通話記録』

 

転覆事故寸前に運転士と輸送司令Aが会話か?そして、そのプレッシャーで、運転士の操作注意が削がれたのだろうか。列車転覆後も輸送司令Aは、繰り返し運転士を呼び出している。

輸送指令Aの口述によれば『…自分は車掌の経験があるだけで運転士の経験がなく、列車の運転士が運転に忙しいかどうかというようなことは分からないので、こういうときでも列車無線で運転士に呼びかけることがあるが、運転士にその余裕がなければ応答しないであろうし、応答がなければ運転士にその余裕がないのかと思って、自分も必要以上に呼びかけることはしない』と、随分な言い訳をした。

車掌の経験があるならば、それで充分である。当該車輌は必死のパッチ回復運転なのだから、無線の相手する暇はない。それをなぜ執拗に呼びかけるのか。下図「運行の経過」に記載ある、会話を転記する。

(※回復運転とは列車が遅れている時に、通常より速度を上げる、ブレーキのタイミングを遅らせる、ホームで戸閉めを早める等々、各駅間で数秒ずつ稼ぎ全体の遅れを取り戻すやり方) 

 

<司令員Aと、車掌との通信>

 

(呼び出し音)

(指令員A)こちら、指令どうぞ。

(本件車掌)5418M の車掌です。どうぞ。

(指令員A)5418M 車掌、内容どうぞ。

(本件車掌)えー、行き過ぎですけれども、後部限界表示およそ8メートル行き過ぎて、運転士と、えー、打ち合わせの上後退で、えー、一分半遅れで発車しております。どうぞ。

(指令員A)後部限界を8メーター行き過ぎ。えー、後退、客扱い。えー、遅れにつきましては、何分でしょうか。どうぞ。

(本件車掌)あ、一分半です。どうぞ。

(指令員A)1分30秒遅れ。えー、それでは替わりまして、再度、5418M 運転士、応答できますか。どうぞ。

(指令員A)5418M 運転士、応答して下さい。どうぞ。

~9時19分15秒、録音記録終了~

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そして脱線後に車掌が、司令員Bに携帯電話で連絡をする。時刻にして、九時二十分以降と思われる。

 

『事故発生後、業務用携帯電話による、本件車掌と後続運転士と輸送指令Bとの音声通話記録』

 

「新大阪総合指令所 輸送指令B」と「おとぼけ当該車掌」との会話

 

この二人の会話内容からは、事故状況特有のヒリヒリした空気(切迫感)が、なぜか感じられない。司令員は、脱線車輌の“損傷具合ばかり”たずねている。その一方で、後続の運転士からは、現場の焦燥と緊張感を感じるのだが。そこがとても不思議である。(一度声に出して、読んでみてください)

  (本件車掌)『…指令(A)が運転士さんの方に連絡したんです。そのあと、急ブレーキが掛かりまして、停車中です』←この発言が、気にかかる。

 

(指令員B)はい。JR 西日本の指令です。どうぞ。

(本件車掌)すいません。こちら5418Mの車掌です。

(指令員B)5418M、車掌どうぞ。

(本件車掌)え~、塚口から尼崎間、走行中ですけど。

(指令員B)塚口、尼崎間、はい。

(本件車掌)はい。えーっと、無線通じないもんで。

(指令員B)運転士の無線が通じない。はい。

(本件車掌)私も、何も入りませんので、電話かけました。

(指令員B)はい。どうぞ、内容どうぞ。

(本件車掌)えーっと、伊丹を行き過ぎて指令に、連絡したんです。その後、運転士さんがいう、いう合図で運転士さんが、急ブレーキ取りまして。

(指令員B)うん、ちょっと、意味が分かんないやけど。伊丹の所定位置を行き過ぎて、止まったということ?

(本件車掌)ちょっと前行き過ぎて、そのまま発車したんです。

(指令員B)え~、車掌さん落ち着いて、ゆっくりしゃべってよ。

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(本件車掌)はい。伊丹駅を後部限界過ぎまして。で、所定位置戻しまして、発車した後に連絡したんです。指令の方に。それで話をして、あと「運転士さん」とゆうて、あの、指令が運転士さんの方に連絡したんです。そのあと、急ブレーキが掛かりまして、停車中です。

(指令員B)いま、まっとるということ。

(本件車掌)はい。

(指令員B)何で、止まっとるの?

(本件車掌)ちょっと分かりません。

(指令員B)運転士に、無線通じなければ、運転士に、えー、運転士に非常時用の携帯でかけてくれと「ブーブッブブ」て、鳴らして。

(本件車掌)あ、すいません。いま、あの、脱線しております。

(指令員B)脱線しとる。

(本件車掌)脱線しとります。

(指令員B)えー、えー、何?

(本件車掌)脱線です。

(指令員B)何しとる。もう一回ゆっくりゆうて。

(本件車掌)脱線しております。

(指令員B)脱線?

(本件車掌)脱線です。脱線事故です。

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(指令員B)えーっと。列車が脱線してるということ?

(本件車掌)そうです。

(指令員B)あ~、それは何、車と当たっておる、とかそういうこと。

(本件車掌)そうじゃないですけど、前、前が、ちょっとよく見えないですけどね。

(指令員B)うん。前はよく見えないけど。

(本件車掌)はい。

(指令員B)脱線しているかも、わからんということ。

(本件車掌)脱線してます。線路から完全に、はみ出しております。

(指令員B)ちょっと、車掌さん、このまま待ってよ。

(指令員B)運転士さん。

(本件車掌)はい。

(指令員B)車掌さん。

(本件車掌)はい。

(指令員B)まずね、いま、止まっとる位置は、止まっている位置は?

(本件車掌)はい。

(指令員B)運、車掌さんの真横を見て電化柱の番号か、何か分かりますか?

(本件車掌)え~、番号は分からないんすけど、平尾自動車工業ちゅうとこの手前です。

(指令員B)平尾自動車工業の手前。

(本件車掌)手前ゆーか、その横に止まっております。

(指令員B)ほならね。

(本件車掌)はい。

(指令員B)えーっと、どういうことか、よくわからんのやけども、電話このままの状態でね。

(本件車掌)はい。

(指令員B)えー、まずは状況を教えてくださいな。ほんで。

(本件車掌)状況ですか。

(指令員B)うん。

(本件車掌)無線が完全に通じないもんでね、呼び出そうとしても。それで、急ブレーキ掛かったもんで、お客さんがみはりまして「どうされたんですか」と言ったら「前、脱線してる」ということで、お客さんが。

(指令員B)そしたら車掌さんね、一遍進行左側、列車から降りて、一遍、その前に走ってください。

(本件車掌)あ、分かりました。

(指令員B)電話はこのまま繋ぎますから。

(本件車掌)分かりました。

(指令員B)うん。

(本件車掌)このまま、ほんなら、行ってみます。

(指令員B)ほんで、車掌さん。

(本件車掌)いまから行きますんで。

(指令員B)早く行って。車掌さん。

(本件車掌)はい。

(指令員B)いまどこにおる?

(本件車掌)いま、あの、あの、線路に降りております。

(指令員B)それで。

(本件車掌)見に行ってます。

(指令員B)うん。

(本件車掌)ちょっと、見に行きますんで。

(指令員B)うん。

(本件車掌)降りて、道路際の方行ってます。道路際まで行っております。

(指令員B)車掌さん。

(本件車掌)はい。

(指令員B)車掌さん、いまどこまで来た、車掌さん。

(本件車掌)負傷者がたくさんですんで、恐れ入ります。

(指令員B)負傷者がたくさんおるということやな。それは、それは列車に乗っているお客様ゆうこと?

(本件車掌)そうです。

(指令員B)うん。そんでね、車掌さん。

(本件車掌)はい。

(指令員B)前に、前、前まで、行ってもらっとるか? もう。

(本件車掌)まっ、前ですか。

(指令員B)列車の運転席まで行ってもらった。前の運転士のとこまで。

(本件車掌)運転士さん、ちょっと、あのー。

(指令員B)ほならね、いま、車掌さんどこにおるの。

(本件車掌)え~と、一番前の方でなんですけど。

(指令員B)ほんなら、その列車は、その列車は、なんで脱線しとるのか?自動車とぶつかっとるとか、そういうことで、そういうことなんですか?

