まだ半睡の私を、達治さんは舟に放りこむやいなや闇と黎明の境へと漕ぎ出した。遥かに淡路島が古獣の骨じみた黒い背をのぞかせていた。モーターの軽い唸りと、暗い夢の続きを半ばみている私の鼻歌と…。魚影を求めての舟出というよりは、海葬の送りにたちあってでもいるような錯覚におちいる私であった。
「シッ静かに…ほれ、聞いてみい」
と、達治さんが私の鼻歌を制した。彼の指し示す海の一方に私は耳を澄ませた。最初はかすかに、やがてはっきりと「それ」は海底から湧き上がってきた。なにかブツブツと人が呟いているような音だった。あたかも暗い底で海亡どもが誰かを呪っているような…。
「グチじゃ!」
(啓蒙かまぼこ新聞「陰鬱なる魚の呟き」より冒頭抜粋)
前作書いていたらですねぇ、なんかこの手の話を昔どっかで読んだことがあるような気がした。でも思い出せない。あ…これなんですが。
いったいなんだったかなぁぁぁ…zzz…(o_ _)o…ガバッ! ←ナルコプレシーかっ
そう「あっ中島らも…けるかも」悲しいことに引越し時にラモ系(←電車ちゃうよ)の蔵書をかなりザッと処分したので探すの困った。そうして多分頭に浮かんだらしいのは冒頭抜粋した作品「陰鬱なる魚の呟き」ではなかったか。でもなんかスッキリしないなぁ…むかし読んだ本は忘れていることが多いのだ。この際変なもやもやஇをスッキリさせたいと思う…てな訳で今回は知る人ぞ知る“中島らも”さんとの思い出話を書くことにする。奇人、変人、天才?なんか色んな形容されているが、結局のところ“けったいなヒト”やったなぁ。あと何故か、らも氏は一部のネト民には絶大な支持、カリスマなのか?を得ているようだ。天国のダライ・ラモ氏は多分こう言うだろう…。
「いまごろかいっ~めっけめけぇ~!!」
ではではその時代、その想い出を語ろう
なんだか世の中が変な熱気に溢れていた。いま思えば「バブル黎明期」だったのだ。そんなぼんやりした昭和の終わり頃。本来、裏方稼業(黒子だ)のコピーライターなるものが、糸井重里氏らの登場によりキラキラ陽のあたる職業へと、社会認識された時代。「おいしい生活。」たった一行でホントにおいしい生活をガバチョと手にいれた糸井氏(と、バカが勘違いしたぐらい。まぁワタシのコトだが)。
何故かコピーライターが“スター扱い”されていたんだ。ほんと不思議現象だなぁ。「不思議、大好き。」はいガバチョ!いまで言えば人気ユーチューバーみたいな感じなのかな、なんかチガウ?いやいやそれで私と中島らもさんの接点となるのは(株)宣伝会議のコピーライター養成講座に通っていた頃である。勿論らも氏とは若干世代と学期はズレるが同時代に同じベクトルを目指していた訳です。ワタシは二十代の若造、らも氏は既にソコソコなオッサン年齢(たぶん30歳前半)だったと思う。ワタシは講師であるF島氏(デンツークリ局のエロい偉い方だったのです。この方も数々の武勇伝、エピソードをお持ちである。故人)の電波教室でたいして役にたたないCMの作り方を習っていたのだった。でん、ででんつー、ででん♪
大人気「啓蒙かまぼこ新聞」の真実一路
ある時、当時若者に人気のあったらも氏が制作していた「啓蒙かまぼこ新聞」にイタズラの励ましの手紙を書いた。私はまず葉書の真ん中に“包帯をグルグル巻いたタラコの絵”をでろ~んと描いた。さらに文面は確かこんな感じ「タラコに包帯巻くなんて、あんまりだぁ~!! ○島○教室より」←コレでは狂人の手紙だ-w
○中途解説/啓蒙かまぼこ新聞とは、カネテツデリカフーズが寛大な心をもって中島らも氏に「好きに広告創って、エエ~よぉ」と許可した伝説の広告なのである。通称かま新とよぶ。当時の若者に人気があったのだ。ただの広告なのに、ねぇ。
果たして。中島らも氏は教室に突如ふらりと現れた。F島センセが姿を見つけ、ぶっきらぼうに一言「おっ、これが中島や!」何故からも氏は黙って生徒と同じ椅子にストンと座った。
「…え?」
皆んなは呆気にとられたがザワつくことも無く、いつもと変わらず授業が始まった。教室終わったあとは同じビルの地下街の呑み屋。お決まりの酒盛りタイム。何故かそこから先の記憶がスッパリと無い。煙草の紫煙と狂声「ここは魔窟か…」不思議だ、モヤモヤஇする。でん、ででんつー、でで~ん♪
ほんなららもさんに逢いに行くかぁ?
