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明智光秀と織田信長と本能寺の変。そこから四百キロも離れたお寺にある「信長の首塚」『富士山 西山 本門寺』前編【歴史ミステリー】

 

まずは天正十年、信長が置かれていた状況。本能寺までの流れを追いかけてみることが、肝要でござるな

 
本能寺の変は「永遠のミステリー」と呼ばれ、いまだ多くの歴史ファンを引き付けます。明智光秀本能寺の変において、犯した最大のミス「信長の首がみつからない?!」この謎を考察してみたいと思います。歴史ファン待望ドラマ、デデンデン♪

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織田上総介信長(出典ウキペディア)
織田三郎/信長/上総介/右府様/第六天魔王

信長は尾張勝幡城で生まれた。子供の頃から「破天荒な行動」が多く、傾奇者の服装でねり歩き、栗や柿・瓜などを食べ歩きした。そのせいで周囲より「大うつけ(大馬鹿者)」と呼ばれる。信長の性格は「極めて残虐、人とは違う、異なる感性」を持っていた。敵対者や裏切り者に対しては、ことさらに残忍であったと言われ、浅井父子と朝倉義景の三人の髑髏を「はくだみ」とし“酒の肴”としたのは有名な逸話、どうも「サイコパスの傾向」があったらしい。しかし、その一方で「世間の評判」を非常に気にしたり、家臣や領民の意見も採用する柔軟性もあった。信長は日頃から武芸の鍛錬に励み、趣味として「相撲、鷹狩り、茶の湯囲碁」などに自ら励んだ。特に「南蛮文化」に強い興味をいだいていたらしい。最期には本能寺の変にて、明智光秀により弑逆された。享年四十九歳。

織田信長は、天正九年八月十三日に「自ら出陣し東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意である」と、天下一統の野望をあらわにした!そして、確実にひとつ、ひとつ布石を打ってゆく。 

(※ 囲碁で中盤以降の展開を予想し、勘所となる場所に石をあらかじめ張っておく、戦略的配置のこと。そこから転じて「布石を打つ」という慣用句となり「未来のための下準備」的な意味あいとなった) 

 

信長はついに、長年にわたる宿敵 武田勝頼を追い詰めた

 

本能寺の変が起こる三月前。天正十年三月十一日。織田信長は巧みに内部崩壊を誘い、武田勝頼親子を天目山に追い込め自害させ、ここに戦国名門 武田氏は滅びました。そして三月二十七日。高遠城を攻略した嫡男、織田信忠にたいし「そちに天下支配の権を譲る」と宣言に至る。

これは、織田家中の「世代交代」「信長の隠居」を意味する。

人生五十年の時代ですから、このことに何の不思議もない。ですが、実はこれ「大変な決断」なのでした。武家ではよくあるハナシで「代替り時には、必ずお家騒動が起きる」まして大き過ぎる権力の引き継ぎは、何かと家中係争の引き金となります。

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鳴かぬなら…ていっ!

(※信長にはですね、なんと~「11男11女、合計22人の子供」がいた!しかもBL趣味、有名な森蘭丸♡ちゃん関係あり。文字通り“超精力的武将”だったのです!スゴすぎる、槍チン信長)

それは、今回の“武田氏滅亡の遠因”ともなったことでもあり、何より信長自身が実弟信勝と「醜い家督争い」を身をもって経験した苦い過去もあった。しかし嫡男の織田信忠は、父信長の眼鏡にかなった「有能な武将」だった。なのでこの時点では、大きな諍いも起きず表面上「織田家は大安泰」と思われていました。

甲斐から東海道へと至る道。馬上鞍より「日本一の霊峰 富士山」を眺めながら、今回また新たに獲得した織田の新領土を、ゆるゆると帰国の途に就く。この時信長は、我が身我が家の来し方行く末、想い巡らしたのではないでしょうか。永年の宿敵であった武田氏を倒し、さらには懸案「後継者問題」も決着。堂々の安土凱旋でした。

 

次なるターゲットは「西国の毛利平定」で、あるか

 