(本件車掌)自動車じゃないと、思います。

(指令員B)自動車では、ないけども。

(本件車掌)はい。

(指令員B)ほんならね、それ七両編成やわな。

(本件車掌)はい、そうです。

(指令員B)七両編成で前の方は、どういう状況になってますか?

(本件車掌)前の方は、もう、完全に、グチャグチャになってます。

(指令員B)グチャグチャになっとるて、何がグチャグチャになっとるの。

(本件車掌)えー、へこんだ状態になってます。運転士さん、運転士さんの方が。

(指令員B)運転士の、一番先頭車がグシャグシャって、意味が分からんのやけど。

(本件車掌)あの、事故におうた車の状態、考えていただいたら分かると思います。

(指令員B)だからそれは、自動車と衝撃してるとか、そういうことなんですか。

(本件車掌)自動車とは、衝突しておりません。

(指令員B)自動車と衝突してないのに、何で、自動車と衝突していないのに、脱線しとるということですか?

(本件車掌)そうです。スピードか、出し過ぎか、あれなんか、ちょっと分からんですけど。

(指令員B)ほんで、運転士はいま、どこにいますか。

(本件車掌)運転士さんですか。

(指令員B)うん。

(指令員B)車掌、5418M車掌、当該の車掌。

(本件車掌)はい。救急車の手配よろしくお願い致します。あのー。

(指令員B)もし。

(本件車掌)はい。

(指令員B)車掌さん。

(本件車掌)はい。

(指令員B)運転士は、ほな、近くにいますの?

(本件車掌)いや、おら、いないです。

(指令員B)運転士がいない。うん。

(本件車掌)へっこんだ状態になってます。

(指令員B)そんで、先頭車の状況を、ゆっくりゆうてよ。

(本件車掌)先頭車は、え~と、脱線した状態で、横になっております。あの…。

(指令員B)大阪に向いて、右側にゆがんでるの、それとも、左側にゆがんでるの?

(本件車掌)左側です。

(指令員B)左側に向かって、傾いているんだね。

(本件車掌)はい。

(指令員B)ほならね、そこに行くまでに、ほんまにね、あのー踏切ありましたか?

(本件車掌)踏切と、ありますけど、なんもありません。

(指令員B)なんでそれが、先頭車両が、運転席が潰れている状況なのですか?

(本件車掌)そうです。

(指令員B)運転席が潰れている。

(本件車掌)はい。

(指令員B)進行方向左側に、先頭車両だけが傾いていますか。

(本件車掌)傾いて…。

(指令員B)傾いてるのは、何両目と何両目が傾いてますか。

(本件車掌)一両目、二両目、三両目です。

(指令員B)一両目、二両目、三両目とも傾いている。

(本件車掌)はい。

(指令員B)ほならね、とこした、床下を見てもらってね。

(本件車掌)はい。

(指令員B)台車、車輪はレールからはずれて、脱線していますか?

(指令員B)車掌さん。

(本件車掌)はい。

(指令員B)車掌さん。

(本件車掌)はい。はい。

(指令員B)現地に、ほな、警察や消防が来とるゆうことですか?もう。

(本件車掌)来ております。

(指令員B)車掌さん、いま誰としゃべっとんのよ。

(本件車掌)警察の人です。

(指令員B)警察の人、来とるんやね。

(本件車掌)はい。

(指令員B)うん。

(本件車掌)あの。

(指令員B)とりあえず、私の言うことをね、もう一回整理しますよ。

(本件車掌)はい。

(指令員B)車と当たったようなことは、ないと思うんやけども。

(本件車掌)はい。

(指令員B)先頭車両の運転台の方が、潰れていると。

(本件車掌)そうです。

(指令員B)それで、前から一両目、二両目、三両目が進行方向左側に傾いている。

(本件車掌)傾いて、あの、副本線の方に、あの、二両目と三両目、二両目がこっちに傾いている。副本線というか、下りの方に。こちらの方に。

(指令員B)一両目は左側、二両目は何処に傾いておるって?

(本件車掌)左側です。

(指令員B)一両目も、二両目も左側に傾いているね。間違いないね。

(本件車掌)はい。

(指令員B)三両目は。

(本件車掌)三両目は、三両目、三両目はちょっと分からないです。

(指令員B)分からなかったら、分からないでいいですわ。

(本件車掌)はい。

(指令員B)ほならね、とこ下、床下の台車を見てもらったら、車輪とレールは、はずれますか?脱線していますか?脱線はしとんの?車掌さん。

(本件車掌)はい…はい。

(指令員B)いいですか、床下の台車を見てもらって。

(本件車掌)はい。

(指令員B)えー、車輪は脱線していますか。まず一両目は?

(本件車掌)一両目は、脱線しております。

(指令員B)四軸とも脱線か。

(本件車掌)はい。

(指令員B)四軸ともね。

(本件車掌)はい。

(指令員B)二両目は。

(本件車掌)二両目は、三両目と二両目の間に入っております。

(指令員B)え~!?

(本件車掌)三両目と二両目の間に、入っているような状態です。

(指令員B)何だって、良く分からんな。二両目は、脱線しているんですか。

(本件車掌)二両目、はい。

(指令員B)二両目と三両目が何だってゆうた。いま?

(本件車掌)えー、食い込んでいるような状態なっとる。

(指令員B)食い込んでいる。

(本件車掌)はい。

(指令員B)二両目と三両目が、食い込んでるんですね。

(本件車掌)はい。はい、そうです。

(指令員B)分かりました。ほならね、いま、JRの社員は、車掌さんと誰が居ますか?

(本件車掌)えー、運転士さんです。ちょっとお待ち下さい。

(指令員B)運転士にこの電話、変わってください。

(本件車掌)はい。

(後続運転士)もしもし。

(指令員B)運転士さん。

(後続運転士)後続ですよ。

(指令員B)えー?!

(後続運転士)後続列車の運転士ですよ。

(指令員B)後続の運転士さんな。

(後続運転士)はい。

(指令員B)当該列車の運転士は、おらんか。

(後続運転士)ぼくも探してるんですけど。

(指令員B)いないの?

(後続運転士)いないんですよ。で、ちょっと良く分からないんですけど、もう、電車がグシャグシャで、もう、三両分くらいグシャグシャの車両あるんで、何処が先頭車両か、ちと分からないんですよ。

(指令員B)あーそ、そんなに、ひどいの。

(後続運転士)もう、グシャグシャです。上下線、上下線に渡って、もう車両が、もう横に倒れて。

(指令員B)完全に横転している。倒れてるの。

(後続運転士)横転というよりも。

(指令員B)傾いているの。

(後続運転士)いいえ、そういう次元では、なくて。

(指令員B)うん。

(後続運転士)前、一番、えー、数えたら三両目くらいは、四両、三両、四両分くらいは、グシャグシャになって、なんて言うか、原形を留めずにプレスされて、こう。

(指令員B)ほならね、後続の運転士さん。

(後続運転士)はい。

(指令員B)何が原因だと思われる?

(後続運転士)僕が最初に思ったのは、車と衝突したように思うんですけど、どうも、その、ぶつかった相手の車のようなものが、ないんですよ。回りに何も。

(指令員B)うん。

(後続運転士)電車の残骸だけが。

(指令員B)うん。

(後続運転士)散らばっていて。

(指令員B)うん。

(後続運転士)両脇の線路の、線路のフェンスが、フェンスが、あの、物が突き破って、車道の方にも、電車が飛び出ているんですよ。

(指令員B)よっしゃ、このまま電話を切らんと、このまま待ってよ。

(後続運転士)はい…。

(※JR西の当初発表が「踏切内での乗用車との衝突事故」としたために、警察発表で否定されるまで、列車が“乗用車と衝突した”と、報道され続けた)

 

本件車掌が脱線を現認、まずやることは「防護無線の発報」で、それが電源ロス(バックアップ電源は?)で不可能ならば、発炎筒をかざし後続列車への注意喚起すべきだろう。とにかく二重事故は、最優先に防がねばならない。

上記の会話記録から素直に感じることは、当該指令員や本件車掌の『リテラシー能力』の無さである。見る、話す、想像する、考える、判断する、といった人間にとって一番大切な能力が、著しく欠けているのだ。これは何故か?

