minminzemi+81's blog

あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ のし

もうひとつのラピュタ、深山砲台跡と海軍秘密基地。ドタバタ探検記!! 和歌山市加太【戦争遺跡】…Part1

ヒトはとかく“何か”を求め「旅」に出たがるもの。

つまんない日常を飛び出し、非日常に我が身を置いてみる。

そして未知の土地を、ひたすら尋ね歩く。

あげくヘトヘトと、なる。

そして求める“何か”は発見するのだが「謎」は読み解けないまま「トホホ気分」で旅を終えるのが常だ。

それでイィのだ。

なのでまたも“新たなる旅”に出る訳なのだね。いやはや、何やってんだかね。

世の中には「自分探しの旅?」に出るヤツ迄いるらしいが。

オイオイ、旅なんかで自分を探して、ド~すんだい??

それでもイィのだ!

Let's go easy!!

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深山展望台より友ヶ島を望む

Mission One ]

謎のダンジョンとは?和歌山、加太の男良谷(おらだに)にあったと云う“海軍由良水雷隊基地”にまつわる情報を調べる

 

何故この場所に興味を持ったのか

 

何処から話し始めるべきなのか?何だかいまだに迷っているのだ。では、この場所に興味を持ったきっかけ話から始めよう。

 

十年ほど前のある日、地元タブロイド紙ニュース和歌山」に掲載された記事にふと目が止まったのである。

 

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これがその記事 出典ニュース和歌山

この記事によると和歌山の城郭研究家 森崎順臣氏が、加太(かだ)深山(みやま)で謎の洞窟?を発見したと云うのだ。

 

この洞窟、明治時代の海軍が「由良水雷隊」を編成し、加太の北側にある深山の地に極秘理に軍事基地を構築していたと云うハナシで「え、えっなんじゃ…こりゃ?!」と、ワタシは結構驚いた。

 

「秘密基地!…萌♡」←小学生かっ!

 

もちろん深山の砲台跡は前々から知っていたが、陸軍砲台と海軍基地が一つ場所に混在しているなんて、なかなか考えられないことである。少し気持ちわるいね(※陸海軍は歴史的に何かと仲が悪かった。しかし日清、日露戦争の頃でもあるので、若干事情は違うのかも知れない)

 

しかし「自分は別にミリオタではない」し、当時は個人的なことでゴタゴタしていた時期だったので、詳しく調べることもなくそのうちこのコトを忘れた。

 

でも、急に思い出したりするしな

 

そして去年の春のことです。友ヶ島に遊びに出かけた。で、友ヶ島要塞群のこと面白おかしく(コレが大切!)ブログにまとめた。その時のブログがコレです。

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友ヶ島ラピュタの秘密地図

(タイトルの「もうひとつのラピュタ、深山砲台跡と海軍秘密基地」の意図は前作に引き続く話であるという、意味合いでもあります。)

それで現地友ヶ島(ここにも海軍施設がある)で色々調べるうちに、深山にある謎の海軍施設の話を、ふと思い出したのでした。

 

水雷基地かぁ…。あれはいったい、何だったんだろうか?」

 

ブログの流れ的には友ヶ島砲台跡に続いて「加太、深山の要塞群」をまとめる予定だったが、それにしても残されている情報が少ないのだ。いや、自分に情報収集能力ないだけかもしれないが。

 

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深山砲台掩蔽壕跡

謎の解明は魅力的だけれども、どこからアプローチすべきなのか?

 

「困った困ったこまどり姉妹←このギャグ、誰も知らない?!

 

その頃の時代背景考えてみると

 

朝鮮半島をめぐり日清両国がシノギを削っていた時代。その先には帝国ロシアの影が常にあった。明治二十二年に大日本国憲法公布し、帝国議会を開設する。明治政府は“近代国家”なるものを大慌てで拵えてゆく。

 

「西洋に追いつき、追い越せ!!」

 

その熱気ムンムンのなかで「明治二十二年より三十八年頃まで、足掛け十六年間」由良要塞は少しづつ形造られていったのだ。しかし由良砲台群が築かれた時代は、まだ日露戦争以前のことである。この時代の加太地区の歴史なぁ…。

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淡嶋神社(年代不明) 現在とおもむきが違う

 

のんびりと作戦会議を始める

 

我が家の大宮二等兵に声をかけてみる。

 

「大宮!深山の砲台跡に、海軍の水雷基地があったらしい。ココ行ってみるか?」

「へー、面白そう。行きたい、ん?…大宮て何?!」

「いや~まぁ、気にするな。この図面をみてみ、山の上からワイヤーで水雷を吊して海面に放つんやで。ワイルドだろぉ?!」

 

資料の『由良水雷隊兵舎假設位置圖』なるものを示した。

 