そして、永年に渡る功労者である徳川家康には、駿河国を割譲した。この旧今川領にて、若き日々を人質として過ごした家康にとっては、駿府は良くも悪くも「想い出深き土地」でした。これにより、家康は東海三ヶ国に及ぶ大大名へと成長しました。

あとは、関東方面で信長に盛んに抗戦していたのは、越前の上杉景勝だけだった。信長は北条氏まで傘下に収め、武田氏が滅び東方の憂いは去った。また九州の地ににて、大友氏や龍造寺氏共、信長とは「表向きは友好関係」にありました。

しかしその一方で、中国地方の大国 毛利一族との文字通り「泥沼の闘い」が続いていました。また四国においても長宗我部氏が突如反旗を翻し、交戦状態におちいった。これで席を温める暇もなく、織田軍は東奔西走することになる。

 

「駄目押し※1」続ければ、織田の天下一統がその手に

 

秀吉は、中国毛利攻めに「宇喜多秀家勢(約一万)」を傘下に加え、水攻めされた備中高松城はもはや落城寸前となった。ようやく、毛利の後詰軍(救援軍、五月二十一日になって猿掛城に毛利輝元本陣、岩崎山に吉川元春、日差山に小早川隆景)が着陣する。

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備中高松城水攻め(東京都立中央図書館蔵)

舞台はコレですべて整った。あらかた目算※2 がたった羽柴秀吉は五月末、急ぎ安土の信長に面会し援軍を要請、これらを了承される。さすが「おべっか使いの秀吉」上様の性格をよく判っていますね。サラリーマン武将の鏡、出世するタイプの男です。

さぁ、いよいよ『織田軍VS毛利軍』天下覇権を賭けた大戦の始まりだぁ~!!陣触れ太鼓がドド~ン♪

…実はこれ…「終わり始まり」だったのです。織田信長運命のカウントダウンが、この時スタートした!畿内で遊軍だった「明智光秀」ほか各武将の面々に、中国方面への出陣の下知が次々とくだる。信長、信忠親子も最前線へと駆付ける手筈を急ぎ整え終える。

そして舞台は、策謀渦巻く京は本能寺へと移る。デデン、デデ~ン♪

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京本能寺にて

六月に入り織田信長が、自慢の茶道具「九十九茄子茶入、白天目茶碗、高麗茶碗、青磁花入」など三十八名品を並べ、京貴族や豪商らを集め催した「本能寺茶会」は、大満足のうちに終りました。

続き夕刻からは、織田信忠主従も加わり酒の宴へと移る。信長は興がのり、得意の「敦盛」でも披露したのでしょうか?

『人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか~』ポン、ポポン♪

▽リンク/織田信長が敦盛を華麗に舞う。


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すべては順風満帆に運んでゆく。やがて夜もふけて、信忠が宿舎の妙覚寺へと帰る頃には、随分盛り上がった酒宴もおひらきとなった。信長は大の「茶事好き」であり、また「囲碁好き」だったのです。パチリ、パチリ、碁石の音。

(※1 囲碁での終局、どちらでも無い陣地を「ダメ」と言う。その駄目を埋めて勝敗を明らかにするため、さらに碁石を置き続けることを“駄目押し”という。「駄ジャレ」や「駄菓子」も、ダメよぉ~駄目)

(※2 「もくさん」とは碁盤の縦横にはしる交叉点のこと。確定地の把握と将来的な地目の可能性、盤上に展開した石の裏表などを総合的に勘案し判断する。転じて「物事の企てや計画する意味」となる)

 

本能寺にいた「本因坊(日海)算砂」なるヒト、何者でござるか

敵を殲滅するのではなく、最後の局面にて「一目多ければ勝ち」なのが囲碁。そのために知恵を絞り、想いを巡らすのが「戦略」であり、囲碁の醍醐味となります。

 

京、本能寺において。勝負の行方はどんなんかなぁ

 

