minminzemi+81's blog

あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ ノシ

ブルーハーツと真島昌利と甲本ヒロト「天才性」について考えてみる【神曲】

 

「1001のバイオリン」の世界


例えば『1001のバイオリン』この名曲、きっと誰もがどこかで聴いたことあるはずですよね。一時期(たしか2010年頃)しつこい位、TVCMで流れていました。

ヒマラヤほどの 消しゴムひとつ

楽しいことを たくさんしたい

ミサイルほどの ペンを片手に

おもしろい事を たくさんしたい♪

えっ、知らない…と?それはいけません、いますぐ聴いて下さい。この歌詞は、何かの“アフォリズム”なのだが、その答えの提示はないですね。そして何やら「哲学的メッセージ」まで含んでいるような気が…う~むゅ?哲学な。それ、解析ムリムリ。

ゆりかごから 墓場まで 

馬鹿野郎が ついて回る

1000のバイオリンが響く 

道なき道を ブッとばす♪

(※作詞作曲は、マーシーこと真島昌利。ちなみに、あの深作欣二監督が「人生で最も好きな曲」と語ったそうですよ。自身の葬儀には、手掛けた映画音楽に加え「1001のバイオリン」が流された)

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このCM、篤姫さんが無邪気にチャリで坂道を登りつつ、音痴(わざと?パンク魂か)に唄っていますね。そして、見事な「ぴょん吉胸」を、惜しげも無く披露しているのも見所のひとつ、それはともかく。

しかし歌詞の「消しゴムと鉛筆」このバランスの悪さは、いったいどうゆーこと?例えば「ノミがリュック背負って富士登山」の類なのかな?それか授業中に半居眠りしている「厨二病の描く夢」の描写なのか?いや、それだと何だかなぁ。しょぼ…

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ヒマラヤ?エベレスト?どっち?

はい、では…

『ヒマラヤ、ヒマラヤと、続けて1001回言ってみて』

『ヒマラヤ、ヒマラヤ、ヒマラマ、ヒヤラヤ、ヒマヤナ ✊ ヒマララ、ヒヤラヤ、ヒラマツ、ヒラカタ、ヒマンジ…』

『じゃ、宮迫博之は?』

『…ヒマアヤマリ?』

『謝罪会見だよ』

『そーか…それも、やだなぁ。消されるの』

さて「ヒマラヤサイズの消しゴム」なのである。つーてことはね、それを使う本体は、もっとデカいサイズ(地球か世界)のはず。なのに自分の武器は「ミサイルサイズの鉛筆」なのだ。コレで「世界を敵に回し闘う」と云うのですね。「自分を消しにかかる存在=消しゴム」で「それに対して描き続ける自分=鉛筆」といった理解でイイと想う。

(※ヒマラヤ山脈には、最高峰エベレスト山を含み、地球上で最も高い14峰の8000m級ピークがある。そして7200m級が100峰以上存在している)

▽こちらがオリジンの『1000のバイオリン※』By The blue hearts

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(※1000のバイオリンと1001のバイオリンの違いは、ストリングスのアレンジしているかどうかぐらい) 

 

そして甲本ヒロトが、こんな素敵なコト言いました…

『売れているものが良いものなら、世界一うまいラーメンは、カップラーメン』 By甲本ヒロト 

ね、やっぱ“The blue hearts”は、天才じゃろ!

 

○「THE BLUE HEARTS」日本のパンクバンド。1985年に結成、1980年代~1990年代にかけ活動、1995年に残念無念、解散する。この頃はイカ天世代ですね、バンドブームがあった。代表曲「リンダリンダ」「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」「1000のバイオリン」「夕暮れ」など沢山の名曲をガンガン生み出し「音楽界に大きな影響を与えた、レジェンドグループ」なのだ!

 

(1400文字、thank you for reading.)

そろそろ「🐬イルカと🐳クジラの違い」を、ハッキリさせたいのココロ。そして「祝🎊商業捕鯨再開」です【鯨肉文化】

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和歌山県太地漁協の捕鯨船「第七勝丸」が帰ってきた。

ビックリするくらい、ちっちゃいボートです。でも、太地町のエース!

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第七勝丸出航風景(出典 読売新聞社)

やっとこさフレッシュな鯨肉が、食べられるかな。しかし、初物は何でも高いからね「全量落札されたが、価格は公表されなかった」という。これは、あか~んヤツなのかい?ご祝儀相場。

www.agara.co.jp

 

昨年の12月のこと「日本がIWCから脱退」とのニュース!

 

だいたいやね、国際捕鯨委員会(IWC)をありていに例えれば⇒「ぼったくりバーみたいなもの」ホ~ント「捕鯨反対派のためのおかしな団体」に、成り下がっていました!

ていっ!て~いっ!

