(注☆いまから九年前の朝日デジタルの記事です。一部追加、リライト加えています)
西日本のとある空港で、管制官の男性が語り始めた
『夏になると当時に引き戻されるんですよ(日本航空のジャンボ機の)墜落直前にヘッドホンを通じて耳に届いた、パイロットの「ああ~っ」という悲鳴のような声が忘れられない。西日本のある空港で、男性(54)※は言葉を選び語り出した。』
(※低音で安心感ある美声をしている方です。なのでとても聴きとりやすい)
25年(34年)前の夏。東京航空交通管制部(埼玉県所沢市、東京コントロール)の管制官として、上空の航空機と交信していた。8月12日も普段と変わらない一日だった。当時29歳。管制官になって8年目だった。
先輩管制官らと「関東南セクター」という空域を担当する勤務に夕方からつき、管制卓に着席した。羽田への到着便が増える時間帯。「そろそろ忙しくなるぞ」と、思った矢先だった。
▷午後6時24分47秒、地図赤丸
「ブーーッ!」
管制室内にブザー音が鳴り響く。レーダー画面の「日航123便」の機影に、緊急事態(エマージェンシー)を示す「E.M.G」の文字が点滅し始めた。乗客と乗員計524人。午後6時12分に東京羽田空港を離陸し、大阪伊丹空港に向かっている「ボーイング747型機」だった。部屋の隅から上司が近づいてきた。
▷午後6時25分21秒
「日航123便、トラブル発生。羽田への帰還を求める。2万2千フィート(高度約6,700メートル)に降下したい」機長の声が、英語でヘッドホンから流れてきた。
「了解」そう答えながら「おかしいな」と感じた。エンジン出力が低下した客室内の気圧が下がったなどと、普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。心が騒いだ。東京航空交通管制部に「羽田へ戻りたい」と告げた日本航空123便は、旋回することなくふらふらと伊豆半島上空を西に向かっていた。
▷午後6時27分2秒
「123便、確認しますが緊急事態を宣言しますね?」
「その通り」
「どういった緊急事態ですか」
やはり応答はない。
「とんでもないことが起きているのでは…?!」
▷午後6時28分31秒、地図①
「レーダー誘導のため90度(東)へ飛んでください」
衝撃的な言葉だった。普段はオフのスピーカーがオンになり、123便とのやり取りが管制室中に響いた。
▷午後6時31分2秒、地図②
「降下できますか」
「今、降下しています」
「名古屋に降りますか」
「いや、羽田に戻りたい」
「何とかしたい」
そう思うと、とっさの呼びかけが口をついた。
「これから日本語で話していただいて結構ですから」
パイロットと管制官とのやり取りは、近くを飛ぶ航空機でも聞き取れるよう通常は英語を使う。でもいまはパイロットの負担を少しでも減らし、事細かにやりとりしたかった。
123便は北に向かう。すでに隣の管制空域に移っており、無線の周波数を切り替え別の管制官に移管するところだが、そういう指示はしなかった。
「切り替えたはずみで、無線がつながらなくなるかもしれない。そうしたら日航機は命綱がなくなってしまう」
じりじりとしながら画面をにらんだ。他機が近づかないよう、航路から退ける指示を続けた。富士山をかすめた123便は、羽田のある北東に向かい始めた。
「戻れるかもしれない」
かすかに期待も芽生えたが、周囲は山。機体の高度は5分間で一気に3,500メートルも下がっていた。
▷午後6時47分17秒、地図③
「現在コントロールできますか」
「アンコントローラブルです」
もはや管制官は、まったく役に立っていなかった。ヘッドホンから「ああっ」という声も聞こえてきたが、機内で何が起きているのかはわからなかった。
「おれは、どうしたらいいんだ…」
絶望が襲う。その頃、機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことは、後で知った。
▷午後6時53分28秒、地図④
「えーアンコントロール。ジャパンエア123、アンコントロール」
「了解しました」
これが最後の交信となった。
絶望感が、東京コントロール管制室を支配した
三分後、糸の切れたタコのように画面上を点滅しながら漂っていた機影が止まった。その場で十数秒間点滅した機影は、突然消えた。体に電気のようなしびれが走った。
△123便は、高度9,700フィート(約2,950メートル)速度300nt(約560km)の表示を残して、東京コントロール(運輸省航空交通管制部)のレーダー画面から消えた。
