minminzemi+81's blog

あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ のし

明智光秀が襲撃した本能寺。そこから四百キロも離れたお寺にある「信長の首塚?!」何それマジで?『富士山 西山 本門寺』後編です【歴史案件】

NHK大河ドラマ麒麟がくる』が、通常より早く六月にクランクインしたそうです。あいにくの梅雨時期で鬱陶しい天気が続く六月だった…と、いえば歴史的に有名な「本能寺の変」があったのも六月二日早朝だった。

時は天正十年六月二日未明、その時歴史が動いた本能寺の変」が勃発!光秀、何を想ったのか?!

f:id:minminzemi81:20190709094053j:plain

惟任明智光秀(本徳寺蔵)
明智惟任光秀/十兵衛/日向守

生年不詳、岐阜明智城で生まれたらしい。青年時代までどこで何をしていたのかまったくの“謎”である。後、将軍義昭に仕え、織田信長との橋渡し役を勤める。信長の正室である“帰蝶とイトコだった”という。天正七年、丹波攻めにて包囲を続けていた八上城を落とす。続けて黒井城も落とし丹波一国を平定。すぐ細川藤孝と協力し丹後も平定する。信長は感状を出し褒め称え「丹波での光秀の働きは、天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。天正八年には三十四万石領す大名に。天正十年“徳川家康の饗応役”であった光秀は、一転任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利攻めの与力を命じられる。その途上の何処かで光秀が重臣達に、信長討伐の決意を告げた。そして本能寺。さらに秀吉との山崎の合戦に敗れ逃走途中、小栗栖で歿する。天正十年、五十六才で没した。

 

○前回のお話です。コチラからご覧下さい。

(より“理解が深まる”やも知れません?!ただし“効能には個人差”があります)

minminzemi81.hatenablog.com

 

明智光秀丹波亀山城を準備万端、発進す!

 

本能寺の変がおきたのは旧暦「天正十年六月二日未明」のこと。これを太陽暦(ユリウス暦)に直せば「六月二十一日」頃になります。

篠突く雨が続く鬱陶しい“梅雨の真っ只中”でした。表向きには「本能寺での馬揃※1のため」居城 丹波亀山城を猿の刻(夕刻)発進させた。

やがて日が落ち、月も出ない暗い丹波街道を急ぐ光秀軍。昨日の雨によりぬかるむ山道を、ただ黙々と進む。

武士のたしなみとされる「夜討ち朝駆け」。この言葉は「行軍には払暁、つまり夜明けに。討ち入りするなら、深夜」これが“戦国武将の闘いのセオリー”だった。敵が一番油断した頃合に、前触れなく奇襲することが「最大の効果を生む」ということ。

この時光秀は、居城をわざわざ「夕刻発進」しました。なので“夜間行軍の意図”とは「夜討ち」だったのです。

 

そして道半ば、突如 老ノ坂※2 にて別心し

敵は本能寺にあり!!」と光秀は告げた。

 

この時、謀反を決断するには「信長、信忠」ふたりの確たる所在が判明しなければ、決断出来なかったハズです。京に放った探索方からの報告があったのでしょうか…早馬が光秀に駆け寄り「御注進!! 信長公、信忠公、本能寺にあり」と、告げたのか?

(※1 大規模な観兵式や軍事パレード。一説には、信長が森乱丸に突如、指示したと云う。これには、べつの“事案”があったのかもしれない ※2 光秀の謀反について“突然思い立った”かの記述が多い。道半ばの“老ノ坂あたり”で何処からの“使者”が既に待っていたのだろうか?このへんに答えがあるカモしれない)

f:id:minminzemi81:20190609185717j:plain

△桔梗は別名「岡止々支」オカトトキと云う。土岐氏が本拠とした地名は、この「ととき」の咲く場所「とき」から派生したらしい。土地に咲く花にまつわる家紋とは、何とも優雅な話です。

 

六月二日の未明、京の都に鬨の声があがる

 

京、本能寺に在泊していた織田信長を、明智光秀が兵一万三千で押し囲み襲撃。信長は「こは謀反か如何なる者の企てぞっ!」と森乱丸に尋ね、物見を命じた。

急ぎ物見を終えた乱丸は「桔梗紋、明智が者と見え申し候」と答え、信長は「で、あるか。是非に及ばず」と言い捨てたと伝えられる。

みずから弓を放ち、しばし薙刀でも防戦する信長。そして不意を襲われ“完全包囲”されたことを悟ると、本堂奥に引き籠り火を放ち自害して果てた。ほどなく本能寺伽藍は、紅蓮の劫火につつまれ、焼け崩れ落ちる。

