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明智光秀が襲撃した本能寺。そこより四百キロ離れたお寺に「信長の首塚」『富士山 西山 本門寺』後編【歴史ミステリー】

 

時は天正十年六月二日未明、その時歴史が動いた本能寺の変」が勃発!光秀、何を想ったのか?!

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惟任明智光秀(本徳寺蔵)
明智惟任光秀/十兵衛/日向守

生年不詳、一説に「岐阜明智城」で生まれたともいう。青年時代までいったいどこで何をしていたのか、まったくの“謎”である。これ、秀吉同様よほど具合が悪かったのか?後に将軍義昭に仕え、織田信長との橋渡し役を勤める。また、信長の正室である「帰蝶とイトコ」だったとも。天正七年。丹波攻めにて包囲を続けていた、八上城を落とす。続けて黒井城も落とし、丹波一国を平定。すぐに細川藤孝と協力し丹後も平定する。この働きに信長は、感状を出し褒め称え『丹波での光秀の働きは、天下の面目を施した』と信長は光秀を大絶賛した。そして天正八年には、三十四万石領す大名に成長した。天正十年。「徳川家康の饗応役」であった光秀は一転、その任務を解かれ、羽柴秀吉が担当していた「毛利攻め与力」を命じられる。その途上の何処かで光秀は、重臣達に対して「信長討伐の決意」を告げた。そして「本能寺の変」となる。さらに秀吉との「山崎の合戦」に敗れ坂本へ逃走途中、小栗栖で没する。天正十年、五十六才でした。

▽前編のお話です。コチラから。

(より“理解が深まる”やも知れません?ただし“効能には個人差”があります)

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明智光秀丹波亀山城を準備万端、発進す!

 

本能寺の変がおきたのは旧暦「天正十年六月二日未明」のこと。これを太陽暦(ユリウス暦)に直せば「六月二十一日」頃になります。篠突く雨が続く鬱陶しい、梅雨の真っ只中でした。表向きには「本能寺での馬揃※1のため」居城 丹波亀山城を猿の刻(夕刻)発進させた。やがて日が落ち、月も出ない暗い丹波街道を急ぐ光秀軍。昨日の雨によりぬかるむ山道を、ただ黙々と進む。

武士のたしなみとされる「夜討ち朝駆け」。この言葉は「行軍には払暁、つまり夜明けに。討ち入りするなら、深夜」これが戦国武将の闘いのセオリーでした。敵が一番油断した頃合に、前触れなく奇襲することが「最大の効果を生む」ということ。この時光秀は、居城をわざわざ夕刻発進しました。なので“夜間行軍の意図”とは「夜討ち」と推定できます。間違いありません。そして道半ば、老ノ坂※2 にて別心する。

「敵は、本能寺にあり」と、光秀は告げた!

この時、謀反を決断するにはまず「信長、信忠親子」のたしかな所在が判明しなければ、決断出来なかったハズです。京に放った探索方からの報告があったのでしょうか。早馬が光秀に駆け寄り「御注進!信長公、信忠公、本能寺にあり」と、告げたのか?

(※1 大規模な観兵式や軍事パレード。一説には、信長が森乱丸に突如、指示したと云う。これには、べつの「事案」があったのかもしれない ※2 光秀の謀反については“突然思い立った”かの記述が多い。道半ばの老ノ坂あたりで、何処からの“使者”が既に待っていたのか?このあたりに答えがあるはずである)

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△桔梗は別名「岡止々支」オカトトキと云う。土岐氏が本拠とした地名は、この「ととき」の咲く場所「とき」から派生したと云う。土地に咲く花にまつわる家紋とは、何とも優雅な話です。

 

六月二日の未明、京の都に鬨の声があがる

 

京、本能寺に在泊していた織田信長を、明智光秀の兵一万三千で押し囲み襲撃。信長は「こは、謀反か 如何なる者の企てぞっ!」と森乱丸に尋ね、急ぎ物見を命じた。物見を終えた乱丸は「桔梗紋、明智が者と見え申し候」と答え、信長は「…で、あるか。是非に及ばずっ!」と言い捨てたと伝えられる。みずから弓を放ち、しばし薙刀でも防戦する信長。そして不意を襲われ完全包囲されたことを悟ると、本堂奥に独り引き籠り火を放ち自害して果てた。ほどなくして本能寺伽藍は紅蓮の劫火につつまれ、完全に灰塵となったらしい。太田牛一の『信長公記※1』でも本能寺の変くだりは、ドラマチックですね。

