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あがら おもしゃいやしてぇ~ よう~ ゆわよ ノシ

乾坤一擲 大坂夏の陣!史跡「茶臼山公園本陣跡」にて「大坂夏の陣 家康死亡説」を知る。大阪 天王寺【歴史案件】

 
大河ドラマ真田丸」で一躍有名になった、大阪 阿倍野にある茶臼山(ちゃうすやま)古戦場です。この茶臼山公園には何と「山頂標柱」があり、一応は山なのですが。しかし、以前から「茶臼山古墳」と呼ばれていたのではなかったかな?

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茶臼山本陣跡 石碑
また、取り囲む池には“和気清麻呂”に因んだ「わけばし」と云う、何だか訳アリみたいな赤い橋も掛かっている。いまは「都会の中のオアシス」といったところですかね。のんびり散歩する人々。

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池には噴水があり通天閣も見えます

 

家康は「大坂夏の陣」で、すでに亡きものに?!

 

コアな歴史ファンなら、ご存知かも知れませんね。大坂夏の陣にて、徳川家康が戦死したという「衝撃的な事件※」を・・ドドーン!!

(※コレは若干“怪情報気味”ではありますがそれはソレ。怪情報のウラをとるとは、かなりクレイジーな試みなのです!“金瓢箪から駒”が出るやもしれませぬ、豊臣家だけにィ)

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公園には真田信繁の活躍を伝える看板があった

 

よく聴く「家康影武者説」は、正しいか精査しませう

 

ハイ。歴史では“狸おやぢ”こと家康さんは、元和二年四月十七日に御歳七十五にて「駿府城で亡くなった」これは史実ですね。

アウトドア活動中に「鯛の天ぷらの食い過ぎ」で、そのあまりの旨さに昇天してしまったのです!これが流布された俗説となります。

実はですね、この時に死んだのは「影武者の方」で、モノホン家康はその一年ほど前おきた「大坂夏の陣」にて、亡きものになっていたというのですよ。

それ、マジですかぁ・・なんか“怪すい香り”がプンプンしますよぉ?!

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此度の戦は三日の腰兵糧じゃ

この影武者に符合する人物は「小笠原秀政が家康の身代わり」になったという話がある。家康は戦場で度々“影武者を使った”らしいのです。もう家康は爺ィ(七十四歳)だから、戦場はとてもツラいよね。

この小笠原秀政は「大坂夏の陣」にも参陣し、榊原康勝※1に従って「本多忠朝※2を救援」する。しかし茶臼山の攻防で、豊臣方 毛利勝永隊のオラオラ反撃を受けて、忠朝は早くも戦死をとげる。浅野長重隊も敗走、徳川先鋒はすぐ潰えた・・めっさ弱。

また秀政もこの時“瀕死の重傷”にて戦場を離脱したが、こちらも間もなく「戦傷により死去した」と歴史は伝えています。この時、最前線にいた小笠原秀政がスリっと家康と入れ替わっていたとは、やはり考えずらい。

(※1 四天王 榊原康政の三男、榊原家二代当主。大坂冬の陣では“痔が破け大量出血”した。さらに大坂夏の陣ではさらに病状が悪化した。何と鞍壷に血が溜っても戦い続けたとか…そののち、五月二十七日に京都にて病没したと云う)

(※2 四天王 本多忠勝の次男。大坂冬の陣にて“酒のために不覚”をとり敗退した。それを家康に誹られた忠朝は、続く大坂夏の陣で汚名返上とばかり先鋒務め呆気なく戦死。墓は「一心寺」境内にあり「酒封じの神」に祀られている)

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徳川方は大坂城を南から攻めた(出典 ウキペディア)

あらまし/徳川方は大阪城南方に集結し、その兵力約十三万。大坂城南、街道筋よりゴリゴリの力攻めの布陣をひいた。

対して豊臣方の兵力は総兵力四万強。前軍として茶臼山真田信繁が、四天王寺門前に毛利勝永が陣取る。岡山口には大野治房、全軍の後詰に大野治長紀州街道、三ッ寺に別働隊の明石全登が伏兵しました。

豊臣方の主な作戦は、徳川主力を四天王寺の死地(丘陵帯)に誘い込み分断混乱させ、布陣が南北に伸びきって家康本陣が手薄になったところを、明石全登の別働隊が海側から迂回急襲する。

なお全軍総攻撃は、総大将の豊臣秀頼が金の千成瓢箪押立て、出陣する手筈になっていました。乾坤一擲の大戦!陣太鼓が鳴る、デデンデン、デデン♪

 

次に真田信繁(幸村)さんの闘いぶりを検証します

 

家康といえば、大坂夏の陣のおり「真田信繁に大きく本陣を崩され、もはやこれ迄と死を覚悟した逸話」は、誰もが良く知るハナシです。

それでは真田信繁に首をとられていた可能性があったのかぁー??

慶長二十年五月七日正午頃。大坂方の敗北は濃厚となり、茶臼山本陣にあった信繁が叫ぶ「狙うは家康が首、唯ひと~つ!!」いよいよ、乾坤一擲の大勝負が始まる!

パパン、パン! (ハリセン叩く音)

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「関東勢百万も候へ、漢はひとりもいなく候」

おりから家康本陣は、平野から住吉街道の北を通過し、越前兵の後詰へと陣を押し上げていた矢先。総大将の家康は「籠に乗りまったり移動」をしていました。これぞ好機!

すわその時。目前の越前兵をドーンと切り崩し、突き進む赤備えの一隊があった!そして徳川旗本が守る家康隊の横腹に、ドォドドッ~と雪崩込んだぁぁ~!

パンパン!馬廻が叫んだ「あなや、何奴!」

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三角点(26M)標柱がある

△慶長十九年「大坂冬の陣」で徳川家康が、本陣を構えた場所なのです。藍色の三つ葉葵の紋入り!ここが標高26メートルの山頂です。

 

三河物語によれば、家康本陣は大崩れにくずれ去ったという

 

大久保彦左衛門忠教が『三河物語』に、家康本陣の崩れる様をこう記している『ついに「厭離穢土 欣求浄土」の宝幢の旗幟も崩れ、後方に退く家康を旗奉行が見失った。御陣衆のなかには、三里(12キロ)も逃げた者もいたそうである。そして家康は小栗正忠とたった二人で、本陣に取り残されていた。三方ヶ原以来の大崩れ、まる裸同然となった本陣周り。真田信繁は家康を執拗に狙い三度も攻めかかったが、前日からの連戦で疲労激しく、ついに信繁は馬を返し立ち去った』

ええっ、なんでぇ?そんなバナナ🍌

「Sanada Come back !!」

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お好きな方が選べるリバーシブル対応

△慶長二十年「大坂夏の陣」では、この遺構を逆に利用して眞田信繁が本陣を構えました。真田の六紋銭ですね、メラメラ萌える!

 

家康は大坂夏の陣で斃れ、堺市「南宗寺」に葬られた

 

しかし、民間伝承では全く“違う事”を伝えている。大阪堺南旅籠町にある「南宗寺」。お寺の瓦には何故か「三葉葵の御紋」が付いており、徳川家と深い関係ある古刹であったらしい。

現在、遺る墓石の銘は「東照宮 徳川家康 墓」とあり、開山堂の扁額には「元和九年七月十日 徳川秀忠が、また八月十五日には家光が寺を訪れた」と記載されています。

家康の墓とするものは「南宗寺」に確かにいまも存在しています。また墓標横には幕臣 山岡鉄舟筆による「この無名塔を家康の墓と認る」の碑文もある。さらに、かつてここには『東照宮』があったらしい・・オヨヨ!

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東照宮は日光だけではなかった?!

そのあたり気になったので「日光東照宮」をサクッと調べてみました。

<東照宮HPより引く>

『…家康公は元和二年四月十七日、駿府城(静岡県静岡市)で七十五歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言により一年後の元和三年四月十五日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は同年四月十七日、二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに「東照社」として鎮座しました。その後正保(しょうほ)二年、宮号を賜り「東照宮」と呼ばれるようになりました。尚、現在のおもな社殿群は三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)十三年に造替されたものです』なんて書いてありました。

ふうむ、当初は「日光東照社」だったのだ。のち三十年も経ってから、神格アップグレードして「東照宮」となった。コレは何だか意外だった。

この後に日本各地に東照宮が雨後の筍のようにポコポコ出来あがっていったという。ちなみに「紀州東照宮」は、和歌山市の雑賀山(元は雑賀一党の本拠地)にある。元和五年に紀州初代藩主としてお国入した徳川頼宣により、東照大権現を祀る“東照社”として建立された。頼宣の紀州入国時にすでに計画されており、元和五年に起工、元和六年に遷宮式が行われたそうです。

(※元和九年の夏、将軍がこの妙な場所を訪れねばならなかった理由とは?実は二代秀忠から三代家光への代替りの年だった。そのことへの「報告と祈願」と思われます。しかし、なぜ堺に?)

