南海電鉄加太線<和歌山市駅…🚋…加太駅>ただいま“第参総軍”が移動中!
[Mission two]
深山砲台跡とその周辺部を徹底調査する
前回のお話<Part 1 序章>です。コチラからご覧下さい。ミリオタでもない奴が書いております。軽く読み流してやってくだされ。
(※より理解が深まるやも知れません?ただし効能には、個人差があります)
現地到着、調査開始!まずは作戦会議始めますよ
南海加太線、加太駅前にいた。少し蒸し暑かった。今年の夏はきっとギラギラ熱くなる、そんな予感がする初夏の頃である。
加太駅前にあったものとは
しばし給水タイムをとる。加太駅前から「紀州加太休暇村」まで、無料送迎バスが出ているのだが、それに乗るために我々は時間調整していた。
すでに結構暑いね、もう汗かいてる。
「この加太線はここで急に終わってる。な~んでか、判るか?」
「さぁ…?これ以上延伸しても、海に落ちるから」
「そう正解!な、訳ないやろっ、その頃にはすでに“アレ”があったんや」
加太線は昔、軽便鉄道であった。加太軽便鉄道が開通したのが明治四十五年、砲台への軍需物資や兵員輸送に利用されたらしい。もちろん行楽客にも、おおいに利用された。
当時の「加太軽便鉄道」の状況は…この記事に詳しい。以下引用文。
『終点加太の「淡島神社」は全国淡島信仰の総本山。その他にも、西庄には六世紀にまで遡れる由緒正しい八幡宮のひとつ「木本八幡宮」、大川には浄土宗々祖円光大師自作の大師像を安置する「報恩講寺」と、著名な神社仏閣が目白押し。信仰と観光を目的とする人々が引きも切らずに訪れたのです。
そして忘れてはならないのが、明治二十七年からある「由良要塞深山重砲兵連隊」深山地区は一般人の立ち入りは禁止されていましたが、連隊の兵営がありそれ自体が街を形成していました。
加太軽便は和歌山からまた全国から同連隊への物資輸送の要となったのです。大正九年に加太~深山間が県内で二本目の国道に指定されていることからも、加太軽便の重要性がわかります。』
引用文「南海加太線むかしむかし」より
この記事によれば、明治から昭和まで加太は「寺社観光と軍事基地の街」だったようです。
古写真を見ると、その当時もいまも驛舎がたいして変らないね。コレが加太駅のスゴいところです。もう明治、大正時代の「レトロ感がまんさ~いの驛舎」だから。オリジが保存されてます。
小さな木造洋館風の驛舎(1912年築)レトロだし、ホームにある屋根支柱は歴史ある「ドイツ製(百年物)の軽便線路」を曲げて活用している。屋根煙突(駅のシンボルだった)はホーム展示。
驛舎ディスプレイも、なかなか凝っていますねぇ。
駅員さんかなり頑張っていますよ。
そして駅前にある「土産物屋 姫路屋さん(閉店した)」は、むかしには道の反対の鉄道寄り(いま加太駅構内トイレが出来た場所)にあったようで、長い歴史ある商店であったことが伺えますね。
我々は観光案内所横のベンチに移動
ジュースを飲みながら、スマホアプリの古地図(今昔マップon the Web)を確認してみる。このマップアプリはカンタンに、新旧の地図が同尺で表示され、実に分かりやすい。なかなか面白いので、皆さんにお勧めします。
それで、この場所の古地図を眺めて「やややのや!」またひとつ、ビックリな発見をしました。
いま駅前から眺める南に広がる住宅地一帯には、明治時代に深山重歩兵連隊の練兵場があったみたいなんですね。そのため、この加太線はそのヤバい場所を避けるように、山際を走らざるを得なかった。そして練兵場に横ずけする形で、この加太駅が設けられたという訳です。
「砲兵がこんな場所で、陸戦の演習をやっていたのか。そうだったのか、なるほどねぇ」へんに感心した。
いま、この辺りの地名を「新町」と呼ぶ。後の時代になって練兵場跡に、新たに縦横に区画割りされた“新興住宅地”が建ち並んでいったのですねぇ。
たいていの連隊に練兵場は付き物、それが廃止されたということは砲兵連隊は、何時ごろこの地から移動したのだろうか。後で調べてみよう。
現代の航空写真をレイヤーで地図に重ねてみると、かなり解り易いな。
さぁて目指す男良谷(おらだに)砲台跡は、一般観光客があまり立ち入らない場所なのだ。まずは「深山第一、第二を軽くチェック」してから、男良谷へ降るルート。それではぐるんと大回りになるがうまく回らねば、無駄に山中彷徨うこと必至だね!
