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明智光秀と織田信長と本能寺の変。そこから四百キロも離れたお寺にある「信長の首塚」それ、ナンですのん?!『富士山 西山 本門寺』前編です【歴史推理】

2020年の大河ドラマ麒麟がくる」の主人公である、明智光秀。「本能寺の変」は永遠のミステリーと呼ばれ、いまだ多くの歴史ファンを引き付けます。

まずは天正十年、信長が置かれていた状況。本能寺までの流れを追いかけてみることが、肝要でござるな

その明智光秀本能寺の変において、犯した最大のミス「信長の首がみつからない!?」この謎を考察してみたいと思います。歴史ファン待望のドラマ。

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織田上総介信長(出典ウキペディア)
織田三郎/信長/上総介/右府様/第六天魔王

信長は尾張勝幡城で生まれた。子供の頃から“破天荒な行動”が多く、傾奇者の服装でねり歩き、栗や柿・瓜などを食べ歩きした。それで周囲から“大うつけ”と呼ばれる。信長の性格は「極めて残虐、人とは違う、異なる感性」を持っていた。敵対者や裏切り者に対しては、ことさらに残忍であったと言われ、浅井父子と朝倉義景の三人の髑髏を「はくだみ」とし“酒の肴”としたのは有名な逸話、どうも“サイコパスの傾向”があったらしい。しかし、その一方で“世間の評判”を非常に気にしたり、家臣や領民の意見も採用する柔軟性もあった。信長は日頃から武芸の鍛錬に励み、趣味として相撲、鷹狩り、茶の湯囲碁などに自ら励んだ。特に“南蛮文化に強い興味”をいだいていたらしい。最期には本能寺の変にて、明智光秀により弑逆された。享年四十九歳。

 

織田信長は、天正九年八月十三日に「信長自ら出陣し東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし日本全国残るところなく、信長の支配下に置く決意である!」と、天下一統の野望をあらわにした。

そして、確実にひとつ、ひとつ布石を打ってゆく。 

(※ 囲碁で中盤以降の展開を予想し、勘所となる場所に石をあらかじめ張っておく、戦略的配置のこと。そこから転じて「布石を打つ」という慣用句となり“未来のための下準備”的な意味あいとなった) 

 

信長はついに、長年にわたる宿敵 武田勝頼を追い詰めた

 

本能寺の変が起こる三月前。天正十年三月十一日。織田信長は巧みに内部崩壊を誘い、武田勝頼親子を天目山に追い込め、自害させた。ここに名門武田氏が、滅びました。

そして三月二十七日。高遠城を攻略した嫡男、織田信忠にたいし「そちに天下支配の権を譲る」と宣言するに至る。

 

これは、織田家中での“世代交代”“信長の隠居”を意味する。

 

人生五十年の時代ですから、何の不思議もない。ですが、実はこれ“大変な決断”なのでした。

武家ではよくあるハナシで「代替り時には、必ずお家騒動が起きる」まして“大き過ぎる権力の引き継ぎ”は、何かと家中係争の引き金となります。

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鳴かぬなら…ていっ!

(※信長には、11男11女もの子供がいた。文字通りの精力的武将だった)

それは、今回の“武田氏滅亡の遠因”ともなったことでもあり、何より信長自身が実弟信勝と“醜い家督争い”を身をもって経験した苦い過去もあった。しかし嫡男の織田信忠は、父信長の眼鏡にかなった“有能な武将”だったのです。

この時点では、さして大きな諍いも起きず、表面上“織田家は安泰”と思われました。甲斐から東海道へと至る道を、馬上より「日本一の霊峰 富士山」を眺めながら、新たに獲得した「織田の新領土」を、ゆるゆる帰国の途に就く。

この時、我が身の来し方行く末、想い巡らしたのではないでしょうか。まずは永年の宿敵であった武田氏を倒し、さらには「後継者問題」も決着した“安土凱旋”なのでした。

 

次なるターゲットは「西国の毛利平定」で、あるか

 

