雨模様が続くゴールデンウィーク
いまは四月の終わりです。ワタシは曇り空を眺めながら考えていた。
平成時代最後にすべきこと?!
しかし、あいにくの雨模様です。生憎かぁ…あいにくな…逢いにいく、ポン!「う~むゅそうだっ!」ふと思い立った。そう思いたったんだから仕方ない。このGWを利用して我が家の菩提寺にでも息子を連れて行くか。まだ連れていったことがなかったからね。近年アジサイ寺とも呼ばれ多くのカメラマンで賑わうようになった、真言宗泉涌寺派長慶寺さん。泉南市街を一望する丘の上、はるかに関空島や淡路島を眺めるとても良い場所にあります!
南海電車に乗りガタンゴトン
我々は南海樽井駅に降り立った。早い。駅前からコミュニティバスがあるはずだが…その運行表を見ると「はいぃ~?」何てことでしょう「次のバスを一時間半」も待たねばならないですと…「ゲバゲバ90分!」←古いっ、昭和テレビ史を知らないとな!「冗談じゃないよ、待ってられませんよぉ~」その距離にしてだいたい二キロ位だろ。こんニャのとりあえず、サクサク歩くことにしましたっ!
しか~し、思った以上に遠かったぁ・・
ずっと坂道だった野田、ヨミ甘かった・・
到着です。紀州街道 信達の宿
この紀州街道沿い、信達(しんだち)の地はワタシが生まれ育った場所。なので懐かしい思い出が蘇ります。十月ともなれば、この道を地車(だんじり)が曳行されるのだ。実家があった場所(いまはもう建屋もなくなった)で、写真を撮ってみようか。子供の頃遊んだ地蔵堂と棗の木が、まだありました。そして、その奥には「泉南石綿の碑」がありました。
泉南地域は、社会問題となった「アスベスト被害」が、とても多かった地域。石綿紡織産業が盛んだったので、工場従事者やその家族にも、石綿被害が及びました。この碑は「国の責任を認める判決を勝ち取った証」として建立されたものです。
勝利の記念石碑か、哀し。
やはり生まれ故郷というものは、なんだか感傷的になりますね。子供の頃この通りは、かなり大きな道と思って観ていたが。いま見れば道幅、車がようやっとすれ違える程度でしかない。そのぶん自分が大きくなったからか。なんだかなぁ・・
少しだけ『信達宿』の歴史をかたります。昔むかしの江戸時代。紀州藩の参勤交代がここ信達で、宿泊したそうなんです。あの有名な「暴れん坊将軍 吉宗」も紀州公時代には、この宿場に泊まったと伝えられていますよ。
<参勤交代 旅程>
払暁出発「和歌山城⇒山口⇒雄ノ山峠⇒山中宿⇒信達宿 到着」紀州徳川家は、御三家の見栄張り殿様だった。行列は四千人程にもなり、この街道筋に延々と長蛇の列をつくりました。
「したにぃ~したにぃ~」
おなじみの曲、鞠と殿様『♪表の行列 なんじゃいな 紀州の殿様 お国入り 金紋先箱 供揃い 御駕籠のそばには 髭やっこ 毛槍をふりふり ヤッコラサの ヤッコラサ♪』しばし、参勤交代の姿を想像してみる。
夜間も街道をゆく旅人のために、明かりを灯したと伝わる石燈籠『常夜灯』がありました。この風合いがたまりません。時代が移り平成になっても灯り続けたらしいです。そしてこの燈籠は「紀州街道」と「信長街道」が交差する辻角に建っています。この信長街道※1は、織田信長が「紀州雑賀攻めの時に、整備した」ものとか。一説によれば、この時の織田軍団は、総勢十万人※2だった。それがこの街道筋にワッ~と殺到したというのだから、これはもう住民はたまりませんね。そしてここ信達の宿に、信長は本陣を定める。この地では、集結した織田軍団をふた手に分け「紀州街道」と海側「浜街道」を雑賀の地目指して南下していった・・そんな歴史があります。
織田勢が総掛かりでないと倒せない「雑賀衆こそ、凄いぃ!!」と言うべきでしょうか?!戦の結果は、変な痛み分けに終わったのだから。
(※1 泉南市の信達で紀州街道から分かれて、下出、黒田、鳥取辺りで浜街道と合流する斜め道。天正五年、織田信長が「軍用道路として整備した」のでこの名がついています)
(※2 浜手の将は、丹羽長秀・滝川一益・明智光秀・蜂谷頼隆・細川藤孝・筒井順慶など、山手の将は、佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治・別所重宗とか…まるで天正織田軍団、オールスターキャスト大集結の巻)
常夜灯、右側は『両皇大神宮』文政十三(1830年)三月吉日。真中『太神宮』は、寛政二(1790年)正月吉日。左側『両神宮』、文化十二(1815年)五月と書かれています。どうやらそれぞれが「お伊勢講旅の記念碑」ですね。
