minminzemi+81's blog

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~2024 夏休み自由研究~ 歩兵第二八連隊、その数奇な運命とは…1942年8月21日

極東アジア圏の大東亜戦争が何故、太平洋戦争となってしまったのか!

'41年12月8日の朝。ラジオが臨時ニュースを告げる「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり…」

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~前回迄のあらすじ~

日本軍は、太平洋戦争幕開けとなったハワイ真珠湾攻撃※1以降、東南アジア各地では、連戦連勝の想定以上の快進撃を続けていた。連合艦隊司令長官山本五十六大将は短期決戦で勝利し続け、ほど良き所にて講和に引き摺り込む算段だったと伝えられる。ところが'42年4月に、ドゥリトル中佐らによる「帝都初空襲(たいした被害はなし)」があり、これに国民は大きな衝撃を受ける。

▷BBCが伝えた💥ハワイ島攻撃&開戦

https://youtu.be/ukmF1fDdcKA?si=2RQstImfQbufPCVR

その頃、日本海軍内では「第二段階作戦」が模索されていたが、軍令部側は「米豪遮断するフィジー方面攻略」を主張。連合艦隊側はアメリカを早期戦意喪失※2させるため「ミッドウェーとハワイ島攻略」に固執する。五十六ちゃん「ダメならボキ、チョ~官を、辞めるよ?」駄々っ子か!最終的にミッドウェー攻略作戦が採択され、ニューカレドニア&フィジー方面は「当面攻略拠点のみ確保」に留まった。これがケチのつけ始めになるとは神のみぞ知る、だ。

▷NHKの考える💥ミッドウェー島海戦

https://youtu.be/ShvETTM9lrk?si=NX9gPT5wYErvnlXv

そして、山本(博奕好き)長官はハワイ北西2000キロに位置する「ミッドウェー島」奇襲攻略&空母撃滅戦を発動す、ババァ~ン!血湧き肉躍る。圧倒的海軍戦力にてミッ島攻撃しつつも、救援に出張って来るであろう?敵空母を補足し撃滅せしむ、キボンヌといっためっさ激ムズな複合作戦※3だった。そして、サイは振られた!結果は・・・🎲インケツ!

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▷♬.*「軍艦マーチ」が街に流れ(明治三十三年謹製)

🎤ジャンジャン、バリバリ、ジャンジャン、バリバリ、本日も絶好調、お兄さんもお姉さんも、打って打って打ちまくれぇ!はい。フィバ~スタァ~ト!

https://youtu.be/A75AQgDBtJI?si=sDsZLAYoC-EuI6u-

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
長閑には死なじ

まさか大伴家持の歌詞通りの展開なるとはなぁ・・・

わたしの想い、考えたこと、以下テゲテゲ記すなり

※1.日本政府は対米戦だけは、何としても避けるべきであった。そのための外交努力をやり続けてはいたが、弱腰ぶりをマスゴミは煽り、国民はいたずらに不満を燻らせ、軍部は政府に圧をかける。実際の処、北進策を推していた陸軍は、満州中国戦で戦線膠着。将は驕り兵は倦んでいた。ならば海軍を抱き込み本格参戦させ、耳目を厄介(関東軍という鬼っ子)な大陸から逸らしたかった。南進策への転換。南方戦線における島嶼戦は無論、海軍の艦艇抜きには到底成立し得ず、その策戦の多くを海軍に譲歩しまくった結果、インド洋から南太平洋まで戦線が“身の丈(兵站線や資源確保)合わない”程、ズルズルと戦線拡大して往くことになる、これが戦争の狂気。海軍の軍令部は、対米戦を拒否れば良かったのだ。これで東條内閣は崩壊、元の木阿弥、リスタ~ト!

※2.敵軍の早期戦意喪失・・これはあくまでも相手首脳さん次第の話であり、とても現実的には有り得ない夢語りだった。それはリアル戦史が示す通り。例えば狂人ルーズベルトが漸く没しても、次の腰抜トルーマンが登場し、暴走軍部をとても抑えられずに、泥沼化…といった具合。大体、山ちゃんがいきなりブン殴っておいて「フランクさあ、そろそろ仲直りしようぜェ!」は、そりゃあ無いダロよ?!五十六さんは、頭の良さで海軍を登りつめたというが、司令長官に就任してからは、何かネジが外れたやうだね。そりゃ、おかしい象と思ふぞな。

(追記/「不毛な日米戦争は、ルーズベルトという、たった一人の狂人が引き起こした」と、ハーバート・フーバー大統領が言った。この見識は、ほぼ正しいとおもえる)

