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あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ のし

そろそろ「🐬イルカと🐳クジラの違い」を、ハッキリさせたいのココロ。そして「祝🎊商業捕鯨再開!」ですよ【鯨肉文化】

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和歌山県太地漁協の捕鯨船「第七勝丸」が帰ってきた。

ビックリするくらい、ちっちゃいボートです。でも、太地町エース!

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第七勝丸出航風景(出典 読売新聞社)

やっとこさフレッシュな鯨肉が、食べられるかな。しかし、初物は何でも高いからね⇒『全量落札されたが、価格は公表されなかった』と云う。これは、あか~んヤツかい?ご祝儀相場。

www.agara.co.jp

 

昨年の12月のこと、「日本がIWCから脱退」とのニュース!

 

だいたいやね、国際捕鯨委員会(IWC)を例えれば⇒「ぼったくりバーみたいなもの」ホ~ント「捕鯨反対派のためのおかしな団体」に、成り下がっていました。

ていっ!て~いっ!。

記事引用『IWCは「クジラ資源の保存と捕鯨産業の秩序ある発展」を目的に国際捕鯨取締条約に基づき1948年に設立された国際機関。日本は1951年に加盟した。

当初は捕鯨国でつくる資源管理機関だったが、反捕鯨国の参加が増えて1982年に商業捕鯨の一時停止が採択された。

水産庁によると八月時点で加盟国のうち、捕鯨支持国は日本やノルウェーなど41カ国、反捕鯨国がオーストラリアやブラジルなど48カ国。捕鯨支持国との反捕鯨国が激しく対立している』(産経新聞事 2018/12/20)

これ、単純に言えば「食肉輸出国=反捕鯨国=反捕鯨団体なのであります。さらに、あのグダグダの「みどり豆ヤロー」共ときたら! まあ良い。

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捕鯨漁 風景(昭和の頃)

それで、捕鯨基地のある和歌山県山口県高知県では「調査捕鯨」は終了。そして「商業捕鯨」再開がいよいよ始まった。

この漁は日本の領海と排他的経済水域(EEZ)で行われる。調査捕鯨では、大西洋でクジラを捕っていたが、これからはそれらも実施しないと云う。

(※みどり豆とか云うカルト集団は、ただの“利権団体”でしかないのは周知の事実です)

 

輝く!和歌山県の郷土料理「クジラの竜田揚げ」です

 

農林水産省が選定した「農山漁村の郷土料理百選和歌山県代表の郷土料理です。

「あ~竜田揚げ食べた~い!!」

そして「クジラ給食復活!」もね。そうだよぉ~♪人気献立はやはり圧倒的に「クジラの竜田揚げ」だね。給食のやつは、ホント美味かったよねぇ!

戦後貴重なタンパク源として、日本の食卓を支えた懐かしの鯨料理。クジラの竜田揚げは代表的メニューです。

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1950年頃の小学校の給食

 

<クジラの竜田揚げレシピ>

 

昭和のソールフードだったね。ひと口大に切った鯨に下味をつけ、片栗粉をまぶし油でサクッと揚げます。「まいう~♪」

 

○鯨赤身をひと口大にカットする。隠し包丁も入れると下味がよく染みる

○ボウルに「醤油、酒、味醂、おろし生姜」液に、鯨肉をしばらく漬けておく

○ひと切れずつ片栗粉まぶし、すぐに180℃の油であげる。ここがポイント

○揚がった鯨肉と、付けあわせをあしらって   <<完成です!>>

 

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新鮮な鯨肉は刺し身✨にて

 

<給食ランキングをブッチで一位「鯨の竜田揚げ」>

 

しかし悪名高かった「コッペパン」が三位になってるよ。あと七位の「脱脂粉乳」てか。これ…マジですか、人気あったの?

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人気給食メニューランキング

 

知っておきたい、なが~い捕鯨の歴史

日本人の鯨を食べる習慣は、それこそ太古からあったといいます。また、奈良時代の文献に“鯨肉贈答”の記載があるそうですから、ずいぶんとその歴史は古くて永い。

 

紀伊半島の南端に位置する和歌山県東牟婁郡太地町は、日本の「古式捕鯨発祥の地」として、世界的にも有名な捕鯨の町です。 

その始まりは、江戸初期(1606年)。紀州太地で捕鯨組織の「鯨組🐳」が設立される。そして和田一族、和田頼元を中心に「刺手組」と呼ばれる捕鯨漁師たちが、太地浦を拠点に沿岸鯨漁を始めました。

延宝三年(1675年)には「鯨を網に追い込む捕鯨法」を、和田頼治が考案しました。これ「クジラ一頭で七浦潤う」と云われた位だからね。乱獲なんかありえなかった。

○古式捕鯨説明サイト⇒http://www24.big.or.jp/~kyusoku/w_old_whaling.htm

(※縄文や弥生時代貝塚から、鯨の骨が数多く出土します)

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ザトウクジラのブリーチング

 

そもそも欧米と日本では、利用目的も捕鯨手段も違う

 

幕末になると、欧米諸国(主にアメリカ、オーストラリア船)の捕鯨船が、さかんに日本近海までやって来ました。

当時は「米式捕鯨」と呼ばれる遠洋捕鯨でした。帆船見張り台から肉眼でクジラを捜す。発見したら手漕ぎのボートで漕ぎよせ、鯨に次々と銛を撃ち込むスタイルだった。

この西洋における遠洋捕鯨は、十九世紀から二十世紀前半までがピーク。漁獲目的は「灯火燃料や機械油」に使うため。脂を絞ったら肉や骨などはすべて海洋投棄した、なな、なんてことを!しかも「世界規模で鯨を乱獲」し続けたのです。

そして油だけが目的なので、まず「マッコウクジラ」種(デコに大量の脂を蓄えていたため)が、絶滅寸前の危機に瀕した。次に「セミクジラ」が、1931年には最大種「シロナガスクジラ」の捕獲数がピークをむかえる。

世界全体で800隻程度の捕鯨船が活動し、一隻あたり年間10頭程度捕獲していたらしい。単純計算すれば「年間8000頭」にもなるっ!!

どんだけぇぇぇ~!

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「どど~ん!!」whale watching!✨

そのあたりの話は、有名な小説「白鯨※」に詳しく描写されています。この話は、実際に捕鯨船に乗船、捕鯨に従事した「メルヴィルの実体験」をもとにしています。

○映画「モビー・ディック」グレコリーペック主演。“白鯨の描き方”は、ほとんどゴジラ扱い<笑 このMADさは“アメリカ人の精神構造”をよく捉えていますね。あの“バッファロー”を絶滅させたヤツらだからね。

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(※1851年に発表されたアメリカ文学を代表する作品。たびたび映画化もされている。原題は、英国版が"The Whale"、米国版が"Moby-Dick or The Whale")

最終的には「鯨類資源の減少」と「鯨油需要の低下」から不採算になり、欧米では一気に捕鯨が衰退する。しかし…

 

日本の捕鯨は、随分出遅れていた「古式捕鯨」からの~

 

欧米船による乱獲、その結果として日本近海で鯨の個体数は著しく減少し、日本の古式捕鯨は、壊滅的な打撃を受けることになったのです。

明治十一年(1878年)には、太地において海難事故「大背美流れ」が起った。この大打撃を受け近代捕鯨への発展には、まだまだ時間が必要でした。

その後、捕鯨銃による沿岸捕鯨、鯨解体場の開設、鯨缶詰工場の建設など、次々と改善され、太地町捕鯨産業はようやく軌道に乗りました。

(※覚書『脊美流れ控え』によれば、子連れのセミクジラを追って沖合へと漕ぎ出した鯨取り船団は、遭難事故により百名以上が帰らぬヒトになりました) 

 

そうだった「イルカと、クジラの違い」とは何か

 

まず、クジラはだいたい二種類に大別することができます。鯨の口が髭なのか、歯なのか?「髭クジラ」と「歯クジラ」のツータイプ。

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ザトウクジラ

①「ヒゲクジラ」は、口の周りにヒゲを持ち、小魚やプランクトンをガバ飲みします。「髭」タイプ代表種は⇒「ナガスクジラ、ザトウクジラ」

②「ハクジラ」は、頑丈な「歯」で巨大な生物(例えば大王イカとか)も捕食できます。「歯」タイプ代表種は⇒「マッコウクジラ」です。

イルカも歯を持つので②の「歯」タイプになりますね。 

 

まさかっ?! イルカとクジラの差とは…

 

実は「何となく」らしいのです。

「えぇぇぇ、ナニそれ?!」

ひとが見て「チッコイなぁ」思うのが「🐬イルカ」で、ひとが見て「デッカイのう」思うのが「🐳クジラ」その境目はテキトーだった。目安としては、だいたい「体長四~五メートル」あたりで線引きらしい。

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イルカは、賢そうだよな

例えば「セントバーナードとチワワ、コレどっちも犬でしょ?」

みたいなハナシなのか <笑

 

○鯨は海の中で「唄い、踊り、遊ぶ」とても愉しそうですね。

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和歌山県太地町には「鯨魂の永く鎮まりますよう」という願いを込めた「くじら供養碑」が建立されているのです。毎年、四月二十九日(肉の日?)には「くじら供養祭」が行われています。

もちろん日本人は、鯨さんをリスペクトしていますよ。日本での古名は「勇魚 いさな」これは“キングオブフイッシュ”といった感じですかね。

 

○推奨図書/「勇魚」と云えば、この本「C.W.ニコル」さんの名著です。西洋人に日本捕鯨をここまで描かれては、少し気恥しい心持ちがする。

勇魚〈上〉 (文春文庫)

勇魚〈上〉 (文春文庫)

 

 

鯨法会、これが日本人の感性である。 

金子みすずさんの詩『鯨法会』で〆ます

 

鯨法会は春のくれ、
海に飛魚採れるころ。

浜のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、

村の漁師が羽織着て、
浜のお寺へいそぐとき、

沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、

死んだ父さま、母さまを、
こいしこいしと泣いてます。

海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら

 

(3700文字、thank you for reading.) 

