戦争談話といえば、軍人の勇ましい手柄、もしくは悲惨な経験談などがほとんどである。反面、市井の市民談は忘れ去られるのが歴史の常となる
しかし、その時代の空気感や時代考証を考える時、貴重な資料を提供してくれるのが、庶民側の生の声なのだ。その好例を紹介します
二里ヶ浜に進駐軍がやって来た!
終戦の年(1945年)の九月か十月の頃(和歌の浦への上陸は9月25日)やった。私はちょうど六年生(国民学校)やった。ある日、担任の先生が「これから萬波楼へ掃除に行く。箒か雑巾を持って集まれ」と私達に言った。何しろ戦争に負けた年や、八月十五日で戦争は終ったが、アメリカ軍※1が上陸して来た。松江の海岸で二里が浜※2と言うた所や。あそこへ上陸用舟艇であがって来た。そりゃ敵ながら見事なもんやった。あれ見てたら日本が負けるんあたりまえや、と思ったな。なんせものすごい数や。また船もすごい。
私も戦争中、暁部隊の上陸用舟艇※3の演習を見たことがあるが、あんなもんやない。大発というやつや。砂浜へ乗りあげると、前がバタンと開く。兵隊が飛び下りて綱でその船をひっぱってるんや。海の方へもどらんようにするためや。そんな様子を見てたんで、アメリカの上陸用舟艇の接岸を見たらびっくりしたなあ。アメリカの兵隊が上陸用舟艇であがって来るんや。和歌浦の波止場や、らんかん下の小浜と言う所へ乗りあげて上陸してくるんや。なんせ馬力の強い発動機、つまりエンジンをつけてあるんやろ、ガッガッと岩でも砂でも乗りあげてしまうんや。海の方行かんように引っぱってる兵隊いらんのや。アメリカの上陸用舟艇はえらいもんやなあ、と思ったなあ。
二里が浜へ上陸した進駐軍は大阪へも行ったんやが、和歌山へも進駐して来たんや。そうなると兵舎、つまり宿舎がいるやろ。新和歌の旅館が進駐軍の宿舎に接収されたんや。萬波楼もその一つや。なにしろアメリカさんや、畳はいらん。畳を取りのけて、そこへ床板を打って西洋式の部屋にするんや。そうじに行くって何をするんやろと思ったが、畳をあげて床を打ちつける前に掃除をしに行くことになった、というわけや。学校へ進駐軍から命令かなんか来たんやろ。子どもの私らは何も知らなんだけどな。
第一トンネル(新和歌浦第一隧道)あたりにマンドリン(自動小銃のこと)をさげたSP(海兵隊憲兵)が巡察してるんや。おとろしかったなぁ。バババッ…とやられたら一発や。それでも私らは先生に連れられてたんで、まあ安心やったけどな。萬波楼へ着いたらさっそく掃除や。夏の大掃除の時に畳をあげるやろ。あんな調子や。ところが、ひょっと下の浜を見るとトラックが着いて、何か品物をおろしてるんや。すし由さんの下の浜でや。みんなそこへ見に行ったんや。
チョコレートや何やかや燃やしてるんや。戦争中、捕虜になったアメリカ兵が住友(金属工業)で働かされてた。終戦になって進駐軍が来て、解放されたんやけど、その人達に渡す慰問の品や。トラックから降ろす時、バラバラと落ちるやろ。そいつはもう汚ないというんで焼き捨てるんや。戦時中「ほしがりません勝つまでは」と甘いもんら食べたことなかった。チョコレートら見とうてもなかった。そのチョコレートが目の前に落ちてるんや。
アメリカさんが「汚ない」言うて焼き捨ててるんや。私らはそいつをポケットへねじ込んだもんや。どうせ焼き捨てられるんや、捨てるもんや、拾ってもどうちゅうことないやろ、思うかも知れんけど、あの時分はちごた。アメリカの軍需品を持ってたら軍法会議や。マンドリンで撃たれたって仕方がなかったんや。それでもまぁ、私らは子どもやったさかい大目に見てくれたんやろ。何にも言わなんだ。
はじめ、掃除に行くんやと言われた時は、損やなあと思ったけど、チョコレートが手に入ったんで、得したなあと思った。おかげでチョコレートをそれこそ何年ぶりかで食べたなあ。それから、まだ面白い話があるんや。だれやったか、カンカンに入ってある白い粉を見つけて来たんや。なんやなんや?というてるうちに「これ砂糖とちがうか」ということになって、なめたんや。「おい、いっこも甘ないな」「アメリカの砂糖は甘ないな」となめたもんや。あとでシッカロールて判ったんやけど、なんせ砂糖ら見たことないんやさかい、仕方なかったんや。まあそんな時代やった。
また、あの時分はね、進駐軍の品物はどんなものでも持ってたらあかなんだんや。ところが進駐して来たアメリカさんは、日本へ来た土産にするんやろなあ、なんでもほしがったもんや。むろん、物々交換でチョコレートやチューインガムと交換してくれと言うわけや。「チェンジ」と言うたなあ。ところがMPやSPが家へ調べに来た時「チェンジしたんや」言っても通らんのやから、なんぎなもんや。
それでも面白い話があるんや。アメリカさんにとって、掛軸が珍しかったんやな。ある家へ来て「掛軸、ほしい」と言うことや「よし、そんなら俺が書いてやるから持って行け」と言うとアメリカさん大喜びや。ところがその人が書いた掛軸の文字がなんと「日本大勝利」や。アメリカさんは漢字が読めん。「サンキュウ、サンキュウ」と帰ったんで家中で大笑いしたという話や。その人のささやかな抵抗やったんやろなあ。
また、こんな話も聞いた。黒人の将校の話や「日本に勝ってほしかった」という話や。アメリカの中で黒人という人種の立場とか、位置みたいなものを考えて「日本に勝ってほしい、勝てば黒人の解放に努力してくれる」と思って「日本に勝ってほしかった※4」と言ったのではないか、といまになって思うんや。