産経記事引用『IWCは「クジラ資源の保存と捕鯨産業の秩序ある発展」を目的に国際捕鯨取締条約に基づき1948年に設立された国際機関。日本は1951年に加盟した。当初は、捕鯨国でつくる「資源管理機関」だったが、反捕鯨国の参加が増えて1982年に商業捕鯨の一時停止が採択された。水産庁によると八月時点で加盟国のうち、捕鯨支持国は日本やノルウェーなど41カ国、反捕鯨国がオーストラリアやブラジルなど48カ国。捕鯨支持国との反捕鯨国が激しく対立している』(産経新聞事 2018/12/20)

これ単純に言えば「食肉輸出国=反捕鯨国=反捕鯨団体なのでありますね。さらに、あのグダグダの「みどり豆ヤロー」共ときたらね。まあ、良いか。

(※みどり豆とか云う“カルト集団”は、ただの“利権団体”でしかないのは、既に周知の事実です)

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捕鯨漁 風景(昭和の頃)

それで、捕鯨基地のある和歌山県山口県高知県では「調査捕鯨」は終了した。そして「商業捕鯨」再開がいよいよ始まった。この漁は日本の領海と排他的経済水域(EEZ)だけで行われる。それまでの調査捕鯨では、大西洋でクジラを捕っていたが、これからはそれらも実施しない。

じつは地球上に生息するクジラ類は、充分に回復しているのです。

「愚かななる乱獲」さえしなければ、まったく問題はありません。

引用文『…現在インド洋西部に生息するザトウクジラは、三万頭以上にまで増えているという。この海域のザトウクジラの個体数は、約二世紀にわたる捕鯨によって激減し、1970年代末には600頭未満になっていた。そして研究チームは、2018年の調査とそれ以前のデータに基づき、インド洋西部に「三万頭以上のザトウクジラが生息」していると推定した』

(出典 ナショナルジオグラフィック)

いま本当に資源保護しなければならないのは「ニホンウナギ(絶滅危惧種)」ですね。資源は枯渇して絶滅寸前だ、なのに能天気な日本人はね…

土用の丑の日は、ウナちゃんよ♡うふふっ♪」

じつはわたくし「鰻丼大好きィ人間」なのですが、この十数年位「ほとんど鰻丼を食べた記憶」がない!すぐ記憶をなくすヤツ?あ、回転寿司屋で摘む位かな?それ食べてるヤ~ン。すまない…ウナちゃん。

 

輝く!和歌山県の郷土料理「クジラの竜田揚げ」です

 

農林水産省が選定した「農山漁村の郷土料理百選和歌山県代表の郷土料理なのです。

「あ”~竜田揚げ食べた~い!」

そして「クジラ給食復活!」もね。そうだよぉ♪人気献立はやはり圧倒的に「クジラの竜田揚げ」だね。給食のやつはホント美味かったよねぇ!戦後貴重なタンパク源として、日本の食卓を支えた懐かしの鯨料理。クジラの竜田揚げは、鯨料理の代表的メニューだったのです。

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1950年頃の小学校の給食

 

<クジラの竜田揚げレシピ>

 

昭和のソールフードだったね。ひと口大に切った鯨に下味をつけ、片栗粉をまぶし油でサクッと揚げます「まいう~♪」。

 

○鯨赤身をひと口大にカットする。隠し包丁も入れると下味がよく染みる。

○ボウルに「醤油、酒、味醂、おろし生姜」液に、鯨肉をしばらく漬けこむ。

○ひと切れずつ片栗粉まぶし、すぐに180℃の油であげる。これがコツ!

○揚がった鯨肉と、付けあわせをあしらって…  <はい、完成です!>

 

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新鮮な鯨肉は刺し身✨にて

 

<給食ランキングをブッチの一位「鯨の竜田揚げ」>

 

しかし悪名高かった「コッペパン」が三位になってるよ。あと七位の「脱脂粉乳」てか。これ…マジですか、あんなの人気があったの?

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人気給食メニューランキング

 

知っておきたい、なが~い捕鯨の歴史

日本人の鯨を食べる習慣は、それこそ太古からあったといいます。また、奈良時代の文献に「鯨肉贈答」の記載があるそうですから、ずいぶんとその歴史は古くてなが~いのです。

 

紀伊半島の南端に位置する和歌山県東牟婁郡太地町は、日本の「古式捕鯨発祥の地」として、世界的にも有名な捕鯨の町です。その始まりは、江戸初期(1606年)。紀州太地で捕鯨組織の「鯨組🐳」が設立される。そして和田一族、和田頼元を中心に「刺手組」と呼ばれる捕鯨漁師たちが、太地浦を拠点に沿岸鯨漁を始めました。

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江戸時代、古式捕鯨の図

延宝三年(1675年)には「鯨を網に追い込む捕鯨法」を、和田頼治が考案しました。これ「クジラ一頭で七浦潤う」と云われた位だからね。乱獲なんかとてもありえなかったのです。