名城「和歌山城の見どころ」決定版!! パート2「和歌山城の歴史と見所」をご紹介いたします【城址案内】

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白亜三層の大天守がそびえる和歌山城。この名城の特性と長い歴史を解説します

徳川御三家のひとつとして、紀州徳川家は五十五万五千石を領しました。和歌山城は市街中心部に位置する、標高約五十メートルの虎伏山に建造され、その天守からは眺望よく、北側を流れる紀の川、西には紀伊水道が望め、その絶景を楽しむことが出来ます。

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小高い岩山に天守が乗る

(※よくある勘違い/細かい事ですが…徳川御三家とは「徳川宗家、尾州徳川、紀州徳川」の三家を云う。水戸は?実は、最初は御三家を除外されていたのです。家光の代にて、宗家を別格として三家に加わる) 

 

和歌山城、最大特長である「三種類ある石垣積み」とは

 

石垣を見ればそのお城の歴史まで見えてきます

 

はい、いきなりですが、お城石垣の話。

和歌山城をよく表すものは、「石垣組み」にあると思います! 例えば、城という文字を分解すれば「土」と「成」になります。

堀あげた土で土手を築き、強度不足を石組みにて補い成る。このことから決して上物を指して「城」とは、呼ばないことが解りますね。そう「石垣こそ城!」なのです。

そして和歌山城、全国的に観ても珍しい“各時代の石垣”が遺っています。

 

壱、「野面積み」について 

 

和歌山城初期、豊臣秀長の時代。綺麗な「緑色片岩(紀州青石)」を巧みに積んだ「野面積み」の石垣が残っています。この石垣は一見荒々しく雑に見えますが、築き方を間違えれば崩落する訳で、高度な技術が必要ですね。なので傾斜角も緩やかです。

城内、山吹溪辺りの野面積みが見所です。特に雨上がり後には、石が綺麗な発色をして照りばえがとても美しいですね。 

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山吹溪に連綿と続く野面積み

お城の南側の岡公園にある、天妃山(てんぴさん)から切り出した青石を使用。この岡公園の裏側に池がありますが、石切場の跡に自然水が溜まり池となったのだと云います。岩山を切り崩す勢いで、大急ぎで作事が進んだことがうかがえます。

○こちらが、天妃山のある丘公園の紹介記事です。

minminzemi81.hatenadiary.com

 

弍、「打込みハギ」について 

 

和歌山城中期、浅野幸長の時代では。

加太城ヶ崎、友ヶ島などから「和泉砂岩」を打ち欠いて加工し、はぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られました。大石の隙間に小さな石を挟みこみ荷重を分散させる技法。これによりさらに高く積上げることが可能になりました。

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左側にある高石垣

岡口門近く、まず目に付く高石垣が、打込みハギです。しかし、元々地盤の弱いこの場所にこれだけの高石垣を築くのは、相当苦労したと想われますね。

 

参、「切込みハギ」について 

 

和歌山城後期、徳川時代になると。

熊野地方の「花崗斑岩」を用いて、切石で精密に擦り合わせ積んだ「切込みハギ」の石垣が作られました。面と面をピッタリ隙間無く組あわせています。主に来城者の目につきやすい箇所などを、この最新式の石垣に築き直したようですね。

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二の丸にある、切り込みハギ

このことは高さより美しさ、より<手間暇=コスト>かけることを意味し、単純に“お金持ちアピール”だったか、と思えますね。戦乱が治まった後もお城石垣に手をいれ続ける、紀州藩ならではの考え方が解ります。

 

かつては存在した「喪われし城門」のはなし

 

沢山あった城門と縄張りの話です。

和歌山城玄関の「一の橋大手門」から城内に入ると、縦に長い枡形となり続いて「中御門」がありました。これ喰違い虎口となっています。

この「中御門」を過ぎ、奥に見える表坂は、徐々に幅が狭くなりつづら曲折する石段となっています。これは錯視効果を狙ったものですね。

それを登り切った所には「松ノ丸門」があり、その南側には二層の松ノ丸櫓がたち、四方に睨みをきかしていました。

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つづら折れの表坂

さらに奥へは緩やかに登り、東西に細長い枡形「松ノ丸」があった。この長さの意味は火縄銃の有効射程で、迫り来る敵を両端から釣瓶打ちに出来たのでは、と思えます。

さらにその松の丸の終わりに天守本丸への道をふさぐ「本丸いち之門」がありました。籠に乗った殿様もこの急段は籠を降り歩いたといいます。

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和歌山城MAP

この虎口は、ほぼ直角に右に折れ、さらに右へと曲がっている登り階段です。そして続く「中門」という小さな隠し門があった。これにより石垣と城門でぐるり囲まれた桝形構造、これでは三方向から一斉攻撃を受けることになります。

中門の先は東側に「本丸御殿門」北側に「本丸裏門」そして西側に「天守いち之門」がどっしり構えていました。これらの城門全てを閉じると、ここもまた二つ目の桝形空間になります。万一敵が攻め登っても逃げ場はない、連続桝形虎口となるのです。

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本丸郭の縄張図

そして天守曲輪への入口にあたる「天守いち之門」と、続く「天守二の門(楠門)」は、最後にドーンと立ちふさがる巨大な要害となりました。

大手から都合七つの要害を抜いて、ようやく天守に辿り着けたのですね。縄張り名人と謂われた藤堂高虎の、面目躍如なのではないでしょうか。

和歌山城を攻める武将気分で、天守まで辿ると結構面白いと想います。オススメですよ。

  

何度も増改修を繰り返した城郭は、各時代の様式を留める。和歌山城の歴史が始まります

 

城郭規模は「戦国→江戸→明治」と数々の遍歴がある

 

城郭は単なる戦闘施設から、都市の象徴(シンボル)へと変化していく。

和歌山城の城郭規模は、北部を流れる紀の川と東側の和歌川を天然の堀とし、本丸の北側に二の丸(政庁御殿)を置きました。その外側に大きく三の丸(上級武家屋敷などが建ち並んでいた)があり、さらに土塁と外濠に囲まれていました。

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天守より螺旋に渦を巻くように計画された「梯郭式平山城」でした。また、和歌山市内の城下町特有の微妙に曲がり入り組んだ道路は、昔の名残を感じることが出来ますね。

ちなみに和歌山城下町の名残りとして、地名に「○○丁」と「○○町」が混在します。丁は「ちょう」と読んで武家屋敷を、町は「まち」と読み町人街を表しています。

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江戸時代の雰囲気遺す白壁

いま城跡として現存しているのは、徳川時代の最盛期の四分の一ほどの面積でしかなく、お城の南側に拡がっていた下級藩士の屋敷、三の丸にあった壮麗な武家屋敷が、明治以降に一気に喪われてしまうことになりました。

 

秀吉さんが「和歌山」の名ずけ親?!なんかすごい話

 

天正十三年、羽柴秀長紀州攻めの将として参陣。紀州平定後に紀伊・和泉の二ヶ国を加増された。そしてこの地に目を付けた羽柴秀吉が、弟 秀長に築城を命じたのです。

秀吉自ら城域を選定し縄張りを行ったといわれ、普請奉行に藤堂高虎を任じ、約一年で縄張りを完成させた。高虎は全国にある二十八城を手掛けたと言われ、この和歌山城が最初だったと伝わります。この時から「和歌山城の歴史」が始まりました。

しかし羽柴秀長はこの地、和歌山より奈良の郡山城を本城としました。伏見、大坂、大和、紀伊、和泉の地理条件を考えた場合、合理的判断であったと思えます。

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和歌山城いまは何の違和感ないけれど

また、この時期に「和歌山」と地名を改めた。秀吉が紀州 和歌浦の風景をいたく気に入り和歌浦の「和歌」と、この城郭予定地の字名だった岡山の「山」を合わせて「和歌山」と名ずけました(文献の初見)。

しかしこれ、果たしてどれだけ地元に定着したのか、疑問は残りますね。和歌山人はとにかく「紀州人」であること!に誇りを持っていましたから。

 

豊臣から徳川へと時代は、急激に推移してゆく

 

天正十四年。豊臣秀吉から秀長の家老職を命じられ、秀長は「桑山重晴」に三万石を与え城代としました。重晴は本丸を中心に城のさらなる拡張を行う。

○慶長元年。桑山重晴の隠居により、一代飛ばし孫の桑山一晴が城代を継ぎました。

○慶長五年。関ヶ原合戦で東軍に属した桑山一晴は、大和新庄藩に転封となりました。

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山吹に桜が良く似合う

○同年に同じく東軍に属した「浅野幸長」が三十七万六千石で紀州藩主として入城した。幸長もさらに城と町の大拡張を行っている。

○慶長十年頃。黒下見板張りの三層天守が建てられました(異説もあり) 。

(※この黒天守は、本丸御殿にあったのではないか?と云う話もあります。標高が本丸の山の方が高いため。)

  

有名な紀州南龍公、“徳川頼宣さん”の登場です!

 

元和五年。紀州浅野氏は広島藩(福島氏改易)に加増転封となった。そして、家康の十男徳川頼宣が五十五万五千石にて入国、紀州徳川家が誕生しました。

この頼宣公、大坂夏の陣での逸話。軍議で先陣を申し出た頼宣だったが却下される。すると涙を流して悔しがった。松平正綱が云う「まだお若いからこれから機会は何度でもありましょうぞ」すると頼宣は「十四歳が二度あるのかっ!」と言い返したと言う。

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複雑な構成美を魅せる回廊部

元和七年。頼宣は二代将軍秀忠より銀五千貫を貰い受け、城の大改修と城下町の大拡張工事を計画、実行しました。城郭唯一の弱点であった南への備えとして、堀川を拡張して総構えとする和歌山城下をも取り込んだ、巨大な城構えになる予定でした。

しかし余りにも大規模な作事だったため幕府より「謀反の嫌疑」をかけられたそうです。幕府には、付家老安藤直次の弁明で、ことなきを得たと云う。

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和歌山城下町絵図(安政二年)出典:和歌山市立博物館

和歌山市街の南部に「堀止」の地名が残っています。この場所が城郭総構の南限(計画上の)だったようです。スケールが凄かったのが判ります。

(※天守閣ある虎伏山から南に1.5kmの地点。なるほどこれでは、幕府がザワつくのもうなずけますね)

 

江戸時代後半は、紀州徳川家の天下だったのか?

 

野心家で武張った徳川頼宣が「将軍の座を虎視眈々と狙っていた?!」という逸話が残っています。その真偽は不明なれど、上記の戦術的な城下町造りや、地元の雑賀衆関ヶ原浪人を好んで雇ったりもした。また伊達政宗真田信之などとの交流など“幕僚が疑義を抱く動き”を、頼宣はやり続けました。

そして天下を騒がす「由比正雪の事件」が起こる。頼宣は「外様大名が加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うなら天下安泰」またも幕府に対し人を喰ったような申し開きで切り抜けました。

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冷や飯食いから天下人?!サクセス!

享保元年。徳川将軍家が断絶。そして徳川頼宣の孫で、八代将軍となる「暴れん坊将軍 吉宗」が誕生しました。それ以降幕末迄、紀州吉宗系の将軍が続くことになる(15代慶喜だけは水戸徳川から養子入りした)。ここに“始祖 南龍公の願い”が実現したのでした。

通常、将軍家にランクアップしたなら紀州藩は(廃藩か、直轄領)となるハズですが、将軍吉宗はそのママ存続させた。吉宗の「頼宣公リスペクト」だったかもしれませんね。

(※テレビドラマ「暴れん坊将軍」は、八代将軍 徳川吉宗が貧乏旗本の三男坊「徳田新之助」に姿を変え、江戸町民と交流しながら江戸にはびこる悪を斬る、痛快トンデモ話でした。) 

 

○参考まで/将軍家(紀州系)の流れ 

1家康-(頼宣-光貞)-8吉宗-9家重-10家治-11家斉-12家慶-13家定-14家茂-15慶喜

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昔お殿様の舟遊び、いまは観光客が

 

明治時代の和歌山城には受難の歴史があった。

 

幕末から明治維新を経て。明治六年、明治政府が廃城令を発布しました。城郭跡だった場所には、次々に役所や学校が置かれ、三の丸の堀は埋め立てられ道路にもなりました。残念なことに城郭規模がずいぶん縮小され、市街地化されてしまったのです。

左図が明治四十三年頃の地図、右が現在(グーグルマップ)です。ずいぶんと縮小されてしまったことが見てとれます。

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明治時代40年代の和歌山城(今昔マップより)

 

そして現代の和歌山城天守台には

 

天守から時計回りに多門、天守二之楠門、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと繋がる連立式天守がそびえています。回廊部にまで石落とし、鉄砲狭間まで設け「武張った城」であることを遠目にもアッピールしていますね。大天守へと通じる小天守にある玄関は、雅な唐破風の御殿入口です。この場所、意外と写真映えがします。

