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乾坤一擲 大坂夏の陣!史跡「茶臼山公園本陣跡」にて「大坂夏の陣 家康死亡説」を知る。大阪 天王寺【歴史案件】

 
大河ドラマ真田丸」で一躍有名になった、大阪 阿倍野にある茶臼山(ちゃうすやま)古戦場です。この茶臼山公園には何と「山頂標柱」があり、一応は山なのですが。しかし、以前から「茶臼山古墳」と呼ばれていたのではなかったかな?

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茶臼山本陣跡 石碑
また、取り囲む池には“和気清麻呂”に因んだ「わけばし」と云う、何だか訳アリみたいな赤い橋も掛かっている。いまは「都会の中のオアシス」といったところですかね。のんびり散歩する人々。

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池には噴水があり通天閣も見えます

 

家康は「大坂夏の陣」で、すでに亡きものに?!

 

コアな歴史ファンなら、ご存知かも知れませんね。大坂夏の陣にて、徳川家康が戦死したという「衝撃的な事件※」を・・ドドーン!!

(※コレは若干“怪情報気味”ではありますがそれはソレ。怪情報のウラをとるとは、かなりクレイジーな試みなのです!“金瓢箪から駒”が出るやもしれませぬ、豊臣家だけにィ)

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公園には真田信繁の活躍を伝える看板があった

 

よく聴く「家康影武者説」は、正しいか精査しませう

 

ハイ。歴史では“狸おやぢ”こと家康さんは、元和二年四月十七日に御歳七十五にて「駿府城で亡くなった」これは史実ですね。

アウトドア活動中に「鯛の天ぷらの食い過ぎ」で、そのあまりの旨さに昇天してしまったのです!これが流布された俗説となります。

実はですね、この時に死んだのは「影武者の方」で、モノホン家康はその一年ほど前おきた「大坂夏の陣」にて、亡きものになっていたというのですよ。

それ、マジですかぁ・・なんか“怪すい香り”がプンプンしますよぉ?!

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此度の戦は三日の腰兵糧じゃ

この影武者に符合する人物は「小笠原秀政が家康の身代わり」になったという話がある。家康は戦場で度々“影武者を使った”らしいのです。もう家康は爺ィ(七十四歳)だから、戦場はとてもツラいよね。

この小笠原秀政は「大坂夏の陣」にも参陣し、榊原康勝※1に従って「本多忠朝※2を救援」する。しかし茶臼山の攻防で、豊臣方 毛利勝永隊のオラオラ反撃を受けて、忠朝は早くも戦死をとげる。浅野長重隊も敗走、徳川先鋒はすぐ潰えた・・めっさ弱。

また秀政もこの時“瀕死の重傷”にて戦場を離脱したが、こちらも間もなく「戦傷により死去した」と歴史は伝えています。この時、最前線にいた小笠原秀政がスリっと家康と入れ替わっていたとは、やはり考えずらい。

(※1 四天王 榊原康政の三男、榊原家二代当主。大坂冬の陣では“痔が破け大量出血”した。さらに大坂夏の陣ではさらに病状が悪化した。何と鞍壷に血が溜っても戦い続けたとか…そののち、五月二十七日に京都にて病没したと云う)

(※2 四天王 本多忠勝の次男。大坂冬の陣にて“酒のために不覚”をとり敗退した。それを家康に誹られた忠朝は、続く大坂夏の陣で汚名返上とばかり先鋒務め呆気なく戦死。墓は「一心寺」境内にあり「酒封じの神」に祀られている)

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徳川方は大坂城を南から攻めた(出典 ウキペディア)

あらまし/徳川方は大阪城南方に集結し、その兵力約十三万。大坂城南、街道筋よりゴリゴリの力攻めの布陣をひいた。

対して豊臣方の兵力は総兵力四万強。前軍として茶臼山真田信繁が、四天王寺門前に毛利勝永が陣取る。岡山口には大野治房、全軍の後詰に大野治長紀州街道、三ッ寺に別働隊の明石全登が伏兵しました。