○古式捕鯨説明サイト⇒http://www24.big.or.jp/~kyusoku/w_old_whaling.htm

(※縄文や弥生時代貝塚から、鯨の骨が数多く出土します。こんな時代から捕鯨していた証)

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ザトウクジラのブリーチング

 

そもそも欧米と日本では、利用目的も捕鯨手段も違う

 

幕末になると、欧米諸国(主にアメリカ、オーストラリア船)の捕鯨船が、はるばると日本近海までやって来ました。当時は「米式捕鯨」と呼ばれる遠洋捕鯨でした。まず帆船見張り台から、見張り員がクジラを捜す。その姿を発見したら数隻の手漕ぎのボートで漕ぎよせ、鯨に次々と銛を撃ち込んでゆくスタイルだった。

この西洋における遠洋捕鯨は、十九世紀から二十世紀前半までがピーク。漁獲目的は「灯火燃料や機械油」に使うためでした。船上で脂を絞ったら、肉や骨などはすべて海洋投棄した。なな、なんて!勿体ないことを!

しかも欧米船は「世界規模で鯨の乱獲」を続けたのです。そして油だけが目的なので、まず「マッコウクジラ」種が、絶滅寸前の危機に瀕した。次に「セミクジラ」が、1931年には最大種「シロナガスクジラ」の捕獲数がピークをむかえる。世界全体で800隻程度の捕鯨船が活動し、一隻あたり年間10頭程度捕獲していたらしい。これ単純計算すれば「年間8000頭」にもなる!

どんだけぇぇぇ~!

(※デコに大量の脂を蓄えていた。さらに悪いことに「抹香鯨」からは「龍涎香」という香料・医薬にもなる珍品が採れた。その正体はマッコウクジラの「腸内で形成される結石」これがとても高価で取り引きされていたので、マッコウクジラ種のみが執拗に狙われた背景があった)

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「どど~ん!!」whale watching!✨

そのあたりの話は、有名な小説「白鯨※1」に詳しく描写されています。この話は、実際に捕鯨船に乗船、捕鯨に従事した「メルヴィルの実体験」をもとに書かれています。

▽映画「モビー・ディック」グレコリーペック主演。白鯨の描き方は、ほとんどゴジラ扱い。このMADさは「アメリカ人の精神構造」をよく捉えています。あの「アメリカンバイソン」を絶滅寸前※2(レッドリスト)に追い込んだ奴らだからね。まったくなってないよ!

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(※1 1851年に発表されたアメリカ文学を代表する作品。たびたび映画化もされている。原題は、英国版が"The Whale"、米国版が"Moby-Dick or The Whale")

(※2 アメリカンネイティヴは「弓で仕留めたり、追い詰めて崖から落とす」といった伝統的な狩猟法だった。なのでバイソンの個体数は“絶妙なバランス”で保たれていた。17世紀頃に“悪魔のような白人種”が来るまでは…ね)

最終的には「鯨類資源の減少」と「鯨油需要の低下」から不採算となり、欧米では一気に捕鯨が衰退する。しかし…日本では違った。

 

日本の捕鯨は、随分出遅れていた「古式捕鯨」からの進歩

 

欧米船による乱獲、その結果として日本近海で鯨の個体数は著しく減少し、日本の古式捕鯨は、壊滅的な打撃を受けることになったのです。さらに明治十一年(1878年)には、太地において海難事故「大背美流れ」が起った。この大打撃を受け近代捕鯨への発展には、まだまだ時間が必要でした。その後、捕鯨銃による沿岸捕鯨、鯨解体場の開設、鯨缶詰工場の建設など、次々とインフラ改善され、太地町捕鯨産業はようやく軌道に乗りました。

(※覚書『脊美流れ控え』によれば、子連れのセミクジラを追って、はるか沖合へと漕ぎ出した鯨取り船団は、遭難事故により百名以上が帰らぬヒトになりました) 

 

そうだった「イルカと、クジラの違い」とは何か

 

まず、クジラはだいたい二種類に大別することができます。鯨の口が髭なのか、歯なのか?「髭クジラ」と「歯クジラ」のツータイプです。

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ザトウクジラ

①「ヒゲクジラ」は、口の周りにヒゲを持ち、小魚やプランクトンをガバ飲みします。「髭タイプ」の代表種は⇒「ナガスクジラ、ザトウクジラ」など。

②「ハクジラ」は、頑丈な「歯」で巨大な生物(例えば大王イカ)も捕食できます。「歯タイプ」の代表種は⇒「マッコウクジラ」です。

そして、イルカも丈夫な歯を持つので②の「歯タイプ」になりますね。 

 

まさかっ!?イルカとクジラの差とは…

 