 

太田牛一信長公記※1』でも、本能寺の変はドラマチックに描かれています。

大河ドラマ本能寺の変』信長役、役所広司主演。いい演技ですよ。


YouTube

 

また火災時に、焰硝蔵に引火し誘爆?したので“派手に燃え崩れた”ともいいます。中国出陣前なので、本能寺は「武器弾薬の兵站基地」となっていたのかも知れませんね。

f:id:minminzemi81:20190721013436p:plain

燃え崩れた本能寺

小瀬甫庵※2の『信長記』では「首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども、何とかならせ給ひけん骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり…」と、光秀の狼狽ぶりを伝えている。

そして「骸骨と思えるものさえ、一切見つからなかった」と云うのです。

これ信長を取り逃し「もしや上様は、まだ生きているのではないか??」疑心暗鬼に取り憑かれた、光秀の心理状態がよく判ります。

f:id:minminzemi81:20190521085229p:plain

上様の亡き骸を疾く探せ!

 

織田家当主 織田信忠との闘いへ

 

やがて織田信忠妙覚寺にいることが判り、慌てて軍勢をそちらへ差し向けます。この光秀の“迂闊な采配ぶり”は、いったいどうしたことなのか?

天下取りに動いた武将の行動とは、とても思えない粗忽ぶりです。まったくキレ者、光秀らしくないですね。

一方、妙覚寺で変報を聞いた織田信忠は、直ちに信長がいる本能寺救援に向おうとするが、京都所司代 村井貞勝が駆けつけ「本能寺は、既に焼け落ちた」と伝える。そして「二条新御所は、守るのに堅固」と重ねて進言、信忠勢は二条御所へ立て籠もり、粛々と戦準備を始める。

 

信長公記によれば『ここを出て退きましょうと言う者もいたが、信忠は光秀はこのような謀反で自分を逃さないだろう、雑兵の手にかかるのは無念なので、ここで腹を切ると仰せられた』信忠は、すでに腹を括っていた。

そして『まもなく明智が軍勢を攻めかけた。そこで猪子兵助、福富平左衛門、毛利新助(桶狭間で義元の首を取った武将)らをはじめとし、この他の人々もそれぞれが討って出て、斬り殺し斬り殺され我劣らじと、戦った』寡兵ながらも、信忠軍は奮戦する。

f:id:minminzemi81:20200119160006p:plain

『しんちようき』陽明文庫所蔵

『信忠は「腹を切った後、縁の板を剥がしてこの中に入れ、遺骸を隠すように」と仰せられ、介錯鎌田新介に命じた。御一門や歴々の家臣、家子、郎党は枕を並べて討死した。この散乱した有様をご覧になり不憫にお思いになられた』

やがて『御殿へもまもなく火が回って来た。この時腹を切られ鎌田新介、ご加護なく首を打ち申した。仰せのとおりに遺骸を隠し置き、無常の煙となり、哀れな様は目も当てられないほどであった』と、信長公記に記されている。

そして「織田家当主 信忠」もまた、館に火を放って自刃した。そして信忠の首も、光秀は手に入れることが出来なかった。この「二重の失策は致命的」となっていく。

(※1 太田 牛一、官位は和泉守、通り名は又助(またすけ)。戦国から江戸初期にかけて活躍。また『信長公記 しんちょうこうき』の著者として有名。信長幼少時代から、義昭を奉じて上洛までを首巻、上洛永禄十一年~天正十年までを十五冊、計十六巻にまとめている。信長近辺の確証できる事跡を編年体にまとめ、比較的正確に記述している。信長の事績を研究するには、無くてはならない一級史料である)

(※2 小瀬甫庵。美濃土岐氏の庶流で、尾張春日井出身。坂井氏の養子となり、さらに土肥氏、小瀬氏と名乗りを改める。慶長十六年に『信長公記』を下敷に『甫庵/信長記』を、寛永十年には『甫庵/太閤記』を記した)

 

遺骨すら残さず、この世からプッツリと消えた信長

 

本能寺の南側、一街(約254メートル)離れた場所に、南蛮寺があった。

そこにいた宣教師の記録には『ある人は日本の大名にならい割腹して死んだと云い、ある人は御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ諸人が、その声ではなくその名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した』天正十一年『イエスス会 日本年報』やはり間近で目撃した宣教師も、一切何も残さず“消えた”と、描写している。

f:id:minminzemi81:20190523034402p:plain

イッタイナンデスカナ??