 

遺され文献に一連の伝説経緯が書かれていた?!

 

寺伝「南宗寺史」には『本堂と庫裡の間に東照宮の廟あり。その傍らにあるは照堂にして、すなわち開山堂なり。堂の床下に無銘の塔あり。安国院無銘塔という。これなん疑問の塔なり』とある。

さらには『元和元年大坂の役に、徳川家康は摂津・河内両国の境なる平野に陣せしが、敵雷火を放ちてこれを襲う。いわゆる「平野の焼打ち」これなり。家康僅かに免れて葬輿に乗じ遁れて、和泉の半田寺山に至る。後藤又兵衛基次の紀州より帰り来たれるに会す。基次これを認め怪みて、その輿を刺す。彦左衛門驚きてその槍を斫(はつ)る。基次顧みずして去る。而(しか)してこれがために、家康は戧を負いて終に起たず』と書いてあります。漢、又兵衛やったゼ✌️

(「大阪府 全志」巻之五、大正十一年刊行)

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後藤又兵衛 見参いたす!

この話をつなげると、平野郷あたり(下図)で「地雷攻撃」を喰らった家康はんは、あわててカゴに乗りスタコラサッサと逃げだしました。すると後藤又兵衛が南より颯爽と現れ、カゴを豪快に槍でひと突き!「ドバッ💥」この難を逃れて堺方面へ落ちのびてゆく家康一行。やがてカゴを開けてみると、家康はすでに息絶えていた。「う~わっ!えらいこっちゃ、どないしまんねんなぁ、こりゃかなんなぁ・・」なぜ大阪弁

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爆発のあった樋尻口地蔵

それで、ひとまず亡骸を「南宗寺の開山堂」の下に隠した。ちゅー話なのです。そぇどやさ、あっさり家康ポテ珍しとるやんかいさ、コレな!

▽赤ピン、南宗寺/なんしゅうじ 臨済宗大徳寺派で三好氏の菩提寺大坂夏の陣では、堺の町と共に焼失した。元和五年、当時の住職 沢庵宗彭(たくあん漬けで有名)により現在地に移転、再興されました。お寺は、大仙(仁徳)古墳の近くにあります。阪堺電車 御陵前駅下車すぐ。

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南宗寺 周辺地図

 

何ですと!襲撃を裏付ける“物的証拠”が揃っているですと?

 

そしてこの話を“裏ずける遺物”が何と「日光東照宮」に保存されています。家康が「大坂夏の陣」で使ったと伝わる「網代駕篭(日光東照宮宝物館収蔵)」なのです。

三つ葉葵紋をあしらった駕篭には、何と「屋根に槍が貫通した穴」がきれいに残っている。これが後藤又兵衛の槍が突き刺した跡だったか?!

江戸時代を通じてこの駕籠を観ることを許されたのは、徳川宗家、御三家、御三卿だけだったらしい。う~むゅ、とても「意味深話」ですね・・

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あべのハルカスと赤い和気橋

すか~し!この説話には、ある“致命的欠陥”がある。そうです、そ~なんです。聡明な皆さんは、もうお気づきですね。何かが、おかしいのです。

 

「そ~なんです。川崎さん、A地点からB地点に行くあいだに、ですね」もとい。ネタが古過ぎる・・

 

この話のおかしな点は、コレなのぢゃ⇒『後藤又兵衛の槍に突かれ』というくだり。

この家康の駕籠を槍で突いたとされる“後藤又兵衛本人”は、前日の五月六日の「道明寺の戦い」で伊達軍の猛攻撃を受け「討死にしている」のです。なので家康の駕籠を攻撃するのは、そもそもが不可能なのですね。では、何故こんなヘンテコ設定になったのか?さらに、南宗寺の場所も⇒『違っちゃってるよね~』問題も勃発。

寺伝には「大坂冬の陣で焼失する。その後、住職であった沢庵宗彭が元和五年に現在の場所に再建した」とあり、大坂夏の陣以前には、南宗寺は、いまとは別の場所※1 にありました。

「それなっ、どやねんなぁ~」んだよぉ、何かガッカリだぜっ!

槍をブッ刺したとしても“後藤又兵衛では無い”のは確定だね。どうせなら「毛利勝永※2 配下の者に槍を突かれる!」とか、「後藤又兵衛の影武者、某」とでもして欲しかった。いちばん可能性が高かったからね。残念…

(※1 さりながら、家康が“落命した場所”に後、南宋寺を建て替えたとも考えられるので、こればかりはなんともかんとも)

(※2 猛将 森吉成の嫡男 森吉政。父と共に、豊臣秀吉に仕えた。その当時、森から毛利への苗字変更、ややこし。夏の陣では“天王寺口に真田信繁と轡を並べ布陣”した。闘い始まりすぐに本田忠朝、小笠原秀政らを蹴散らし、そのまま力押しにて家康本陣めがけ疾風怒濤一文字に切込んでいった!傍らに高名な真田信繁がいたために、相対的に不当評価される。が、しか~し、天王寺口の戦いでは“毛利勝永が最大最高の殊勲者”だ!もっかい書いておく、毛利勝永が最大にし最高…)

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通天閣を赤く染め夕日が落ちる

○推奨本/司馬遼太郎著『軍師二人』と『城塞』。二冊読めば「大坂の陣のあらまし」がサクッと判りますよ。

○参照V/テレ東/「新説 日本ミステリー」歴史ミステリー 家康は二度死んでいた? - YouTube  

(※天下のテレ東の番組なので「閲覧ご注意」笑)

 

無情にも日は傾き、やがて通天閣に火が灯る

 

しゃ~てと。「じゃ、串カツでも喰いにいくべぇ!」我々は茶臼山をあとに、ジャンジャン横丁へと進軍を始めるのでありました。

「狙うは、だるま本店。ただひとつぅぅ~!!」

コレにて、めでたし、めでたし。なのか?!

 

追記/茶臼山(古墳)公園の解説など少し

四天王寺の南西に立つ茶臼山。五世紀ごろの「全長200m近い前方後円形古墳」であるとされていた。しかし1986年の発掘調査結果によれば、古墳に欠かせない葺き石や埴輪が全く見つからなかった。

○規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられた。だが結論には未だいたらない。

 

○交通アクセス

○「Osaka Metro御堂筋線 谷町線「JR天王寺駅」徒歩約15分

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茶臼山本陣跡 周辺地図

参考/Osaka info、大阪観光局、ウキペディア (5600文字、You read it, thank you.let's enjoy history!)

ホントにあった、世にもお馬鹿な「BL級爆弾💥物語」【マジっすか?】

 

オラ『オカマ爆弾 (gay bomb)』を考えたぞぉ~?

米空軍研究所が本気でですね「催淫性非殺傷型化学兵器」という、まぁひらたく言えば⇒通称「オカマ爆弾」を考えていたらしい。

 

ことの始まりは、1994年にオハイオ州にある「ライト・パターソン空軍基地(UFO案件でお馴染みの場所)」にて「非殺傷型化学兵器の多角的な可能性」なるものの文献がまとめられました。この文書によれば、敵部隊に「強い催淫剤爆弾」を投下して…

「敵部隊兵士に同性愛♡行動」

を起させ「敵部隊をたちまちに混乱」に陥れるという

「世にもオトロしい新兵器」

なのでありました。ガクブル。そして「完全に非殺傷なのである!」と、ドンと胸を張っているのだ。イヤイヤ、それってどうなのよ~と、思ふぞよ。

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「やい、オカマ野郎!」「なっ、ナニよぉ~♡」

さらに驚いたことにですね。このオカマ爆弾兵器は、1994年より「六年にも渡り研究継続」されたのち、結局のところ放棄されたという。コレをいったい「どこの国に使うつもり」だったのか?

そして二十一世紀を目前に控え「やっぱヒトをオカマにする薬なんか無い」と、ようやく気づいたらしいのです。←ハナから気づけよっ!

当時、空軍研究所はこの開発に何と「750万ドルもの予算※」を要求したといいます。もし万が一、完成していたらあちらコチラの戦場で、オゾマシイ光景が…「Wow♡」となったことでしょう?これコワすぎるだろ!

