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紀州街道をゆく(1) 古寺巡礼 あじさい寺で有名「長慶寺」を往く【お墓まいり】

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生憎の雨模様が続くゴールデンウィーク

 

いまは四月の終わり、ワタシは曇り空を眺めながら考えていた。 

平成時代最後に、すべきこととは何か?!

「う~むゅ、そ~だっ!」ふと思い立った。そう、思いたったんだから仕方ない。このGWを利用して、菩提寺にでも息子を連れて行くか。まだ連れていったことがなかったからね。

我が家の菩提寺は、近年アジサイ寺とも呼ばれ多くのカメラマンで賑わうようになった、真言宗 泉涌寺派の「長慶寺」さん。

泉南市街を一望する丘の上、はるかに関空島や淡路島を眺める、良い場所にあります。

 

ではでは、南海電車に乗り、出発進行!

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ただいま電車で移動中

我々は南海樽井駅に降り立った。駅前からコミュニティバスがあるはずだが…運行表を見ると「はい~!?」

何てことでしょう、次のバスを“一時間半”も待たねばならない?!“ゲバゲバ90分!”←古い、昭和テレビ史を知らないと!

「えー冗談じゃないよ、待ってられませんよぉ」その距離にしてだいたい二キロ位かな。とりあえずてくてく、歩くことにした。

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途中にある「君ヶ池」で休憩

しかし、思った以上に遠かった…。坂道だった…。甘かった…。

 

紀州街道 信達の宿です

この紀州街道の信達の地は、ワタシが生まれ育った場所。なので懐かしい思い出が蘇る。実家があった場所(いまはもう家もなくなったが)で、写真を撮ってみる。子供の頃遊んだ地蔵堂と棗の木がある。その横には「泉南石綿の碑」がありました。

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泉南市 信達牧野

泉南地域は社会問題となった「アスベスト被害」がとても多かった地域。石綿紡織産業が盛んだったので、工場従事者やその家族にも石綿被害が及びました。この碑は、“国の責任を認める判決を勝ち取った証”として建立されたものです。

生まれ故郷というものは、なんだか感傷的になりますね。子供の頃、これは大きな道だと思っていたがいま見れば道幅、車がやっとすれ違える程度しかない。

そのぶん自分が大きくなったからかな。

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歴史街道としてイメージアップ

江戸時代には紀州藩の参勤交代が、ここ信達で宿泊しました。

旅程「和歌山城出発⇒山口⇒雄ノ山峠⇒山中⇒信達宿 到着」紀州徳川家は御三家で見栄張り殿様、その行列は四千人にもなり、この街道筋に延々と長蛇の列をつくった。

鞠と殿様『♪表の行列 なんじゃいな 紀州の殿様 お国入り 金紋先箱 供揃い 御駕籠のそばには 髭やっこ 毛槍をふりふり ヤッコラサの ヤッコラサ』しばし想像してみる。

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紀州街道に並んだ宿場町

夜間も街道をゆく旅人のために、明かりを灯したと伝わる石燈籠『常夜灯』がありました。この風合いがたまりません。時代が移り平成になっても灯り続けたといいます。

燈籠は「紀州街道」と「信長街道」が交差する辻に建っています。この信長街道※1は、織田信長が雑賀攻めのおりに整備されたものとか。

一説によれば、この時の織田軍団は総勢十万人※2。それがこの街道筋にわっと殺到したと云うのだから、もうこれでは住民はたまりませんね。

そしてここ信達の宿に、信長は本陣を定めた。この地で織田軍団をふた手に分け、紀州街道浜街道紀州目指し南下していった、そんな歴史があります。

(※1 泉南市の信達で紀州街道から分かれ下出、黒田、鳥取辺りで浜街道と合流する斜め道。天正五年、織田信長が軍用道路として整備したので、この名がついています)

(※2 浜手の将は、丹羽長秀滝川一益明智光秀・蜂谷頼隆・細川藤孝筒井順慶など、山手の将は、佐久間信盛羽柴秀吉堀秀政荒木村重・別所長治・別所重宗…まるで天正織田軍団、オールスターキャスト大集結の巻)

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いい感じにあった石灯籠

常夜灯、右側は『両皇大神宮』文政十三(1830年)三月吉日。真中『太神宮』は、寛政二(1790年)正月吉日。左側『両神宮』、文化十二(1815年)五月。と書かれています。どうやらそれぞれが、お伊勢講の旅の記念碑のようですね。