ようやくバスがやって来たようだ。
ではでは、乗りますかな。
道中バスの車窓から、色々発見したモノなど…
バスが発車します、山頂向けて
送迎バスは我々二人を乗せて、加太海岸沿いをゆったりと走る。このビーチ、一言で表現すれば「砂浜荒磯」か。
海沿いに城ヶ崎が見えてきたね、以前訪れたことがあった。なんでもここにも陸軍の「探照灯設備」があったらしいが戦後、国民宿舎の研修場になりいまは、展望所の四阿(あずまや)だけがポツンとある。
眺めがすこぶるいいが、いまは訪れるのは釣り人ぐらいなのかな。あと地層マニアね<笑 そうそう、地層の名所なんですよ「ジオパーク」。
この場所は砂岩、泥岩層が積み重なった地層が露呈している。中生代白亜紀(7000年前)の和泉層群の地層、西日本を貫く中央構造線上に位置する訳でダイナミックな地形です。海底岩盤がググッと盛り上がり山状となった。
階段を海へと降りると「鬼の洗濯岩」と呼ばれる、砂岩と泥岩のミルフィーユ状態(泥岩凹で砂岩凸)が観察できます。永年波に侵食されノコギリ状になっています。この地層は沖にある友ヶ島にも共通する。
さらに細く観察すると中生代の「生痕化石」があったりします。コダイアマモなどが見つかるとモチベがUPするので、頑張って探るとイイですよ。 (わりと地層好きだったりする)岩の隙間に、蛸とか海鼠とかもいますね。
そしてまたこの地は、萬葉集にも謳われたずいぶん風光明媚な場所でもある。この岬の展望所には、紀州青石の萬葉歌碑が存在します。
『藻刈舟 沖漕ぎ来らし 妹が嶋 形見の浦に 鶴翔ける見ゆ』詠人知らず
意訳「白い春霞のたおやかな海峡。ワカメを載せた小舟が櫓を軋ませながら、妹が嶋から漕ぎ寄せてくる。すると形見の干潟で餌をついばんでいた鶴が一声鳴き、いっせいに空高く飛び立って往くのであった。嗚呼、何と素晴らしい情景であったことか…」
以前歌碑を眺めた時にはですね、城ヶ崎のダイナミックで美しい情景と相まって、そんな枯淡な風景がアタマに浮かびましたよ。えぇ、浮かびましたとも。ホント、ホント!
「加太浦古歌には皆、形見浦といふ。加太 形見 唱へは異なれとも同義にして、形見は本名ならん潟海の義にて、遠干潟の地をいふなり」
この歌に登場する萬葉時代の地名が「妹が嶋=友ヶ島 、形見の浦=加太海岸」となる。潟海「かたみ」が音変化して「加太 かだ」となったというのだが。この話、ホントかな・・?
バスは加太海岸から、深山地区を走る
さて、バスの窓からぼんやり深山湾を眺めていると…ん!「アレは、なんだろ?」脱走した子供を連れ戻す、お父さんの姿が見えたのだ。
コチラは「藻狩り」ならぬ「子狩りだねぇ、大変だよ」<笑
そしてバスは、勝手に命名「地獄坂」にさしかかる。前回(実は数週間前にも来た)チャリにてこの道を登攀したのだ。ここめっさキツかったよ。
それでこの辺りで息切れ(諦めた)足つきリタイア、流石に辛いよぉ~この地獄坂はね。原チャリですら“ウィン~ウィン”なるぐらいキツい!
