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高額紙幣の肖像画人物に、何故か世間は無関心、女流作家誕生秘話「樋口一葉、奇蹟の14か月」とは【文藝作品③】

 

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樋口一葉
樋口一葉ペンネームで、本名は樋口奈津(なつ、夏子とも呼ばれる。明治五年三月二十五日~明治二十九年十一月二十三日没)明治時代における、初の職業女流作家である。

余りにも短かった彼女の創作活動でした。それで「樋口一葉、奇蹟の14か月」と呼ばれています

 

教育熱心で本好きな父の影響を受け、子ども時代に文学的素養を育んだようです。この写真から受ける第一印象は「利発で気の強い女性」というイメージですね。目鼻立ちがシュとした美人顔ですね。

明治十六年(1883年)、私立青海学校 小学高等科を首席で卒業するが、上級へ進めず退学(学業半ばの11歳で終える)。これは母親の多喜が「女に学問は不要」という考えからといいます。これには憤懣やるかたないことだったでせう。明治二十二年(1889年)、警視庁を退職した父 則義(元、八丁堀の同心でした)は、事業に手を出すが出資金をだましとられ、負債だけを家族に残して同年七月に死去してしまう。

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このことにより一葉は、弱冠十七歳にして戸主となる。残された借金返済と、母と妹を養っていくことになります。そして父親が一度決めた許嫁者とも破談となり、一転して貧窮生活に陥った。

(※明治時代の制度。「戸主(こしゅ)」に一家の統率権限を与えた制度。いまの「戸籍筆頭者」とは意味がかなり違う)

 

「一葉」ペンネーム由来の話

 

よく知られている話では、達磨大師が「葦舟に乗って長江を渡る絵」からヒントを得たというもの。さらに少林寺にて九年座るうち「足がなくなった」という“面壁九年の故事”をもじり「お足(お金)がないの」と一葉が駄ジャレたというもの(これは相当ひどいね)しかし、どうやらこれらは、後からこじつけた「笑い話だった」ようです。

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一葉とは最後に残った木の葉だったのか

次々と欠けてゆく自分の家族を枯木に見立て、それでも自分は「最後の一葉」となっても活きてやる…という「堅い決意の表れ」からだとワタシには想えるのですが、どうでしょうか。

『母上に安らかな生活を与え、妹に良縁を与えることが出来るなら、私は路傍にも寝ようし乞食にもなろう』樋口一葉

(※樋口一家は元々…父親 則義、母親 多喜、長女 藤、長男 泉太郎、次男 虎之助、そして次女の一葉(奈津)、三女 邦子の七人家族でした。▷父親 則義は失意から病床につき、六十歳の生涯を終えました。一葉が十七歳の夏のことでした。▷長女 藤は早くから嫁ぎ、一時は実家に出戻りそしてまた、他家へ嫁いだ。▷長男 泉太郎は勉強好きですが生来病弱でした。明治二十年に二十三歳で突然亡くなりました。▷次兄 虎之助は父母と折り合いが悪く勘当され、実家を遠く離れ薩摩焼の陶工となりました。▷妹 邦子は朗らかでひとあたり良く、竜泉寺の雑貨屋は邦子が担当した。そして最期まで姉の一葉を何かと助け、苦楽を共にしました)

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樋口一葉の旧居跡

 

樋口一葉の転機となる、瀧泉寺町での暮しぶり

 

一葉のよき理解者でもあった父や兄が亡くなると、それ迄の生活すべてが様変わりすることとなった。困窮する一家のために、文士(小説家)を目指すことになります。明治二十六年(1893年)、一葉は新吉原に近い「下谷竜泉(MAPの📍の場所)」において雑貨店、実質的には「子供相手の駄菓子屋」をいとなむことに。この吉原遊廓の近所に住み(斜めに走る道路内は遊廓エリア、現千束)知り得た知見が、後に名作『たけくらべ』となったのです。

 

名作「たけくらべ」の書き出しは、流る如くの名文ですね

 

冒頭文『廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大恩寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き』と物語は始まる。

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本物の花魁がまだいた頃の話

(※花街「新吉原」は、お歯黒溝(おはぐろどぶ、縦135間×横に180間、約265m×360m)に四方を囲われていた。そのさまを城郭になぞらえて「廓」と呼んだ)

樋口一葉さんが駄菓子屋を営んでいた二十二歳の頃、この『たけくらべ』を書きはじめた、というのですから「本物の才女とはオトロしい」ものがありますね。しかしこの文体、じつに読みずらいねぇ…う~ん文語か。名題たけくらべ」とは「背の丈比べ」であり、花街吉原周辺で少しだけ早い目に大人になる、いやならざるを得ない子供達の心情を、我が身に重ね合わせて冷静な描写しています。 

『色に迷う人は迷えばいい。情に狂う人は狂えばいい。この世で一歩でも天に近づけば、自然と天が機会を与えてくれるだろう』樋口一葉

▽リンク/樋口一葉 作『たけくらべ』 初出 明治二十八年「文學界」。

▽でも、これを現代訳にしてしまうと、なんだか風情なくツマラナイ感じになる。やはり現代文では、一葉さんの「一気呵成な息遣い」が消されてしまう気もします。音(朗読)で聴くのが解り良いのかも知れませんね。

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たけくらべ (集英社文庫)

たけくらべ (集英社文庫)

 

 

たけくらべ あらすじ~

 