六月朔※1の夜である。空に月はなく、漆黒の帷が本能寺を包んでいた。その本能寺の片隅にて「本因坊 日海(算砂)と鹿塩利賢」が、囲碁対局していた。しばらくすると「盤上に珍しい三劫※2」ができて決着はつかず“三劫無勝負”となったという。その対局の様子をじっと眺めていた織田信長。やおら立ち上がり日海と利賢に、本能寺に泊ることを勧める。信長のことなので「明日また対局を仕切り直せ」と含めたのかもしれない。

(※1 太陽暦ユリウス暦」では、六月二十日頃となる)

(※2 これ以降、囲碁世界では「三劫は不吉の前兆」とされるようになった。ただし遺された本能寺棋譜には、三劫になりそうな場所なく「後世の作り話である可能性」が高いらしい)

 

囲碁名人の「本因坊(日海)算砂」実はすごいヒトだった

 

その人物『本因坊 日海。永禄二年~元和九年、京都生まれ。京の日蓮宗 寂光寺 本因坊の僧で法名を「日海」と称し、後に「本因坊 算砂」と名乗る。家元 本因坊家の始祖※1』古代からの囲碁は、盤面四隅の星に碁石を配置してから始める「置き碁」だった。十六世紀後半には現代と同じ、自由布石による「互先」が始まった。

(※1 以来、本因坊は代々の世襲制となり、第二十一代本因坊秀哉まで続きます。昭和十四年、秀哉の引退後は世襲廃止、本因坊は「囲碁勝者に与えられる一大タイトル戦」となる)

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黒と白とのせめぎ合い、囲碁

この黒白交互に自由にパチリパチリと打ちはじめる「互先」が考案された天正年間“織豊時代”であり、日本が天下統一されていった時代でもある。単なる「戦バカ」は、淘汰され、真の実力者が勢力拡大果たしていった。そのため囲碁界でも「戦術法」ではなく「戦略眼」が重視され「布石」の概念が生まれた。これは織田信長好みに本因坊日海が「互先」をアレンジしたのだと思えます。とにかく頭がキレたのですね。

 

本因坊日海(算砂)と信長の関係はどうだった

 

そして日頃から、信長は日海に囲碁の教えを受けていました。そんなある日のこと。信長(下手)は日海(上手)と対局し「五子置き(ハンデ)」打ちはじめますが、まったく勝負にならず、日海に軽くいなされてしまった!これには流石の信長も舌を巻き「そちは、まことの名人なり!」と、本因坊日海を絶賛した。

ここから現在も使われる「○○名人」という言葉の起こりとされています。それ以来信長は、日海のことを名人と呼び囲碁の師匠と仰いでいた。しかし、明け方には「光秀謀叛の嵐」に巻き込まれることになるのですが。

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本因坊算砂、そちは名人じゃ!

 

作家 山岡荘八が描く「織田信長」に興味深いシーンがある

 

これも余談ですが…明智光秀は「算命術」つまり、いまで言う「四柱推命」を嗜んでいたらしい。それは合戦前に行う“縁起かつぎ”みたいなもので、出陣の日時、方位、場所などすべて占い、もしも“凶”と出たら合戦延期かとり止めともなった。もちろんこれは「軍配師」いわゆる軍師の役目で、総大将がわざわざ執うことではない。この時も光秀みずから筮竹と算木をシャシャと使い、自身の「未来運命」を占ったという。

そして光秀は『上様のご運は、この六月から“空亡”に入らせられる。空亡は十二年毎にまわってくるその人一代の凶運の時ながら、それにあるは上様お一人ではないぞ。光秀はなすでに去年、今年と空亡のうちにあるのじゃ。それゆえこの間の出来事は、一つとしてよい事はなかった。その空亡を脱するは七月半ば、それまでは光秀もやはり手を拱いて、自らの意思では動かぬものと知るが良い』と周囲に告げた。

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

織田信長(5)本能寺の巻(山岡荘八歴史文庫 14)

 

ここで言う「空亡」はいわゆる“大殺界”のことで「自分から動けば必ず自滅する」といわれている。ならばこれ随分と自己矛盾した話となりますね。そしてさらに、疑問も浮かぶのです。本能寺の変は果たして「明智光秀ひとりで起こした」ものだったろうか?あるいは共犯なのでは?と。それは…誰?