戦争反対!

しかし、ワンピースの「イワンコフ」見る限り「オカマ戦士✨最強」カモしれぬワイなぁ?逆に凄いことになるよね。

「奇跡、ナメめんじゃないよォ~ !!!」

(※よ~く考えてみると“架空計上の疑い”もあり、ならばその金を何に使った?また、オカマ爆弾を研究した空軍研究所には、2007年10月にイグノーベル平和賞が贈られていますね…なんだそれ)

 
(800文字、thank you for reading.)

紀州街道をゆく 古寺巡礼 あじさい寺で有名「長慶寺」へ【歴史案件】

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雨模様が続くゴールデンウィーク

 

いまは四月の終わりです。ワタシは曇り空を眺めながら考えていた。

平成時代の最後にすべきこととは、何か?!

しかし、あいにくの雨模様です。生憎かぁ…あいにくな…逢いにいく、ポン!「う~むゅ、そ~だっ!」ふと、思い立った。そう、思いたったんだから仕方ない。このGWを利用して我が家の菩提寺にでも、息子を連れて行くか。まだ連れていったことがなかったからね。

近年アジサイ寺とも呼ばれ多くのカメラマンで賑わうようになった、真言宗 泉涌寺派の「長慶寺」さん。泉南市街を一望する丘の上、はるかに関空島や淡路島を眺めるとても良い場所にあります!

南海電車に乗りガタンゴトン

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ただいま電車で移動中

我々は南海樽井駅に降り立った。早い。駅前からコミュニティバスがあるはずだが…その運行表を見ると「はいぃ~?」何てことでしょう「次のバスを一時間半」も待たねばならないですと…「ゲバゲバ90分!」←古いっ、昭和テレビ史を知らないとな!「冗談じゃないよ、待ってられませんよぉ~」その距離にしてだいたい二キロ位かな。ニャンのとりあえずサクサク歩くことにしました!

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途中にある「君ヶ池」で休憩

しかし、思った以上に遠かった…。

ずっと坂道だった…甘かった…。

 

到着です。紀州街道 信達の宿

 

この紀州街道沿い、信達(しんだち)の地はワタシが生まれ育った場所。なので懐かしい思い出が蘇ります。十月ともなれば、この道を地車(だんじり)が曳行されるのだ。実家があった場所(いまはもう家もなくなった)で、写真を撮ってみようか。子供の頃遊んだ地蔵堂と棗の木が、まだありました。そして、その奥には「泉南石綿の碑」がありました。

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泉南市 信達牧野

泉南地域は、社会問題となった「アスベスト被害」が、とても多かった地域。石綿紡織産業が盛んだったので、工場従事者やその家族にも、石綿被害が及びました。この碑は「国の責任を認める判決を勝ち取った証」として建立されたものです。

勝利の記念石碑か…哀し。

やはり生まれ故郷というものは、なんだか感傷的になりますね。子供の頃この通りは、かなり大きな道と思っていたが。いま見れば道幅、車がやっとすれ違える程度でしかない。そのぶん自分が大きくなったからかな。

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歴史街道としてイメージアップ

少しだけ『信達宿』の歴史をかたります。昔むかしの江戸時代。紀州藩の参勤交代がここ信達で、宿泊したそうなんです。あの有名な「暴れん坊将軍 吉宗」も紀州公時代には、この宿場に泊まったと伝えられています。

<参勤交代 旅程>

払暁出発「和歌山城⇒山口⇒雄ノ山峠⇒山中宿⇒信達宿 到着」紀州徳川家は、御三家の見栄張り殿様だった。行列は四千人にもなり、この街道筋に延々と長蛇の列をつくりました。

「したにぃ~したにぃ~」

おなじみの曲、鞠と殿様『♪表の行列 なんじゃいな 紀州の殿様 お国入り 金紋先箱 供揃い 御駕籠のそばには 髭やっこ 毛槍をふりふり ヤッコラサの ヤッコラサ♪』しばし、参勤交代の姿を想像してみる。

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紀州街道に並んだ宿場町

夜間も街道をゆく旅人のために、明かりを灯したと伝わる石燈籠『常夜灯』がありました。この風合いがたまりません。時代が移り平成になっても灯り続けたらしいです。

そしてこの燈籠は「紀州街道」と「信長街道」が交差する辻角に建っています。この信長街道※1は、織田信長が「紀州雑賀攻めの時に、整備した」ものとか。一説によれば、この時の織田軍団は、総勢十万人※2だった。それがこの街道筋にワッ~と殺到したというのだから、これはもう住民はたまりませんね。そしてここ信達の宿に、信長は本陣を定める。この地では、集結した織田軍団をふた手に分け「紀州街道」と海側「浜街道」を雑賀の地目指して南下していった…そんな歴史があります。

織田勢が総掛かりでないと倒せない雑賀衆こそ、凄いぃ!!」と言うべきでしょうか?戦の結果は「変な痛み分け」に終わったのだから。

(※1 泉南市の信達で紀州街道から分かれて、下出、黒田、鳥取辺りで浜街道と合流する斜め道。天正五年、織田信長が「軍用道路として整備した」のでこの名がついています)

(※2 浜手の将は、丹羽長秀滝川一益明智光秀・蜂谷頼隆・細川藤孝筒井順慶など、山手の将は、佐久間信盛羽柴秀吉堀秀政荒木村重・別所長治・別所重宗…まるで天正織田軍団、オールスターキャスト大集結の巻)

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いい感じにあった石灯籠

常夜灯、右側は『両皇大神宮』文政十三(1830年)三月吉日。真中『太神宮』は、寛政二(1790年)正月吉日。左側『両神宮』、文化十二(1815年)五月…と書かれています。どうやらそれぞれが「お伊勢講旅の記念碑」ですね。

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すぐ横に説明看板がありました

「おぉ、そうだ!本陣さんに行ってみるか?」

紀州徳川家の参勤交代時。この角谷(つのや)家の本陣にて、殿様が一泊することが習わしとなっていて、そういった由緒と歴史がある建物なのです。この写真の長屋門は普段使いの入口で、これとは別に四脚門の『御成門』があったそうです。残念ながらいまは、喪われてしまった。

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角谷家 本陣さん

ガガ~ン!門が閉まっていました。一般公開日はどうやら昨日までだったようです。まぁ、そりゃ仕方ないよね。「もっとよく調べろよっ!」てな話ですな、これはホント残念だったな。ちなみにいまも角谷さん御一家がここで暮らしています。なのであまり門前をウロウロしているのもよろしくありません。写真だけコソッと撮って、とっとと退散します。

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そろそろ長慶寺さんに行きますかね

 

参道の石段を登ると、古い山門がある

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長慶寺の百段続く参道

参道には百段の石段があります。これ「厄除けの石段」と伝えられ「女性は33段目、男性は42段目」で厄除けを念じれば、ずいぶんご利益があるらしいですよ。「厄災退散退散…あれっ、いま何段だっけ?」

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この時はツツジが咲いていました

また石段脇に沢山植栽された「アジサイがとても有名」となり、梅雨時期ともなると「紫陽花目当てのカメラマン」で賑わいますよ。しかしいまはゴールデンウィークの最中、アジサイにはちょっと早過ぎました。植栽には、美しくツツジが咲いている。そして、青紅葉が鮮やかです。

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長慶寺 仁王門

侘びた仁王門あり。三間一戸、重層楼門、入母屋造、本瓦葺。山門の扁額には「金泉山」とある。金の泉な、たまらんな。

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いい感じの山門ですね

それぞれ花頭格子窓が付いており、なかに金剛力士「阿吽の像」が安置されています。素材は石ではなく、どうやら金属のようですね。

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「あ!」

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「ん!」

そこには草鞋の奉納がされていました。ワラジには何の意味があるのだろうか?山門をくぐればすぐに三重塔がみえます。

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左手に見える三重塔

境内には、堂塔伽藍がひしめいています

階段を登りきり境内へ。まず、目を引くのが三つの塔。手前には「三重塔」ドーン。中程には「唐様裳階付三重塔」がドドーン。しかも、石灯篭が必要以上にデカいね。これは錯視効果を狙ったのかな?