で、今回は当然ながら呆気なく「休暇村紀州加太」に到着。バスなので楽々でしたよ。この日は金曜日なのに、この駐車台数の凄さ!ほぼ満杯、凄。
深山第二砲台がいまは、休暇村 紀州加太なんです
(休暇村の無料バスに乗せてもらった手前、すこしベンチャラ解説しておきますよ)
大人気、休暇村紀州加太とは
ここ「休暇村」ずいぶん人気が出たよね。リニューアル前のいささか“寒い過去”を知っているだけに、ビックリだな。
この宿の一番のウリはなんといっても「景色の良さ」天気よい日には、紀淡海峡の絶景がどっか~んと望めます。そしてこの宿のお風呂は「加太温泉 天空の湯」湯舟に浸かり眺める夕景が、みごとなんですよ(…と、聴いた)。
一度は泊まって落日をのんびりと眺めてみたいものです。
(※加太温泉の泉質は「炭酸水素、塩泉ナトリウム」ヌメっとした海水みたいな<笑)
また日帰り入浴も人気です。問題点は「入浴時間が限られている」こと。日帰り入浴は、時間要注意ですよ。なので旅程などご留意ください。
(※日帰り利用時間 12:00~15:50 <15:00 札止め> 料金 大人1,200円 小人600円)
こちらが「天空の湯」入口付近です。でも、今回は温泉に入りにきた訳ではない。いささか「残念でござるなぁ」我々はあっさりと湯ターンして外へ向かうのだった。
▽「休暇村紀州加太」ざっくりとした紹介ビデオ。
○休暇村紀州加太ホームページ⇒ https://www.qkamura.or.jp/kada/
さて、まずは「第二砲台跡 展望所」からの眺めをチェック!この位置に、第二砲台の左翼観測所がありました。紀伊水道が一望でき、視界はすこぶるイイ。ただこの日の海は、軽く霞んでいましたが。
トンビがクルクル上空を舞っていました。
🙄弁当食べるには、要注意ですね。
深山第二砲観測所跡から海を眺める
見下ろすと加太の漁港に大波止、その奥には淡嶋神社や旅館街がよく見える。沖ゆく船が霞んでみえますね。構図がよく、なかなか絵になる風景です。
「報告、敵艦見ユ!」
陸軍がこの地を対艦砲台に選定した意味が、展望所に立ったらよく分かった。海抜110mから打ち出す砲弾は、弧を描き加速度がつく。きっと破壊力抜群だったと想われますね。
「しかし・・あんな芥子粒みたいな船に、砲弾が当たるものだろうか?」
沖ゆく船眺めての感想。この後「第二砲台 掩体壕跡」へ移動した。
第二砲台跡 棲息掩体壕跡は…嗚呼、何たること
すると「エンタイゴーてなに?」と大宮一等兵が聞く。
すでに☆栄進しているぞ。
「う~んと掩体壕はねぇ、英語でバンカーとかトーチカとかいうやつ。ヒトとか物資とか飛行機とか守るため、煉瓦とかコンクリでガッチリと守備陣地を…何というか、まぁこんなやつやな」
写真を指し示す。が、掩体壕が写ってないよ?これ。
深山重砲兵連隊(重砲兵第五連隊)は、紀淡海峡を北上侵犯する敵艦を、山上から迎撃するための砲台要塞をこの深山に展開した。当時最新鋭の二十八サンチ砲を据付け、紀淡海峡を守っていました。
○深山第二砲台(海抜100m) 二十八サンチ榴弾砲×六門、明治二十六年十月 成立
また深山第二砲台は、深山重砲兵連隊の演習砲台としても使用されたらしい。深山連隊が日露戦争の旅順要塞攻略(203高地)に参加した際、高い命中率と練度をもって旅順陥落に貢献したとのことです。
この休暇村の建物がある場所に、砲台群があった訳ですが。でも砲台らしき痕跡は、いまは全く残ってはいません。
我々は駐車場の東側、掩体壕に移動す
ここに小さ目の掩体壕がある。残念なことに保存されている遺跡は、このひとつしかないようだ。その周囲は芝をうえベンチもあり、綺麗に公園化されている。
フランス積みの煉瓦が素晴らしい。入口上部の二重アーチの巻き方もいい、なかなか意匠をこらしていて美しいですね。出入口横に縦スリットがあいているが、これは明り取りだろうか、それとも連絡用のケーブルを引き込んだ穴なのか?
さらに不思議なのは出入口が、海側を向いていることである。そして位置が、少しだけ掘り下げた「半地下構造」なのである。なんか変だよね、果たしてココは“弾薬庫”なのかな?