花街吉原の売れっ子花魁(おいらん)を姉に持つ、美しく活発な少女「美登利」は十四歳。金貸しの子「正太郎」は幼馴染の十三歳、龍華寺僧侶の子「信如」は十五歳で、僧侶の父を恥じると云う内向的少年。美登利と信如は、同じ学校に通っていました。春の大運動会の日。松の根につまづいた信如に…『美登利みかねて我が紅の絹はんけちを取出しこれにてお拭きなされと介抱をなしける』美登利がハンカチを差出し、かいがいしく助けた。これを見た周囲から「美登利さんは、藤本の女房かみさんになるのであらう」などと囃し立てられてしまう。この状況に困惑する信如。一方、美登利もそんな彼を避けるようになってしまう。

雨の降る日に使いに出た信如は、美登利の家の前で下駄の鼻緒が切れてしまった。美登利は鼻緒をすげ替える布れ端を渡そうとしたが、信如と判るとすぐに身を隠した。微妙な思春期に揺れるこころ。信如も美登利に対しまだ気まずさが残る。それでも美登利は恥じらいながらも、布れ端を信如に向かって道路へ投げる。するとどうしたことか信如は、たまたま通りかかった長吉の下駄借りて、その場を立去ってしまった。

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正太郎は島田髷(遊女の髪型か)に結い着飾った美登利に声をかける。しかし美登利は“悲しげな様子”で正太郎を拒絶し「一処に来ては嫌だよ」「後生だから帰ってお呉れよ」と避けるのです。正太郎は「それならば帰るよ」と、ふてくされて行ってしまうのでした。美登利は「大人に成るは厭やな事、何故このように年をば取る」となげきます。やがて美登利は他の子供達とも遊ばなくなってしまう。

『或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ』そしてある朝のこと。誰かが家の門に差し入れた「造花水仙」を、美登利はなぜか懐かしく思い一輪ざしに飾る。それは信如が僧侶の学校に入った日のことでした。

こうして「淡い初恋の終焉」を感じさせて、たけくらべは終わる。

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(※因みに「水仙花言葉」は、self-love(自己愛)、egotism(自己中心、うぬぼれ)、unrequited love(報われぬ恋)となる。一葉さんは“これで結末を判れ”と、云っているのでしょうか?)

 

その後の樋口一葉の活躍ぶりとは

 

明治二十七年(1894年)には、僅か一年足らずで下谷竜泉から本郷福山へ転居する。『暗夜』『大つごもり』そして『たけくらべ』『にごりえ』などの名作を、次々と怒涛のごとくに作品発表し続けました!

個人的には、「大つごもり」が素敵に思いますね。大晦日の借金にまつわる一悶着。冷静な観察眼で描写しています。でも、文語体なので…うむ。

▽安心してください、現代語訳もありますよ!

現代語訳樋口一葉「大つごもり他」

現代語訳樋口一葉「大つごもり他」

 

そしてそれらが文学界の大御所、森鴎外幸田露伴らにも絶賛されるなか、当時は不治の病と言われた「肺結核」にてわずか二十四歳で亡くなりました。実に惜しまれる早過ぎた死。作家になったきっかけは、樋口家が抱える「借金返済に小説の原稿料」を充てることが、そもそもの目的だった訳ですが…それも果たせず。これは想像ですが「わたしは武家の娘なのですからっ!」そんなプライドをバネに、無理にムリを重ねて傑作を次つぎモノに出来たのだと想いますね。明治初期にはまだあった「没落士族の矜恃」てやつなのかな…?

そう、それで彼女が小説家として活躍出来たのは“ほんのわずかな期間”だったので樋口一葉、奇蹟の14か月」と、いまに伝えられているのです。ほんと奇跡の小説だったんだ。

 

高額紙幣の樋口一葉に、何故か国民は無関心?

 

そして樋口一葉の肖像は、平成十六年(2004年)新渡戸稲造に替り、新五千円札のデザインとして採用されることになる。「お金に苦労した人生を送った一葉さんが、高額紙幣となる」これ何とも皮肉なことか。あ、選ばれた理由は「一葉さんののっぺり顔」が“偽造防止に有効”なんだとか。造幣局でそう聞きましたよ。笑

あの笑福亭鶴瓶が某バラエティ番組にて「なんやぁ~あの五千円札の女!カメにカツラ被せたみたいな顔してっ<笑」と言わしめるほどでした。それにしても「亀にかつら」って、上手いこと言うね…鶴ビンは。笑

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皆さまご存知五千円札です

女性肖像画モデルとしては、明治十四年発行の紙幣 神功皇后※1以来、何と「123年ぶりの採用で史上二人目」となる。日本銀行券としては、女性肖像画の採用は史上初めて※2のことでした。神功是方とは、これもやはり「快挙」といえるでしょうね。

(※1 神功皇后肖像画は、キョソーネが想像で描いた絵なので“西洋人の風貌”をしています。 ※2 二千円札の裏面には紫式部が描かれているが、肖像画ではなく日本絵画です)

▷追記/ 財務省は『日本銀行券を二十年ぶりに刷新すると発表した。新札の肖像画には、一万円札が「資本主義の父」と呼ばれた実業家の渋沢栄一、五千円札は津田塾大創始者の津田梅子、千円札は「近代日本医学の父」といわれる、医学博士の北里柴三郎を用いる』とのこと。その裏面は『一万円札が東京駅、五千円札は花のフジ、千円札は葛飾北斎富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」の図柄が採用される』とのことです。

(2019/4/9産經新聞 記事)

一葉記念館リンクです。 東京の台東区竜泉にあります(東京メトロ三ノ輪駅から徒歩十分)。

www.taitocity.net

 

参考/一葉記念館 東京都台東区竜泉三丁目18−4、ウキペディア

(4400文字、thank you for reading.)