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唐様裳階付三重塔


これは奈良の薬師寺三重塔と同じ様式です。いやこれは凄い、立派な塔ですよねえ。そして奥に「多宝塔」「本堂」「香炉堂」「大師堂」と並び、とても広い作庭も設えてあります。さて本堂にお参りしましょうか。

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長慶寺 本堂

本堂の内部は、何だかやたら暗くてよく判りませ~ん。六十年に一回御開帳となる、秘仏如意輪観音」をはじめ、本堂内陣には「多聞天持国天愛染明王、福禄寿、不動明王弘法大師役行者」が祀られています。

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賓頭盧尊者

本堂の左脇には「びんずるさん」と呼ばれる像がありました。擦られまくって「ずるむけアタマ」になっているではないですかぁ。ん~、そうだ。びんずるさんといえば…東大寺大仏殿の右手に何と申しましょうか、ほとんどゾンビ化枯れた像が有名ですよね。ガイコツみたいなヤツ。

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頭ばっか擦られるということは…

<びんずるさんプロフィール>

釈迦仏の弟子、十六羅漢の一人。神通力をもてあそんだとして釈尊に叱責され涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生の救済にあたった。日本では金堂の前に像を置き、自分の悪い所を撫でると「除病の功徳がある」という信仰が広まりました。

 

さらにお寺の裏側、駐車場へと降りてゆきますと…

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多宝塔と本堂が並ぶ

見慣れない謎の建物がありました。コレいったい何だろうか?

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駐車場で発見した謎の「鳳凰堂」

追記/この建物は「長慶寺会館」といって、檀家のための葬儀会館なのでした。それで鳳凰が載ってるのか。

 

長慶寺由緒は、こう記されていた

 

神亀元年(724年)、聖武天皇勅願寺として行基※によって創建されました。そして永延二年(988年)には伽藍を焼失し、また長徳三年(997年)に、再興されました。秀吉の根来攻めの際に、焼失した海会寺宮境内にて唯一焼け残った「観音堂」を、慶長年に豊臣秀頼の命によりこの地に移築された。御本尊は「行基自作の秘仏」となる。その当時の年号の「慶長」を逆さにして「長慶寺」と名ずけたと、伝えられています。

(※河内国生まれ 天智七年(668年)~天平二十一年(749年)八十一歳没。朝廷からは、民衆を惑わす私度僧と度々弾圧や禁圧された。しかし民衆の圧倒的な支持を集め、その逆境を跳ね返した。そして大僧正<行基が日本で最初>として、東大寺大仏造立の責任者として招聘された)

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お寺にあった由緒書き、文字が…

 

海会宮寺跡発掘調査では、違った話も

 

長慶寺は、ここより北の大苗代(おのしろ)にあった「古代寺院 海会宮寺」の一院として開創されたと云います。本当は「金泉山 慈昌院 海会宮寺」だそうですが。この海会宮寺の創建は聖武天皇の時代よりも前、七世紀後半頃と比定されているとか。

そうすると飛鳥時代にまで遡ることになり、とんでもなく古い寺院となりますね。そして、あの「斑鳩法隆寺」と同じ伽藍様式であったとのことなんです。もう、これには「ビッくらポン!」です。そんなこといま迄、てんで知りませんでしたからね。そうなのかぁ、そうだったのか!

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海会寺跡 周辺地図

お墓参りもしっかり?致しました

墓地へは、必要以上にデカい立派な鐘つき堂の横から、降り口がありました。巨大な梵鐘、ガゴ~ン!と撞いてみた~い(笑)のをこらえつつ通り過ぎる。もっとも、本堂側からお墓に来たことがなかったので、しばらくウロウロと道を探しましたが。

何だか怪しい二人組!笑

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必要以上にデカい鐘つき堂<笑

想い出した…小さな子供の頃。ばあちゃんに連れられて、何度もなんども来たお墓なのです。

 

ただいま。

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お久しぶりで御座います一族の皆様

▷いまの気分は、そう、この曲だな。くるりの『REMEMBER ME』🎶

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<長慶寺への交通 アクセス>

JR阪和線 和泉砂川駅 下車 徒歩約15分

JR阪和線 新家駅 下車<コミュニティバス> 市場青年会場前 徒歩10分

○お寺の東側にめっちゃ広大な駐車場(無料)があります

真言宗 泉涌寺派 金泉山 長慶寺』

○拝観料は無料、御朱印は三百円が相場

○住所/大阪府泉南市信達市場815

○電話/072-483-2692

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信達の宿 見所案内

この地は古くには「呼唹郷、おうのさと」と呼ばれた。「この地は中世より賑わった熊野詣での宿駅として栄え、江戸時代には紀州徳川家の参勤交代の街道(紀州街道)となり本陣、旅籠などが設けられ、今日も往時の姿をしのばせる街道筋です」と、市の説明看板にあった。

 

泉南市の西部にある男神社(おのじんじゃ)の元宮は、日本神話の神武東征譚において、傷を負い亡くなった「五瀬命が雄叫び」をあげた場所とされる。その「雄の水門」の比定地のひとつと謂われます。

紀州街道が樫井川を渡る岸辺に「樫井の戦い古戦場跡」がある。大坂夏の陣。豊臣軍の先鋒軍「塙団右衛門、岡部則綱」と、徳川方の浅野軍「亀田高綱、浅野知近、上田重安」が会敵し大混戦となった。この地に、塙団右衛門と淡輪六郎兵衛の墓が遺します。

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樫井の古戦場 古地図(明治43年)

○江戸時代の牧野村、市場村は共に岸和田藩領であった。両村とも古来より熊野詣での熊野街道筋に並び「信達宿」とよばれ、街道沿いには熊野九十九王子社のひとつ「信達王子社」と「一之瀬王子社」があった。

○信達宿は江戸時代も宿駅として受け継がれ、市場村には「人馬継立所」があり信達宿の中心として「小川信左衛門家」のちに「角谷与右衛門家」に本陣が置かれた。紀州藩主も参勤交代でここに宿泊した。

○昭和時代中頃まで、随分と賑わった名勝地「砂川奇勝」が、JR和泉砂川駅の東側にドド~ンと拡がっていました。現在は宅地開発され既に往時の姿はなく、わずかながら「砂川公園」として残るだけです。

○梶本邸では四月下旬に「ふじ祭り」が催され、毎年多くの人で賑わっています。会場では垂れ下がる藤を見上げるだけでなく、二階から藤の花房を見渡すことが出来て、また一味違った「藤花見」が愉しめます。

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恋する泉南 マップ

<泉南市 信達 略歴>

○明治二十二年 四月一日、町村制施行により「信達四ヶ村」が発足する。

○昭和三年 一月一日、北信達村が「信達村」に、改称する。

○昭和十六年 二月十一日、信達村と東信達村が合併して「泉南郡 信達町」となる。

○昭和四十五年 七月一日、泉南町から市制化し「泉南市 信達」となり、現在に至る。

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信達の宿周辺 古地図(明治43年)

○祭囃子が聞こえる/信達牧野 だんじり祭り

囃子唄『♪石山の秋の月 牡丹に唐獅子竹に虎 虎追うて走るはまとうない まとないお方に知恵かそか 知恵の中山千願寺 千願寺のおっさん坊さんでべーら べーら べらしゅしゅしゅぅ』謎の呪文ですな、懐かしいね!

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○おまけ/「泉南熊寺郎」泉南ゆるキャラ「せんくま」は金の熊で、江戸時代からタイムスリップしたらしいよ。

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泉南 熊寺郎 見参!

○せんくまの特長は「金熊寺の梅の花模様」と背中には「海に沈みゆく美しい夕陽」が描かれた着物を着ている。あてもなく散歩していたときに見つけた「藤の花」が大のお気に入り。相棒の刀「穴子丸」とともに“正義の為に活動する”ことを誓っており、無口だが実際は熱いハートを持つ心優しい侍なんだとか。しかし、てんでゆるく無いしこのキャラだては盛り過ぎで、イタいょ~<笑

 

参考/恋する泉南泉南市HP、ウキペディア (5900文字、Thank you for coming.)

運命の日は、5月1日。あの日はたしか、1994年のGWだった。音速の貴公子アイルトン・セナへの想い出ぽろぽろ 【自動車レース】

平成生まれの若者は、伝説のF1ドライバー「アイルトン・セナ」を知らないらしい。もちろん、自分が生まれる前に亡くなったヒトに「てんで興味がな~い」のも仕方ない。でもね、チョットまって、チョットまって。

かつて「昭和の終わりから平成の始まり」にかけて日本では、空前絶後の「F1ブーム」があったのです!

F1ファン(オタじゃないよ)のワタシが、あの熱い90年前後を振り返り、F1ブームの状況とかレース観戦の思い出話を書いてみます。では…「1994年5月1日に、いってらっしゃい!」←所ジョージかっ!