※3.ハワイ奇襲攻撃の想定外の大成功により、自信をより深めた山本(博奕好き)長官は“ハワイ攻撃リターンズ”つまり「二番煎じでしかない、ミッドウェイ攻略作戦」を発動する。所が暗号解読により、既に作戦解析した米海軍空母に先制パンチくらい、海軍虎の子である機動部隊正規空母四隻及び、三千名もの精鋭を喪う大失態となった・・古来より「人間は成功体験は繰り返し行い、失敗経験にて漸く新しきを学ぶ」と云う・・失敗から学んだのは米軍側だった。

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歩兵第二八連隊一木支隊の怪綺譚

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ゴールデンカムイで一躍レジェンドとなった?北鎮第七師団「歩兵第二八連隊」は、明治33年に旭川で正式編成され「日露戦争奉天会戦三毛別羆討伐、シベリア出兵、満州事変、ノモンハン事件」など歴戦した精鋭最強部隊として広く知られていた。

連隊長の一木大佐は、長野県出身で陸軍士官学校28期。陸軍歩兵学校教官を務めるなど、実兵指揮に練達の将校。将兵達は陸軍最強と評され、主幹は昭和16年入営組の現役兵下士官と一部召集兵は、あの「ノモンハン事件」にも参戦した予備役だった。

'42年5月14日。この日は少し寒い日で雨も降り、桜がほころび始めていたという。この歴戦の房軍旗を先頭に、一木清直大佐が率いる支隊精鋭2000名が旭川北部第四部隊の営門を後に出発す。完全軍装でザッザッと営門を出て行く一木支隊の姿を見送った初年兵が「嗚呼、これこそが本当の陸軍将兵だ!」と感嘆したという。

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当時、この部隊の編成及び出動を「ホ号演習」などと仮称していたが、将兵達は夏服支給されたことから「きっと南方戦線だっぺなぁ」と、薄々予感していた。実は一木支隊は、ミッドウェイ島掃討戦のために、選抜された精鋭上陸部隊だった。旭川から汽車ポッポで広島県宇品(うじなには、日本海軍の兵站輸送基地があった)迄行き、船舶に乗り替えサイパン島へ渡り、本作戦発動をワクワク待機していた。

しかし肝心要のミッドウェー海戦で、主力空母4隻が壊滅するという大損害を蒙り、ミッ島占領計画は早くも頓挫した。一木支隊は6月にグァム島へ上陸、2カ月近くは南の島でのリゾッチャ生活満喫し、8月には原隊復帰命令を受けたので、グァム島から輸送船で、無事本土宇品経由し旭川に出戻るはずだった・・ところが好事魔多し。

(※歩兵連隊規模は、約三千名前後、連隊長は大佐。一木支隊の編成 : 連隊本部、第1大隊、連隊砲第1中隊、速射砲中隊、工兵第7連隊 第1中隊、独立速射砲 第8中隊、通信隊、衛生隊、輜重隊より編制ス)

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旭川にある北鎮第七師団には、師団司令部のほか「歩兵二六、二七、二八連隊」の兵舎が建ち並んでいた。通称北部第四部隊、第二八連隊の兵舎では、一木支隊が出陣したために表門手前の「第一線兵舎、第二線兵舎」がもぬけの殻であり、一番最奥の「第三線兵舎」に留守部隊がいるだけだった。

'42年8月21日。表門では重機関銃中隊から、衛兵勤務に出仕していた兵長が立哨していた。終電車も終り道行く人もパッタリ途絶える。交代時間午前0時近くのことだった。兵長は軍靴で砂利道を踏みしめるザクッザクという、部隊行進する音を遠くに聞いた。軍靴の底に打ってある鉄鋲が、道路にまかれている砂利とザクッザク触れ合うような音。兵長には中隊以上の編成に感じられた。

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まだ暗くてよく見えないのだが、ザクッザクッと良く揃った軍隊歩調が向うより聞こえてくる。夜間演習に出た部隊があると聞いていなかったが、この時間帯に部隊接近してくるのは、一体どういうことだろうか?兵長はすぐ営門内側の衛兵詰所に向かって「部隊接近中!衛兵は整列っ!」大声で怒鳴った。陸軍は極めて規律に厳格で、将校が指揮する部隊が営門を通過する場合は衛兵が横列し、送迎しなければならない等、細かい軍規が決められていた。もし敬礼や態度や服装に乱れがあると、上官から鉄拳制裁もしばしばで、衛兵は酷く緊張を強いられる勤務だった。その衛兵詰所には衛兵が7人いた。