当時「脱線事故現場から消えた車掌」として、マスコミからずいぶん非難された松下氏は、このあとすぐに警察での事情聴取に同行したらしい。ある意味、警察が加害関係者を保護したともいえる。

日勤教育のように個人責任ばかりを追及し、安全よりも利益を優先してきた会社の体質が、省みられていません』当該車掌だった松下正俊氏は、後日雑誌上にて、そう語っています。

(追記/最近になり、例えば『JR西日本グループ鉄道安全考動計画 2022』によれば「異常時には、現場判断を最優先とする」としている。しかし、列車運行者が独自判断で停車すれば、その心理的負担には耐えられないのではないか、とも考えられる)

JR西日本グループ鉄道安全考動計画2022概要:JR西日本

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~反対方向からは、下り特急北近畿が事故現場に近ずいていた~

『事故発生後、特急列車運転士と輸送指令員Cとの列車無線通話記録』

当該事故発生と同時刻。下り線には、新大阪発 城崎温泉行き特急『北近畿 三号(3013M)』が近接中だった。近隣の住民が近くの踏切非常ボタン(第一新横枕踏切)を押したため、特殊信号発光機が点灯した。

特急運転士は異常を察知し、事故現場の約100m手前で緊急停止した。すぐに防護無線を発報して、多重事故はかろうじて回避された。

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事故現場付近の車輌状況

⇒「雑音がうるさくて、聞き取りづらいです。どうぞ」一分一秒を争うだろう事故現場において、こんな「ポンコツ通信機器」で報告しなければならない現場が、気の毒である。改善すべきは、情報システムではなかったか。

(※列車防護無線装置は、二次事故を防止するための安全装置。踏切事故など緊急時に当該列車から無線信号を発信、付近エリアを走行する列車に停止信号を与えて、全車輌停止させる) 

 

対向車輌「北近畿三号の運転士」と、「指令員C」との会話

 

(指令員C)こちら輸送指令です。呼ばれた乗務員、列車番号からどうぞ。

(K運転士)えーと、こちら、3013M、3013Mの運転士です。塚口駅手前の第一新、えー、横枕、えー、踏切、人身事故、えー、列車事故発生です。えー、列車が横を向いて、えー、線路上下線とも支障いたしております。ただいまから防護無線を、発報してます。どうぞ。

(指令員C)5418M列車は、何かと当たってるんですか。どうぞ。

(K運転士)えー、現状が分りづらいですが、車両が横転、上下線とも、えー、上下線ともふさいでいます。

(指令員C)車両横転して上下線ふさいでいる。防護無線発報して下さい。防護無線発報して下さい。防護無線発報して下さい。防護無線発報して下さい。3013M、防護無線発報して下さい。3013M運転士、どうぞ。

(K運転士)3013M防護無線、発報いたしております。

(指令員C)はい。3013M運転士、防護無線発報、内容了解です。
えー、それでは3013M、えー、分る範囲で結構です。詳しい内容を教えて下さい。どうぞ。

(K運転士)えー、列車が、えー、かなり大破しております。何両目か判りづらいですが、第一閉塞、下りの第一閉塞信号機あたり、列車が横転しております。横転、横を向いております。横転はしておりません。横を向いて、上下線とも支障しております。

(指令員C)えー、第一閉塞あたりで、えー、横を向いて、倒れているということ、えー、踏切内、踏切で何かと当たったということでしょうか。どうぞ。

(K運転士)えー、聞こえづらいです…。

(指令員C)踏切内で何かと衝突して、脱線しているのでしょうか。どうぞ。

(K運転士)えー、今のところ、えー、何かとぶつかっているような感じがないのですが、横を向いて曲がっているので、何かと衝突したのだと思われます。どうぞ。

(指令員C)横を向いて曲がっているので、何かと衝突したと思われるということ、内容了解です。えー、それでは、3013M運転士、そのままそこで待機。そのまま待機して下さい。どうぞ。

(K運転士)3013M 運転士、そのまま待機了解しました。

(指令員C)はい、そちら…。3013M 運転士で、再度、えー、横転している場所、もう一度、第一閉塞付近というのは、内容理解できました。えー、詳しく教えて下さい。どうぞ。

(K運転士)え…? 内容が聞き取りづらいです。もう一度お願い致します。どうぞ。

(指令員C)えー、3013M 運転士、えー、それでは携帯電話、異常時の携帯電話にて指令まで。

(K運転士)~応答なし~

(指令員C)えー、異常時の携帯電話にて、連絡下さい。どうぞ。

(K運転士)すいません、あのー、雑音がうるさくて聞き取りづらいです。どうぞ。
(指令員C)えーそれ、異常時の携帯電話にて連絡下さい。異常時の携帯電話にて連絡下さい。どうぞ。

(K運転士)~応答なし~

(指令員C)3013M 運転士、異常時の携帯電話にて連絡下さい。どうぞ。

(K運転士)申し訳ありません。あの、何をどうしたらいんでしょう。聞き取りづらいです。雑音がひどくて、聞こえづらいです。どうぞ。

(指令員C)えー、3013M、とりあえず、車掌どうぞ。

(特急車掌)~応答なし~

(指令員C)3013M 運転士どうぞ。

(K運転士)3013M 運転士です。どうぞ。

(指令員C)異常時の携帯電話にて無線、指令まで連絡下さい。どうぞ。

(K運転士)えー、車掌を呼び出すという内容でよろしいでしょうか。

(指令員C)違います。異常時の携帯電話にて、指令まで連絡下さい。どうぞ。

(K運転士)~応答なし~

(指令員C)異常時の携帯電話にて、連絡下さい。どうぞ。

(K運転士)~応答なし~

(※……は、音声不明瞭な部分)

 

 まとめ『一事を以て、万端を知る』である

 

そして最後に、当該事故に関する経営者の考え方は、どうであったのか。大切なのは「安全に対する考え方」であるのは論をまたない。当時のJR西日本は、日本中の鉄道会社で唯一『余裕時分※全廃』の経営方針を打ち出した、狂気の鉄道会社だった。その結果…なのだ。

(※余裕時分(よゆうじふん)は、運行に必要な所要時間にプラスして“遅延対処を目的”とし、ダイヤに余裕を与える時間。この余裕時分がないと、回復運転はまず不能となる)

「事故において会社の責任、組織の責任なんていうものはない。そんなのはまやかしです。個人の責任を追及するしかないんですよ」JR西日本の元社長 井手正敬氏は確かに、そう語った。そして自身が訴追された。天網恢恢…

JR西日本に、この曲を捧げたい『希望という名のひかり』

youtu.be

JR西日本のホームページのトップには、「福知山線脱線事故」がまず掲載されている。また『安全第一』とも書かれていますね。
希望の光はまだある、頑張れ! JR西日本!!

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JR西日本のHP

▷リンク1/⇒JR西日本 West Japan Railway Company:トップページ

▷リンク2/運輸安全委員会 福知山線脱線事故 事故調査報告書⇒https://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/bunkatsu.html

 

参考、引用/運輸安全委員会 事故調査報告書、ウキペディア、JR西日本

(13.200文字、You read it, thank you.)

明智光秀が襲撃した本能寺。そこから四百キロも離れたお寺にある「信長の首塚?!」何それマジで?『富士山 西山 本門寺』後編です【歴史推理】

NHK大河ドラマ麒麟がくる』が、通常より早く六月にクランクインしたそうです。あいにくの梅雨時期で鬱陶しい天気が続く六月だった…と、いえば歴史的に有名な「本能寺の変」があったのも六月二日早朝でした。

時は天正十年六月二日未明、その時歴史が動いた本能寺の変」が勃発! 光秀、何を想ったのか?!