 

熱いアツい「F1ブーム」とやらを、サクッと解説します

 

まずは皆様に知って頂きたいのは、日本人F1ドライバーで遅咲きルーキーと呼ばれた中嶋悟※1が、1987年にキャメルカラー「ロータス・ホンダ※2」でデビューしたことなのであります。そしていきなり7位、6位、5位、4位と尻上りのリザルトを、たたき出したのです!これにはホント、日本中が沸いたぁ!!

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ロータス・ホンダ99T(#11中嶋悟マシン)

そして、その翌日には大きくニュースにも報じられました。特に第七戦イギリスGPにてウィリアムズのマンセルが優勝、二位ピケ、ロータスが三位セナ、四位に中嶋悟「ホンダエンジンがトップ4独占!」という快挙を達成。それで「な~んだ中嶋悟、次は表彰台かな?」と、あの頃は至極当然のように想っていましたね(実はこれトンデモなコト)。ロータス・ホンダでの中嶋のチームメイトが「アイルトン・セナか」だった訳で、いまにして思えば、中嶋も“大変な相手”と組まされていたものです。なぜなら翌年の「ワールド・チャンピオンがセナ」だったのですから!

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マクラーレン・ホンダMP4/4(#12セナマシン)

バブル景気の始まりで、資金がダブダブの日本企業がF1のスポンサーや、コンストラクタとして参戦し「アイルトン・セナ&ホンダ」人気なんかもF1ブームの後押しをしました。世の中が“妙な熱気に溢れていた”あの頃。

(※1 中嶋は、34歳でロータス・ホンダよりデビューを果たし、日本人初のF1ドライバーとなる。「雨の中嶋」と呼ばれ、ウエットレースに強かった。1987年の開幕戦から1991年の最終戦オーストラリアで引退するまで、五年間F1で活躍した。出走回数80回、予選最高位6位、決勝最高位4位、ファステストラップ1回) 

(※2 車体を油圧制御するハイテク装備、アクティブサスペンションが本格的に実戦投入された。ロータスホンダ車は全戦使用したが、重量増加や信頼性など問題も多くリザルトには反映出来なかった)

 

F1グランプリテレビ中継は、欠かさず観る!見ながら、「ビデオでも録画」

がディフォだったね!

 

それからCXのテレビ中継「F1グランプリ」。レースウィークには必ず「TV観戦&ビデオ録画」をしていました。悪いことに日曜日の深夜枠で、眠くてね「ん~夜更しは、ヤバいよォ…zz」ウトウト寝落ち寸前、だからビデオ録画が必須だったんだ。

▽いま想えばそんな状況で見るから、逆に楽しかったのかも?!

YouTube

番組は、この「超イケてるオープニング曲」で始まった。T-SQUAREの『TRUTH』(1987年~1998年までOP曲)が流され続けた。いま聞いても、ワクワク♪ドキドキするね。当時としては、「超斬新なフルCG」の画面だった。あぁ、懐かしのフレーズ「超~」って、いまでは死語だったかな?いや、まだ使うよね。

あと、エフワン雑誌も買っていました『F1グランプリ特集』や『レーシングオン』を購入して、チーム状況やレース展開を分析なんかしていましたね。しかしこれ、何なんですかねぇ、F1にまつわる情報のあの奇妙な面白さは…何だかね、ヤッパリ90年代が懐かしいなぁ。昭和人ならみんな思うのでは?

 

毎年恒例となる「秋の鈴鹿詣」が始まったのが1991年からです!

 

初めて「F1日本グランプリ」を観に行く日がやってきた!

 

それで、1991年のこと…うん、平成三年か。三重県にある『鈴鹿サーキット』に「F1グランプリ」を初めて“生観戦する日”が突然訪れたのです!ついに「生」なんでもナマが一番だっ!F1観戦も、ビールも、チョメチョメもねっ!←コラコラ

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マクラーレン・ホンダMP4/6(#1セナマシン)

10月18日~20日の三日間。スケジュールは、もらったチラシがまだ手元にあった。あの頃は、決勝前にF3やシビックレース、あとクラッシックカーパレードなんかも同時開催していたのでした。いまもそうだろうか?

(※チョメチョメの発案者は、山城新伍だという。放送上、都合のワルい単語に充てた。ちなみにホニャララは久米宏らしいね!)

 

<91年F1日本グランプリ in SUZUKA>

○18日金曜日、フリー走行、F1予選1回目

○19日土曜日、フリー走行、F3サポートレース予選、F1予選2回目

○20日日曜日、フリー走行、F3サポートレース決勝、F1決勝レース

 

当時、指定席チケットが「プラチナ✨チケット」と呼ばれとても入手困難、あれば“プレミア闇価格”で出回っていた。とてもそんな高価なモノ、買えませ~んからね。どうしたもんじゃろの?それで一計を図った。レース関係の知り合いに「自由席チケット」何とか二枚サイドドレイン。ワタシ以上に“エフワンオタ”だった兄を誘ってみたら、即OK!そりゃそうです、随分気合いが入っていましたね。笑

18日の金曜日は、会社を有給♪とって、準備万端、備えは盤石!キャンプ道具一式等を車の後部座席(ミニクーパーだったので、後方見えぬ程テンコ盛り状態です、何なんだぁこの物量は?)に積込んで、いざ決戦の鈴鹿へ!車高がさがりイイ感じにパンパン底突きしていた。爆

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鈴鹿サーキット国際レーシングコース

 <鈴鹿サーキット特長>

一周、5.807km。コースレイアウトは東西に細長く八の字を描き、立体交差を挟んで右回りと左回りが入れ替わる。最大高低差は、52mもある。アスファルトのμ係数はとても高いが、雨が降るとコースに川のスジが出来るほどにもなる。スタンドから海が見える、世界一素敵なサーキットだ!…Maybe。鈴鹿コースレコードは、ルイス・ハミルトンが叩き出した「1分27秒.319」(2017年F1日本GP予選Q3)「でるかっ、夢の34秒台ィ!」とか騒いでいた頃が懐かしいなぁ。

 

レースへの期待と素晴らしいワクワク高揚感、これぞF1

 

ブォン、ブォ~ォ~!西名阪をカッ飛ばし、目指すは三重県鈴鹿サーキット!そうなんです、この年の鈴鹿は実に興味深かった。「セナのワールドチャンプ決定&中嶋悟引退鈴鹿ラストラン」があったのです。この頃が日本での「F1人気絶頂期」だったのですね。

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ティレル・ホンダ020(#3中嶋悟マシン)

カーステから流れる曲は、ヤッパこれ「TRUTH✨」でキメっ!イケイケGO!GO!スピード出し過ぎっ?!亀山ICで降り窓を開けると、涼しい風が舞い込んだ。そしてカーンと秋晴れの蒼空が、とてもいい天気だった。全く問題(キャンプなので)ないね。鈴鹿川沿いの道を車でゆくば、やがて空からエクゾーストが聴こえてきた。「キャッホィ!」この甲高い音、きっとフェラーリだっね、ワクワクドキドキ感が高まってきた。ついに来たよぉ来ましたよぉ~♪この高揚感こそ、エフワンの醍醐味なんだぁー!!

(※エクゾーストは排気音。F1マシンが絞り出す凄まじいサウンドは、まさに天に轟く雷鳴!ちなみにマクラーレン・ホンダのマシンは、MP4/6。エンジンが、RA121E 3.5ℓ NA、V12。地響きをたて「地獄のような音♪」がしていたな<笑)

 

アイルトン・セナ VS ナイジェル・マンセル対決が決着

 

<超絶技巧『セナ足』>

セナだけが出来る“謎のテクニック”と言われ、これはコーナー旋回途中で「パパパパ…」と小刻みに右足でアクセルをあおる。これによりコーナーアウト時のエンジンの吹け上がり(+500~1000位か?秒6回ほど、忙しい開閉の煽る)を良くしたらしい。予選時には、ワタシはスプーンカーブにいた。そこで“セナとベルガーを比較”して観ていたのだが、排気音が確かに違った。そして、スプーン二つ目での脱出スピードも違い、さらにクリッピングポイントもセナは手前で、バックストレートに飛び込んでいった。しかし、何だろう?良く分からないな。結局のところ予選タイムPPはベルガーで、セナは二番手となったから「ベル足」の勝利ってコトですか。ベルガーが予選用セッティングで、セナは決勝重視だったかもしれない?