実は「何となく」らしいのです。

「ひえぇぇぇ、ナニそれ??」

ひとが見て「チッコイなぁ」思うのが「🐬イルカ」で、ひとが見て「デッカイのう」思うのが「🐳クジラ」その境目はテキトーだった。目安としてはだいたい「体長四~五メートル」あたりで線引きらしいです。

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イルカは、賢そうだよな

これ例えば「セントバーナードとチワワ、どっちも犬でしょ?」みたいなハナシなのかな <笑

▽鯨は海の中で「唄い、踊り、遊ぶ」とても愉しそうですね。

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和歌山県太地町には「鯨魂の永く鎮まりますように」という願いを込めた「くじら供養碑」が建立されています。毎年、四月二十九日(肉の日か?)には「くじら供養祭」がとり行われています。そうです鯨法会。これが日本人の感性ですね。  

もちろん日本人は、鯨さんをリスペクトしていますよ。日本での古名は「勇魚 いさな」これは“キングオブフイッシュ”といった感じですから。

○推奨図書/「勇魚」と云えば、この本C.W.ニコルさんの名著です。西洋人に日本捕鯨をここまで描かれては、少し気恥しい心持ちがしますね。

勇魚〈上〉 (文春文庫)

勇魚〈上〉 (文春文庫)

 

 

金子みすずさんの詩『鯨法会』で〆ます

 
鯨法会は春のくれ、
海に飛魚採れるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、
村の漁師が羽織着て、
浜のお寺へいそぐとき、
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいしこいしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら

 

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(4600文字、thank you for reading.) #商業捕鯨#竜田揚げ

明智光秀が本能寺で織田信長を倒した!狙いは何だったのか?【居酒屋で麒麟がくる】

 

光秀の天下盗り構想は、わずか十三日でコケる

ガラガラガラ~「とりあえずビール!」居酒屋で麒麟ラガー麦酒がくる。そんな時に「サラッと語れたらいい感じ✨」なる歴史ウンチクネタを書いてみました。

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明智惟任光秀

<明智ミッツー 有能>

 

比叡山焼き討ち時の最大功労者(とても真面目に“坊主と女”を撫斬りしました)である明智光秀に、大津坂本の領地が与えられ、湖畔にはとても優雅な水城「坂本城」を築きました。さらに比叡山への登口に「西教寺」を置く。これは「戦死者供養」が表向きの理由。叡山とさらに向こう側、平安京を“スルドク監視”する役目を、光秀が担っていたと思われます。そしてこの西教寺に「光秀一族の供養塔と墓」もありますね。

 

<明智ミッツー 疑惑>

 

宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に、本能寺の変について気になる記述があります。『ある者はこれは信長の密命によりて、その親類たる三河の君主 家康を暗殺するためではないかと疑義した』と。何やら家康も相当ヤバかった模様。

六月二日。本能寺の変を知ると、堺から京へと向かっていた家康は、自国領へと一目散に遁走しました。なりふり構わず必死のパッチで!この家康さんの饗応役だったのが、我らがミッツーくん。既に二人は通じてたのか…「家康黒幕説」あり。

 

<明智ミッツー 発句>

 

天正十年五月二十八日は「愛宕山連歌会」が開かれた日。この「愛宕百韻」での連歌は、うたのほとんどが暗号文のような“隠喩の連続”なのです。もうコレは「謎」過ぎる!

まずは明智光秀が、発句「ときは今 あめが下知る 五月哉」と詠みました。ウラ解釈しますと…「とき」は土岐氏、光秀の出自なのです。「あめ」が天、天皇。「下知る」は下命。この流れを“意訳”すると「土岐氏(光秀)に天皇が、御下命された五月」となり、ミッツーの黒幕はときの朝廷なのか?といった…「朝廷黒幕説」あり。

 

<明智ミッツー 出陣>

 

亀山城に集結した明智勢に対し、森蘭丸から使いあり「信長が明智軍の陣容・軍装を検分したい」それで急遽光秀は京へ向かったという。武将や雑兵達は“信長討伐”という本当の目的を最後まで知らされておらず、光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を、訳も分からず包囲急襲したらしいのです。

光秀軍一万三千に対し、信長側は近習百人足らず。信長はしばし奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害した。しかし光秀は信長の首どころか、遺体すら発見出来なかったのです。信長の供養塔は沢山あるが、いまもまったくの謎!…てな「信長生存説」あり。

 

<明智ミッツー 子孫>

 

明智光秀の嫡男である光慶、その後はどうなったのか?嫡男光慶(みつよし)、生年不詳で元服や初陣の記録すらない。唯一、光秀主催の“愛宕百韻で光慶が結句を詠んだ記録”があるだけ。この時だいたい十三歳位だったらしい。山崎の合戦のあと、坂本城に光慶はいましたが。

生存説あり。「妙心寺」住職「玄琳」が光慶である説や、光秀の唯一の肖像画がある和泉国の「本徳寺」を開山した僧「南国梵桂」光慶説がある。さらには江戸幕府を裏から操ったといわれる快僧「南光坊天海」となった説までありまする。凄!