兵長の耳には彼らのガヤガヤした話声と、ガチャガチャという帯剣が触れ合う金属音が聞こえた。兵長は両目をパカッと見開き、軍靴が響く方向をよおく見張る。そしてパチパチと瞬き我が目を疑った。房軍旗が見えたからだ。「嗚呼っ、まさかっ!」確かにあの軍旗だ!確か3カ月程前に一木大佐と支隊と共に、戦地に行ったはずだ。旭川駅に向かっていくのを自分も確かに見たのだから、これは間違いない。兵長の頭は更に混乱した。しかし軍旗が帰ってくるなら、必ず出迎える当直司令将校が出て来なかった。それでも兵長は「軍旗入門っ!軍旗入門っ!」と、また大声で怒鳴った。歴戦の房軍旗が、門柱の電灯の光にぼぅと浮かび上がった。

兵長は軍旗に捧げ銃敬礼をし、軍旗の辺りにいるだろう一木大佐に対し「表門っ。立哨服務中、異常なしっ!」と、大声で申告した。ところが通例なら「ご苦労」などと答えて、挙手答礼位あるはずが一向に何もおこらない。そして軍旗は正門から営内へ粛々と入り、それに続く部隊が四列縦隊で次々と行軍してくる。兵長は捧げ銃の姿勢のまま固まり、両目から火の出るような想いでそれらを眺めていた。それはまるで影絵を見ているようだった。兵士達は吐く息さえも殺したように一様に無言。驚いたことに小銃の先には着剣している。戦場をさっき駆け巡って帰ってきたと思えるような汚れたきった野戦軍装。腰から下は川を漕ぎ渡ってきたのかズブ濡れ状態、軍服の上衣とスボンの色がハッキリ区別できる程だった。兵長は眺めながら暫し放心していた。

一方、衛兵所の衛兵司令軍曹は、一木支隊の突然の深夜帰隊に、心臓のドキドキ鼓動が収まらなかった。何の前触れもなく連隊が軍旗押し立て帰還してくるなど、彼の長い軍隊生活でもなかった経験だった。軍曹の目にも帰還兵士の姿は影絵のように見えた。しかも連隊本部の兵舎を通過した途端、スッと消えたように見えた。上等兵は「なぜ将校の出迎えないのか」と、いくら突然の出来事にしても、それが不思議でならなかった。更に上等兵が驚いたのは、通り過ぎる兵士のどの顔も能面のような無表情でまるで生気なく、ドス黒かったことだった。誰一人として見覚えある顔がない。上等兵は「こりゃ何か変だ」と思った。

衛兵司令軍曹は「よしっ!俺は巡察してくる」と懐中電灯を持ち、帰還部隊の後をつけるように兵舎へ向かった。兵士たちが一斉に玄関から、我もわれもといった具合で入って行った。やはり一木支隊が帰ってきたのだなあ、それなら「ご苦労さま」一言ぐらいは言わねばなるまいと、懐中電灯を照らして兵舎の中へ入った。所がなんということだ。いまさっき兵隊達が先を争って入った兵舎なのに、しわぶきひとつしない静けさだった。先程の兵士達はもう何処にもいなかった。暗闇の中、兵舎の長い廊下を冷い風が吹き抜け、軍曹の首筋をなであげる。彼はゾッとした。これは幽霊部隊かもしれないと直感した!

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一木大佐率いる先遣隊916名は、この日、8月21日に部隊全滅していた。上陸したガダルカナル島の中部海岸線でアメリカ軍の猛烈な十次砲火と戦車群に蹂躙され、916人中777名(損耗率85%全滅判定)戦死するという惨澹たる状態だった。そしてこの戦況は、留守部隊にすら知らされなかった。厳しい報道管制で秘匿され続け、旭川市民及び国民がこの事実を新聞記事等で知らされるのは、何と1年も後のことだった。

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目撃当事者である兵長上等兵から、直に話を聞いたという一等兵が語る。「あの当時は半信半疑でした。各中隊から亡霊部隊帰還については他言しないように。もちろん流言もまかりならぬ、との注意があった。しかし、翌22日には連隊中、誰一人知らぬ者はないというぐらいに噂話が広がってしまう。私には兵長上等兵が、面白半分の作り話をしたとは、とても思えないのです。もし特定の数人の兵隊の作り話でしたら、当時あんな広がり方はしなかったと思います。私はいまでも、この話に確信を持っています」という。