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すぐ横に説明看板がありました

「お~、そうだ。本陣さんに行ってみるか」

紀州徳川家の参勤交代時には、この角谷(つのや)家の本陣にて、殿様が一泊することが習わしとなっていて、ずいぶん由緒と歴史がある建物なのです。

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角谷家 本陣さん

が~ん、門は閉まっていました。一般公開はどうやら、昨日までだったようです。まぁ、仕方ないよね。「もっとよく調べろよっ!」てな話ですな、これは残念。

ちなみにいまも角谷さん御一家が、ここで暮らしています。なのであまりウロウロしているのも、よろしくありません。とっとと退散です。

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それじゃ、そろそろ長慶寺さんに行きますか

 

参道の石段を登ってゆくと山門がある

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長慶寺の百段続く参道

参道には百段の石段があります。これ「厄除けの石段」と伝えられ「女性は33段目、男性は42段目」で厄除けを念じれば、ずいぶんご利益があるらしいですよ。

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この時はツツジが咲いていました

また石段脇に、沢山植栽されたアジサイが近年とても有名となり、梅雨時期ともなると“紫陽花目当て”のカメラマンで賑わいます。

しかしいまはゴールデンウィークの最中、アジサイにはちょっと早過ぎますね。植栽には、美しくツツジが咲いていましたよ。あと、青紅葉が鮮やか。

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長慶寺 仁王門

侘びた仁王門あり。三間一戸、重層楼門、入母屋造、本瓦葺。扁額には「金泉山」とある。

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いい感じの山門ですね

それぞれ花頭格子窓が付いており、なかに金剛力士、「阿吽の像」が安置されています。素材は石ではなく、どうやら金属のようですね。

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「あ!」

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「ん!」

そこには草鞋の奉納がされていました。ワラジには何の意味があるのだろうか?山門をくぐれば三重塔がみえます。

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左手に見える三重塔

境内には、堂塔伽藍がひしめいています

階段を登りきり境内へ。まず、目を引くのが三つの塔。手前には「三重塔」ドーン。中程には「唐様裳階付三重塔」がドドーン。しかも、石灯篭が必要以上にデカい。

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唐様裳階付三重塔


これは薬師寺三重塔と同じ様式です。これは凄い、立派な塔ですよねえ。

そして奥に「多宝塔」「本堂」「香炉堂」「大師堂」と並び、とても広い作庭も設えてあります。さて本堂に、お参りしましょうか。

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長慶寺 本堂

本堂の内部は、何だかやたら暗くてよく判りません。
六十年に一回御開帳となる、秘仏如意輪観音」をはじめ、本堂内陣には「多聞天持国天愛染明王、福禄寿、不動明王弘法大師役行者」が祀られています。

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賓頭盧尊者

本堂の左脇には「びんずるさん」と呼ばれる像がありました。擦られまくって“ハゲちょろアタマ”になっているではないですか。

ん~、そうだ。びんずるさんといえば…東大寺大仏殿の右手に何と申しましょうか、ほとんどゾンビ化した枯れた像が有名ですね。

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頭ばっか擦られるということは…

<びんずるさん>

釈迦仏の弟子、十六羅漢の一人。神通力をもてあそんだとして釈尊に叱責され、涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生の救済にあたった。日本では金堂の前に像を置き、撫でると“除病の功徳”があるという信仰が広まりました。

駐車場へと降りてゆきますと…

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多宝塔と本堂が並ぶ

見慣れない謎の建物がありました。いったい何だろうか?

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駐車場で発見した謎の「鳳凰堂」

追記/この建物は「長慶寺会館」といって檀家のための葬儀会館なのでした。それで鳳凰が載ってるのか。

 

長慶寺の寺伝では、由緒はこう記されていた

 

神亀元年(724年)、聖武天皇勅願寺として行基※によって創建されました。そして永延二年(988年)には伽藍を焼失し、また長徳三年(997年)に、再興されました。

秀吉の根来攻めの際に、焼失した海会寺宮境内にて唯一焼け残った「観音堂」を、慶長年に豊臣秀頼の命により、この地に移築された。御本尊は“行基自作の秘仏”となる。

その当時の年号の「慶長」を逆にして「長慶寺」と名ずけたと、伝えられています。

(※河内国生まれ 天智七年(668年)~天平二十一年(749年)八十一歳没。朝廷からは、民衆を惑わす私度僧と度々弾圧や禁圧された。しかし民衆の圧倒的な支持を集め、その逆境を跳ね返した。そして大僧正<行基が日本で最初>として、東大寺大仏造立の責任者として招聘された)

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お寺にあった由緒書き、文字が…

 

海会宮寺跡の発掘調査では、また違った話がある

 