 

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明智惟任光秀/十兵衛/日向守

生年不詳、岐阜明智城で生まれたらしい。青年時代まで何をしていたのか“謎”である。後、将軍義昭に仕え、織田信長との橋渡し役を勤める。信長の正室である“帰蝶とイトコだった”と云う。天正七年、丹波攻めにて包囲を続けていた八上城を落とす。続けて黒井城も落とし丹波一国を平定。すぐ細川藤孝と協力し丹後も平定する。信長は感状を出し褒め称え「丹波での光秀の働きは、天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。天正八年には三十四万石を領す。天正十年“徳川家康の饗応役”であった光秀は、任務を解かれ羽柴秀吉の毛利攻めの与力を命じられる。その途上の何処かで光秀が、重臣達に信長討伐の決意を告げた。そして本能寺。秀吉との山崎の合戦に敗れ逃走途中、小栗栖で歿する。天正十年、五十六才にて没した。

 

○お勧め本『ここまでわかった明智光秀の謎 』

歴史読本は、歴史人物の解析には定評がある。秀吉が書かせたという「惟任退治記」の現代文訳が巻末についていて、これなかなか興味深い。謎の多い明智光秀を、人物分析までしたいヒトには最適な一冊。

ここまでわかった! 明智光秀の謎 (新人物文庫)

ここまでわかった! 明智光秀の謎 (新人物文庫)

 

 

(1900文字、thank you for reading.)

乾坤一擲 大坂夏の陣!史跡「茶臼山公園本陣跡」にて「大坂夏の陣 家康死亡説」を知る。大阪 天王寺【歴史案件】

 
大河ドラマ真田丸」で一躍有名になった、大阪 阿倍野にある茶臼山(ちゃうすやま)古戦場です。この茶臼山公園には何と「山頂標柱」があり、一応は山なのですが。しかし、以前から「茶臼山古墳」と呼ばれていたのではなかったかな?

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茶臼山本陣跡 石碑
また、取り囲む池には“和気清麻呂”に因んだ「わけばし」と云う、何だか訳アリみたいな赤い橋も掛かっている。いまは「都会の中のオアシス」といったところですかね。のんびり散歩する人々。

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池には噴水があり通天閣も見えます

 

家康は「大坂夏の陣」で、すでに亡きものに?!

 

コアな歴史ファンなら、ご存知かも知れませんね。大坂夏の陣にて、徳川家康が戦死したという「衝撃的な事件※」を・・ドドーン!!

(※コレは若干“怪情報気味”ではありますがそれはソレ。怪情報のウラをとるとは、かなりクレイジーな試みなのです!“金瓢箪から駒”が出るやもしれませぬ、豊臣家だけにィ)

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公園には真田信繁の活躍を伝える看板があった

 

よく聴く「家康影武者説」は、正しいか精査しませう

 

ハイ。歴史では“狸おやぢ”こと家康さんは、元和二年四月十七日に御歳七十五にて「駿府城で亡くなった」これは史実ですね。

アウトドア活動中に「鯛の天ぷらの食い過ぎ」で、そのあまりの旨さに昇天してしまったのです!これが流布された俗説となります。

実はですね、この時に死んだのは「影武者の方」で、モノホン家康はその一年ほど前おきた「大坂夏の陣」にて、亡きものになっていたというのですよ。

それ、マジですかぁ・・なんか“怪すい香り”がプンプンしますよぉ?!

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此度の戦は三日の腰兵糧じゃ

この影武者に符合する人物は「小笠原秀政が家康の身代わり」になったという話がある。家康は戦場で度々“影武者を使った”らしいのです。もう家康は爺ィ(七十四歳)だから、戦場はとてもツラいよね。

この小笠原秀政は「大坂夏の陣」にも参陣し、榊原康勝※1に従って「本多忠朝※2を救援」する。しかし茶臼山の攻防で、豊臣方 毛利勝永隊のオラオラ反撃を受けて、忠朝は早くも戦死をとげる。浅野長重隊も敗走、徳川先鋒はすぐ潰えた・・めっさ弱。

また秀政もこの時“瀕死の重傷”にて戦場を離脱したが、こちらも間もなく「戦傷により死去した」と歴史は伝えています。この時、最前線にいた小笠原秀政がスリっと家康と入れ替わっていたとは、やはり考えずらい。

(※1 四天王 榊原康政の三男、榊原家二代当主。大坂冬の陣では“痔が破け大量出血”した。さらに大坂夏の陣ではさらに病状が悪化した。何と鞍壷に血が溜っても戦い続けたとか…そののち、五月二十七日に京都にて病没したと云う)