話が前後するが。ある日のことらも氏が講演会の演者(スピーカー)をすると言う。そんな話が教室に広まっていた。すると答え一発…
「こりゃ、行かねばなるまいて皆の衆~」
「そやそや~後輩のつとめや」
我々はノコノコと出かけて行ったのだった。訳わからん難儀な後輩やでな。講演後、お決まりの打ち上げ宴会である。近くの料理屋の二階にて宴が始まった。ワタシは、らも氏の真正面に陣取った。確かこの時が初対面であったのだ。怪訝な顔のらも氏。主催者ですら末席なのに。サングラスの奥の目が何かを値踏みをしているかのようだった。なんか気まずい空気が流れる。これはマズいな…ワタシは機転を利かし、すぐさま鞄から「陀羅尼助」を二袋取り出し「はい、プレゼントでえぇ~す」と真面目な顔で手渡した。ダラニスケとは“鼻くそ丸めた万金丹”として古来より褒め称えられて来た仙薬、何にでも効くという魔法の薬なのである。それはコレだ↓
暫し、眺め半笑で呟いた…「コレ、キクかな…?」
「ええそりゃもう、徹夜の時などに、一発キメてください…(小声)」(←何の売人?)その後、かま新に突如“弘法大師(芸名はチャーリー)”が登場しだしたのである。どうやら渡したクスリが効いたようだ。<笑
中島らも作品に影響を与えた男として、どうか褒め称えて頂きたいものだ。
まぁこんな風に想い出話といっても、他愛もない日常でしかない。多分皆さんが想像しているだろう⇒「ヤク厨でアル厨で、躁鬱病気質のゴモゴモ何喋っているのか分からない、へんな中年オヤジ」このイメージは残念ながら、ほぼほぼ正鵠、正しいのです…笑
「酒とクスリのチカラに頼り、無理やり文筆を続けた」らしいからね。これは文筆家の陥るワナのようなもので、多くの小説家がそうだったように彼もまた、堕ちた。最期には階段からも、落ちた。なんてことだ…嗚呼。でん、ででんつー、ででん♪
しかしながら私の見知る限りにおいて「愛すべき好人物」であった。残念ながらいまは作品でしか再会することが出来ないのだが。あ~っ…!モヤモヤஇ解決どころかさらにモヤモヤが増えてしまったぞ。ありゃりゃ、困ったな…
遺作など「中島らも」作品を次に紹介する。
○小説/『今夜、すべてのバーで』著者 中島らも
中島らもの“最高傑作”と言っても“いいんだぜ” しかし万人受けはしませんよ。
[ザッパなあらすじ]
主人公の小島容がアルコール依存症になり、入院生活をおくる。そのなかで出逢う人々と、葛藤し更生するまでを描いている。中島らもの自伝的小説、まずはこの一冊をお読み頂きたい。Kindle版も確かあったはず。
1993年に発刊された、中島らものミステリー推理小説。日本推理作家協会賞受賞作。
[ザッパなあらすじ]
民俗学教授が主人公。呪術の研究のためにアフリカへ。娘の志織を亡くし彼はアル中になり、妻は精神を病む。アフリカでの経験と研究を本に書き、TV出演する有名人となる。だが妻の精神状態は回復せず誘われ新興宗教の信者となるが…。
中島らもの真骨頂はグダグダなエッセイにあると想う。独特な一連の笑いとペーソスには、グイグイ引き込まれる。或る意味人気ブロガーのやり方そのものだ。何かに困っている方は参考にどうぞ。
○出演/「枝雀寄席」対談
枝雀師匠と中島らも先生貴重なツーショット映像である。まだまだ若い頃ですね。奇しくも二人とも若くして亡くなってしまった。ホントに、残念無念ですよ。合掌
○楽曲/「いいんだぜ」歌 中島らも&マザーズボーイズ【閲覧注意】
途中Pが入るが放送禁止用語w。私の中ではボブ・ディランや忌野清志郎など共に同質カテゴライズされています。メッセージソングの名曲である。らもさんが“ダメなやつ”に愛情こめて暖かく励ましてくれます。想い出の“Banana Hall Live”です。
○中島らも略歴
本名/中島裕之 1952年、兵庫県尼崎市生まれ。灘中高から大阪芸大放送学部へ。卒後「㈱大津屋」から「㈱日広エージェンシー」に入社し「かねてつデリカフーズ」のマンガ入り広告「啓蒙かまぼこ新聞」でTCC準新人賞。自伝的小説「今夜、すべてのバーで」で吉川英治文学新人賞。その一方で、パンクバンド「PISS」後に「らも&マザーズボーイズ」として関西を中心にライブ活動。劇団「リリパット・アーミー」を主宰し、俳優として舞台にも活躍した。2004年、7月26日、自宅階段から転落し死去。享年52歳であった。
○名言/『 ただこうして 生きてきてみると 何十年に いっかいくらいしか ないかもしれないが「生きていてよかった」と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば その思いだけがあれば あとはゴミクズみたいな日々であっても 生きていける』By中島らも
(4200文字)