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興味深いのは、不等辺四角形の天守台(基壇の面積は2,640)のカタチですね。一層目は方形ではなく上に載る二層目から方形になるのです。なので一層目の屋根や軒先が、上層部と微妙にずれる“歪み現象”がみえます。こういった「見えない所まで工夫を凝らす」ところに、和歌山城の心意気が感じられますね。

 

繰り返す歓びと哀しみ、これが天下人を育んだ城の意地か

 

和歌山城天守は二度も火災にあいましたが、そのたび蘇りました。

弘化三年。天守に落雷があり炎上焼失する。そして嘉永三年、間もなく幕末と云う時期に、日本で最後となる天守が完成する。黒船が来航する三年前のことでした。

そして昭和十年に和歌山城天守は国宝に指定される。しかし、大戦末期に米軍の爆撃により、またもや炎上焼失しました。いま現在ある天守は、戦災後の昭和三十三年に鉄筋コンクリート再建された三代目で、建造物内部には「紀州徳川家ゆかりの品」が博物館のように多数展示されています。

 

紀州人の大きな誇りでもあり、時には嫌悪すべき対象でもあった和歌山城は、いまは静かに佇み時を刻んでいます。

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和歌山城天守

料金:大人410円 小人200円
9:00〜17:30(入館は17:00まで)
年中無休(12/29 - 12/31 は休み)
📞073-422-8979 

 

交通機関と駐車場について

和歌山城の最寄り駅は、JR和歌山駅と南海和歌山市駅になります。南海和歌山市駅からは歩いて10分ほど、JR和歌山駅からはもう少し離れているので、駅前のバス利用をオススメします。

車利用の場合、お城の南側“三年坂から入れる城内駐車場”があります。ここが一番天守に近く何かと便利ですよ。ただし、すぐに“満車になる”ので要注意ですね。

 

和歌山城 再建こぼれ話など 

和歌山城天守は昭和二十年に戦災焼失し、その後“市民の力”によって昭和三十三年にコンクリート再建されました。その時の話です。

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桜の季節には大にぎわい

和歌山城天守再建の時には、和歌山出身の松下幸之助さんが“最も多額の寄附”をした。市の側でも松下電器からの寄附を期待して「二ノ丸」の復原も依頼しようとしました。すると…「寄付するので天守閣に“ナショナルの看板”を掲げさせてほしい」と和歌山市に要求したというのです。さすが幸之助はん、ですねぇ。

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2018年には、再建六十周年となりました。なんでも現状のCR構造の寿命や耐震構造に問題があるとの話、この際「木造での再建」を検討すべき時と、想います。

 

和歌山城関連のお勧め観光名所として

和歌山市南部地域に、紀州東照宮、不老橋、養翠園、番所庭園などがあります。いずれも紀州徳川家、縁の名所ですよ。

城郭内 近隣施設/三の丸跡には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。

 

参考史料/和歌山市観光協会HP、和歌山市立博物館、和歌山市教育委員会ニュース和歌山、ウキペディア

 

(6200文字、Thank you for reading. ) 

明智光秀が襲撃した本能寺。そこから四百キロも離れたお寺にある「信長の首塚」ナンですのん?!『富士山 西山 本門寺』パート1【歴史案件】

2020年の大河ドラマ麒麟がくる」の主人公である、明智光秀。「本能寺の変」は永遠のミステリーと呼ばれ、いまだ多くの歴史ファンを引き付けます。

まずは天正十年、信長が置かれていた状況。本能寺までの流れを追いかけてみることが、肝要でござるな

その明智光秀本能寺の変において、犯した最大のミス「信長の首がみつからない!?」この謎を考察してみたいと思います。

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織田上総介信長(出典ウキペディア)

織田信長は、天正九年八月十三日に「信長自ら出陣し東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし日本全国残るところなく、信長の支配下に置く決意である」と天下一統の意中を顕にした。

そして、確実にひとつひとつ布石を打ってゆく。 

(※ 囲碁で中盤以降の展開を予想し、勘所となる場所に石をあらかじめ張っておく、戦略的配置のこと。そこから転じて「布石を打つ」という慣用句となり“未来のための下準備”的な意味あいとなった) 

 

信長はついに長年にわたる、宿敵 武田勝頼を追い詰めた

 

本能寺の変が起こる三月前。天正十年三月十一日。織田信長は巧みに内部崩壊を誘い、武田勝頼親子を天目山に追い込め自害させた。ここに名門武田氏が滅びました。

そして三月二十七日。高遠城を攻略した嫡男、織田信忠にたいし「そちに天下支配の権を譲る」と宣言する。

これは織田家の世代交代と“信長の隠居”を意味する。人生五十年の時代ですから何の不思議もないのですが、これは“大変な決断”でした。

武家ではよくあるハナシで「代替り時には、必ずお家騒動が起きる」まして“大き過ぎる権力の引き継ぎ”は、何かと家中係争の引き金になります。

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鳴かぬなら…ていっ!

それは今回の“武田氏滅亡の遠因”ともなったことでもあり、何より信長自身が実弟信勝と“醜い家督争い”を身をもって経験した苦い過去もあった。しかし嫡男の織田信忠は、父信長の眼鏡にかなった“有能な武将”でした。

この時点ではさして大きな諍いも起きず、表面上は“織田家は安泰”と思われました。甲斐から東海道へと至る道を馬上より、日本一の「霊峰 富士山」を眺めながらゆるゆる帰国の途に就く。

我が身の来し方行く末、想い巡らしたのではないでしょうか。まずは永年の宿敵であった武田氏を倒し、さらには「後継者問題」も決着した“安土凱旋”なのでした。

 

次なるターゲットは「西国の毛利平定」で、あるか

 

そして永年に渡る同盟者、徳川家康には駿河国を割譲した。この旧今川領にて、若き日々を人質として過ごした家康にとっては、駿府は“想い出深い土地”でした。これにより、家康は東海三ヶ国に及ぶ大大名となりました。

あと関東方面で、信長に盛んに抗戦していたのは越前の上杉景勝だけだった。信長は北条氏まで傘下に収め、武田氏が滅んでまずは“東の憂い”は去った。また九州の地においては、大友氏や龍造寺氏共、信長とは“表向きは友好関係”にあった。

しかしその一方で、中国地方の大国 毛利一族との文字どうりの“泥沼の闘い”が続いていた。また四国においても、長宗我部氏が突然反旗を翻し、交戦状態におちいった。

 

しかし「駄目押し※1」続ければ織田の「天下一統が定まる」はずであった

 

秀吉は中国毛利攻めに宇喜多秀家勢を傘下に加え、水攻めされた備中高松城はもはや落城寸前。さらに毛利の後詰軍が着陣(五月二十一日になって、猿掛城に毛利輝元本陣、岩崎山に吉川元春、日差山に小早川隆景)した。

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備中高松城水攻め(東京都立中央図書館蔵)

舞台は整った。あらかた目算※2 がたった羽柴秀吉は五月末、急ぎ安土の信長に援軍を要請し、これを了承される。さすが“おべっか使いの秀吉”、上様の性格を分かってますね。

いよいよ「織田軍VS毛利軍」の“天下覇権を賭けた大戦”の始まりなのである。いや終わりの始まりだったのか。

畿内で遊軍だった「明智光秀」ほか各武将の面々に、中国方面への出陣の下知が次々とくだる。信長、信忠親子も最前線へと駆付ける手筈を終えた。

そして舞台は…陰謀渦巻く、京 本能寺へ。ででん、でん♪

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京本能寺にて

六月に入り織田信長が、自慢の茶道具 九十九茄子茶入、白天目茶碗、高麗茶碗、青磁花入など三十八名品を並べ、京の貴族や商人を集め催した「本能寺茶会」は、満足な結果に終った。

さらには夕刻からは織田信忠主従も加わり、酒宴へと移る。

すべては順風満帆に運んでゆく。やがて夜もふけて、信忠が宿舎の妙覚寺へと帰る頃には、随分盛り上がった酒宴もおひらきとなった。信長は大の「茶事好き」であり、また「囲碁好き」だったのです。

(※1 囲碁での終局、どちらでも無い陣地を「ダメ」と言う。その駄目を埋めて勝敗を明らかにするため、さらに碁石を置き続けることを“駄目押し”という。「駄ジャレ」や「駄菓子」も、ダメよぉ~ダメダメ!)

(※2 「もくさん」とは碁盤の縦横にはしる交叉点のこと。確定地の把握と将来的な地目の可能性、盤上に展開した石の裏表などを総合的に勘案し判断する。転じて“物事の企てや計画する意味”となりました)

 

敵を殲滅するのではなく、最後の局面にて“一目多ければ勝ち”なのが囲碁そのために知恵を絞り、想いを巡らすのが「戦略」であり、囲碁の醍醐味となります。

本能寺にいた「本因坊(日海)算砂」なる御仁、いったい何者でござる

 

京、本能寺において、真剣勝負の行方はどんなんかな

 

六月朔※1の夜である。空に月はなく、漆黒の帷が本能寺を包んでいた。

本能寺の片隅にて「本因坊 日海(算砂)と鹿塩利賢」が囲碁対局していた。しばらくすると“盤上に珍しい三劫※2”ができて、決着はつかず“三劫無勝負”となった。

その対局の様子をじっと眺めていた織田信長。やおら立ち上がり日海と利賢に、本能寺に泊ることを勧める。信長のことなので“明日また対局を仕切り直せ”と含めたのかもしれない。

(※1 太陽暦ユリウス暦」では、六月二十日頃)

(※2 これ以降、囲碁世界では「三劫は不吉の前兆」とされるようになった。ただし残された本能寺棋譜には、三劫になりそうな場所はなく“後世の作り話である可能性”が高い)

 

囲碁名人「本因坊(日海)算砂」とは

 

本因坊 日海。永禄二年~元和九年、京都生まれ。京の日蓮宗 寂光寺 本因坊の僧で法名を「日海」と称し、後に「本因坊 算砂」と名乗る。家元 本因坊家の始祖となる※1』

古代からの囲碁は、盤面四隅の星に碁石を配置してから始める「置き碁」だった。十六世紀後半には現代と同じ、自由布石による「互先」が始まる。

(※1 以来、本因坊は代々の世襲制となり、第21代本因坊秀哉まで続きます。昭和十四年、秀哉の引退後は世襲廃止、本因坊は“優勝者に与えられる囲碁の一大タイトル戦”となった)

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黒と白とのせめぎ合い、囲碁

この黒白交互に自由にパチリパチリと打ちはじめる「互先」が考案された天正年間は“織豊時代”であり、天下統一されていった時代でもある。そのためか囲碁でも“戦術法ではなく戦略眼”が重視され「布石」の概念が生まれた。これ、織田信長好みに本因坊日海が「互先」をアレンジしたと思える。

 

名人、本因坊日海(算砂)と信長の関係はどうだったのか?

 

日頃から信長は、日海に囲碁の教えを受けていた。

ある日のこと、信長(下手)は日海(上手)と対局し「五子置き(ハンデ)」打ちはじめますが、まったく勝負にならず軽くいなされてしまったと云う。これに信長は舌を巻き「そちは、まことの名人なり!」と本因坊日海を賞賛した。これが現在も使われる「○○名人」という言葉の起こりとされています。

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本因坊算砂、そちは名人じゃ!

