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「鬼」は本当に悪者だったのか?征夷大将軍「坂上田村麻呂」 鬼ヶ城 奇譚【歴史伝承】

征夷大将軍として活躍した「坂上田村麻呂蝦夷の反乱、あるいは各地方の海賊や鬼討伐に活躍する“軍事的英雄”として、日本史にしばしば登場します。

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坂上田村麻呂

征夷大将軍 坂上 田村麻呂。

天平宝字二年758年生まれ。父は坂上 苅田麻呂、母はまったく不明。坂上氏は、渡来系の軍事氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)の流れ。武術をもって朝廷に仕えた。798年、京都東山の清水寺を建立する。802年。東北に胆沢城、続いて志波城を築き、蝦夷の族長 阿弖利為(アテルイ)、母礼(モレ)など500人余りを降伏させた。田村麻呂は強く反対したが大和朝廷は彼等をひどく恐れ、河内国杜山で打ち首にしてしまう。大阪枚方市宇山の公園内には、二人の供養塚が遺っています。

 

昔話にも、たびたび登場する「鬼」の正体とは?

 

鬼といえば…子供の頃、誰もが体験した「鬼ごっこ※1」を思い出すでしょう。近所の子供達が集まれば、すぐ始まった。決まって鬼は一人で、その他はわ〜わ〜逃げ回る役だった。世代を超えて、子供にこれ程親しまれた遊びも珍しいのでは?

さて、奇譚話に登場する鬼や賊の名前は、地域や伝承によって変わります。岩手県では「悪路王」や「赤頭」福島県では「大高丸」や「大多鬼根」といった奇妙な悪名をつけられています。また秋田県には有名な「なまはげ※2」伝説もあり、まるで「東北地方が鬼の本場」の感じがします。

近畿地方にもいくつかそんな伝承話が残されていて、天皇の命を受けた坂上田村麻呂が、紀伊半島一帯を荒らし廻っていた「鬼ヶ城の海賊」を退治した話が、いまに伝わっています。

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鬼ヶ城三重県 熊野市

(※1 一説に鬼ごっこの起源は奈良平安時代、年末宮中行事の「追儺(ついな)祓い」からという。人々に害をなす邪鬼、疫病退散を祈念する呪術だった)

(※2 ナマハゲは、鬼の外形的なモチーフとなっているが、ほんとうは子供を護る神様らしい。秋田の地元では、鬼子母神的なイメージとのことです)

 

坂上田村麻呂鬼ヶ城」の鬼退治伝説 

 

平城天皇※1の頃。「鬼ヶ城」に鬼神が住みつき、村人をたいそう悩ませたそうな。その話を聴いた坂上田村麻呂将軍が「大君の神の国で暴れるとはけしからん!」と、二木島※2を経由して軍船で鬼の岩屋へと近付いていった。一方、その動きを知った鬼の大将「金平鹿」二つ名を「多娥丸」は、手下の鬼達八百匹を集めて知恵を絞った。そしてようよう話が決まった。

金平鹿「田村丸にはどうやら観音の加護があり、我々の神通力が効かないかもしれない」と食料を運び込み磐屋に閉じこもって、窟の戸をピッタリと閉めた。鬼たちは不要な戦闘を避けて、籠城策を選択したのだった。さすがの田村麻呂将軍も、これには攻めあぐんでしまった。

するとその時、沖合にある「魔見ヶ島」の空に、菩薩のような光る童子が現れた。そして弓矢を携えて将軍を手招きしているのが見えたのです。

その童子がいう「私が舞うから軍勢の皆も一緒に舞おう」と誘う。しばし船上を舞台に舞い遊んだ。その妙なる調べに鬼の金平鹿は、何事かとソワソワと気になり窟の戸を少し開け顔を出してしまう。

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鬼ヶ城三重県 熊野市

そこをすかさず田村麻呂将軍は、童子から授かった金弓矢で金平鹿の左眼を撃ちぬいた。続いて磐屋から八百もの手下の鬼達が飛び出したが、田村軍の千の弓矢にことごとく倒れてしもうた。

そうしたら千手観音の化身である童子は、たちまち光を放っていずこかへ飛び去ったという話じゃ。

(※1 第五十一代、平城天皇 桓武天皇の第一皇子。上皇となり政令を乱発するが、薬子の変により失脚した。在位期間 延暦二十五年より大同四年まで)