大河ドラマ本能寺の変』信長役、役所広司が主演。いい演技です。


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また火災時に「焰硝蔵に引火し誘爆したので派手に燃え崩れた」とも伝えます。織田軍団の中国攻めその出陣前なので、本能寺は「武器弾薬の兵站基地」となっていたのかも知れませんね。これは普通に有り得る話だと思います。

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燃え崩れた本能寺

小瀬甫庵※2の『信長記』では「首を求めけれども更に見えざりければ、光秀深く怪しみ最も其の恐れ甚だしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども、何とかならせ給ひけん骸骨と思しきさへ見えざりつるとなり…」と、光秀の狼狽ぶりを伝えている。そして「骸骨と思えるものさえ、一切見つからなかった」と云うのです。これ、信長を取り逃し「もしや上様は、まだ生きているのではないか??」疑心暗鬼に取り憑かれた、光秀の心理状態がよく判る描写です。

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上様の亡き骸を疾く探せ!

 

織田家現当主 織田信忠との闘いへ

 

やがて織田信忠妙覚寺にいることが判り、そちらへも軍勢を差し向けます。この光秀の迂闊な采配ぶりは、いったいどうしたことでしょうか?天下取りに綿密に動いた武将の行動とは、とても思えない粗忽ぶりです。まったく「キレ者、光秀」らしくない。

一方、妙覚寺で変報を聞いた織田信忠は、直ちに父信長がいる本能寺救援に向おうとするが、京都所司代 村井貞勝が駆けつけ「本能寺は既に焼け落ち候」と応える。そして「二条新御所は、守るのに堅固」と重ねて進言。信忠勢は二条御所へ立て籠もり、粛々と戦準備を始めだした。

「あれれ…村井ちゃん!それは変だよっ?!」

寡兵で籠城は一番の愚策。この村井貞勝は信長の古くからの行政官僚で「京都の行政全般」を任されていた知将だった。例えば、信長が京都での住居を本能寺に定めた時、貞勝にお寺の「改造普請」を命じている。また本能寺の変の頃には、すぐ真向かいに村井貞勝屋敷があった。そして貞勝は明智光秀とも古馴染みの間柄だった。おやおや、これどうなのか?

信長公記によれば『ここを出て退きましょうと言う者もいたが、信忠は「光秀はこのような謀反で自分を逃さないだろう。雑兵の手にかかるのは無念、ここで腹を切る」と仰せられた』という。信忠は文字通り腹を括った。

そして『まもなく明智が軍勢を攻めかけた。そこで猪子兵助、福富平左衛門、毛利新助(桶狭間で義元首をとった有名武将)らをはじめ他の武将もそれぞれ斬り殺し斬り殺され、我劣らじと戦った』寡兵ながらも信忠軍は大奮戦する。しかし利あらず、最期をむかえる。

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『しんちようき』陽明文庫所蔵

やがて『信忠は腹を切った後、縁の板を剥がしてこの中に入れ、遺骸を隠すようにと仰せられ介錯鎌田新介に命じた。御一門や歴々の家臣、家子、郎党は枕を並べて討死した。この散乱した有様をご覧になり、不憫にお思いになられた』『御殿へもまもなく火が回って来た。この時腹を切られ鎌田新介、ご加護なく首を打ち申した。仰せのとおりに遺骸を隠し置き無常の煙となり、哀れな様は目も当てられないほどであった』

そして「織田家当主 信忠」も父と同じく館に火を放って自刃。そして信忠の首も光秀は手に入れることは出来なかった…光秀がやらかしたこの「二重の失策」は、やがて致命的となっていくのです。

(※1 太田 牛一『信長公記 しんちょうこうき』の著者として有名。信長幼少時代から、義昭を奉じて上洛までを首巻、上洛永禄十一年~天正十年までを十五冊、計十六巻にまとめている。信長近辺の確証できる事跡を編年体にまとめ、比較的正確に記述している。信長の事績を研究するには、無くてはならない一級史料である)

(※2 小瀬甫庵。美濃土岐氏の庶流で、尾張春日井出身。坂井氏の養子となり、さらに土肥氏、小瀬氏と名乗りを改める。慶長十六年に『信長公記』を下敷に『甫庵/信長記』を、寛永十年には『甫庵/太閤記』を記した)

 

遺骨すら残さずこの世からプッツリと消え去った信長

 

本能寺の南側、一街(約254メートル)離れた場所に、南蛮寺(教会)があった。そこにいた宣教師の記録には『ある人は日本の大名にならい割腹して死んだと云い、ある人は御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ諸人が、その声ではなくその名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した』(天正十一年イエスス会 日本年報)

やはり間近で目撃した宣教師も、一切何も残さず「信長は消えた」と、描写しています。しかしやはりコレもおかしいのです。死体が消えるわけはない。

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イッタイナンデスカナ??