それ以来信長は、日海のことを「名人」と呼び、囲碁の師匠と仰いでいた。しかし明け方には「光秀謀叛の嵐」に巻き込まれることになるのでした。

 

作家 山岡荘八が描く「織田信長」に興味深いシーンがある

 

余談ですが光秀は「算命術」つまり、いまで言う「四柱推命」を嗜んでいたらしい。

それは合戦前に行う“縁起担ぎ”みたいなもので、出陣の日時、方位、場所などすべて占い、もしも“凶”と出たら合戦延期か、とり止めともなった。もちろんこれは「軍配師」いわゆる軍師の役目で、総大将が執うことではない。

この時も光秀みずから筮竹と算木を使い“未来の運命”を占ったとされる。

そして光秀が『上様のご運は、この六月から“空亡”に入らせられる。空亡は十二年毎にまわってくるその人一代の凶運の時ながら、それにあるは上様お一人ではないぞ。光秀はな、すでに去年、今年と空亡のうちにあるのじゃ。それゆえこの間の出来事は一つとしてよい事はなかった。その空亡を脱するは七月半ば、それまでは光秀も、やはり手を拱いて自らの意思では動かぬものと知るが良い』と周りに告げる。

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

 

ここで言う「空亡」は“大殺界”のことで、“自分から動けば自滅する”といわれている。ならばこれ、随分と自己矛盾した話となりますが。そして、本能寺の変は果たして、“明智光秀ひとり”で起こしたものだろうか??

 

昔からささやかれる、黒幕謀略説とはいかに

実は光秀に本能寺の変をそそのかした「黒幕がいたのではないか?」といった「黒幕」謀略説が、昔からあります。主な三つの説をザックリとご紹介します、推理してみて下さい!
 
①朝廷黒幕説

○信長は朝廷側に対して、正親町天皇に譲位を求め、暦の改正(宣明暦を→三島歴に)も要求しました。三職推任(征夷大将軍?)も信長が無視、朝廷は綸旨をないがしろにされ面目を失くした。また光秀との朝廷のパイプ役、吉田兼見の日記は何故か二つあり、書き落としの箇所がある。本能寺の変後には、関与を疑われた前太政大臣 近衛前久が出家(号 龍山)、遠江国まで遁走しました。しかしこれ、なぜ隠棲場所が徳川領なのか?あれれっ??

 

羽柴秀吉黒幕説

○犯罪捜査の基本「犯行により一番得した者は誰か?」それは明智光秀を討って結果、天下人となった秀吉です。秀吉は京での変事を知ると、毛利氏と素早く講和(もっと以前に、既に講和条件は調っていたはず)を結び、即「中国大返し」をしました。その段取りの鮮やかさは、かねてから“準備万端だった”と想われます。毛利軍の追撃戦(これをやれば一方的なボロ勝ち)すらありませんでした。では、秀吉が光秀をまんまと陥れたのか??

 

徳川家康黒幕説

○同盟者である徳川家康は、武田滅亡により“東国方面での存在価値”がおおきく損なわれました。そして信長の招きに応じて、重臣とわずかな供廻りを連れ、京や堺見物に訪れていました。この“危機的状況”を打開するために、家康は“何らかの対抗策”を練っていた。本能寺では⇒「織田側が徳川主従を殺害する計画」だった。その意趣返し、それが「光秀の謀叛」の真意であるとします。その後、光秀は死なず生きていた…何と、マジか??

(注/光秀の子孫という明智憲三郎氏が書いた本“本能寺の変 431年目の真実”)

 

④おまけコーナー 

○最近の黒幕トレンドには「四国政策説」があります。林原美術館で「石谷家文書」が発見された。長宗我部元親が光秀配下の武将、斎藤利三に宛てた手紙です。四国方面の政策担当していた光秀は、この政策にまつわる“軋轢から叛意”を起したというもの。しかし利三や長曾我部氏の先棒を、上位者の光秀が自ら担ぐ意味が分かりません。

 

○推理ドラマ/信長の棺 「真実はいつもひと~つ!」名探偵 太田牛一(松本幸四郎)と、羽柴秀吉(中村梅雀)が怪演します。本能寺の変のトリックとは?! な~る「犯人はお前だっ!…あると、思います<笑」よく出来た小説ですね。

youtu.be

太田 牛一(おおた ぎゅういち)官位は和泉守、通り名は又助(またすけ)。戦国から江戸初期にかけて活躍。また『信長公記 しんちょうこうき』の著者として有名。信長幼少時代から、義昭を奉じて上洛までを首巻、上洛永禄十一年~天正十年までを十五冊、計十六巻にまとめている。確認できる事跡を編年体にまとめ、正確に記している。信長の事績を研究するには、無くてはならない一級史料である。

 

○併せてこちらもどうぞ。「信長しくじり先生」ばなし。

minminzemi81.hatenadiary.jp

 

○次回「信長の首塚?!何それマジで?パート2」へと続きます。 ご期待あれ!

 

参考/山岡荘八織田信長」、歴史人、ウキペディア

(5100文字、You read it, thank you.)

名城「和歌山城の見どころ」決定版!! パート1「お花見(桜と紅葉)の歩き方」ご紹介いたします【観光案内】

白亜三層の大天守がそびえる和歌山城。連立式天守閣という珍しいナワバリのお城です。

徳川御三家のひとつとして、紀州徳川家は五十五万五千石を領しました。和歌山城は市街中心部に位置する、標高約五十メートルの虎伏山に建造され、その天守からは眺望よく和歌山市街を360度ぐるりと見渡せ、北を流れる紀の川、西には紀伊水道が望めその照り光る絶景を楽しむことが出来ます。

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堀端から天守閣を望む

お城見学のその前に、知っておきたいこと

 

交通機関と駐車場について

 

和歌山城の最寄り駅は「JR和歌山駅」と「南海和歌山市駅」になります。

南海和歌山市駅からは歩いて10分ほど、JR和歌山駅からはもう少し離れているので、駅前のバス利用をオススメします。

また車利用の場合、お城の南側三年坂から入れる城内駐車場があります。ここが一番天守に近く便利ですよ。難点は満車になりやすいのです。

 

事前見学の場所としてオススメ

 

大型バス駐車場(和歌山市役所の前)のとなりに、2015年9月オープンした「わかやま歴史館」があります。和歌山城見学のプレ学習に最適ですよ。

二階に上がると和歌山城の歴史と、和歌山出身の著名人についての展示があります。“VRシアタールーム”と“紀州徳川家の金印”がみどころです。

料金 大人100円、小中学生は無料。

時間:9時から17時半まで

📞073-435-1044

 

また同じ館内で観光案内所と観光土産品センターが一階にあり、お土産もの、軽食などを販売しています。ホッと一息いれたい時にどうぞ。

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わかやま歴史館

おもてなし忍者が(どっかに)いる!

 

忍者コスプレのボランティアが、登城の手助けをしてくれます。これは「障害者の方にも天守に登ってもらいたい!」てなことで始まったらしいです。

忍者を見かけたのは「わかやま歴史館」の芝生の所、天守下の広場でも見かけました。とても良い取り組みだと思いました。

○お申し込み・お問合せ…城プロジェクト(月火休み) ☏ 073-435-1044

 

ではでは、和歌山城見どころ案内はじめます

お城を時計周りにぐるりとお城の見どころを巡り、最後に天守へ登楼するコースです。まずは和歌山城の表玄関から入りましょう。けやき大通り、公園前交差点に大手門があります。

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和歌山城MAP

まずはココから、いちの橋です

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大手門、いちの橋

開花は枝垂れ櫻から始まります

 

この門をくぐった右手にとても素晴らしい「早咲きの枝垂れ櫻」がある。まだ肌寒い春先に一気に咲き誇る姿は、大手門の形と相まって随分景色がいいですよ。

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さらにすこし先、石垣のうえからは「大楠」が枝を拡げている。樹齢数百年、和歌山城の歴史を見つめて来た御神木、天然記念物だそうです。

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和歌山城は夜も開門しているので、夜桜眺めブラリ散歩するのもいい感じですね。

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お城の持つ幽玄な雰囲気が味わえます。

 

少しへんかな虎伏像は、とらふすやま

 

和歌山城を別名「虎伏山 竹垣城」と言う。

天守ある山容一帯を海から眺めれば「まるで虎が伏しているようだ」と、見立てて名ずけたらしい。それでコンクリート製「虎伏像」が造られここにあります。

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虎伏像は迫力満点!

まさに「南龍公に虎伏城、龍虎並び立つ!」て訳ですね。これは勇ましいなぁ。ところで、いまや虎伏山どこから観ても、虎には見えないよな?

ん…それはともかく。

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和歌山城桜祭り

この辺りお城の東側エリアが、櫻木も多く屋台も沢山出ていました。なので人口密度も高くなります。穴場情報はのちほど。

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花より焼き芋

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桜が満開ですよ

お城の石垣の上に登って花を見下ろすと、視界が拡がり独特の高揚感も楽しめます。足元に注意しながら石垣にも登ってみましょう。

岡口門近くの石垣の上、この場所が桜花見の穴場スポットですね。

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表坂過ぎ南へ向かうと、ずいぶん古い門構えが待っています、岡口門です。

 

武骨な顔、岡口門(重文指定)ですよ

 

浅野時代までは、この「岡口門」が大手門でした。戦国時代の気風がある、戦闘的で重々しい構えをしています。いまも往時と変わらぬ姿で保存されていますね。

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元々はこの門の両脇に櫓が並びたち、後背には桝形に武者だまりが控え、さらに奥には松の丸の高石垣大櫓が遥か上から睨みをきかしていました。

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まるで野武士の面構え岡口門

そして大水堀(何と最大幅73メートル!)と空堀で挟むカナメの位置に、この岡口門がありました。そう考えてみるとこの場所、お城の防衛にずいぶん重要視されていたのか良く分ります。

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堀幅73メートルもある

浅野期に大名行列ルート変更に伴い、北の一の橋が大手門となりました。その意味とは「戦の門」から「儀礼の門」に移り変った訳で、時代性を城門が表していると想います。一度、岡口門を出て振り返って観てください。

きっといい写真が撮れますよ。こんな感じです。

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岡口門外からの眺め

楽しい童話園・水禽園がある南の丸エリア

 

南の丸には動物園(童話園・水禽園)があります。お城のなかに動物園があるのは、全国的にもかなり珍しいものです。お城と動物園とのコラボ、しかも入場無料なのです。いいですね。

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動物園へとむかう道

ファミリー層にはオススメのエリアです。人気のゾウやキリンはいないけれど、お城巡りの癒しのスポットとなっています。

さらに動物園のすぐ西側には「一般駐車場」があります。城内に駐車場とは何とも無粋で頂けない話だが、車利用者には便利でありがたいですね。

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家族連れで賑わう童話園(動物園)

天守閣への昇り口は三つあって「表坂」に「裏坂」と「新裏坂」があります。それぞれ表情が違い面白いのだが、最短で登れるのがここにある新裏坂。江戸時代にはなかったものです。

延々と石の階段が続き…いっきに登るのは、すこしつらいな。やはり表坂か裏坂から、ゆるゆる登るのがオススメですよ。

駐車場の入口にあるのが「南の丸高石垣」です。

 

お城好きにはたまらない南の丸、高石垣

 

和歌山城がある場所は、基本地盤が岩山であり南西が砂地というあまり築城には向かない場所。この「南の丸」あたりは小高い砂丘だったようで、それで城の南側の堀切は断念したようです。空(水?)堀を巡らし微高地にこの高石垣(23.4m)を築きました。

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南の丸高石垣

和歌山城での一番の高石垣と謂われ、さらに高層矢倉(二層か?)がうえに載っていたそうです。「不明門(あかずもん、と読む。普段は開けることがなかった)」を護るために厳重に守りを固めたらしい。

その訳は万がいちの落城時には、ここ不明門が退き口であったらしいのです。

そしていよいよ事態切迫…不明門より間道をつたい南方面(寺町筋)へ逃げのび、海路にて徳川菩提寺の長保寺(別名徳川腹切り寺)まで、タッタッタッと走る殿様!