第二砲台には二十八サンチ砲が、六門備え付けてあったという。その堅鉄弾は217kgもあったらしいから、管理運用とも簡単ではなかったはずだろ?てことは、ここは「弾薬庫ではなかった可能性」がたかいね。
内部は比較的小さい構造で、左右と天地(高さ)も無い。だいいち砲台とも離れ過ぎているし…この場所は「砲台指揮官の発令所」として、使ったのかもしれないね。
う~ん作戦計画、再確認しますね
公園ベンチに腰を下ろし、水分補給。再びモバイル古地図チェック。海寄りの山頂点が二箇所削平され平坦になっている。その南側がいま居る「第二砲台跡」そして少し上の北側の平坦な場所が「第一砲台跡」となります。
その山の右下、麓には「衛生病院」と「重砲兵営」と記載されている。ここが「深山重砲兵連隊本部」があった場所です。
阿振川(あぶりがわ)が山間を流れています。その谷間に、連隊本部がありました。いまも駐車場に、顕彰碑が残っています。
由良要塞司令部の年譜を調べてみると、明治三十七年に一度部隊は外地へ転出(日露戦争)。その後大正二年には、深山第一砲台、深山第二砲台がすでに役目を終え、廃止になったことが書かれていました。
<由良砲台 年譜(略歴)>
○明治22年、1889年 3月 - 「生石山第三砲台」を起工、由良要塞の建設開始。
○明治29年、1896年 7月 - 「由良要塞司令部」開設。
○明治31年、1898年10月- 「由良要塞司令部」が兵庫県津名郡由良町に移転 。
○明治36年、1903年 5月 - 「鳴門要塞」を吸収合併。
○明治37年、1904年 2月 - 「動員下令(日露戦争へ出兵)」により転出。
○大正 2年、1913年 4月 - 「佐瀬川保塁、深山第一砲台、深山第二砲台、赤松山保塁、伊張山保塁、成山第一砲台、成山第二砲台」の廃止の方針が出る。
いまは兵舎跡がスポーツ公園になり、衛生病院跡がオートキャンプ場などに使われていますね・・え”~あのキャンプ場に昔陸軍病院があったの?!
しかし「衛生病院」とはね。衛生には感染症のイメージがあるよな。兵隊さんが悪所で○○を貰ってくるみたいな「こりゃ、ヤバいっ」<笑
ココも航空写真と重ねて見ると解りやすい。歴史が流れていますね。
深山砲台跡の東側には、あぁ~何と!
そしてMAPをさらに右側(東側)へ、阿振川の上流部へ辿って見ると、山間にあったもの…地図に「陸軍墓地」と「射撃場」と印してあったのです。
「あ~!そうかぁ、そうだったのか・・」わかっちゃった!
いまは「恐竜の森林公園」として親しまれているが、明治時代には「深山重砲兵連隊付の墓地」があったのでした。これ軍人専用のお墓です。それについての最近の新聞記事を見つけました。記事を一部引用します。
以下引用『和歌山県和歌山市加太の森林公園内にある「旧深山陸軍墓地」日清戦争以降 紀淡海峡防衛のため同地に配備された、旧陸軍の深山重砲兵連隊の兵士たちが埋葬されているとされる。
市民にはほとんど知られていないこの場所を後世に伝えようと、旧陸軍兵や元自衛隊員らでつくる深山会(旧陸軍墓地を守る会)が整備を進め、昨年初めて慰霊祭を実施。
ことし(平成30年)も20日午前10時から営む。同会は「命を懸けて平和の礎を築いてくれた英霊を顕彰し不戦の礎として未来に伝えていきたい」と話している。「旧深山陸軍墓地」は同地に重砲兵連隊や陸軍の病院が創設されたことから、兵役中の病死や公傷死者らの墓地として日露戦争後に造営され、約50基の墓石が並ぶ。墓碑銘から兵士の出身地は和歌山や大阪、京都や滋賀など近畿圏中心であることが分かる。』
(引用文:和歌山新報 2018/5/19付)
この森林公園には過去、何度も訪れたことがあったのですが。
阿振川に沿って南北に、大きめの公園が造ってある。リアルで巨大な恐竜や動物の像があちらこちらに沢山設置されていて、子供向きかなぁ?(笑)
まぁ、色々と考えられていますね。でもこの谷間特有の「陰気臭い雰囲気」があって、あまり好きになれなかったな~。
そして昔から「心霊スポット」として、何かと噂のたえない場所だったのだが、その根拠がよく判らなかったのです。
いわく「兵隊の幽霊に追いかけられた!」とか「小さい白い女の子がたっている!」あと「公園トイレにだけは、入ってはいけない!」などである。
実際、忘れ去られた「陸軍墓地」その場所。そういうコトだったのか、これはこれで、何だか納得出来ましたね。
少なくとも「お化け話の根拠」がコレで、ハッキリしましたからね。苦笑い