信長の遺体は、本能寺跡でとうとう見つからなかったという。しかし、日本家屋がいくら燃え盛っても「骨すら残らない」とは、到底考えられないことですね。最悪「真っ黒に炭化して残るはず」です。もちろんこれで、個体判別はかなり困難な話にはなりますが。

それで昔から「秘密の隧道(地下道)があり、密かに逃げ延びたのではないか?」と考えられてきました。信長は事変以前に本能寺の改造を命じています。例えばこのトンネル工事を、武田領から連れ帰った「黒川金堀衆」に命じたのでしょうか?

この本能寺の変のち、信長の残された息子たちは「父の拝み墓」を建立した。天下人となった秀吉もまた、信長一周忌法要に「木像の葬儀」を執り行いその墓まで造った。それで信長の墓と称されるものは、各地に伝承されいくつも遺っています。各地の墓に共通するのは、そこには「遺骸は埋まっていない」ということ。これは、探偵小説で言うところの「消失トリック」ですね。

それでは、いったい信長の遺体…

「誰が?何処に?隠したのか?」この謎は、ますます深まるばかり。

 

京、本能寺より四百キロも離れた、西山本門寺「信長の首塚

 

静岡県富士宮市にある西山本門寺。そこに伝わる寺伝によれば「信長の首を携えた武士がやって来て塚を築き、篤く弔った話」が遺されている。 

本門寺 首塚前解説看板には『天正十年六月二日京都本能寺の変で討ち死にした織田信長の首を、囲碁の初代本因坊算砂「日海」の指示により、原志摩守 宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に、炎上する本能寺より持ちだし信長の首をここ駿河西山本門寺に納め、首塚を築き柊を植えたのであります。第百代後水尾天皇のご息女常子内親王の帰依をうけた、当山中興の祖十八代 日順上人は、原家のご出身でご自筆の内過去帳に、本因坊海上人と織田信長公の法号を記し、手厚くご回向されておりました』と、記されています。

確かに当時の住職は、十八代日順上人で「日海の弟子」でした。しかも日順は元々は武家、原家の出身だったそうです。また、西山本門寺過去帳には、日順自身が「惣見院 信長、為明智 被誅」と記しています。これは「織田信長は、明智光秀により誅殺された」と云う意味。誅殺した?と…この“誅殺”とは「謀叛人が上意討ちされる」といった用語なので、まさに信長にとっては「占い通りの天中殺」なのでした。う~ん、ちょっと待てよ。

(※ この事変が下克上であったなら「弑逆、しいぎゃく」と呼ぶ。もちろん“下が光秀、上が信長”である。誅殺ならば、上意討ちとなり、この時の信長の官位は元 右大臣。その上となると日本にはわずか数人しかいない。左大臣太政大臣、その上はもう天皇しかないのです) 

 

しかし、この寺伝には「数々の不審と疑問点」もあります

 

【疑問点1】囲まれた本能寺をいったい、どのように抜け出せたのか?

 

この伝承に拠れば、本能寺にいた本因坊 日海が指示を出し「原志摩守 宗安」という武士に信長の首を持たせ、囲みを見事にすり抜けたことになる。しかもこの時、原志摩守宗安は、信長と共に自刃した自分の父「原胤重」と兄の「孫八郎 清安」の首と共に、本能寺より持ち出した。

本能寺からおめおめ「三つもの首」を持ち出した、志摩の守とはいったい何者なのか?そして原志摩守がいくら剛の者でも、万余の明智軍に幾重にも取り囲まれた本能寺、そう易々と突破出来たとは思えない。ましてや小脇に「怪しいモノ」を抱えた姿なら、誰もがまず疑います「そは、怪しやっ!召し捕れやぁー!」たちまち鉄砲、槍衾の餌食となりますから。

 

【疑問点2】駿河より手前の織田氏本拠、美濃尾張では何故ダメなのか?