豊臣方の主な作戦は、徳川主力を四天王寺の死地(丘陵帯)に誘い込み分断混乱させ、布陣が南北に伸びきって家康本陣が手薄になったところを、明石全登の別働隊が海側から迂回急襲する。

なお全軍総攻撃は、総大将の豊臣秀頼が金の千成瓢箪押立て、出陣する手筈になっていました。乾坤一擲の大戦!陣太鼓が鳴る、デデンデン、デデン♪

 

次に真田信繁(幸村)さんの闘いぶりを検証します

 

家康といえば、大坂夏の陣のおり「真田信繁に大きく本陣を崩され、もはやこれ迄と死を覚悟した逸話」は、誰もが良く知るハナシです。

それでは真田信繁に首をとられていた可能性があったのかぁー??

慶長二十年五月七日正午頃。大坂方の敗北は濃厚となり、茶臼山本陣にあった信繁が叫ぶ「狙うは家康が首、唯ひと~つ!!」いよいよ、乾坤一擲の大勝負が始まる!

パパン、パン! (ハリセン叩く音)

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「関東勢百万も候へ、漢はひとりもいなく候」

おりから家康本陣は、平野から住吉街道の北を通過し、越前兵の後詰へと陣を押し上げていた矢先。総大将の家康は「籠に乗りまったり移動」をしていました。これぞ好機!

すわその時。目前の越前兵をドーンと切り崩し、突き進む赤備えの一隊があった!そして徳川旗本が守る家康隊の横腹に、ドォドドッ~と雪崩込んだぁぁ~!

パンパン!馬廻が叫んだ「あなや、何奴!」

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三角点(26M)標柱がある

△慶長十九年「大坂冬の陣」で徳川家康が、本陣を構えた場所なのです。藍色の三つ葉葵の紋入り!ここが標高26メートルの山頂です。

 

三河物語によれば、家康本陣は大崩れにくずれ去ったという

 

大久保彦左衛門忠教が『三河物語』に、家康本陣の崩れる様をこう記している『ついに「厭離穢土 欣求浄土」の宝幢の旗幟も崩れ、後方に退く家康を旗奉行が見失った。御陣衆のなかには、三里(12キロ)も逃げた者もいたそうである。そして家康は小栗正忠とたった二人で、本陣に取り残されていた。三方ヶ原以来の大崩れ、まる裸同然となった本陣周り。真田信繁は家康を執拗に狙い三度も攻めかかったが、前日からの連戦で疲労激しく、ついに信繁は馬を返し立ち去った』

ええっ、なんでぇ?そんなバナナ🍌

「Sanada Come back !!」

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お好きな方が選べるリバーシブル対応

△慶長二十年「大坂夏の陣」では、この遺構を逆に利用して眞田信繁が本陣を構えました。真田の六紋銭ですね、メラメラ萌える!

 

家康は大坂夏の陣で斃れ、堺市「南宗寺」に葬られた

 

しかし、民間伝承では全く“違う事”を伝えている。大阪堺南旅籠町にある「南宗寺」。お寺の瓦には何故か「三葉葵の御紋」が付いており、徳川家と深い関係ある古刹であったらしい。

現在、遺る墓石の銘は「東照宮 徳川家康 墓」とあり、開山堂の扁額には「元和九年七月十日 徳川秀忠が、また八月十五日には家光が寺を訪れた」と記載されています。

家康の墓とするものは「南宗寺」に確かにいまも存在しています。また墓標横には幕臣 山岡鉄舟筆による「この無名塔を家康の墓と認る」の碑文もある。さらに、かつてここには『東照宮』があったらしい・・オヨヨ!

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東照宮は日光だけではなかった?!