当時、旧制旭川中学の最高学年である5年生が、卒業前の体験訓練で第二八連隊の兵舎に宿営していた。その中で不寝番に立っていた生徒が、亡霊部隊がカラの兵舎に入って行くのを見たという。その生徒は夜間演習から帰隊したのだと考えていたのだが、翌日になって兵隊達から幽霊部隊の噂を聞き及び「嗚呼、さては・・あの部隊はっ・・!」ということで、そこから生徒間に一気に噂が広まったという。憲兵隊より「亡霊部隊について一切流言してはならぬ」と厳しく通達はあったが、帰宅した中学生より市中に話が広まった。また憲兵隊は通学列車に張り込むなどしたが、噂が広がるのを抑えることは到底できなかった。第七師団の兵士たちの間では「営庭の明かりの下を一木支隊の兵隊たちが軍列を作って通過するのを見た。おまえも見たかっ!俺も見たよぉ」式に噂が益々エスカレートする。

同じ頃、第三線兵舎の外で立哨していた一等兵が、第二線兵舎の屋根に暗い空から人魂のような青白い色の長さ約2メートルの棒状の火箭が7~8本、突き刺さるように降ったのを目撃した。週番下士官室に行くと同様に見たという報告が次々届いたという。さらに「二八連隊の兵舎の窓ガラスが西陽で真紅に染まり、兵舎全体が血まみれのようになった」とか、「夜になると屋根瓦が、カラカラと騒々しい音を立て、不寝番を驚かせた」といった怪綺談まで乱れ飛んだ。

一方、出征兵士家族の間にも、不思議な出来事が起きていた。戦死した一木支隊の軍医中尉の母親は「8月21日夜、白衣姿で白い杖をついて、家に帰ってきた」と語り、その1週間後には第七師団内官舎にいた妻君の夢枕にも立つ。同じ頃に何人もの銃後の妻が、血まみれ軍服姿で枕元に立つ夫の姿を見たという。このことを留守部隊幹部将校に、安否等問い合わせるがまるで判然としない。

2人の不寝番の兵士が、正体不明の兵士の群れを見た。誰もいないはずの空き兵舎の二階より、兵隊がぞろりぞろりと降りてくる。鉄かぶとを横っちょにかぶったり、鉄砲を担いだり手にブラ下げたり、いろんな格好で次々と降りてくる。一目で負け戦と分かる乱れた服装と態度だったそうだ。「空兵舎ですから明かりは全くありません。だから真っ暗なのに階段の所だけボーッと明るく、2人は薄気味悪くて声かけることもできずに、ジィと黙ってそれらを見ていた。兵隊たちは踊り場を次々廻ると姿はパッと消えた。何処へ行ったか判然としない」ということだった。中尉は「そんな馬鹿なことがあるかっ!」と詰ったが、2人とも見たということでコレを放ってもおけず、連隊本部に報告した。

5日後になり“一木支隊の戦況に関する初めての公電”が師団本部に入った。さすがに全滅とはできず…「支隊が大きな被害を受けた、とぼかしてありました。でもピィーンときました。あの時の話はやっぱり本当だったんだ、あれはきっと一木支隊の英霊が還ってきたものだ。それで乱れた服装だったのだ」という話がまたも広まったのです・・

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一木支隊が何故一見無謀な作戦行動を執ったのか。それを知るには、ガ島巡る背景を知らねばならない。

米国物量作戦VS日本突貫精神

一木支隊の命運は、誰もが予想すらできない危ういものだった。ガダルカナル島は、日本から6000キロも離れたソロモン諸島に連なる、誰も知らない島だった。

ソロモンのガダルカナル島は、オーストラリア攻略のための単なる布石であり、島の東西には山嶺が走り密林地帯だらけ、北側に僅かながら河川と平地があった。ここが航空基地の適地であることから、日本海軍が'42年6月にガ島に上陸を開始、海軍設営隊約2,000名と陸戦隊300名が人海戦術で飛行場建設作業を始める。

このことを察知した米軍首脳は、第一海兵師団18,000名(バンデクリフト少将、米海兵隊は上陸作戦を主任務とする選抜精鋭軍。ガ島では650名戦死者と1,278人戦傷者出した)を主幹、空母3隻、戦艦1隻、巡洋艦14隻、駆逐艦31隻、22隻の輸送船団。それを基地航空隊より293機でエアカバーするという、いま出来うる限りの大戦力を投入、完成寸前のガ島飛行場を強襲し無血占拠した。

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おとろしいことに。この飛行場失陥まで、日本陸軍は「ガ島飛行場」なるものを、海軍より全く知らされていない(陸軍参謀本部の怠慢失態か?上級将校の虚言か?陸海間の情報共有はなされていない)。当時の大本営作戦課でも、ガダルカナルという島を知っている参謀は、誰ひとりとしていなかった。その程度の認識の島だった。チョロ出し出兵が続く遠因は、この辺りに存在する。