この場所は、これ以上触れないでおこう。この公園に置かれているオブジェ等については、こちらの『日本珍スポット100景』に詳しいです。
珍スポット扱い⇒恐竜世界&サファリ探検っぽい撮影スポット「森林公園」【和歌山】 | 日本珍スポット100景
西側には友ヶ島がぽっかりと浮かぶ
反対の西側には海が拡がり島嶼(とうしょ)が並ぶ。休暇村ロビーから、友ヶ島方面はこんな風に見えるのです。
手前が地ノ島、奥が沖ノ島、併せて友ヶ島と呼ぶ。軍事要塞島だった関係で、戦後まで地図にすら明記され無かった「黒歴史を持つ」のです。
さらに奥にうっすら見えるのは淡路島ですよ。紀淡海峡の幅(※約11キロ)は、わずかな距離しか無いことがよく判りますね。薄曇りなのは残念です。
(※海峡間を地の島、沖の島でフタをする格好となる。由良瀬戸は幅4.7km、水深20m以上の大型船可航幅は2.8kmしかないいわゆる海の難所である)
深山第一砲台跡へと、サクサク転進しま~す
前回ここに来た時は、銀輪部隊がフラフラと登り、ダイレクトに海を目指して降りていった。電撃戦すこし慌て過ぎたね、今回はその反省をこめて来たのだから…「慌てない、あわてな~い」By 一休さん
駐車場の端にいい具合に、案内看板があった。かなり精度ある地図、等高線まで入っておりまするな。たいてい観光地の地図看板はデフォルメされたものが多く、変なイラストが被っていたりで地形が把握できないものが多い。コレはなかなか親切でイイね。
▽参考動画/加太、深山、城ヶ崎、友ヶ島周辺海域のドローン映像
さて第一砲台跡に向いましょうか
休暇村から続く道を、てくてく下ってゆく。 整備された快適な遊歩道である。右に見えているのは、休暇村の第二駐車場。コチラも車がかなり多いですね。これじゃ宿、満室だよなきっと。
歩道脇には山フキが群生していた。何気無いことだけど、歩くの楽しくなるよ。トベラ、ツバキ、ヤマモモ、クヌギなど植栽されていました。
そしてすぐに分かれ道に至る。左へ道下れば「男良谷砲台跡」に至る。真っ直ぐ煉瓦道をいけば「深山第一砲台跡」へ迷わずたどり着きます。
前回はこの道を海へと、降りていったけれど、ねぇ。
通称「木漏れ日の道」その名前の通り、森から木漏れ日がさして鳥が啼く。なだらかな下り道で、気持ち良くテクテク歩いて行けます。当時の軍道をそのまま保存され、快適なハイキングコースとなっています。
また六月頃には「ヒメ✨ホタル」が舞い飛ぶ姿が観れるそうですよ。もちろんその時は、夜ですのであたりは真っ暗、足元だけは要注意です。
こちらは「深山第一砲台跡」へと続く煉瓦道、驚いたことに明治時代のままのレンガ敷が残されているそうです。歴史の香りがプンプンしますね。
軽い登り道です。今回はまず、砲台跡経由して行くことにしますね。この路入口の右手側に「小さな駐車場」があり便利。だいたい五~六台はクルマを停めることが出来ます。そしてネコちゃんがいました。
第一砲台への道をサクサク歩く
紀州名物「備長炭」の原材料である、ウバメガシが自生している。木漏れ日が刺し山あい独特の空気あり、イイ雰囲気ある歩道が続く。「いかにも、いかにも」ずいぶん“いわく”ありそうな煉瓦道ですねぇ。
初めて来たのなら結構“ワク♡ドキ”ものではないかな?この先に「謎の洋館」でもあれば「うきゃ~♪」と、なりますね。これはカップルデート推奨地ですよ。イチャコラしつつね散歩<笑
深山第一砲台跡に到着しました
深山第一砲台跡に着いた。右翼側、煉瓦を敷き詰めた広場がある。城郭で云えば「武者だまり」といった所かな。「邀撃陣地(ようげきじんち)」であるのは判るが、はて?この正面右手斜面を上がると右翼観測所、さらに奥には深山砲台跡展望所へと続く道、左手へ折れて行けば砲台跡、正面すぐに地下掩蔽壕降り口がある。
また、右側の山を藪漕ぎ登ってゆけば「大川山堡塁(海抜129m)」がある。この深山砲台を側面支援するために設けられた堡塁、明治三十年頃のものだ。いまは森と薮のなかに埋もれている。今回は探りませんよ。ヤダヤダ<笑
この広場のすぐ左側、振り向くと・・「ありゃ、何だこれ?」
石垣組みで“コの字”に窪んだ場所がある。「?」なんか、ココ気になるな。
「この場所、なんだと思う?この造りは変やろ」
「う~ん、ゴミ置き場かな?トイレかも?」
いやいや。この苔の付き方は水気があるからだろう。地面がここだけは煉瓦ではなく土だから後から埋めたようだ。だいたい、この山頂には水の手がないからね。てことはたぶん「ここに防火用水槽があったのではないかな」と、ワタシは推定した。でも、ホントは何だろねぇ?