そのあたり気になったので「日光東照宮」をサクッと調べてみました。

<東照宮HPより引く>

『…家康公は元和二年四月十七日、駿府城(静岡県静岡市)で七十五歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言により一年後の元和三年四月十五日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は同年四月十七日、二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに「東照社」として鎮座しました。その後正保(しょうほ)二年、宮号を賜り「東照宮」と呼ばれるようになりました。尚、現在のおもな社殿群は三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)十三年に造替されたものです』なんて書いてありました。

ふうむ、当初は「日光東照社」だったのだ。のち三十年も経ってから、神格アップグレードして「東照宮」となった。コレは何だか意外だった。

この後に日本各地に東照宮が雨後の筍のようにポコポコ出来あがっていったという。ちなみに「紀州東照宮」は、和歌山市の雑賀山(元は雑賀一党の本拠地)にある。元和五年に紀州初代藩主としてお国入した徳川頼宣により、東照大権現を祀る“東照社”として建立された。頼宣の紀州入国時にすでに計画されており、元和五年に起工、元和六年に遷宮式が行われたそうです。

(※元和九年の夏、将軍がこの妙な場所を訪れねばならなかった理由とは?実は二代秀忠から三代家光への代替りの年だった。そのことへの「報告と祈願」と思われます。しかし、なぜ堺に?)

 

遺され文献に一連の伝説経緯が書かれていた?!

 

寺伝「南宗寺史」には『本堂と庫裡の間に東照宮の廟あり。その傍らにあるは照堂にして、すなわち開山堂なり。堂の床下に無銘の塔あり。安国院無銘塔という。これなん疑問の塔なり』とある。

さらには『元和元年大坂の役に、徳川家康は摂津・河内両国の境なる平野に陣せしが、敵雷火を放ちてこれを襲う。いわゆる「平野の焼打ち」これなり。家康僅かに免れて葬輿に乗じ遁れて、和泉の半田寺山に至る。後藤又兵衛基次の紀州より帰り来たれるに会す。基次これを認め怪みて、その輿を刺す。彦左衛門驚きてその槍を斫(はつ)る。基次顧みずして去る。而(しか)してこれがために、家康は戧を負いて終に起たず』と書いてあります。漢、又兵衛やったゼ✌️

(「大阪府 全志」巻之五、大正十一年刊行)

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後藤又兵衛 見参いたす!

この話をつなげると、平野郷あたり(下図)で「地雷攻撃」を喰らった家康はんは、あわててカゴに乗りスタコラサッサと逃げだしました。すると後藤又兵衛が南より颯爽と現れ、カゴを豪快に槍でひと突き!「ドバッ💥」この難を逃れて堺方面へ落ちのびてゆく家康一行。やがてカゴを開けてみると、家康はすでに息絶えていた。「う~わっ!えらいこっちゃ、どないしまんねんなぁ、こりゃかなんなぁ・・」なぜ大阪弁

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爆発のあった樋尻口地蔵

それで、ひとまず亡骸を「南宗寺の開山堂」の下に隠した。ちゅー話なのです。そぇどやさ、あっさり家康ポテ珍しとるやんかいさ、コレな!

▽赤ピン、南宗寺/なんしゅうじ 臨済宗大徳寺派で三好氏の菩提寺大坂夏の陣では、堺の町と共に焼失した。元和五年、当時の住職 沢庵宗彭(たくあん漬けで有名)により現在地に移転、再興されました。お寺は、大仙(仁徳)古墳の近くにあります。阪堺電車 御陵前駅下車すぐ。

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南宗寺 周辺地図

 

何ですと!襲撃を裏付ける“物的証拠”が揃っているですと?

 

そしてこの話を“裏ずける遺物”が何と「日光東照宮」に保存されています。家康が「大坂夏の陣」で使ったと伝わる「網代駕篭(日光東照宮宝物館収蔵)」なのです。

三つ葉葵紋をあしらった駕篭には、何と「屋根に槍が貫通した穴」がきれいに残っている。これが後藤又兵衛の槍が突き刺した跡だったか?!