▽アイルトン・セナの鈴鹿アタックを、大迫力オンボードカメラでどうぞ!

YouTube

(※セナは1回目のタイムアタックで1分34秒898を記録。ナイジェル・マンセルは1分35秒594と届かない。このままセナが4年連続でポールポジションかと思われたが、セナのチームメイトのゲルハルト・ベルガーがさらにスーパーラップを刻み1分34秒700をマーク、ポールポジションを獲得した)

<決勝レース>

フロントロウにはベルガー、セナ二台のマクラーレン・ホンダが並ぶ。その後ろにナイジェル・マンセルがいた。スタートして1コーナー、ベルガーが先頭に飛込みセナがマンセルを巧みにブロック牽制し、まずはマクラーレンの作戦が成功。続く9周目には、メインスタンド前から1コーナーにかけて、マンセルがセナのスリップストリームを利用し追い抜こうと仕掛けた。だが、そのまま2コーナーでランオフエリアに飛び出し、リタイアしてしまった。それでこの瞬間に、セナの「三度目のワールドチャンピオン✨」が決定したのです。

(※スリップストリームは、レースの追抜きテクニック。ストレートで先行車の背後に付いて、空気抵抗を減らしスピードアップを図る。しかしコーナーでは逆に、空力的に不安定となり危険、あと冷却系にも影響する) 

 

<決勝リザルト>

優勝 ゲルハルト・ベルガー

二位 アイルトン・セナ

三位 リカルド・パトレーゼ

鈴鹿ラストラン中嶋悟は、S字カーブでリタイアした。ホント残念でしたっ。

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F1マシンは間近で見るとホント美しい(MP4/6)

セナはレースを終始安定した走りで、まさに「王者のレース」だった。やはりこの年('91年)が「セナの黄金期」だったのか。翌年から少し状況が変わり、あまり勝てなくなった。ハイテクマシン相手に、クレバーな走りで優勝したり、逃したり。あっ、モナコだけは別格だ。セナは「モナコマイスター(6勝)」なのだから! 特に「'92年のモナコGP」には、萌え!ゴール寸前迄、手に汗を握るヒートだったね。

それにあわせて、'92年から'93年へとブームは少しずつトーンダウン、世間のF1人気も陰りが見え始めて来た。でも、個人的には逆にヒートアップ⤴していましたが。この頃のF1は愉しくて仕方ない。そして94年のシーズンを迎える…運命の年。

○90年アイルトン・セナ“予選スーパーラップ”の様子。シンジラレナイ・・・F1 Classic Onboard: Senna On The Charge At The 1990 Monaco Grand Prix - YouTube

(※モナコGPの長い伝統に加え一般の市街地コースのため、高い運転スキル、長時間にわたる集中力を、ドライバーに要求される。それゆえに「モナコGPの優勝は3勝分の価値がある」ともいわれている)

 

えぇぇー!!! 音速の貴公子、アイルトン・セナがまさか…!

 

運命のあの日はGWのなか日、1994年5月1日だった

 

そう、あの日はゴールデンウィークで実家に帰っていた。遊び疲れてヘロヘロだ、まさに寝る寸前だった。よい子は、もう寝るぞ~深夜だからね。すると二階から姉が、ドタドタ階段を降りて来た。「テレビつけてみ、エラいコトになってるでぇ!」とわざわざ言うのである。あいかわらず変なやつ。ほな、テレビをポチッとな。 

それで一通りチャンネルをソートしてみると、突然、奇妙な番組が目に飛び込んできた。そこにはサーキット会場で、沈鬱な表情を浮かべ喋る中年男性二人の姿が。あ、れれっ?画面にいたのは、フジTVの三宅アナとF1解説者、今宮純氏なのである。確かにそうなのだが、パドック前で棒立ちマイクを握り喋っているではないか。そして泣いているではないか。打ちひしがれているではないか…!これはレース中継では無いぞ。

イモラ・サーキットからの生放送であること、セナがレース中に事故をおこし死亡したこと、レースのあらまし等など、繰り返し二人は伝えていた。そして“トイレで泣き腫らした後の顔”みたいな川井ちゃんが横に立っていて、それが妙に印象的だった。

▽あの夜に、この放送を観た。丁度この辺りだったかのかな?

YouTube

しばらく寝ぼけ頭で考える「え~なんてことだ、セナが死んだって…?」にわかには信じられない。しかも、単独でウォールにぶつかるなんて、そんなのありえない。あまりのショックで茫然自失…と言いたいところだが、わりあい冷静にテレビを眺めていましたね。そして明け方まで、ずっと何かを考えていました。そんなこんなで、イモラからの「F1グランプリ」番組は、生中継を観ていましたが。

 

その後にも、とんでもない話が続いていくことに

 

この'94年シーズンの状況※1は、セナが6年間在籍したマクラーレンチームを離れ、かねてから念願だった“最強マシンのウィリアムズ”へと移籍した。各メディアとも、事前予想では「セナがチャンピオン最有力候補」だった。しかし現実にはマシンの信頼性に欠け、開幕から二連続リタイア、いまだノーポイントで終わっていた。新レギュレーション※2で“アクティブサスが全面禁止”になり、ピーキーな謎挙動をする「ウィリアムズFW16」をなだめすかして駆っていたセナ。

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イリアムズFW16(#2セナのマシン)

このマシン(FW16※3)について、セナはシーズン前にこう語っていました…『この車の運転にはとてもネガティブな感触がある。限界までコーナーを攻める時やその他の点でもね。車に乗っている時は違和感があって、なにもかもが間違っているように感じる』少し感覚的で捉えどころのないセナのコメントだが「すでに何か」をこの時に予見していたらしい。なにもかもが間違っているとは…なんてこと。

(※1 詳しく/前年度圧倒的勝利したウィリアムズチームは、この年コンストラクターズチャンピオンの死守に、からくも成功した。セナの後釜は復活「#2 ナイジェル・マンセル」が務めた。しかしドライバーズランキングは「#5 ミハエル・シューマッハ」と、最後までワールドチャンピオン争いをしていたセカンドドライバー「#0 デイモン・ヒル」が追い上げ、わずか1ポイント差で二位に終わった。このリザルトから考えても、やはりセナが生きていれば“結局チャンピオン”になれたはずだ。でも、まぁ、これはタラレバだけど)

(※2 この年の規制は、「ハイテク技術の禁止」により“チーム間の格差解消”を目的としたものだったが、それが逆に“安全性を損ねる結果”へとつながった悪夢の年)

(※3 ウイリアムルノー FW16、エンジン、ルノーRS6 3,5ℓ NA V10)

 

魔女に魅入られた、イモラ「サンマリノグランプリ」

 

金曜日(決勝の前々日)予選初日。同国人のブラジル人ドライバー「バリチェロの大クラッシュ」があり、ホテルに帰ったセナは恋人のアドリアーナに電話をかけた。そしてきょうあった事故について話している途中に、泣き崩れたと言われている。

土曜日(決勝前日)予選の二日目。この日にも「ラッツェンバーガーの死亡事故」が起きていた。セナはこのアクシデント後、恋人に電話し「走りたくないよ…」と弱音をもらした。しかし夜になると「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」とも語ったと言う。このように情緒不安定となり、セナは徐々に追い詰められていく。

そして結果的にはセナも含み、F1開催三日間で「5回の大事故(内2名が死亡)観客にも重軽傷者多数」という犠牲者が出ることとなります。イモラ・サーキットに棲むと云う、「伝説の魔女」が牙を剥いたのだ。

 

決勝レースではレース中断、再スタートから呆気なく…

 

決勝日の5月1日を迎える。セナは「開幕から三戦連続のポールポジション」からスタートを切った。その後の展開は、難なくトップをキープした。しかし後方での事故によりレースが中断、すぐに“セーフティーカーが導入”された。再度、仕切り直し。これで少しあったアドバンテージも無くなる。

(※JJ・レートが、エンジンストールしてグリッド上に停止、後方からスタートしたペドロ・ラミィが追突し二台のマシンは、コース上で大破した。マシンの破片はコース上に散乱し、観客席にも飛び込んだ。警備員・観客の多くが負傷する大惨事。しかしスチュワードは、レース中断としなかった。あきらかに判断を誤っている)

そして再スタート後の七周目(現地時間午後2時17分)、二位のミハエル・シューマッハを従えて超高速左コーナー「タンブレロ」にセナは進入する。この時の車速は312km。コーナー三つ目の舗装のバンプ(継ぎ目)で、突如マシンのトラクションが不安定となり、タイヤグリップを完全に失った。