さて、信長の遺体は、本能寺跡でとうとう見つからなかった。しかし、日本家屋がいくら燃え盛っても“骨すら残らない”とは、到底考えられないことですね。最悪でも真っ黒に炭化して“残るはず”です。もちろん、個体判別はかなり困難にはなりますが。

なので、昔から“秘密の隧道(地下道)”があり、密かに逃げ延びたのではないか?と考えられてきました。信長は事変以前、村井貞勝に「本能寺の改造」を命じています。例えばこのトンネル工事を、武田領から連れ帰った「黒川金堀衆」に命じたのでしょうか?

本能寺の変のち、信長の残された息子たちは「父の拝み墓」を建立した。天下人となった秀吉もまた、信長一周忌法要に「木像の葬儀」を執り行い、その墓まで造った。そして「信長の墓と称される」ものは、なぜか各地に伝承されいくつも遺っています。

それぞれの墓に共通するのは、そこには「遺骸は埋まっていない」ということ。これは、探偵小説で言うところの「消失トリック」ですね。

 

それでは、いったい信長の遺体を「誰が…? 何処に…? 隠したのか…??」この謎は、ますます深まるばかり。

 

京、本能寺より四百キロも離れた、西山本門寺にある「信長の首塚

 

静岡県富士宮市にある西山本門寺。そこに伝わる寺伝によれば「信長の首を携えた武士がやって来て塚を築き、篤く弔った話」が遺されている。 

本門寺 首塚前の解説文には…

天正十年六月二日京都本能寺の変で討ち死にした織田信長の首を、囲碁の初代本因坊算砂「日海」の指示により、原志摩守 宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に、炎上する本能寺より持ちだし信長の首をここ駿河西山本門寺に納め、首塚を築き柊を植えたのであります。

第百代後水尾天皇のご息女常子内親王の帰依をうけた、当山中興の祖十八代 日順上人は、原家のご出身でご自筆の内過去帳に、本因坊海上人と織田信長公の法号を記し、手厚くご回向されておりました』

…と、記されています。

確かに当時の住職は、十八代「日順上人」で“日海の弟子”であった。しかも日順は元は武家、原家の出身だったそうです。

また、西山本門寺過去帳には、日順自身が「惣見院 信長、為明智 被誅」と記しています。これは「織田信長は、明智光秀により誅殺された」と云う意味。

この“誅殺”とは「謀叛人が上意討ちされる」といった用語なので、まさに信長にとっては「占い通りの天中殺」なのでした。何と、“天が誅殺した”とな?! 誅殺かぁ…。

(※ この事変が下克上であったなら「弑逆、しいぎゃく」と呼ぶ。もちろん“下が光秀、上が信長”である。誅殺ならば、上意討ちとなり、この時の信長の官位は元 右大臣。その上となると日本にはわずか数人しかいない。左大臣太政大臣、その上は天皇しかないのです) 

 

しかし、この寺伝には“数々の不審と疑問点”もあります

 

【疑問点1】囲まれた本能寺をいったい、どのように抜け出せたのか?

この伝承に拠れば、本能寺にいた「本因坊 日海」が指示を出し「原志摩守 宗安」という武士に信長の首を持たせ、囲みを見事にすり抜けたらしい。

しかもこの時、原志摩守 宗安は、信長と共に自刃した自分の父「原胤重」と兄の「孫八郎 清安」の首と共に、本能寺より持ち出したと言われている。

本能寺から「三つもの首」を持ち出した、志摩の守とはいったい何者なのか?! これ、原志摩守がいくら剛の者でも、万余の明智軍に幾重にも取り囲まれた本能寺、そう易々と突破出来たとは思えない。

ましてや小脇に「怪しい物」を抱えた姿なら、誰もが疑います。「そは、怪しやっ!召し捕れやぁ!!」たちまち鉄砲、槍衾の餌食となりますからね。

 

【疑問点2】駿河より手前の織田氏本拠、美濃尾張では何故ダメなのか?