そして、永年に渡る功労者 徳川家康には、駿河国を割譲した。この旧今川領にて、若き日々を人質として過ごした家康にとっては、駿府は良くも悪くも“想い出深い土地”でした。これにより、家康は東海三ヶ国に及ぶ、大大名へと成長しました。

あとは、関東方面で信長に盛んに抗戦していたのは、越前の上杉景勝だけだった。信長は北条氏まで傘下に収め、武田氏が滅んでまずは“東方の憂い”は去った。また九州の地においては、大友氏や龍造寺氏共、信長とは“表向きは友好関係”にありました。

しかしその一方で、中国地方の大国 毛利一族との文字どうりの“泥沼の闘い”が続いていました。また四国においても、長宗我部氏が突然反旗を翻し、交戦状態におちいった。東へ西へ。

 

だが「駄目押し※1」続ければ、織田による「天下一統が定まる」はずであった

 

秀吉は、中国毛利攻めに宇喜多秀家勢(約一万)を傘下に加え、水攻めされた備中高松城はもはや、落城寸前となった。

さらには、毛利の後詰軍が着陣(五月二十一日になって、猿掛城に毛利輝元本陣、岩崎山に吉川元春、日差山に小早川隆景)する。

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備中高松城水攻め(東京都立中央図書館蔵)

舞台はコレで整った。あらかた目算※2 がたった羽柴秀吉は五月末、急ぎ安土の信長に援軍を要請し、これを了承される。

さすが“おべっか使いの秀吉”、上様の性格を判っていますねぇ。サラリーマン武将、出世するタイプの男ですよ。

さぁ、いよいよ「織田軍VS毛利軍」の“天下覇権を賭けた大戦”の始まりである。いやいや「終わり始まり、だったのか?!」

 

運命のカウントダウンが、スタートした。

この時、畿内で遊軍だった「明智光秀」ほか各武将の面々に、中国方面への出陣の下知が次々とくだる。信長、信忠親子も最前線へと駆付ける手筈を、急ぎ終えた。そして舞台は、策謀渦巻く、京は本能寺へ。でで~ん、でん♪

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京本能寺にて

六月に入り織田信長が、自慢の茶道具 九十九茄子茶入、白天目茶碗、高麗茶碗、青磁花入など三十八名品を並べ、京の貴族や商人を集め催した「本能寺茶会」は、満足な結果に終りました。さらには夕刻からは織田信忠主従も加わり、酒宴へと移る。

▷信長は、得意の「敦盛」でも、披露したのでしょうか?


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すべては順風満帆に運んでゆく。やがて夜もふけて、信忠が宿舎の妙覚寺へと帰る頃には、随分盛り上がった酒宴もおひらきとなった。信長は大の「茶事好き」であり、また「囲碁好き」だったのです。

(※1 囲碁での終局、どちらでも無い陣地を「ダメ」と言う。その駄目を埋めて勝敗を明らかにするため、さらに碁石を置き続けることを“駄目押し”という。「駄ジャレ」や「駄菓子」も、ダメよぉ~ダメダメ!)

(※2 「もくさん」とは碁盤の縦横にはしる交叉点のこと。確定地の把握と将来的な地目の可能性、盤上に展開した石の裏表などを総合的に勘案し判断する。転じて“物事の企てや計画する意味”となりました)

 

本能寺にいた「本因坊(日海)算砂」なる御仁、いったい何者でござるか

敵を殲滅するのではなく、最後の局面にて“一目多ければ勝ち”なのが囲碁。そのために知恵を絞り、想いを巡らすのが「戦略」であり、囲碁の醍醐味となります。

 

京、本能寺において。真剣勝負の行方は、どんなんかなぁ

 

六月朔※1の夜である。空に月はなく、漆黒の帷が本能寺を包んでいた。

本能寺の片隅にて「本因坊 日海(算砂)と鹿塩利賢」が、囲碁対局していた。しばらくすると“盤上に珍しい三劫※2”ができて、決着はつかず“三劫無勝負”となったという。