「…て訳でやな、この場所は崩落してかなり危険なんやな。なので翌朝未明、我が第三総軍が乾坤一擲の勝負にでるっ!」

「第三総軍て、二人しかおらへんやんか。」と大宮二等兵

「う~む、細かいことはよろし。先ずは行程。銀輪部隊は加太駅前を目指す。ココから無料バスがある。そして前線基地を第二砲台跡にある紀州加太休暇村に定める。ココには我が軍の輜重隊が展開し、さらに噂では温泉♨まであるらしい。」

「よろしいなぁ、でご馳走食べて、温泉入って帰ってくると…」

「そうそうそう、やっぱ天然♨温泉で眺めかてエエしなぁ。ホッコリしてこりゃ、ええわぁ~♪て、コラコラッ!ちゃいますがなっ。」ピシッ!

 

これはノリツッコミですな。

 

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深山第一砲台跡(連絡通路トンネル)

とりあえず大宮二等兵に説明を、いや明治の歴史がザックリつかめる史料ないかな…あ、坂の上の雲かぁ。そうそうコレな。

  

坂の上の雲についてすこし語ってみる

 

そうだよぉ、司馬遼太郎氏が描く「坂の上の雲」の頃なんですね。この作品、明治政府の黎明期か、いや青春時代なのか、そのガムシャラな世相と空気感を、見事に表現していますよ。

 

この小説はドラマにもなりました。放送時にはワクワク興奮しましたから。モックンがハマってましたねぇ、秋山真之。好古は阿部寛香川照之の子規も好演。キャスティングがいい。脇を固める役者も大物ぞろいだった。 (※2009年から2011年まで足掛け3年にわたり放送された)

 

「珍しい事だよね、NHKがこのクオリティをつくれたのはホント奇跡だ!」シナリオだけが二転三転したことだけが、残念ポイントになるのかな。いやいや、人物の描き方がステレオタイ…

 

ハイ、グダグダ云わないの、こんな感じで始まった。

YouTube 

 

このオープニング(渡辺謙NA)で毎回、ハートをガッチョリ掴まれてしまいましたからねぇ。そしてドラマ終わりに憎いことにエンディング曲「Stand alone」が流れだすのだった…

 

迷い悩むほどに 人は強さを掴むから 夢をみる 凛として旅立つ 一朶(いちだ)の雲を目指し♪

 

またこの楽曲でビンビン余韻を噛み締めることになるのだった、ワタクシ。

いま聴いても何故か泣きそうになるな(何故だっ!明治人か貴様はっ!)。

 

「昭和生まれで有りますっ!」

 

なるほど成程そうか、久石譲作曲だったのか。

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このドラマをまだ未視聴の方(特に若いヒトはね)いますぐ観た方がいい。DVDにもなっています。そして原作読んでいない方、是非とも読んでください。たしかKindle版にもなりました。

 

この小説は「竜馬がゆく」と並び、司馬文学の最高傑作、まさに真骨頂だと想いますからね(ハイ、異議は自動却下されました)。

 

司馬さんはあるインタビューに答え「(日本は)何故こういうつまらない国なのか。国を運営している人々が何故こんなにお粗末なのか」…だから私は描いたのだ、敗戦時の二十二歳であった自分への手紙なのである…と動機を語った。

 

残念ながらいまだに日本政府はそうですね。(明治から昭和にかけてはゴタゴタと、そうせざるを得ない情けない事情もあった訳ですが)で挙句、敗戦国日本よ。何とも情けない国のままだ。お粗末さんだ。

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おそ松さんだっ!!!

 

多分、戦中派の司馬さんは戦後生れの「戦争を知らない子供たち」に、作品を通じて問うてみたかったのでしょう。「むかし、こんな男がいた。そして、こんなことをやり遂げた。さぁ、あなたはどうなんですか?」と…あ、話がそれちゃいましたかねぇ?

 

そうでした「坂の上の雲」のレビュじゃないのだから-w

 

一応参考までに/作家 司馬 遼太郎(しば りょうたろう 1923年生 ~1996年没)本名 福田 定一(ふくだ ていいち)大阪府大阪市生まれ。

筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の漢(太郎)」から。ほんまシャレてます。

大戦中は戦車第一連隊に属する。満州国にて九五軽、九七式中戦車(チハたん※)の戦車長(小隊長)をつとめていた。大戦末期には大陸から茨城県佐野に移動、敵上陸地点を九十九里浜に想定し本土決戦準備を整えた。結果、戦闘を交えることなく敗戦を迎える。

その後九十九里浜にて慟哭したという。

 

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これが九七式中戦車

余談だが、チハたんチハ」とは「三番目(イロハ順)の中戦車 チ」である事を表す秘匿名称。(甲型「チイ」乙型「チロ」などある)ちなみにガルパン知波単学園、福田ちゃん(小柄でおさげ、丸メガネ!可愛い)は司馬遼太郎がモデルらしい。あと西絹代はバロン西だし、いいのかこのパロぶりはっ。

 

知らぬ間に“女体化JK”にされた司馬さん、さぞや泉下で…ガルパンでも観てるかな?!