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岡口門のあたりから三年坂望む

こりゃ「何ともタイヘンですねぇ」でも、そんな事態におちいることは、歴史的には一度もなかった訳ですが。この不明門も長い間、開くことは無かったのでしょう。

 

また、この前の道路は「三年坂」と呼ばれています。

いまはかなり切り通されて広くもなったが、往時はかなりキツい難所だったそうです。もしこの坂で転んだら何と「三年以内に死ぬ!」そんな謂われもあった場所です。

このエリア、城マニアの方必見ですよっ!

 

少し静かな護國神社と刻印石垣に注目

 

このあたりは櫻木多く、シートを拡げてのんびり花見を楽しめる場所。ひと気も少なく穴場ですね。小さな子供が散る花弁を、追いかける姿は微笑ましいね。 

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ファミリーで花見が今風かな

気になるのはこのあたりによく見かける刻印のある謎の石。

時代によって石垣の積み方も変化しますが、この辺りの石は豊臣・浅野時代に刻印されたものです。その紋様は約170種類、2,100個以上の石に確認されている。これの意味することとは、いったい何なのか。定紋のある石垣は多くの場合「天下普請(担当部署)」を表しているらしいです。しかしこれは…やはり謎なのです。

次は砂の丸へ続きます。

 

お城の西側、砂の丸・追廻門がある

 

砂の丸とは文字どうり砂丘部を取り込み、周囲を高石垣を築いたのです。この門の外側で乗馬の追いきりをやっていたといいます。それでこの赤門の名前が「追廻門(おいまわしもん)」と名ずけられた。藩士の武術鍛錬の場所だったのですね。

いまはその場所には、国道四十二号線が走っています。

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追廻門を外から眺める

城郭西側防備のためにきつい勾配の高石垣を、巡らしたのと対照的な優雅な赤い高麗門は何か違和感を覚えますが、それはこの場所お城の裏鬼門にあたり、風水的な意味(鬼門封じ?)でのことらしいです。

これ朱塗りなので、婚礼門だったかもしれませんね。

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赤門、追廻門

門内側の、砂の丸広場には、藩の勘定所が置かれていたそうです。砂の丸から鶴の溪へ石段を降りていきますと、美しい紅葉溪庭園がありますよ。 

 

紅葉溪庭園・紅松庵でちょっと休憩しますか

 

ここ「紅葉溪庭園」は名前どうり“モミジの名所”です。

晩秋にはとても美しい風景が楽しめます。お濠を取り込んだ大名庭園は、かなり珍しいものです。こちらは是非、秋に訪れてみて下さい。

時には蒼く、刻には紅く、静謐(せいひつ)な時間が流れる見事な作庭ですね。

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秋の紅葉溪庭園

また庭内にある「紅松庵」は数寄屋造りの武家風茶室。

昭和四十八年、和歌山市出身の故松下幸之助さんが寄贈してくれたそうです。紅葉渓(もみじだに)の「紅」と松下氏の「松」から命名されました。

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紀州藩では表千家宗匠が代々茶道頭を務め、歴代の藩主は茶道に造詣が深かったそうです。また、十代藩主徳川治宝表千家皆伝であったとか。

茶室からの庭園の眺めはとても素晴らしく、ゆったりと茶事を楽しむことができます。

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紅松庵茶室

和服姿の女性が、抹茶を点ててくれます。

立礼水屋点てなので、どなたでもお気軽にどうぞ。

○抹茶、菓子付き…460円です。

時間:9:00〜16:30

年中無休(12/29~1/3は休み)

 

殿様気分で御橋廊下を渡ってみる

 

二の丸と西の丸を繋ぐこの「御橋廊下」は、藩主とその側近だけが渡れる“秘密の廊下”として使われました。

ですので殿様の姿が見えないように厳重に囲いがされています。この約11度の角度がついている傾斜橋は、かなり珍しいものです。匠の技お見逃しなく。

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入口(東口と西口があり)で、履物を脱ぎます。備え付けのビニ袋に履物を入れ「さぁ、参ろうぞっ!」廊下は傾斜して滑りますよ。

でも大丈夫、廊下には突起細工が等間隔にあります。すると若竹踏み運動の感覚に「あぁ、足が痛いですっ!」日頃の不摂生が、思い知らされた訳なのですね。<笑

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傾斜ある御橋廊下

案外健康に良いのかも知れません 。このアクティビティは無料なので記念に、何度も往復してみましょう。

 

二の丸庭園を探ってみると

 

ここ「二の丸」は、初期紀州藩の政庁と、住居のあった場所。

東側から、表御殿、中奥、大奥と絢爛豪華な建物群がこの場所に、みっちみちに建っていたらしいです。

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この道の左側に二の丸庭園が拡がる

しかし、明治初期(廃藩置県)と続く大戦末期(B29無差別爆撃)に、殆ど全ての建築物が喪失してしまう。

いま残っていれば間違いなく「国宝級※」なだけに、次々と喪われていったことはホント残念ですね。

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花見の会場にはうって付けですね

在りし日の様相は、想像するしかないのだが探ってみると、わずかながら井戸や建物跡の痕跡があります。つぎに二の丸御殿の秘話です。

(※天守が昭和十年(1935)国宝に指定されている)

 

<紀州御殿の数奇な運命>

紀州御殿」と呼ばれる巨大な屋敷が、二の丸にありました。

明治十八年、和歌山城二の丸にあった紀州御殿は、大阪城本丸に移築され陸軍の第四師団が紀州御殿を司令部として使用しました。

昭和七年、陸軍特別大演習の際に紀州御殿に昭和天皇行幸があり、その翌年に紀州御殿は「天臨閣」と改称された。

昭和二十年八月十四日、大阪大空襲。B29の集中的な爆撃(東側に軍需工場があった!)を受けたが、紀州御殿は“奇跡的に被害をまぬがれ”大戦を生き抜きました。

敗戦後はGHQに接収され、昭和二十二年になんと!占領軍の失火により、天臨閣(紀州御殿)が焼亡してしまう…あぁ~何てことっ!

 

<紀州徳川家の大奥とは> 

いまに残る「二の丸大奥 絵図面」を見ますと、大規模な建物群があったようです。

この一角は殿様以外は全員が女性。ひしめき合って暮らしていたのです。御局様の部屋がまるで、アパート部屋みたく連続していますね。

「きっと、何かと、タイヘ~ンだったろ~なぁ<汗」と、同情してしまいました。でも凄いことだな…大奥があるなんて、さすが紀州徳川様ですね。

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いまは植樹と庭石が置かれ公園化されています。花見客がお弁当食べたり散策するのに良い、市民憩いの広場となっています。 

 

はい、これでぐるっと一周お城を廻ってきましたよ。

 

次は「空から和歌山城を見てみよう」くもじいじゃ、嘘じゃ…☁☁

Youtube

 

<おまけネタ!> 階段を登るエイリアン?!

 

ところで「コビトに見える木の根っこ」テレビなどで何度も取り上げられ、ご存知の方も多いみたいですが、場所が判らずスルーしてしまうらしいです。

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石段を登るコビト?!

その場所は、二の丸庭園から天守閣へむかう裏坂すぐに、管理事務所がある。その右手側、石垣階段途中にあります。

階段下でしゃがみ見上げるように観ると…「コビトだっ!」発見 ☺ピース!

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裏坂最初はゆるく徐々に急になる

さあ、この裏坂から「本丸天守」へとむかいましょうか。

 

そして現代の和歌山城天守台には

 

天守から時計回りに多門、天守二之楠門、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと繋がる連立式天守がドドーンと建つ。

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和歌山城 望遠

回廊部にまで石落とし、鉄砲狭間まで設け「武張った城」であることを遠目にもアッピールしていますね。

天守へと通じる小天守にある玄関は、雅な唐破風の御殿入口で、案外写真映えがしますよ。そうインスタばえですね。

興味深いのは、不等辺四角形の天守台(基壇の面積は2,640)のカタチです。一層目は方形ではなく上に載る二層目から方形になる。一層目の屋根や軒先が、上層部と若干ずれる“歪み現象”が観れます。こういった「見えない所まで工夫を凝らす」ところに、和歌山城の心意気が感じられますね。

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繰り返す歓びと哀しみ、これが天下人を育んだ城の意地なのか

 

和歌山城天守は二度の火災に遭ったが、その都度蘇った。

弘化三年、天守に落雷し炎上する。そして嘉永三年、日本で最後となる天守が完成する。黒船来航の三年前のことでした。昭和十年に天守は国宝に指定される。しかし、大戦末期に空襲でまたも灰燼と帰す。

現在ある天守は、戦災後の昭和三十三年(1958)に鉄筋コンクリート再建された三代目で、建造物内部には紀州徳川家ゆかりの品が博物館のように多数展示されています。

紀州人の大きな誇りでもあり、時には嫌悪すべき対象でもあった和歌山城は、いまは静かに佇み時を刻んでいます。

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和歌山城天守

料金:大人410円 小人200円
9:00〜17:30(入館は17:00まで)
年中無休(12/29 - 12/31 は休み)
☏ 073-422-8979 

 

○より詳しい歴史“和歌山城情報”は、こちらに続きます↓ご覧下さい。

minminzemi81.hatenablog.com

  

和歌山城 再建こぼれ話 

和歌山城天守は昭和二十年に焼失し、その後市民の力によって昭和三十三年にコンクリート再建されました。

その和歌山城再建の時には、松下幸之助さんが“最も多額の寄附”をした。市の側でも松下側の寄附を期待して「二ノ丸」の復原を依頼しようとしたが「寄付するので天守閣に“ナショナルの看板”を掲げさせてほしい」と和歌山市に打診したという…さすが、幸之助はん!!

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岡口門外からの眺め

はや再建六十周年になります。なんでも現状のCR構造の寿命や耐震構造に問題があるとの話、やはり木造での再建を検討すべき時と想いますね。

 

和歌山城関連のお勧め観光名所として

和歌山市南部地域/紀州東照宮、不老橋、養翠園、番所庭園などがあります。いずれも紀州徳川家、縁の名所ですよ。

城郭内 近隣施設/三の丸跡には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。

 

参考史料/和歌山市観光協会HP、和歌山市立博物館、和歌山市教育委員会ニュース和歌山、ウキペディア

 

(6700文字、You read it, thank you.)