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惟任明智光秀(本徳寺蔵)
明智惟任光秀/十兵衛/日向守

生年不詳、岐阜明智城で生まれたともいう。青年時代までどこで何をしていたのかまったくの“謎”である。秀吉同様、よほど具合が悪かったのか? 後、将軍義昭に仕え、織田信長との橋渡し役を勤める。信長の正室である“帰蝶とイトコだった”ともいう。天正七年、丹波攻めにて包囲を続けていた、八上城を落とす。続けて黒井城も落とし、丹波一国を平定。すぐ細川藤孝と協力し丹後も平定する。信長は感状を出し褒め称え「丹波での光秀の働きは、天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。天正八年には、三十四万石領す大名に。天正十年“徳川家康の饗応役”であった光秀は、一転任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利攻めの与力を命じられる。その途上の何処かで、光秀が重臣達に信長討伐の決意を告げた。そして、本能寺の変となる。さらに、秀吉との山崎の合戦に敗れ逃走途中、小栗栖で没する。天正十年、五十六才でした。

 

○前回のお話です。コチラからご覧下さい。

(より“理解が深まる”やも知れません?!ただし“効能には個人差”があります)

minminzemi81.hatenablog.com

 

明智光秀丹波亀山城を準備万端、発進す!

 

本能寺の変がおきたのは旧暦「天正十年六月二日未明」のこと。これを太陽暦(ユリウス暦)に直せば「六月二十一日」頃になります。

篠突く雨が続く鬱陶しい“梅雨の真っ只中”でした。表向きには「本能寺での馬揃※1のため」居城 丹波亀山城を猿の刻(夕刻)発進させた。

やがて日が落ち、月も出ない暗い丹波街道を急ぐ光秀軍。昨日の雨によりぬかるむ山道を、ただ黙々と進む。

武士のたしなみとされる「夜討ち朝駆け」。この言葉は「行軍には払暁、つまり夜明けに。討ち入りするなら、深夜」これが“戦国武将の闘いのセオリー”だった。敵が一番油断した頃合に、前触れなく奇襲することが「最大の効果を生む」ということ。

この時光秀は、居城をわざわざ「夕刻発進」しました。なので“夜間行軍の意図”とは「夜討ち」だったのです。

そして道半ば、老ノ坂※2 にて別心する。

 

「敵は、本能寺にあり!!」と、光秀は告げた。

 

この時、謀反を決断するには「信長、信忠」ふたりの確たる所在が判明しなければ、決断出来なかったハズです。京に放った探索方からの報告があったのでしょうか?…早馬が光秀に駆け寄り「御注進!! 信長公、信忠公、本能寺にあり」と、告げたのだろうか?

(※1 大規模な観兵式や軍事パレード。一説には、信長が森乱丸に突如、指示したと云う。これには、べつの“事案”があったのかもしれない ※2 光秀の謀反については“突然思い立った”かの記述が多い。道半ばの“老ノ坂あたり”で、何処からの“使者”が既に待っていたのか?このあたりに答えがあるはずである)

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△桔梗は別名「岡止々支」オカトトキと云う。土岐氏が本拠とした地名は、この「ととき」の咲く場所「とき」から派生したと云う。土地に咲く花にまつわる家紋とは、何とも優雅な話です。

 

六月二日の未明、京の都に鬨の声があがる

 

京、本能寺に在泊していた織田信長を、明智光秀が兵一万三千で押し囲み襲撃。信長は「こは謀反か 如何なる者の企てぞっ!」と森乱丸に尋ね、物見を命じた。急ぎ物見を終えた乱丸は「桔梗紋、明智が者と見え申し候」と答え、信長は「で、あるか。是非に及ばず」と言い捨てたと伝えられる。

みずから弓を放ち、しばし薙刀でも防戦する信長。そして不意を襲われ“完全包囲”されたことを悟ると、本堂奥に引き籠り火を放ち自害して果てた。ほどなく本能寺伽藍は、紅蓮の劫火につつまれ、焼け崩れ落ちる。

 

太田牛一の『信長公記※1』でも、本能寺の変はドラマチックですね。

大河ドラマ本能寺の変』信長役、役所広司が主演。いい演技ですよ。


YouTube

 

また火災時に、焰硝蔵に引火し誘爆したので“派手に燃え崩れた”ともいいます。中国出陣前なので、本能寺は「武器弾薬の兵站基地」となっていたのかも知れませんね。

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燃え崩れた本能寺

小瀬甫庵※2の『信長記』では「首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども、何とかならせ給ひけん骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり…」と、光秀の狼狽ぶりを伝えている。

そして「骸骨と思えるものさえ、一切見つからなかった」と云うのです。

これ、信長を取り逃し「もしや上様は、まだ生きているのではないか??」疑心暗鬼に取り憑かれた、光秀の心理状態がよく判ります。

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上様の亡き骸を疾く探せ!

 

織田家当主 織田信忠との闘いへ

 

やがて、織田信忠妙覚寺にいることが判り、慌てて軍勢をそちらへ差し向けます。この光秀の“迂闊な采配ぶり”は、いったいどうしたことでしょう?

天下取りに動いた武将の行動とは、とても思えない粗忽ぶりです。まったくキレ者の光秀らしくないですね。

一方、妙覚寺で変報を聞いた織田信忠は、直ちに父信長がいる本能寺救援に向おうとするが、京都所司代 村井貞勝が駆けつけ「本能寺は、既に焼け落ちた」と伝える。そして「二条新御所は、守るのに堅固」と重ねて進言、信忠勢は二条御所へ立て籠もり、粛々と戦準備を始めた。

 

信長公記によれば『ここを出て退きましょうと言う者もいたが、信忠は光秀はこのような謀反で自分を逃さないだろう、雑兵の手にかかるのは無念なので、ここで腹を切ると仰せられた』信忠は、すでに腹を括っていた。

そして『まもなく明智が軍勢を攻めかけた。そこで猪子兵助、福富平左衛門、毛利新助(桶狭間で義元の首を取った武将)らをはじめとし、この他の人々もそれぞれが討って出て、斬り殺し斬り殺され我劣らじと、戦った』寡兵ながらも、信忠軍は大奮戦する。

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『しんちようき』陽明文庫所蔵

『信忠は「腹を切った後、縁の板を剥がしてこの中に入れ、遺骸を隠すように」と仰せられ、介錯鎌田新介に命じた。御一門や歴々の家臣、家子、郎党は枕を並べて討死した。この散乱した有様をご覧になり不憫にお思いになられた』

やがて『御殿へもまもなく火が回って来た。この時腹を切られ鎌田新介、ご加護なく首を打ち申した。仰せのとおりに遺骸を隠し置き、無常の煙となり、哀れな様は目も当てられないほどであった』と、信長公記に記されている。そして「織田家当主 信忠」もまた同じく、館に火を放って自刃した。そして信忠の首も、光秀は手に入れることが出来なかった。

この「二重の失策は、致命的」となっていく。

(※1 太田 牛一『信長公記 しんちょうこうき』の著者として有名。信長幼少時代から、義昭を奉じて上洛までを首巻、上洛永禄十一年~天正十年までを十五冊、計十六巻にまとめている。信長近辺の確証できる事跡を編年体にまとめ、比較的正確に記述している。信長の事績を研究するには、無くてはならない一級史料である)

(※2 小瀬甫庵。美濃土岐氏の庶流で、尾張春日井出身。坂井氏の養子となり、さらに土肥氏、小瀬氏と名乗りを改める。慶長十六年に『信長公記』を下敷に『甫庵/信長記』を、寛永十年には『甫庵/太閤記』を記した)

 

遺骨すら残さず、この世からプッツリと消えた信長

 

本能寺の南側、一街(約254メートル)離れた場所に、南蛮寺があった。

そこにいた宣教師の記録には『ある人は日本の大名にならい割腹して死んだと云い、ある人は御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ諸人が、その声ではなくその名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した』天正十一年『イエスス会 日本年報』やはり間近で目撃した宣教師も、一切何も残さず“消えた”と、描写しています。

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イッタイナンデスカナ??