 

これがガルパン「進め!乙女の戦車道」

いちばん通信士、武部沙織「♪装甲が薄くたって~ 主砲がしょぼくたって~ それはそれ☝︎」劇場版は必見ですぞっ!

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「進軍でありますぅ!」「突貫!!」福田ちゃんであります。可愛ぇぇぇ

劇場版 ガールズ&パンツァー フィルム 知波単学園 福田

 

はいっ、またも脱線しますたぁ☺時系列戻せっ!

 

では、もう少しだけ明治期の流れをまとめてみますか。

いえいえ、残念ながらたいしたコトは知りません。サクッと「戦史の流れ」なぞるのみにて。

 

日露戦争前に砲台構築は始まっていた、その背景と意味は

 

明治時代、いわゆる西洋列強(イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、イタリアなど)が清での権益を虎視眈々と狙っていた。

 

その「清」争奪戦のなかでの明治三十七年二月から三十八年九月迄続いた、日本とロシアとの戦史を『日露戦争』と呼ぶ。これは云わば“日本の安全保障問題”であったのだ。

 

その以前、明治二十七年。『日清戦争』に勝利した日本は下関条約を結び、多額の賠償金と土地を清より譲り受けた。国内の産業、軍事整備に大きく寄与したという。日清戦争以前と比べ、急速な進捗を可能とした。

 

が、しかし中国の遼東半島は各々列強にとって戦略的に重要。なのでロシアは日本の遼東半島を我が物にしたいと考え、ロシアはドイツとフランスを誘って“三国干渉”を画策した。

 

要求を受けしぶしぶ遼東半島を清に返した日本。だが意図に反し清は、欧米列強に侵略され続けることとなる。高まる国内不安、政府批判。当時の日本では「臥薪嘗胆※」が流行語になった。

(※がしんしょうたん。“リベンジのために苦労に耐えしのぶ”という意味)

 

ロシアは日本が返還した遼東半島を租借(期間占有)さらにドイツ、イギリス、フランスも各地域を租借する。ロシアは部隊を増強し満州も事実上占領。そして更に南下政策を推し進める動きを見せる。

 

このままではアジア地域は、アフリカ大陸の二の舞になってしまうだろう。その状況を危険視した大英帝国。あくまでも“自国の権益”を護るため、急ぎ日本と明治三十五年「日英同盟」を結ぶ。日本と英国は利害関係が一致した訳だが、安心どころか益々状況は剣呑となった。

 

このカオスな帝国主義者の陰謀渦巻く“清国領土争奪戦”のさなかで、明治日本は帝国ロシアとの開戦を決意するのです。

 

これには世界中が驚いたっ!!

 

何とフェザー級が、ヘビー級に挑む!」のですから。

ハイ、三笠出撃デスよ!

ハセガワ 1/700 日本海軍 戦艦 三笠 プラモデル

日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本帝国海軍は軍拡を進める。その中で「六六艦隊計画」の一環として「三笠」はイギリスのヴィッカースに発注され建造された。

 

◉1899年(明治32年)1月24日起工。1900年(明治33年)11月8日進水。

◉1902年(明治35年)1月15日から20日まで海洋公試が行われた。

◉同年3月1日サウサンプトンで日本帝国海軍への引渡し式が行われた。

◉建造費用は艦本体が88万ポンド、艤装兵装が32万ポンドであった。

排水量15.140㌧、全長131.7m、出力15.000馬力、速力18㌩

<ジェーン海軍年鑑より>

 

三笠公園岸壁には戦艦三笠が記念鑑として保存されている。三笠の艦首は皇居へ向けられており、さらにそのまま直線状にロシアへ向けられている。これは保存時に三笠が、帝国海軍の象徴(聯合艦隊旗艦)とされていたことから。そのため終戦直後にソビエトから三笠解体の声が上がったが、交渉等により解体は回避されたと云います。 

<ウキペディアより>

 

景気付けに軍歌「日本海海戦」をどうぞ<笑 海戦のあらましが判りますねっ!