8月13日。第一七軍は、一木支隊に対し「先遣隊を編成し駆逐艦6隻に分乗、ガダルカナル島に上陸」と命令をくだした。2000名いた支隊を、更に第二梯団と分割「橋頭堡には先遣隊900人程度で十分」ということだろうか。16日、一木支隊先遣隊はトラック島を出発、18日の深夜、月明りの中。ガダルカナル島の中央部タイポ岬へ上陸した。所が後続部隊すら待たず、同島西部の飛行場目指して行軍を開始する。19日には威力偵察隊が早くも全滅する、すでに敵側に上陸が露呈している。

20日午前、一木大佐は飛行場攻撃命令を下達するが、その要旨は「行軍即捜索即戦闘」主義だった。この時は歩兵大隊規模であり、歩兵部隊の携行弾薬は各自250発、糧秣は一週間の限定。この軽装備ぶりは、戦う相手を完全に侮り甘くみている。一木大佐は、守備側米軍を2000程だろうと見積っていた。「海兵主力は既に撤退した後」と完全に誤認しており、仮にそうだったとしても「攻撃軍の🇯🇵900VS2000🇺🇸の守備側」。そもそも用兵発想が異常過ぎる。これが北鎮師団の伝統なのか。

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現実には米軍が海兵一万余で迎撃陣地を構築、日本軍を手ぐすね引いて待っていたのだ。米軍はヨーロッパ戦線で集団突撃への対処法を学んでいた。イル川左岸一帯に本格的塹壕陣地(機関銃300丁、大砲50門)を構築し、その長短の火力システムは濃密(クロスファイア。2つ以上の火器、機関銃等から放たれる火線を、交差するように配置することから十字砲火と呼ばれる)極め、しかも多数軽戦車が後詰に配置されていた。

20日の夜10時半、一木支隊捜索隊がイル川右岸に達すると、照明弾が夜空にポンポン打ち上がった。続いて敵の自動小銃乱射を受け続け、全く前進が出来ない。それを迂回した一木大佐は、イル河口を渡渉できる砂州(一切遮蔽物ない死地)を発見。翌未明より部隊主力は、河口砂州から「陸軍伝統の銃剣吶喊」を開始する。すると前方から側方からも、猛烈な十字砲火が日本軍兵士に雨霰のよう降り注いだ。兵士の殆どが瞬時に倒れ、砂州にドンドン折り重なっていった。

きっとコビーなら言う「もうやめましょうよ、命がもったいだい!!!!」

午前9時頃、米軽戦車6輌が背後よりキュルキュル姿を現す。僅かになっていた残存兵が、砲撃と戦車隊の蹂躙でみるみる数を減らしていく。一木大佐はもはやこれまでと午後3時頃、軍旗奉焼し自決し果てた。他将兵も支隊長に従い壮烈な戦死を遂げる。かうして日本陸軍と米海兵隊が、初めて顔合わせした戦闘は呆気なく終演。一木先遣隊は一朝一夕にして破れる。誰もが言葉無くす程の惨敗だった・・

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△三八式歩兵銃に装剣し敵陣営に吶喊※1する。勿論突撃時には応射はできないので、平地では敵からやられ放題となった。明治38年制定、陸軍歩兵サンハチ銃は、割と高性能で量産しやすく安価なため、たいして改良されることもなく第二次大戦終了まで現役だった。※2 正に日本陸軍アナクロさを象徴している。司馬遼太郎氏の著作物で「元亀天正の装備と某陸大佐が評した」と記している。これ言い得て妙な気がする。できるならば「ドイツ軍の突撃銃」持たしてあげたぁ~い!工業力不足てか?

(※1鬨の声上げ歩兵銃腰だめに敵陣突撃すること)

(※2後継銃は九九式短小銃。生産配備が遅滞続ける)

一木支隊の生還兵士が語る。「パァ~と行って、手柄を立てて、故郷に帰れるって、簡単に考えていた。とにかく戦争に負けるなんてことは、考えてないんだから。日本兵はね、ちょうど袋の中に入ったネズミと同じよ。うん、逃げて行けないんだもん。逃げもしない、隠れもしないもん、袋の中に入ったとこを飴さんは、自由自在に鉄砲撃つんだもん。簡単に死んじゃうさ。そんなもん1人も助からんよぉ、そういう戦いだもん」と。

また別の帰還兵士の証言「兵隊に入って、色々日本軍が調査した範囲の米兵は、こうだってぇ話を聞かされてね。それによると、とかく飴さんは日本軍と違って、精神力がまるでないから弱いと。それから地上戦というのをやったことのない兵隊多いから、とにかく大したことないんだと。いま考えてみるとねぇ、調査不足っていうか、本当に只ただ驚くだけですね。もう全てが決めつけなのさぁ」という。