さて、信長の遺体は、本能寺跡でとうとう見つからなかった。しかし、日本家屋がいくら燃え盛っても“骨すら残らない”とは、到底考えられないことですね。最悪でも真っ黒に炭化して“残るはず”です。もちろん、個体判別はかなり困難にはなりますが。

なので、昔から“秘密の隧道(地下道)”があり、密かに逃げ延びたのではないか?と考えられてきました。信長は事変以前、村井貞勝に「本能寺の改造」を命じています。例えばこのトンネル工事を、武田領から連れ帰った「黒川金堀衆」に命じたのでしょうか? 闇は深いですぞ。

 

この本能寺の変のち、信長の残された息子たちは「父の拝み墓」を建立した。天下人となった秀吉もまた、信長一周忌法要に「木像の葬儀」を執り行い、その墓まで造った。そして「信長の墓と称される」ものは、なぜか各地に伝承されいくつも遺っています。

それぞれの墓に共通するのは、そこには「遺骸は埋まっていない」ということ。これは、探偵小説で言うところの「消失トリック」ですね。

 

それでは、いったい信長の遺体を「誰が…? 何処に…? 隠したのか…??」この謎は、ますます深まるばかり。

 

京、本能寺より四百キロも離れた、西山本門寺にある「信長の首塚

 

静岡県富士宮市にある西山本門寺。そこに伝わる寺伝によれば「信長の首を携えた武士がやって来て塚を築き、篤く弔った話」が遺されている。 

本門寺 首塚前の解説文には…

天正十年六月二日京都本能寺の変で討ち死にした織田信長の首を、囲碁の初代本因坊算砂「日海」の指示により、原志摩守 宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に、炎上する本能寺より持ちだし信長の首をここ駿河西山本門寺に納め、首塚を築き柊を植えたのであります。

第百代後水尾天皇のご息女常子内親王の帰依をうけた、当山中興の祖十八代 日順上人は、原家のご出身でご自筆の内過去帳に、本因坊海上人と織田信長公の法号を記し、手厚くご回向されておりました』…と、記されています。

確かに当時の住職は、十八代「日順上人」で“日海の弟子”でした。しかも日順は元々は武家、原家の出身だったそうです。

また、西山本門寺過去帳には、日順自身が「惣見院 信長、為明智 被誅」と記しています。これは「織田信長は、明智光秀により誅殺された」と云う意味。何と、“天が誅殺した”とな? 誅殺なのかぁ…。

この“誅殺”とは「謀叛人が上意討ちされる」といった用語なので、まさに信長にとっては「占い通りの天中殺」なのでした。

(※ この事変が下克上であったなら「弑逆、しいぎゃく」と呼ぶ。もちろん“下が光秀、上が信長”である。誅殺ならば、上意討ちとなり、この時の信長の官位は元 右大臣。その上となると日本にはわずか数人しかいない。左大臣太政大臣、その上は天皇しかないのです) 

 

しかし、この寺伝には“数々の不審と疑問点”もあります

 

【疑問点1】囲まれた本能寺をいったい、どのように抜け出せたのか?

この伝承に拠れば、本能寺にいた「本因坊 日海」が指示を出し「原志摩守 宗安」という武士に信長の首を持たせ、囲みを見事にすり抜けたらしい。

しかもこの時、原志摩守 宗安は、信長と共に自刃した自分の父「原胤重」と兄の「孫八郎 清安」の首と共に、本能寺より持ち出したと言われている。

本能寺から「三つもの首」を持ち出した、志摩の守とはいったい何者なのか?! そして、原志摩守がいくら剛の者でも、万余の明智軍に幾重にも取り囲まれた本能寺、そう易々と突破出来たとは思えない。

ましてや小脇に「怪しい物」を抱えた姿なら、誰もが疑います。「そは、怪しやっ! 召し捕れやぁ!!」たちまち鉄砲、槍衾の餌食となりますからね。

 

【疑問点2】駿河より手前の織田氏本拠、美濃尾張では何故ダメなのか?

やがて囲みを突破した原志摩守は、駿河にある「富士山西山本門寺」を目指して、一目散に山道をひた走ったと伝えられています。その距離にして、約四百キロ。しかも日に夜を継いで山道をひた走った。どうもこの話にしても、にわかに信じがたいですね。

そもそも、はるか遠く離れた“駿府のお寺”でなければならない理由、これは「何だった?」のでしょうか。この当時、美濃や尾張 信州などには、信忠配下の武将がひろく展開していました。ならばそのいずくかに駆け込めば、ひと安心が出来るはずなのです。 

信長の首が“権力闘争の鍵”であるのならば「いったい誰に託すのか?」本能寺にて死を覚悟した信長が、遺言し“後継者を指名”したのではないか。そんな気もするのです。

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赤ピン「富士山 西山本門寺

○富士山 西山 本門寺(にしやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市西山にある。日興上人(日蓮高弟の一人、白蓮阿闍梨)の法脈を継承する古刹。老杉の緑に覆われた境内は、3万5千坪(約11万5千5百平方メートル)と広大で黒門から本堂裏手の墓地まで直線で2kmもある。

 

【疑問点3】この「首塚(お墓)に、ヒイラギ」とは、なんとも異様です!

西山本門寺の黒門から参道を約五百メートル。御堂の裏手側に「信長の首塚」は現存します。御堂の背後に「柊(ヒイラギ)を墓標」として「土饅頭の墓」があり、信長の首は約三メートル程下の「土中に眠っている」とされます。

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柊鰯(ひいらぎいわし)

ヒイラギでまず思い出すのは、節分に“鰯の頭も信心から”といった「柊鰯」を入口に掲げて、鬼が嫌うと云う「魔除け法」ですね。また自家の魔除けには、表鬼門(北東)にヒイラギを、裏鬼門(南西)に南天の木を植栽するという。ならばこれ“墓を護る呪術”なのか。

 

いや違うな・・・信長の怨霊を畏れた「鬼封じ」だったか?!

 

そう“首塚”と云えば、歴史的に一番有名な「平将門」を思い出しますね

 

またも余談ですが「平将門の乱」の解説。平将門が関東騒乱の鎮圧の任に当たり、「武士階級を朝廷に認知させるため」の闘いだったといわれる、平将門の乱平氏一族の内紛平定から始まり、関東諸国を巻き込み戦闘は、大きく拡大していった。

やがて将門は朝廷に対し、自らを新たな天皇「新皇」と僭称し、東国として独立国宣言をします。このことにより朝廷側より「朝敵」とされてしまう。

そして、朝廷側の追討軍と関東側の将門軍の戦いは、兵力差により決着がつく。その合戦中、飛んできた“矢が将門の額に命中”し、呆気なく討死した。

敗将「将門の首級」は京まで送られ、都大路にて晒される事となった。ところが三日目に、夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、この地(東京)に落ちたとされています。

この“首塚のある場所”に、とても深い意味があります。

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平将門首塚の位置

将門の首塚江戸城の東側、いまの「千代田区大手町、超一等地」にあります。江戸城の大手門を護る位置。そして、何度動かそうとしても「将門の呪い」により、阻止されて来たらしいのです。ここにわざわざ“呪術結界”が張ってある…これ、相当怖い話なのです。

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(伝)織田信長首塚

さてこの駿府の地は、古くは織田信長に討たれた今川義元の本拠地であり、さらには武田勝家の領地となり、次には徳川家康の政庁・隠居所ともなった場所です。

それぞれ三者とも、信長にとって“因縁あさからぬ”人物達なのですね。ここに何か、引っかかるものがあります。

 

ハイっ「真実はいつもひと~つ!!」しかし「歴史の真実は、常に勝者により書き換えられる」とも。アイタタ…ホント、解りずらいねぇ

  

では、その後の「秀吉VS家康」天下盗りレースの行方を、観てみましょう

 

天正十四年、秀吉と家康が対陣した、小牧長久手の戦いの二年後。秀吉に対して家康“臥薪嘗胆の頃”でした。そしてライバルの秀吉は「関白太政大臣」となりました。

家康は本能寺の変後の“出遅れ”が大きく響き、すでに挽回困難な差がつき「天下取りの戦略転換」を図る必要が生じました。

この頃の駿府はうち続く戦乱により、ずいぶん荒廃していました。それでも政庁をあえて浜松から、駿府へと移したのです。“そんな場所”に移る意味とは、そこに“何か”があったから。護らねばならない何か。

一説には「秀吉ら上方勢に対抗するため」と、言われていますが。

 

話を本能寺に戻して、徳川家康暗殺説とはホントか?