(※セナの死亡事故により、94年度のワールドチャンピオンとなった新星「ミハエル・シューマッハ」は2013年12月29日、フランスで“スキー事故”により、頭部に致命的な障害をおった。いまでは昏睡状態から覚醒して、リハビリができる状態まで回復した。このタンブレロ事故の時、一番真近でセナマシンの挙動を見つめていた人物である。)

マシンはアウト側に大きく振られ、たいして減速もできずにそのまま直進しコンクリートウォールに激突。セナのマシンはボディー右側が大破し、タイヤ、パーツなど大量に撒き散らしながらランオフエリアに停止した。

▽このヒルシューマッハ、セナの車載映像をご覧いただきたい。

YouTube

タンブレロコーナーで、路面の舗装が変わる部分(三つ目の黒い路面)突如マシンの後輪がトラクションを喪失して(スローパンクだとすると右リアタイヤか?)います。セナは一瞬アクセル戻しカウンターをあてるが、既にマシンはグリップを完全に喪い、そのままブッ飛ぶようにウォールに激突しました。これは、単純な「ドライビングミスでない」ことは明らかです。

▽推奨ビデオ/「アイルトン・セナ音速の彼方へ」

 

このレースの「事故原因の解明」はどうなったのか?

 

事故原因として当初から疑われた「ステアリング故障※1」は否定された。そして現在では“わずかな路面の不整備”からマシンがコントロールを失ったとされています。天才ドライバーセナにして「コントロール不能」とは、明らかにFW16マシンに何らかの原因※2がある。しかし、事故原因の本質的な結論にはいまだ至っていない。そしてセナの死亡原因については「大破したFW16の右サスペンションアームがセナのヘルメット(バイザー)を直撃、眼孔貫通し、脳損傷した」と、医師団から発表されました。これは即死に近いと思われます。

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タンブレロコーナー事故の瞬間

事故原因不明、責任者不在、さらに裁判の長期化。それでも開催中止には至らないF1サーカス。レギュレーションを改悪指示した「F1の悪魔」だけが、その因果関係の全容を知っているのだろう。そして永久封印としたのだ。そして…巨大なパワハラに曝される世界が、いまも続いています。

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改修されたイモラサーキット(2010年)

(※1 レース前、セナの要望によりチームが、ステアリング位置の簡易な改造を行った。この改造が事故原因と疑われたが、その後“何故か不問”となった)

(※2 不思議なのは、そのマシンの挙動変化を一番知っていたのは、セナ自身だったはず。そしてウイリアムズチームも、テレメタリーで判っていたはず⇒「ドライバーもチームも判断ミス」を犯している)

 

ユーミンの鎮魂歌にて、この話のまとめとしたいよ

 

いま生きていれば、セナ59歳となるねぇ「around還暦」だ。引退後はF1界の名伯楽として「チームSena」のオーナーになっていたのかもしれない。享年34歳でした。合掌。

○最後に、ユーミンがセナに捧げたレクイエム曲「ハローマイフレンド(1994年)」

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アイルトン・セナ・ダ・シルバ (Ayrton Senna da Silva,3/21/1960~5/1/1994)

ブラジル人のF1パイロット。「モナコマイスター」や「音速の貴公子」の異名で呼ばれた。F1での生涯成績/出走回数161回、レース優勝41回、ポールポジション65回、ファステストラップ19回、総獲得ポイント614ポイント。88年、90年、91年と3回F1ワールドチャンピオンになった。

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マクラーレン・ホンダで大活躍したことから、またセナ本人が親日家で、そのため日本人のセナファンが数多くいた。歴代チャンピオン、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケらと並び近代F1を象徴する存在として「F1四天王✨」と呼ばれる。特にプロストとの強烈なライバル関係が「セナ・プロ決戦!」とマスコミに囃し立てられ、大注目され続けた。

(※そう名付けたのはMC古舘伊知郎で、音速を時速換算すれば1,220km位、トンデモ速すぎるダロ)

○付記/F1界を40年にわたり牛耳ってきた「バーニー・エクレストン」が務めてきた最高経営責任者に、アメリカのリバティ・メディアチェイス・キャリーが就任。「この著名なグローバル・スポーツを成功に導いたバーニー・エクレストンに感謝したい。彼は名誉会長に就任する…」実質的にバーニーは窓際族てことか?

 

参考/ホンダコレクションホール、レーシングオン、F1グランプリ特集、ウキペディア 

(9000文字、Thank you for reading.)

戦国武将列伝 大和五條に松倉重政という“摩訶不思議”な殿様がいました【歴史案件】

松倉重政は奇妙な戦国大名。奈良 五條新町地区の礎を築いた名君と、称えられるその一方で「島原天草一揆」の原因をつくった史上最悪の殿様と酷評されています。天と地ほど違う評価ですね。でもそれは、何故なのか?!

松倉重政とはいったい、どんな人物だった?

戦国大名筒井順慶を支える武将

松倉一族の出自は、越中国新川郡松倉が本貫地。室町時代あたりに、大和の添上郡橋田に移り住んだと伝えられています。

父の松倉重信(右近)は最初、大和の大名 筒井順慶に仕えていた。高名な嶋清興(左近)と並び、筒井氏の両翼「右近 左近」と讃えられた名将でした。

その順慶の死後、重信の息子である「松倉重政」は、筒井氏を離れ浪人(異説あり)となったらしい。

徒手空拳スタート転機は関ヶ原の戦い

しばらく後、重政は「関ヶ原の戦い」に単身参陣し、軍功(一番首を挙げるなど)により「大和五條 一万石 二見城主」となる。

一万石とはいえ一国一城の大名なのです。これは余程家康に見込まれたのでしょう「目端の利く者」として。

関ヶ原合戦以後、五條西隣りの九度山には、徳川家にとって目の上のたんこぶである、眞田一族の昌幸、信繁親子が移り住んでいました。そのための“監視係”として家康から、密命を受けていたのでしょう。

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一国一城の主を夢見て

その一方、商業の町「五條新町」の整備や「諸役免除」など藩政に尽力し、わずかな期間ではありましたが大和五條を「商業の町」としての礎を、見事に築きました。

商業に目を付けるあたり、やはり重政は只者ではありませんね。一説には「豊太閤に憧れていた」からとも云いますが。米作より商業の上がりを重視しました。

(※地元五條市では「松倉祭り」も開催されるほどの大人気ぶりなのです。町中に“豊後様”の顕彰碑まで建っています。それでいまでも「名君」と評価されていますね)

▽大和五條時代の松倉重政の絵解き動画、こちらも参考にどうぞ。

YouTube

武勇伝は「大坂の陣松倉重政が大活躍

慶長二十年、大坂夏の陣の前哨戦にて。「道明寺での戦い」では、天下無双と名高い「後藤又兵衛」隊と相間見えることになった。ドドーン!

豊臣方の作戦では、国分村の狭隘な地にて徳川方を包囲迎撃する作戦だった。ところが双方とも、思いもしない場所で会敵することになった。

深夜午前二時頃。大和路から大坂向け徳川方が行軍中、小松山上に後藤又兵衛隊の布陣を認めた。この強敵を各隊が用心し、ジワリジワリと包囲する。

先方、奥田忠次隊が小松山に寄せ掛かろうと進む、そこへ後藤隊から銃撃あり、すぐに槍合わせとなった。この地で忠次は呆気なく戦死する。

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この後藤又兵衛を討ち取ってみよ!

続いて北面から松倉重政隊も参戦する。松倉隊は後藤隊の剛の者、平尾久左衛門ら二百首を討ち取る大奮戦を見せた。しかし、やがて松倉隊も押し返され力尽き、伍隊が崩れかかったところ、後詰の水野勝成、堀直寄らが急援し、危うく難を逃れたという。

このような大坂夏の陣前哨戦での活躍により、九州は肥前国「日野江 四万三千石」の大名となる。「石高を四倍増」とは軍功を最大評価された結果ですね。

相次ぐ戦乱を巧みに駆け抜け、順調な出世をかさねてゆく重政。めでたし、めでたし・・・いやいや、そうは問屋がまったく卸さないっ!デデンデン。

九州島原天草一揆の本質とは?