広場すぐにいきなり急な石段があった。木々が生い茂り、昼なお暗い感じではある。風に揺れる木の影が、微妙な陰影をつける。地面に落ち葉が積もり腐葉土となっている。この造りは、オシャレなのかな、それとも不気味かな。
生息掩体壕跡に降りて行くと
「さぁ、ココから掩体壕※に降りて行くことにしますかぁ」
(※メンドーなので掩体壕と書いてますが、正確には「棲息掩蔽部跡」と云うらしい。“せいそくえんぺいぶ”って語感、何だかイヤらしい感じ<笑)
通路は一部だけ水溜まりが出来ていた。意外と排水は良いみたいだが、排水溝が見当たらない。いったいこの通路下、どんな構造になっているのか?
後ろを振り返ってみる。角度を変え曲がっている通路。勿論、何らかの設計意図があるのだろう。この角度、やはり気になります。錯視効果か?
煉瓦建築物は、ホント綺麗に保存されている。イケてるミリコス立たせて、写真を撮りたいね。きっと映えるはずだ。「う~ん。イイねぇ~オサレだ」地面の枯葉さえも、オシャレに見えてしまうよ。
「こりゃぁ、パリの裏町の風情だねぇ!」(フランス、いったことないケド)
「なんで砲台の設計は、フランスなん?」と大宮が聞いてきた。
「おぉ、 いい質問ですねぇ。ダーバンセセレガァ~ン…なんたらこたら」
☆いっこ追加だ。
「え~とですね、日本陸軍が明治の初めに建軍した際、まず参考にしたのがフランス式要塞だったから、その流れで…ナンダカンダ」
ここ深山に限らず明治初期の建築物は、フランス式煉瓦作りの丸いアーチを描くものが多かった。特に砲台要塞は洋上から発見されにくいように、山中の高所に隠れるように建設され、ベトンで固めた砲座と艦砲射撃にも耐えられるように、やたら頑丈に弾薬庫、援体壕と兵員居住施設などが造られたという話である。
それぞれ掩蔽庫の鉄扉は既になく、部屋のなかは昼でも真っ暗。懐中電灯が必須の暗さだ。子供が鬼ごっこするには「不適格!」隠れるのには、マジ怖すぎるから。この三連の掩蔽庫は、それぞれ内部が通路で繋がっていた。
しかし不思議なことに野ざらし物件に付き物のゲジゲジ虫もいないし、苔の類も付いていなかった。上から射し込む陽射しが、少しまぶしく感じる。これには幻惑されるね。
正面の階段を登り振り返ったところ。地階と地上からでは感じるイメージがまるで違う(そりゃ当たり前だけれど)目線が変わるだけで、かなり変な感じがするね。なんだろう?やはりここは邀撃陣地だったのかな、道を曲げてのトレンチ構造としたら。
(※邀撃陣地とは、敵を迎え撃つのに“地形効果の高い場所”に、要塞や塹壕線を張る防衛陣地のこと。日露戦争時の唄「橘中佐の唄」にも登場する。♪わが精鋭の三軍を“邀撃(ようげき)せん”と健気にも 思い定めて敵将が集めし兵は二十万~♪ロシア軍が二十万てか、凄っ?!)