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壮大なおまゆうブーメラン辻政信

ガダルカナル島の戦いに、深く関与し主導した大本営作戦課 辻政信中佐は、敗戦後あろうことか「ガダルカナル」なる戦記本まで出版している。その中で'42年12月中旬、第一七軍 参謀長から届いた電報内容を、恥ずかしげも無く引用し評している。

「1.全軍糧秣全く尽きて既に2週間。木の葉、草の根もまた尽き、川底の水苔まで食い尽くしたり 2.弾薬もまたなし。各部隊将兵中、動き得る者はほとんどなく、ただ全員各自の壕に座ったまま、敵来襲に際しては、銃剣と軍刀により最後の戦いを準備しあり 3.なし得れば空中補給をお願い致したし」

これに対し戦犯辻政信はこう宣った。「餓島の日本軍は、極めて多数の餓死者を出した。この一事によっても、この作戦が大本営の手に余るものであった。作戦失敗の責任は、こんな作戦をしゃにむにやらせた大本営が、その大部を負うべきであろう…」

・・あんだってぇ、おまゆう・・辻政信は日本を代表すレイシストアスペルガーの類と言っていい。

指揮官時代には部下から好かれようと前線視察を頻繁に行い、参謀時代には上官に好かれようと、上官の好む作戦を次々と立案した。常に周りから好かれようとする気性の為、生涯を通じ言行に一貫性がなく「自己愛性人格障害者」とされる。

マレーの虎こと山下奉文中将の日記に「辻中佐、第一線より帰り私見を述べ、色々の言ありしと云う。此男、矢張り我意強く小才に長じ、所謂こすき男にして国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上、注意すべき男也」とある。口先三寸ということか。

米国側でも、辻政信を評して「政治においても情報工作においても、性格と経験のなさから無価値」更には「機会があるならばためらいもせずに、第三次世界大戦を起こすような男」と、完全に呆れている。(1954年CIA機密文書)

▷辻 政信(つじ まさのぶ)

明治三十五年(1902年)~昭和四十三年(1968年)7月死亡宣言(没年不詳)。日本の陸軍参謀。陸士三十六期首席、陸大四十三期恩賜。最終階級は陸軍大佐。戦後、政治家に転身し衆議院議員参議院議員などを歴任した。昭和三十六年に、視察先ラオスで行方知らずとなる。

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餓島での幽霊部隊の目撃が続く

'42年の9月上旬。ダガルカナル島に新たに送り込まれてきた「川口支隊(川口清健少将)」の駐屯地での出来事。部隊駐屯地で2人の歩哨が夜間警戒していると、ザァーク、ザァークと砂浜を踏みしめる靴音がする。それは10人程度と思われる足音だった。歩哨の1人は「敵襲だっ」と、思ったのだが体中がゾワ~ッと寒気して、痺れたようになり、口も足も動かない。やがて暗闇から現れたのは日本陸軍部隊だった。真ん中で軍旗納袋を持った旗手、その周りに着剣小銃を担いだ兵士。軍旗護衛小隊だった。近づくと旗手少尉の頬から血が流れ落ちているのがよく見えた。みんな悲しそうな、このうえなく哀しそうな顔つき。うなだれた護衛小隊は誰もが、味方歩哨には気も留めないでザァーク、ザァーク、ザァークとゆっくり暗闇に消えていった。

暫くして「いったい何処の部隊だろう?」歩哨はもう1人に聞いた。「何処だろかな?俺はどうもさっきから寒気がして」と答えた。歩哨交代となりこの出来事を報告した。上官は「嘘をつくなっ!」と、顔を茹タコにして怒鳴った。次の晩も、また次の晩も、うなだれた軍旗護衛小隊は、同じ時刻に同じ方向に向けてザァーク、ザァーク、ザァークと歩いて行く。上官はもう何も言わなくなった。それは全滅した一木支隊の幽霊達が引き揚げてくる姿だった。前線ではその噂が、一気に広がってしまった。

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やがて、ガダルカナル戦は「敵と飢とに戦ひ勝つ」と謎言語で語られ始め、大本営は餓島奪還作戦の放棄を漸く決定す。2月7日まで、3度にわたる決死の海軍駆逐艦隊による残留将兵の撤収が行われ、陸海軍将兵計1万3600人が餓島から救出された。しかし、新聞報道には「一木支隊全滅」の一件は全く報じられず、その代わりに「ソロモン海戦の大勝利!」だけが大きく喧伝された。

