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狂気孕んだ 天才画家 ムンク の波瀾万丈の人生とは? 【画家覚書】

エドヴァルド・ムンクといえば、世界中の人々が知っている絵画『叫び』ですよね。この絵だれもが一度は目にしたことがあるはず。でもムンク自身がどんな画家だったかはサッパリ知りませんでした。

ムンクの人生は 病気と狂気や死

例えば普段SNSでなにげに使うアイコン(😱)にまで影響を与えた!そんなムンクはやっぱり「凄いヒト!」その人生を書き留めておこうと想います。

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エドヴァルド・ムンク

エドヴァルド・ムンク(1863年12月12日~1944年1月23日)北欧ノルウェー南部にある、ロイテンという小さな農村で生まれた。ムンクは五人兄弟の二番目だった。一家は間もなく首都クリスチャニアに移り住んだ。ムンクの父親は医者であった。それなのに1868年(ムンク五歳)に母親を亡くし、また1977年(ムンク十四歳)に姉を、立て続けに亡くした。二人とも死因は、肺結核でした。この「母と姉の死」は、まだ年若いムンクにとって深いトラウマとなったと思われますね。自分の家族を次々襲う病気と死、得体の知れない死の闇に対する不安。

そのことについて「病と狂気と死が私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」ムンクは後年にそう語っています。

そしてムンク自身も幼い頃から体が弱く家に閉じ込められる生活であったらしく、このことが原因で「閉所恐怖症」になったとも云われています。荒れた家庭環境と自身のトラウマがもたらす「漠然とした不安」を生涯心に抱え続けることになったのです。

ムンク人生の転機叔母さんが与えた

ムンクに絵の楽しさや転機を与えたのは、母親替わりの叔母カーレンでした。叔母から絵を描く楽しさを教わったムンクは、ここで人生の転機を迎える。自己表現の出来る「絵描き」を目指すことになった。1880年、オスロの王立美術学校に入学した。この頃のノルウェー絵画は、近代写実主義が主流だった。宗教や風景画などがモチーフとなる。ボヘミアングループと活動を始め展覧会へ出品を始める。しかしムンク作品への評価はあまり良くなかったようです。1889年、政府の奨学金を得て、フランスのパリに留学することが出来た。アカデミズムの画家レオン・ボナのアトリエで学ぶ。留学した年にムンクは父親を亡くしています。

「これからは息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」といった「サンクルー宣言」をムンクは書き残している。

また、この時期にマネなど印象派の作品に感化され、さらに「ファン・ゴッホ」にも強く影響を受けた。このことは自身の作風にも、変化を与えたようです。ゴッホの激しくグルグル渦巻く独特の筆使いは、ムンクの不安定な絵画構成の中でも、度々使われるようになる。象徴主義の始まり、ヒトの内面まで踏み込んでゆく描き方。そして野心的な作品『病める少女』や『春のめざめ』が、描き始められている。この頃にムンクの才能が一気に開花し始めます。

世界的有名作品「叫び」誕生秘話

最初に描かれたとされる油彩の『叫び』が世界的に最も有名な絵画となります。誰もがどこかで見た記憶があるあの衝撃的な絵ですね。真ん中にデフォルメされた、空虚なタッチで描かれる黒い人物。橋の下には紅い血で染まったフィヨルドが不気味な死の影がそこへ忍び寄る。真っ赤な夕焼けとダークな背景色、遠近法すら不自然に歪めたおかしな構図・・何故こうなるのか?