その対局の様子をじっと眺めていた織田信長。やおら立ち上がり日海と利賢に、本能寺に泊ることを勧める。信長のことなので「明日また対局を仕切り直せ」と含めたのかもしれない。

(※1 太陽暦ユリウス暦」では、六月二十日頃。 ※2 これ以降、囲碁世界では「三劫は不吉の前兆」とされるようになった。ただし残された本能寺棋譜には、三劫になりそうな場所はなく“後世の作り話である可能性”が高いといわれる)

 

囲碁名人の「本因坊(日海)算砂」は、実はすごいヒトだった

 

本因坊 日海。永禄二年~元和九年、京都生まれ。京の日蓮宗 寂光寺 本因坊の僧で法名を「日海」と称し、後に「本因坊 算砂」と名乗る。家元 本因坊家の始祖となる※1』

古代からの囲碁は、盤面四隅の星に碁石を配置してから始める「置き碁」だった。十六世紀後半には現代と同じ、自由布石による「互先」が始まる。

(※1 以来、本因坊は代々の世襲制となり、第21代本因坊秀哉まで続きます。昭和十四年、秀哉の引退後は世襲廃止、本因坊は“囲碁勝者に与えられる一大タイトル戦”となった)

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黒と白とのせめぎ合い、囲碁

この黒白交互に自由にパチリパチリと打ちはじめる「互先」が考案された天正年間は“織豊時代”であり、天下統一されていった時代でもある。単なる「戦バカ」は、淘汰され、真の実力者が勢力拡大していった。

そのためか囲碁でも“戦術法”ではなく“戦略眼”が重視され「布石」の概念が生まれた。これは、織田信長好みに本因坊日海が「互先」をアレンジしたと思えます。とにかく頭が良かった。

 

名人、本因坊日海(算砂)と信長の関係はどうだったのか?

 

そして日頃から、信長は日海に囲碁の教えを受けていました。

そんなある日のこと。信長(下手)は日海(上手)と対局し「五子置き(ハンデ)」打ちはじめますが、まったく勝負にならず、日海に軽くいなされてしまったという。これには流石の信長も舌を巻き「そちは、まことの名人なり!!」と、本因坊日海を賞賛した。ここから現在も使われる「○○名人」という言葉の起こりとされています。

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本因坊算砂、そちは名人じゃ!

それ以来信長は、日海のことを「名人」と呼び、囲碁の師匠と仰いでいた。しかし、明け方には「光秀謀叛の嵐」に巻き込まれることになるのでした。

 

作家 山岡荘八が描く「織田信長」に興味深いシーンがある

 

余談ですが。光秀は「算命術」つまり、いまで言う「四柱推命」を嗜んでいたらしい。

それは合戦前に行う“縁起かつぎ”みたいなもので、出陣の日時、方位、場所などすべて占い、もしも“凶”と出たら合戦延期か、とり止めともなった。もちろんこれは「軍配師」いわゆる軍師の役目で、総大将が執うことではない。この時も光秀みずから筮竹と算木をシャシャと使い、自身の“未来運命”を占ったとされています。

そして光秀は『上様のご運は、この六月から“空亡”に入らせられる。空亡は十二年毎にまわってくるその人一代の凶運の時ながら、それにあるは上様お一人ではないぞ。光秀はな、すでに去年、今年と空亡のうちにあるのじゃ。それゆえこの間の出来事は、一つとしてよい事はなかった。その空亡を脱するは七月半ば、それまでは光秀も、やはり手を拱いて自らの意思では動かぬものと知るが良い』と周りに告げた。

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

 

ここで言う「空亡」は“大殺界”のことで、“自分から動けば自滅する”といわれている。ならばこれ、随分と自己矛盾した話となりますね。

そして疑問も浮かぶのです。

 

本能寺の変は果たして、“明智光秀ひとり”で起こしたものだったろうか??

 

○はなしは「信長の首塚?!何それマジで?後編」へと続きます↓↓

minminzemi81.hatenablog.com

 

昔からささやかれる、黒幕謀略説とはいかに

実は光秀に、本能寺の変をそそのかした「黒幕がいたのではないか?」といった「黒幕」謀略説が、昔からあります。主な三つの説をザックリとご紹介します、色々推理してみて下さい!