説話には脚色や誇張も沢山含まれる。それは教科書にもあった。

歴史教科書に必ず登場する「島原天草一揆」は、俗にいう「隠れ切支丹への弾圧」から起ったのでは無く、領主の有得ない程の低レベルな「悪政の結果」、引き起されたのです。そして領民の多くがたまたまキリシタンだったのです。

小説、映画などで何度も喧伝された「美少年 天草四郎時貞(本名は益田四郎)隠れキリシタンを救う!」といったBL♡イメージは、後に付加されたもの。ましてや妖術なんか、とても使えませんよ。笑

松倉重政はこの新天地で、何処をどう間違ったのか?

さて松倉重政が入国後、検地を行い自領「石高四万三千石」を、倍近く偽り計上(公称十万石とも)する。そして民百姓の生産限界を遥かに超える年貢を絞り取り始めるのです。やはり既に、何かが取り憑き始めた。

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この踏み絵に、効力はあったの?!

江戸時代初め頃の年貢はだいたい「五公五民」でした。それを捏造した倍の石高から逆計算すれば、百姓が作る米を全て取り上げる結果となります。エロエムエッサムなんたる悪知恵か、まさに毒を持つ蛇と化す。

そして松倉重政は、身の丈に合わない「江戸城改築の普請役」を願い出たり、「ルソン島遠征(表向きキリシタン弾圧、実際は密貿易?)」を自ら計画し、先遣隊の派遣準備始め、また新城「嶋原城の建設」も強行しました。これではとても藩財政がもたず、全てが無茶苦茶です。

(※『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録では、領民反乱の原因を「年貢の取りすぎ」にあると記している。また島原地方は火山地帯特有のシラス台地でやせており、実際の収穫高は表高 四万三千石よりも、かなり少なかった。一説には、その半分程度だったという)

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松倉重政

さらに領民の弾圧。年貢を納めきれない百姓(家族)には「焼きゴテを押す、指を切り落とす、雲仙の熱湯を浴びせる、火を付けた蓑踊り」など、残酷極まりない数々の拷問処刑を行っていきました。

これは最悪です!もう基地外です!エロエムエッサイムです!この出来事に驚愕した、オランダやポルトガル船長ログ(記録)に残っているほどなのです。

突如「大和五條の名君が、島原では悪魔となった!」

この信じられない程の豹変ぶりは、いったいどうしたことなのでしょうか?にわかには理解できません。

松倉氏の居城「嶋原城」から読み解く、人物像と思想とは?

昔、どこかで読んだ本に「建築物は施主の哲学、考え方をよく表す」と書いてありました。ならば松倉重政の居城「嶋原城」から、何か考察できるのではないか?

四万三千石どころでは無い巨大城郭だった

重政は元和四年より、七年もの歳月を費やし「嶋原城下」を築き続けました。町割は南北十三丁、南面に城下町を作り、北面丘陵に城郭と武家屋敷などを配置する。

本丸と二の丸を連郭し、総掘りと南北へやたら長い三の丸で、とり囲んだ。迷路のように複雑に入りくむ本丸・二の丸内の構造は、戦国時代に小規模城郭でよくみかける縄張り。

これは時代遅れで、使い勝手は悪かったはずです。

更に特徴的なのは、本丸への橋「廊下橋門」によって、二の丸と唯一繋がっていたこと。この廊下橋を崩し落とせば、本丸は完全な孤立状態となる。しかし・・・

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原城郭古図面(江戸後期)

これで、確かに寄手は本丸には到達出来ないが、「二の丸への渡り口、また退き口もない」ということになる。

通常、闘う城に搦手は必要不可欠なものですが、それが無い。寡兵で守りただ籠城するには良いが、孤立すれば「戦う術も無くなる構造」となっている。これはいったい、どうしたことなのか?不思議な縄張り。

白亜五層大天守、何故か一階だけに「ナマコ壁」

そしてお城の象徴、本丸には白亜五層の大天守(白壁塗り五階建て独立天守)、その南面に三重の大櫓(天守レベルの隅櫓)が三ヶ所そびえ立っていました。

破風などの装飾ない天守、そしてナマコ壁です。その姿を南方向、城下町が建ち並ぶ方向にむけ、ドド~ンと威容を見せ付けていたのです。

きっと嶋原城が完成した暁には、この天守最上階より得意満面あたりを睥睨した、松倉重政がいたことでしょう。「すげェだろ!ワシの城はっ、ぶは、ぶは・・」

司馬遼太郎先生は、松倉重政を悪逆非道とみる

あの司馬遼太郎さんが悪し様に「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」、また「がんまつである」とバッサリ切っている。
(※がんまつは奈良、葛城地方の方言で“がめつい奴、あつかましい”などの酷く罵る言葉です)

司馬遼太郎さんに拠れば松倉重政最低。

司馬さんは云う『日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。重政は自己の利益のためには、獰猛なほどの勇猛心を発揮する男であった。重政は島原にあること14年、三代将軍の年の11月に死んだ。その後、勝家が継いだ。この男が、空前絶後といえるほどに領民を搾った。領民として一揆に立ちあがるのが当然であった』という。

そして、『重政が豹変するのは、参勤交代で江戸に伺候し家光に謁したとき、なにを手ぬるいことをしておるのか、とはげしく叱責されてからであるという。豹変と大弾圧も保身のためなのである。人智でもって考えられるかぎりの残忍な方法をつぎつぎに案出して人を殺しはじめた』(街道をゆく17島原・天草諸道)より 

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

 

結論「松倉重政も相当なポンコツだが、跡継ぎ勝家マジ最悪!創業企業を二代目の馬鹿息子が、見事にぶっ潰す!」の巻

司馬氏の上記著作によれば、重政は将軍家光より「なにを手ぬるいことをしておるのかっ!」と、はげしく叱責されて「たちまち態度豹変」させたという。そして自己保身のためだけに、領民に大弾圧を加え始めたといいます。

まさにこれ「木っ端役人根性」ではないか!

「松倉、大名の器にあらず!」

その重政から跡継ぎ、勝家の時代へ。あいかわらず続けられた苛政が「島原天草一揆」を招くこととなる。そして松倉勝家は、天下騒乱を招いた大罪により名誉ある切腹ではなく、斬首(咎人扱いは大名では唯一)される。さらに松倉主家は、当然ながら改易となった。

(※この一揆を主導していたのは、元有馬・小西家に仕えた「関ヶ原浪人」や「土着豪族」の天草氏・志岐氏など。単なる百姓一揆とは毛色の違った、江戸時代最大の反乱戦争だった)

五條と島原、観光情報コーナー

奈良五條市「二見城址

二見城(陣屋)は、東を流れる吉野川にせり出すような台地の先端に築かれ、北から南へと周囲に堀を巡らしてあった。現在では本丸・二の丸跡は「妙住寺」となって、境内の西側が一段低くなっているところが堀跡らしい。残念ながらそれ以外に城遺構らしきものは何も遺ってはいないようです。

○交通アクセス

最寄り駅、JR和歌山線大和二見駅」下車、徒歩10分。車は、西名阪香芝ICから国道165号線。妙住寺の参詣者 駐車場(無料20台程度)あり。

▷リンク/五條名物「柿の葉寿司」を賞味あれ⇒柿の葉すし本舗 たなか

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奈良五條市 二見城跡 周辺地図

▽リンク/「美しき日本五条新町」街道のまち五条新町は、懐かしい日本の原風景が拡がります。“Beautiful day by day, the cityscape of Gojo”

YouTube

長崎県島原市「嶋原城址」

本丸、二の丸とその石垣群が残る。本丸にある堂々たる五重天守は、層塔型で破風などの装飾がない珍しい姿、でも昭和時代のコンクリート再建天守なのです。その点は少し残念。その内部には、キリシタン資料や藩政時代の郷土資料・民俗資料などを展示しています。

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一階になまこ壁を巡らす変わった姿

(※御注意/島原天草一揆で農民が立て篭もり闘ったのは、2018年「世界文化遺産登録」された「原城」の方で、この松倉氏が築いた「嶋原城」ではありません)

○交通アクセス

最寄り駅、島原鉄道「島原駅」下車、徒歩8分。車は、長崎自動車道諫早ICから65分。島原城の西側から天守前まで、車で入ることができる。天守直下に、無料駐車場(約90台程度)あり。便利だがお城の風情は台無し。

▷リンク/詳しくは、島原城HPをご覧下さい⇒ 島原城 | 公式ホームページ

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長崎県島原市 島原城 周辺地図

▽リンク/こちら「南島原のドローン映像」です。自然が美しく感動します「訪れる価値あり」の場所ですね。

YouTube

 

参考/新町松倉講HP、島原市観光ビューロー、ウキペディア (4800文字、Thank you for reading.)