 

気になるのは本能寺の変について、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』です。そこには『ある者は、これは信長の内命によりて、その親類たる三河の君主 家康を暗殺するためだったと疑惑した』といった記述があります。

徳川家康の一行(本多忠勝酒井忠次井伊直政榊原康政石川数正服部正成穴山梅雪重臣や小姓の三十四名)が、武田戦勝御礼のため上洛する。そして、五月十五日には、安土に到着しています。

信長が内命した?という「家康の暗殺説」なのですが。果たして本能寺の変は『家康と徳川近臣の討伐』にあったのか。この説も迂闊に信じられません。もし信長が本気ならば、“安土城にて家康一行を簡単に討ち取れていた”はずですから、これも違うな。

 

「信長の夢は、世界にあり!!」

 

やはり信長は、自身亡き世に“未来に対する布石”を打っておきたいと、考えたことと思いますね。例えば安土城にて、家康に向い世界戦略を語り「将来、日本を禅譲する」と、言わなかったか? それを聴き知った光秀は、そんな(イカレポンチな)信長に絶望したのではないか。そんな気がするのです。

(※穴山 信君、あなやま のぶただ。甲斐武田氏、御一門衆だった。天正十年、甲斐一国の拝領と武田氏の継承を条件に、徳川家康の誘いに乗り内応する。本能寺の変の時には、家康らと共にいたが、畿内から逃亡できず途中で自害した。つまりツメ腹を切らされたらしい『家忠日記』) 

 

明智軍記に遺された「光秀辞世の句」を観てみると

 

光秀の辞世とされる漢詩が、いまに伝わる。内容から勘案すれば、本能寺の変の後に詠んだものと推察※1されます。

『順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元』 明智軍記

<大意> 順逆※2を問われる謂れはない。大道がわたしの心と、やがて判るだろう。五十五年間の夢も醒めてみれば、元の世の中へと戻るのだろう。

 

京の貴族社会での顔が効き、武将としても超有能だった明智光秀が突然、謀叛に走ったのは、それが「世のため、正しい行為」であると考えたから。

やがて時が過ぎればこの行為が、後世の人々が理解してくれるはず。光秀自身はきっと、そう思っていたことでしょう。

(※1 後世の“偽作の可能性”もあります。 ※2順逆は、叛逆の意味。大道は正しい道といったところ)

 

そう考えてみると、本能寺の変が“起ったきっかけ”は、信長の隠居宣言。そして「織田家中の新旧交代と頭首交代劇」から始まったのでした。

信長から信忠へ移譲されるものは、国家支配権力、広大な織田領地、数多くの家臣団など、多岐にわたります。よって本質的には、単なる「織田家、代替り時のお家騒動」なのであった、と思いますね。

そこに「天下覇権」云々が付加されてくるので、ホントややこしくなる。

(これまだ、続くの? I think maybe.)

 

閑話休題。あぁ疲れた、木の話です。 

 

信長の墓標となったヒイラギの推定樹齢は、四百五十~五百年あたりと診断され、信長が活躍した時代とも、ほぼ一致すると云う。

このヒイラギは随分な大木となり、昭和三十一年には、静岡県の「天然記念物」に指定されました。

また境内の大イチョウが黄色く染まる十一月には、首塚伝聞に由来する「信長公 黄葉まつり」が盛大に開催されています。

 

<参考に、どうぞ>

○参考 壱/本能寺の変、三日前。京、愛宕山おいて「何らかの決意表明」したと云う光秀。本能寺変後には梯子を外され、まったく予想外な展開に直面しました。その当日「光秀が詠んだ連歌」ついて考察してみました。

minminzemi81.hatenablog.com

 

○参考 弍/戦国武将の「お墓」を辿っていくと、本能寺の変などの様々な事件の舞台裏、生存説などの最期にまつわる異説、秘話など。それぞれ名将の波瀾の生涯、戦国歴史ばなしです。

戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 (PHP文庫)

戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 (PHP文庫)

 

  

○参考 参/「戦国一の謀臣」と言えば、このひとしかいない。本能寺の変の前後には、とにかく“キレまくって”いましたから。たくらみごとへの関与は、果たしてあったのか?

minminzemi81.hatenadiary.jp

 

参考/山岡荘八織田信長」、歴史人、ぶらり亀岡、PHP研究所、ウキペディア

(8400文字、You read it, thank you.)

明智光秀と織田信長と本能寺の変。そこから四百キロも離れたお寺にある「信長の首塚」それ、ナンですのん?!『富士山 西山 本門寺』前編です【歴史推理】

2020年の大河ドラマ麒麟がくる」の主人公である、明智光秀。「本能寺の変」は永遠のミステリーと呼ばれ、いまだ多くの歴史ファンを引き付けます。

まずは天正十年、信長が置かれていた状況。本能寺までの流れを追いかけてみることが、肝要でござるな

その明智光秀本能寺の変において、犯した最大のミス「信長の首がみつからない!?」この謎を考察してみたいと思います。歴史ファン待望のドラマ。

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織田上総介信長(出典ウキペディア)
織田三郎/信長/上総介/右府様/第六天魔王

信長は尾張勝幡城で生まれた。子供の頃から“破天荒な行動”が多く、傾奇者の服装でねり歩き、栗や柿・瓜などを食べ歩きした。それで周囲から“大うつけ”と呼ばれる。信長の性格は「極めて残虐、人とは違う、異なる感性」を持っていた。敵対者や裏切り者に対しては、ことさらに残忍であったと言われ、浅井父子と朝倉義景の三人の髑髏を「はくだみ」とし“酒の肴”としたのは有名な逸話、どうも“サイコパスの傾向”があったらしい。しかし、その一方で“世間の評判”を非常に気にしたり、家臣や領民の意見も採用する柔軟性もあった。信長は日頃から武芸の鍛錬に励み、趣味として相撲、鷹狩り、茶の湯囲碁などに自ら励んだ。特に“南蛮文化に強い興味”をいだいていたらしい。最期には本能寺の変にて、明智光秀により弑逆された。享年四十九歳。

 

織田信長は、天正九年八月十三日に「信長自ら出陣し東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし日本全国残るところなく、信長の支配下に置く決意である!」と、天下一統の野望をあらわにした。

そして、確実にひとつ、ひとつ布石を打ってゆく。 

(※ 囲碁で中盤以降の展開を予想し、勘所となる場所に石をあらかじめ張っておく、戦略的配置のこと。そこから転じて「布石を打つ」という慣用句となり“未来のための下準備”的な意味あいとなった) 

 

信長はついに、長年にわたる宿敵 武田勝頼を追い詰めた

 

本能寺の変が起こる三月前。天正十年三月十一日。織田信長は巧みに内部崩壊を誘い、武田勝頼親子を天目山に追い込め、自害させた。ここに名門武田氏が、滅びました。

そして三月二十七日。高遠城を攻略した嫡男、織田信忠にたいし「そちに天下支配の権を譲る」と宣言するに至る。

 

これは、織田家中での“世代交代”“信長の隠居”を意味する。

 

人生五十年の時代ですから、何の不思議もない。ですが、実はこれ“大変な決断”なのでした。

武家ではよくあるハナシで「代替り時には、必ずお家騒動が起きる」まして“大き過ぎる権力の引き継ぎ”は、何かと家中係争の引き金となります。

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鳴かぬなら…ていっ!

