光秀天下盗りは十三日でコケた
ガラガラガラ~「とりあえずビール!」居酒屋で麒麟ラガー麦酒がくる。そんな時に「サラッと語れたらいい感じ✨」なる歴史ウンチクネタを書いてみました。
明智 ミッツー 有能
比叡山焼き討ち時の最大功労者(とても真面目に坊主と女を撫斬りしました)である明智光秀に大津坂本の領地が与えられ、湖畔にはとても優雅な水城「坂本城」を築きました。さらに比叡山への登口に「西教寺」を置く。これは「戦死者供養」が表向きの理由。叡山とさらに向こう側平安京を“スルドク監視”する役目を光秀が担っていたと思われます。そしてこの西教寺に「光秀一族の供養塔と墓」もあります。
明智 ミッツー 疑惑
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に、本能寺の変について気になる記述があります➠『ある者はこれは信長の密命によりてその親類たる三河の君主 家康を暗殺するためではないかと疑義した』と。何やら家康も相当ヤバかった模様です。六月二日。本能寺の変を知るや堺から京へと向かっていた家康は、自国領へと一目散に遁走しました。なりふり構わず必死のパッチ!この家康さんの饗応役だったのが我らがミッツーくん。既に二人は通じてたのか「家康黒幕説」あり。
明智 ミッツー 発句
天正十年五月二十八日は「愛宕山連歌会」が開かれた日。この「愛宕百韻」での連歌は、うたのほとんどが暗号文のような“隠喩の連続”なのです。もうコレは「謎」過ぎ!
まずは明智光秀が発句「ときは今 あめが下知る 五月哉」と詠みました。ウラ解釈しますと「とき」は土岐氏、光秀の出自なのです。「あめ」が天で、天皇。「下知る」は下命。この流れを“意訳”すると「土岐氏(光秀)に天皇が御下命された五月」となりミッツーの黒幕はときの朝廷なのか?といった…「朝廷黒幕説」あり。
明智 ミッツー 出陣
亀山城に集結した明智勢に対し森蘭丸から使いあり。「信長が明智軍の陣容・軍装を検分したい」それで急遽光秀は京へ向かったという。武将や雑兵達は“信長討伐”という本当の目的を最後まで知らされておらず光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を、訳も分からず包囲急襲したらしいのです。光秀軍一万三千に対し信長側は近習百人足らず。信長はしばし奮戦したがやがて寺に火を放ち自害した。しかし光秀は信長の首どころか遺体すら発見出来なかったのです。信長の供養塔は沢山あるが、いまもまったくの謎!…てな「信長生存説」あり。
明智 ミッツー 子孫
明智光秀の嫡男である光慶、その後はどうなったのか?嫡男光慶(みつよし)生年不詳で元服や初陣の記録すらない。唯一、光秀主催の“愛宕百韻で光慶が結句を詠んだ記録”があるだけ。この時だいたい十三歳位だったらしい。山崎の合戦のあと、坂本城に光慶はいましたが。その生存説あり。「妙心寺」住職「玄琳」が光慶である説や、光秀の唯一の肖像画がある和泉国の「本徳寺」を開山した僧「南国梵桂」光慶説がある。さらには江戸幕府を裏から操った快僧「南光坊天海」となった説までありまする!
明智惟任光秀/十兵衛/日向守
生年不詳、岐阜明智城で生まれたらしい。青年時代まで何をしていたのか“謎”である。後、将軍義昭に仕え、織田信長との橋渡し役を勤める。信長の正室である“帰蝶とイトコだった”と云う。天正七年、丹波攻めにて包囲を続けていた八上城を落とす。続けて黒井城も落とし丹波一国を平定。すぐ細川藤孝と協力し丹後も平定する。信長は感状を出し褒め称え「丹波での光秀の働きは、天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。天正八年には三十四万石を領す。天正十年“徳川家康の饗応役”であった光秀は、任務を解かれ羽柴秀吉の毛利攻めの与力を命じられる。その途上の何処かで光秀が、重臣達に信長討伐の決意を告げた。そして本能寺。秀吉との山崎の合戦に敗れ逃走途中、小栗栖で歿する。天正十年、五十六才にて没した。
○お勧め本『ここまでわかった明智光秀の謎 』
歴史読本は、歴史人物の解析には定評がある。秀吉が書かせたという「惟任退治記」の現代文訳が巻末についていて、これなかなか興味深い。謎の多い明智光秀を、人物分析までしたいヒトには最適な一冊。
(1900文字、thank you for reading.)