 

やがて囲みを突破した原志摩守は、駿河にある「富士山西山本門寺」を目指して、一目散に山道をひた走ったと伝えられています。その距離にして、約四百キロ。しかも日に夜を継いで山道を真っすぐひた走った。どうもこの話もにわかに信じがたいですね。

そもそも、はるか遠く離れた「駿府のお寺」でなければならない理由、これは何だったのでしょうか。この当時、美濃や尾張、信州などには、信忠配下の武将がひろく展開していました。ならばそのいずくかに駆け込めばひと安心が出来るはずなのです。それをなぜわざわざなぜ避けたのか?

信長の首が“権力闘争の鍵”であるのならば「いったい誰に託すのか?」燃え盛る本能寺にて、死を覚悟した信長が左右に密かに遺言し「後継者を指名」したのではないか。そんな気もするのです。では、それは誰だろう?

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赤ピン「富士山 西山本門寺

○富士山 西山 本門寺(にしやまほんもんじ)は、静岡県富士宮市西山にある。日興上人(日蓮高弟の一人、白蓮阿闍梨)の法脈を継承する古刹。老杉の緑に覆われた境内は、3万5千坪(約11万5千5百平方メートル)と広大で黒門から本堂裏手の墓地まで直線で2kmもある。

 

【疑問点3】この「首塚(お墓)に、ヒイラギ」とは、なんとも異様です!

 

西山本門寺の黒門から参道を約五百メートル。御堂の裏手側に「信長の首塚」は現存します。御堂の背後に「柊(ヒイラギ)を墓標」として土饅頭の墓があり、信長の首は約三メートル程下の土中に眠っているとされる。

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柊鰯(ひいらぎいわし)

そう、ヒイラギでまず思い出すのは節分に『鰯の頭も信心から』といった「柊鰯」を入口に掲げて、鬼が嫌うと云う「魔除け法」ですね。また自家の魔除けには「表鬼門(北東)にヒイラギを、裏鬼門(南西)に南天の木」を植栽するというしきたり。ならば墓を護る呪術か?いや、違う・・・

これは、信長の怨霊を畏れた「鬼封じ」呪術だ!

 

首塚と云えば、歴史的に有名な「平将門」がある

 

またもや余談ですが・・「平将門の乱」の解説。平将門の乱は、関東騒乱を利用した「武士階級を朝廷に認知させる」ための闘いだった。平氏一族の内紛平定から始まり、関東諸国を巻き込み戦闘は大きく拡大していった。やがて将門は朝廷に対し、自らを新たな天皇「新皇」と僭称し、東国で独立国宣言をし、朝廷側より「朝敵」とされる。

やがて、朝廷側の追討軍と関東側の将門軍の戦いが始まった。しかし、その合戦中。飛んできた矢が将門の額に命中し、呆気なく討死した。敗将の将門の首級は京まで送られ、都大路にて晒される事となった。ところが三日目に、夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、東国のある場所に落ちた。この「首塚のある場所」に深い意味があります。

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平将門首塚の位置

将門の首塚江戸城の東側、いまの千代田区大手町、超一等地にあります。江戸城の大手門を護る位置。そして、何度動かそうとしても「将門の呪い」により、阻止されて来た。ここにわざわざ「呪術結界」が張ってある…これ、相当に怖い話なのです。

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(伝)織田信長首塚

さて、この駿府の地は古くは織田信長に討たれた今川義元の本拠地であり、さらには武田勝家の領地となり、次には徳川家康の政庁・隠居所ともなった場所です。それぞれ三者とも、信長にとって因縁あさからぬ人物達ですね。ここにも何か“引っかかるもの”があります。因縁話か…。

ハイっ「真実はいつもひと~つ」しかし「歴史の真実は、常に勝者により書き換えられる」とも。アイタタ…ホント解りずらいねぇ、困った。

  

その後「秀吉VS家康」天下盗りレースの行方?

 

天正十四年、秀吉と家康が対陣した「小牧長久手の戦い」の二年後。秀吉に対して家康は臥薪嘗胆の時期でした。ライバルの秀吉は「関白太政大臣」となりました。家康は本能寺の変後の出遅れが大きく響き、すでに挽回困難な差がつき天下取りの戦略転換を図る必要が生じた。この頃の駿府はうち続く戦乱によりずいぶん荒廃していました。それでも政庁をあえて浜松から、駿府へと移したのです。「そんな場所」に移る意味とは、そこに「何か」があったから。是非とも護らねばならない何か、とは。

(※一説には「秀吉ら上方勢に対抗するため」と言われていますが、それなら浜松で充分でしょう)

 

話を本能寺に戻して「徳川家康暗殺説」とはホント?