明智光秀が愛宕山にて決意表明しました。ホントですかぁ?!『愛宕百韻』について【歴史考察】

2020年の大河ドラマ麒麟がくる」の主人公 明智光秀本能寺の変は「永遠のミステリー」と呼ばれ、歴史ファンを引き付けます。光秀が愛宕山で初めて「謀叛の意思表示した」と云われています。

<愛宕百韻 あたごひゃくいん> ときは今 あめが下知る 五月哉

 

天正十年五月二十八日※1は「愛宕山※2連歌会」が開かれた日。連歌は「発句、五七五に続き七七を付け、七七を受けて五七五…」と続けて詠みます。

そして「百句をもって、ひとつの作品」となし、これを「百韻」と呼ぶ。この「愛宕百韻」の連歌、殆どが暗号文のような“隠喩※3の連続”なのです。

後に、この時の発句が「光秀が反乱を表明している」として一躍有名になりました。通説どうりに“謀叛意図があった”として、少し考察してみます。

(※1 ユリウス暦になおすと六月十八日頃となる、梅雨のさなかでした)

(※2 愛宕山右京区嵯峨愛宕町にある山、標高924メートル、丹波山地で突出した硬岩。山頂には、朝廷の火難除けの信仰「愛宕神社」があり、山腹には「月輪寺空也の滝」などがある)

(※3 メタファー、暗にそれとなく伝えること。比喩表現の一種)

 

里村紹巴以下九人が、「愛宕山威徳院」にて巻いた百韻

また謀叛とは別に、光秀の中国方面への出陣前なので“暗黙の了解”として戦勝祈願を“言挙げ”したはずです。こちらは、まず間違いないと思います。そんな微妙な空気を踏まえて、愛宕威徳院において歌詠みが始まったのでした。

 

百韻は、最初の三句、発句、脇句、第三、あと最後の挙句、この四句が大事らしいのです。これらにより、云いたいこと(裏意味)を言い切ってしまうとか。

これよくわかりませんが、素直に(うわツラだけで)考えれば中国戦線「備中高松城攻め」を描写、その戦勝を言挙げしていると想えますね。

そのこと一応踏まえつつ… 

 

①先ず明智光秀が、発句「ときは今 あめが下知る 五月哉」と詠みました。

これのワタシの解釈は…

「とき」→「土岐氏、光秀の出自」

「あめ」→「天、天皇

「下知る※1」→「下命」

意訳すると「土岐氏※2(光秀)に天皇が、御下命された五月」

(※1 実は「あめが下知る」→「天が下なる」で、改ざんされたというもの。とりあえずここでは、従来解釈の下知るとしておきます)

(※2 土岐氏鎌倉時代から江戸時代にかけて、美濃で栄えた名門武家清和源氏系)

 

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②次に威徳院行祐が受けて、脇句「水上まさる 庭の夏山」と詠みました。

ワタシの解釈は…

「水上」→「物事の始まり、神」

「まさる」→「勝る、勝利」

「庭」→「朝廷」

「夏山」→「愛宕山

意訳すると「神の愛宕山より、朝廷(京)へ流れ始めた」

 

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③里村紹巴が受けて、第三「花落つる池の流れをせきとめて」と詠みました。

ワタシの解釈は…

「花おつる」→「桔梗の花弁」

「池の流れ」→「時代の流れ、巨椋池か」

「せきとめて」→「関とめ」

意訳すると「時流を関止め、桔梗紋(光秀)は“花”を落とす」

(※京都南部に巨椋池(おぐらいけ)という巨大湖があった)

 

明智光慶が百句目、挙句「国々はなおのどかなるとき」と詠みました。

ここでまた発句の頭と同様に「とき=土岐」が登場します。百韻が一周した訳です。「国々はなお のどかなるときは 今 あめが下知る 五月哉」と愛宕百韻が、完結した。

しかし…この句もやはり何やらおかしい。戦乱のさなかに国々は「のどかなるとき」とは、いったいどういうことなのか?時制はいま、天下泰平とは?

 

さらに穿った見方をしてみればこうなるのです

 

また、③+②で「花落つる 池の流れを せきとめて 水上まさる 庭の夏山」とイイ感じの成句となる。

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~水上まさる 庭の夏山

まとめて超訳「惟任光秀に天皇が、御下命なされた五月。いままさに愛宕山より、朝廷の時代へと流れが代わり始めた。織田の流れをせきとめ、桔梗紋は“花”を落とします」

ひらたく言えば「ミッツーがこれから首とって、織田軍団を止めようとするんやろ。ほならな、上流の関所(山崎関)あたりに陣取れば、勝てるんちゃいますかぁ?」言うことですかな。

しかし、いくら何でもそこまで言うのか??やはり、おかしいのである。

(※この場所は古くから、交通の要衝で「山崎関」が設置されていた。京より警固の兵が派遣された) 

 

結論を出すその前に、この妙な歌を再考する

 

もしこれが本当なら光秀さん以下、そーとーな“アホタレ”としか言いようないではないか。そ~だよ、叛意がバレバレだから、ねぇ~?!

だいたいやね、ワザワザ犯行予告までヤラかして、誰得なんだよっ!

第三「花落つる池の流れをせきとめて」例えばこの歌「備中高松城水攻め」の落城描写に思われますが、それが妙なのですね。

五月二十八日の時点で、いまだ城主清水宗治高松城は水没ながらどちらも健在、もちろんその後、六月四日にようやく城主切腹決着となり羽柴秀吉、自慢の手柄話がまたもや増えた。

歌詠み時、横に居並ぶ明智光秀を差し置いて、秀吉褒めするのかぁ、紹巴はん?それは、ナイナイ。ありえな~い。

もちろん真実は藪の中、推測する以外にないのですが…例えば、政権奪取に動き出した羽柴秀吉が「愛宕百韻」のことを知り、里村紹巴あたりを呼び付け“歌の改竄”を命じたのではないか?そして黄金十枚ほど、目の前に積み上げ「ほれ、推敲を加えよ」と…充分あると思います!

よって結論、愛宕百韻は…

「時の権力者秀吉により改竄されたもの」である。これは、まぁ間違いないっ!

 

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では、明智光秀のオリジンは…消されてしもうたか。悲しい話だなぁ。

その代わりに萬葉集より朝顔の一句を。

万葉集のなかで「秋の七草」と歌われている「朝顔の花」は、実は桔梗なのです。明智光秀は桔梗を家紋とし、こよなく愛したらしいです。

朝顔は  朝露負ひて  咲くといへど  夕影にこそ  咲きまさりけれ

桔梗は朝露にて咲くというが、夕陽でこそ一層その美しさが際立つのです。(萬葉集 10-2104 詠人知らず)

 

[愛宕神社]は、こんな場所

愛宕神社の場所は、朝日峯の頂点に位置する。古来より平安京における「王城鎮護、火伏せの神」とされてきました。

○祭神は本宮に稚産日命、植山姫命、伊弉冉尊天熊人命豊受姫命の五柱。若宮には雷神、迦遇槌命、破元神の三柱が祀られています。

○住所 京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1 京都バス「清滝」終点、下車、参道を徒歩にて約4km 専用駐車場があり、拝観は無料。

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愛宕山 赤ピンが愛宕神社

何かと“謎”が多い明智光秀さん。しばらく考察続けたいと想います。 

 

(2600文字、You read it, thank you.)

乾坤一擲 大坂夏の陣!! 史跡 「茶臼山公園本陣跡」にて「大坂夏の陣 家康死亡説」なるものを知る。 大阪 天王寺【歴史案件】

ここは大河ドラマ真田丸」で一躍有名になった、大阪は阿倍野にある茶臼山(ちゃうすやま)古戦場です。この茶臼山公園には何と山頂標柱があり、一応は山であるらしい。しかし以前には「茶臼山古墳」と呼ばれていたのでは、なかったか?

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茶臼山本陣跡 石碑
また取り囲む池には“和気清麻呂”に因んだ「わけばし」と云う、何だかワケありみたいな赤い橋も掛かっている。いまは、“都会の中のオアシス”といったところです。

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池には噴水があり通天閣も見えます

家康は「大坂夏の陣」で、すでに亡きものになっていた説

 

コアな歴史ファンならご存知かも知れません。大坂夏の陣にて、あの徳川家康が戦死していたという「衝撃的な事件」を!?

(※いや若干、“怪情報気味”ではありますが、それはソレ。怪情報のウラをとるとは、かなりクレイジーな試み‪w)

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公園には真田信繁の活躍を伝える看板があった

よく聴く「家康影武者説」は、正しいか精査しましょう

 

ハイ、歴史では“狸おやぢ”こと家康さんは、元和二年四月十七日に御歳七十五にて、駿府城で亡くなった。これは史実ですね。

アウトドア活動中に「鯛の天ぷらの食い過ぎ」で、あまりの旨さに昇天してしまったのです。これが俗説。

実はですね…この時に死んだのは“影武者の方”で、本物の家康はその一年ほど前おきた「大坂夏の陣」で、すでに亡きものになっていたと云うのです。

マジですかぁ?なんか“怪しい臭い”がプンプンしますよぉ~。

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此度の戦は三日の腰兵糧じゃ

この影武者に符合する人物は「小笠原秀政が家康の身代わり」になったという話が伝わる。家康は戦場で度々、“影武者を使った”らしいのです。

もう家康は爺(七十四歳)だからね、戦場は辛いツラい。

この小笠原秀政は「大坂夏の陣」に参陣し、榊原康勝※1に従って「本多忠朝※2を救援」する。しかし茶臼山の攻防で、豊臣方 毛利勝永隊の猛反撃を受けて、忠朝は早くも戦死をとげる。浅野長重隊も敗走、徳川先鋒は潰えた。

また秀政もこの時“瀕死の重傷”にて戦場を離脱するが、こちらも間もなく“戦傷により死去”したと歴史は伝えています、が…この時、最前線にいた小笠原秀政が家康と入れ替わっていたとは、やはり考えずらい。

(※1 榊原康政の三男、榊原家二代当主。大坂冬の陣では“痔が破け大量出血”した。さらに大坂夏の陣ではさらに病状が悪化した。何と鞍壷に血が溜っても戦い続けたとか。そののち、五月二十七日に京都にて病没したと云う)

(※2 本多忠勝の次男。大坂冬の陣にて“酒のために不覚”をとり敗退した。それを家康に誹られた忠朝は、続く大坂夏の陣で汚名返上とばかり先鋒務め呆気なく戦死。墓は「一心寺」境内にあり「酒封じの神」と祀られている)

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徳川方は大坂城を南から攻めた(出典 ウキペディア)

△徳川方は大阪城南方に集結し、その兵力約十三万。大坂城南、街道筋より力攻めの布陣。

対して豊臣方の兵力は総兵力四万強。前軍として茶臼山真田信繁が、四天王寺門前に毛利勝永が陣取る。岡山口には大野治房、全軍の後詰に大野治長紀州街道、三ッ寺に別働隊の明石全登が伏兵しました。

豊臣方の主な作戦は、徳川方を四天王寺の死地(丘陵帯)に誘い込み分断混乱させ、布陣が南北に伸びきって家康本陣が手薄になったところを、明石全登の別働隊が海側から迂回急襲する。さらに全軍総攻撃は、総大将の豊臣秀頼も出陣する手筈になっていました。

 

次に真田信繁(幸村)さんの闘いぶり、検証してみましょう

 

家康といえば、大坂夏の陣真田信繁に大きく本陣を崩され、死を覚悟した話」は誰もが知るハナシ。

それでは真田信繁に首をとられていた可能性があったのか?!