(※2 二木島は、三重県熊野市にある。過去には「二鬼島」と表記されたこともある。中上健次原作、映画「火まつり」の舞台にもなった)

 

坂上田村麻呂の「尾呂志」の鬼退治

 

さらに話は続く。また「四鬼の窟」に住む鬼が村の子供をさらっていくので、人々は不安であったそうな。

田村麻呂将軍は「鬼ヶ城」で鬼の首魁や手下を滅ぼしてから「尾呂志」の鬼たちも退治しようと、意気盛ん。再び甲冑に身を固めた。

そして通りかかった村人に鬼の住む窟と、四頭の鬼が住むことを聞き出した。田村麻呂側は弓に弦を張り、矢尻と刀を研ぎ戦の用意を整えなおします。

田村麻呂の軍勢が金掘の南の谷あいを辿ってゆくと、鬼どもは大きな磐の上であぐらをかいて、こちらを睨みつけ「俺達を退治しようとは片腹痛いわぁ!射れるものなら射てみよっ!」と大音声を張り上げた。

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鬼ヶ城三重県 熊野市

田村麻呂将軍の号令で一大合戦が始まった。やがて鬼どもはしだいに弱りはじめた。これはかなわないと棍棒を引きずり、ほとほと逃げはじめた。

そこを田村麻呂将軍にスパッと切られた鬼の大将の首は宙高く飛びあがり、将軍めがけて噛みつこうとした。間髪身をかわされ、そばの木の根へと噛みついた。ほかの三鬼も、皆みな殺されていった。

そして鬼を退治した将軍が彼らのこもっていた窟に行くと、奥の暗いところで「しくしく泣く声」がする。

そこには藤蔓で縛られた子供がおり「それは一昨日さらわれた、娘の松でございます」と村人達の中より男が進み出た。このように田村麻呂将軍は各地で鬼を退治したので、村人たちは大層喜んだということじゃ。

 

これにて…めでたし…めでたし…か?

 

この鬼の正体とは、いったい何だったのか?

 

しかし何故、鬼は一方的に虐殺されねばならなかったのか?「鬼なんだからあたり前」と思ってはいけない。この伝説は、本当のことを何も語らない。

鬼は「牛と虎」牛の角をはやして、トラのパンツ穿いてるウシトラ。鬼は丑寅の方角からやってくる。鬼門とは東北東「蝦夷が住むところ」である。

 

奈良県 大峰山には有名な「前鬼、後鬼」がいた!

 

話はかわって。修験道の開祖 役小角に従っていたとされる鬼は、もともと生駒山暗峠で人の子をさらって食べる悪鬼。役行者がこの夫婦の子供を隠して、二人をおびき出し「悔い改めるならば人間にしてやる」といわれ、役行者の従者となりました。

前鬼は「赤鬼(奈良県吉野郡 下北山村出身)」鉄斧を手に、笈を背負っている。その妻の後鬼は「青鬼(奈良県吉野郡 天川村出身)」水瓶を手に、種子を入れた笈を背負っていた。そして、二人の鬼には五人の子供がいました。その名を「五鬼継、五鬼熊、五鬼上、五鬼助、五鬼童」という。

この五鬼家それぞれが、その後も修験者のための宿坊を営んだ。ところが明治時代初めの修験道禁止令により、これらの行者宿が大打撃をうけ衰退する。

いまは、六十一代目 五鬼助義之氏(小仲坊 五鬼助家)が宿坊を受け継ぎ、大峯山中で営業されています。

▽小仲坊は、大峯山釈迦ヶ岳の東面、山の中腹にある。

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○住所 奈良県吉野郡 下北山村前鬼三十

○連絡先/07468-5‐2210

○一泊二食付8 ,000円、素泊まり4,000円

  

世界遺産登録「鬼ケ城」あんない

 

○訪れる価値アリの場所です!R311号、25kmほど続く七里御浜沿いの道。その海岸線の終わりあたりにポンと突き出た岬に「鬼ケ城」があります。人々を圧倒してくる迫力ある海岸に、自然奇勝が続きます。

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○住所 三重県熊野市木本町1835

○リンク/世界遺産 鬼ケ城(おにがじょう・三重県熊野市)

 

出典参考/三重県観光連盟、ウキペディア

(2800文字、Thank you for reading.bon voyage.)