2月9日。大本営は次のように発表する「…掩護部隊として、ソロモン群島ガダルカナル島に展開中の部隊は、昨年8月以降引き続き上陸せる優勢なる敵軍を、同島の一角に圧迫し激戦敢闘よく敵戦力を破砕しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬、同島を撤し他に転進せしめられたり…」これを機に「撤退」を言い換えた「転進」が流行語になる。

大本営発表では「敵に与えたる損害人員2万5000以上、わが方の損害人員1万6374名」と欺瞞された。しかし現実的には、餓島上陸した日本軍は3万1358名にもなり、そのうち戦闘行動にて戦死した兵士は5000人程度で、残りの1万6000名以上が飢えとマラリアで斃れ、ジャングルで息絶えていた・・・合掌

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📖 ́͏̖-ガダルカナル島とある兵士の日記 

米軍は戦闘終了した戦場で、日本軍兵士の記述物を採取していた。それらから日本の戦術情報を、丹念に吸い上げていたという。

『九月二九日… この日を待っていたかのように、敵機が円を描いて機銃掃射の的を探し始めた。とても恐ろしく将兵は何もできなかった。機銃掃射は一日に六、七回やって来て我々は明らかに怯えていた。我々は二九日の夕暮れを待っていた。この日が最後の総攻撃である。

最初こそ奇襲により敵の駐機所まで接近できたが、反撃は猛烈であった。擲弾筒は敵を震駭させるのにもっとも有効である。しかし、射程がわずか二五〇メートルに過ぎず、使う機会がほとんどないという欠点がある。

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敵の偽装は実に有効である。敵を発見するのは困難で予想だにしない犠牲が出た。五〇〇メートル以上では偽装は判別できないので、細心の注意が必要だ。偽装に対する訓練も必要だ。斥候は敵の射撃に引き返してはならない。

斥候の中には敵の話し声が聞こえるまで陣地に潜入し、結局誰何(すいか)され撃たれても自分を保ち、任務を遂行した者もある。敵には日本語を解する者もいる「ダレカ?」の声に騙されてはならない。

我が対空砲火に効果がないため、敵(機)が旋回しては重要地点に爆弾を投下する。我々は小銃しか持っていないので、唯一できるのはその場から逃げることだけだ。飛行機をみて逃げるとは軍人らしくもない。数発の爆弾が落とされた。爆撃はほとんど被害はないにもかかわらず、非常に恐ろしい。人としての不安な心を思い返しただけでも恐ろしくなる。労務者たち(軍属?)は警報が鳴り響くと同時に、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまう。兵士も敵の飛行機を見たら、内心では逃げたいのは間違いない。高級将校も誰よりも先に逃げるだろう。

我々は空軍について米独より要するに1世紀遅れていた。ニューギニア戦いで、我々は空軍の価値を第一に認識した。平和な故郷で暮らしている人々は、中国における我が空軍の優越について語っていた。実に子供じみた会話であった。ロッキードノースアメリカン、もしくは50~60機の爆撃機編隊による連続爆撃を受けずして、空軍の重要性を真に理解することは不可能だろう。

この戦争は補給戦であることもわかった。船舶輸送が勝敗の鍵を握っている。通常の補給線を維持するだけでも、空軍が重要となる。嗚呼、空軍さえあれば!兵卒ですら同じ意見をいっている…』

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本項の結論 : 闘いの趨勢を決定したものは、飛行場や空母等ではなく、まして精神力でもない。正解は「①情報と②補給」だった!

もちろん何方も、本国から6000km遠く離れたアウェイでは、どうにもできなかった。

ここでこの曲♬.*゚「静かな伝説(レジェンド)」https://youtu.be/9UegfjeY4SI?si=H_N0g9Aivwuzrsl-

著しく進歩とげた人工頭脳、chat🤖gpt氏に「ガタルカナル戦い」のこと、ちょっくら聞いてみた!

一回目、😎งQちゃん。

太平洋戦争の分水嶺となったガダルカナルの戦いですが。え~と、私には“小規模なヘンダーソン飛行場”が両軍がバチバチ鎬を削る程、最重要拠点であったとはとても思えません。(米豪補給線を断つor護るという意味はある)そして一度反攻作戦に成功した米軍はその後、有効活用することもなく西進を始めます。これは何故か?