 

①朝廷黒幕説

○信長は朝廷側に対して、正親町天皇に譲位を求め、暦の改正(宣明暦を→三島歴に)も要求しました。そして官職を辞していた信長に、三職推任(征夷大将軍の要請?)したが信長はこれを無視、朝廷は綸旨(りんじ)をないがしろにされ、面目を失くしました。

○また光秀との朝廷のパイプ役「吉田兼見の日記」は、何故か二つあり書き落としの箇所がある。本能寺の変後には、関与を疑われた前太政大臣 近衛前久が出家(号 龍山)、遠江国まで遁走しました。しかしこれ、なぜ隠棲した場所がわざわざ徳川領なのか? あれれっ、ずいぶん変だよね??

 

羽柴秀吉黒幕説

○犯罪捜査の基本「犯行により一番得した者は誰か?」それは明智光秀を討って結果、天下人となった秀吉です。秀吉は京での変事を知ると、毛利氏と素早く講和(もっと以前に、すでに講和条件等は調っていたはず)を結び、待ってましたと「中国大返し」を敢行。山崎の合戦にて明智光秀を破る。

○その段取りの鮮やかさは、かねてから(黒田官兵衛か?)準備万端だったと、想われます。しかも毛利軍は、追撃戦(やれば一方的なボロ勝ちとなる)すらありませんでした。そんな馬鹿な話はない。それでは「秀吉が光秀をまんまと陥れたのか??」そう権力者は、歴史を捏造しますからね…あるいは。

 

徳川家康黒幕説

○長年に渡り、信長の同盟者だった徳川家康は、武田氏が滅亡することより“東国方面での存在価値”が、おおきく損なわれました。そしてこの時、信長の招きに応じて重臣とわずかな供廻りを連れ、京や堺見物にのんびりと訪れていました。しかしこれは徳川主従にとり、とても危うい状況なのでした。

○本能寺にて織田側が「徳川主従をひとまとめに殺害」する計画が発覚。この“危機的状況”を打開するために、家康は“何らかの対抗策”を前もって練っていた。その意趣返し、それが「光秀の謀叛」の真意であるとします。しかもその後、光秀は死なず生きていたという伝説まで…マジですかぁ~??

(注/光秀の子孫という明智憲三郎氏が書いた“本能寺の変 431年目の真実”が、話題になりましたね)

 

④おまけコーナー、新説です

○最近の黒幕トレンドには「四国政策説」があります。林原美術館で「石谷家文書」が発見された。長宗我部元親が光秀配下の武将、斎藤利三に宛てた手紙です。四国方面の政策担当していた光秀は、この政策にまつわる“軋轢から叛意”を起したというもの。

○しかし、斎藤利三や長曾我部氏の“危険な先棒”を、上位者の“光秀が自ら担ぐ意味”が分かりませんが…とは言うものの、この説の可能性はゼロではないからね。さらなる補完出来る、“何らかの物証”が望まれますね。

 

▷推奨本/『現代語訳 信長公記』 現代語に翻訳され、とても読みやすい。織田信長の生きた戦国時代の空気感が、よく伝わって来ます。日本史に燦然と輝く伝記作品といえます。

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

 

参考/太田 牛一(おおた ぎゅういち)官位は和泉守、通り名は又助(またすけ)。戦国から江戸初期にかけて活躍した。信長公記 しんちょうこうき』の著者として有名。信長幼少時代から、義昭を奉じて上洛までを首巻、上洛永禄十一年~天正十年までを十五冊、計十六巻にまとめている。確認できる事跡を編年体にまとめ、正確に記している。信長の事績を研究するには、無くてはならない一級史料となっている。

○併せてこちらもどうぞ。「信長しくじり先生」ばなし。

minminzemi81.hatenadiary.jp

  

参考/山岡荘八織田信長」、歴史人、ウキペディア

(6100文字、See you again.)