よいか皆の衆。和歌山にある「勝海舟寓居跡」にまつわる、ちょいと面白秘話でござる。
物語の始まりは土佐の高知にて
パン!(←ハリセンの音)
時は安政四年。風雲急を告げる幕末でござった。大河ドラマでお馴染みの篤姫さんが、徳川家定の御台所として江戸城入りした頃の話です。
勤王なのかぁ?はたまた佐幕かぁ~?!
世の中が剣呑な空気で、グルグル渦巻いていたそうです。その大揺れにゆれていた四国は土佐藩での出来事!
藩士の廣井大六は、とある諍い事から傍輩の棚橋三郎に切られさらには理不尽にも川に投げ込まれて、絶命したと云うではないですか。
その後、下手人棚橋三郎は士分剥奪、藩外追放されました…が、横死した廣井大六の嫡男 岩之助、父の仇を討つべく「棚橋三郎を探す旅」に出ることとあいなった!
パパン、パン!
しばらくして、棚橋が和歌山藩の加太浦で人夫として御台場(砲台)の建設に携わっていると知った岩之助は、紀州藩を通じて「仇討ち許可」を願い出たのでした。
果たして仇討ち、そう上手くゆくものなのか?この時すでに、幕府から「仇討ち禁止令」が出されておりました…そのことを聴き知り深く落胆した岩之介、はやくもこれで“仇討ち挫折”となるのかっ?!ぐはっ╭( ๐_๐)╮ガクシ
さぁ、さぁ、さぁ、どうする、岩之介!
パン、パパン!
当時、和歌山藩を訪れていた勝海舟と坂本龍馬
この仇討ち話にはお台場検分のため、たまたま紀州藩に滞在していた「勝麟太郎(海舟※)と坂本龍馬」などが深く関わっていたという伝聞がありまする。
その勝海舟の裏からの取り計らいによって、翌年の安政五年に「仇討ち免許状」が岩之介に交付されたと云うのです。これが江戸時代最期の仇討ち免許となった。
デデンデン!
そして一計を案じた、勝の指示(龍馬か?)で海軍操練所の「佐藤与之助、千屋寅之助、新宮馬之助(海援隊)」を仇討の助太刀として、密かに参加させたらしいのです。
廣井岩之介に対して、紀州奉行所は…「ゆえあって棚橋三郎を所払いとし、境橋より追放する。よって和泉側にて討つべし」と沙汰した。これは、国外追放処分(早い話、厄介払い)といったところでしょうか。
(※勝海舟、通称麟太郎、官位は勝安房守。心影流剣術の免許皆伝。咸臨丸にて渡米し、帰国してからは軍艦奉行並、神戸海軍操練所(後の日本海軍)を開設した、幕府きってのエリート官僚だった)
いよいよ大詰め、仇討ちは成功するのか?
和歌山より和泉へと抜ける紀州街道は、一本道。雄ノ山峠を抜けたその先、国境にあたる境橋北詰で、岩之助らは準備万端待ち構えていました!ナイスポゼッション♪
「我こそは廣井大六が嫡男、岩之介と申す!貴殿は棚橋三郎殿とお見受け致す、いざ尋常に立ち会いそうらえ…」スラリと抜き放った、氷の刃✨キラン!
伏せていた新宮ら助太刀三人組にも前後を取囲まれ、もうこれでは棚橋には逃げ場がなかった…廣井岩之介は見事武士の本懐、父の仇を討ったのでした。パン!
時は江戸から明治へと移る、わずか五年前の出来事でした。おそまつな一席 <(_ _)> デン、デデン♪
▽MAP/紀泉国境「境橋」ここが日本最後の「許された最後の仇討ち」の場所。阪和高速道の下、峠道沿いに碑が建っています。https://maps.app.goo.gl/ybdsmsyirDMCbrLLA
(1400文字、Learn from yesterday, live for today, hope for tomorrow.)