(※2 四天王 本多忠勝の次男。大坂冬の陣にて“酒のために不覚”をとり敗退した。それを家康に誹られた忠朝は、続く大坂夏の陣で汚名返上とばかり先鋒務め呆気なく戦死。墓は「一心寺」境内にあり「酒封じの神」に祀られている)

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徳川方は大坂城を南から攻めた(出典 ウキペディア)

あらまし/徳川方は大阪城南方に集結し、その兵力約十三万。大坂城南、街道筋よりゴリゴリの力攻めの布陣をひいた。

対して豊臣方の兵力は総兵力四万強。前軍として茶臼山真田信繁が、四天王寺門前に毛利勝永が陣取る。岡山口には大野治房、全軍の後詰に大野治長紀州街道、三ッ寺に別働隊の明石全登が伏兵しました。

豊臣方の主な作戦は、徳川主力を四天王寺の死地(丘陵帯)に誘い込み分断混乱させ、布陣が南北に伸びきって家康本陣が手薄になったところを、明石全登の別働隊が海側から迂回急襲する。

なお全軍総攻撃は、総大将の豊臣秀頼が金の千成瓢箪押立て、出陣する手筈になっていました。乾坤一擲の大戦!陣太鼓が鳴る、デデンデン、デデン♪

 

次に真田信繁(幸村)さんの闘いぶりを検証します

 

家康といえば、大坂夏の陣のおり「真田信繁に大きく本陣を崩され、もはやこれ迄と死を覚悟した逸話」は、誰もが良く知るハナシです。

それでは真田信繁に首をとられていた可能性があったのかぁー??

慶長二十年五月七日正午頃。大坂方の敗北は濃厚となり、茶臼山本陣にあった信繁が叫ぶ「狙うは家康が首、唯ひと~つ!!」いよいよ、乾坤一擲の大勝負が始まる!

パパン、パン! (ハリセン叩く音)

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「関東勢百万も候へ、漢はひとりもいなく候」

おりから家康本陣は、平野から住吉街道の北を通過し、越前兵の後詰へと陣を押し上げていた矢先。総大将の家康は「籠に乗りまったり移動」をしていました。これぞ好機!

すわその時。目前の越前兵をドーンと切り崩し、突き進む赤備えの一隊があった!そして徳川旗本が守る家康隊の横腹に、ドォドドッ~と雪崩込んだぁぁ~!

パンパン!馬廻が叫んだ「あなや、何奴!」

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三角点(26M)標柱がある

△慶長十九年「大坂冬の陣」で徳川家康が、本陣を構えた場所なのです。藍色の三つ葉葵の紋入り!ここが標高26メートルの山頂です。

 

三河物語によれば、家康本陣は大崩れにくずれ去ったという

 

大久保彦左衛門忠教が『三河物語』に、家康本陣の崩れる様をこう記している『ついに「厭離穢土 欣求浄土」の宝幢の旗幟も崩れ、後方に退く家康を旗奉行が見失った。御陣衆のなかには、三里(12キロ)も逃げた者もいたそうである。そして家康は小栗正忠とたった二人で、本陣に取り残されていた。三方ヶ原以来の大崩れ、まる裸同然となった本陣周り。真田信繁は家康を執拗に狙い三度も攻めかかったが、前日からの連戦で疲労激しく、ついに信繁は馬を返し立ち去った』

ええっ、なんでぇ?そんなバナナ🍌

「Sanada Come back !!」

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お好きな方が選べるリバーシブル対応

△慶長二十年「大坂夏の陣」では、この遺構を逆に利用して眞田信繁が本陣を構えました。真田の六紋銭ですね、メラメラ萌える!

 

家康は大坂夏の陣で斃れ、堺市「南宗寺」に葬られた

 

しかし、民間伝承では全く“違う事”を伝えている。大阪堺南旅籠町にある「南宗寺」。お寺の瓦には何故か「三葉葵の御紋」が付いており、徳川家と深い関係ある古刹であったらしい。

現在、遺る墓石の銘は「東照宮 徳川家康 墓」とあり、開山堂の扁額には「元和九年七月十日 徳川秀忠が、また八月十五日には家光が寺を訪れた」と記載されています。

家康の墓とするものは「南宗寺」に確かにいまも存在しています。また墓標横には幕臣 山岡鉄舟筆による「この無名塔を家康の墓と認る」の碑文もある。さらに、かつてここには『東照宮』があったらしい・・オヨヨ!

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東照宮は日光だけではなかった?!