やがて囲みを突破した原志摩守は、駿河にある「富士山西山本門寺」を目指して、一目散に山道をひた走ったと伝えられています。その距離にして、約四百キロ。しかも日に夜を継いで山道をひた走った。どうもこの話も、にわかに信じがたいですね。

そもそも、はるか遠く離れた“駿府のお寺”でなければならない理由、これは「何だった?」のでしょうか。この当時、美濃や尾張 信州などには、信忠配下の武将がひろく展開していました。ならばそのいずくかに駆け込めば、ひと安心が出来るはずなのですが。 

信長の首が“権力闘争の鍵”であるのならば「いったい誰に託すのか?」本能寺にて死を覚悟した信長が、遺言し“後継者を指名”したのではないか。そんな気もするのです。

f:id:minminzemi81:20190703090050p:plain

赤ピン「富士山 西山本門寺

○富士山 西山 本門寺(にしやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市西山にある。日興上人(日蓮高弟の一人、白蓮阿闍梨)の法脈を継承する古刹。老杉の緑に覆われた境内は、3万5千坪(約11万5千5百平方メートル)と広大で黒門から本堂裏手の墓地まで直線で2kmもある。

 

【疑問点3】この「首塚(お墓)に、ヒイラギ」とは、なんとも異様です!

西山本門寺の黒門から参道を約五百メートル。御堂の裏手側に「信長の首塚」は現存します。御堂の背後に「柊(ヒイラギ)を墓標」として「土饅頭の墓」があり、信長の首は約三メートル程下の「土中に眠っている」とされます。

f:id:minminzemi81:20200120151402p:plain

柊鰯(ひいらぎいわし)

ヒイラギでまず思い出すのは、節分に“鰯の頭も信心から”といった「柊鰯」を入口に掲げて、鬼が嫌うと云う「魔除け法」ですね。また自家の魔除けには、表鬼門(北東)にヒイラギを、裏鬼門(南西)に南天の木を植栽するという。ならばこれ“墓を護る呪術”なのか。

 

いや違うな・・・信長の怨霊を畏れた「鬼封じ」だった?!

 

そう“首塚”と云えば、歴史的に一番有名な「平将門」を思い出しますね

 

すこし余談ですが「平将門の乱」の解説。平将門が関東騒乱の鎮圧の任に当たり、「武士階級を朝廷に認知させるため」の闘いだったといわれる、平将門の乱平氏一族の内紛平定から始まり、関東諸国を巻き込み戦闘は、大きく拡大していった。

やがて将門は朝廷に対し、自らを新たな天皇「新皇」と僭称し、東国勢として独立国宣言をします。このことにより朝廷側より「朝敵」とされてしまう。

そして、朝廷側の追討軍と関東側の将門軍の戦いは、兵力差により決着がつく。その合戦中、飛んできた“矢が将門の額に命中”し、呆気なく討死した。

敗将「将門の首級」は京まで送られ、都大路にて晒される事となった。ところが三日目に、夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、この地(東京)に落ちたとされています。

この“首塚のある場所”に、とても深い意味があります。

f:id:minminzemi81:20190714061305p:plain

平将門首塚の位置

将門の首塚江戸城の東側、いまの「千代田区大手町、超一等地」にあります。江戸城の大手門を護る位置。そして、何度動かそうとしても「将門の呪い」により、阻止されて来たらしいのです。ここにわざわざ“呪術結界”が張ってある…これ、相当怖い話なのです。

f:id:minminzemi81:20190525073757p:plain

(伝)織田信長首塚

さてこの駿府の地は、古くは織田信長に討たれた今川義元の本拠地であり、さらには武田勝家の領地となり、次には徳川家康の政庁・隠居所ともなった場所です。

それぞれ三者とも、信長にとって“因縁あさからぬ”人物達なのですね。ここに何か、引っかかるものがあります。

 

ハイっ「真実はいつもひと~つ!!」しかし「歴史の真実は、常に勝者により書き換えられる」とも、云う。アイタタ…ホント、解りずらいねぇ

  

では、その後の「秀吉VS家康」天下盗りレースの行方を、観てみましょう

 

天正十四年、秀吉と家康が対陣した、小牧長久手の戦いの二年後。秀吉に対して家康“臥薪嘗胆の頃”でした。そしてライバルの秀吉は「関白太政大臣」となりました。

家康は本能寺の変後の“出遅れ”が大きく響き、すでに挽回困難な差がつき「天下取りの戦略転換」を図る必要が生じました。

この頃の駿府はうち続く戦乱により、ずいぶん荒廃していました。それでも政庁をあえて浜松から、駿府へと移したのです。“そんな場所”に移る意味とは、そこに“何か”があったから。護らねばならない何か?!