(※信長には、11男11女もの子供がいた。文字通りの精力的武将だった)

それは、今回の“武田氏滅亡の遠因”ともなったことでもあり、何より信長自身が実弟信勝と“醜い家督争い”を身をもって経験した苦い過去もあった。しかし嫡男の織田信忠は、父信長の眼鏡にかなった“有能な武将”だったのです。

この時点では、さして大きな諍いも起きず、表面上“織田家は安泰”と思われました。甲斐から東海道へと至る道を、馬上より「日本一の霊峰 富士山」を眺めながら、新たに獲得した「織田の新領土」を、ゆるゆる帰国の途に就く。

この時、我が身の来し方行く末、想い巡らしたのではないでしょうか。まずは永年の宿敵であった武田氏を倒し、さらには「後継者問題」も決着した“安土凱旋”なのでした。

 

次なるターゲットは「西国の毛利平定」で、あるか

 

そして、永年に渡る功労者 徳川家康には、駿河国を割譲した。この旧今川領にて、若き日々を人質として過ごした家康にとっては、駿府は良くも悪くも“想い出深い土地”でした。これにより、家康は東海三ヶ国に及ぶ、大大名へと成長しました。

あとは、関東方面で信長に盛んに抗戦していたのは、越前の上杉景勝だけだった。信長は北条氏まで傘下に収め、武田氏が滅んでまずは“東方の憂い”は去った。また九州の地においては、大友氏や龍造寺氏共、信長とは“表向きは友好関係”にありました。

しかしその一方で、中国地方の大国 毛利一族との文字どうりの“泥沼の闘い”が続いていました。また四国においても、長宗我部氏が突然反旗を翻し、交戦状態におちいった。東へ西へ。

 

だが「駄目押し※1」続ければ、織田による「天下一統が定まる」はずであった

 

秀吉は、中国毛利攻めに宇喜多秀家勢(約一万)を傘下に加え、水攻めされた備中高松城はもはや、落城寸前となった。

さらには、毛利の後詰軍が着陣(五月二十一日になって、猿掛城に毛利輝元本陣、岩崎山に吉川元春、日差山に小早川隆景)する。

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備中高松城水攻め(東京都立中央図書館蔵)

舞台はコレで整った。あらかた目算※2 がたった羽柴秀吉は五月末、急ぎ安土の信長に援軍を要請し、これを了承される。

さすが“おべっか使いの秀吉”、上様の性格を判っていますねぇ。サラリーマン武将、出世するタイプの男ですよ。

さぁ、いよいよ「織田軍VS毛利軍」の“天下覇権を賭けた大戦”の始まりである。いやいや「終わり始まり、だったのか?!」

 

運命のカウントダウンが、スタートした。

この時、畿内で遊軍だった「明智光秀」ほか各武将の面々に、中国方面への出陣の下知が次々とくだる。信長、信忠親子も最前線へと駆付ける手筈を、急ぎ終えた。そして舞台は、策謀渦巻く、京は本能寺へ。でで~ん、でん♪

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京本能寺にて

六月に入り織田信長が、自慢の茶道具 九十九茄子茶入、白天目茶碗、高麗茶碗、青磁花入など三十八名品を並べ、京の貴族や商人を集め催した「本能寺茶会」は、満足な結果に終りました。さらには夕刻からは織田信忠主従も加わり、酒宴へと移る。

▷信長は、得意の「敦盛」でも、披露したのでしょうか?


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すべては順風満帆に運んでゆく。やがて夜もふけて、信忠が宿舎の妙覚寺へと帰る頃には、随分盛り上がった酒宴もおひらきとなった。信長は大の「茶事好き」であり、また「囲碁好き」だったのです。

(※1 囲碁での終局、どちらでも無い陣地を「ダメ」と言う。その駄目を埋めて勝敗を明らかにするため、さらに碁石を置き続けることを“駄目押し”という。「駄ジャレ」や「駄菓子」も、ダメよぉ~ダメダメ!)

(※2 「もくさん」とは碁盤の縦横にはしる交叉点のこと。確定地の把握と将来的な地目の可能性、盤上に展開した石の裏表などを総合的に勘案し判断する。転じて“物事の企てや計画する意味”となりました)

 

本能寺にいた「本因坊(日海)算砂」なる御仁、いったい何者でござるか

敵を殲滅するのではなく、最後の局面にて“一目多ければ勝ち”なのが囲碁。そのために知恵を絞り、想いを巡らすのが「戦略」であり、囲碁の醍醐味となります。

 

京、本能寺において。真剣勝負の行方は、どんなんかなぁ

 

六月朔※1の夜である。空に月はなく、漆黒の帷が本能寺を包んでいた。

本能寺の片隅にて「本因坊 日海(算砂)と鹿塩利賢」が、囲碁対局していた。しばらくすると“盤上に珍しい三劫※2”ができて、決着はつかず“三劫無勝負”となったという。

その対局の様子をじっと眺めていた織田信長。やおら立ち上がり日海と利賢に、本能寺に泊ることを勧める。信長のことなので「明日また対局を仕切り直せ」と含めたのかもしれない。

(※1 太陽暦ユリウス暦」では、六月二十日頃。 ※2 これ以降、囲碁世界では「三劫は不吉の前兆」とされるようになった。ただし残された本能寺棋譜には、三劫になりそうな場所はなく“後世の作り話である可能性”が高いといわれる)

 

囲碁名人の「本因坊(日海)算砂」は、実はすごいヒトだった

 

本因坊 日海。永禄二年~元和九年、京都生まれ。京の日蓮宗 寂光寺 本因坊の僧で法名を「日海」と称し、後に「本因坊 算砂」と名乗る。家元 本因坊家の始祖となる※1』

古代からの囲碁は、盤面四隅の星に碁石を配置してから始める「置き碁」だった。十六世紀後半には現代と同じ、自由布石による「互先」が始まる。

(※1 以来、本因坊は代々の世襲制となり、第21代本因坊秀哉まで続きます。昭和十四年、秀哉の引退後は世襲廃止、本因坊は“囲碁勝者に与えられる一大タイトル戦”となった)

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黒と白とのせめぎ合い、囲碁

この黒白交互に自由にパチリパチリと打ちはじめる「互先」が考案された天正年間は“織豊時代”であり、天下統一されていった時代でもある。単なる「戦バカ」は、淘汰され、真の実力者が勢力拡大していった。

そのためか囲碁でも“戦術法”ではなく“戦略眼”が重視され「布石」の概念が生まれた。これは、織田信長好みに本因坊日海が「互先」をアレンジしたと思えます。とにかく頭が良かった。

 

名人、本因坊日海(算砂)と信長の関係はどうだったのか?

 

そして日頃から、信長は日海に囲碁の教えを受けていました。

そんなある日のこと。信長(下手)は日海(上手)と対局し「五子置き(ハンデ)」打ちはじめますが、まったく勝負にならず、日海に軽くいなされてしまったという。これには流石の信長も舌を巻き「そちは、まことの名人なり!!」と、本因坊日海を賞賛した。ここから現在も使われる「○○名人」という言葉の起こりとされています。

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本因坊算砂、そちは名人じゃ!

それ以来信長は、日海のことを「名人」と呼び、囲碁の師匠と仰いでいた。しかし、明け方には「光秀謀叛の嵐」に巻き込まれることになるのでした。

 

作家 山岡荘八が描く「織田信長」に興味深いシーンがある

 

余談ですが。光秀は「算命術」つまり、いまで言う「四柱推命」を嗜んでいたらしい。

それは合戦前に行う“縁起かつぎ”みたいなもので、出陣の日時、方位、場所などすべて占い、もしも“凶”と出たら合戦延期か、とり止めともなった。もちろんこれは「軍配師」いわゆる軍師の役目で、総大将が執うことではない。この時も光秀みずから筮竹と算木をシャシャと使い、自身の“未来運命”を占ったとされています。

そして光秀は『上様のご運は、この六月から“空亡”に入らせられる。空亡は十二年毎にまわってくるその人一代の凶運の時ながら、それにあるは上様お一人ではないぞ。光秀はな、すでに去年、今年と空亡のうちにあるのじゃ。それゆえこの間の出来事は、一つとしてよい事はなかった。その空亡を脱するは七月半ば、それまでは光秀も、やはり手を拱いて自らの意思では動かぬものと知るが良い』と周りに告げた。

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

 

ここで言う「空亡」は“大殺界”のことで、“自分から動けば自滅する”といわれている。ならばこれ、随分と自己矛盾した話となりますね。

そして疑問も浮かぶのです。

 

本能寺の変は果たして、“明智光秀ひとり”で起こしたものだったろうか??