薄暗い管制室は、静まりかえった。背中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていた。30秒ほどして上司に促されて呼びかけてみた。
「ジャパンエア123、ジャパンエア123」
応答はなかった。
ヘッドホンを外し席を立った。別室で報告書を書いた。妻には「いつ帰れるか分からない」と、電話で告げた。頭の中で何度も交信した「最後の30分」を繰り返していた。
守秘義務から、誰にも言えない秘密を抱える
朝方に帰宅して、墜落した機体をテレビで見た。ショックを気遣った上司に、数日休みを与えられた。事故原因を調べる国の航空事故調査委員会や警察から、事情を聴かれることはなかった。
管制官の仕事を続け最近までいた部署では、事故防止の対策づくりに取り組んできた。いまは管理職として空港事務所で管制関連業務に携わっている。だが123便と交信していたことは、家族や一部の同僚しか知らない。
事故から数年後に御巣鷹の尾根に立った。その後も遺族や報道陣が多い八月を避けて仲間や家族とたびたび登ってきた。だが尾根へと向かう険しい道のりや事故で傷ついた山肌を見るたび、あの時のつらい思いが呼び起こされた。無理だったと分かっていても「自分が何とかできなかったか」という思いはぬぐえず、表に出て話す気持ちになれずにいた。
事故を風化させないため、いまなら出来ることもあるのでは
最近になって「事故を風化させないため、今ならできることもあるのでは」との考えが頭をよぎるようにもなった。世界各地で飛行機事故が起きるたび、原因は分かっているのか、管制官はどう対応したのか、と気になる。管制の現場には御巣鷹の後に生まれた管制官も出てきた。
航空会社の経営はどこも厳しく「安全よりもコスト削減」ばかりが取りざたされるのが気がかりだ。25年前の「あの夏」のことを伝える時期なのかもしれない、と思いはじめている。
▽日航ジャンボ機墜落事故/東京コントロール交信記録、息づまる緊迫感ある音声。
18時25分21秒 (CAP)『Ah…TOKYO, JAPAN AIR 123, request from immediate e…trouble request return back to HANEDA descend and maintain 220 over.』始まりは「JAL123便、高濱機長」からの突然のリクエストからだった。
<日航123便墜落事故 あらまし>
1985年8月12日午後6時12分に、羽田空港を離陸した大阪伊丹行きの日本航空のボーイング747型ジャンボ機が、12分後に相模湾上空で操縦不能になり、同56分に群馬県上野村の山中(御巣鷹の尾根)に墜落した。乗客509人と乗員15人のうち乗客4人を除く520人が死亡しました。
'77年スペイン・カナリア諸島の空港で、ジャンボ機同士が滑走路上で衝突、583人が死亡した事故に次ぐ大惨事となる。単独機死亡事故としては、現在でも「世界最悪記録」となります。
<航空事故調査委員会 調査報告書>
1987年には、機体最後部にある「圧力隔壁のクラック(亀裂)が徐々に拡がり、一気に噴き出した客室内の空気で垂直尾翼などを吹き飛ばした」とする調査報告書が公表された。
この機材は、御巣鷹山事故の七年前に「伊丹空港でしりもち事故を起こして隔壁を損傷」している。この際に「ボーイング社が行った“修理が不適切”だった」ことが、当該事故の破壊へとつながる直接原因となった、と結論づけられた。
この御巣鷹山事故以降、日本の航空各社は「乗客を死亡させる大事故」を起こしてはいない。重大インシデントは、まま起きてはいるが…
○この曲を、航空関係者に捧ぐ「Save our ship」 By 松任谷由実。Save Our Ship は、「我が船を救え」救難信号の意味。
いつからか 沈黙に 慣れていた二人
いく度も 波にさらわれて
壊れかかった羅針盤 見ている
悲しんでいるのなら もう一度求めて
SAVE OUR SHIP
永遠に漂流する魂だから
せめて今は 強く抱いて
見えぬ未来を乗り越える
SAVE OUR SHIP
それぞれの光めざし
▽日航ジャンボ機墜落事故、「落合証言」についての記事。前後編あります。ぜひ参考にご覧下さい。
▽記事の引用元/朝日新聞社 デジタル記事 (2010年8月10日付)
asahi.com(朝日新聞社):墜落前の悲鳴「今も耳に」 日航機の管制官、沈黙破る - プレーバック1週間
(3800文字、thank you for reading.) <今週のお題> 老いも若きも楽しく研究