٩🤖AIanswer。

ヘンダーソン飛行場の戦略的重要性について、あなたが指摘した疑問は非常に鋭いです。「ガダルカナルの戦いでなぜこの飛行場がそれほど重要視」されたのか、また、その後の利用について考察すると、いくつかの点が浮かび上がります。

1.戦略的な位置と心理的な効果

ヘンダーソン飛行場は、その位置が戦略的に重要だったため、両軍が激しく争いました。日本軍にとってガダルカナルに飛行場を保持することで、南太平洋の制空権を確保し、米豪補給線を脅かすことができると考えられました。一方、アメリカ軍にとっては、ガダルカナルを守ることが日本軍の南方進出を食い止めるための重要な防波堤となり、“戦略的な心理的効果”を持っていました。

2.戦争の転換点としての象徴的価値

ヘンダーソン飛行場は、単に物理的な軍事拠点としての価値だけでなく、戦争の転換点としての象徴的な価値も持っていました。ガダルカナルの戦いにおける勝利は、連合軍には初の大規模な反攻の成功であり、これが連合軍の士気を大いに高め、戦略的主導権を握る転機となりました。そのため、この飛行場の奪取は“象徴的な意味合い”が強かったのです。

3.ヘンダーソン飛行場のその後の利用

ご指摘のとおり、戦いの後ヘンダーソン飛行場は戦略的に重要な役割を果たし続けた訳ではありません。ガダルカナルの戦いに勝利した後、連合軍は中部太平洋での「アイランドホッピング作戦」を開始し、より重要な拠点を確保しながら日本本土へと迫っていきました。そのためガダルカナル島の重要性は相対的に低下し、飛行場も次第にその役割を終えていきました。

4.長期的な視点と戦略的優先順位

ガダルカナルの戦いは、連合軍にとって太平洋戦争の戦略的な転換点となりましたが、戦略的優先順位が変化する中で、ヘンダーソン飛行場が中心的な役割を果たし続けることはありませんでした。戦争が進むにつれて連合軍は、より効率的かつ決定的な目標にリソースを集中させるようになり、ヘンダーソン飛行場の重要性もそれに伴って薄れました。このようにヘンダーソン飛行場は、その位置と象徴的な価値により、ガダルカナルの戦いでは激しい争奪戦の中心となりましたが、戦略の変化共にその重要性は低下していったと言えます。 

𓂃𓊝𓄹𓄺  𓂃𓊝𓄹𓄺  𓂃𓊝𓄹𓄺 

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二回目、٩😎งQちゃん。

ガダルカナルの戦いですが。日本海軍は、アドバンテージ(飛行場失陥)なくしたにも関わらず、随分優勢に戦闘を進めました。これは穿った見方カモですが、「ガ島飛行場と陸軍兵」を餌にした日本海軍秘匿の「空母誘き寄せ作戦」だったのではないか…?

٩🤖AIanswer。

ガダルカナルの戦いにおける日本海軍の戦術について、あなたの視点は興味深いものです。確かに日本海軍はこの戦いの初期段階において、いくつかの海戦で優勢を維持し、アメリカ軍に対して痛撃を与えました。しかしながら、この戦いが「陸軍と飛行場を餌にした海軍の誘き寄せ作戦」だったかどうかについては、以下の点を考慮する必要があります。

1.統合作戦の不調

日本軍は陸海軍の統合作戦においてしばしば問題を抱えていました。ガダルカナルにおいても、陸海軍の連携は必ずしも円滑ではなく、戦略的な統一感に欠けていました。もし陸軍を「餌」として利用する意図があったとすれば、それを全軍で共有する必要があったはずですが、そのような共通の認識があったとは言えません。

2.現地の状況と反応

日本軍はガダルカナル島での戦況に対してしばしば即応的に行動しました。つまりアメリカ軍の進攻に対して日本軍は急遽対応しようとしたため、計画的に陸軍を「餌」にして海軍を優勢に持ち込むような余裕があったとは考えにくいです。

3.戦略的効果

日本海軍が局所的に海戦で成功を収めたとしても、ガダルカナル全体の戦略的状況を変えることはできませんでした。制空権と制海権を奪われた結果、ガダルカナル島での日本軍の作戦は次第に行き詰まり、最終的に撤退を余儀なくされました。

4.歴史的分析

多くの歴史学者日本海軍がガダルカナルで「誘き寄せ作戦」を展開したという見解を支持していません。むしろ当時日本軍が直面していた情報不足、補給線の問題、そして複雑な現地の状況に対応するための即応的な戦闘行動だったと見なされています。

以上の点から、ガダルカナルの戦いが「海軍による誘き寄せ作戦」だった可能性は低い、と考えられます。ただし、これは一つの視点であり、戦争の複雑な局面では異なる解釈が存在し得ることも、また事実です。

٩😎งQちゃん。

おおきにやで、ウェストポイント先生!あんた日本語の言い回しが上手になったなぁー凄いやんか๑

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無惨やな兜の下のきりぎりす」By 松尾芭蕉

 

(Thank you for reading.see you next time.)

参考文献、テキスト/文春オンライン,アジア歴史資料センター、ウキペディア、chatGpt)