長慶寺は、ここより北の大苗代(おのしろ)にあった「古代寺院 海会宮寺」の一院として開創されたと云います。本当は「金泉山 慈昌院 海会宮寺」だそうです。

この海会宮寺の創建は聖武天皇の時代より前、七世紀後半と比定されているとか。そうすると、飛鳥時代にまで遡ることになり、とんでもなく古い寺院となりますね。

そして、あの「斑鳩法隆寺」と同じ伽藍様式であった、とのことなんです。もう、これには「ビックリ~!」です。そんなこと、今迄てんで知りませんでした。

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海会寺跡 周辺地図

そうそう、お墓参りもしっかり?致しました

墓地へは、必要以上にデカい立派な鐘つき堂の横から、降り口がありました。巨大な梵鐘、ガゴ~ン!と撞いてみたい(笑)のをこらえつつ通り過ぎる。

もっとも、本堂側からお墓に来たことがなかったので、しばらく道を探しましたが。

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必要以上にデカい鐘つき堂<笑

小さな子供の頃。

ばあちゃんに連れられて、何度もなんども来たお墓なのです。ただいま。

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お久しぶりで御座います一族の皆様
 
<長慶寺への交通 アクセス>

JR阪和線 和泉砂川駅 下車 徒歩約15分

JR阪和線 新家駅 下車<コミュニティバス> 市場青年会場前 徒歩10分

○お寺の東側に広大な駐車場(無料)があります

真言宗 泉涌寺派 金泉山 長慶寺』

○拝観料は無料、御朱印は三百円が相場

○住所/大阪府泉南市信達市場815

○電話/072-483-2692

f:id:minminzemi81:20190511174835j:plain信達の宿 見所案内

この地は古くには「呼唹郷、おうのさと」と呼ばれた。「この地は中世より賑わった熊野詣での宿駅として栄え、江戸時代には紀州徳川家の参勤交代の街道(紀州街道)となり本陣、旅籠などが設けられ、今日も往時の姿をしのばせる街道筋です」と、市の説明看板にあった。

 

泉南市の西部にある男神社(おのじんじゃ)の元宮は、日本神話の神武東征譚において、傷を負い亡くなった「五瀬命が雄叫び」をあげた場所とされる。その「雄の水門」の比定地のひとつと謂われる。

紀州街道が樫井川を渡る岸辺に「樫井の戦い」の古戦場跡がある。大坂夏の陣。豊臣軍の先鋒軍「塙団右衛門、岡部則綱」と、浅野軍の「亀田高綱、浅野知近、上田重安」が会敵し大混戦となったという。塙団右衛門と淡輪六郎兵衛の墓が遺る。

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樫井の古戦場 古地図(明治43年)

○江戸時代の牧野村、市場村は共に岸和田藩領であった。両村とも古来より熊野詣での熊野街道筋に並び「信達宿」とよばれ、街道沿いには熊野九十九王子社のひとつ「信達王子社」と「一之瀬王子社」があった。

○信達宿は江戸時代も宿駅として受け継がれ、市場村には「人馬継立所」があり信達宿の中心として「小川信左衛門家」のちに「角谷与右衛門家」に本陣が置かれた。紀州藩主も参勤交代でここに宿泊した。

○昭和時代中頃まで、随分と賑わった名勝地「砂川奇勝」が、JR和泉砂川駅の東側にドド~ンと拡がっていました。現在は宅地開発され既に往時の姿はなく、わずかながら「砂川公園」として残るだけです。

○梶本邸では四月下旬に「ふじ祭り」が催され、毎年多くの人で賑わっています。会場では垂れ下がる藤を見上げるだけでなく、二階から藤の花房を見渡すことが出来て、また一味違った「藤花見」が愉しめます。

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はんなんマップ

<泉南市 信達 略歴>

○明治二十二年 四月一日、町村制施行により「信達四ヶ村」が発足する。

○昭和三年 一月一日、北信達村が「信達村」に、改称する。

○昭和十六年 二月十一日、信達村と東信達村が合併して「泉南郡 信達町」となる。

○昭和四十五年 七月一日、泉南町から市制化し「泉南市 信達」となり、現在に至る。

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信達の宿周辺 古地図(明治43年)

○おまけ/「泉南熊寺郎」泉南ゆるキャラ「せんくま」は金の熊で、江戸時代からタイムスリップしたらしい。

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泉南 熊寺郎 見参!

○「せんくま」の特長は「金熊寺の梅の花模様」と背中には「海に沈みゆく美しい夕陽」が描かれた着物を着ている。あてもなく散歩していたときに見つけた「藤の花」が大のお気に入り。相棒の刀「穴子丸」とともに“正義の為に活動する”ことを誓っており、無口だが実際は熱いハートを持つ心優しい侍なんだとか。

しかし、てんでゆるく無いし、このキャラだては何だかイタいねぇ<笑

 

参考/恋する泉南泉南市HP、ウキペディア (5200文字、Thank you for coming.)