 

気になるのは本能寺の変について、宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』です。そこには『ある者は、これは信長の内命によりて、その親類たる三河の君主 家康を暗殺するためだったと疑惑した』といった記述があります。徳川家康の一行(本多忠勝酒井忠次井伊直政榊原康政石川数正服部正成穴山梅雪重臣や小姓、三十四名)が、武田戦勝御礼のため上洛する。そして、五月十五日には、安土に到着しています。

この信長が内命した?という「家康の暗殺説」なのですが。果たして本能寺の変は『家康と徳川近臣の討伐』にあったのか。この説も迂闊に信じられません。もし信長が本気ならば、安土城にて家康一行を簡単に討ち取れていたはずですから、まぁ違うだろう。

 

「信長の夢は、世界にあり!」

 

やはり信長は、自身亡き世に「未来に対する布石」を打っておきたいと、常々考えたことと思いますね。例えば安土城にて家康に向い世界戦略を語り「日本統一後には、日本を禅譲する」と、言わなかったか?それを陰で聴き知った光秀は、そんな(イカレポンチな)信長に絶望したのではないだろうか。そんな気がしますね。

(※穴山 信君、あなやま のぶただ。甲斐武田氏、御一門衆だった。天正十年、甲斐一国の拝領と武田氏の継承を条件に、徳川家康の誘いに乗り内応する。本能寺の変時には、家康らと共にいたが、畿内から逃亡できず途中で自害した。つまり、何かがあり“ツメ腹”を切らされたらしい『家忠日記』) 

 

明智軍記に遺された「光秀辞世の句」には

 

光秀の辞世とされる漢詩が、いまに伝わる。内容から勘案すれば、本能寺の変の後に詠んだものと推察※1されます。

『順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元』  明智軍記

<大意> 順逆※2を問われる謂れはない。大道がわたしの心と、やがて判るだろう。五十五年間の夢も醒めてみれば、元の世の中へと戻るのだろう。

京の貴族社会での顔が効き、武将としても超有能だった明智光秀が突然、謀叛に走ったのは、それが「世のため、正しい行為」であると考えたから。やがて時が過ぎれば自分の行為が、後世の人々が理解してくれるはずだ。光秀自身はきっと、そう思っていたことでしょう。ところがどっこい、謎のママだ。

考えてみると、本能寺の変が“起ったきっかけ”は、信長の隠居宣言。そして、織田家中の新旧交代と頭首交代劇から始まったのでした。信長から信忠へ移譲されるものは、「国家支配権力、広大な織田領地、数多くの家臣団」など、多岐にわたります。よって本質的には、単なる「織田家、代替り時のお家騒動」なのであったと思いますね。そこに「天下覇権」云々が付加されてくるので、ホントややこしくなる…。

(※1 後世の“偽作の可能性”もありますね)

(※2順逆は、叛逆の意味。大道は“正しい道”といったところ)

閑話休題。あぁ疲れたぁ~、木の話です。 信長の墓標となったヒイラギの推定樹齢は、四百五十~五百年あたりと診断され、信長が活躍した時代ともほぼ一致する。このヒイラギは随分な大木となり、昭和三十一年には、静岡県の天然記念物に指定されました。また境内の大イチョウが黄色く染まる十一月には、首塚伝聞に由来する「信長公 黄葉まつり」が盛大に開催されています!

(これまだ、考察続けるの?I think maybe…第三部へ続く)

 

<参考に、どうぞ>

▽参考 壱/本能寺の変、三日前。京、愛宕山おいて「何らかの決意表明」したと云う光秀。本能寺変後には梯子を外され、まったく予想外な展開に直面しました。その当日「光秀が詠んだ連歌」ついて考察してみました。

minminzemi81.hatenablog.com

○参考 弍/戦国武将の「お墓」を辿っていくと、本能寺の変などの様々な事件の舞台裏、生存説などの最期にまつわる異説、秘話など。それぞれ名将の波瀾の生涯、戦国歴史ばなしです。

戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 (PHP文庫)

戦国武将「お墓」でわかる意外な真実 (PHP文庫)

 

   

参考/山岡荘八織田信長」、歴史人、ぶらり亀岡、PHP研究所、ウキペディア

(8600文字、You read it, thank you.) #本能寺の変