慶長二十年五月七日正午頃。大坂方の敗北は濃厚となり、茶臼山本陣にあった信繁が叫ぶっ「狙うは家康が首、唯一つ!!」いよいよ乾坤一擲の大勝負が始まる!! パパンパン! (机叩く音)

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「関東勢百万も候へ、漢はひとりもいなく候」

おりから家康本陣は、平野から住吉街道の北を通過し、越前兵の後詰へと陣を押し上げていた矢先。総大将の家康、「籠に乗りまったりと移動」をしていました。

その時、目前の越前兵をバッサリ切り裂くように突き崩す、赤備えの一隊があった。そして徳川旗本が守る家康隊の横腹に、ドォドッ~と雪崩込んだ。

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三角点(26M)標柱がある

△慶長十九年「大坂冬の陣」で徳川家康が、本陣を構えた場所なのです。藍色の三つ葉葵の紋入り!ここが標高26メートルの山頂です。

 

三河物語によれば家康本陣は、大崩れにくずれたと云う

 

大久保彦左衛門忠教が『三河物語』に、家康本陣の崩れる様を記している。ついに「厭離穢土 欣求浄土」の宝幢の旗幟も崩れ、後方に退く家康を旗奉行が見失った。

御陣衆のなかには、三里(12キロ)も逃げた者もいた。そして家康は小栗正忠とたった二人で、本陣に取り残されていた。三方ヶ原以来の大崩れ、まる裸同然となった本陣周り。

真田信繁は家康を執拗に狙い三度も攻めかかったが、前日からの連戦で疲労激しく、ついに信繁は馬を返し立ち去った…あれ―、なんでぇ??

omg…「Sanada Come back!!」

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お好きな方が選べるリバーシブル対応

△慶長二十年「大坂夏の陣」では、この遺構を逆に利用して眞田信繁が本陣を構えました。これは真田の六紋銭ですね、メラメラ萌えまする!

 

家康は大坂夏の陣で斃れ、堺市の「南宗寺」に葬られた

 

民間伝承では“違う事”を伝えている。

阪堺にある「南宗寺」お寺の瓦には“三葉葵の御紋”が付いており、徳川家と関係のある古刹であったらしいのです。

現在の墓石の銘は「東照宮 徳川家康 墓」とあり、開山堂の扁額には、「元和九年七月十日に徳川秀忠が、また八月十五日に家光が寺を訪れた」と記載されています。

家康の墓は「南宗寺」に“確かにいまも存在”しています。また墓標横には幕臣 山岡鉄舟筆による「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文が残っている。そしてかつてはここに、何と「東照宮?!」があったらしいのです。

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東照宮は日光だけではなかった?!

そのあたり気になったので「日光東照宮」を調べてみました。

<東照宮HPより>

『…家康公は元和二年四月十七日、駿府城(静岡県静岡市)で七十五歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。

そして御遺言により一年後の元和三年四月十五日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は同年四月十七日、二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに「東照社」として鎮座しました。

その後正保(しょうほ)二年、宮号を賜り「東照宮」と呼ばれるようになりました。尚、現在のおもな社殿群は三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)十三年に造替されたものです』

ふ~むふむ…何とな!当初は「日光東照社」だったのか。そののち三十年も経ってから、神格アップグレードして「東照宮」となったとは、意外だった。この後、日本各地に東照宮が雨後の筍のように出来ていったという。

(※元和九年の夏、将軍がこの場所を訪れねばならなかった理由。二代秀忠から三代家光への代替りの年であった。そのことの報告と祈願と思われます。しかしなぜ…堺なのか?!)

 

遺された文献に、一連の伝説経緯が書かれていた!

 

寺伝『南宗寺史』には『本堂と庫裡の間に東照宮の廟あり。その傍らにあるは照堂にしてすなわち開山堂なり。堂の床下に無銘の塔あり。安国院無銘塔という。これなん疑問の塔なり』とある。

さらに『元和元年大坂の役に徳川家康は摂津・河内両国の境なる平野に陣せしが敵雷火を放ちてこれを襲う。いわゆる平野の焼打ちこれなり。家康僅かに免れて葬輿に乗じ遁れて和泉の半田寺山に至る。後藤又兵衛基次の紀州より帰り来たれるに会す。基次これを認め怪みてその輿を刺す。彦左衛門驚きてその槍を斫る。基次顧みずして去る。而してこれがために家康は戧を負いて終に起たず』大阪府 全志」巻之五、大正十一年刊行

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後藤又兵衛 見参いたす!

この話をつなげると、平野郷あたり(下地図↓)で「地雷?攻撃」を受けた家康はんは、あわててカゴに乗りスタコラサッサと逃げだしました。

すると後藤又兵衛が南より突然現れ、カゴをイキナリ「槍でひと突き」する。さらに、この難を逃れて堺へ落ちのびてゆく。

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爆発のあった樋尻口地蔵

カゴを開けてみると、家康はすでに息絶えていた。「う~わっ、えらいこっちゃ、どないしまんねんな…こりゃ、かなんなぁ」<なぜ大阪弁?

それで、ひとまず亡骸を「南宗寺の開山堂」の下に隠した…てな話ですね。ありゃま、あっさりと家康はん、死んどるやんかいさコレ。

▽赤ピン、南宗寺/なんしゅうじ 臨済宗大徳寺派で三好氏の菩提寺大坂夏の陣では、堺の町と共に焼失した。元和五年、当時の住職 沢庵宗彭(たくあん漬けで有名)により現在地に移転、再興されました。お寺は、大仙古墳の近くにあります。阪堺電車 御陵前駅下車すぐ。

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南宗寺 周辺地図

 

何ですとっ、襲撃を裏付ける物的証拠が揃っているとな

 

そしてこの話を“裏ずける遺物”が何と「日光東照宮」に保存されています。家康が「大坂夏の陣」で使ったと云う「網代駕篭(日光東照宮宝物館収蔵)」なのです。

三つ葉葵紋をあしらった駕篭には、何と“屋根に槍が貫通した穴”がきれいに残っている。これが“後藤又兵衛の槍が突き刺し”出来た跡だったのか。

江戸時代を通じてこの駕籠を観ることが出来たのは、徳川宗家、御三家御三卿の他は、誰も許されないことだった。

う~む、とても“意味深”な話ですね。これな…!

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あべのハルカスと赤い和気橋

しか~し、この話には致命的な欠陥がある。聡明な皆さんは、もうお気づきですね。

「そーなんです川崎さん、A地点からB地点に行くあいだに…」もとい。

この話のおかしな点は⇒「後藤又兵衛の槍に突かれ」この家康の駕籠を槍で突いたとされる後藤又兵衛本人は、前日の五月六日の「道明寺の戦い」で伊達軍の猛攻撃を受け“討死にしている”ので、家康の駕籠を攻撃するのはそもそも不可能なのです。

そして南宗寺の場所も⇒「違っちゃってるよね問題」寺伝には「大坂冬の陣で焼失する。その後、住職であった沢庵宗彭が元和五年に現在の場所に再建した」とあり、大坂夏の陣以前、南宗寺はいまとは別の場所※1 にありました。

「それな、ドヤねんなぁ~!」…んだよぉ、ガッカリだぜ。

槍を突き刺したとしても“後藤又兵衛では無い”のは確か。どうせなら「毛利勝永※2 配下の者に槍を突かれる!」として欲しかった!いちばん可能性があったからね。

(※1 しかし、家康が“落命した場所”に後、南宋寺を建てたとも考えられるので、なんともかんとも)

(※2 森吉成の嫡男、森吉政。父と共に、豊臣秀吉に仕えた。その当時、森から毛利へ苗字変更、ややこし。夏の陣では“天王寺口に真田信繁と並び布陣”した。闘い始まりすぐに本田忠朝、小笠原秀政らを撃破、そのまま力押しにて家康本陣めがけ疾風怒濤一文字に切込んでいった!! 高名な真田信繁がいたために相対的に不当評価される。しか~し、天王寺口の戦いでは“毛利勝永が最大最高の殊勲者”である!もっかい書いておく、毛利勝永が最大にして最高の…)

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通天閣を赤く染め夕日が落ちる

○推奨本/司馬遼太郎著『城塞』大坂の陣に至る“あらまし”が判りますよ。

○参照V/テレ東/「新説 日本ミステリー」歴史ミステリー 家康は二度死んでいた? - YouTube  (※天下のテレ東の番組なので“閲覧ご注意”ください)

 

無情にも日は傾き、やがて通天閣に火が灯る

 

さぁ~て「じゃ、串カツでも喰いにいくべぇ~!!」我々は茶臼山をあとに、ジャンジャン横丁へと進軍を始めるのでありました。めでたし、めでたし。

 

茶臼山(古墳)公園の解説

四天王寺の南西に立つ茶臼山は、五世紀ごろの「全長200m近い前方後円形古墳」であるとされている。しかし1986年の発掘調査結果によれば、古墳に欠かせない葺き石や埴輪が全く見つからなかった。

○しかし規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳ではないとも断定できず専門家の間で議論が繰り広げられ、結論にはいたっていません。

 

○交通アクセス

○「Osaka Metro御堂筋線 谷町線「JR天王寺駅」より徒歩約 15分

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茶臼山本陣跡 周辺地図

参考/Osaka info、大阪観光局、ウキペディア

 

(5000文字、You read it, thank you.)

紀州街道をゆく(1) 古寺巡礼 あじさい寺で有名「長慶寺」を往く【お墓まいり】

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生憎の雨模様が続くゴールデンウィーク

 

いまは四月の終わり、ワタシは曇り空を眺めながら考えていた。 

平成時代最後に、すべきこととは何か?!

「う~むゅ、そ~だっ!」ふと思い立った。そう、思いたったんだから仕方ない。このGWを利用して、菩提寺にでも息子を連れて行くか。まだ連れていったことがなかったからね。

我が家の菩提寺は、近年アジサイ寺とも呼ばれ多くのカメラマンで賑わうようになった、真言宗 泉涌寺派の「長慶寺」さん。

泉南市街を一望する丘の上、はるかに関空島や淡路島を眺める、良い場所にあります。

 

ではでは、南海電車に乗り、出発進行!

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ただいま電車で移動中

我々は南海樽井駅に降り立った。駅前からコミュニティバスがあるはずだが…運行表を見ると「はい~!?」

何てことでしょう、次のバスを“一時間半”も待たねばならない?!“ゲバゲバ90分!”←古い、昭和テレビ史を知らないと!