YouTube 

戦艦三笠登場したところで、次は…「由良要塞の地勢的」なお話です。

戦闘機すらなかったこの時代、戦闘艦で戦争を決していた。島国日本の国土防衛を考えたなら、まずは沿岸を固めねばならない。

 

紀淡海峡の地形について理解する

 

もしも“敵の艦隊に本土が強襲されたなら”を考えてみる。

 

衛星画像の左下から、沼島、淡路島、友ヶ島沖ノ島地ノ島。本州側に深山加太地区、右端に紀ノ川流れる和歌山市街がある。

神戸大阪に大型船舶が向かう場合。拓けた紀淡海峡が急に狭まり、敵艦(大型船)の航路が淡路・沖ノ島間の由良瀬戸を通るしかないことが解る。これ程護りやすい地形は他には見当たらない。

 

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友ヶ島 由良瀬戸風景

もちろん鳴門海峡もあるが遠廻りの上、明石海峡をまたくぐらねばならなくなる。戦術的にはこちらのルートをとる可能性は極めて低い。

 

なので“由良瀬戸を狙って来る”と考えるのが妥当だ。

 

[防衛エリア]兵庫県 淡路島 由良〰(由良瀬戸4,700m)〰沖ノ島〰(中ノ瀬戸500m)〰地ノ島〰(加太瀬戸800m)〰和歌山市 深山 加太 

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衛星画像 出典元/ウキペディアから

 

由良要塞群の全体像とは…いまだに不明な点が多い

 

由良砲台、堡塁跡(陸軍)は確認出来るだけでも二十五箇所以上ある。さらには海軍施設も確実に存在する。“未発見で埋もれた建造物”もまだあると思われるが、謎が多い。

 

【由良地区】淡路島地区
1 生石山第1砲台 2 生石山第2砲台 3 生石山第3砲台 4 生石山第4砲台 5 生石山第5砲台 6 赤松山堡塁 7 伊張山堡塁 8 生石山堡塁 9 成山第1砲台 成山第2砲台 10 高崎砲台

 

友ヶ島地区】沖の島地区
友ヶ島第1砲台 2 友ヶ島第2砲台 3 友ヶ島第3砲台 4 友ヶ島第4砲台 5 友ヶ島第5砲台 6 虎島堡塁

 

【加太地区】深山、加太地区
1 深山第1砲台 2 深山第2砲台 3 男良谷砲台 4 加太砲台 5 田倉崎砲台 6大川山堡塁 7 高森山堡塁 8 佐瀬川堡塁 9 西の庄堡塁

 

【鳴門地区】現状不明

 

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二十四サンチ加農砲

深山砲台跡のあらまし

 

明治20年頃、清国との戦争がいよいよ現実味を帯びて来る。明治政府は国防策として日本艦隊より遥かに有力な清国艦隊に対処するため、沿岸要塞建設が急務となった。

 

最初に着手したのは「対馬要塞」と 「下関要塞」、そして「由良要塞」です。

 

なかでも“紀淡海峡の重要性”にいち早く気付き、淡路島の鳴門・由良地区、和歌山市側の友ヶ島・加太地区に、強力な西洋式砲台群を大急ぎで設置。

 

そのうちの深山地区は紀淡海峡を東から扼する位置にありました。(運用上は友ヶ島地区と連動すると考えられますが、後に由良地区の所轄となったようです)

 

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二十七サンチ加農砲射程範囲

深山加太地区の深山重砲兵連隊(後、重砲兵第五連隊となる)は、紀淡海峡を北上侵犯するであろう敵艦を、山上から迎撃する砲台要塞をここ深山に展開しました。当時としては最新鋭の二十八サンチ砲を据付け海峡を睨んでいました。

 

<深山地区 砲台内訳>

 

○深山第一砲台(海抜121m)  二十八サンチ榴弾砲×六門

○深山第二砲台(海抜100m)  二十八サンチ榴弾砲×六門

○深山第三砲台(海抜10m程)  十二 サンチ 加農砲×四門

 

<加太地区 砲台内訳>

 

○加太   砲台 二十七サンチ加農砲×四門

○田倉崎砲台 二十八サンチ榴弾砲×六門

 

二十八サンチ榴弾砲徹甲弾は217kgもあった。揚弾機で吊るしハンドルで位置調節しながら装填した。砲身の長さは2,863mm、最大射程は7,650mでした。 由良要塞群の二十八サンチ榴弾砲のいくつかが日露戦争時に、遼東半島の203高地攻略のため此処から運ばれていったという。

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深山 第二砲台 二十八サンチ榴弾砲
現在ある「休暇村紀州加太」の場所に「深山 第二砲台」があった。駐車場から延びるレンガ遊歩道を、道なり北に進むと「深山 第一砲台」へ。さらに西側に進み、海沿いに下れば「男良谷 第三砲台跡」と至る。

 

「この砲台の南にあったという水雷基地を探りに行くぞっ!」フォー!!

 

坂の上の雲を目指しどエラい坂を登って逝くのである!<笑

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休暇村紀州加太

どどど~ん!!! 

TO BE CONTINUED…

さて次回予告⇒「水雷隊基地の秘密」探検の話が始まります!

(イントロだけで6900文字超えちゃった!ドンならんでなぁ…砲台跡だけに)