そのあたり気になったので「日光東照宮」をサクッと調べてみました。

<東照宮HPより引く>

『…家康公は元和二年四月十七日、駿府城(静岡県静岡市)で七十五歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言により一年後の元和三年四月十五日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は同年四月十七日、二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに「東照社」として鎮座しました。その後正保(しょうほ)二年、宮号を賜り「東照宮」と呼ばれるようになりました。尚、現在のおもな社殿群は三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)十三年に造替されたものです』なんて書いてありました。

ふうむ、当初は「日光東照社」だったのだ。のち三十年も経ってから、神格アップグレードして「東照宮」となった。コレは何だか意外だった。

この後に日本各地に東照宮が雨後の筍のようにポコポコ出来あがっていったという。ちなみに「紀州東照宮」は、和歌山市の雑賀山(元は雑賀一党の本拠地)にある。元和五年に紀州初代藩主としてお国入した徳川頼宣により、東照大権現を祀る“東照社”として建立された。頼宣の紀州入国時にすでに計画されており、元和五年に起工、元和六年に遷宮式が行われたそうです。

(※元和九年の夏、将軍がこの妙な場所を訪れねばならなかった理由とは?実は二代秀忠から三代家光への代替りの年だった。そのことへの「報告と祈願」と思われます。しかし、なぜ堺に?)

 

遺され文献に一連の伝説経緯が書かれていた?!

 

寺伝「南宗寺史」には『本堂と庫裡の間に東照宮の廟あり。その傍らにあるは照堂にして、すなわち開山堂なり。堂の床下に無銘の塔あり。安国院無銘塔という。これなん疑問の塔なり』とある。

さらには『元和元年大坂の役に、徳川家康は摂津・河内両国の境なる平野に陣せしが、敵雷火を放ちてこれを襲う。いわゆる「平野の焼打ち」これなり。家康僅かに免れて葬輿に乗じ遁れて、和泉の半田寺山に至る。後藤又兵衛基次の紀州より帰り来たれるに会す。基次これを認め怪みて、その輿を刺す。彦左衛門驚きてその槍を斫(はつ)る。基次顧みずして去る。而(しか)してこれがために、家康は戧を負いて終に起たず』と書いてあります。漢、又兵衛やったゼ✌️

(「大阪府 全志」巻之五、大正十一年刊行)

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後藤又兵衛 見参いたす!

この話をつなげると、平野郷あたり(下図)で「地雷攻撃」を喰らった家康はんは、あわててカゴに乗りスタコラサッサと逃げだしました。すると後藤又兵衛が南より颯爽と現れ、カゴを豪快に槍でひと突き!「ドバッ💥」この難を逃れて堺方面へ落ちのびてゆく家康一行。やがてカゴを開けてみると、家康はすでに息絶えていた。「う~わっ!えらいこっちゃ、どないしまんねんなぁ、こりゃかなんなぁ・・」なぜ大阪弁

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爆発のあった樋尻口地蔵

それで、ひとまず亡骸を「南宗寺の開山堂」の下に隠した。ちゅー話なのです。そぇどやさ、あっさり家康ポテ珍しとるやんかいさ、コレな!

▽赤ピン、南宗寺/なんしゅうじ 臨済宗大徳寺派で三好氏の菩提寺大坂夏の陣では、堺の町と共に焼失した。元和五年、当時の住職 沢庵宗彭(たくあん漬けで有名)により現在地に移転、再興されました。お寺は、大仙(仁徳)古墳の近くにあります。阪堺電車 御陵前駅下車すぐ。

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南宗寺 周辺地図

 

何ですと!襲撃を裏付ける“物的証拠”が揃っているですと?

 

そしてこの話を“裏ずける遺物”が何と「日光東照宮」に保存されています。家康が「大坂夏の陣」で使ったと伝わる「網代駕篭(日光東照宮宝物館収蔵)」なのです。

三つ葉葵紋をあしらった駕篭には、何と「屋根に槍が貫通した穴」がきれいに残っている。これが後藤又兵衛の槍が突き刺した跡だったか?!

江戸時代を通じてこの駕籠を観ることを許されたのは、徳川宗家、御三家、御三卿だけだったらしい。う~むゅ、とても「意味深話」ですね・・

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あべのハルカスと赤い和気橋

すか~し!この説話には、ある“致命的欠陥”がある。そうです、そ~なんです。聡明な皆さんは、もうお気づきですね。何かが、おかしいのです。

 

「そ~なんです。川崎さん、A地点からB地点に行くあいだに、ですね」もとい。ネタが古過ぎる・・

 

この話のおかしな点は、コレなのぢゃ⇒『後藤又兵衛の槍に突かれ』というくだり。

この家康の駕籠を槍で突いたとされる“後藤又兵衛本人”は、前日の五月六日の「道明寺の戦い」で伊達軍の猛攻撃を受け「討死にしている」のです。なので家康の駕籠を攻撃するのは、そもそもが不可能なのですね。では、何故こんなヘンテコ設定になったのか?さらに、南宗寺の場所も⇒『違っちゃってるよね~』問題も勃発。

寺伝には「大坂冬の陣で焼失する。その後、住職であった沢庵宗彭が元和五年に現在の場所に再建した」とあり、大坂夏の陣以前には、南宗寺は、いまとは別の場所※1 にありました。

「それなっ、どやねんなぁ~」んだよぉ、何かガッカリだぜっ!