また、そんなこともあったんや。SPやMPが家の中で軍靴のまま上がりこんで来て、チョコレートやチューインガムやアメリカ軍用品を持ってないか調べに来たんや。うちも調べに来やれた。なんせ軍靴のままピストルを持った大きな男がドタドタと入って来て、タンスからはじまって押入れまでかきまわすんや。二階が私の勉強部屋やった。私の机の引き出しにチューインガムを入れてあったんでビクビクしていた。兵隊が机の引き出しを開けたが「ユー」と言って私を指さした。「ユー」ぐらい知ってたんで「うん」とうなずいたら「オッケー」と言うてくれて、へたへたと座りこんでしもた。アメリカさんも子どもには無茶なことはせなんだやなあと、いまになって思うなぁ。(出典/わかうら 百年のあゆみ より)
📖 余録/和歌山住金と河北地域のはなし
「和歌山製鉄所住友金属工業発行冊子」によると製鉄所の建設着手は、昭和15年12月、同17年4月より操業開始。当時和歌山市周辺では重工業誘致が図られており、昭和14年8月には県より総務部長、経済部長らが県出身有力者や住友金属工業株式会社本社に接触していった。
住友側も将来の工場立地のための用地を求めていたところであり両者の意向が一致していたことが推測される。住友側は用地買収海岸の埋め立ておよび築港の許可、漁業権買収の尽力を和歌山県に求め県はこれらの要求を受諾した。
昭和15年2月、湊、松江、木本、野崎、西脇各村の村長、助役を県庁に呼び土地買収の内交渉を行い、17日には松江小学校に関係者715名を集めて一挙調印に持ち込んだ。関係者の事情を考慮しないものであったため様々な問題が起こったが、若干の離作料が上積みされたのみで買収は強行された。
角川の湊村の項目では「小名に外浜、御膳松がある。外浜は右岸西方にあり、北は松江村、西は海に臨む。南は紀ノ川河口をはさんで…(略)…外浜から北西に続く海浜は、二里ヶ浜と呼ばれた。外浜の家数はおよそ40軒。砂地が多く水田はないが、畑作が行われている」といった記述がみられる。
庚申さん逸話
東松江の庚申さんは江戸時代末期より畑道、浜道、外浜への三叉路に当たる字「庚申」に祀られていた。昭和15年、周辺は工場用地として買収。「庚申さんを触ると祟りがある」という言い伝えがあったが、奇しくも買収に関与した人々が相次いで死亡。住友も庚申さんを構内に置き続ける措置をとった。
昭和20年進駐軍に接収された際、一兵卒の悪戯により本尊が行方不明となったが、その後、講中により再び本尊が祀られた。その後、高度経済成長に伴い工場建設も進み、庚申さんも遷座を余儀なくされた。ところが境内のエノキの枝を切り落とした二人の人夫が「怪我をした、病気になった、相次いで死亡した」と噂された。
当初は住友が経費を負担、工事を受け持ち祭祀は地元民の手で行うという話であったが、そのうち講中の人々も祟りを恐れ、遷座には関与しなくなり、住友は一切を任せられることとなる。市内高松寺の僧侶の協力を得ることで、ようやく遷座の見通しが立ち「お詣りだけはして下さい」ということで講中の人々との折り合いがついた。
遷座式には住友金属、鹿島建設、地元関係者が参加。高松寺、松林寺の住職により式典が厳粛に行われた。本尊は松林寺の仮殿に奉遷され、昭和39年3月12日、新築された庚申堂に本遷座された。現在は全域が工場の敷地内のため、外周から集落跡方面に向かって写真を撮るにとどまった。
先の小冊子の工場配置図と照合すると、外浜は第一転炉工場およびスクラップヤード付近、西谷は帯鋼工場西側、中谷は第二製管工場と第三製管工場の間、東谷は第二製管工場付近、隠居谷は工作工場付近、庚申は厚板工場と冷延工場の間にあったことが分かる。」(松江の今昔より)
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'24昨年度の自由研究「歩兵第二八連隊の話」
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(※1 進駐、米軍第33歩兵師団略歴:'41.3 動員され訓練うける→'44.4 ニューギニア移動→'44.12 モロタイ移動→'45.1 リンガエン湾へ移動→'45.2 ルソン戦→'45.9 和歌山に上陸→'45.9 神戸に司令部開設→'46.2 神戸にて動員解除される)
(※2 和歌山市を東西に流れる紀ノ川の河口北西に、二里(約8km)に渡り、かつて長大な砂浜と松林が拡がっていた。そこから「二里ヶ浜」と名ずけられた。ところが住金和歌山製鉄所の建設により、大部分が埋め立てられ、いまは二里ヶ浜の西端、磯ノ浦海水浴場として遺るだけとなった)
(※3 陸軍運輸部船舶部隊、通称暁部隊。暁部隊司令部:広島県広島市南区宇品海岸3丁目。人員物資輸送任務部隊だったが、やがて陸戦部隊として戦う。陸軍の揚陸艦や上陸用舟艇、小発大発の船舶兵器を運用した)
(※4 1919年、パリ講和会議。“われわれ米国の黒人は講和会議の席上で「人種問題」について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである”と、全米黒人新聞協会が発表したコメント。人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界列強の仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見ていた)
(Thank you for reading.see you next time.)