江戸時代を通じてこの駕籠を観ることを許されたのは、徳川宗家、御三家、御三卿だけだったらしい。う~むゅ、とても「意味深話」ですね・・

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あべのハルカスと赤い和気橋

すか~し!この説話には、ある“致命的欠陥”がある。そうです、そ~なんです。聡明な皆さんは、もうお気づきですね。何かが、おかしいのです。

 

「そ~なんです。川崎さん、A地点からB地点に行くあいだに、ですね」もとい。ネタが古過ぎる・・

 

この話のおかしな点は、コレなのぢゃ⇒『後藤又兵衛の槍に突かれ』というくだり。

この家康の駕籠を槍で突いたとされる“後藤又兵衛本人”は、前日の五月六日の「道明寺の戦い」で伊達軍の猛攻撃を受け「討死にしている」のです。なので家康の駕籠を攻撃するのは、そもそもが不可能なのですね。では、何故こんなヘンテコ設定になったのか?さらに、南宗寺の場所も⇒『違っちゃってるよね~』問題も勃発。

寺伝には「大坂冬の陣で焼失する。その後、住職であった沢庵宗彭が元和五年に現在の場所に再建した」とあり、大坂夏の陣以前には、南宗寺は、いまとは別の場所※1 にありました。

「それなっ、どやねんなぁ~」んだよぉ、何かガッカリだぜっ!

槍をブッ刺したとしても“後藤又兵衛では無い”のは確定だね。どうせなら「毛利勝永※2 配下の者に槍を突かれる!」とか、「後藤又兵衛の影武者、某」とでもして欲しかった。いちばん可能性が高かったからね。残念…

(※1 さりながら、家康が“落命した場所”に後、南宋寺を建て替えたとも考えられるので、こればかりはなんともかんとも)

(※2 猛将 森吉成の嫡男 森吉政。父と共に、豊臣秀吉に仕えた。その当時、森から毛利への苗字変更、ややこし。夏の陣では“天王寺口に真田信繁と轡を並べ布陣”した。闘い始まりすぐに本田忠朝、小笠原秀政らを蹴散らし、そのまま力押しにて家康本陣めがけ疾風怒濤一文字に切込んでいった!傍らに高名な真田信繁がいたために、相対的に不当評価される。が、しか~し、天王寺口の戦いでは“毛利勝永が最大最高の殊勲者”だ!もっかい書いておく、毛利勝永が最大にし最高…)

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通天閣を赤く染め夕日が落ちる

○推奨本/司馬遼太郎著『軍師二人』と『城塞』。二冊読めば「大坂の陣のあらまし」がサクッと判りますよ。

○参照V/テレ東/「新説 日本ミステリー」歴史ミステリー 家康は二度死んでいた? - YouTube  

(※天下のテレ東の番組なので「閲覧ご注意」笑)

 

無情にも日は傾き、やがて通天閣に火が灯る

 

しゃ~てと。「じゃ、串カツでも喰いにいくべぇ!」我々は茶臼山をあとに、ジャンジャン横丁へと進軍を始めるのでありました。

「狙うは、だるま本店。ただひとつぅぅ~!!」

コレにて、めでたし、めでたし。なのか?!

 

追記/茶臼山(古墳)公園の解説など少し

四天王寺の南西に立つ茶臼山。五世紀ごろの「全長200m近い前方後円形古墳」であるとされていた。しかし1986年の発掘調査結果によれば、古墳に欠かせない葺き石や埴輪が全く見つからなかった。

○規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられた。だが結論には未だいたらない。

 

○交通アクセス

○「Osaka Metro御堂筋線 谷町線「JR天王寺駅」徒歩約15分

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茶臼山本陣跡 周辺地図

参考/Osaka info、大阪観光局、ウキペディア (5600文字、You read it, thank you.let's enjoy history!)