「おぉ、そうや!本陣さんに行ってみっか?」紀州徳川家の参勤交代時。この角谷(つのや)家の本陣にて、殿様が一泊することが習わしとなっていて、そういった由緒と歴史がある建物なのです。この写真の長屋門は普段使いの入口で、これとは別に四脚門の「御成門」があったそうです。残念ながらいまはその姿喪われてしまった。
ガガ~ン!門が閉まっていました。一般公開日はどうやら昨日までだったようです。まぁ、そりゃ仕方ないよね。「もっとよく調べろよっ!」てな話ですな、これはホント残念だったな。ちなみにいまも角谷さん御一家がここで暮らしています。なのであまり門前をウロウロしているのもよろしくありません。写真だけコソッと撮って、とっとと退散します。
そろそろ長慶寺さん行きますかね
参道の石段を登ると古い山門がある
参道には百段の石段があります。これ「厄除けの石段」と伝えられ「女性は33段目、男性は42段目」で厄除けを念じれば、ずいぶんご利益があるらしいですよ。「厄災退散退散…あれっ、いま何段だっけ?」
また石段脇に沢山植栽された、アジサイがとても有名となり、梅雨時期ともなると「紫陽花目当てのカメラマン」で賑わいますよ。しかしいまはゴールデンウィークの最中、アジサイにはちょっと早過ぎました。植栽には、美しくツツジが咲いている。そして、青紅葉がとても鮮やかです。
侘びた仁王門あり。三間一戸、重層楼門、入母屋造、本瓦葺。山門の扁額には「金泉山」とある。金の泉とは、何かたまらんなぁ~。
それぞれ花頭格子窓が付いており、なかに金剛力士「阿吽の像」が安置されています。素材は石ではなく、どうやら金属のようですね。つおそうだ!
そこには大草鞋の奉納がされていました。このワラジには、何の意味があるのだろうか。足が達者にと?山門をくぐればすぐに、三重塔がみえます。益々空が暗いなぁ…
境内には堂塔伽藍がひしめいてます
階段を登りきり境内へ。まず、目を引くのが三つの塔。手前には「三重塔」ドーン。中程には「唐様裳階付三重塔」がドド~ン。しかも、石灯篭が必要以上にデカいよね。これは錯視効果を狙ったのかな?
これは奈良の薬師寺三重塔と同じ様式です。いやこれは凄い、立派な塔ですよねぇ。そして奥に「多宝塔」「本堂」「香炉堂」「大師堂」と並び、とても広い作庭も設えてあります。さて、本堂にお参りしましょうか。
本堂の内部は、何だかやたら暗くてよく判りませ~ん。六十年に一回御開帳となる、秘仏「如意輪観音」をはじめ、本堂内陣には「多聞天、持国天、愛染明王、福禄寿、不動明王、弘法大師、役行者」オールスターキャストが祀られています。
本堂の左脇には「びんずるさん」と呼ばれる像がありました。擦られまくって「ずるむけアタマ」になっているではないですかぁ。ん~、そうだ。びんずるさんといえば…東大寺大仏殿の右手に何と申しましょうか、ほとんどゾンビ化枯れた仏像が有名ですよね。ガイコツみたいなヤツが。
<びんずるさんプロフィール>
釈迦仏の弟子、十六羅漢の一人。神通力をもてあそんだとして釈尊に叱責され涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生の救済にあたった。日本では金堂の前に像を置き、自分の悪い所を撫でると、除病の功徳があるという信仰が広まりました。
さらにお寺の裏側、駐車場へと降りてゆきますと…
見慣れない謎の建物がありました。コレいったい何だろうか?知らないな。
追記/この建物は「長慶寺会館」といって、檀家のための葬儀会館なのでした。それで鳳凰が載ってるのか。
長慶寺由緒はこう記されていた
神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願寺として行基※によって創建されました。そして永延二年(988年)には伽藍を焼失し、また長徳三年(997年)に、再興されました。秀吉の根来攻めの際に、焼失した海会寺宮境内にて唯一焼け残った「観音堂」を、慶長年に豊臣秀頼の命によりこの地に移築された。御本尊は「行基自作の秘仏」となる。その当時の年号の「慶長」を逆さにして「長慶寺」と名ずけたと、伝えられています。
(※河内国生まれ 天智七年(668年)~天平二十一年(749年)八十一歳没。朝廷からは、民衆を惑わす私度僧と度々弾圧や禁圧された。しかし民衆の圧倒的な支持を集め、その逆境を跳ね返した。そして大僧正<行基が日本で最初>として、東大寺大仏造立の責任者として招聘された)