一説には「秀吉ら上方勢に対抗するため」と、言われています。

 

話を本能寺に戻して、徳川家康暗殺説とはホントか?

 

気になるのは本能寺の変について、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』です。そこには『ある者は、これは信長の内命によりて、その親類たる三河の君主 家康を暗殺するためだったと疑惑した』といった記述があります。

徳川家康の一行(本多忠勝酒井忠次井伊直政榊原康政石川数正服部正成穴山梅雪重臣や小姓の三十四名)が、武田戦勝御礼のため上洛する。そして、五月十五日には、安土に到着しています。

信長が内命した?という「家康の暗殺説」ですが。果たして本能寺の変は『家康と徳川近臣の討伐』にあったのか。この説も迂闊に信じられません。もし信長が本気ならば、“安土城にて家康一行を簡単に討ち取れていた”はずですから。

「信長の夢は、世界にあり!!」

やはり信長は、自身亡き世に“未来に対する布石”を打っておきたいと、考えたことと思いますね。例えば安土城にて、家康に向い世界戦略を語り「将来、日本を禅譲する」と、言わなかったか?それを聴き知った光秀は、そんな(イカレポンチな)信長に絶望したのではないか。そんな気がするのです。

(※穴山 信君、あなやま のぶただ。甲斐武田氏、御一門衆だった。天正十年、甲斐一国の拝領と武田氏の継承を条件に、徳川家康の誘いに乗り内応する。本能寺の変の時には、家康らと共にいたが、畿内から逃亡できず途中で自害した。つまりツメ腹を切らされたらしい『家忠日記』) 

 

明智軍記に遺された「光秀辞世の句」を観てみると

 

光秀の辞世とされる漢詩が、いまに伝わる。内容から勘案すれば、本能寺の変の後に詠んだものと推察※1されます。

『順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元』 明智軍記

<大意> 順逆※2を問われる謂れはない。大道がわたしの心と、やがて判るだろう。五十五年間の夢も醒めてみれば、元の世の中へと戻るのだろう。

 

京の貴族社会での顔が効き、武将としても超有能だった明智光秀が突然、謀叛に走ったのは、それが「世のため、正しい行為」であると考えたから。

やがて時が過ぎればこの行為が、後世の人々が理解してくれるはず。光秀自身はきっと、そう思っていたことでしょう。

(※1 後世の“偽作の可能性”もあります。 ※2順逆は、叛逆の意味。大道は正しい道といったところか)

 

そう考えてみると、本能寺の変が“起ったきっかけ”は、信長の隠居宣言。そして「織田家中の新旧交代と頭首交代劇」から、始まったコトでした。

信長から信忠へ移譲されるものは、支配権力、広大な領地、数多くの家臣団など、多岐にわたります。よって本質的には、単なる「織田家、代替り時のお家騒動」なのであった、と思いますね。

そこに「天下覇権」云々が付加されてくるので、ホントややこしくなる。

(これまだ、続くの? I think maybe.)

 

閑話休題。あぁ疲れた、木の話です。 

 

信長の墓標となったヒイラギの推定樹齢は、四百五十~五百年あたりと診断され、信長が活躍した時代とも、ほぼ一致すると云う。

このヒイラギは随分な大木となり、昭和三十一年には、静岡県の「天然記念物」に指定されました。

また境内の大イチョウが黄色く染まる十一月には、首塚伝聞に由来する「信長公 黄葉まつり」が盛大に開催されています。

 

<参考に、どうぞ>

○参考 壱/本能寺の変、三日前。京、愛宕山おいて「何らかの決意表明」したと云う光秀。本能寺変後には梯子を外され、まったく予想外な展開に直面しました。その当日「光秀が詠んだ連歌」ついて考察してみました。

minminzemi81.hatenablog.com

 

○参考 弍/戦国武将の「お墓」を辿っていくと、本能寺の変などの様々な事件の舞台裏、生存説などの最期にまつわる異説、秘話など。それぞれ名将の波瀾の生涯、戦国歴史ばなしなのです。

戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 (PHP文庫)

戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 (PHP文庫)

 

  

○参考 参/「戦国一の謀臣」と言えば、このひとしかいない。本能寺の変の前後には、とにかく“キレまくって”いましたから。たくらみごとへの関与は、果たしてあったのか?

minminzemi81.hatenadiary.jp

 

参考/山岡荘八織田信長」、歴史人、ぶらり亀岡、PHP研究所、ウキペディア

(8400文字、You read it, thank you.)