「えー冗談じゃないよ、待ってられませんよぉ」その距離にしてだいたい二キロ位かな。とりあえずてくてく、歩くことにした。

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途中にある「君ヶ池」で休憩

しかし、思った以上に遠かった…。坂道だった…。甘かった…。

 

紀州街道 信達の宿です

この紀州街道の信達の地は、ワタシが生まれ育った場所。なので懐かしい思い出が蘇る。実家があった場所(いまはもう家もなくなったが)で、写真を撮ってみる。子供の頃遊んだ地蔵堂と棗の木がある。その横には「泉南石綿の碑」がありました。

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泉南市 信達牧野

泉南地域は社会問題となった「アスベスト被害」がとても多かった地域。石綿紡織産業が盛んだったので、工場従事者やその家族にも石綿被害が及びました。この碑は、“国の責任を認める判決を勝ち取った証”として建立されたものです。

生まれ故郷というものは、なんだか感傷的になりますね。子供の頃、これは大きな道だと思っていたがいま見れば道幅、車がやっとすれ違える程度しかない。

そのぶん自分が大きくなったからかな。

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歴史街道としてイメージアップ

江戸時代には紀州藩の参勤交代が、ここ信達で宿泊しました。

旅程「和歌山城出発⇒山口⇒雄ノ山峠⇒山中⇒信達宿 到着」紀州徳川家は御三家で見栄張り殿様、その行列は四千人にもなり、この街道筋に延々と長蛇の列をつくった。

鞠と殿様『♪表の行列 なんじゃいな 紀州の殿様 お国入り 金紋先箱 供揃い 御駕籠のそばには 髭やっこ 毛槍をふりふり ヤッコラサの ヤッコラサ』しばし想像してみる。

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紀州街道に並んだ宿場町

夜間も街道をゆく旅人のために、明かりを灯したと伝わる石燈籠『常夜灯』がありました。この風合いがたまりません。時代が移り平成になっても灯り続けたといいます。

燈籠は「紀州街道」と「信長街道」が交差する辻に建っています。この信長街道※1は、織田信長が雑賀攻めのおりに整備されたものとか。

一説によれば、この時の織田軍団は総勢十万人※2。それがこの街道筋にわっと殺到したと云うのだから、もうこれでは住民はたまりませんね。

そしてここ信達の宿に、信長は本陣を定めた。この地で織田軍団をふた手に分け、紀州街道浜街道紀州目指し南下していった、そんな歴史があります。

(※1 泉南市の信達で紀州街道から分かれ下出、黒田、鳥取辺りで浜街道と合流する斜め道。天正五年、織田信長が軍用道路として整備したので、この名がついています)

(※2 浜手の将は、丹羽長秀滝川一益明智光秀・蜂谷頼隆・細川藤孝筒井順慶など、山手の将は、佐久間信盛羽柴秀吉堀秀政荒木村重・別所長治・別所重宗…まるで天正織田軍団、オールスターキャスト大集結の巻)

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いい感じにあった石灯籠

常夜灯、右側は『両皇大神宮』文政十三(1830年)三月吉日。真中『太神宮』は、寛政二(1790年)正月吉日。左側『両神宮』、文化十二(1815年)五月。と書かれています。どうやらそれぞれが、お伊勢講の旅の記念碑のようですね。

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すぐ横に説明看板がありました

「お~、そうだ。本陣さんに行ってみるか」

紀州徳川家の参勤交代時には、この角谷(つのや)家の本陣にて、殿様が一泊することが習わしとなっていて、ずいぶん由緒と歴史がある建物なのです。

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角谷家 本陣さん

が~ん、門は閉まっていました。一般公開はどうやら、昨日までだったようです。まぁ、仕方ないよね。「もっとよく調べろよっ!」てな話ですな、これは残念。

ちなみにいまも角谷さん御一家が、ここで暮らしています。なのであまりウロウロしているのも、よろしくありません。とっとと退散です。

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それじゃ、そろそろ長慶寺さんに行きますか

 

参道の石段を登ってゆくと山門がある

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長慶寺の百段続く参道

参道には百段の石段があります。これ「厄除けの石段」と伝えられ「女性は33段目、男性は42段目」で厄除けを念じれば、ずいぶんご利益があるらしいですよ。

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この時はツツジが咲いていました

また石段脇に、沢山植栽されたアジサイが近年とても有名となり、梅雨時期ともなると“紫陽花目当て”のカメラマンで賑わいます。

しかしいまはゴールデンウィークの最中、アジサイにはちょっと早過ぎますね。植栽には、美しくツツジが咲いていましたよ。あと、青紅葉が鮮やか。

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長慶寺 仁王門

侘びた仁王門あり。三間一戸、重層楼門、入母屋造、本瓦葺。扁額には「金泉山」とある。

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いい感じの山門ですね

それぞれ花頭格子窓が付いており、なかに金剛力士、「阿吽の像」が安置されています。素材は石ではなく、どうやら金属のようですね。

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「あ!」

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「ん!」

そこには草鞋の奉納がされていました。ワラジには何の意味があるのだろうか?山門をくぐれば三重塔がみえます。

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左手に見える三重塔

境内には、堂塔伽藍がひしめいています

階段を登りきり境内へ。まず、目を引くのが三つの塔。手前には「三重塔」ドーン。中程には「唐様裳階付三重塔」がドドーン。しかも、石灯篭が必要以上にデカい。

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唐様裳階付三重塔


これは薬師寺三重塔と同じ様式です。これは凄い、立派な塔ですよねえ。

そして奥に「多宝塔」「本堂」「香炉堂」「大師堂」と並び、とても広い作庭も設えてあります。さて本堂に、お参りしましょうか。

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長慶寺 本堂

本堂の内部は、何だかやたら暗くてよく判りません。
六十年に一回御開帳となる、秘仏如意輪観音」をはじめ、本堂内陣には「多聞天持国天愛染明王、福禄寿、不動明王弘法大師役行者」が祀られています。

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賓頭盧尊者

本堂の左脇には「びんずるさん」と呼ばれる像がありました。擦られまくって“ハゲちょろアタマ”になっているではないですか。

ん~、そうだ。びんずるさんといえば…東大寺大仏殿の右手に何と申しましょうか、ほとんどゾンビ化した枯れた像が有名ですね。

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頭ばっか擦られるということは…

<びんずるさん>

釈迦仏の弟子、十六羅漢の一人。神通力をもてあそんだとして釈尊に叱責され、涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生の救済にあたった。日本では金堂の前に像を置き、撫でると“除病の功徳”があるという信仰が広まりました。

駐車場へと降りてゆきますと…

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多宝塔と本堂が並ぶ

見慣れない謎の建物がありました。いったい何だろうか?

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駐車場で発見した謎の「鳳凰堂」

追記/この建物は「長慶寺会館」といって檀家のための葬儀会館なのでした。それで鳳凰が載ってるのか。

 

長慶寺の寺伝では、由緒はこう記されていた

 

神亀元年(724年)、聖武天皇勅願寺として行基※によって創建されました。そして永延二年(988年)には伽藍を焼失し、また長徳三年(997年)に、再興されました。

秀吉の根来攻めの際に、焼失した海会寺宮境内にて唯一焼け残った「観音堂」を、慶長年に豊臣秀頼の命により、この地に移築された。御本尊は“行基自作の秘仏”となる。

その当時の年号の「慶長」を逆にして「長慶寺」と名ずけたと、伝えられています。

(※河内国生まれ 天智七年(668年)~天平二十一年(749年)八十一歳没。朝廷からは、民衆を惑わす私度僧と度々弾圧や禁圧された。しかし民衆の圧倒的な支持を集め、その逆境を跳ね返した。そして大僧正<行基が日本で最初>として、東大寺大仏造立の責任者として招聘された)

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お寺にあった由緒書き、文字が…

 

海会宮寺跡の発掘調査では、また違った話がある

 

長慶寺は、ここより北の大苗代(おのしろ)にあった「古代寺院 海会宮寺」の一院として開創されたと云います。本当は「金泉山 慈昌院 海会宮寺」だそうです。

この海会宮寺の創建は聖武天皇の時代より前、七世紀後半と比定されているとか。そうすると、飛鳥時代にまで遡ることになり、とんでもなく古い寺院となりますね。

そして、あの「斑鳩法隆寺」と同じ伽藍様式であった、とのことなんです。もう、これには「ビックリ~!」です。そんなこと、今迄てんで知りませんでした。

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海会寺跡 周辺地図

そうそう、お墓参りもしっかり?致しました

墓地へは、必要以上にデカい立派な鐘つき堂の横から、降り口がありました。巨大な梵鐘、ガゴ~ン!と撞いてみたい(笑)のをこらえつつ通り過ぎる。

もっとも、本堂側からお墓に来たことがなかったので、しばらく道を探しましたが。

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必要以上にデカい鐘つき堂<笑

小さな子供の頃。

ばあちゃんに連れられて、何度もなんども来たお墓なのです。ただいま。

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お久しぶりで御座います一族の皆様
 
<長慶寺への交通 アクセス>

JR阪和線 和泉砂川駅 下車 徒歩約15分

JR阪和線 新家駅 下車<コミュニティバス> 市場青年会場前 徒歩10分

○お寺の東側に広大な駐車場(無料)があります

真言宗 泉涌寺派 金泉山 長慶寺』

○拝観料は無料、御朱印は三百円が相場

○住所/大阪府泉南市信達市場815

○電話/072-483-2692

f:id:minminzemi81:20190511174835j:plain信達の宿 見所案内

この地は古くには「呼唹郷、おうのさと」と呼ばれた。「この地は中世より賑わった熊野詣での宿駅として栄え、江戸時代には紀州徳川家の参勤交代の街道(紀州街道)となり本陣、旅籠などが設けられ、今日も往時の姿をしのばせる街道筋です」と、市の説明看板にあった。

 

泉南市の西部にある男神社(おのじんじゃ)の元宮は、日本神話の神武東征譚において、傷を負い亡くなった「五瀬命が雄叫び」をあげた場所とされる。その「雄の水門」の比定地のひとつと謂われる。

紀州街道が樫井川を渡る岸辺に「樫井の戦い」の古戦場跡がある。大坂夏の陣。豊臣軍の先鋒軍「塙団右衛門、岡部則綱」と、浅野軍の「亀田高綱、浅野知近、上田重安」が会敵し大混戦となったという。塙団右衛門と淡輪六郎兵衛の墓が遺る。

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樫井の古戦場 古地図(明治43年)

○江戸時代の牧野村、市場村は共に岸和田藩領であった。両村とも古来より熊野詣での熊野街道筋に並び「信達宿」とよばれ、街道沿いには熊野九十九王子社のひとつ「信達王子社」と「一之瀬王子社」があった。

○信達宿は江戸時代も宿駅として受け継がれ、市場村には「人馬継立所」があり信達宿の中心として「小川信左衛門家」のちに「角谷与右衛門家」に本陣が置かれた。紀州藩主も参勤交代でここに宿泊した。

○昭和時代中頃まで、随分と賑わった名勝地「砂川奇勝」が、JR和泉砂川駅の東側にドト~ンと拡がっていました。現在は宅地開発され既に往時の姿はなく、わずかながら「砂川公園」として残るだけです。

○梶本邸では四月下旬に「ふじ祭り」が催され、毎年多くの人で賑わっています。会場では垂れ下がる藤を見上げるだけでなく、二階から藤の花房を見渡すことが出来て、また一味違った「藤花見」が愉しめます。

 

<泉南市 信達 略歴>

○明治二十二年 四月一日、町村制施行により「信達四ヶ村」が発足する。

○昭和三年 一月一日、北信達村が「信達村」に、改称する。

○昭和十六年 二月十一日、信達村と東信達村が合併して「泉南郡 信達町」となる。

○昭和四十五年 七月一日、泉南町から市制化し「泉南市 信達」となり、現在に至る。

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信達の宿周辺 古地図(明治43年)

○おまけ/「泉南熊寺郎」泉南ゆるキャラ「せんくま」は金の熊で、江戸時代からタイムスリップしたらしい。

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泉南 熊寺郎 見参!

○「せんくま」の特長は「金熊寺の梅の花模様」と背中には「海に沈みゆく美しい夕陽」が描かれた着物を着ている。あてもなく散歩していたときに見つけた「藤の花」が大のお気に入り。相棒の刀「穴子丸」とともに“正義の為に活動する”ことを誓っており、無口だが実際は熱いハートを持つ心優しい侍なんだとか。

しかし、てんでゆるく無いし、このキャラだては何だかイタいねぇ<笑

 

参考/恋する泉南泉南市HP、ウキペディア

(5200文字、Thank you for coming.)