海会宮寺跡発掘調査では違った話も
長慶寺は、ここより北の大苗代(おのしろ)にあった「古代寺院 海会宮寺」の一院として開創されたと云います。本当は「金泉山 慈昌院 海会宮寺」だそうですが。この海会宮寺の創建は聖武天皇の時代よりも前、七世紀後半頃と比定されているとか。そうすると飛鳥時代にまで遡ることになり、とんでもなく古い寺院となりますね。そして、あの「斑鳩法隆寺」と同じ伽藍様式であったとのことなんです。もう、これには「ビッくらポン!」そんなこといま迄、てんで知りませんでしたからね。そうなのかぁ、そうだったのか…๑
お墓参りもしっかり?致しました
墓地へは、必要以上にデカい立派な鐘つき堂の横から、降り口がありました。巨大な梵鐘、ガゴ~ン!と撞いてみた~い(笑)のをこらえつつ、通り過ぎる。もっとも、本堂側からお墓に来たことがなかったので、しばらくウロウロと道を探しましたが。何だか怪しい二人組凸!笑
そう、想い出した…小さな子供の頃。ばあちゃんに連れられて、何度もなんども来たお墓なのです。
ただいまぁ~
▷いまの気分は、そう、この曲だな。くるりの『REMEMBER ME』🎶
<長慶寺への交通 アクセス>
○JR阪和線 和泉砂川駅下車 徒歩約15分○JR阪和線 新家駅下車、コミュニティバス市場青年会場前、徒歩10分○お寺東側にめっちゃ広大な駐車場(無料)もあります。
○拝観料は無料、御朱印は三百円が相場○住所/大阪府泉南市信達市場815○電話/072-483-2692
信達の宿 見所案内
この地は古くには「呼唹郷、おうのさと」と呼ばれた。「この地は中世より賑わった熊野詣での宿駅として栄え、江戸時代には紀州徳川家の参勤交代の街道(紀州街道)となり本陣、旅籠などが設けられ、今日も往時の姿をしのばせる街道筋です」と、市の説明看板にあった。
▷泉南市の西部にある男神社(おのじんじゃ)の元宮は、日本神話の神武東征譚において、傷を負い亡くなった「五瀬命が雄叫び」をあげた場所とされる。その「雄の水門」の比定地のひとつと謂われます。
▷紀州街道が樫井川を渡る岸辺に「樫井の戦い古戦場跡」がある。大坂夏の陣。豊臣軍の先鋒軍「塙団右衛門、岡部則綱」と、徳川方の浅野軍「亀田高綱、浅野知近、上田重安」が会敵し大混戦となった。この地に、塙団右衛門と淡輪六郎兵衛の墓を遺します。
▷江戸時代の牧野村、市場村は共に岸和田藩領であった。両村とも古来より熊野詣での熊野街道筋に並び「信達宿」とよばれ、街道沿いには熊野九十九王子社のひとつ「信達王子社」と「一之瀬王子社」があった。
▷信達宿は江戸時代も宿駅として受け継がれ、市場村には「人馬継立所」があり信達宿の中心として「小川信左衛門家」のちに「角谷与右衛門家」に本陣が置かれた。紀州藩主も参勤交代でここに宿泊した。
▷昭和時代中頃まで、随分と賑わった名勝地「砂川奇勝」が、JR和泉砂川駅の東側にドド~ンと拡がっていました。現在は宅地開発され既に往時の姿はなく、わずかながら「砂川公園」として残るだけです。
▷梶本邸では四月下旬に「ふじ祭り」が催され、毎年多くの人で賑わっています。会場では垂れ下がる藤を見上げるだけでなく、二階から藤の花房を見渡すことが出来て、また一味違った「藤花見」が愉しめます。
▷祭囃子が聞こえる/信達牧野だんじり祭り
囃子唄「♪石山の秋の月 牡丹に唐獅子竹に虎 虎追うて走るはまとうない まとないお方に知恵かそか 知恵の中山千願寺 千願寺のおっさん坊さんでべーら べーら べらしゅしゅしゅぅ」謎の呪文ですょ、これもとても懐かしいね!https://youtu.be/78KdyrKTiV4?si=K8q2GnqXrURRKynw
▷おまけ/「泉南熊寺郎」泉南ゆるキャラ「せんくま」金の熊で江戸時代からタイムスリップした。
せんくまの特長は「金熊寺の梅の花模様」と背中には「海に沈みゆく美しい夕陽」。あてもなく散歩していたときに見つけた「藤の花」が大のお気に入りとか。
相棒の刀「穴子丸」とともに“正義の為に活動する”ことを誓っており、無口だが実際は熱いハートを持つ心優しい侍なんだとか。このキャラだては盛り過ぎでイタいぞ。
~泉南市 信達の略歴~
明治二十二年四月一日、町村制施行により「信達四ヶ村」が発足する。昭和三年一月一日、北信達村が「信達村」に、改称する。昭和十六年二月十一日、信達村と東信達村が合併して「泉南郡 信達町」となる。昭和四十五年七月一日、泉南町から市制化し「泉南市 信達」となり現在に至る。