 

○はなしは「信長の首塚?!何それマジで?後編」へと続きます↓↓

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昔からささやかれる、黒幕謀略説とはいかに

実は光秀に、本能寺の変をそそのかした「黒幕がいたのではないか?」といった「黒幕」謀略説が、昔からあります。主な三つの説をザックリとご紹介します、色々推理してみて下さい!

 

①朝廷黒幕説

○信長は朝廷側に対して、正親町天皇に譲位を求め、暦の改正(宣明暦を→三島歴に)も要求しました。そして官職を辞していた信長に、三職推任(征夷大将軍の要請?)したが信長はこれを無視、朝廷は綸旨(りんじ)をないがしろにされ、面目を失くしました。

○また光秀との朝廷のパイプ役「吉田兼見の日記」は、何故か二つあり書き落としの箇所がある。本能寺の変後には、関与を疑われた前太政大臣 近衛前久が出家(号 龍山)、遠江国まで遁走しました。しかしこれ、なぜ隠棲した場所がわざわざ徳川領なのか? あれれっ、ずいぶん変だよね??

 

羽柴秀吉黒幕説

○犯罪捜査の基本「犯行により一番得した者は誰か?」それは明智光秀を討って結果、天下人となった秀吉です。秀吉は京での変事を知ると、毛利氏と素早く講和(もっと以前に、すでに講和条件等は調っていたはず)を結び、待ってましたと「中国大返し」を敢行。山崎の合戦にて明智光秀を破る。

○その段取りの鮮やかさは、かねてから(黒田官兵衛か?)準備万端だったと、想われます。しかも毛利軍は、追撃戦(やれば一方的なボロ勝ちとなる)すらありませんでした。そんな馬鹿な話はない。それでは「秀吉が光秀をまんまと陥れたのか??」そう権力者は、歴史を捏造しますからね…あるいは。

 

徳川家康黒幕説

○長年に渡り、信長の同盟者だった徳川家康は、武田氏が滅亡することより“東国方面での存在価値”が、おおきく損なわれました。そしてこの時、信長の招きに応じて重臣とわずかな供廻りを連れ、京や堺見物にのんびりと訪れていました。しかしこれは徳川主従にとり、とても危うい状況なのでした。

○本能寺にて織田側が「徳川主従をひとまとめに殺害」する計画が発覚。この“危機的状況”を打開するために、家康は“何らかの対抗策”を前もって練っていた。その意趣返し、それが「光秀の謀叛」の真意であるとします。しかもその後、光秀は死なず生きていたという伝説まで…マジですかぁ~??

(注/光秀の子孫という明智憲三郎氏が書いた“本能寺の変 431年目の真実”が、話題になりましたね)

 

④おまけコーナー、新説です

○最近の黒幕トレンドには「四国政策説」があります。林原美術館で「石谷家文書」が発見された。長宗我部元親が光秀配下の武将、斎藤利三に宛てた手紙です。四国方面の政策担当していた光秀は、この政策にまつわる“軋轢から叛意”を起したというもの。

○しかし、斎藤利三や長曾我部氏の“危険な先棒”を、上位者の“光秀が自ら担ぐ意味”が分かりませんが…とは言うものの、この説の可能性はゼロではないからね。さらなる補完出来る、“何らかの物証”が望まれますね。

 

▷推奨本/『現代語訳 信長公記』 現代語に翻訳され、とても読みやすい。織田信長の生きた戦国時代の空気感が、よく伝わって来ます。日本史に燦然と輝く伝記作品といえます。

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

 

参考/太田 牛一(おおた ぎゅういち)官位は和泉守、通り名は又助(またすけ)。戦国から江戸初期にかけて活躍した。信長公記 しんちょうこうき』の著者として有名。信長幼少時代から、義昭を奉じて上洛までを首巻、上洛永禄十一年~天正十年までを十五冊、計十六巻にまとめている。確認できる事跡を編年体にまとめ、正確に記している。信長の事績を研究するには、無くてはならない一級史料となっている。

○併せてこちらもどうぞ。「信長しくじり先生」ばなし。

minminzemi81.hatenadiary.jp

  

参考/山岡荘八織田信長」、歴史人、ウキペディア

(6100文字、See you again.)

和歌山名産「葉つき布引大根」が手に入った夜に始まる⇒「だいこん祭り」開催【得意料理】

案外知られていないカモですが、和歌山名産の旨いもん「布引大根」をご紹介します。

 

首大根なんですが。和歌山の紀ノ川筋、布引地区の砂地畑で採れます。この地域は水はけの良い肥沃な土壌に恵まれて、古くから紀州大根の産地として知られていました。例年、だいたい11月下旬あたりから「美味しい布引大根の最盛期」に入ります。

紀州和歌山の風土に最も適した大根として、徳川御三家の時代から栽培されていたと言います。江戸時代から連綿と栽培され続けた、永い歴史があったのです。


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地元の和歌山大学 地理学教室の報告よれば「砂質土壌はサラサラとした砂粒から成っている。通気性、排水性に富み土中深くまで酸素の供給が良く、しかも柔らかい土壌のために、根菜類の生育には最適です。大根、人参などは、その身も表皮も軟らかく美しい」と、評価しています。

確かに朝採りのフレッシュな大根だと、ナマでも甘くて美味しいのです。皮付きそのまま薄切りしパリパリといただくと、甘くフルーティな味わいと舌触りが抜群にいいことが判かりますね。

 

それでまぁ、今日の我が家は「だいこん祭り」絶賛開催中なんですよ。

 

調理開始!大根をすべて使い切るのです

 

まずは葉の根本のところを切り落とす。さらに大根本体を上を三分の二、下は三分の一くらいに切り取り、スリーピースにスポポン♪と分断します。これは首に近いところほど甘みが強く、下にいけば少しだけ辛味が出てくることから。なので使い分けます。

上葉は約三ミリ厚(適当)細かく刻み、胡麻油と醤油で軽く炒める。鷹の爪(もしくは七味)と黒胡麻は、お好みで加える。シャキッと感、炒めすぎないのがコツ! はいっ、ご飯の友「大根菜炒め」完成! まいう~♪

コレで御飯が二膳はイケますね。ホントホント!


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大根の上半分は、煮物にします。今回は予算の関係で「鶏手羽元」にすることに。手羽元はフライパンで軽く焼き目を入れて、大根は皮付きのママ半月か銀杏切りにします。出し汁に醤油と砂糖1:1、料理酒を少し加え、落し蓋して二十分ほどコトコト煮る。火を止めしばらく置く。

また「豚バラ肉」で炊くのも美味しい。いや、個人的にはコッチがオススメかも。

 

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後日作ってみました鰤大根

また、これから寒い季節がら「いい鰤アラ」が手に入れば「ブリ大根」に、また「おでん」の具にも、最高ですよ♪

さぁヘルシー「鶏大根」の完成です!

あぁ慌て過ぎた、刻み大葉を最後のせるの忘れていた…冴えない写真になってる。


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あと残りの大根下三分の一は「大根おろし」 にします。これを秋刀魚や寒鯖の焼魚の上に、ドカっと載せれば大根一本丸々使った“ヘルシーメニュー”の完成です。う~ん…あとは「ポン酒🍶」かなぁ~、地元海南の「黒牛」推し!

 

【追記】

食事の〆には漬物が欲しい。和歌山オカンの「おくき」レシピ。

<材料>

布引大根、塩、だし昆布、鷹の爪(唐辛子)砂糖、酢。

<作り方>

①大根を適当な厚み(好みで)の銀杏切り。
②漬物つけ器の底に、塩を少しふる。
③その上に、大根を一面乗せる。
④乗せた大根の上にも、塩を少々。
⑤大根の上に出し昆布(細くカット)を敷く。
⑥これを容器がいっぱいになるまで、繰りかえす。
⑦酢と砂糖の「甘酢」を、上からまんべんなく回しかける。
⑧鷹の爪(唐辛子)を、パラパラふる。

○最後に重し乗せ冷暗所で保存。数時間ほどで大根から水が上がって来るので、ギュ~っと絞ります。これを繰り返します。また、大根の替りに「白菜漬け」も美味しい!

 

(1400文字)