槍をブッ刺したとしても“後藤又兵衛では無い”のは確定だね。どうせなら「毛利勝永※2 配下の者に槍を突かれる!」とか、「後藤又兵衛の影武者、某」とでもして欲しかった。いちばん可能性が高かったからね。残念…

(※1 さりながら、家康が“落命した場所”に後、南宋寺を建て替えたとも考えられるので、こればかりはなんともかんとも)

(※2 猛将 森吉成の嫡男 森吉政。父と共に、豊臣秀吉に仕えた。その当時、森から毛利への苗字変更、ややこし。夏の陣では“天王寺口に真田信繁と轡を並べ布陣”した。闘い始まりすぐに本田忠朝、小笠原秀政らを蹴散らし、そのまま力押しにて家康本陣めがけ疾風怒濤一文字に切込んでいった!傍らに高名な真田信繁がいたために、相対的に不当評価される。が、しか~し、天王寺口の戦いでは“毛利勝永が最大最高の殊勲者”だ!もっかい書いておく、毛利勝永が最大にし最高…)

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通天閣を赤く染め夕日が落ちる

○推奨本/司馬遼太郎著『軍師二人』と『城塞』。二冊読めば「大坂の陣のあらまし」がサクッと判りますよ。

○参照V/テレ東/「新説 日本ミステリー」歴史ミステリー 家康は二度死んでいた? - YouTube  

(※天下のテレ東の番組なので「閲覧ご注意」笑)

 

無情にも日は傾き、やがて通天閣に火が灯る

 

しゃ~てと。「じゃ、串カツでも喰いにいくべぇ!」我々は茶臼山をあとに、ジャンジャン横丁へと進軍を始めるのでありました。

「狙うは、だるま本店。ただひとつぅぅ~!!」

コレにて、めでたし、めでたし。なのか?!

 

追記/茶臼山(古墳)公園の解説など少し

四天王寺の南西に立つ茶臼山。五世紀ごろの「全長200m近い前方後円形古墳」であるとされていた。しかし1986年の発掘調査結果によれば、古墳に欠かせない葺き石や埴輪が全く見つからなかった。

○規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられた。だが結論には未だいたらない。

 

○交通アクセス

○「Osaka Metro御堂筋線 谷町線「JR天王寺駅」徒歩約15分

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茶臼山本陣跡 周辺地図

参考/Osaka info、大阪観光局、ウキペディア (5600文字、You read it, thank you.let's enjoy history!)

ホントにあった、世にもお馬鹿な「BL級爆弾💥物語」【マジっすか?】

 

オラ『オカマ爆弾 (gay bomb)』を考えたぞぉ~?

米空軍研究所が本気でですね「催淫性非殺傷型化学兵器」という、まぁひらたく言えば⇒通称「オカマ爆弾」を考えていたらしい。

 

ことの始まりは、1994年にオハイオ州にある「ライト・パターソン空軍基地(UFO案件でお馴染みの場所)」にて「非殺傷型化学兵器の多角的な可能性」なるものの文献がまとめられました。この文書によれば、敵部隊に「強い催淫剤爆弾」を投下して…

「敵部隊兵士に同性愛♡行動」

を起させ「敵部隊をたちまちに混乱」に陥れるという

「世にもオトロしい新兵器」

なのでありました。ガクブル。そして「完全に非殺傷なのである!」と、ドンと胸を張っているのだ。イヤイヤ、それってどうなのよ~と、思ふぞよ。

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「やい、オカマ野郎!」「なっ、ナニよぉ~♡」

さらに驚いたことにですね。このオカマ爆弾兵器は、1994年より「六年にも渡り研究継続」されたのち、結局のところ放棄されたという。コレをいったい「どこの国に使うつもり」だったのか?

そして二十一世紀を目前に控え「やっぱヒトをオカマにする薬なんか無い」と、ようやく気づいたらしいのです。←ハナから気づけよっ!

当時、空軍研究所はこの開発に何と「750万ドルもの予算※」を要求したといいます。もし万が一、完成していたらあちらコチラの戦場で、オゾマシイ光景が…「Wow♡」となったことでしょう?これコワすぎるだろ!

戦争反対!

しかし、ワンピースの「イワンコフ」見る限り「オカマ戦士✨最強」カモしれぬワイなぁ?逆に凄いことになるよね。

「奇跡、ナメめんじゃないよォ~ !!!」

(※よ~く考えてみると“架空計上の疑い”もあり、ならばその金を何に使った?また、オカマ爆弾を研究した空軍研究所には、2007年10月にイグノーベル平和賞が贈られていますね…なんだそれ)

 
(800文字、thank you for reading.)