 

昔からささやかれる、黒幕謀略説とは

実は光秀に、本能寺襲撃をそそのかした「黒幕がいたのではないか?」といった「黒幕」謀略説が、昔からあります。主な三つの説をザックリとご紹介、推理して下さい!

 

①朝廷黒幕説

○信長は朝廷側に対して、正親町天皇に譲位を求め、暦の改正(宣明暦を→三島歴に)を要求しました。そして官職を辞していた信長に、三職推任(征夷大将軍職の要請)したが信長はこれを完全無視、朝廷は綸旨(りんじ)をないがしろにされ面目を失くしました。

○光秀との朝廷のパイプ役「吉田兼見の日記」は何故か二つあり、書き落としの箇所がある。本能寺の変後には関与を疑われた前太政大臣 近衛前久が出家(号 龍山)、遠江国まで遁走しました。なぜ隠棲場所が、わざわざ徳川領なのか?ずいぶん変な話だね?

羽柴秀吉黒幕説

○犯罪捜査の基本「犯行により一番得した者は誰か?」それは明智光秀を討って結果、天下人となったのは秀吉。彼は京での変事を知ると、毛利氏と素早く講和(以前にすでに講和条件等は調っていた)し、待ってましたと「中国大返し」を敢行。そして山崎の合戦にて明智光秀を破った!

○その段取りの鮮やかさは、かねてから想定内(黒田官兵衛か)準備万端だったと、想われます。しかも毛利軍は、追撃戦(やれば一方的ボロ勝ち)すらありませんでした。そんな馬鹿な話はない。では「秀吉が光秀をまんまと陥れたのか?」権力者は歴史を捏造しますから…疑いは濃厚。

徳川家康黒幕説

○長年にわたり信長の同盟者だった徳川家康は、武田氏が滅亡することより「東国方面での存在価値」が、おおきく損なわれました。直前には、信長の招きに応じ重臣とわずかな供廻りだけを連れ、京や堺見物にのんびりと訪れていた。これは徳川主従には“とても危うい状況”でした。

○本能寺にて織田側が「徳川主従をひとまとめに殺害」する計画が発覚。この「危機的状況を打開」するために、家康は“何らかの対抗策”を前もって練っていた。意趣返しそれが「光秀の謀叛」の真意だった。しかも光秀は死なず、生きていたという伝説のおまけ付き…マジですか?

(注/光秀の子孫という明智憲三郎氏が書いた『本能寺の変431年目の真実』が、話題になりました。残念なから新しい考察はありませんでした)

④おまけコーナー、また新説です

○最近の黒幕トレンドには「四国政策説」があります。林原美術館で「石谷家文書」が発見された。長宗我部元親が光秀配下の武将、斎藤利三に宛てた手紙らしい。四国方面の政策担当していた光秀は、この政策にまつわる「軋轢から叛意を起した」というもの。

斎藤利三や長曾我部氏の「危険な先棒」を、上位者である光秀が自ら担ぐ意味が分かりませんが…とは言うものの、この説の可能性はゼロではない。さらに補完出来る「何らかの追証」が望まれますね。

▽推奨本/『現代語訳 信長公記』 現代語に翻訳されとても読みやすい。織田信長の生きた戦国時代の空気感がよくわかる伝記作品。

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

現代語訳 信長公記 (新人物文庫)

 

参考/太田 牛一(おおた ぎゅういち)官位は和泉守、通り名は又助(またすけ)。戦国から江戸初期にかけて活躍した。信長公記 しんちょうこうき』の著者として有名。信長幼少時代から、義昭を奉じて上洛までを首巻、上洛永禄十一年~天正十年までを十五冊、計十六巻にまとめている。確認できる事跡を編年体にまとめ、正確に記している。信長の事績を研究するには、無くてはならない一級史料。

▽はなしは「信長の首塚?何それマジで。後編」へと続きます

minminzemi81.hatenablog.com

 

参考/山岡荘八織田信長」、歴史人、ウキペディア

(6200文字、See you again.) #本能寺の変#明智光秀