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ムンク「叫び」

この異様な技法は、ムンクが実際に感じた幻覚症状がそうさせたのだった。その時経験した神秘体験を当時の日記にムンクは記していました。

『私はふたりの友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え戦っていた。そして私は“自然を貫く果てしない叫び”を聴いた』

ムンクの叫びは「自然が貫く果てない叫び」。怖れおののき思わず耳を塞いでしまった「自分自身を描いたもの」でした。1892年、ベルリンの芸術家協会に招聘(しょうへい)され、自身の作品を公開した。しかし会員投票によって突然中止となり、ムンクの展覧会は一週間で終了。そしてこれが大スキャンダルとなった。当時の新聞、評論家はこぞって酷評する。この騒動がきっかけでマックス・リバーマン率いる「分離派」の結成となる。ホント「禍福あざなえる縄の如し」ムンクの人生とは簡単ではない。1894年に妹ラウラ・カトリーネが統合失調症に陥る。『メランコリー』のモデルはこの妹といわれています。翌年には弟ペーテル・アンドレアースが、結婚わずか半年後に死亡した。またも身内の不幸が続きます。多くの芸術家らと親交を深めながら『叫び』や『マドンナ』そして『思春期』といったムンクの代表作を生み出してゆく。やがて円熟期を迎えたムンク、それ以後1908年までドイツに滞在し続けました。

ムンク恋愛遍歴も普通ぢゃない

ムンクの随分歪んだ女性観は、恋愛にも重大な影響を与えた。ハンサムな顔立ちで長身でもあり、いまでいうイケメンだった。そう「イケメンの絵描き!」世の女性が放っておく訳が無い、だがしかし。三十歳頃のムンクが出会ったのは夫のいる「ダグニー・ユール」との不倫関係でした。彼女は憎愛と嫉妬の闇にムンクを引きずり込んだ。これが彼の『マドンナ』であり『吸血鬼』だったのです。また富豪の娘「トゥラ・ラルセン」とも恋に落ちる。三十九歳の時、別れ話から彼女にピストルで撃たれて左手を大怪我する。作品『離別』や『灰』に登場する彼女は、まるで舞台女優のような描き方ですね。やがてムンクは精神不安に陥り「アルコール依存症」となる。それでもムンクは孤独で自由な創作スタイルを、変えようとはしなかった。この頃からさらに精神が蝕まれてゆきます。

晩年は祖国へ戻り最高評価される

1908年に精神疾患の治療ため祖国ノルウェーに戻ることになる。自分に襲いくる災難がムンクの絵画を自伝的な作風へと変化させてゆく。その一方でノルウェー政府から勲章を与えられ国立美術館ムンク絵画を次々と購入し、ノルウェーでのムンクの評価はいまや最大級となった。自分自身の精神的弱点を絵画世界で昇華させ続け、独自世界観を造り上げたムンク。なのに名声が高まれば高まるほど、現実世界では不幸と荒廃に次々に見舞われる。晩年にいたり「明るく輝く風景画」を描くようになる。とても明快で明るい色で構成され画面がとても軽い。このことはムンク自身の「象徴主義の終焉」だったのかもしれません。1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、絵画制作を続けていたが、1944年(八十歳)で亡くなりました。いまに残る絵を観れば「重苦しい人生だった」と、思えます。

ムンクの絵画作法とは…例えば自分自身の心の内に沈殿してゆく「汚れたモノ」をひとつひとつ絵画作品として掃き出していったのではないか?それは精神の自浄作業でもあったのだ。ワタシにはそう思えるのです。

▷付記/2012年、個人所有していた「叫び」のパステル画がオークション(ニューヨーク・サザビーズ)で1億1990万ドル(約96億円)で落札された。コレただのパステル画なんですよ。とんでもない評価額となる。

ムンクほんと➠すンごぉ~いお方

(※叫びには四枚の作品群がある。1893年油絵、1895年にパステル、1895年にリトグラフ、1910年にテンペラで同タイトル、構図による作品を描いている)

(※象徴主義とは十九世紀後半にうまれた絵画法。ヒトの内面的な「不安、生と死、運命」など、形がなく目には見えない抽象概念まで絵画で捉えようとした)

参考文献/ウキペディア、美術手帖

(3300文字、thank you for reading.) #ムンク#芸術家