さらに砲座跡を探ってみる
深山第一砲台は三ヶ所の砲座を、二つの煉瓦隧道(トンネル)で繋ぐ構造になっている。柵のある下に二連の弾薬庫があり、それぞれ階段で降りてゆくことが出来ます。
基本的には先程見た掩体壕と同じ構造になっていて、この写真の右側には二砲座跡がある。この設計は友ヶ島にある第二砲台と煉瓦構造もほぼ同じ、多分同時期に建設されたものと思えますね。年代は、どうだったろうか。
○深山第一砲台(海抜121m) 二十八サンチ榴弾砲×六門、明治三十年九月 成立
丸い形に落ち葉が積もっている。この場所に、二十八サンチ榴弾の砲塔があった。砲座間にある四角い窪みは、砲弾をリフトアップする穴。いまは埋められているみたい。
前方にはレンガ壁さらに盛上げた土手斜面が続き、砲座の高い遮蔽物になる。二つの砲座の真ん中に海方向への階段がひとつある。
砲座前の煉瓦壁面に直径20センチ位の謎の穴が開いている。まるで魚雷発射管みたいな感じに見えますね。
ワタシが「この穴はなんに使うと思う?」と大宮上等兵に聞いた。
すると「砲弾を撃った残り物を、ココから下に戻すのかなぁ?」というのだ。
「おぉ、薬莢を捨てる穴か!エコシステムやなぁ」なるほど、面白いね。そんな物戻されたら、弾薬庫ではいろいろ大変だろうなぁ。
「答えは、伝声管。ここから叫ぶと地下の弾薬庫に、声が聴こえるらしいよ」と耳を当ててみる。当たり前だが何も聴こえない…てか、逆に聴こえたら怖いわっ「揚弾!」と叫んでみるよ。
二つ目のトンネル抜け振り返った所、百数十年も雨風に耐え、トンネル隧道が綺麗な弧を描く。長い年月にびくともしない頑丈さ、この美しい造りにはホント驚きますね。
三つ目の砲座から階段を上がり、左翼側の観測所跡へ。この場所だけはかなり崩壊が進み、土砂が下の砲台跡に崩落していました。ココは残念ですね。
そして深山砲台展望所からの眺め
加太で「フォトジェニックな写真」そう“インスタ映え”を撮るなら、絶対この場所が推し!とにかく180度ワイドな空と海景色が「ドド~ン!」と拡がっています。
ぜひ写真に撮っておきたいスポットですね
海側へとむかえば、展望所がある。紀淡海峡に穏やかな海風が吹いていました。瀬戸を往く船舶と友ヶ島、淡路島、その奥に四国の山並みが霞んで見えますね。北方向には、大阪湾から六甲山がぼんやり霞んで見える。
空気が澄み渡る冬には、遠く神戸の市街地、明石海峡大橋まで観ることが出来ます。また春先には、海側のノリ面に可愛い水仙が咲くそうです。
そして夕刻には。震えて落ちるような太陽が、あたり一面を照らしながら変化して逝きます。以前のことですが、ホント感動した覚えがありましたね。
その時の様子が、過去ブログにありました。
しかし天候により、その表情が変わる(大気中の塵や水蒸気量など)ベストな季節、日時の予測は簡単ではないのです。
たぶん「晴天の無風」であれば、撮影には上々かと想われますが。夕陽写真、季節は春より秋が、夏はやはり晩夏の頃がイイ感じに夕焼けます。
荒天欠航や何かの事情で、友ヶ島へ渡れなかったのなら、ここ深山第一砲台展望所をオススメ。「もうひとつのラピュタ」この記事をご覧になったように、山側にある弾薬庫群も結構“ラピュタ感”はアリます。
どどど~ん!!
TO BE CONTINUED…Part3に続きます。
▽終曲/♬.*゚蘇州夜曲 Byアンサリー
さて次回予告⇒いよいよ大詰め「水雷隊基地の秘密」探検話が、始まります!
○深山砲台跡説明だけで12.000文字超えちゃった。
ドンならん※でなぁ~砲台跡だけに。
(※🐍足再び/大阪城天守閣入り口付近に青銅砲がある。元は大阪湾のお台場にあったものらしいが。徳川時代にはこの大砲で時を知らせていたと云う。正午には必ず「ドォ~ン!!」と大砲の空砲が放たれて、大阪の人々は昼前に「ドン鳴らん?」と呟いた、それが大阪弁の「ドンならんなぁ」の語源になったといいます)
資料参考/ 「写真にみるあのころの和歌山」和歌山市立博物館、アジア歴史資料センター、ウキペディア、ニュース和歌山
(12.000文字、thank you for reading.)